猫を起こさないように
年: <span>2025年</span>
年: 2025年

漫画「ダイヤモンドの功罪(7巻まで)」感想

 「巨人・大鵬・卵焼き」世代の父親は、息子が小学校にあがると、”とりあえず”近所の少年野球団やリトルリーグへ入れるものです。当時の土曜日は半ドンで授業があったものですから、その少年は毎週の貴重な日曜日を野球の練習に費やすハメになります。入団初期の歓待の季節が終わり、様々なポジションをたらい回しにされるうち、周囲の失望がつのっていくのを肌で感じながら、辞めるという選択肢はあらかじめ封じられています。そうして、「親の好きなものを子は嫌いになり、親の嫌いなものを子は好きになる」の法則どおり、野球を心の底から憎む人間の”いっちょあがり”ーーいやだなあ、ぜんぶ一般論ですよ!ーーとなるのです。野球をめぐる今昔の印象を述べておくと、ダラダラとゴールデンタイムを2時間も3時間も占有していた野球中継が地上波から消滅したのは人類の叡智を証明するものですが、オータニ・ハラスメントなる言葉を生むほど加熱したMLB報道はメディアの不明と変化できなさを如実に表していると感じています。ともあれ、昭和時代に幼少期を過ごしただれかは、野球なる遊戯に対してなんらかの態度を表明せねばならず、ほがらかな無関心でいることは、けっしてゆるされなかったのです。そんなわけで、きょうはウッカリ読んでしまった「ダイヤモンドの功罪」について、旗色を鮮明にしなくてはなりません。ちなみに、野球漫画の体験の更新としては、キャプテン以来となります(タッチは恋愛漫画なので、ノーカン)。

 温泉とサウナと漫画喫茶が複合したような施設でこのタイトルを見かけ、以前にエスエヌエスで1話が話題になっていたのを思いだしたことと、トラウマのカサブタをはがして血がにじむのを見たいという被虐の欲望から、1巻を手にとったのが運の尽きでした。帰宅後、すぐさま既刊全巻を一括購入して読破した結論から言えば、本作はまぎれもない”ホンモノ”であり、過去の古傷からの大量出血であやうく死んでしまうところでした。フィクションの筋書きが出つくして飽和状態をむかえている現在、まだこんな鉱脈が残されていたのかと、感心することしきりです。ダイヤモンドの功罪を低級なほうの虚構で例えれば、「大人がしっかり描けていて、不幸が予定調和的ではない、タコピーの原罪」であり、高級なほうの虚構で例えれば、「今西良が持つ人を狂わせる妖艶な魅力を、野球の才能へと置換した、真夜中の天使」とでもなるでしょうか。本作に描かれる様々な感情は、どれもじつにヤオイ小説的であり、かつて小説道場で栗本薫を狂喜させた”おすもうJUNE”ーー関取どうしの男色モノで、セックスの2回戦を「2番もあるんだぜ」と表現ーーがなぜか脳裏をよぎりました。けっして上手な漫画とは言えず、人物の描きわけも髪型と髪色と虹彩だけなのでたいそう混乱するし、構成やコマ割りにとくだん目を引くものがあるわけでもありません。ただ、才能の魔性に魅了されて狂っていく大人たちと、その熱病にあてられて関係性を壊されていく子どもたちの心理描写が、おそろしいほど真に迫っているのです。

 特に、U-12日本代表のセレクションへ無断で動画を送りつけた少年野球の監督との車中におけるやり取りは、いまだおのれの魅力に気づかぬ無垢なる少年と、狡猾な野獣と化した大人との間にある淫靡な力関係が濡れ濡れと匂いたっていて、あまりのエロティックさに背筋へ電流が走りました。それに続く、元プロ野球選手のコーチが圧倒的な才能を前に我が子への興味を失い、息子に野球の才能が無いのは「不倫の托卵」だからではないかと妻に言い放つのを、本人が部屋で聞いてしまう場面は、かつてヤオイ小説と呼ばれたボーイズラブに描かれていた、文学的深淵と同じ領域にまで達しています。本作に遭遇してしまったことで、「野球の才能を見限られ、両親の関心が他のきょうだいに移った瞬間」や「野球の得意な友人と自分の父親が、楽しそうにキャッチボールをする光景」が記憶の底から数十年ぶりによみがえり、おのれのうちにまだ残されていた「かわいそうな子ども」を発見して、嗚咽をともなうほどの大泣きをしてしまいました。この作者はたぶん女性で、「野球狂いの父親の影響を直接には受けず、兄か弟の野球遍歴を客観的に見つめることができた」というバックグラウンドを持っているような気がします。本編もそうですが、単行本のオマケ漫画のワチャワチャした感じが、男性作家では表現できない読み味になっているからです。社会通念に由来する読者からの根づよい偏見を避けるため、「つるまいかだ」や「平井大橋」などのジェンダーレスなペンネームを使いながら、かつてはBLや少女漫画がオハコとしていた細密な心理描写を少年誌や一般誌で再現するーーメダリストに続き本作にふれて、少女漫画は衰退したのではなく、新たな大地に種をまいて、新たな生命を芽ぶかせ、その歴史的な役割を終えたのだなと強く感じました。

 今後のストーリーですが、デビュー作や読み切りで描かれた未来の時間軸へ合流していくと仮定するならば、「綾瀬川が野球を辞める区切りと決めた試合において、大和くんがことごとく彼からホームランを打ち、野球を続けざるをえなくなる」という展開になるのでしょうか(さらに時間が進めば、ネタバレを避けて言うなら、フィールド・オブ・ドリームスになる)。いずれにせよ、作者はおそらく女性であり、心理描写が少女漫画の文法に沿っていて、突発の男性的な衝動によって物語や主人公を壊される(シンエヴァ!)心配がないのは、大きな安心材料だと言えるでしょう。ダイヤモンドの功罪の作者が、例えば新井英樹ではなくて、本当によかったですね! もしそうなら、タコピーのハイパー・アッパー・バージョンな「予定調和の不幸」で綾瀬川の野球の才能を、彼の人生ごとグッチャグチャにしたでしょうから(RINを想起)! あと、関西弁が関西人から見ても自然なのは好印象で、アニメ化のさいはキチンとネイティブ・オオサカン、あるいは子役をゼロからオーディションしてキンキィ・キッズーーやだなあ、「近畿地方の子どもたち」って意味ですよ!ーーをそろえてほしいと思いました。

雑文「少女漫画について」

質問:小鳥猊下は少女漫画に詳しいように思います。ぜひ語っているところを見たいものです

回答:栗本薫の薫陶ーー薫の薫(笑)ーーを受けて、ヤオイ小説と少女漫画を読みはじめた人物であり、いずれもが純粋に少女をターゲットにしていた時代に、強い郷愁を抱いております。思いつくままに作家名をならべてゆきますと、竹宮恵子、萩尾望都、吉田秋生、清水玲子、日渡早紀、成田美名子、川原泉、明智抄あたりの作品を愛読してきたぐらいの、きわめてライトなジャンル・フォロワーにすぎません。いにしえの感覚から「赤白青の帯が表紙にあるものは、すべて少女漫画」ぐらいでいましたが、令和の御世において少女漫画なるカテゴリはBLとマージして、ほぼ消滅してしまっているように思います。栗本薫が一瞬だけ復活させた小説道場・ご隠居編において、幾度も「ハーレクインあまあまらぶらぶセックス」なる言葉で揶揄されていたように、欠損家庭に由来する思春期の少女の自己不全感を、繁殖の不可能性から社会に拒絶される「男と男の性愛」に仮託した、切実な魂の救済だった物語類型が消滅した結果、BLと少女漫画のあいだに明確に存在していた隔壁が無くなり、「男と女」に置換しても特段に支障の無いドぎつい性欲ベースの作品群が、すべての年齢層をひとからげにした「女性向け」として、いまや市場の主流となってしまっています(かろうじてそうでないものも、少年漫画の設定やストーリーを少女にすげかえただけにしか見えません)。本来なら、「推しの子」や「メダリスト」は白泉社レーベルで発掘されて、少女漫画として売りだされるべき作品だったと思っていますが、一般誌からの発表となってしまったのは、ジャンルそのものの衰退が原因であると指摘できるかもしれません。いまや、かつて少女漫画だったものは、思春期の少女の精神をセラピーするものではなく、きつい言い方をすれば、大人の女性とその予備軍の肉体をオナニーするポルノへと堕しているのです。ジャンルの器が壊れて、内容物が垂れ流れている現在、試みに小鳥猊下が再定義を行うとするならば、「少女漫画とは、作者の性欲が女性に向いていない作品である」とでもなるでしょうか。「パタリロ」から「メダリスト」までを包含する美しい公式のように思えるのですが、識者のみなさんによる実地の検証を待つことにしましょう(余談ながら、エロ漫画に出自を持つ人物の一般誌に掲載された漫画を家人にすすめたら、驚くほど猛烈な忌避感を示されたことがあり、「言語化不能の見えざる性欲」に対して、男性諸氏はもっと意識的になるべきかと愚考します。特に、ヨネヅ君ね!)。ともあれ、少女漫画の過ぎ去った全盛期へ哀悼を示すため、いまこそ「カリフォルニア物語」「風と木の詩」「ポーの一族」「サイファ」「月の子」「笑う大天使」「サンプル・キティ」などの過去の名作に我々は回帰して、市場に氾濫する女性向けポルノ群へ背をむけ、ただただ郷愁を読みふけりましょう。

漫画「メダリスト(12巻まで)」感想

 メダリスト、既刊12巻までをイッキ読みする。スケート漫画としては、銀のロマンティック以来なので、じつに30年ぶりの体験の更新です。ここまでの経緯をまず説明しておくと、アイドルマスターに登場する9歳(!)の女児を演ずる声優に作者が入れあげたあげく、彼女の趣味であるフィギュアスケートを題材にした漫画を企画して持ちこんだばかりか、主人公の小学生スケーターを同声優にピンポイントで当て書きしたという逸話を聞きおよび、「ロリコン男性作家、相当に気持ち悪いな……」と長らく手にとるのを敬遠していたのでした。それが、今期のアニメを3話まで見て、思わぬ好印象に続きが気になってしまい、密林の無限焚書で無料公開分を読んでなお熱がおさまらず、既刊全巻を一括購入して読破するにいたったのです。まずまちがいなく、この書き手はフラジャイルの作画担当と同じ系統の女性作家だと断言しておきます。女性であることを確信する理由は2つありまして、ひとつ目は大量の女子小中学生をこれでもかと投入して大開脚までさせながら、その描き方に性的なニュアンスがいっさい混入していないことです。ふたつ目は、女子の精神的な成長がキチンとていねいに描写されているところで、男性作家にこのレベルの解像度を期待することは、ほとんど不可能だと言っていいでしょう。なぜなら、多くの男性にとって女性とは、「処女」「妻」「母」という3つの類型におさまってしまうものだからです。狂信的なファンを呼びよせないよう短く言及すると、メダリストの対極にある作品は「咲-saki-」でして、すべてのキャラに作者の性的な視点がねっとりとまとわりつき、内面の成長を描けない分を異能力や語尾や胸囲やタコスなどの外形的付加のみで、差別化しているのです。

 あわてて話をもどしますと、本作を読んでいてなにより深く心に刺さったのは、司先生のキャラ造形でした。「だれにも見つけてもらえなかった」「だれにも導いてもらえなかった」過去の自分を、未来の原石に重ねあわせて手をさしのべようとする、「他者を通じた、自己の育てなおし」の様子が痛切に胸にせまって、気がつけばグシャグシャに泣いていました。それは、初代ロッキーでチャンスを手に入れた主人公へ老トレーナーが協力を持ちかけたところ、「オレは10年前にアンタに助けてほしかった! なんで、あのときオレを助けてくれなかったんだ!」と壁をなぐりながら号泣したのとたぶん同じ感情で、なんとなれば、現実では長い時間をかけて「見つけ、導き、助ける」側の見かけを手に入れていようとも、小鳥猊下サイドの心の奥底には「だれにも求めてもらえなかった」「だれにも愛してもらえなかった」という気持ちが、いつまでも消えずにくすぶっているからです。また、個人的に感心したのは、登場する小中学生の名前が持つリアリティで、クラスの女子の半数以上に”子”がついていた時代から、ゆうに30年は引きこもっている中高年男性にとっては「キラキラネーム(笑)」との認識なのでしょうが、こちらの名づけが本邦の主流になってひさしく、正しく令和の感覚にアップデートされた作品だなと思いました(名字までキラキラなのは、少々やりすぎですが……)。ただ、最新刊におけるストーリーの進め方はすこし気がかりで、年上スケーターのケガによる退場は、主人公に金メダルを取らせるための苦渋の選択だとしても、3月のライオンでいうところの「宗谷名人の人間部分の掘りさげ」に類する展開と、それにともなう「スケート人生で初めてのミス」は、はたして必要な挿話だったのでしょうか。ともあれ、今後は群像劇のサブシナリオで長期化させず、主人公のメインストーリーを強く太い軌跡で残しながら、正しい終わりに向かって滑走していってくれることを、切に”いのり”ます。

 あと、またぞろヨネヅのアホが出しゃばって本作のアニメに楽曲を提供してやがりますが、いよいよロード・オブ・ザ・リング3部作を経たあとの、ホビット3部作でのピーター・ジャクソンを彷彿とさせる、イヤな権威臭をはなつようになってきましたねえ。あのさあ、女子の成長譚であるメダリストの主題歌には、女性ボーカルのほうがはるかにフィットするだろうし、ぜったいに作者だって9歳女児役の声優に歌ってもらいたかったに決まってるじゃん! それを、国民的アニメ作家や国営放送との仕事を無敵の殴り棒としてふりまわして脅迫して、周囲の大人たちは作品のイメージにあうかどうかではなく、広報宣伝のみを重視したネームバリューへと膝を屈してしまった。グスグスと半泣きで抵抗をしめす作者を、編集部とか制作会社の人間が説得しにかかる様子がまざまざと脳裏に浮かび、暗澹たる気分になってきました。みなさんはぜひ、チョーシノリのヨネヅが描いたとふれこみのCDジャケット?の絵を、原作の表紙と比較してみてください。ロリコン男性から女児に向けられる性的ニュアンスに満ち満ちていて、背筋がうすら寒くなることうけあいですから!

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアックス」感想

 ガンダムオタクがタイムラインでキャアキャア言っているジークアックス、頻繁にQアンノの名前が話題に出てくるため、親・イコール・エヴァを殺された者の責務としてイヤイヤ見に行く。これ以降は、蒼天航路で曹操が孔明の存在を認識できないように、世代的には再放送による人気の高まりとガンプラブームが幼少期をほぼ直撃していて、すべての講義に出席した上でノートもキチンとテイクするのに、ペーパー試験がいつも0点で未履修あつかいとなる、とことんガンダム世界と反りがあわない人物による感想です。映画の前半部分は、ファースト・ガンダムを正史にみたてた架空戦記モノになっていて、ネタバレ回避(笑)のためにあえて例え話で申しあげれば、「開戦からどんな展開をたどれば、太平洋戦争で日本がアメリカに勝てたのか?」に類する設問への解答が、日本三大オタクのひとりであるQアンノ本人によるノリノリの筆致でつづられてゆきます。このパート、群像劇としてもメカアクションとしても、じつにイキイキと描かれていて、ウノレトラマソでの新ウルトラマン、愛国戦隊大日本でのサンバルカン、トップをねらえ!での沖縄決戦、不思議の海のナディアでの宇宙戦艦ヤマトを彷彿とさせる、彼がおのれの愛する作品へのオマージュというにはディープすぎるトレースを敢行しているときと同じ喜びに満ちあふれていて、その様子が本当に心の底から楽しそうなので、どうしてこれをエヴァ新劇の後半戦でやってくれなかったのだと、視聴中はうらみごとのひとつも言いたい気分でした。「女グセの悪くない、むしろ男色よりのシャア」という、トミノ・エッセンスである異性への歪んだルサンチマンをバッサリ切り捨てたキャラクターが、地球連邦軍を相手に軽快な勝利を重ねていく様は、グッツグツに煮つまったガンダムオタクの脳内妄想をフルパワーで映像化していて、ガンダムという巨大シリーズに向けた、ある種の批評性にまでつきぬけているようにさえ感じられました。

 「御大が旅立ってから、シン・ガンダム」という小鳥猊下の予想はみごとに裏切られ、裏切られた理由は彼我の持つディーセンシーの圧差(カイジ語)だったわけですが、旧エヴァをリアルタイムで経験した世代にこの横紙破りの無法をできる人物がいるか考えてみたところ、ひとりたりとも思いつきません。つくづく感じたのは、近年における中韓のフィクションが本邦の過去作に受けた強い影響を正面から認めながらも、完全オリジナルのストーリーをゼロから描こうと苦闘しているのに対して、我が国では異世界転生モノやら悪役令嬢モノやら、まさに「過去の巨人の肩に乗って、遠くを見る」作品が隆盛をきわめていて、その期間が長くなりすぎた結果、おのれが依拠する歴史の遺産と呼ぶべき存在にすら、無自覚な層が現れてきてしまっているということです。つい先日、崩壊スターレイルのオンパロス編をサブクエスト含めて実装分まで読了したのですが、オリュンポス世界を舞台にした英雄譚とギリシャ悲劇を、おそらくシミュレーション仮説を下敷きに、古典文学のように語ろうとしているのです。その一方で、ジークアックスは半世紀前(!)のロボットアニメを正史にすえた偽史として、ディックの「高い城の男」をやろうとしているのではないかという指摘を見かけ、同じSFというジャンルにありながら、両者の間へ横たわる長大な発生の差異に、思わず強いめまいを覚えてしまいました。シンエヴァ由来の不快感が消えることは決してありませんが、ジークアックス前半におけるQアンノの仕事は、「自覚的なひらきなおり」によるザーメン大放出(失礼)になっていて、先に挙げた近年の軽薄な虚構群の中では、むしろ圧倒的に誠実だとすら感じてしまったことを告白しておきます。

 これが映画の後半になり、シンエヴァの副監督が手がけるパートへ突入すると作品テーマや思想性ばかりか、やっかいなオタクの情念までもがキレーさっぱり雲散霧消して、ソリッドなデザインやビビッドなカラーリングやケレン味たっぷりのアニメーションだけが前面に出てくるのは、いったいどういう作家性の違いによるものなのかわかりませんが、じつに不思議です。禿頭の御大に由来する成分が大幅に希釈されたジークアックスには、全体として「わからないけど、わかった」ような気にさせられており、もしかすると人生で初めて単位を修得できるガンダムになるような予感さえあるので、いまは続くテレビシリーズの放映開始を楽しみに待ちたいと思います。あと、公開初日の劇場で「ブチころがすぞ!」(婉曲表現)とスクリーンに向かって叫んで席を立ったオタクがいたと仄聞しましたが、ただの虚構に魂を沸騰させることのできるMAJ(マジ)モンが界隈にはたくさんいたことを、ひさしぶりに思いだしました。彼らに比べれば小鳥猊下なんてのは、「頭のおかしいフリ」をしているだけの、オタク濃度の薄い良識人ですからね! あの世代のモノホンたちを「怖いな……」と遠巻きに見てきた人生ですので、自身がだれかに「信頼できるオタク」などと呼ばれているのを目にするたび、師匠の落語家が偉大だっただけの下手クソな弟子を、単なる時間の経過でメディアがあたかも名人であるかのようにあつかいだすプロセスを想起して、なんだか申し訳ない気持ちになってきます。はやく現世から退場しねえかなあ、アイツら! そうすりゃ、オレをニセモノと見ぬけるヤツは、どこにもいなくなるのによ!

雑文「学園アイドルマスター、あるいは篠澤広について」

 一時期、たびたびタイムラインに流れてきて気になっていた学園アイドルマスターをダウンロードし、3時間ほどプレイ。同シリーズはブラウザ版の時代から片目でその存在を認識してきており、音ゲー版を少し遊んでいたこともあるが、課金をするまでハマるということは、ついぞなかった。本アプリはシステム面において、ウマ娘の後発であることを強く感じさせる作りになっており、同一キャラをくりかえし育成することで、アンロックによって初期の能力値が底上げされてゆき、時間をかけて高い評価を得ていく流れになっている。登場するアイドルたちは、いずれも魅力的に描かれているが、その中でも、いや、20年近くにわたるアイドルマスター・シリーズにおいても突出して異質な存在が、篠澤広である。二次元キャラクターとしては、綾波レイ以来の大発明ではないかと、真剣に考えている。短いズボンからストンと棒のように落ちるガリガリの両脚は、まさに拒食症患者のそれであり、きわめて病的なシルエットをあたえられている。女子に女子たることを期待しない「広」というそっけない名前の背後には、理系の研究職にでもついているのだろう、感情の起伏に乏しい両親の存在を想像させる。この少女は数学と物理の天才で、飛び級の末に14歳で博士号を取得しており、自身の研究室まで構えているような発言さえある。理系分野においては、人生でただの一度も挫折を経験したことがなく、大差が大差に見えないような圧倒的な能力で水のようにすべてを得てきた彼女がアイドルを目指す動機は、絶対的に能力の欠落した分野において、「ままならないこと」「うまくいかないこと」「どうしようもないこと」を経験したいという、刃牙シリーズにおける「敗北を知りたい」最強死刑囚のような、被虐の欲望なのである。

 篠澤広を称揚するために、だれもを不快にさせる極端な言説から始めるとすれば、本質的にアイドルなんてものは、「セックスしたい」とか「痛いほど勃起する」などの下半身ベースの欲望を、「この娘を推している」やら「舞台で輝いている」やらでパラフレーズしただけの、高級娼婦の変形にすぎない。古くは巫女や花魁のような、見てくれの整った若い肉へ、さらに文化的・経済的な付加価値を与える現代的な装置が、アイドルなのである。誤解をおそれず言えば、本作における、いや、過去のアイドルマスター・シリーズにおけるキャラクターたちは、絢爛な見かけの内側でいずれも「若い女性としての魅力を最大化させるため、歌やダンスや演技のスキルを磨く」という文脈を、ついぞ外れることがなかった。篠澤広は、ちがう。もっとも成功しそうにない分野で、これまでの人生に存在しなかった「失敗の甘美さ」という自身の生き血をすすりたいと欲望していて、そこには「商品価値のある、若い女性」という自意識が、寸分も介在していないのである。うまくいかなかったレッスンを一日の終わりにふりかえるとき、マゾヒスティックな悦びに輝く彼女の表情へ劣情をいだくのは、共犯者にさえさせてもらえない男性側の一方通行な投影なのだ。以前どこかに同じことを書いた気がするが、この「一方通行性」こそ、逆説的にもっとも不適格な存在へアイドルの資格を照射しており、荒々しい凌辱さえも「個人的な体験」として失敗の悦楽の裡に回収されてしまい、彼女の人生に寸分の影響も残すことができない狂おしさは、きっと耐えがたいものだろう。娼婦の群れの中にまぎれこんだ、異質な自己愛モンスター、それが篠澤広である。

 最初は、花海姉妹の関係性を今西良と森田透になぞらえて語るーー酒場でヤクザにからまれて透がピリつくところへ、良が天真爛漫に「ちゃんちゃきおけさ」を歌って場をおさめ、スジモノたちをファンにしてしまう際の対比などーーつもりだったのだが、彼女の存在ですべてブッとんでしまった。よろしい、インターネットに四半世紀あまりを住まう、電子妖精たる小鳥猊下の永久アバターのひとりとして、ここに篠澤広を認定するものである。

劇映画「孤独のグルメ」感想

 劇場版「孤独のグルメ」を見てきました。以下は原作漫画のファンで、シーズン1をリアルタイムで視聴し、以後はつかず離れず断続的に、”ながら見”してきた程度の人物による感想です。”劇”映画なる珍奇の接頭辞が示すように、本作は演劇や戯曲の場面を連続させたものになっていて、構成としては映画の体(てい)を為していると言えません。まず最初に強く感じたのは、井之頭五郎は「ひとりを好む中年男の、定食屋での独り言」というフォーマットによって成立しているキャラクターだということで、視聴中はミスター・ビーンのハリウッド映画版が、なんども脳裏にオーバーラップしました。ビーンという愛すべきキャラクターが、ひとつながりのストーリーで他者との関係性の中に落としこまれると、発達の特性が目だちすぎて、ただ頭がおかしいだけの異常者にしか見えなくなってしまったアレです。ストーリーを順に追っていきますと、フランスでの最初の食事シーンから感じたことですが、今回の井之頭五郎は一度に口に入れる食べ物の量が多すぎ、テレビ版に比べると食べ方が汚いように思います。あれだけエッフェル塔の写真で宣伝しておきながら、舞台としてはほぼタイトルコールまでで、タクシーを降りてからの追加撮影とおぼしきシーンが、非常に背景合成ぽいのも気になりました。

 そして、人との積極的な関わりや無謀な冒険を避けるテレビ版の彼ではありえない行動である、スタンディングボードで海へとこぎだすところから物語への違和感は強まり、台風にまきこまれて救命胴着の浮力のみで五島列島から韓国の離島まで一晩で漂着した時点で、これは映画ではなく演劇の場面転換なんだと、むりやり自分を納得させました。名刺と一万円札がはさまれたクリアファイルを映すことで暴風域の遷移を表現する演出は、かつての映画青年を思わせるナイーブさでしたし、毒キノコを食べて白い泡を吹きながら痙攣するのは、昭和のコメディ文法になっていて、令和の感覚に照らすとギョッとするばかりで、ちっとも笑えません。そのあとに目覚めた独房様の地下室でハングルを耳にして、「韓国だったらいいけど」と北朝鮮による拉致をにおわせるブラックジョークも、本シリーズのまとってきた上質な品性からは、大きく外れているように感じました。「孤独のグルメ」は韓国でも人気があるようですが、ファンとおぼしき女優たちによる衆人環視の中で料理を完食して、たがいにガッツポーズで大喜びする場面は現実と虚構の間にある壁が完全に壊れていましたし、同国の有名俳優がカメオと呼ぶにはあまりにガッツリと出演するのも、どこに向けてボールを投げているのか首をかしげました。

 伊丹十三作品のオマージュだろう、タンポポのロゴをかかげるラーメン屋の店主にスープを作ってもらうまでの流れも、登場人物たちの心の動きに説得力がなく、戯曲的な表面上のチェーン・リアクションによってストーリーが動かされているようで、どことなく座りの悪いものでした。「孤高のグルメ」なる劇中劇ーー直前に「首」を見ていたせいで、「血濡れまんじゅう男色ディープキス」と印象が混線して、たいへんでしたーーによるメタ要素は、まあ、ご愛嬌としてスルーしたとしても、エンドロール後に井之頭五郎ではなく、松重豊本人が観客に向かって「ハラ減ったでしょ!」と語りかけて、「第四の壁」を越えてくるのは、さすがにやりすぎではないでしょうか。全体的に、10年をかけて「孤独のグルメ」を紅白歌合戦の裏番組にぶつけるまでのコンテンツに成長させた、文字通りの立役者である松重豊に功労賞として、昔からの演劇仲間を集めて好き勝手にやるのを、テレビ東京が黙認しているような中身になってしまっています。

 しかしながら、テレビ版のファンである我々ダンベエたちは、こんなふうに重箱の隅をつついた批判の言葉をネットへと書きこむのではなく、さらなるシリーズの継続を祈願しながら、還暦俳優のスキニー・パンツに笑顔で二千円をつっこんで帰ってくるのが、正しいファンの態度だと言えるでしょう。長々と”いやごと”ばかりを書きましたが、本作はまごうことなき「10年目のお祭り」であり、完成度の高い祭りなんて存在しないのですから、どんどん劇場でリピートして、ドシドシ興行収入をあげていきましょう(手遅れ)!

ゲーム「原神第5章5幕・灼烈の反魂の詩」感想

 原神第5章5幕をクリア。このゲームを始めたのがスメールの途中ぐらいからだったので、ナタはフォンテーヌに引き続き、実装順にリアルタイムでストーリーを追いかけることのできた2つ目の国になります。4幕の感想にも書いたように、ナタ編は物語の進行とマップの導入がずっとチグハグな印象があり、今回も豊穣の邦と夜神の国を探索可能な場所として登場させないまま、結末までを語りきってしまいました。しかしながら、生者と死者がひとところに集結して決戦の舞台を作りあげ、炎神と旅人との共闘で歴史の宿痾を討ち滅ぼすという展開は、かつての少年漫画を彷彿とさせる王道中の王道なドラマツルギーに満ちあふれており、ひさしぶりに胸と目頭が熱くなりました。最終決戦におけるギミックやビジュアル表現も、当世現在の最高峰と呼べるクオリティに仕上げてきていて、おそらく数百人規模のチームによる、本来なら潤沢であるはずのリソースをここへ傾斜させすぎた結果、マップの制作が定期更新に追いつかなくなってしまったのではないかと推察します。原神という物語全体のラストバトルさえ、5幕のキャラを各国の主要人物に置きかえた変奏曲になるのではないかと思わせるほどのクオリティで、他人の性行為をドアの隙間から出歯亀するがごとき動画配信ではなく、ゲームを遊戯する主体や壮麗な物語の主人公として、ぜひこれを体験してほしいものです。

 フォンテーヌでは、比較的あっさりしていたラスボス撃破後のウイニングランも、後日談であるマーヴィカの伝説任務とあわせて、たっぷりと長めに用意されていて、フルコース後の甘いデザートと苦いコーヒーのように余韻を堪能させてくれました。現在進行形の世界情勢を前に、「戦争の国」をあつかうことへの薄い忌避感はずっとつきまとっていたのですが、ロシア将校たる「隊長」の選んだ自己犠牲の決断は、彼の長きにわたる苦しみの終着点として、充分な説得力をもって語られていたと思います。さらに、トップに立つ者として「最善の選択」が不可能なことを知りながら、「より悪くない決断」を求めて深く思考しようとするマーヴィカの姿勢も、非常に共感できるものでした。余談ながら、決断の時系列の最突端ーーそこは量子力学的な場所で、意志を決定する瞬間まで猫・イコール・集団の生死が判明しないーーに立ったことのない報道側、野党側、被支配側の方々がする批判に満たない恨み節は、管理側から見れば、すぐにそれとわかるような臭気をただよわせているものです。厳格に民草への中立を維持し、四角四面に生真面目だった彼女が、統治する責任から解き放たれたあとに見せるユーモラスな側面は、なぜか2期8年の任期を終えた米大統領がSNSにアップした、パラセーリングの写真を想起させました。その「決断から降りる日」を指おり数えて待っている小鳥猊下の精神的なアバターとして、雷電将軍ぶりの大きな課金をマーヴィカに行ったのですが、2体目、3体目、モチーフ武器のすべてで「すり抜け」が発生し、阿鼻叫喚の大事故となったことを、ここに報告しておきます。余録としてシトラリも引けてしまいましたが、すでにナタの既存マップすべてで探索率100%を達成しており、マーヴィカともども活躍させる場所がありません。炎の印の奉納数はいまだ最大解放されていないため、新たなエリアの追加はほぼ確定しておりますので、早めの実装をお願いし申し上げます。

 部族たちの物語であるナタ編を読み終えて、つくづく感じたのは、言語化するならば「なにかの集団に帰属し、そこで価値を認められることによる昂揚の、代替不可能性」であると表現できるでしょう。年末年始のどこかで、北海道を舞台にしたドラマの脚本で有名な人物に、「LGBTQを包摂した新しい家族像」についての言質を引きだそうとするインタビューを酩酊状態で見たのですが、非常にスジが悪いと感じたことを思いだしました。かつて、戦争経験者のトラウマが充満した家庭や街路で幼少期を過ごした全共闘の若者たちは、不可思議なことに「地縁と血縁を否定しながら、大家族を肯定する」というキメラティックな結論へとたどりつきました。彼らはひとえに旧世代への反発から、「豪華客船の麻袋で行く半島北部の理想郷」や「富士山麓で高学歴のオウムたちが鳴く場所」を作りだす土壌をせっせとたがやしてしまったのですが、それを「家名や異性愛や婚姻制度に依らない家族」に敷衍させようと飛躍する態度の異常さは、nWoを贔屓にしてくださる方々には言葉を尽くさずとも、ご理解いただけることでしょう。加齢により少々ウロの入ってきたその脚本家は、インタビューの裏にある「脚本」に気づかないまま、「遺伝子による血縁や血縁の集合である家族、生まれによる地縁や地縁の集合である国家に依存せず、高い知性と強い克己によって、だれと生活集合体を形成するか個人で自己決定せよ」と結論づけるのです。そんな最高度の知性と精神的な強靭さを有する人物が、本邦の全人口に対して1割もいる気はしませんし、さらに自戒をこめて言えば、多くの人々は訪れる状況を無思考に許容しながら、ただ黙って不快が去るか不快に心が慣れてしまうのを、じっと待っているだけなのです。昭和の虚業従事者に顕著な、「知性による暴力」を大衆へ行使している事実への無自覚さが、彼らの仮想敵のふるまいと相似形を成してしまっているのは、じつに皮肉なことだとは言えるでしょう。「多数側が幸福だと仮定した、少数側に向ける優遇制度」は、じつのところ歯列矯正みたいなもので、アポカリプティックな事態でインターネットをふくめたメディアがことごとく壊滅した先には、「奈良へ」の感想にも書きましたように、すべてあの「慣れ親しんだ土着の場所」へと帰っていくことでしょう。

 最後に、だいぶそれた話を原神へもどしますと、ナタ編の5幕が提供しているのは、部族の民たちに英雄として受け入れられ、彼らによる万呼の声援を背中にあびながら、土着の神とともに部族の敵へとたちむかうという、本邦においては禁じられた快楽です。特に就職アイスエイジ・エラのオタクたちは、共同体からつまはじきにされてきたと感じているからこそ、「人間集団へ懐疑的になり、おのれの尊厳を守るためだけに、ひとりでいることを肯んじる」ふるまいが、骨の髄まで染みついてしまっていることでしょう。けれど、シンエヴァ批判である「第三村節考」において指摘したように、ありのままの自分をいっさいアップデートせずに共同体から敬意をはらわれ、代替のきかない仕事で他者の役に立てるとすれば、それを拒否できる者はほとんどいないことが、我々の世代に共通する悲劇なのです。たしかに、「生みの親を敬い、家族を大切にし、共同体のために血と汗を流す」ことを肯定する物語は、西洋文明からとめどなく流入してくる、古い直感に反した新しい価値基準にカウンターを当てるための、中華コミンテルンによるプロパガンダだとの指摘は、もしかすると正しいのかもしれません。しかしながら、短くはない年月をかけて時代がひとめぐりした結果、それを魅力的な場所として回帰しようとめざす、世界規模の季節を我々はむかえようとしているのかもしれないーー年当初から続く憂鬱なニュース報道を横目に、初代炎神とマーヴィカのやりとりをながめながら、冷遇された世代でありながらも、比較的マシなほうの顛末をたどった側の人間として、ボンヤリとそんなふうなことを考えていました。とりとめもなく、終わります。

雑文「2024年のnWoテキストまとめ」

 雑文「2023年のnWoテキストまとめ」

 昨年の慈愛からスタートしたnote記事による年度のふりかえりを、今年も行っていこうと思います。いま記事を数えたら、52個ありました。1週間に1記事ほどをアップしてきた計算になります。では、2024年をダラダラとふりかえっていきましょう。各記事の紹介に付記する星マークの5段階評価は、作品ではなく自分のテキストに向けたものです。

凡例:★★★★★(5点・最高)
   ★☆☆☆☆(1点・最低)

No.01:アニメ「16bitセンセーション」感想(最終話まで) ★★★☆☆
 エロゲー業界に対する複雑な気持ちはいまもどこかあって、もし人生の分岐として選択していたら生き残れなかったと冷静にわかるがゆえの、羨望に近い嫉妬です。

No.02:ゲーム「バルダーズゲート3(1章)」感想 ★★★★☆
 結局、2章の終盤あたりで放りだして、クリアにはいたっていません。主にシステム部分へ「西洋人の精神構造の、鼻フック的な異形さ」を見ることができます。

No.03:アニメ「スナック・バス江(1話)」感想 ★★★☆☆
 「ラーメン屋で麺をすすりながら、雑誌で片手間に読む」ぐらいだった好きの温度感が、どうしてエスエヌエスでは、是も非も強火の狂熱になっちゃうんでしょうね。

No.04:アニメ「ぽんの道」感想(あるいは、麻雀とはずがたり) ★★★★★
 麻雀なる遊戯への想いについて、小鳥猊下がネット生活25年でほとんど初めて語ったという意味で、貴重なテキスト。界隈の客層は、依然として悪いと思いますよ。

No.05:ゲーム「鉄拳8」感想 ★★★★★
 格闘ゲームへの想いについて、小鳥猊下がネット生活25年でほとんど初めて語ったという意味で、貴重なテキスト。彼/彼女はあの時間を、理科系の勉強にあてるべきでした。

No.06:ゲーム「崩壊スターレイル・第3章前半」感想 ★★★★☆
 三体とならび称すべき傑作SFなのに、イマイチあつかいが悪いのは、もしかしてゲーム分野を下に見てます? 油断すると理系への恨み節が混入するのは、悪いクセです。

No.07:映画「ナポレオン」感想 ★★★☆☆
 小鳥猊下の流麗なテキストを読ませたいのに、あつかう題材のマイナーさで伝播にキャップがかかってしまった好例。「なんで妊娠しねえんだよ、チャクショーッ!」

No.08:ゲーム「風来のシレン6」感想 ★★★★★
 正直、SFC版シレンにあてる時間を勉強に使っておればとの後悔もなくはないですが、美しい思い出は残りました。「とぐろ島の真髄」は、まだクリアできていません。

No.09:ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(開始20時間) ★★★★★
 FF7Rebirth感想4部作・その1。下半期に登場する、赤の他人の若造が作ったDQ3Rに比して、老獪なクリエイター本人が持てるすべてを注いだ、愛あるリメイク。

No.10:雑文「ドラゴンボールとはずがたり」 ★★★☆☆
 あまりに有名すぎて逆に言及しにくい作品であり、「Z」以降の世界的な客層の悪さも、それに拍車をかけました。ここで恩人を公言している人物は、ヤマグチノボル氏です。

 あけましておめでとうございます。
 今年も、よろしくおねがいします。
 慈愛は、大閑散継続中です。何卒。

No.11:漫画「ブルージャイアント・エクスプローラー9巻」感想 ★★★★☆
 創作者が創作物に謝罪するような作品を見るのは、もしかすると初めてかもしれません。ちなみに、創作者が創作物に言い訳をする作品は、呪術廻戦の最終巻です。

No.12:ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(ゴールドソーサー到着) ★★★★★
  FF7Rebirth感想4部作・その2。前作に引き続き、「夜の街関連」の表現がじつにすばらしく、クリエイターの人生および性癖と骨がらみになった、名リメイク。

No.13:雑文「続・ドラゴンボールとはずがたり」 ★★★★☆
 ある世代の構成員が現役か現世から退場することによって、マジョリティの価値観が大きくシフトするのを見てきましたが、そこに陰謀論的な主体が存在しないのは恐ろしいです。

No.14:雑文「猫を起こさないように(nWo)・復活のテキストサイト」 ★★★☆☆
 復活したんですけど、反響は絶無でした。昔なじみで現世の権威となったキミとかキミとかが、裏アカ以外で言及するだけで、バズる素地はあると思うんですけどねえ。

No.15:ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(コスモキャニオン到着) ★★★★☆
 FF7Rebirth感想4部作・その3。雇われ人として、クリエイター人生の黄昏をむかえただれかが歌いあげるエレジーのような、しっとりとした味わい深いリメイク。

No.16:アニメ「バーンブレイバーン」感想 ★★★☆☆
 ものすごい速度でバズって、ものすごい速度で消費しつくされた印象です。ループものとして出来がよかったとは言えませんが、もう少し創作物を大切にあつかってほしい。

No.17:ゲーム「ファイナルファンタジー7リバース」感想(初回クリア) ★★★☆☆
 FF7Rebirth感想4部作・その4。源氏シリーズを収集して、ギルガメッシュを倒すところまでプレイしました。リメイク3には、一抹の不安を抱きながらも期待しています。

No.18:雑文「政治的アべンチュリン礼賛(近況報告2024.4.20)」 ★★☆☆☆
 「春の鬱による生真面目さ」が、にじみでているテキスト。説教したい気分の中年からは、距離を置きましょう。ここでファンを公言している人物は、デスポカ氏です。

No.19:映画「オッペンハイマー」感想 ★★★★★
 「創作者のカルマ」みたいな悲壮感にガンギまって気持ちよくなっているの、すずめの戸締りと同じですよねー。「メディアの責任」なる言葉からもただよう臭みですよねー。

No.20:映画「アステロイド・シティ」感想 ★★★☆☆
 中途半端にファッションでさわりにきたあげく、メルトダウン事故を起こすぐらいなら、テーマ性なんていらないんじゃないの? ケトゥ族がどうあつかったって、軽妙洒脱にはならんよ。

No.21:ゲーム「ステラーブレイド」感想 ★★★★★
 どれだけ聖人君子のふるまいをする御仁でも、女体からの性的なアトラクションは退けられないことを痛感しました。カルメン伊藤氏によるイイネが印象に残っています。

No.22:雑文「SHINEVA, STARRAIL and FGO(近況報告2024.5.20)」 ★★★★☆
 シンエヴァについては、存在しない周囲の期待にしゃべらされてしまっている感があり、自重せねばとは思っています。あらためて、2024年のファンガスは大車輪の活躍でしたねー。

No.23:アニメ「ウマ娘プリティーダービー・新時代の扉」感想 ★★★★★
 ウマ娘界隈とは、個人的にかなり温度差ができてしまっているので、フェアな感想とはとても言えません。のちに語ることとなる「ポコチン着脱問題」は、強く感じました。

No.24:映画「マッドマックス・フュリオサ」感想 ★★★★☆
 興行収入にしか興味のない、作品の出来なんて二の次な剛腕プロデューサーと矜持をかけて行う、血を吹くような激突の火花が、いまの映画界には足りていない気がします。

No.25:書籍「麻雀漫画50年史」感想 ★★★☆☆
 「男性が創作物を評価するとき、脳髄からポコチンを外せるか?」は、オタク界隈に古くからある命題でしょう。この記事で多くを敵に回したような気がしていますが、とてもいい本です。

No.26:雑文「中年が終わって、パーティが始まる」 ★★☆☆☆
 昭和のドぎつい家名ベースな価値観を擁護したい気分がムラッとわいて、つい挑発的に書いてしまいました。シロクマ先生の類似本の感想を書こうとして、止めました。

No.27:アニメ「ルックバック」感想 ★★★★☆
 原作漫画には、「SNSを通じたクリエイター業の神格化」が煮つまった末の作品という印象を持ちました。永遠のワナビーたる小鳥猊下が抱く感想としては、穏当なほうでしょう。

No.28:ゲーム「エルデンリングDLC:シャドウ・オブ・ザ・エルドツリー」感想 ★★★☆☆
 テレホーダイは遠くなり、ネットへの常時接続が当たり前の時代、触れる時期によってゲーム体験がまったく変わってしまうのは、良し悪しだと思いますね。

No.29:雑文「FUNGUS, HOYOBA and FGO(近況報告2024.7.25)」 ★★★★☆
 近年のFGOはバイオレンスジャック化しており、過去作キャラの登用が頻回となってきた印象ですが、第3部からファンガスがディレクションから離れる可能性はあると思います。

No.30:漫画「ハイキュー!!」感想 ★★★★☆
 読んでいない有名漫画が無数にあるのですが、人間のベースがミーハーなので、オリンピックに影響された結果です。結果、「正しく終われなかった物語」カテゴリに入りました。

No.31:ドラマ「地面師たち」感想 ★★★★★
 古い慣習によるキャップさえ外せば、本邦の脚本・演出・撮影・俳優は、ここまでできるのだという、ある種の希望となった作品で、ピエール瀧の生存確認にも最適です。

No.32:映画「ザリガニの鳴くところ」感想 ★★★★★
 エロゲーを愛好する男性が抱える「認知の歪み」について、女性サイドからミラーリングした内容になっています。頭文字Fに対する批判の橋頭堡を得たい向きは、ぜひ視聴を。

No.33:ゲーム「黒神話:悟空」感想 ★★★★★
 第2回の最終ボスがたおせず、投げだしました。ストーリーの先は気になりますが、自キャラ強化よりアクションの習熟に強い力点があるゲームを遊びきる体力は、もうないです。

No.34:映画「ドント・ルック・アップ」感想 ★★★★★
 この時期に神テキストが連発されているのは、仕事の進捗や精神の状態がよかったせいでしょうか。「題材のマイナーさが、記事の拡散にキャップをかける」典型例になっています。

No.35:ゲーム「原神5章・ナタ編」感想(少しFGO) ★★★☆☆
 原神のプレイ歴も3年に近づきつつありますが、成功も失敗もすべて次の改善につなげていく、「生成のダイナミクス」を強く感じます。現代ゲームの最高峰のひとつと言えるでしょう。

No.36:映画「きみの色」感想 ★★☆☆☆
 まず考えをザッと出力したあと、3日ぐらいかけて徐々にテキストを修正していくのですが、この記事は書いた当日にほぼそのままアップしており、塩気のききすぎた中身になっています。反省しています。

No.37:漫画「呪術廻戦」感想(27巻まで) ★★★★☆
 本作の両面宿儺にせよ、キメツの鬼舞辻無惨にせよ、「強大な能力を持ちながら、達成すべき目標は不明瞭、または不在である」という、悪の魅力を欠いたラスボスが増えてきていませんかねえ。

No.38:ゲーム「FGO奏章III:アーキタイプ・インセプション」感想 ★★★★★
 ファンガスへのよく書けたラブレター・2通目。いまを生きる市井の感情をここまで見事に物語へと落としこめるなら、小鳥猊下はこんなnote記事の群れを書いてはいないでしょう。

No.39:映画「ボーはおそれている」感想 ★★★★☆
 すべてを親子のトラウマに紐づけたいアリ・アスターと、すべてはそれと関係ないともがき苦しむホアキン・フェニックス、監督の意図が俳優の演技を原色ペンキで塗りつぶした駄作。

No.40:雑文「シン・ヤマト(仮)制作発表に寄せて」 ★★★☆☆
 すべての事象に「こうあるべき」を持つ、やっかいなオタクが権力を掌握してしまったゆえの悲(喜)劇。けれど、人の死をダシにおもしろテキストを書いてはいけませんね。

No.41:ゲーム「原神5章4幕・燃ゆる運命の虹光」感想 ★★★☆☆
 新マップ導入の順番やイベントのクオリティなど、5章は制作進行の乱れを感じることが多かったのですが、5幕におけるドラマツルギーの大爆発ですべて帳消しにしました。詳細は、また。

No.42:映画「ジョーカー2:フォリ・ア・ドゥ」感想 ★★★★★
 この年始に、初見の家人たちと2度目の視聴をする機会があったのですが、画面の縦横比率が変わる妄想ミュージカルでのホアキンのムンムンな色気に比して、ガガの演技はスッカスカだなーと思いました。

No.43:映画「室井慎次・敗れざる者」感想 ★★★★☆
 地面師たちの対極にある、本邦の悪い慣習の煮こごりみたいな作品。かつてのキャラ愛にすべてをのみこんで、血涙のエールを送ったファンたちのことが、一瞬でも脳裏をよぎらなかったのでしょうか?

No.44:ゲーム「ロマンシング・サガ2:リベンジ・オブ・ザ・セブン」感想 ★★★★☆
 最近の記事でも言及しましたが、Switchのロースペックさに引きずられる形で、本作のグラフィックは非常にショボいと感じます。大手がインディーズ以下って、どうなの。

No.45:雑文「Update of Romancing S…TARRAIL」(近況報告2024.11.7) ★★★★☆
 2周して、最高難度のロマンシングに挑戦する手前までハマッたのに、後述するうんこリメイクへの怒りに気勢をそがれてしまいました。いつか再び、「リベンジ」したいです。

No.46:ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想 ★★★★☆
 おのれの魂と不可分に癒着した3への偏愛を、いまさら再確認することになるとは、想像だにしていませんでした。そして、このテキストを書いているときは、まだどこか期待する気持ちが残っていたのです。

No.47:雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28) ★★★★★
 ファンの存在を完全に無視した踊る最新作と、恐怖を感じるほどずっと下げ止まらない3リメイクへの評価。2つの記事に分ければよかったと後悔しております。

No.48:雑文「そしてPC版へ…(DQ3R哀歌)」 ★★★★☆
 新年を迎え、mod界隈が冷えきっているばかりか、いまだバージョンアップさえ行われないまま放置されており、かつてのレジェンドへのひどい仕打ちに、泥酔しながらオイオイと声をあげて泣いています。

No.49:雑文「STARRAIL, DQ3R and FGO」(近況報告2024.12.13) ★★★☆☆
 女神転生とFateシリーズの関連って、みんな気づいてて黙ってるの? 筒井康隆と小鳥猊下の関連を、優しさから指摘しないようなもの? よく訓練されたフォロワーシップなの?

No.50:漫画「推しの子16巻」感想 ★★★★★
 「転生」が物語をビルドアップするギミック以上の「世界の謎」として、ストーリーの中心に置かれた作品って、存在するんですかね? もしご存知なら、こっそり耳うちしてください。

No.51:ゲーム「ドラクエ10オフライン」感想 ★★★★★
 新しいのに、ちゃんとドラクエしてて、心の底からホッとします。それにひきかえ、とりやま・すぎやま両氏の実質的な遺作となったタイトルに、あそこまで泥をぬったのはゆるせない。

 あれ、昨年に続いて、また1記事たりないなー。年末年始はだいたい酩酊してるから、小鳥猊下の本質である「振り子のような正確さ」が乱れちゃうなー。

No.05.5:ゲーム「原神・閑鶴の章」感想 ★★★★★
 「発表! 毒親選手権!」みたいな本邦の創作界隈に向けた痛烈なるカウンター。制作者の属性が私文学士か国立博士かの違いでしょうか。人生の節目に、深く刺さりました。

 ありました。個人的に、昨年を象徴するようなコメントです。慈愛は明日いっぱいまで開けておきますので、コメントやご依頼や萌え画像などあれば、ぜひ