猫を起こさないように
祈りの海
祈りの海

祈りの海

 点々と反吐をまき散らしながら、外へ出た。
 ほとんど一歩ごとにつまづき転倒し、全身に擦り傷をつくりながら、のめるように石段を降りる。
 薬の効果か、意識がだまし絵のように伸び縮みを繰り返し、ひとつに焦点を結ばない。これがついには致命的なことへつながるのかどうか、それすらもいまはわからなかった。
 突如、これまでになかった強烈な嘔吐が胸を灼く。私はたまらず足をもつれさせ、もんどりうって、ほとんど棒立ちのまま前へと倒れ込む。
 幸い、もう石段は続いていなかった。全身を波打たせるようにして、吐いた。そのまま大の字に裏返ると、長い長い石段の先に、私の葬儀をとり行った寺の全容が見えた。かたわらの反吐の臭気が鼻をつく。
 結局、何ひとつ自分で決めることができなかった。わずかこの身の始末すら。伸縮を繰り返す意識がその限界まで広がり、はじける。
 あれは、何の言葉だったろう。籐椅子の中の午睡から目覚めた男が、側にひかえる召使いに言う。『私は傷ついてしまったんだよ、本当に。そしてもう二度と癒されることはない』。たとえ近親殺しであったとしてさえ、それが人の営為であるならば、人は共感に涙を流すことができるだろう。世界に悪は存在しない。つまり人の関係とは、客体化された現象に集約してゆくからだ。けれど、心の神性の中には、純粋な悪が存在し得る。その悪の純粋さは、人間の魂を本当の意味で破壊する。純粋な悪に一度魂を触れられてしまったら、二度ともう元のようには戻れない。かれは、それを知った。おのれの魂が不可逆に傷つけられ、もう二度と癒される日が来ないだろうことを、知った。恐ろしい。あれらの悪の様相は、人間の手に負える、人間の触れていいものではなかった。あれらの甘い砂糖菓子の口あたりは、純粋な悪だけが持つことのできる真の安堵に満ちていた。私は、あそこから逃げなくてはいけない。もう、ここにいてはいけない。
 指先が砂を掻き、海面へと浮上するように、意識が覚醒する。身を起こそうとすると、再び強烈な嘔吐がやって来た。かたく目をつむり、全身を硬直させて、私を嘔吐が蹂躙するにまかせる。眼球が小刻みに回転して、意識が浮遊する。血が滲むまで、唇に歯を立てた。すんでのところで、自我の消失から我が身をもぎはなすことに成功する。膝をついて、立ち上がった。萎えた足はぶるぶると震えたが、それでも私の身体を無理にも先へと押しやろうとした。しかし、それは私の中にあるというのに、いったいどうやって逃げだそうというのだろう。ほとんど這うようにして私の身体が坂道を下ってゆくのを、私の意識ははるか高見から眺める。人ごとのように? 遠のき、眼下に矮小化してゆく私の身体。
 私は、本当はどうありたいのだろう。
 万華鏡のような自失。次の瞬間、私の意識は私の身体と合致していた。
 三たび、強烈な嘔吐。視界の端から溶暗が始まる。私は今度こそ本当に打ちのめされ、意識から手を離してしまう。
 ふいに強い衝撃を受けて、目を開く。白い金属のつらなりが視界に入る。護岸道路のガードレールを乗り越えて、私は転落したらしい。身体を起こそうと手をついて、そこが砂地であることを知る。大気には、重たい湿気が混じっている。私は立ち上がった。
 陽光がすべてを漂白してゆく。足下を泡立った波がすくう。波間に億もの反射光が同時にきらめく。
 嘔吐は、どこかに消えていた。
 自分が薄く、涙ぐんでいるのに気がついた。左右に首をふる。このような世界への親和は、私にふさわしくないだろう。魂は、感情という因子に影響を受けて、いくらでもその形を変容させる粘土細工のようなものだ。平板な舞台装置による突発的センチメンタリズムと、世界への悟りを混同してはいけない。こんなふうな安易さで、世界を理解してしまってはいけない。私は、何からも、少しも救われてなどいない。
 腰がひたるまで海中に歩を進める。高い波が近くではじけ、全身にできた擦り傷を洗った。わずかに遅れて、じわりと痛みが広がる。ほとんど美しいとさえ言える海が、眼前へパノラマ状に広がっている。波間に浮かぶ錆の浮いた空き缶が、私の身体へと流れついて、止まった。空き缶の周囲には、油膜が形成されていた。それは、まるで老婆のような染みだった。
 背後で声が聞こえた。振り返ると、数人の若者の群れがこちらを指さして、けたたましい笑い声をあげているのが見えた。あるいは、私に向けられたものではなかったのかもしれない。きっかけは何でも良かったのだ。いまは、それだった。だから、不意に染み出した感情を私は止める気にならなかった。染み出た感情はいっぱいに広がると、次にしたたり落ち、ついにはすさまじい勢いで噴出した。私は波をかきわけ絶叫し、砂地に足をとられながら絶叫し、若者のひとりに飛びかかりながら、私にはあり得ないような絶叫を絶叫していた。
 ぎざぎざした分厚い靴底が私の顔面をとらえた。首を支点に身体を前へと投げ出され、背中から墜落する。倒れたところへ、続けざまにみぞおちへ鈍い衝撃が走った。呼吸が止まる。感覚はなぜか、人間の意識と微妙に同期を外している。激しい痛みが来た。そして次の衝撃と、その次の衝撃が同時に来た。私は申し訳のように、のろのろと身体を丸める。繰り返し重ねられる無数の痛みが境界を無くし、やがてぼんやりとした大きなひとつに感じられるようになったとき、横倒しのカメラからのような視界が、何の劇的効果をねらったものか溶暗する。
 まばたきほどの時間でしかなかったと、私は感じた。
 目を開くと、陽光はすでに力を失っていた。意識が焦点を結ぶ直前の、あの数瞬の自失の後、髪を赤と黄のまだらに染めた若い男が、私をのぞきこんでいるのに気がつく。とっさに両手で顔をかばって、身体を硬直させる。いくら待っても何も起こらなかった。どうやら、先ほどの若者たちではないようだ。愛想のよい笑顔で手をさしのべてくる。沈黙をどう解釈したのか、男は肩をかして私を立ち上がらせると、どこかへ連れてゆこうとする。私は、わずかに身をよじってみせた。だが、声も出せないほどに口腔は腫れ上がり、全身は痛み以外の感覚を持った場所を見つけだすのが難しいほどだった。結局私はこうやって、いつも何ひとつ自分で決めることができないのだ。そのまま男の示す先についていったのは、受け入れるという怠惰さをすら意味していなかった。
 一歩ごとに、足の裏で砂がきしむのが感じられる。世界は動いてゆく。保留は停止を意味しない。男の横顔に、なつかしい面々の面影が次々に重なる。かれらとは最も似ていないはずのこの男に、いったいどうしたことだろう。私は、あの頃を思い出す。そして、私がかれらとの日々に少しなりとも心地よさを感じることができたのは、かれらが決定できないほど弱かったからだと気づく。かれらはまるで、私の鏡写しのようだった。その弱さを憎むことで、私は自分を傷つけないまま、自分と対峙するふりをすることができた。永遠の保留の無解決の中で、穏やかに遊ぶことができた。
 私は深く息を吐くと、大きく男に寄りかかった。足をひきずりながら、そのまましばらくいっしょに砂浜沿いを歩いた。一言も話さなかった。水平線に漂う陽光の残滓が、徐々に光を失っていくのが見えた。
 手当をしてくれた若い女の皮膚の柔らかさが、自然と反芻される。別のひとりが、紙コップに入った生ぬるいビールを手渡してくれた。打ち上げられた流木の上に腰掛ける。数匹のフナムシが両足の隙間をすり抜けていった。私は気取られぬようズボンに片手を突っ込み、軽く勃起して座りの悪くなったペニスの位置を正す。
 口の中がずたずたに裂けているので、ひとすすりほども飲むことはできなかったが、大勢の人間が集まった場所の空気は、どこかアルコールと同じような効果があるらしい。たき火の周囲を十数人の若い男女が踊り、歌い、笑いさざめいている。砂浜に置かれたラジカセから流れる音楽はひどく割れていて、炎の喧噪ごしには、いったい何の曲なのかも判然としない。私はほとんど放心して、その様子を眺める。大勢の人間の中にいるときに必ず感じるあの所在の無さを、私はなぜか感じていなかった。そして、何のきっかけを得たのだろう、かれらの誰ひとりとして、他の誰かと同じようではないことに、私はふと気がつく。その理解のあきれるような素朴さに、私は愕然とする。
 背の高い者、背の低い者、痩せた者、太った者、あけすけな者、はにかんだ者、髪を染めている者、髪を染めていない者、俊敏な者、のろまな者、顔立ちの整った者、ひどく不器量な者、声の高い者、声の低い者、輪の中心にいる者、輪を遠巻きにする者、うまく歌う者、調子外れな者――それらのすべてが、そして対立する極端から極端を埋めるグラデーションが、ひとりの中にいくつもあって、かれらをかれらがいまあるようにしていた。感動とも違う、それは当たり前の何かが、はるかな遠回りの果てに初めて、私の胸の欠落に落ちた瞬間だった。
 長髪の男が、身を投げ出すようにして私の横に座った。かなり酔っているらしい。私の肩に手をまわしながら、大きな声でまくしたててくる。脇の下のじっとりとした汗の感触が、衣類越しに伝わってきた。胃腸を悪くしているのだろうか、男の吐く息には、アルコール以外に腐ったような匂いが混じっていた。私は、不快を感じた。だがそれらは、私がこの男を拒絶したり、愛さなかったりする理由には、もはやならなかった。不思議ないとおしさに突かれて、ぎこちなく、同じ流儀で男の肩に手をまわそうとする。男の横顔に視線をやると、長髪の隙間からひどく奇妙な形をした耳が見えた。かれが長く髪を伸ばしているのは、不格好なこの耳を隠すためなのだろうと、私は理解した。そのことを口にすると、かれは一瞬びっくりしたような目で私を見た。それから、照れたように笑った。私は、笑い返した。
 やがて男は踊りの輪の中へと戻っていった。その後ろ姿を見送りながら私は、ああ、こういうことなのか、と思った。それは、不思議な感覚だった。しかし、悟りのようではなかったから、ずっと続くだろうと信じることができた。
 祭りは、いつか終わる。
 ひとりまたひとりと、帰る場所のある者たちは帰り、そうして、夜の浜辺に私だけが残された。
 泡立つ波が足下をさらってゆく。
 ふと見上げると、どういう大気の影響か、月の周囲におぼろな白い光の輪が浮かんでいた。
 目の前に広がる夜の海は、幻想的で、広大で、限りなく清らかだった。身をかがめて、海水を手のひらにすくってみる。そこにあるのは油じみた、卑小で、汚れた水に過ぎなかった。
 手のひらを返すと、水はまた、夜の海の一部になった。
 私は波間に立ちつくしながら、そっと口の中につぶやいてみる。
 「しかし、それではあまりに生きることがつらくありませんか?」
 驚いたことに、答えが返ってきた。あるいは、波音に聞いた幻聴だったか。
 「なに、四六時中ってわけじゃないさ」