ファンでもないのに、ちいかわの映画をイヤイヤ見に行く。なんとなれば、「興収100億は、見ないと非国民レベル」だからであり、国宝のときと同じ動機にうながされた形である。原作のセイレーン編については、そのもりあがりを横目に見てはいたものの、偶然にタイムラインへ上がってきたときに目をとおすくらいで、積極的に追いかけたりはしなかった。さわがれている話の大オチにしたところで、八百比丘尼の逸話を下敷きにした、過去にいくつもの作品でこすられつづけてきた内容であり、「かわいい絵柄にダークなシナリオを当てると、じっさい以上に深みがあるように思える」錯覚を利用した、まどマギのはとこみたいな印象をしか受けない。ただ、劇場の客席に幼児と小学生が多く見られたのは、すれっからしの虚構アディクトや大人女子(笑)だけがちいかわの人気をささえているのではないことを実感できて、とてもよかった。周囲への忖度なしに、おのれの欲望を大声でさけぶモモンガも、未就学の子どもに満点で刺さるキャラになっていると思う。きっと全国各地の保育園や幼稚園では、かつてのクレヨンしんちゃんと同じく、彼?のマネをする園児が大量発生していることだろう。
この映画がコアなファンと子どもたちにとっての良作であることはまちがいないのだが、ちいかわの造形にとくだんの魅力を感じない人物にとって、原作の1ページ漫画を忠実に、数珠のようにアニメーションへ落としこんでいるのは理解しながら、映画の骨格をなしていないため、多くの時間で非常な退屈を感じたことは書き残しておきたい。視聴後、本作の興収に目をくらまされた”いっちょかみ”どもの、難解かつ衒学的な深読みの激賞をながめていると、本当に彼らと同じものを見たのか不思議になるくらいであった。今回あらためて、ちいかわの世界観について考えてみたが、そこになにひとつオリジナルなものは存在せず、「頭の大きな二頭身」というサンリオ的なデザインにはじまって、「二郎系ラーメン」「能力検定」「今日の日はさようなら」「カツカレー」「貝汁」「煮付け」「セイレーン」「人魚」「単三電池」「さすまた」「ドラクエの剣」など枚挙にいとまがないぐらい、我々の現実をすがすがしいほどダイレクトに、そのまんま引用しているのである。ここで唐突に、大胆な仮説を述べておきたいと思う。
原作者のナガノ氏は、電通の関与がバレて大炎上した「100日後に死ぬワニ」とは異なり、個人発信でコツコツと毎日を更新することで、いかなる広告代理店もとおさず、身ひとつで莫大な富を生むIPを作りあげた、人もうらやみ我(小鳥猊下)もうらやむ、SNS時代のシンデレラ・ストーリーの体現者であるわけだが、ちいかわはズバリ、彼女が見ている現実そのものなのではないだろうか。今回の映画での「協賛企業なし、製作委員会なし」によって、内容から配給から特典まで、すべてをみずから差配しようとするコントローリングなやり方は、どこかQアンノのそれを彷彿とさせるし、キャラクターを構成する楕円の形状への強いこだわりや、続きものの連作であっても必ず左下に”終”を入れることや、空前の大ヒットで人生をいくどか買えるほどのカネを手に入れたはずなのに、日々の生活をメトロノームのようにいっさい変えない様子など、「小さくてかわいい」見た目の裏にかいま見えるのは、非常に強固でパラノイックな自我の存在なのである。つまり、作品そのものが作者の精神とあまりに強く結びついてしまっており、性的暴行を受けた女性画家の自画像が以前の明るさをうしなって、陰惨なドス黒いものに変貌するように、その正体が何なのかは知らない、ある”強烈な体験”によって世界のネガポジが180°反転したあとの作者の主観的認知が、ちいかわワールドの根幹を成しているのではないかと、無責任に放言しておく。本作のファンでもなんでもないため、他に言うべきことは残っておらず、切断的に終わる。