猫を起こさないように
月: <span>2025年12月</span>
月: 2025年12月

ゲーム「FGO第2部終章」感想(レイド戦まで)

 FGO第2部終章、レイド戦の手前までを読了。殺された側がいだいていた気持ちをたっぷりと理解させた上で、プレイヤー自身の手によってFGO世界の”運命の確定”を強制する冷徹さは、なまくらどころの話ではなく、突きつけられた匕首がふれるだけで喉元の薄皮を裂くその斬れ味に、ゾッとさせられました。作家としてのファンガスが一貫して保持し続けるテーマは、「網膜を焼くまばゆい生命の輝きと、喪失の痛み(いちど失われたものは、二度と元へはもどらない)」であり、FGOの築いた巨大な経済圏の終焉を宣言する本章においても、その姿勢はまったくブレることがありません。冷静に考えてみてほしいのですが、50代も半ばを過ぎて、昔ながらのファンはもちろん、テキストや物語のクオリティなんて薬にもしたくない大人たちからも、「大先生、大先生」とあがめたてまつられるいまの立ち場を作家人生の余録として、それこそ死ぬまで引きのばすことだってできたはずなのです。キャバクラで若いネーチャンたちにかこまれて、高い酒を毎晩カッくらい、帰りには編集者から高級娼婦のお持ち帰りをあてがわれて、仕事はアシスタントがほぼすべて完成させた原稿に瞳を描きこむだけの、「御大も劣化したな」に類する陰口を黄色い白目で聞き流す、大御所漫画家みたいな”アガリ”の余生を過ごしたとして、もうだれもおもてだって文句は言わないと思うんですよ(社長は言いそう)。ヤマトエヴァのように、その社会的な誘惑をふりきれず、グッズ販売は好調なれど、物語としてはグズグズの「集金装置IP」へとFGOが堕してしまうことを、しかしファンガスは敢然と拒否したのです。同じ立ち場に置かれときに、現代を生きる他の創作者のうち、いったい何人が彼/彼女と同じふるまいをすることができるでしょうか。

 第2部終章の内容について、思いつくままに感想を述べてゆきますと、「地球上に無数の銀河を生成することで、世界そのものによって認識されている法則が自己改訂し、結果として宇宙全体が順に白紙化していく」という理屈は、フェルマーの最終定理の証明における「無限の数学的ドミノだおし」を想起させ、「数式に依らない文系概念による、世界法則の統御」こそが、ファンガスにとっての”魔法”なのだろうなと思いました。それがときに、「横断歩道のアスファルト部分は溶岩になっていて、触れると死亡する。1秒以上を白線上で立ち止まっても、やはり死亡する。ただし、素数行のアスファルトは3秒毎に0.1秒だけ実体化する」のような、小学生の遊びの脳内ルールを厳密に言語化するがごとき滑稽さへと傾いてしまうことがあるのは、玉に瑕と言えましょう(筆力でごまかされますが、今回は魔術回路と万能繊維?のくだりが、特にそう)。第2部終章を読んでいて感じたのは、シンエヴァや宮﨑駿のレイトワークのような「結末を決めずにライブ感覚で作りはじめ、着地点は劇場公開日から逆算して決まる」作品群とは異なり、結末をしっかり定めてから語りはじめられた物語の、すべての伏線が一点に向けて収束していく、得も言われぬ快楽です。トラオムで粗雑に処理されたホームズが再登場するシーンでは、大の大人が夜中に心からの歓声をあげ、笑いながら泣いてしまいましたもの!

 全体としての評価は、レイド戦の終わりを待つことになりますが、ここまでの印象でもっともまさっているのは「さいとう・たかをの机の引き出しにしまってあるとウワサされる、ゴルゴ13の最終回原稿を見せられた気分」でしょうか。第2部終章は、ミステリの解決編としては極上ながら、第1部終了から7年を経て、第2部5章後半6章7章、そして奏章IIIを描くことで到達した「作家としての円熟」の延長線上にいないような気がするのです(ずいぶん前に、もう「書いてあった」のかもしれません)。ともあれ、「人生でもっともカネをかけた趣味」であるところのFGOの終わり、そしてファンガスの描く「喪失の果てに残る、美しいもの」を、いちファンとして、みなさまとともに見届けたいと思います。あと、フォーリナーたちを介して、さんざんクトゥルフやらアウター・ゴッズの存在をほのめかしてきたのは、「宇宙白紙化」という究極の大ネタから目をそらせるための、ミスリードだったわけですか? それって、あまりに不誠実なやり方だと思いません?

ゲーム「原神・Luna3」感想

 原神の最新バージョン6.2、伝説任務と魔神任務をともにクリア。始まったばかりと思っていたナド・クライ編もすでに序盤を越えて中盤へとさしかかっており、「博士」が「少女」の拉致を試みる事件で、物語は劇的にいったんの幕となりました。つくづく感じるのは、本邦の大手ゲーム会社が中高年のファンにむけて、ポキモンやらエフエフやらメガテンの続編だか派生作品だかの制作へしこしこと数年をかけた上に、シリーズのお約束と前例踏襲に満ちた自己模倣きわまるシステムと、スタークリエイターの主観世界を回遊ーー教祖の気がくるっても、信者は指摘どころか気づくことさえできないーーするようなストーリーによる低品質の仕上がりにもかかわらず、間遠すぎる供給ゆえに冷えた界隈がわずかばかり熱を帯びる状況を見るときの、島国的な息ぐるしさです。他方で大陸産の原神は、日本ファルコムなら30年、福本伸行なら300話ぐらいに薄く薄く引きのばすだろう話を、リリースからわずか5年で語りきろうとしていて、特に今回のドゥリンを描いた伝説任務には、現在のホヨバ幹部たちの思考が色濃く反映されているように感じました。

 「物語が語り終えられると、登場人物たちの運命が定まる」という考え方がそれで、いま世界でもっとも多くの読み手を持つ創作者によるストレートかつ赤裸々な心情の吐露に、目からウロコが落ちた次第です。運命の確定を回避する手段について、「物語の登場人物に語り手を移せば、作り手がいなくなったあとも、永久に物語を続けることができる」と結論づけるのですが、これは前バージョンへの感想でも指摘した、本質的に不要の大蛇足である原神ツクール「星々の幻境」を導入するにいたった初期動機を言い当てているようにも思えます。もしかすると、「物語を語り終えないことで、登場人物の運命を定めない」という無意識の希求は、長編型の創作者にとって普遍的な指向性なのやもしれず、ガラスの仮面や王家の紋章やグイン・サーガやバスタード!の顛末は、終わりたがる物語の自走性と終わらせたくない作者の欲望が綱引きをした結果、ある時点でたがいの力が均衡して、完全な静止をむかえた状態だったのかもしれません。だとすれば、未完となったはずのベルセルクを残された作画スタジオと作者の友人が終わらせようとしている例の取り組みは、登場人物たちに「造物主ではない存在による、運命の確定」を強いる行為であり、本来的にゆるされない性質のものであるような気がしてきました。

 だいぶにそれた話を原神へともどしますと、メインストーリーであるところの魔神任務は、達成率のともなう本マップの追加は無いまま、フルボイスによる台詞のかけあいとムービーだけで進むスターレイル形式を、またしても踏襲しております。しかしながら、生粋の萌えコションである小鳥猊下の本バージョンに対する満足度は、きわめて高いとお伝えせねばなりません。なんとなれば、全体として「少女」の去就へとフォーカスした展開になっており、鈴をころがすような愛らしいお声を聞きながら、そのおみ足とご尊顔をバグッた距離感でながめる栄誉にあずかれるばかりか、デートイベントと見まがう夏祭りの屋台めぐりに同伴させていただくサービスまであるのだから、チンケなマップの追加なんてメじゃない、夢の旅人として真実の愛をさまよい続けるための、広大な心のMAZEをあたえられたと言っても、過言ではないからです(どこの天空戦記やねん)。また、「世界に拒絶され、生への実感を失っていた者が、仲間たちに名前を呼ばれることで、世界との接続を回復する」という組み立ては、ちょうど初めての恋愛を運命だとカンちがいするように、家庭に問題をかかえただれかが町の愚連隊に居場所を見いだすように、鬱屈をかかえた思春期の若者たちの心に、強くひびく内容ではないかと思いました。

 いよいよ年始には、プレイアブル「少女」(エロい表現)がガチャに投入されそうなので、今年のクリスマス・ディナーはキャンセルせねばならないし、正月には遺伝的類似をともなった存在たちから、泣く泣くお年玉を取りあげる覚悟を決めるべきでしょう。まったく、ホヨバの世界戦略にふりまわされる家族が、不憫でしょうがありません。あと、空の軌跡がいったい何度目だかわからないリメイクをされる(た?)との記事を目にしましたが、本邦のニッチきわまる大長編シリーズ群は、そろそろホヨバの狡猾な手口を見習って、単一タイトルのもとにオンラインで続編を順次リリースする形へと、再構成するべきではないでしょうか。英雄伝説は2まで、テイルズは初代ファンタジアまでなロートルにとって、いまさらどの順番でプレイするかを調べるのも億劫ですし、サーバー管理などのリスクもあるのでしょうけど、少額ながら継続的な課金をお約束しますので、スターレイル方式で既存の物語が時系列に提示されていくことを希望します。

雑文「Mario, Pokémon and Switch2」(近況報告2025.12.14)

 フラッと立ち寄った家電量販店にスイッチ2が入荷されていたため、まったくその気はなかったにもかかわらず、衝動的に購入してしまった。そのまま自室の床に放置して1週間、スイッチ1からデータ移行してさらに3日間、バーチャルコンソールを通じてマリオ64と時のオカリナで郷愁を接種して1日、このままではいけないと、身内によどむ強力な億劫病を休日の力を借りておさえこみ、ようやくマリオカート・ワールドとポケモン・レジェンズZAをダウンロードするにいたる。以前からたびたびお伝えしているように、ニンテンドーのゲームが持つ唯一の弱点は、「ただひたぶるにゲームのみへ没頭する」ことを、プレイヤーに強要しすぎるところである。1日の終わりに2時間も余暇を持てれば御の字であるところの、昭和の働き方をなぜか令和に敢行しているーー謎の定額サービス「働かせホーダイ!」下においては、すべての労働法規がキャンセルされるためーー社畜系美少女マネジャーにとって、これをゲームだけに消費するのは、あまりに現実的ではないと言わざるをえない。よって、これから述べるのは1日20分程度をそれぞれ数日あそんだぐらいの、酷薄(こくすい)印象レビューにすぎないことを、あらかじめお断りしておく。

 マリオカート・ワールドは、多彩なキャラクターと変化に富んだコース、ポップな色調による秀逸なデザインに加えて、もはや懐メロと化した過去作群からの膨大な楽曲が、ハイレベルに融合した傑作であることを頭では理解しながら、三島由紀夫転生体であるにも関わらず、ディズニーランド的なるものにまったく興味を持てない身にとって、すべての表面的な虚飾を削ぎ落としていった先に残る本質は、ファミコン版F1レースから変わらぬ、アクセルボタンを押しっぱなしにしながらレバーの左右で障害物をかわすだけのゲーム性であり、バックミラーと攻撃アイテムが搭載されていることをかろうじて勘案すれば、マッハライダーのそれとなんら変わるところはないのである。美麗な画面をドット絵ほどにしか感得できなければ、「やることが少なすぎて、ゲームをしているのにヒマ」という哲学めいた状況を離人症的に俯瞰ーーもうええですやろ!ーーするハメになるのだった。そうなると、過去に養育者からかけられた呪いが、ヒナの飛び去った空の巣へ不機嫌に座るクック・ロビンの耳元で、「オマエはもう、任天堂の顧客ではないのだ……いい加減にピコピコは卒業して、まっとうな大人の趣味を見つける人生の季節がやってきたのだ……」などとささやきはじめる始末であり、壮麗なマリオカート世界をこれ以上、走り続けられるような気はしていない。

 ここからは、ポケモン・レジェンズZAの感想を雑に述べていくが、最後にプレイしたのはソード、その前にプレイしたのはゲームボーイ版の金銀という程度の、相性も個体値もわからないファン未満の泡沫による妄言と、どうか聞き流していただきたい。原神スターレイルを毎日プレイしている身にとって、「プレステ2なみのルックス」「自キャラのぎこちない操作性」「令和の御代にフルボイス”レス”」という、ソウルハッカーズ2級の凡作に対して、なぜかネットには革新的だと褒めるちぎる評があふれかえっているのが不思議でならず、新興宗教の総会にまぎれこんでしまった無神論者のような気分にさせられている(ダイマックスやらメガシンカやらの用語も新興宗教の祝詞、あるいは低偏差値ヤンキーが好む珍走団語録に聞こえる)。ドラクエ11ばりの無意味なフリーランが特徴のリアルタイムバトルもどきも、技ゲージが満タンになった瞬間の最速入力が最適解なので、ただ操作がいそがしくなったことをのぞけば、これまでのコマンド式ターン制とまったくゲーム性の変化がないように思える。シリーズのお約束である、タイプ別の弱点相関をボンヤリとしか認識していない”一見さん”にとって、ググるスキマもないあわただしさは非常に敷居が高く、かたくなにドラクエ1ばりのワン・オン・ワン・バトルを変えようとしない依怙地さをふくめて、強い息苦しさをおぼえてしまった。

 また、エッフェル塔を中心としたパリを彷彿とさせる街並みを用意しながら、パルクール要素が絶無ーージャンプなし、滑空(ほぼ)なし、ボルダリングなしーーなのも、率直に言って現代のゲームらしからぬ、両手両足をしばられたような窮屈さを感じる。街中はチュートリアルにすぎず、壁の外に広大な世界が用意されているのかと思いきや、どうも舞台はこのパリ中心街だけであり、半島や大陸産のゲームを経験してしまったあとでは、対戦のバトルゾーンや捕獲のワイルドエリアを、せまいワンマップにぎゅうぎゅうと詰めこんだ、「極小クローズワールド」としか表現できない、閉塞感に満ちた場所になっているのである。ポケモン界隈とシリーズ最新作へいだく印象を、批判にひびかぬよう婉曲的にたとえ話でお伝えすると、ちょうど「顔面の造作が不出来な女児の七五三写真を、上司から満面の笑みで見せられたときに、表情筋がこわばるのをなんとか隠そうとするさいの心の機微」そのものだと言えるだろう。ゲームボーイ時代の効果音や鳴き声が、いまだにそのまま使われていることをふくめて、ひさしぶりのポケットモンスター(幼児語でペニスの意)体験を通じて、「初代からのポケモンマスター」という言葉が称賛どころではなく、もはやなんらかの特性か疾患を揶揄しているようにすら聞こえはじめていて、昔からのファンの前では、ぜったいにレジェンズZAをプレイしていることを告げるまいと決心した次第である。なぜならば、深刻な汚言癖をわずらった者のように、リアルで上司の娘への罵詈雑言が口中よりほとばしるのを、止められないだろうからだ。

 以上、本邦の最新ゲームたちに向けた不快かつ不要の”お気持ち表明”であったが、すでにしてスイッチ2はバーチャルコンソールでレトロゲーを遊ぶだけの、実体エミュレーターになりそうな予感がしている。あと、スイッチ2が引き起こしたスモール・イシュー・ビッグ・プロブレムは、とうに解決していたはずの「A決定B決定問題」が、平穏な日常にふたたび姿を見せはじめたことであり、PCゲームをプレイするさいの誤操作が頻回となる現象に、イラだつ今日このごろである。終わる。

映画「陪審員2番」感想

 御年95歳(!)のクリント・イーストウッド監督にとって、遺作になる可能性もある「陪審員2番」について、本邦では劇場公開がなかった事実に”大衆の知性の液状化”を嘆きながら、ようやくブルーレイにて視聴。どんな話かと問われれば、「刑事コロンボ、もしくは古畑任三郎の陪審員バージョン」と説明するのが、もっとも伝わりやすいかもしれません。「陪審員の中に真犯人がいたら、評決はどうなるか?」というワンアイデアを元にシナリオを書きすすめていったら、最後の最後でまとめきれなかった印象で、先の読めない初回視聴は100点満点なのに、感想戦や2回目以降では、60点ぐらいに落ちつく作品だと言えるでしょう。陪審員モノとして、まっさきに思いうかぶのは「十二人の怒れる男」ですが、あまりに強いその物語類型の刷りこみから、半密室における会話劇によって登場人物たちの素性や性格があきらかにされてゆき、その最高潮と重なる形で事件の真相へといたる展開を期待しすぎていたことも、本作の評価へ影響をあたえている可能性は否定できません。ここからは、いつものごとくネタバレ全開となりますので、初見の感動を大切にしたい方は、来た道をそのままおもどりください。

 まずもって、物語の大前提である”無意識の轢き逃げ”に関して、落下による脳挫傷が直接の死因だとしても、はたしてプロの検屍官が車にはねられた事実を見落とすかという疑問ーー「その日は、5人の検屍を行った」という、過失をにおわせる台詞はあるーーは最後までぬぐえませんでしたし、議論のまとめ役をかってでた女性は、「これで3度目の評決不能になる」などと意味深な発言をしながら、ついにその素性を明かされることなく終わりますし、最終盤で挿入される「主人公は、バーで酒を飲まなかった」ことを確定させる回想演出も、結局、ストーリーの大筋になんら影響をあたえていません。全体をふりかえれば、彼が満場一致の”ギルティ”をくつがえそうとしたのは、「罪を告白する気はさらさらないが、無実の人間が有罪になるのも寝ざめが悪いので、せめて無罪の評決だけは勝ちとりたい」ぐらいの弱い動機にすぎないのです。テーマっぽく語られる「正義は、つねに真実の下にある」という法曹たちの信念も、本作のプロットにピースとしてカチッとはまっている感じは、まったくしません。”予想外の結末”みたいなアオリを見かけたものの、それを言葉であらわしてしまえば、「保身のため、”ギルティ”へと立ち場をもどしたーーこの場面がオミットされているのも不満ーーくせに、軽薄な功名心から検事の前で自分が真犯人だとほのめかす告白をしたことで、彼女の胸にくすぶっていた正義の心に火をつけてしまい、『手続きの瑕疵による再審理』をうながす結果となる」ぐらいの中身にすぎません。これを、「戸口に立つ検事長」という台詞なしのラストカットのみで表現したのは、非常にクリント・イーストウッドらしいなとは思いながら、たとえ裁判をやりなおしたところで、この男を有罪にできる材料はまったくなく、「映画芸術を利用した、エンディング詐称」みたいな欺瞞すら感じてしまいました。

 もしかすると、プロット由来の文句ばかり書いているように見える(じっさい、そう)かもしれませんが、視聴中にいちども物語への興趣がとぎれなかったのは、ひとえに役者の力によるものでしょう。主人公のレックス・ルーサー(ちがう)は、平均的な市井の白人男性として描かれ、気弱な善人でありながら、小悪党的なずるがしこさを瞳の奥にたたえており、かねてより顔フェチを自認する小鳥猊下は120分のあいだ、ずっと彼から目が離せませんでした。スッピンのオバハンである女性検事も、非常に魅力的な容貌をしていて、2人が対峙する最後の場面には強い緊張感をともなう、息をのむような美しさが発散されていました。「映像芸術としては最高峰に位置するが、ミステリー要素の理屈づけが強引で、成立していない部分があるように見える」というのが、本作への中立かつ公平な評かもしれません。あと、セッションのパワハラ教授がシカゴの刑事を引退して、孫の住む町で花屋を営んでいました(支離滅裂な表現)。それと、医学生を自称する日本人の英語がものすごく日本人の英語で、共感性羞恥に似た感情から身もだえさせられました。おい、とつぜん机をたたくんじゃあない! 劇中に起こるすべてのできごとをさしおいて、いちばんビックリしただろ!