猫を起こさないように
月: <span>2026年7月</span>
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ゲーム「崩壊スターレイル・汽笛は轟く、帰寂のさなかに」感想

 崩壊スターレイルの最新バージョン4.4をクリア。半島と大陸の課金アプリをいくつかかけもちでプレイしているが、かの国では文系大学院生の必読書にリストアップされているとのウワサがまことしやかに流れるほど、本作の物語はじつによく書けており、頭ひとつ抜けておもしろい。特に大陸のゲームは、第2章にあたる部分で中華の類似国の話を都合のいい妄想ーー唯一の造幣局として通貨の発行権をにぎり、世界経済を牛耳っているなどーーこみで延々と語る傾向があるのは玉に瑕だが、そこを我慢して通りすぎると第3章あたりからギアをあげて、グングンとよくなっていく印象である。正直なところ、崩壊スターレイルも仙舟羅浮の後半あたりで、プレイをやめようと思ったことは何度かあった。しかし、そこからピノコニーオンパロスと劇的にシナリオが改善されていくのを目のあたりにして、つくづく創作の邪魔になるのは客観性の欠如ーーこの場合、”おらが国”へのプライドないし、検閲によるとりつぶしを避けるための元首へのおもねりーーだとの思いをあらたにした次第である(アークナイツでさんざん聞かされた評判とは裏腹に、凡庸でつまらないストーリーのエンドフィールドを細々と続けているのも、第2章の武陵編さえ終われば、この「中華アプリの法則」により、少しはマシになっていくかもしれないとの期待からなのだった)。ひとつまえの感想にも述べたように、二相楽園での冒険は、1990年代に本邦で隆盛をきわめた伝奇作品群で創作の産湯をつかった者たちによる、ある種の返歌ないし本歌どりを意識しているように感じてならない(ノーマルエンドとトゥルーエンドを続けてリニアーに提示するところなど、ビジュアルノベル的な分岐を意識したのだろうなと思わせる)。すこし話はそれるが、無印Fateからの深甚なる影響を隠そうともしないコラボ第2弾ーーお話は二次創作以下で、ぜんぜんダメーーを見て、FGOのリメイクは崩壊スターレイル内の別棟として行うのが正解ではないかと思いはじめており、かなりその意図をもって主要キャラのモデリングを進めている気がする。

 今回のバージョンで特によかったのは、絶滅大君である帰寂のキャラ造形と底を割らない語り口であり、「人非人による偽りの愛情でも、育てられる側にとっては本物の愛情として機能するのか?」という問いには、かなり身につまされる重たさがあった。最後の最後で彼がもらす「勝敗はどっちでもいいが、負ければ自分がまちがっていたことの証明になる」というメッセージも、そこにいたるていねいなビルドアップがあるため、宇宙の混沌を神へと擬人化するならば、きっと我々にそう述べるだろうという奇妙な説得力をはらんでいる。また、成功したクリエイターが「創造すること」への称揚を作品内に織りこむ現象ーーたとえば、グラップラー刃牙におけるリアルシャドーや形象拳がその最たるものーーがあり、年齢を重ねるにつれて、一次産業的な現実への干渉に向けた忸怩たるまなざしが、いっそう複雑さを増すせいだと想像するのだが、本作においては「虚構にも生命が宿る」という舞台設定までをあらかじめ逆算で準備して、創造する行為を通じた素子/姫子の関係性を、臭みなく表現することに成功している。「みずからが生みだしたキャラクターが、おのれの運命を書きかえて、異なる人生をあたえてくれた」という結論は、「姫子は10年前に死んだはず」というミステリーに対する巧妙な謎解きであると同時に、ホヨバのスタッフにとっての偽らざる実感をも表明しているような気がしてならない。ただ、日本語ネイティブではない悲しさ、ある登場人物の名前を「無量塔弘」と書いて「むらたひろし」と読ませるセンスはあまりにもダサすぎて、これが音読されるたびに全身を恥ずかしさで硬直させながら、肌をビッシリおおうサブイボに「イーッ!!」と奇声をあげるような始末だった(ほんと、勘弁してください)。

 あと、帰寂への切り札である姫子の巨大ロボットが造形から演出からポージングまで、まんま勇者シリーズのそれになっており、「大丈夫なの? 許可とってるの?」と心配になって検索したら、ブレイバーンの監督から先んじてコメントをもらっていて、方向性をまちがった周到さに思わず失笑がもれました。

雑文「Captain T., Blue Leg and J. Dream」(近況報告2026.7.19)

 気むずかしげな見かけと文体をしていながら、根の部分がミーハーなので、最近は世界球蹴り合戦の影響を受けて、密林の無限焚書でサッカー漫画ばかり読んでる。まず、大定番であるキャプテン翼の小学生編ですが、いまではギョッとするようなラフプレーの数々を審判が流しまくり、まったくファウルもとらずカードも出ないのには、ビックリしました。小学生にケガの状態を自己判断させすぎだし、気温35度の炎天下で試合を決行するし、これが年をとったということなのでしょう、無責任な大人たちによる大会運営のずさんさばかりが印象に残りました。それにつけても、作者の加齢によって世界的な人気作品が、オリンピック編の下書き連載で終了しそうなのは、じつに残念なことです。いまはタイトルも思いだせない、プレートを目いっぱいに使って対角線上に速球を投げこむことを、クロスファイアと呼ぶ野球漫画を無かったことにして、キャプテン翼の話数を積み増すことができたらとさえ思います。ナレーションで過程をスッとばしていいので、最後のページは翼くんと若林くんがワールドカップをかかげる見開きで終わることを願っています。くれぐれも現在、人気の長編作品を連載されている漫画家のみなさまは、50代半ばくらいでご自身には寿命があり、そこからは目も体力も衰えていくばかりだと自覚してくれればと、思わずにはおれません。

 次に、エッキスで評判のいいアオアシですが、20巻をすこし越えたあたりまで読んだものの、全巻の半分を過ぎてもしょうもない国内レベルの試合(失礼)で、あれだけ圧倒的強者として描かれてきたユースAチームが、無計画の場あたりサッカーで大苦戦するのを延々と見せられると、もしかしてハイキュー!!エンドa.k.a.尻切れトンボなのではないかと、だんだん不安になってきました。一試合もどんどん長くなっていて、それは敵味方の双方の過去エピソードを挿入しまくるせいなのですが、「群像劇になると、主人公の特別性が薄まる」を地で行っており、サッカーの戦術にフォーカスがある漫画のはずなのに、「選手の感動エピソードが入ると、試合が大きく動いたり、点が入ることが事前にわかる」という妙な具合になってきております。このまま読み進めていいものか迷っておりますので、有識者のみなさまにはぜひアドバイスをお願いします。最後に、もっとも感銘を受けたのは「ドーハの悲劇」の前から連載がはじまったJドリームです。自分の家ではない本棚で読んだような記憶はあるのですが、全シリーズを通読したのは今回がはじめてだったように思います。特に無印の1巻は、「Jリーグ発足に間にあった者と、間にあわなかった者」にフォーカスしていて、今日にいたる本邦サッカー界の大幅な躍進の裏に、無数のこういった苦難や挫折があったのだと気づかされ、見えている現実が厚みを増す感じさえありました。

 また、2巻以降の主人公である少年には、「日本のワールドカップ出場を手だすけするためにつかわされた、正体不明の異国の鳥」としての描写があり、そのように美しく物語は閉じられるはずだったのに、現実ではまさかのロスタイム逆転負けを喫したせいで、盛りあげに盛りあげたストーリーも、泣く泣くそれにあわせる形で「本戦出場ならず」を結論として、尻すぼみに幕を閉じてしまいます。ここから、さらに4年後のワールドカップ出場とフィクションとの同期をもくろみ、Jドリームは「飛翔編」として再起動します。簡単にまとめると、ユース世界大会において、日本がアルゼンチンとイタリアをやぶって優勝するという会作なわけですが、これだけの活躍をしたファンタジスタ(笑)の主人公が、続く「完全燃焼編」では当時の本邦の状況を反映させられてその輝きを失い、イランやサウジアラビア相手に大苦戦を強いられる展開には、もうまいりました。このあたりから、「背景より人物を描きたい」とのたまう作者のクセが悪い方向に出はじめ、異様に近いカメラとバストアップの連続によって、画面は窮屈かつ閉塞感に満ちたものとなり、サッカー漫画版・修羅の門(なんじゃそりゃ)みたいな読み味になっていくのです。それでも、日本のワールドカップ本戦初出場にあわせた最終ページの、「夢物語をやめよう」というナレーションには、ジンと胸をうつ力がありました。

 さすがに若い人が全巻とおして読むのはたいへんだろうので、この駄テキストで興味がわいた向きは、無印1巻と完全燃焼編の最終話、そして当時の日本サッカーの赤裸々な状況がよくわかる各巻末のコラム漫画を読むとよいでしょう。あと、作者が女性であるからなのか、小鳥猊下が栗本薫の影響下にあるせいなのか、登場するすべてのキャラクターに”受け”か”攻め”かの連想を強いる感じがあって、キャプテン翼には無数にあったようですが、本作にもそういった同人誌(婉曲表現)が存在したのかは、気になるところです。そして、新旧代表キーパーのどちらが”受け”でどちらが”攻め”なのかは、一目瞭然と言えるでしょう。へへ、おまえ、代表戦とちがって、こっちのゴールはだらしなく開きっぱなしじゃねえか……(最低)。

ゲーム「原神・Luna8」感想

 原神、ナド・クライ編の最終アップデートであるルナエイトをクリア。月面のマップがドカンと追加され、フィールド探索とストーリー進行が一体となったプレイ体験に、フォンテーヌまでにあった原神の楽しさをひさしぶりに思いだしました。重力ギミックと月面基地、そして機械じかけの「傀儡」の実装とくると、どこかプラグマタとのシンクロニシティを感じさせます。さらに野暮なツッコミをするならば、宇宙に向けてメッセージを送信することの危険性を説くくだりは、まんま三体の「暗黒森林」をなぞっていて、なんだか笑ってしまいました。原神そのものが自身の終わりを意識していることを、すべての語りにおいてほのめかしていきますが、「偽りの天穹」の向こう側になにを置こうとしているのか、まったく不安がないと言えば、ウソになるでしょう。なんとなれば、アチーブメントのひとつに”Love is destructive.”をしこんでくるような、「第三降臨者」といったサード・チルドレンを彷彿とさせるワードをシレッと使ってくるような連中ですから、天穹がガラスのようにヒビ割れてくだけ散った先に、パイモンのコスプレをしたプログラマーと制作スタジオの実写を映すのではないかというメタ的な恐怖を、どうにも捨てきれないためです。大半の人は知らないか、すでに忘れているでしょうけれど、円盤のみに収録されている旧エヴァ劇場版をテレビフォーマットに落としこんだ第26話の次回予告は、ガイナックス社内に敷設された線路の上を走る列車の視点から撮影された実写であり、熱烈かつ盲信的なエヴァ・フォロワーであるホヨバ幹部たちが、ぜったいにこれをオマージュ元にはしないという自信はありません。

 また、今回の更新分で出色だったのは、サンドローネの生いたちにまつわる挿話でした。簡単にまとめてしまえば、フランケンシュタインを始祖とする被造物の葛藤なわけですが、オリジナルが「愛さないなら、なぜ生んだ」という嘆きの慟哭であるのに対して、こちらは「愛してくれて、ありがとう」という誕生への讃歌になっている。本来ならば、「永遠の繁栄を約束するものは、家族である」という中共プロパガンダの臭気がただよいそうなところなのに、制作側が強く意識している「原神という破格の旅の終わり」がシナリオ全体にオーバーラップしていて、強い感動へと昇華させることができています。サンドローネの喪失に満ちた人生を通じた「やがてすべて失われるものに、愛をそそぐ意味はあるのだろうか?」という問いに対して、「やがてすべて失われるとしても、いだいた感情や記憶はずっと残っていく」といらえをかえすのは、原神の終焉へと向けられたメッセージでありながら、死という終わりを持つ我々の人生へ敷衍される普遍的な回答にもなっている。さらに、論理と感情の初期的な乖離というテーマは、多くのおたくたちがかかえる問題であり、泣いている小さな自分を高い位置からながめながら、「馬鹿だな、泣けばまた、ひどくなぐられるのに」と冷めた考えでおのれの弱さを突きはなすのは、我々の過ごしてきた人生の実相に近いのではないでしょうか。ゆえに、サンドローネの論理が鏡うつしの感情を抱きしめるさまに自身の来し方を投影して、ひどく心をゆさぶられてしまうのです。

 正直なところ、ゴミの集積場である「星々の幻境」が体現するところの、中華街のごとき”生き汚なさ”には辟易しており、かなり気持ちは離れていたのですが、今回のバージョンアップでしばらくぶりに、物心両面における原神の美点を再確認することができました。もちろん、生粋の萌えコションである小鳥猊下は、たちまちサンドローネを2凸し、モチーフ武器もキチンとそろえ、レベルマとスキルマをすでに達成済みであることを、みなさまにお伝えしておきます。あと、サンドローネとコロンビーナの関係性は、機械人形と月の神という出自ゆえに、生殖と美の喪失を考慮する必要がなく、直近に語った「百合という現象」に対する、変則的かつ条件つきの正答になっているような気がしました。

雑文「上伊那ぼたん、あるいは百合について」

 最近はフォロワーを増やしたくて、手あたり次第にフォローをくり返しているため、完全にタイムラインの構築に失敗しており、なぜか「上伊那ぼたん」なる百合アニメの話が延々と流れてくる。Diablo2Rのシーズン14において、ついにsteamとbattle.netの2アカウント運用を始めてしまったため、セルフrushとセルフbaalrunがはかどってしょうがないので、数話をながら見して、深刻に考えこんでしまった(吠え馬場は完成した)。なので、きょうは思いつくままに、”百合”という虚構カテゴリについて、すこしテキストを書いてみようと思う。まず、対立する概念であるところの”薔薇”は、まさにその語源となった「薔薇族」や「さぶ」に描かれた、むくつけき毛むくじゃらの大男がくんずほぐれつする、男性の性欲が男性へむかうさまをあらわす。つまり、このワードは現実に行われる同性愛を指している。次に、栗本薫を創始者とする”やおい”は「JUNE」などに小説や漫画の形式で掲載されていた、読み手であり書き手でもある少女が自身の自我をあずけた美少年や美青年による愛の営為であり、現実とは連絡のない明確なフィクションだと言えるだろう。ただし、繁殖の不可能性による社会からの冷たい拒絶に、少女たちの青春期の鬱屈や孤絶や閉塞感を重ねて書かれたため、それらの一部は非常に高い文学性をまとうこととなった。しかしながら、栗本薫その人がのちに嘆いてみせたように、大家族の解体による社会の変容が進むにつれ、誤解をおそれずに書くならば、「世間や父母や友人から祝福される、無責任・末代同性セックス最高にきもちいい!」というポルノ方向へと、やおい作品の総体が傾いていってしまったのである。

 では、百合はどうか。「上伊那ぼたん」を見るにつけ、現実に生きるレズビアンの実体を描いているわけではなく、若い女性を都合よくドール化した人形あそびのようなもので、同性ゆえの行き止まりの葛藤も、他のだれかではない”あなた”でなければならない理由も、いっさい感じることはできなかった。「わたしが醜い肉塊であったとしても、あなたはわたしを愛してくれるのか」という切実な問いかけは、かつてのやおい作品にはたしかに存在していたが、現代の百合において美醜へのまなざしは、あらかじめキャンセルされる。なぜなら、”性欲”と呼ぶとドぎつすぎるので言いかえれば、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられた男性のまなざし」からキャラクターは造形されており、昭和の生んだ有害なマスキュリニティ・ワードの頂点の一角をなす「ギリ抱ける」かどうかが、その基準となっているからである。以前、ナントカちゃんのセーラー服にも似たようなことを感じたのだが、「あらゆる男性のまなざす、若い女の肉がはなつ媚態とフェティッシュ」だけが本体のイラスト集に対して、その事実にまったく気づかないフリの、ストーリー漫画に向けてする高評価がならんでおり、ステラーブレイドばりの奇妙な界隈だなあと感じたのを思いだした。「上伊那ぼたん」に話をもどすと、飲酒をするとしゃっくりが止まらなくなる体質に、ただ一度「うるさい」と言われたことについて、泣くほどのトラウマにしているのを繊細さのあらわれとして受容するには、わたしはこの短くない人生において、あまりに多くの弱き人々を見すぎてしまっている。だいたい、すこしでも波風を立てることを避ける昨今の若者が、あの場面ーーあそこだけ、昭和の飲み会感あるーーで「うるさい」なんて発するはずもなく、100人中100人がその内心がどうであれ、表面上は「だいじょうぶ?」と声をかけるだろう(”ためにする”作劇をやめろ)。

 しかしながら、最終回において、ピアスの穴をあけることをセックスの代替行為としたのには、非常に納得感があった(結局、ぜんぶ見てるやん)。なんとなれば、「体内への侵入による支配と、テンポラリーな合一」こそがセックスの本質であり、ペニパンを装着したところでそれはあなたの一部ではないし、懸命に外性器をすりあわせたところで、永遠に相手とは近づけないだろう。現実のレズビアンが持つ、そういった”どうしようもない寂しさ”が、百合のフィクションからはきれいサッパリ抜け落ちているし、せいぜいが大学生までの若さと”何者でもなさ”があるからこそ、「やがて過ぎ去り、いつか失われるもの」として鑑賞していられるのだ。このあと、彼女らは就職活動の果てに、企業の序列と職種による外的な評価があたえられ、そうして2人が30代、40代になり、否応に関係性を変化させていく未来を、おそらく本作のファンは見たいと思わないにちがいない。その態度こそが、やおいのような文学の高みへは到達できない、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられる男性のまなざし」にのみ立脚する、百合作品の限界なのだろうと思う。正しく百合の関係性を完遂するためには、肉の誘引力が消えるまえに心中させるーーできれば、体内への侵入を象徴する刃物でーーしかないのだが、その張りつめたテンションとそこへいたらなければならない切実さは、上伊那ぼたん系の作品には求めるべくもないというのが、小鳥猊下の偽らざる感想である。寡聞にして物を知らない可能性もあるので、女性の若さにフォーカスが無い、女性視点の百合を題材としたフィクションがあるなら、ぜひ教えていただきたい。終わる。