猫を起こさないように
美少女への黙祷(2)
美少女への黙祷(2)

美少女への黙祷(2)

 ”甲虫の牢獄”の発売日から二週間後のあの日、ぼくは電気街の量販店にいた。
 高天原の家を出た後、ぼくは転々と路上生活を続けていた。もちろん、本当の路上生活者のようにというわけではない。ぼくにそんな覚悟があるわけはなかった。コンビニで食料を買い、公園のベンチで荷物を枕に眠る。常に自分が薄汚れているように感じたあの頃とは正反対に、ぼくは自分の清潔さをいやというほど思い知らされた。砂埃にまみれたベンチに身を横たえるのに躊躇し、手の甲を這う蟻に悲鳴を上げて飛び起き、深夜の高架下で酒盛りをする黒いぼろ布たちが優しくぼくを手招きするのに全身が泡立つような嫌悪を感じて逃げ去る。
 理屈はない、ぼくが上等だと思うわけでもない。ぼくの中で感情の選択は常に自動的に行われ、いつだってぼくは意志を持たないかのように、ただそれに身体を従わせるしかなかった。公衆トイレの個室にこもり、水道水に湿したハンカチで身体の汚れをぬぐう。ぼくが関わりたかった現実とはこれのことではないと思いながら。
 雨戸を閉め切り、ブラインドを下ろし、モニターの明滅だけが光源の牢獄で、ぼくは自分からそうしているなんて気持ちはまるでなくて、いつも誰かがぼくを閉じこめているのだと感じてきた。そして、ずっと現実と関わりたいと思い続けてきたはずだった。現実とは観念のことであり、最大公約数の側の観念に同化できさえすれば、その事実はぼくを救うはずだった。誰に教えてもらうまでもなく、解答はわかっていた。
 個人の観念ではない現実が存在するのか。きっとぼくはあのとき、それを高天原の中に見たのだ。しかし、彼はぼくを去った。それを考えると、なぜか涙がこぼれる。高天原との生活を失ったぼくに、もう戻る以外の方法は残されていない。それはわかっていた。みんなが、両親がぼくを馬鹿のように扱うのとは別に、いつだって何でもわかっていた。ただ、行動できなかっただけ。
 ぼくは戻ることをいつまでも先延ばしにしていたかった。なぜってあの牢獄に戻れば、高天原がぼくを迎えに来たいと気持ちを変えても、ぼくを見つけることができないではないか。しかし、そのはかない希望は日々に薄れた。黒いぼろ布たちの手招きに含まれる優しさと、その理由に壊された。
 ぼくの足が電気街の量販店へと向かったのは、高天原の作品をこの目で見ることで彼と過ごした日々が決して虚空に消えたのではなく、何かに結晶するための時間だったのだということを確認したかったからだと思う。
 子どもの頃に読んだ漫画の一ページ、激流が飛翔するような、視覚化された時間の恐怖。
 ぼくに人生を積み上げることはできない。なぜなら、それはあらかじめ過不足なく与えられている。ぼくにできるのは、与えられた人生が秒刻みにほどけてゆく取り返しのつかなさに身悶えること。その取り返しのつかなさにわずかの抵抗を示すために、高天原は時間を作品へと結晶させるのだろう。彼にシナリオを書くことを強制され、ぼくには彼がなぜエロゲーを作り続けるのか理解できたように思えた。最初に出会ったときよりも、彼に近づけたように感じた。この一年間は決して無駄ではなかった。それを確信したくて、ぼくは電気街の量販店へと向かったのだ。例え、曳かれていく子牛が見上げる青空ほどの気休めに過ぎないとしても、あのときのぼくにはその行為が必要だったのだろう。
 案内板に従い、人の密集するエレベーターをなんとなく避ける気持ちになって、階段をつかって三階へ上がる。
 目の前に広がったのは、ひとつの階全体が美少女たちに占拠されている光景だった。
 一枚一枚を取りだしてみると非常に鮮やかで奇抜だが、全体として眺めると逆に没個性的に見えてしまうポスター群で周囲の壁面は埋められていた。ポスターに描かれている美少女たちは、ぼくに向けて穏やかに微笑みかけていた。なぜか元山宵子のことを思い出す。ぼくはあわてて頭の中に浮かんだその映像を振り払った。
 最初、何年ぶりかの人混みに感じた窒息か過呼吸のような胸苦しさは、次第に薄れた。やがてほとんど安逸さえ感じている自分に気づく。その場を往来する人々は、まるでお互いがいないかのように振る舞っていたことが理由だろう。いつもならば誰かがぼくの横を通り過ぎたあとに背後から向けられる意識の破片のようなもの――ぼくのあずかり知らぬ場所で決定され、ごわごわした肌触りでぼくを規定するあの見えない拘束を全く感じないですんだ。ここにいるのは、ぼくと同じ種類の人間ばかりだからなのかもしれない。ひとかたまりになって声高に話し合う一団からさえ、高天原の家で感じたような予期せぬ混沌を孕んではおらず、同一の個人を拡大した複数に過ぎなかった。
 フロアーの中央には、切り出した石塊としてひとつひとつのパッケージを積み上げたピラミッドがそびえていた。しばらくその周囲をぐるぐると回った後で、ぼくは”甲虫の牢獄”を見つけることができた。ゲームの本数と置かれている場所から、ぼくは高天原へ寄せられる暗黙の評価が理解できたような気がした。高天原の家でパッケージの見本を見せられたことはあったが、こうして外で目にするのは奇妙な感覚だった。あるはずのない物が、あるはずのない場所に存在するという違和感が原因だったのだろう。ぼくの中でそれは、あの家の風景や雰囲気と分かちがたく結びついていた。
 ぼくに覚悟を決めさせるのに充分なほど感慨が染み渡るのを待ってから、”甲虫の牢獄”を元の場所へと戻す。目的はすでに果たされており、すぐに立ち去っていいはずだった。結果的に、ぼくの好奇心がぼくをそこへ致命的なほど長く留めてしまったことになる。ぼくは、誰が高天原のエロゲーを購入するのか知りたいと思ったのだ。彼と出会ったことすらない他人が、彼によって結晶化させられた時間に接触し、そしてその事実で高天原を祝福する。ぼくは切実に、その瞬間を見たいと思った。周囲を取り囲む同族たちとのぼくを分けるものがあるとすれば、それは曲がりなりにも高天原と時間を共有したという自負――彼に手を引かれて、世界の真実へとつながる数少ないの道のうちの一つをたどり、その奥にあるものを垣間見たという自負だった。
 あまりにも多くの人間が”甲虫の牢獄”の前をただ通り過ぎてゆく。このピラミッドの裡で、高天原のエロゲーは唯一輝きを放つキーストーンのようにぼくの目には映った。パッケージを一瞥しただけで立ち去る者、何の確認もしないまま無造作にいくつもの箱を積み上げてレジに向かう者、周囲の様子を気にしながらうろうろと歩き回りためらいを露わにする者――ぼくと同様の視力を持つ人間は存外に少ないようだった。しかし、売場に立ちつくす長い無為の時間は、ぼくを失望させなかった。それはむしろ、ぼくの自負と選別の意識をいっそう強める役割を果たしていたように思う。
 やがて、歳月にくすんだ青いリュックサックを背負い、ほとんど黒ずくめの上下に度の強い眼鏡をかけた男が、”甲虫の牢獄”を手に取った。パッケージの絵を眺め、裏面のゲーム内容説明を読むことを幾度か繰り返すと、その男はレジへと向かった。ぼくは緊張と落胆が入り交じったような気持ちで、気づかれないようにその後ろを追いかける。
 男は無言のまま、無造作にパッケージをカウンターへ置く。それを取り上げた店員は、客の顔を見ないまま無表情でレジを打ち、機械的な声音で金額を告げながら購入特典のポスターを商品の入ったビニル袋に挿入した。男は自分が購入しようとしているものに全く興味を残していないといったふうに、何か別のものを探すような仕草で店員の動作から視線を逸らせた。
 ぼくと目が合う。男の顔が何かの感情に歪む。
 かけている眼鏡が外れ、ほとんど床と水平に滑空してゆく。
 次第にその表情は、随意筋が作り出せる範囲を越えた歪みを見せはじめる。
 頬に押し上げられるようにして、男の左の眼球がせり出してきて、ついには眼窩からまるで漫画のように外れて飛び出してゆく。
 いっしょに引っぱり出された視神経が見え、与えられた力学的動きに従って飛び去ろうとする眼球を一瞬間、空中に静止させる。
 さきほど押し上げられてきていた男の頬の皮膚が、このときその張力の限界を迎えて布のように裂ける。
 赤い血の飛沫がわずかに空中へ散る。
 男の身体が後方へ、まるで走り幅跳びの跳躍を逆回しにしたような動きで飛ばされていく。
 同時に、空中で完全な静止状態にあった眼球は、ついに視神経の束縛から解き放たれる。
 それは黒目の部分の移動でゆっくりと回転していることを示しながら、レジ正面の商品棚に並べられた雑誌に描かれている美少女にぶつかり、その胸の谷間を汚した。
 この一連の様子を、ぼくはまるでビデオのコマ送りのように認識する。
 脳の中心で何かが炸裂した。
 そう感じた瞬間、重力は消失し、ぼくの両足は床から浮き上がる。
 天井と床を幾度か交互に見たと思うと、背中に強い衝撃を受ける。
 静止する視界。物理法則は取り戻され、ぼくは地球へと墜落する。
 肺から空気がすべて絞り出され、吸い込もうとする努力を背中の痛みが妨げる。
 混乱した意識の中で身体の前面に触れているのが床なのか壁なのか、全くわからない。
 その滑らかな平面を両手で押し返そうとするが、わずかの力を込めることもかなわない。
 そこですべてが暗転し、ぼくは自失した。
 鼓膜をやられていたのかもしれない。
 ぼくが再び目を覚ましたのは周囲の騒動というよりも、耐え難い熱気が理由だった。
 うつぶせから身を返して息をすると、灼けるような熱さが流れ込んできてむせかえる。天井は黒い羽虫のような動きで満ちている。背中の痛みに耐えながら上半身を起こすと、そこには果たしてゆらめく真っ赤な柱がそびえていた。その柱はうねるように天井へ向けて上ってゆき、その頂点で黒い羽虫を吐き出し続けている。
 まばたきを二回した後、それが炎であることがわかった。エロゲーを積み上げた、あのピラミッドが炎上しているのだった。
 炎は天井をなめ、床を這って、みるみる壁面へとのりうつってゆく。
 壁面のポスターに描かれた美少女たちの顔は、笑顔から泣き笑いへ、泣き笑いから黒いあばたを生じ、そして最後に嫉妬の赤い炎を吹いて、別のポスターの美少女へと浸食してゆく。
 熱気に宙を舞う、美少女の裸体、愉悦の表情。肉と人格を汚されるために作り出された究極の奴隷である彼女たちが、自らの存在の消滅に対して見せる、心からの快楽の乱舞。
 ぼくは両足に力を込めて、歩けることを確認する。
 炎の柱の中に未だ燃え残り、哀願の表情を浮かべる美少女キャラたちは、自分たちが本当は何をされているのか、死ぬに及んでなお気づくことのできない無数の白痴だ。心を剥奪された彼女たちには、自分を憐れむことすら許されてはいない。
 なぜか高天原の言葉が思い浮かんだ。この世で最も重い罪は、赤ん坊の信頼を裏切ることだと。ぼくは彼女たちを見ないようにしながら、この地獄から逃げ出すための出口を探した。
 非常口へと続く床には白痴の性を、赤ん坊の生を買春するためにやってきた無数の人買いたちの肉の残骸が累々と続いていた。名状しがたい感情に促され、ぼくはそれらを意識的に踏みつけ、蹴散らしながら進む。煙に咳き込み、涙と鼻水を流して、ぼくは「死ね! みんな死ね!」と絶叫した。これまでのようではなく、心と言葉は完全に一致していた。祖父の死と全く違う死を、ぼくは彼らの上に望んだ。その言葉によって世界の全員が本当に死に絶えたとしても、全く後悔を感じなかったはずだ。
 足下に抵抗を感じたと思った次の瞬間、足ばらいを喰わされた格好で、ぼくは肉の中へ頭から倒れ込んだ。べっとりと顔についた液体を手のひらでぬぐいとる。立ち上がろうとしてかなわず、背後へ目をやると、顔の左半分が真っ黒く焼けただれた太ったおたくが、ぼくの足をつかんでいた。そのおたくは残された右半分の顔で、泣き笑いのような温情を乞う表情を浮かべていた。
 ぼくの人生の中で視界がくらむような、他人に対する本当の怒りを感じたのはこのときが初めてだった。つかまれていない方の足を振り上げると、小太りの男の顔面の右半分を力任せに蹴りつけた。おたくは、ひゅう、と呼吸音ともつかないような細い悲鳴を上げた。その悲鳴に怒りをあおりたてられて、ぼくは何度も何度も繰り返しおたくの顔面を蹴りつける。だが、そのおたくは、万力のような決死の力でつかんだ足を離そうとしない。
 ぼくはもう完全に我を失った怒りで、その手首を蹴りつけた。渾身の力を込めた三度目の蹴りで、木の枝が折れるような感触が伝わる。そのおたくはたまらず手首を押さえてもんどりうって、ぼくは解放された。
 そこに至ってまだ、ぼくの中の怒りは燃えさかっていた。Tシャツとジーンズの間から、白い腹がのぞいている。ぼくは全体重を込めた踵で、その白い腹を踏みつけた。そのおたくの口から、鮮血と胃の内容物が入り混じった液体が、瞬間おどろくほど高く噴射する。両目を見開き、両手両足を真上に伸ばしてぶるぶると痙攣し、そして、ぐったりと四肢を投げ出した。
 ぼくは動かなくなったおたくを見て獣のように絶叫しながら、非常口へと突進する。
 誰かを殺してしまったかもしれないことを恐れたわけではない。相手の生死は気にならなかった。その肉が生命を伴っていようがいまいが、この炎の平等さはその内側にすべてを消滅させるだろう。自分の中に生まれた初めての激情が急速に冷えてゆくのが実感されたから、絶叫したのだ。右手を大きく伸ばし、遠のいていくその感覚を実際につかまえることができると信じているかのように、ぼくは追いかけた。
 人の死さえ、ぼくに影響を与えないのか! 人を殺してさえ、この心は何も無かったように復元するのか! ぼくはこの世界の中で、自分の死以外のすべてを全く重要だと感じていないのか!
 ぼくは叫びながら涙を流した。底の知れない人の孤独へ絶望して泣いたのだと思っていたが、その絶望はすぐに自分自身への愛情とあのおたくへの疑う余地のない嫌悪感に上書きされた。自分の生を求めて階段を駆け下りるうち、ぼくが関わった一人のおたくの死は、多くのおたくの死を道連れにして、完全にぼくの内側で無化された。
 店の入り口にはすでに消防車が到着しており、多くの野次馬たちが集まっている。
 衣服に火のついたまま転がりでてきたぼくを、消防隊員が手に持った布で抱きかかえるようにして包みこむ。布の下に限定された視界に、ビルの壁面から巨大な美少女が見下ろしているのが見えた。
 無防備な微笑みで、頬を染めた恍惚で。特別な誰かへしか見せるはずのない無上の信頼の表情を、尊厳を、愛情を、すべての人間の前へさらしているのだ。彼女はどんな醜いおたくたちをも、心の底から信頼して、愛しているのだ。
 ぼくは絶叫した。それはまるで気の違ったような叫びだった。
 拘束がゆるむ。これまでぼくの人生を長く強く抱きしめていた力が、このときゆるんだのだ。
 ぼくは赤ん坊のように身をよじって消防隊員の手の内から逃げ出すと、サッと遠巻きになる野次馬たちの間を両手を振り回して絶叫しながら走り抜けた。
 眼前に見下ろす巨大な美少女の慈愛の微笑みをただ避けるように、ぼくは野路裏の闇へと遁走した。