猫を起こさないように
年: <span>2026年</span>
年: 2026年

映画「フォール・ガイ」感想

 生粋の顔フェチである小生は、プロジェクト・ヘイル・メアリーを見てからというもの、ライアン・ゴスリングのご尊フェイスがまぶたの裏にチラついてしょうがないので、衝動的にネトフリでフォール・ガイを再生してしまった。マトリックスで幕を上げたVFX全盛時代が長く続いたあと、AIによる動画生成が急激に台頭してきている現在、生身によるスタントはまさに旧石器時代のシロモノで、この映画のように「スタントマンを主役にしたスタント映画」ぐらい場外のメタにふらないと、だれも劇場に足を運ばないし、そもそも若い世代には絵ヅラがカッたるくて、見ていられないだろうと推察する。「直下の爆発で空中に舞いあげられた車体が、なんども回転しながら地面に激突」したり、「高所での格闘アクションののち、顔面のドアップから地面にむかって小さくなりながら落下」したり、「背後の爆風にあおられて、両手をぐるぐる回しながら観客方向に主人公がジャンプ」したりするのをスローモーションで見ることに興奮するのは、もはや「初体験の相手がアンネ状態だったため、事後から経血に興奮をおぼえるようになった」の文脈における”興奮”と同じ種類の特殊性癖なのである(私がそうだと言っているわけではない)。

 フォール・ガイがどういう映画かと問われれば、海外では検索候補に”burst into laughter”と表示され、国内でのそれは「つまらない」が第一候補になるたぐいの、いわゆる「モンティ・パイソン系」の作品だと答えることができよう。本邦のホニャララ・グランプリ的な漫才とは真逆の位置にある笑いになっており、「執拗な繰り返し」「会話の奇妙な間」「一瞬のアブノーマル」をすべて真顔の演技で行うことが特徴で、「笑いの洋の東西」という観点から思考を深めれば、博論の一本も書けるレベルの文化的な含意をはらんでいるのである。ご存知のとおり、小鳥猊下はサシャ・バロン・コーエンを偏愛し、ディクテーターに爆笑できる逸材であるからして、前半の1時間はキッチリとチューニングをあわせて、この荒唐無稽なコメディを大いに楽しんだのだった。しかしながら、後半は複数のライターによる合議制のシナリオ会議でもはじまったのかと疑うほど、冒頭のフリーフォールにまでさかのぼって生真面目に伏線の回収をはじめだし、スタントそのものを物語の解決へと接続させて、こじんまりと優等生的に終わってしまった。おそらく極少だろう、最後まで優生的なモンティ・パイソンをつらぬいてほしかった人物には大いに不満を残したが、ライアン・ゴスリングの名前につられて劇場に来るていどの客層(オマエが言うな!)には、これで正解なのだろうと思う。

 だが、スタッフロールにあわせて「本編スタントの裏側およびNG集」が流れだしたとたん、プロジェクトA2のエンディングが脳内に併走して再生されはじめ、我が胸と目頭は自然と熱くなったのであった。斜陽産業であるところのスタントマンにあかつきの光をあてるフォール・ガイ、ジャッキー・チェンが建物の屋上から商店のせりだしルーフを突き破って落下するのに興奮をおぼえた異常性癖者の貴様らへ、nWoが自信をもって、ここにオススメするものである!

映画「プロジェクト・ヘイル・メアリー」感想

 おもにエッキスで話題のプロジェクト・ヘイル・メアリーをIMAXで見る。以下は、原作を2周読み、物語の展開と科学的ギミックの詳細について、ほぼすべておぼえている人物による感想です。小説が記憶喪失の一人称による段階的な情報開示と科学知識への興奮でストーリーを駆動したのに対して、この映画は洋楽の懐メロをふくむ多彩なBGMと宇宙空間の映像美をナラティブに変えて進行していきます。舞台は基本的に宇宙船という単一の密室ですが、原作にはなかった全天型のプロジェクターを導入したり、音波生物の主観カメラをビジュアルで見せたり、一人称の独白による状況説明は地球へのビデオレターのていをとるなど、小説を映画として成立させるためのさまざまな工夫があちこちに見られます(ロッキーが使うドーム型の歩行器って、原作にありましたっけ?)。さらに、ふだんSF映画を見ないような観客のためにBGMは、かなり意図的な「いま何が起きていて、どう感じるべきか?」を誘導する情動のガイドになっていて、すこしうっとおしいなと思う瞬間はありました。しかしながら、小型ロケットで試料を地球へと送りだすさいに、ビートルズの”Two of Us”が流れだしたときにはブワッと涙があふれましたから、単に好みの問題なのかもしれません。

 また、センス・オブ・ワンダーを喚起する科学的ギミックの数々は、短いセリフや映像であっさり処理されていきますので、原作を読んでいないと意味のわからない部分が多くあるのではないかと心配になります。ざっと思いつくだけで、固体のキセノンが通常の地球環境ではありえないとか、宇宙放射線の影響でロッキー側のクルーが全滅したとか、相対性理論を知らないので余分の燃料を積んでいたとか、タウメーバがキセノナイトの分子構造をすりぬけたとか、初見の一般人(ノット・SFマニアの意)に作中の描き方でちゃんと伝わるのかには、はなはだ疑問が残りました。小説ではロッキーにとっての「食事と排泄」が、かなりデリケートな”種の問題”として描写されていたのに、映画では一瞬のギャグシーンとしてサッと流されてしまいますし、超重力惑星であるエリドに地球の宇宙船がどう着陸したか、あるいはしなかったかについても、既存の科学知識に照らして説明できないせいなのか、残念なことにオミットされています(これは小説でも、そう)。その一方で、一人称をつらぬいたがゆえに原作ではえがくことのできなかった”エリドの反対側”の結末をわずかばかりながら見られたのーーキセノナイト製の分身を地球へと帰還させるのには、グッときたーーには、かなり溜飲の下がる感じはありました。小さく重箱のスミをつついておけば、問題が解決したことを「赤背景から黒色の染みが消滅する十数秒」にあずけるのはあっさりしすぎていて、いささか大冒険のカタルシスを減じているようには思います。

 映像化されたプロジェクト・ヘイル・メアリーを見て、あらためて気づいたのは、いちどは70億人の同胞を見すてた者が、たったひとりの異星人のために、おのが生命を投げうつ決断をしたということで、私的な”良い物語”の条件である「始まりと終わりで、主人公がまったく別の場所に立つ」を、本作は物心ともにはたしていると言えるでしょう。こういった深い感慨をいだくのと同時に、昨今の世界情勢をかんがみるにつけ、たとえ地球滅亡の危機にさらされたとして、国家の枠組みを超えた人類の共闘は決して実現しないだろうという諦観もあります。作者のアンディ・ウィアーが続編の執筆を確約したとのことですが、本作のエンディングから時系列を延伸するのではなく、この世紀の名作が語り足りていない部分を「SIDEストラット」によって補完してくれることを望みます。

ゲーム「エンドフィールド・潮起ち、故淵離る」感想

 エンドフィールド初の大型アップデートを更新分までクリア。正味のプレイタイムは5時間ほどで、ゆっくり会話や商談を楽しむためのコース料理へ饗された一品なのに、あまりのかつえからガツガツと手づかみで一瞬にたいらげてしまったことを、いまは頬を赤らめて恥じております。リリースから1ヶ月を経たいま、本作に感じている”不安点”をここに書きしるしておきましょう(”不満点”ではないことに、注意が必要です)。板垣恵介の絵柄で描かれた、勤続35年無遅刻・無欠勤系サラリーマンにとって、他のスマホゲーにくらべて重ためのデイリー消化を1日も欠かさないのはあたりまえの前提として、はたしてコツコツたくわえた素材が陳腐化しないかは、とても気になるところです。現在、キャラと武器のレベル限界突破素材は数百、帝江号の施設を強化する宇宙建材にいたっては数千の在庫があるのですが、これらを使いきる未来がまったく想像できません。今回のアップデートにおいて、アホみたいにあまる星4キャラの潜在強化アイテムに使い道が用意されたので、完全なる虚無的作業ではないーー軽快な操作感とともに、美少女キャラの臀部をながめ続けるのは、やはり楽しいーーと信じながら、どこか不安は残ります。

 また、前回の感想で申しのべた「評判のはずのストーリーがビックリするほどつまらない問題」は、今回の更新を通じてもまったく払拭されていません。中華ゲーお得意の”任侠”と”家族”をテーマにした場面の語りはさすがに心を動かされるーー捨て子であるタンタンが「大事に思ってねーなら、おくるみをリボンで飾ったりしねーよな?」みたいな、会ったこともない両親の心中を想像する独白には、ジワッと目じりに涙が浮かびましたーーのですが、ストーリー全体がキャラクターに固有の状況をあたえる目的でビルドアップされるため、動機と展開に納得感がありません(シンエヴァかよ!)。今回のメインストーリーを簡単にまとめますと、「城の輜重隊を襲撃した賊が返り討ちにあったのを何年も逆恨みしており、その復讐心に敵幹部のカヲル君がつけこんで、親族を殺された兄は悪のパワーを増幅させた」みたいな、情状酌量の余地すらない、ただの犯罪者の逆ギレなのです。おまけに、タンタンの眼帯は魔眼設定なんだろうなーと思っていたら、襲撃の晩にケガをしただけーーわざわざ争いの場に、幼な子を連れてくる意味がわからないーーだと判明します。にもかかわらず、ボス戦のムービーでは眼帯の外れた左眼が黄色いエフェクトで輝いたり、ライティング部門とゲーム制作部門の連携をうたがう、非常にチグハグした印象をあたえます。

 魔眼つながりで話を少し原神方向へ脱線させますが、両目を見ひらいたコロンビーナに「両腕をそなえたサモトラケのニケ」的な感想をいだいてしまったことを告白しておきます。つまり、人の想像力による確定しない無限の選択肢を、あるひとつの正解に押しこめられたような落胆と窮屈さを感じたのでした。話をエンドフィールドにもどしますと、「音楽が耳に残らない」という話をしましたが、今回のパートにおいて中国語の男声独唱で朗々と歌いあげる「いずみのうた」は、かなり悪めだちしているように感じました。ジャッキー・チェンでうぶ湯をつかった身に、香港映画の全盛期を彷彿とさせ、強い郷愁をさそった一方で、本邦の若いユーザーから、一種のギャグのように受けとめられないか心配になります(けっこうしつこく、何回も流れるので……)。このチョイスが正解だったのかは、のちの歴史に判断をゆだねるとして、リリース後の同時期に京劇の女性歌手を持ってきた原神の慎重な姿勢との差が、きわだつポイントだとは言えるでしょう。もしかすると、ゴリゴリの集成工業システムといい、逆張りで骨太の男っぽいセンをねらったのかもしれません。

 しかしながら、「ボーイッシュな見かけをした少女の中身が、じつは小学生男子のガキ大将」というタンタンの造詣は、リボンの騎士やラ・セーヌの星(古ッ!)につらなる由緒正しい”とりかへばや物語”になっているように思います。つどつどの表情から挙動まで、精緻にその内面を彫刻ーー他の中華ゲーと一線を画した本作の美点は、「唇の演技」にあると指摘しておきますーーすべく、ていねいに作られていて、特に帝江号での休憩中に片あぐらで座る彼女の様子には、おもに下半身へ電流が走りました。初のアップデートを通じて、エンドフィールドの正体は「金髪碧眼の超絶美少女なのに、中身は偏差値35の中国人」なのではないかという疑惑と不安は深まってきましたが、そんなことはタンタンとイヴォンヌのモデリングを前にすれば、ささいなことにすぎません。ここをアークナイツというコンテンツの終末地にしないため、みんなでプレイしよう、エンドフィールド!

ゲーム「DaibloII Resurrected: The Rise of Warlock」感想

 今年で30周年をむかえる虚構作品の公式から、突然の大量供給があり、最近はひさしぶりに寝不足の日々を過ごしておる。なに、第27話、ほんとうによかったですね、まさか「気持ち悪い」発言の真意が聞けるとは思ってもみませんでした、だと? バカモノ! 昔の男との超絶技巧なセックスによる快楽が忘れられない妻に対して、ただ回数がまさればヘコヘコ・ファックでその記憶を上書きできると信じ、腐ったアムニオティック・フルイドーー古いど(笑)ーーに限りなく透明に近いスペルマを毎夜そそぎつづける、言わば頭のQるった還暦オヤジの妄言などをオレに聞かせるではないわ! とっとと貴様はミツオ・イソやヨシユキ・サダモトにドゲザ大政奉還して、破の続きからエスエフとしてリ・リメイクしてもらえ! 今年で30周年をむかえる虚構作品からの公式供給と言えば、DaibloII Resurrected: The Rise of Warlockに決まっておろうが! Resurrected発売から5年、Lord of Destructionから数えると25年ぶりに、まさかの新クラス「ウォーロック」が、ゲーム業界における真の伝説であるところのDiabloIIに追加されたのだ!

 このクラス、初代ソーサラーと拡張キットであるヘルファイアの要素を本歌どりしながら、現在の環境へ自然になじむような絶妙の調整ーーApocalypse とか、ちょっと感動するレベルーーがなされており、金閣寺に火つけして全焼させた跡地に、3Dプリンタでプラ素材の再建立をするがごときシンエヴァとは異なって、オリジナルへのたしかな理解と尊敬、そしてなにより深い愛情を感じることができる。アイテム保管庫であるStashの仕様も抜本的に変更されており、武具箱にくわえて宝石箱とルーン箱が全キャラ共通で用意され、なんと99個までスタック可能となっている。これでもう、宝石とルーンだけをビッシリしきつめたカバンを持つ倉庫キャラを何体も作らなくてすむし、pubにpasswordつきのroomを作成して10分ほど待ち、何度か出入りして部屋が保持されたことを確認し、フロアに大量のアイテムをバラまいたあとに倉庫キャラであわててひろいにいくも、突然のサーバーダウンで全アイテムをロストする、あのヒリヒリした緊張感を2度と味わわずにすむのである。アイテム移動とセルフrushのためだけの2アカウント運用を、ここ20年ほど真剣に検討し続けている人間にとって、3千円のエキスパンション代はむしろ安すぎ、昨今の課金ゲーに対するおのれの行状を鑑みれば、最低3万円ほどは支払いたいくらいの劇的before/afterである。

 つねづね「DianloIIは資産ゲー」と放言してきたが、全キャラ共通のStashが本体の鵜匠で、各キャラが一匹の鵜であるような世界観が、今回のバージョンアップを通じてあらためて可視化されたように感じている。「新エキスパンションと称しながら、Act6の追加がない」などという浅薄な指摘を見かけたが、まさに木を見て森を見ぬ、エアプ勢による頭のQるった妄言のたぐいである。ラダー開始直後のゼロ状態から、弱い装備でも一定の火力を期待できるソーサレスで資産形成をおこなうのが25年におよぶ常道だったところに、同じく魔法を駆使するウォーロックが新たなオプションとして提示されたと言えば、カンの良い未プレイの諸賢には伝わるのではないだろうか。すなわち、この新エキスパンションは新エリアの追加などにたよらないまま、ゲーム全体の体験を更新することに成功しているのである。おまけに、雑魚からボスまでのすべてを使役の対象とするBind Demonのスキルによって、既存の地獄テーマパークをそのまま活用したポケモン要素ーーAura厳選が楽しいーーまで入ってきており、トロフィー機能であるChronicleの追加とあいまってコレクター欲を強く刺激してくる。

 とは言いながら、25年前のゲームではあるので、すべてのスキルを習得するレベル30までの道程は非常にダルく、ウォーロックによる興奮に目を輝かせてスタートした再プレイも、ACT3をソロで徒歩進行するあたりで両のマナコはにごった半びらきとなった。このままではいけないと、早々にpubのrushに乗っかってnormalとnightmareをスッとばすと、bot主催のbaalrunにもぐりこみ、レベル75で堂々hell入りーーナヴィアの「堂々ふいうち」の抑揚でーーすることとなったのは、もちろんDiabloIIのせいではなく、すべて小鳥猊下の不徳のいたすところである。ひさびさににぎわいを見せるpubの喧騒もうれしく、キャラ名Gandalfで入室したころ、”impossible, you fell!”のロールプレイから、中級ルーンでできた装備を無償で手わたされたのには、なぜかUltima Online時代の体験が思いだされ、ジンと目頭の熱くなるものがあった。そして、すべてのimmuneに対応してソロでhell進行可能なechoing strike Warlockの強さを存分に味わいながらも、やはり少年ジャンプ黄金世代の人間としては、「爆炎の魔術師」をやりたくなってくるわけである。たしか、immuneを無効化するcharmがあったなとwikiを調べると、本バージョンにおいて大幅にその入手難度があがったと書いてある。100時間で期待値1個、おまけに効果6種類からのランダムドロップになっていて、いよいよDiabloIIは500年を生きる長命種むけのゲームになってきたなと、絶望しておる次第である。

 おまけに、DiabloII沼はハマると首まで浸かって出られなくなるため、エンドフィールドの重すぎるデイリーのことを考え、今回のラダーはウォーロックだけに注力しようと浅瀬でパチャパチャやっていたはずが、Titan’s RevengeとThe Oculusが続けざまにドロップし、投げアマとMFソサを作るためにpubのrush部屋を探してさまよっているという……DiabloII、文字通り悪魔のゲームやで!

映画「超かぐや姫!」感想

 直近の体験から、アニメをわざわざ映画館で鑑賞する意義を感じられなくなっていたのと、ステレオ音声のみの上映であるようなので、話題作の「超かぐや姫!」を自宅テレビのネトフリで見る。色彩とアニメーションの洪水みたいな作品で、静止画ではカエルみたいにうつるだろう作画の崩し方など、「造形の端正さ」というより「動きの楽しさ」を優先して作られている気がしました。ライバー、Vチューバー、ボーカロイド、VRチャット、原神、エーペックスなど、10代と20代の若者に刺さる要素を、たがいの相性を考慮せず闇鍋のごとくほうりこんでいるのに、かぐや姫という古典の大筋があるので、ほとんどカーブのさいに片輪が浮くほどの暴走をしながら、なんとか最後まで物語の線路上を走りきった印象です。もともと、全12話のシリーズで企画されていたようで、中盤の長すぎるモンハンみたいなリーグ・オブ・レジェンズは映画的な構成を阻害しているし、唐突な実兄の登場や解消されない母との葛藤も、尺の都合で満足に掘りさげられません。馬齢を重ねたせいでしょう、特に京言葉をあやつる母親のあつかいは不当にひどいと思いました。はやくに夫を亡くして女手ひとつで兄妹を育ててきたのに、2人ともが感謝もなく後ろ足で砂をかけるように家を出て、上京してしまうーーもっと巧妙に、反抗も逃亡もできないよう子どもを縛る親はいくらでもいる中で、「親を一個の人間として理解する」段階が描かれなかったのは、いち観客として拒絶されているように感じました。そもそも「親との葛藤」というのが、近年の家庭をえがくさいのテーマとして古くなっている可能性があり、「両親ともに死別か海外出張」ぐらいにしておいたほうが、よけいな雑味なくスッキリ見られたのではないでしょうか。

 話を物語の本筋へもどしますと、「定型発達の生真面目な主人公が、ADHD傾向のある奔放なヒロインにふりまわされるうち、心のカラがやぶれて内面の葛藤がほぐれる」という展開こそ、古い王道のボーイ・ミーツ・ガールですが、少女どうしでこれをやるのは、現代の世相を強く反映しているように感じます。すなわち、女性だけでなく男性にとってさえ、いまや”性欲”が邪魔なものになってきているということです。肩をはだけヘソをだし、肌もあらわな女性のルックスは、「かわいい」「きれい」「かっこいい」と感じなければならないもので、万が一にも男性器を勃起させるニュアンスをはらんではなりません。ホヨバを代表とする大陸のゲーム群では、「当局の検閲をくぐりぬける」という究極の一点から、意識レベルでの徹底的な性欲のオミットを実現しているのに対して、それに影響を受けた本邦の新しいフィクションにおいて、”性嫌悪”に近いものへ変奏されてしまうのは、じつに不思議なことです。「セックスもしくは類似行為による身体性の回復」は、ジュブナイル作品にとって重要なプロセスのひとつだと信じておりますが、本作ではその位置に「味がする/しない」を代入したのは、きわめて巧妙な手口だと思いました。物語の終盤で、とても令和のフィクションっぽいなと感じたのは、「6000年の経過に魂だけとなった存在を受肉させる」ことに東大リケジョ(笑)のハイキャリアをすべて捧げる展開で、おのれの能力を「世界をより良い場所にすること」や「人類の未来に貢献すること」に使うほうが、よほど荒唐無稽な”つくりごと”で、いまや「気のおけない友人と再会し、笑いあうこと」こそが、若い世代にとって身の丈のリアルなんだろうと考えさせられてしまいました。

 昭和のフィクションなら、「別離の痛みによる成長」とか「再会の瞬間が別れのとき」みたいなビターエンドを持ってきそうなところに、「味蕾をそなえた完璧な素体を完成させ、バーチャル空間で魂のデジタルコピーが実現し、未熟と成熟と不死を総どりしながら、イツメンのライブで大盛りあがり」という悲しみも喪失も、そして成長さえもすべて拒絶したウルトラハッピーエンドになるのは、虚構の持つ願望充足の機能をフル活用していて、いっそ清々しささえ感じます。この映画のターゲット世代が、はたして10年後、20年後に同じ結論を保持していられるかに興味はつきませんが、我々の世代とまじわりのない人生たちの様相に、ロートルからとやかくは言いますまい(言ってる)。いにしえの「ロトンひつじみず」に代表される社会的抑圧を通過してきた身にとって、本作における「友人を出産する無痛分娩」に類するドリームが、外的な要請のいっさいをはねのけて個人の願いをつらぬきとおす新たな希望なのか、児相やらコンプラやらハラスメントやらでがんじがらめにされて、大人が若者にさわれなくなった結果の暴走なのかは、いずれ時間の経過が判断してくれることでしょう……などと視聴中は終始、冷笑的な態度をつらぬいていたのですが、エンディングで初音ミクのメルトが流れた瞬間、眼球の基底部から水平に涙がビュッといきおいよくとびだし、そこからは画面がにじんで見えないほどの大号泣となり、「超かぐや姫!」全体への印象をさかのぼって永久に上書きしました。個人的に、「テキストと画像」から「音楽と動画」へと移行する過渡期の、古いワールド・ワイド・ウェブの消失と新たなインターネットの台頭を象徴するような曲でーー当時なんどもリピートしていたこととあいまって、「完全に正常な外殻をそなえているのに、内面の苦しみがいつまでも消えない」という、生活にひもづいた玄妙なる感情をふいによびさまされたからです。この映画を、葛藤とは遠い場所で楽しむ10代、20代の若者たちは、「超かぐや姫!」というタイムカプセルに、どんな記憶と感情をあずけるのでしょうか。

アニメ「エヴァンゲリオン放送30周年記念特別興行」感想

質問:猊下におかれましてはこちら、ご覧になりましたか?ぜひご感想を拝読したく思います。

回答:動画流出の経緯について、横目にながめてはいましたが、自分で検索してまで見る気はなかったので、存在しないはずの機会をあたえてくださったことに、まずは感謝を申し上げます。情報統制への偏執狂的なこだわりから、鎮圧へやっきになるのと、それに続く対応の大失敗までをふくめて、じつにQアンノらしい、ドタバタの狂騒曲だなと思いました。つくづくエヴァというコンテンツは、新劇が後半2作でサイファイの線路を外れて私小説へと大脱線した結果、この還暦オヤジによる執拗かつ無意識の”萌え仕草”ーーあーん、ばかばかぁ、ウッカリ弊社スタッフがgoogleドライブをハッカーどもに開陳しちゃったよう(泣)! でもでもぉ、ひらめいたぞぅ、よぉし、わざわい転じて福となぁす(嬉)! 全世界のファンに無料で動画をプレゼントしちゃうぞぉ(驚)!ーーを好ましいと感じられるかどうかに、すべての評価軸をひもづけられてしまったなと、深いため息がでます。今回の特別興行を見て、まっさきに頭に浮かんだのは、1996年発売のCDに収録されていたボイスドラマ「終局の続き」で、いまだDAICONフィルムの延長線上にある”昭和の悪ノリ”を令和の御代において目の当たりにするのは、なつかしいというより、車酔いのようなめまいをともなうタイムスリップ感でした。パロディ時空で物語の本筋がないせいか、シンエヴァよりはキャラの本質を壊さず寄りそおうとする姿勢はありましたし、「甘き死よ、来たれ」のイントロにあわせた「アイノウ……」「オマエが歌うんかい!」という、浜ちゃんを彷彿とさせるベタなツッコミには、ほとんど展開がわかっていたにもかかわらず、思わずクスッと笑ってしまいました。しかしながら、テレビ版の企画書にのみ名を残す最終話タイトル「たったひとつの冴えたやりかた」という、冷蔵庫に残された最後の大ネタをギャグ短編で消費したのは、すべての人間的な救済を拒否して「これからも戦いつづける」宣言をQアンノに強制されてしまったアスカとあいまって、エヴァンゲリオン霊感商法の新たなステージが到来することを、ひしひしと予感させられるものでした。先日、監督をたがえたネクスト・エヴァが発表されたようですが、またぞろ、なんらかの形でアスカを再登板させそうな気配がただよってきているように思います。いちばん強いのは、「もう商売のために、旧劇と新劇を無理矢理つなげるのはやめてほしいな」という気持ちで、28年と7ヶ月半前に埋葬された彼女の遺体を二度目の墓荒らしの憂き目にあわさず、ただただ偉大なツンデ霊廟(笑)としてあがめたてまつり、そっと放置しておいてくれることを、かつてのファンとして心から願うものです。

ゲーム「ドラクエ7リイマジンド感想(クリア後)

 ゲーム「ドラクエ7リイマジンド」感想(クリア前)

 ドラクエ7リイマジンド、結局あれから本編をクリアして、プラチナトロフィーの一歩手前、DLCの三魔王をたおすところまでプレイしました。この転機がおとずれた経緯を説明しますと、かしこいAIがどんな局面だろうと打開してボスをたおしてしまうため、次第に魔王軍のほうへ感情移入するようになり、「たのむ、だれか勇者パーティを殺してくれ!」と追いつめられた敵幹部みたいな思考になっていったのです。その願いもむなしく、すべてのボスは勇者たちのまえに散華し、ほとんど絶望しながら2回目のオルゴ・デミーラにいどんだところ、なんと第4形態のマダンテ2発で勇者パーティはゲーム全編を通じて、初の全滅をとげたのでした! これには思わず椅子から立ちあがり、夜中にもかかわらず「やったー!」と心からの絶叫がほとばしったほどです(駆けてくる家人の足音)。そこからは、「くっそー、魔王めー」とようやく勇者としての主体を回復し、とりこぼしたアイテムをあつめ、装備や職業のシナジーを吟味し、ようやく手動の戦闘でレベリングを行いました。30時間が経過するまで気づいていなかったのですが、今回の転職システムは6以降の累積型ではなく、メインとサブにつけたジョブの魔法と特技のみアンロックされるFF11方式だとわかり、かなり印象は好転したことをお伝えしておきます。そうしてラスボスをたおし、異世界で神さまをたおし、さらなる異世界で神さまと4精霊をたおすまでの10時間弱は、過去のドラクエ体験の中でも、最高の記憶のひとつとなりました。特に、神さまと4精霊のバトルは極限の死闘で、4精霊をしりぞけ、神さまひとりを赤ネームまで追いつめた段階でMPはほぼ枯渇し、イオグランデとマヒャデドスの連発で生き残っているのは、これまた赤ネームのガボのみとなり、ザオリクでたてなおすか攻撃するかをゆうに5分ほどは悩み、ええい、ままよとくりだした”ばくれつけん”がすべて一桁台のカスダメだったにもかかわらず、神さまのHPを削りきった瞬間、夜中にもかかわらず「やったー!」と心からの絶叫がほとばしったほどです(再び、駆けてくる家人の足音)。ちなみに、そこから挑戦したDLCの三魔王は、”かみさまの心”を悪用した「ルカニ、バイキルト、マッスルダンス、ぶんしん、ばくれつけん」でいずれも瞬殺でしたので、特に感慨をいだくいとまはございませんでした。

 そして、新規層の流入を企図すべく、ここまでをマラカス両手のユルいラテン系なノリでバランス調整してきたくせに、プラチナトロフィーを目前にして、ちいさなメダルとラッキーパネルが黒縁メガネをかけた神経症の青白い日本人ーー名前は雨宮賢ーーとして立ちはだかってきたのです。「過去と未来の双方にちりばめられた100枚のメダルを、1枚の取りこぼしもなく集める」というタスクは、宝箱をいくつかとりのがしても探索率100%を達成できる原神を経験したあとでは、パワハラまがいの異常な作業としか思えません。他人のチェックリストと首っぴきでメダルのとりのがしをつぶしていくのですが、フラグ管理の都合から過去世界へのルーラがきかず、いちいち石板まで走らされるのは心底ゲンナリで、最悪の仕様だと感じました。そして、最後の最後で番町皿屋敷ばりに「いちまぁい、足りなぁい」となったときには、夜中にもかかわらず心からの絶叫ががほとばしったほどです(三たび、駆けてくる家人の足音)。また、昨今の事件からコンプラ的にまずいと思ったのでしょう、カジノがまるまる削除されており、代わりに入れられたラッキーパネルなる遊戯が、これまた最悪に輪をかけたミニゲームになっているのでした。簡単に説明すれば、「シャッフルありの神経衰弱」なのですが、最高難度の24枚なんて初見の数秒で記憶できるわけありません。まあ、「できる」と強く信じている全人類の上位数%に位置する知能の持ち主がこれを考案した可能性は否定できませんが、本邦のゲーム制作者たちは半島や中華のゲームがなぜいま、これだけ広範な地域と人種に受け入れられているかを、いまいちど真剣に分析して学ぶべきでしょうね。崩壊スターレイルのミニゲームは「知育玩具」などと揶揄されますが、ここから全世界のゲームプレイヤーの平均知能が、本邦のそれよりもずっと低い位置にあることを読みとらなくてはなりません。それにくらべて、ラッキーパネルの知的負荷はあまりに強すぎ、「もっとアホにむかって作れよ! 本編の戦闘バランスは、まちがいなくバカ専用(笑)なんだから、できるだろ!」という気持ちにさせられます。結局、ケイタイで撮影した動画を見ながらカードをめくるハメになるわけですが、クリアできたとして入手できるレアアイテムはランダムになっていて、コンプリートまでに必要な試行回数を想像するだけでイヤ気がさして、早々に断念しました。

 「メダル100枚」と「全アイテム入手」のトロフィー”以外”を獲得したところで、7リイマジンドの冒険はこれにて終了とさせていただきます。いまの胸中をたとえ話でお伝えさせいただくと、「シャトーブリアンをジュウジュウにウェルダンで焼いたあと、ローストビーフみたいに薄切りにしたものへ、ケチャップとマスタードをドバドバにかけて完食した」ような気分で、そのステーキハウスからの帰路、友人たちと爪楊枝でシーハーゆわせながら、「まずくはなかったけど、2度と行かねーかな」と野卑に笑いあっている感じと表現できるでしょう。全体的に、例の「マル、三角、四角、長方形、平行四辺形などにくり抜かれたフタの穴へ、形のあう積み木を入れさせることを意図した知育玩具なのに、マルの直径が大きすぎるため、すべての積み木をマルから入れられてしまうのをなげく、オモチャ製作者の動画」みたいなゲームでした。おわり。

ゲーム「崩壊スターレイル・月満ちる時に神はなし」感想

 崩壊スターレイルのバージョン4.0「月満ちる時に神はなし」を実装部分までクリア。今回の舞台について簡単にまとめると、「1999年の日本を下敷きとした二次元パラダイス」であり、江戸星などの既出ワードから原神における稲妻のような世界を予想していたので、かなり意表をつかれました。おそらく、昨今の二国間の情勢に影響されたのでしょう、「無国籍なアジア地域の繁華街」と強弁できなくもない街並みになっているのには、ある種の配慮を感じます。余談ながら、原神に右のボール、スターレイルに左のボール、エンドフィールドに中央のスティックをつかまれている身にとって、希少土などよりもよほど供給を止められてはこまる産業ですので、いちオタクとして早期の関係回復を切にいのるものです。当局に目をつけられるかどうかのラインで”反体制”をしのばせてくるライティングは健在で、突如として「世界が滅びようってときに、お上にいったいなにができるっていうの?」みたいな中共へのビーンボールが顔面スレスレにとんできたりして、喝采より先に心配がきました。鴨川をモジった”鳩川”なる地名がサラリと提示されることからも、この街を前世紀末の京都に見立てていることは確定的にあきらかで、もしかすると制作サイドに本邦への留学経験のある「学生さん」か「同やん」がいるのかもしれません(「立ちゃん」は、鴨川に思い入れなんてないでしょう)。以前にもお伝えしたように、学生時代は四条河原町あたりでのたくる日々を送っており、ゲーム内の光景に「川をはさんだ街並み」以外の共通点はないはずなのに、どこかなつかしさをくすぐられるのは、じつに不思議な感覚でした。「オンパロスという一大叙事詩のあとに、なにを持ってこられても、格落ちにしかならんよなー」とヘラヘラ笑っていたところへ、「おのれの過去の情動とヒモづいた、他国から見る特定地域の魅力」みたいなものを正面からぶつけられて、すこし動揺してしまったのは否定できません。

 さらに、マップ移動には土管を起点とする、スーパーマリオをオマージュした、横スクロールの8ビット・ワールドが用意されていて、ブラウン管につながれたファミコンの前にすわる小学生の自分が、エロゲー全盛期にむかえる大学生活を先どりして体験しているような、じつに倒錯した気持ちになりました。また、大好きなキャラ造詣でありながら、ピノコニーでは悪役としてイマイチ不完全燃焼だった花火たんに、あらためてスポットライトが当たったのもうれしく、彼女とウリふたつのライバーである火花たんとの実存をめぐるやりとりは、いちテキストサイト運営者として感じいるものがありました。特に、「1万人の仮面を演じることのできる役者は、はたして最初の人格をおぼえていられるか?」という問いかけは、1999年1月10日にインターネットへ投下されたnWo最初の記事を読みかえすとき、「これを書いたのは、いったいどんなヤツなんだ?」と首をかしげる人物にむけた虚構耽溺者の掘りさげとしては、”かいしんいちげき“クラスの中身だったと言えましょう。そのあとにつづく、「ベッドの上で金縛りに身動きがとれず、人格排泄ボタンを押さないよう懇願する少女」の有り様には、「爬虫類の表皮と同じヌメヌメとした質感をした、忘却のうちにあった小昏い性癖」を刺激され、いまや得体の知れぬ反社会的な衝動に、ひどく動揺させられたことを告白しておきます。

 バージョン4.0の結末において、本邦の公立高校を思わせるあかねさす教室で、たがいにたがいをずっと昔に死んだはずだと信じる父娘が、「おまえはだれだ?」と誰何しあう場面で幕を閉じたのは、前世紀末に隆盛をきわめた「雫」「痕」「久遠の絆」などに代表される伝奇ノベルゲーへの強い目くばせがあり、瞬間、1990年代のフィクションがまとっていた独特な空気感の中へ、あたかもタイムスリップしたかのようでした。虚構内ニュース番組で初代Fateについてパロディめいた言及などもあったり、オンパロスの重厚さとはまったく異なったアプローチながら、自分自身が過去に通過した現実と虚構、双方の遍歴と密接にからみあうような物語体験になっていて、いまは今後の展開へ期待と恐れを半々にいだいております。もう幾度目になるかわからない、「どうして我々がうみだすべきだった物語が、我々とはちがう場所から、世界にむけて問われているのだろうか……」という重たい嘆息とともに、このテキストを閉じることといたします。

ゲーム「ドラクエ7リイマジンド」感想

 ドラクエ7リイマジンドを20時間ほどプレイ。まず、プレステ1で発売されたオリジナルについて、ザッとおさらいしておくと、「もっとも制作期間の長い、もっとも売れた、もっともつまらないドラクエ」だったと言えるでしょう。エフエフの同ナンバリングが、クリエイターの交代による新生を印象づけたのに対して、おそらく「大人のドラクエ」としての脱皮をめざした結果、本来のはつらつとしたユーモアをうしなって、「ギリシャ悲劇小品集」のような、鬱々たるぎこちないパッチワーク的な連作に堕してしまったのです。この時期のホーリー遊児はスランプに陥っていたか、もしかすると心を病んでいたのかもしれません。5年にもおよぶ、遅々として進まない制作状況に対して、当時のメインプログラマーがどこかの酒場で、他社の人間から「おまえがしっかりしなきゃダメだろ」と叱咤されたという話が、いまに伝わっているほどです。クリアまで70時間はゆうに越える、ディスク4枚にわたるウンザリするようなこの超大作は、「いつまでもいつまでも延々と終わらないプロローグ」「バイカル湖の底みたいな不気味の谷そのもののムービー」「回転機能を悪用して建物の死角に配された見つからない石版」「長時間プレイを続けると熱暴走のハングアップで進行不能」など、ある才能の枯渇とシリーズの終焉を印象づけるような、まったくひどい製品でした。これを書いているのは、6から導入された全職業の魔法や特技が累積する転職システムこそ、ドラクエを壊したガンであると断ずる「ドラクエは5まで派」であり、7のことは「アスカの原型となったマリベルを生んだ以外に、見るべきところはなにひとつない、古めかしい凡作」としかとらえていません。これ以降、「レベルファイブの助力を得てすこしだけ持ちなおした原点回帰の8」「キャバ穣への偏愛をダイレクトに出力した”エッチな大人の”9」「結果としてシリーズに大停滞をもたらして新規層の流入を途絶えさせた10」と続いたことをふりかえると、やはり7はドラクエにとって、大きな負のターニングポイントだったと言えるかもしれません。

 さて、ようやくリイマジンドの話にはいりますと、鳥山明のデザインをほぼ完璧に3D化した”ドールルック”なる見た目は、ドラクエ世界の表現として100点満点の完全な正解をだしていて、今後のリメイクは珍奇なる”HD2D“という不出来の赤点をすべて棄却し、この形式でデータを蓄積したものを使いまわしていくべきだと感じました。UIも従来のドラクエからガラッと変えてきていて、少ないボタン数で快適かつ直感的に操作できるし、近年の海外ゲーで不満をおぼえがちな「フォントがダサすぎる問題」も、ドールルックにフィットするハイセンスな選択がなされていて、非常に好印象です。敵味方ともにこれでもかとアニメーションするにもかかわらず、戦闘のテンポはとても軽快で、ストーリーの誘導も適時適切におこなわれ、オリジナルにあった「石板を探して数時間をさまよう」などという事態は、ぜったいに起こりません。にもかかわらず、神さまを解放したあたりで、もう3日ほどプレイが停滞しているのです(余談ながら、オリジナルにおける神さまの登場は、ナディアのネオ皇帝回のように、世界中の空へ同時出現する演出だったのが、本作では室内でのできごとに矮小化されていて、ガッカリしました)。すべてのマップはあらかじめ開示され、次の目的地は一直線にしめされて迷うことはなく、戦闘はかしこいAIが”バッチリ”雑魚からボスまでを完封し、適正レベルを越えると棒ふりでモンスターは一蹴でき、ふんだんに用意された女神像はMPを管理する手間をはぶいてくれ、プレイヤーは新たな町に着くたびにタンス開けとツボ割りとテキストを読む作業だけしていれば、あとはゲームの側がすべて遺漏なくやってくれます。

 この違和感をたとえばなしでお伝えすると、毎晩を店にかよって高級シャンパンを入れ、心から相手に寄りそって尽くしているのに、ホストからは裏で邪険にあつかわれる女性事務員みたいなものだと表現できるでしょう。エンドフィールドが数時間もしがみつづけて、ようやく陶然となる味のしみだしてくる熟成ジャーキーだとしたら、7リイマジンドは米粒のよく砕けた中華がゆであり、さらに言えば咀嚼の必要ない流動食であり、もっと言えばアゴさえ使わずにすむ栄養剤の点滴であり、最悪もしかすると、嚥下の衰えた者にする胃ろうみたいなゲームなのです。難易度は3段階どころか、モンスターの強さから獲得する経験値とゴールドの多寡まで細かく調整することができ、しつこくステーキハウスでもたとえておくなら、立地よし、門がまえよし、内装よし、接客よし、テーブルに案内され、調度品よし、カトラリーよし、大ぶりな皿の上には生のシャトーブリアンがのっていて、なぜかそれを持って厨房へ移動するよううながされる。案内されたピカピカのキッチンには、考えられるかぎりの調味料や副菜が用意されており、「調味から焼き加減からサイドメニューまで、すべてお客様ご自身でご自由にお選びいただくことができます」と、うやうやしく告げられるーーオイ、プロの矜持をかなぐりすてて、プロのスキルや責任までを客にあずけてんじゃねえぞ! オマエは席まで人間が誘導しておきながら、スマホで注文させる飲食店かよ! けったくそわりい、ミスや不快の責任をすべて客に押しつけるのは、サービスとは言わねーんだよ!

 ドールサイズに縮小された細ぎれのフィールドに探索要素はほとんどなく、体験版で期待したような物語の分岐も用意されておらず、導入時の好印象は時間の経過とともに薄れてゆき、最後はゲームをしているのにすこしも楽しくなくなり、なんども寝落ちにコントローラーを取りおとすところまでいきます。いまはオリジナル版の悪癖である「同じマップを再利用したプレイ時間の引きのばし」の最たる「四大精霊をたおせ!」という展開をむかえており、「だっるッ!」とさけんだところに崩壊スターレイルのバージョン4.0がやってきたため、エンドフィールドの重めなデイリー消化とあいまって、ドラクエなのにクリアまでいたらない可能性さえ出てきました。数だけはムダに多い氷河期世代の現在を慰撫する過去の郷愁のみで、いい加減なリメイクが売れつづけてきたドラクエシリーズは、ポケモンのようには新しい世代へ浸透せず、われわれの退場とともに消えゆくさだめなのかもしれません。だって、この冒険感ゼロのベルトコンベアーみたいな作業、ほんとうにつまんないんだもん!

映画「閃光のハサウェイ・キルケーの魔女」感想

 閃光のハサウェイ・キルケーの魔女をIMAXで視聴。配信で見た前作の「ガンダムっぽくなさ」が気に入っており、次作は必ず劇場で見ると決めていたのです。あいかわらず「アニメを実写の手法で撮影する」ことを徹底していて、「室内にはためく厚手のカーテン」「真昼の陽光に照らされた滑走路」「日没の夕闇に沈む大都市」など、アニメか現実か見分けのつかないハイパーリアルな背景とともに、基本的に引いたカメラで撮影はなされてゆきます。演出のつけ方も、「塩をおさえ、素材の味を出汁のうまみで食わせる割烹料理」といった淡麗さで、場面転換は特に強調されずスッと行われるため、前作を数年前にいちど見たきりで、人名・地名・組織名の予備知識がほぼゼロである人物には、「いつ」「どこで」「だれが」「なにを」しているのかが非常にわかりにくく、くわえてみなさまのご指摘どおり、光源のない屋内や夜の場面が異様に暗く設定されていて、IMAXシアターであるにも関わらず人物の描線さえ視認できず、眠気を追いはらうためにシート上でなんども身じろぎしたほどです。前作では気にならなかったのですが、作戦室?のドアと窓をていねいに閉める描写など、演出意図の不明な部分も散見され、とつぜん走りだしたハサウェイをきっかけに音楽が流れはじめ、元カノとのなれそめが新海誠みたいな映像でフラッシュバックするのには、思わず笑ってしまいました。その一方で、必要と思える描写が多く削られていて、視聴後にエッキスでおっぱい艦長は戦死しているとの指摘を目にしたとき、「ええッ!! どこで!?」という声が大きめにほとばしったほどです。

 100分ちかくある上映時間のうち、80分ほどはひどく退屈で、なんども睡魔におそわれかけたのですが、終盤、突如として逆襲のシャアの映像がインサートされた瞬間から、モノトーンだった視界は物語全体に遡及してフルカラーとなり、理解不能だったハサウェイという男の人格と葛藤が立体化して、生々しく眼前にせまりはじめます。たとえるなら、淡麗割烹の板前がコースの終わりにやおらカウンターの上に土足で立ちあがり、白い調理服を脱ぎすてた下には隆々たる体躯をトゲつきの革ジャンがつつんでいて、岩塩とコショウをガリガリにすりこんだ牛肉のブッ刺されたBBQの鉄ぐしをバルログみたいに眼前へクロスさせたかと思うと、モウモウたる煙の中でジュウジュウに焼きはじめ、最後はたっぷりと特製特濃ソースにひたして手わたしてきたようなもので、「まあ、和食だし、こんなもんか」と内心でごちながら黙ってカウンターに座っていた客たちは、いまや滂沱の涙を流しながら、「あ、あじッ、味がするッ!! これッ、すッごく、味がしますゥ!!!」と牛肉串にむしゃぶりつく。忘我の賞味を終え、みながハッとわれにかえると、板前はなにごともなかったかのように、元の白い調理服を着てしずかに包丁を研いでおり、ほおに残る涙のあととソースで汚れた口元だけが、異常な”おもてなし”の行われた証拠として残るーーそんな体験でした。全体的にガンダムファンのための映画ですし、本作を激賞しているのはガンダムファンですし、本作の興収を押しあげているのもガンダムファンですし、ガンダム要素ぬきに単体の映画として自立する感じは、まったくしません。

 個人的には前作の流れから、ガンダムの皮をかぶった現代の若きテロリストの話を期待していたのが、結局のところ、現代の若きテロリストの皮をかぶったガンダムの話だったので、すこしガッカリしました。なぜ、これを作るのに5年もかかるのかはサッパリわかりませんが、おそらく乗りかかった船として、3作目も劇場に足を運ぶことになるでしょう。もちろん、ガンダムに興味がわいたからではなく、ただひたすらにエロかわカッコいいギギ・アンダルシアの肢体をながめにいくためです。あと、みなさん、「おっぱい、おっぱい」「肉欲、肉欲」と、ハサウェイを揶揄して大よろこびの様子ですが、正確には「肉欲と世俗を断ちきる」と言っており、仏教的な意味での”現世への執着”をあらわしているように思います。もしかすると、母親が日本人であることに影響されているのかもしれませんね。