猫を起こさないように
月: <span>2026年7月</span>
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ゲーム「原神・Luna8」感想

 原神、ナド・クライ編の最終アップデートであるルナエイトをクリア。月面のマップがドカンと追加され、フィールド探索とストーリー進行が一体となったプレイ体験に、フォンテーヌまでにあった原神の楽しさをひさしぶりに思いだしました。重力ギミックと月面基地、そして機械じかけの「傀儡」の実装とくると、どこかプラグマタとのシンクロニシティを感じさせます。さらに野暮なツッコミをするならば、宇宙に向けてメッセージを送信することの危険性を説くくだりは、まんま三体の「暗黒森林」をなぞっていて、なんだか笑ってしまいました。原神そのものが自身の終わりを意識していることを、すべての語りにおいてほのめかしていきますが、「偽りの天穹」の向こう側になにを置こうとしているのか、まったく不安がないと言えば、ウソになるでしょう。なんとなれば、アチーブメントのひとつに”Love is destructive.”をしこんでくるような、「第三降臨者」といったサード・チルドレンを彷彿とさせるワードをシレッと使ってくるような連中ですから、天穹がガラスのようにヒビ割れてくだけ散った先に、パイモンのコスプレをしたプログラマーと制作スタジオの実写を映すのではないかというメタ的な恐怖を、どうにも捨てきれないためです。大半の人は知らないか、すでに忘れているでしょうけれど、円盤のみに収録されている旧エヴァ劇場版をテレビフォーマットに落としこんだ第26話の次回予告は、ガイナックス社内に敷設された線路の上を走る列車の視点から撮影された実写であり、熱烈かつ盲信的なエヴァ・フォロワーであるホヨバ幹部たちが、ぜったいにこれをオマージュ元にはしないという自信はありません。

 また、今回の更新分で出色だったのは、サンドローネの生いたちにまつわる挿話でした。簡単にまとめてしまえば、フランケンシュタインを始祖とする被造物の葛藤なわけですが、オリジナルが「愛さないなら、なぜ生んだ」という嘆きの慟哭であるのに対して、こちらは「愛してくれて、ありがとう」という誕生への讃歌になっている。本来ならば、「永遠の繁栄を約束するものは、家族である」という中共プロパガンダの臭気がただよいそうなところなのに、制作側が強く意識している「原神という破格の旅の終わり」がシナリオ全体にオーバーラップしていて、強い感動へと昇華させることができています。サンドローネの喪失に満ちた人生を通じた「やがてすべて失われるものに、愛をそそぐ意味はあるのだろうか?」という問いに対して、「やがてすべて失われるとしても、いだいた感情や記憶はずっと残っていく」といらえをかえすのは、原神の終焉へと向けられたメッセージでありながら、死という終わりを持つ我々の人生へ敷衍される普遍的な回答にもなっている。さらに、論理と感情の初期的な乖離というテーマは、多くのおたくたちがかかえる問題であり、泣いている小さな自分を高い位置からながめながら、「馬鹿だな、泣けばまた、ひどくなぐられるのに」と冷めた考えでおのれの弱さを突きはなすのは、我々の過ごしてきた人生の実相に近いのではないでしょうか。ゆえに、サンドローネの論理が鏡うつしの感情を抱きしめるさまに自身の来し方を投影して、ひどく心をゆさぶられてしまうのです。

 正直なところ、ゴミの集積場である「星々の幻境」が体現するところの、中華街のごとき”生き汚なさ”には辟易しており、かなり気持ちは離れていたのですが、今回のバージョンアップでしばらくぶりに、物心両面における原神の美点を再確認することができました。もちろん、生粋の萌えコションである小鳥猊下は、たちまちサンドローネを2凸し、モチーフ武器もキチンとそろえ、レベルマとスキルマをすでに達成済みであることを、みなさまにお伝えしておきます。あと、サンドローネとコロンビーナの関係性は、機械人形と月の神という出自ゆえに、生殖と美の喪失を考慮する必要がなく、直近に語った「百合という現象」に対する、変則的かつ条件つきの正答になっているような気がしました。

雑文「上伊那ぼたん、あるいは百合について」

 最近はフォロワーを増やしたくて、手あたり次第にフォローをくり返しているため、完全にタイムラインの構築に失敗しており、なぜか「上伊那ぼたん」なる百合アニメの話が延々と流れてくる。Diablo2Rのシーズン14において、ついにsteamとbattle.netの2アカウント運用を始めてしまったため、セルフrushとセルフbaalrunがはかどってしょうがないので、数話をながら見して、深刻に考えこんでしまった(吠え馬場は完成した)。なので、きょうは思いつくままに、”百合”という虚構カテゴリについて、すこしテキストを書いてみようと思う。まず、対立する概念であるところの”薔薇”は、まさにその語源となった「薔薇族」や「さぶ」に描かれた、むくつけき毛むくじゃらの大男がくんずほぐれつする、男性の性欲が男性へむかうさまをあらわす。つまり、このワードは現実に行われる同性愛を指している。次に、栗本薫を創始者とする”やおい”は「JUNE」などに小説や漫画の形式で掲載されていた、読み手であり書き手でもある少女が自身の自我をあずけた美少年や美青年による愛の営為であり、現実とは連絡のない明確なフィクションだと言えるだろう。ただし、繁殖の不可能性による社会からの冷たい拒絶に、少女たちの青春期の鬱屈や孤絶や閉塞感を重ねて書かれたため、それらの一部は非常に高い文学性をまとうこととなった。しかしながら、栗本薫その人がのちに嘆いてみせたように、大家族の解体による社会の変容が進むにつれ、誤解をおそれずに書くならば、「世間や父母や友人から祝福される、無責任・末代同性セックス最高にきもちいい!」というポルノ方向へと、やおい作品の総体が傾いていってしまったのである。

 では、百合はどうか。「上伊那ぼたん」を見るにつけ、現実に生きるレズビアンの実体を描いているわけではなく、若い女性を都合よくドール化した人形あそびのようなもので、同性ゆえの行き止まりの葛藤も、他のだれかではない”あなた”でなければならない理由も、いっさい感じることはできなかった。「わたしが醜い肉塊であったとしても、あなたはわたしを愛してくれるのか」という切実な問いかけは、かつてのやおい作品にはたしかに存在していたが、現代の百合において美醜へのまなざしは、あらかじめキャンセルされる。なぜなら、”性欲”と呼ぶとドぎつすぎるので言いかえれば、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられた男性のまなざし」からキャラクターは造形されており、昭和の生んだ有害なマスキュリニティ・ワードの頂点の一角をなす「ギリ抱ける」かどうかが、その基準となっているからである。以前、ナントカちゃんのセーラー服にも似たようなことを感じたのだが、「あらゆる男性のまなざす、若い女の肉がはなつ媚態とフェティッシュ」だけが本体のイラスト集に対して、その事実にまったく気づかないフリの、ストーリー漫画に向けてする高評価がならんでおり、ステラーブレイドばりの奇妙な界隈だなあと感じたのを思いだした。「上伊那ぼたん」に話をもどすと、飲酒をするとしゃっくりが止まらなくなる体質に、ただ一度「うるさい」と言われたことについて、泣くほどのトラウマにしているのを繊細さのあらわれとして受容するには、わたしはこの短くない人生において、あまりに多くの弱き人々を見すぎてしまっている。だいたい、すこしでも波風を立てることを避ける昨今の若者が、あの場面ーーあそこだけ、昭和の飲み会感あるーーで「うるさい」なんて発するはずもなく、100人中100人がその内心がどうであれ、表面上は「だいじょうぶ?」と声をかけるだろう(”ためにする”作劇をやめろ)。

 しかしながら、最終回において、ピアスの穴をあけることをセックスの代替行為としたのには、非常に納得感があった(結局、ぜんぶ見てるやん)。なんとなれば、「体内への侵入による支配と、テンポラリーな合一」こそがセックスの本質であり、ペニパンを装着したところでそれはあなたの一部ではないし、懸命に外性器をすりあわせたところで、永遠に相手とは近づけないだろう。現実のレズビアンが持つ、そういった”どうしようもない寂しさ”が、百合のフィクションからはきれいサッパリ抜け落ちているし、せいぜいが大学生までの若さと”何者でもなさ”があるからこそ、「やがて過ぎ去り、いつか失われるもの」として鑑賞していられるのだ。このあと、彼女らは就職活動の果てに、企業の序列と職種による外的な評価があたえられ、そうして2人が30代、40代になり、否応に関係性を変化させていく未来を、おそらく本作のファンは見たいと思わないにちがいない。その態度こそが、やおいのような文学の高みへは到達できない、「生殖の本能から否応に誘引される、若い女の肉にむけられる男性のまなざし」にのみ立脚する、百合作品の限界なのだろうと思う。正しく百合の関係性を完遂するためには、肉の誘引力が消えるまえに心中させるーーできれば、体内への侵入を象徴する刃物でーーしかないのだが、その張りつめたテンションとそこへいたらなければならない切実さは、上伊那ぼたん系の作品には求めるべくもないというのが、小鳥猊下の偽らざる感想である。寡聞にして物を知らない可能性もあるので、女性の若さにフォーカスが無い、女性視点の百合を題材としたフィクションがあるなら、ぜひ教えていただきたい。終わる。