猫を起こさないように
月: <span>2026年6月</span>
月: 2026年6月

漫画「呪術廻戦モジュロ」感想

 呪術廻戦モジュロ全3巻を、温泉と漫画喫茶が複合したような施設にて読了。本編のその後を描く短期集中連載で、わざわざ作画担当を別に立ててのぞむというのだから、事前の期待はかなり高まっていました。結論から申せば、「設定を作るのが好きで、描きたいシーンはあれど、ストーリーテリングが下手」という薄々は感じていた作者の弱点を、赤裸々に露呈した作品になっています。冨樫義博に影響を受けて、本筋とは関係ないサブキャラをつっこんでくる手クセも健在で、致命的なのはコピー元とちがって、それらに主役を食うような魅力がまったくないことです。じっさい、サメのカブリモノをした呪術師が登場した瞬間、どうでもよすぎるあまりいったん単行本を閉じて、汗を流しにサウナへと向かったほどでした。思いかえせば、本編も五条悟のキャラ造形だけが突出していて、サブキャラのバトルはけっこう読みとばしがちでした(高羽史彦は例外)。また、これまではかろうじて臭みにいたっていなかった「政治や世相にモノ申したい」「おのれの思想信条を語りたい」「大上段から一方的な高説を垂れたい」という気持ちが、本作ではビックリするほどダダ漏れになっていて、この作者はファンガスのフォロワーでもあると聞きおよびましたが、そんな悪癖の部分をマネしなくていいのにと思いました。そもそも設定の大元が「宗教による民族対立」「移民難民への差別」「エネルギー資源の枯渇」などの社会問題を、宇宙人と謎パワーにあずけて語る目的で立てられていて、作劇としてはほとんど「はじめに、説教ありき」になっており、前作の続きを期待するファンにとっては本末転倒もいいところでしょう。5万人を収容できるモノリス型宇宙船も、謎の鉱石から設計図もなしにマジカル呪力錬成で一瞬(ひとコマ)のうちに完成するし、恒星間航行を可能にする推進力はまったくの不明で、そのあいだの衣食住をどうまかなったのかにはいっさい言及がなく、そもそも5万人を収容しているスケール感を作画のウソでごまかしきれていません。

 新キャラである「三つ目がとおる!」も最初のバトルでの開眼でオッと思わせたのが最高潮で、そのあとはギミックとして完全に消滅します(なんで涙を流すの? 重力操作じゃなかったの?)。そして、なんら伏線も脈絡もなく脳腫瘍におかされている設定をつっこんできたかと思えば、意識が混濁した状態の女子を車椅子ごと飛行機から放りだしたのもビックリで、そこにいたる組み立てが下手クソすぎるため、「ウナゲリオン降下と同じ構図が描きたかった」以外の理由を見つけることはできません。とにかく徹頭徹尾、虚構を虚構として成立させるためのビルドアップが雑なせいで、印象的になるはずの数々のシーンが、どれもウソくさいものになっているのです。ビッシリと紙面を埋めるネームの多くは、登場人物のセリフに仮託した作者のウンチクーーキャッチボールの説明、いる?ーーか説教で、わずか3巻なのに遅々としてストーリーは前に進まないばかりか、次第にどの方向が”前”なのかもわからなくなってくる始末です。新世代のキャラたちの魅力を充分に表現することができないまま、物語をまとめるためだけに旧作の最強キャラ2名を引っぱりだしてきたのには、思わず「ワレ、なにがしたいんや」のツッコミがもれました。純粋に後日譚として見ても、孫子の代まで時間をスッとばし、前作の腫瘍、じゃなかった主要キャラはのきなみ死んでいるかジジババになっていて、主人公だけが不老不死の「さまよえるオランダ人」として生きさらばえているのに、はたしてファンのみなさんは納得しておられるのでしょうか。あまつさえ、その口から特級呪物・イコール・両面宿儺と同じ存在になるだなんて言いだして、「有限の者たちによる継承と、巨悪をうがつ市井の小さな善意」というFGOを彷彿とさせる前作のテーマと結論を、すべて台無しにしてしまうのです。

 じつは、世界球蹴り合戦を気のないフリで7大会ほど横目に見てきているのですが、「個人を越えた継承による集団の成長」をこれほど強く実感させられるイベントはありません。だれひとりボールを足下でキープできず、わずかのプレッシャーでバックパスに次ぐバックパス、撃つシュート撃つシュートすべて枠を外れた宇宙開発、中央を突破できないからサイドで縦ポンするほかなく、コーナーキックからの偶発的な事故でしかゴールは期待できず、1点先制されたらどれだけ時間が残っていてもたちまち終戦ムード、技術は低くプライドは高くチームの雰囲気はつねにギスギス、往年の名選手に「私なら両脚にギプスをはめていても決めることができる!」とまで言わせたキュー・ビー・ケー、専属のカメラマンに撮影させるためのトラベラーによるフィールド寝ころがりなど、数々の茶番をリアルタイムで苦々しく見てきたからこそ、本大会におぼえる感慨はいっそう強いものとなっております。突然のサッカー方向への脱線でなにが言いたいかといえば、シンジさんの孫たちと宇宙難民をさしおいて、物語のシメに「未来永劫にわたり存在し続ける虎杖悠仁」をお出しするのは、ファンサを越えた本編への冒瀆と作者の自己満足であり、チームプレイをガン無視してボールの供給だけを求めるロートル・ストライカーみたいな醜悪さであると感じたということです(げいかくんのごういんなイグザンプル!)。あと、ジェネリック・ファンガスであるがゆえの疾病だろうと推察しますが、そろそろ「フィクションが世界を救う」という妄想ーーもちろん、個人を救うことはありますーーから距離をおいたほうがいいとアドバイスして、この低級テキスト呪物を閉じたいと思います。

映画「マイケル」感想

 話題のマイケルをIMAXで見る。ボヘミアン・ラプソディの大ヒット以降、雨後のタケノコのごとく作られた有名アーティスト(笑)の生涯を描く伝記作品のひとつで、これまでのご多分にもれず、本家を越えることはできておりません。個人的なマイケル・ジャクソンの印象を述べておくと、インターネットの存在しない時代に活躍した最後のポップ・スターa.k.a.スーパー外タレであり、いまからふりかえって気づくことながら、テレビメディアが圧倒的な唯一性から莫大な影響を全人類へとおよぼしていた時代において、良くも悪くもその功罪の暴威にさらされ続けてきた人物でした。死後に相当な神格化が進みましたが、本邦における当時のあつかいは、パリス・ヒルトンとおなじ「おさわがせ海外セレブ枠」であり、たび重なる整形、突然の白人化、小児性愛疑惑など、良識的な人々がまゆをひそめながらもギラギラと好奇の目をむける、まごうことなき奇人変人のたぐいだったのです。アラビアンナイトのようなベールをかぶりながら、逗留先のホテルで赤ン坊を窓から突きだしてマスコミのカメラにさらす姿など、巷間をにぎわせた彼の奇行の数々をいまでもまざまざと思いだすことができます。テレビを通じた時代の意志によって黒人というカテゴリを突きやぶって、はるかな至高の園にまで連れていかれながら、他ならぬそのテレビのパワーによってさんざんに失落させられたのが、マイケル・ジャクソンの人生だったと言えるでしょう。最近、ネトフリで古畑任三郎を見かえしているのですが、こちらもまたインターネットの存在しない時代の空気感にあふれていて、まさに「楽しくなければテレビではない」を地で体現する、傲慢かつ無邪気、衒学的かつ無知蒙昧、不真面目かと思わせながら転じてドシリアス、そしてなにより、ジャブジャブにカネをつかった躁のハイテンションと”正しくなさ”に満ちあふれていて、なつかしい気持ちとうらやましい気持ちが同時にきました。万能の科学捜査と街中にめぐらされた防犯カメラによって、もはや成立しえないトリックの数々と、大物ゲスト俳優たちとの演技対決を、田村正和という特異点的な個性で強引に成立させるドラマは、令和の御代にはぜったいに再現不可能なオーパーツと言えるでしょう。インターネットが24時間365日を常駐する世界において、古畑任三郎vs.マイケル・ジャクソン回ーー「ンフフ……それはおかしいですねえぇ……あなたのペニスの斑紋と、坊やが暗闇で見た模様は完全に一致しています!」ーーは、残念なことに起こりえないのです。

 話を映画のほうのマイケルにもどしますと、元祖・アーティスト伝記作品であるボヘミアン・ラプソディの持っていた、時代時代の楽曲にあわせて、思春期の劣等感、家族との葛藤、妻とのいつわりの生活、性的嗜好のカムアウト、エイズによる死の恐怖と積みあげた先に、ライブ・エイドにおいて情動を大爆発させるにいたる構成の妙が、こちらからはスッポリと抜け落ちています。多くの観客は「ジャクソン5を抜けて”から”」のマイケルが見たいのに、本作で描かれるのは「ジャクソン5を抜ける”まで”」の時間軸で、父・ジョセフとの軋轢だけが弱いストーリーラインとして、延々と細くつむがれてゆくばかりなのです。この父親によるドメスティック・バイオレンスも時代の要請からか、後期マイケルの肌のように完全に”漂白”されていて、冒頭に少し声をあらげる場面があるものの、あんなほっそいベルトで分厚い半纏の上からいくらたたいたって、皮膚に赤いスジすらつきはしないでしょう。なのに、子役はギャアギャアと大げさに泣きさけんでみせ、この映画のフェイクっぷりを最初からフルスロットルであびせられて、たいそう鼻じろみました。以後もジョセフはホラー映画のドッキリ演出みたく、突然に画面へ登場するたび、コワモテですごんでみせるのですが、毎回マイケルには特に危害をくわえず、すごすごと引きかえしていきます。腕をつかみ、頭髪をつかみ、胸ぐらをつかみ、顔面を殴打し、腹を蹴りあげ、大声で罵倒するなんてことはいっさい起こらず、マイケルの部屋で帰宅を待ちかまえる場面でも、ムダに緊張感だけは高めながら大暴れにはいたらず、なにひとつ調度品を壊さないまま静かに部屋を出ていったのには、「なんやねん、おまえ! なにしにきとんねん!」と心の中で思わず悪態をついたほどでした。直接的なDV描写への遠慮がすぎることの弊害として、父親と目もあわせられず、FAXひとつでマネージャーを解任したのになぜか実家ぐらしを続け、大観客にむけてジャクソン5の解散を宣言するくせに、面とむかってはなにひとつ言えず足早に会場から逃げ去る姿は、一貫してただのヘタレにしか見えません。問題の本質は、マイケル役が遺伝的類似を持つソックリさんにすぎず、本職の役者ではないことで、実在の人物とは似ても似つかぬ細面の優男がフレディ・マーキュリーという男の本質を表現しきったのに対して、演技が弱すぎるために父親と対立が葛藤のドラマとして昇華していかないのです。

 じっさいには他の兄弟との確執もあったのでしょうが、映画化の許認可を与えるさい、マイケルに係るすべての罪をジョセフに押しつけようと暗黙の合意がなされ、ジャクソン5の他のメンバーは彼の人生になにひとつ影響をおよぼさない、無個性の点景にまで後退していきます。結果として、「家族という名の地獄を撹拌することで生まれた、天上の音楽と魔性の舞踊」という創造の源泉が消滅し、スリラーのMV撮影シーンも制作秘話というより、フワッとしたマイケルの指示と挙動に一流ダンサーたちがいちいち大げさに驚いてみせる、デトロイト・メタルシティを彷彿とさせるーー「すげえ、さすがマイケルさん! ジャケットの脱ぎ着をダンスの一部にとりいれるなんて!」ーーギャグみたいになっています(我々はすでに「THIS IS IT」で彼のクリエイティブの舞台裏を見ているだけに、余計にそう感じるのかもしれません)。おなじことがコンサートシーンにも言え、おそらくダンスと歌唱のしあがりに自信がないせいでしょう、やたらとカメラアングルを変えながら、熱狂する観客の様子を次々とインサートしまくります。これは国宝における鷺娘問題と同様の構造になっていて、もっと堂々と引きの定点カメラで長回しをすべきだったと思います。家族の葛藤を描けず、マイケルの真情を演技で伝えられない以上、本作は「最新の映像フォーマットおよび音響技術で再現する、遺伝的類似を持つソックリさんによる完コピ・ミュージックビデオ」であることが最大の価値となるはずですが、その観点からさえ不満の残るクオリティになっているのです。映画の最後に置かれたロンドンでのソロライブも、直前のジャクソン5解散コンサートとパフォーマンスの内容が似かよっているため、父親のくびきからの解放というテーマも表現できておらず、どこまでいっても画面の解像度と音圧以外は本家にかなわないミュージックビデオという印象のままでした。

 本作には字幕版しかないのですが、全編にわたって歌詞のキャプションがつかないのも、楽曲に仮託する隠された真意がまったくないことを逆に表してしまっていて、ハリボテMV感はいっそうに強まりました。またぞろ続編の話も聞こえてきますが、巨大な事故物件となったネバーランドを実物とVFXを駆使して、当時のままの姿で見られるだろうぐらいの期待しか、もはや残されておりません。裁判とスキャンダルの落としこみ方に四苦八苦するぐらいなら、マイケル本人がほぼ唯一、ライブ映像のパッケージ化を許諾したライブ・イン・ブカレストを8Kリマスターして劇場にかけるほうが、オールドファンにとっても、本作を通じて新たにファンになった人たちにとっても、よっぽどウィンウィンになると思いました、ポウ!(おわり)

ゲーム「FGO新章:ワンセカンド・アフタータイム」感想

 FGOの新章を6時間ほどかけて読了。新章とうたいながらも、第3部ではなくファンディスクのような中身になっていて、新旧所長を一場面に同居させたり、失われたはずの人物がよみがえったり、本編ならばけっして踏みこまなかったところにまで踏みこんで、10年を伴走してくれたプレイヤーへのていねいなアフターサービスが行われます。それはとても愉快で楽しいものですが、「この物語はすでに語り終えられている」ことを再確認する行為でもあり、沈みゆくタイタニック号の広間で弦楽四重奏を聞くような、どこかうらさびしい気持ちにはなりました。とは言いながら、時の女神編が残り2章、フォーリナー編が残り7章、残された謎をすべて解明するトゥルー・エンドに1章と考えれば、これまでの実装ペースから逆算して、少なくともあと3年は祭りを継続することが確定しており、もしかするとタイタニックどころか、宗谷のような南極砕氷船である可能性も捨てきれません。なによりうれしかったのは、令和の最突端においてファンガスの最新テキストを読めたことで、第2部終章にただよっていた「あらかじめ書いてあった感」のない、同じ時代を生きる者による現在進行形のビビッドな生活感情が、あふれているように思いました。読み手にとってはポジティブな驚きであるドクターの復活について、主人公の口から「嫌な気分」と言わせたり、資産を公開していれば長者番付にのるだろうファンガスがキャラのセリフに仮託して、「個人の資産より未来の浪漫」と言いはなったり、そこここにかざらない真情の発露がかいま見られるのです。特に、現世利益の追求において空前絶後の大成功をおさめたテキスト書きが、「過去の栄光を反芻することの怠惰と醜さ」にまで、たとえそれが”フリ”であっても言及する姿勢には、この場末の管理人さえ背筋をのばして、直立しながら脱帽するほかはありません。

 ドクターの消滅の描き方も非常に示唆的で、「深夜のファミレスで、学生時代からの気のおけない仲間とダベりながら、なんどもくりかえしてきた話で笑いあい、そうしているうちに空がピカッと光って、最も楽しい意識のまま、一瞬で蒸発させてくれる死」は、たしかに「病院のベッドで多くの管につながれて、ひとり混濁した意識のまま、ジリジリと先のばされる死」よりもずっとマシなものに感じられます。テキストサイト運営者としての小鳥猊下が、だれにも読まれない文章を書き続けるのも、いまやメディアやSNSへはめったに表出しなくなった”根幹の本音”を、偶然おなじ100年に生まれてしまった同胞へと伝えたいからなのです。以前の指摘をくり返しますが、ファンガスの異能はそれを物語へと変換できることで、新章のシナリオを読む行為は、「彼/彼女という人間を深く知る」ことと同義だと言えるでしょう。私にとってFGOとは、すでにかつての個人ホームページにも似た存在になっていて、ファンガス以外の書き手が書くものに、ストーリーテリングの巧拙はおくとして、ほとんど興味はわきません。その意味において、またぞろストーリーの最後にアガルタの持ちキャラであるヤモリが登場して、次回のシナリオへの期待値が底をうった状態で虚無期間へと放りだされたのは、端的に言って最悪の体験でした。さらに、年単位ぶりに課金して引いたガチャは、万札シュレッダーとも呼ぶべき人類悪の体現となっており、近年のアジア産ゲームにおける付加価値の高いガチャと比べると、ファンの好意にあぐらをかいた、心胆寒からしめる邪智の所業そのものです。新たな星5サーバント以外、まったく当たりの入っていないゴミ箱をあさる権利をカネで買う作業は、新章の読後感を大いに汚したことを、ここにお伝えしておきます。

アニメ「あかね噺」感想

 ネトフリであかね噺を7話まで見る。いつもはアニメから原作に入るのですが、今回は順序が逆で、漫画を既刊21巻まで先に読んでいました。きっかけは、コミックスの帯にQアンノが推薦の辞を寄せていたことで、それを目にしたとたん、瞬間湯沸かし器のように感情がカッと燃えあがったからです。結果として、さまざまな既知の落語をこれまでにはなかった斬新な漫画表現で再発見するという、稀有な体験をすることができました。棋士ほどではないにせよ、男性優位の落語界で女性が高座にあがることには、有形無形の障壁があると推察しますが、本作は「女性落語家としての苦労や葛藤」にはいっさいフォーカスせずに進んでいくことから、少女を主人公にしながら純然たる少年漫画になっているのは、おもしろいところです。またも未完の作品に手をつけてしまった後悔から、あかね噺のストーリーにおける瑕疵未満の気になる点をならべていきますと、唐突なフランスへの武者修行は主人公の強さイコール知名度をリセットして、作中の時間をいたずらに進めるだけで、帰国後の展開になんら影響をあたえていないのには、迷走感があります。また、主人公の必殺技が北斗の拳の無想転生を彷彿とさせる「個我を消失させて、噺そのものになりきること」なのは、ライバル2人を超個性派にしたてているせいか、少年漫画としてはなんとも地味で、フラストレーションがたまりました。そして、作中において最大のミステリーとされている「志ぐまの芸」にしたところで、死神と芝浜の熟達を求める昭和前期の噺とくれば、その正体が「戦争講話」であることがなんとなく読めてしまうのです。ベテランになったあかねが、寄席ではなく小中学校の体育館に呼ばれて、平和学習の一貫として「志ぐまの芸」を披露するのをまざまざと幻視し、ひどく気持ちが落ちこみました(昭和人間の人生に由来する感情なので、あかね噺はなにも悪くないです)。

 アニメ版は原作を忠実に再現していて、非常にていねいに作られているとは思うのですが、「紙面から音が聞こえる」たぐいの漫画を映像化するときの難しさが、そのままあらわれていると言えるでしょう。つまり、「読者の頭蓋にひびいていた音を越えられない」という問題です。この課題をクリアして大成功をおさめたのは、近年ではブルージャイアントですが、あちらは超一流プロの上原ひとみをかつぎだし、モノホンのジャズで正面からブンなぐるという反則級の荒技で成立したものです。一方であかね噺のアニメは、画面の派手な演出や観客とライバルの驚きで芸のすごさを強調しながら、肝心かなめの落語のクオリティは、「声優が懸命に台本を読んでいる」以上のものではありません。求められていたのは、日常会話を声優、高座をプロの女性真打が担当する、マクロス7ばりのボディダブルならぬボイスダブルだったと思います。落語界、噺家本人、あかね噺の三方一両得のアイデアを、なぜ関係者のだれも思いつかなかったのか、不思議でなりません。その代わりに、どこであかね噺につけられた潤沢な予算が空費されたかと言えば、落語とはなんの関係もない桑田佳祐の主題歌になのです。これはあかね噺にとって、複雑骨折および内蔵破裂級の大事故だったと言えるでしょう。昭和の女性観a.k.a.「オンナは1回ヤッたらみんなおなじや」を令和の御代になお信念としていだきつづける、ちょいワルおやじならぬこの超ワルおやじは、若い世代のファンをとりこみたいという欲望と、アニメなどという低俗なものにおのれの楽曲を使われることへの屈辱ーー昭和の歌手には、一般的な感情ーーとの葛藤から、とんでもないイタズラーー令和の辞書では、性的暴行の意ーーをあかねチャンへとしかけてきたのです。

 オープニングテーマである「ひとたらし」の歌詞を検索しますと、「女流名人を論破して、燃える勝負をしたい」という一見して意味不明の内容が出てきます。しかしながら、よくよく注意してケースケの歌唱を聞くと、「女流名人ナンパして、燃える小便したい」とじっさいは発声しており、これは「オレは名人と認めない”女流”落語家をコマして、熱いスペルマを彼女の膣に射精したい」と、ハレンチにも宣言しているのです! そうなれば、直後のとってつけたような”ガラスの天井”なるポリコレ・ワードも、処女膜の読みかえであることがあきらかになってきます。今回の件は、ヨネヅのアホがメダリストにしたのと同じ種類の狼藉で、現世ではもうだれも面とむかって文句を言えないような大御所が、木ッ端アニメ(失礼)を権威にみたてて反抗してみせるアナーキー仕草は、まさに全共闘世代のヤンチャーー令和の辞書では、暴力行為の意ーーそのもので、自分より若い世代のクリエイティブに対する敬意を欠いた行為には、暗澹たる気分にさせられます。桑田佳祐へ支払うギャランティの10分の1もあれば、実在の女性噺家をボイスダブルに当てることができ、アニメ化の価値は10倍にもハネあがったのにと、心から残念でなりません。原作に準拠しない、ほおを赤らめ瞳をうるませた恍惚の表情や、光るふとももを強調するカットなど、アニメーターがする手クセの性的要素も散見されるし、いまは女性を徹底的にモノ化する昭和の男性性(manliness)の充満、マン充がこわい。おあとがよろしいようで。