猫を起こさないように
日: <span>2025年10月17日</span>
日: 2025年10月17日

映画「国宝」感想

 かつて南極物語を見に行かされたのとおなじ同調圧力にうながされ、奈良県の小さなシアターで家人とイヤイヤ国宝を鑑賞する。半年ちかくにおよぶロングランにも関わらず、老若男女の入りまじったさまざまな客層で7割がたの席はうまっており、上映前のガヤガヤとした野卑な空気感は、いったん映画がはじまると鳴りをひそめ、3時間にわたる長丁場にもかかわらず、しわぶきのひとつ、離席のひとりもありませんでした。これはひとえに、作品の力によるものでしょう。たしかなご見物の目でこの映画を大ヒットにおしあげた”かしこい大衆”が、まだ本邦に存在することをたのもしく思いますし、昭和後期の長崎をはじめとした綿密な時代考証と、徹底したロケハンによる舞台セットには、これだけの”日本映画”をキチンと撮りきる地力が制作会社に残されていることへ、素直に感動しました。抑制された演技と演出によって、「日常を超越した、舞台の魔性」を、我々みたいな虚構アディクトではない一般市民にまで届くよう描ききっていて、「これがヒットしないなら、なにがヒットするのか」とまで感じた次第です。道明寺の幕があがる瞬間、泥酔の朝帰りから「ダルい、しんどい」を連呼していたボンがスッと役の顔になるところとか、殺されたお初を我が身に憑依させ、完全なる自失で彼岸に腰をおろしていた喜久雄が「よかったで」と肩をたたかれ、ジワッと現世にもどってくるまでの様子など、観客の気づきによって強い感動が惹起する淡い演出が、冴えに冴えています。

 さて、ここからはいつものnWo節になるため、両手ばなしの大絶賛をしか聞きたくない向きは、回れ右してお帰りください。国宝について、十年に一度の傑作であることは認めながら、はたして3時間もの長尺が必要だったのかと問われれば、疑問符をつけざるをえません。この物語の本筋は、「花柳章太郎をモデルとした芸の話」であり、歌舞伎役者として完全に羽化する1回目の曽根崎心中までで作品テーマはほぼ語りきられていて、以降にこれを越える情動を引き起こす場面は存在しません(鷺娘は、後述します)。ストーリーを肥大化させている要素はなにかと言えば、「横浜銀蝿?とのバディの話」と「森七菜との地方ドサまわり」ーー「このニセモノが!」と言いながら足蹴にするシーンは、ダシの旨みで飲ませる淡麗スープを賞味していたら突如、ガリッと塩のかたまりをかんだような過剰演出になっているーーであり、まったく不要であるとまでは申しませんが、たとえば俊介サイドのドサまわりは舞台の床を這う数秒で終わらせたように、2回目の曽根崎心中をダイジェストにするなど、もうすこし尺を短く刈りこめたはずです(ダブル主役をやるには、ドラマシリーズの長さが必要です)。これはおそらく、キャスティング段階で芸能事務所からの、出演時間に関する要望ないし圧力があったためでしょう。

 特に、後者の展開へつながる名跡の娘の寝取りは、本作において雑味中の雑味になっていて、かつてのやおい界隈で死ぬほどこすられた梨園を題材にしていることを勘案すれば、国宝のジャンルは燦然たるボーイズラブなのです(力説)。撮影の仕方に由来するのでしょうけれど、本作においては寺島しのぶを”除く”女性陣が、男性陣にくらべて一段も二段も魅力を欠いており、我々ご見物のイラだちを例の「百合の間にはさまるな」になぞらえるなら、「薔薇の間にはさまるな」とでも表現できるでしょう。舞台上で、糖尿病におかされた盟友の足にすがりつく吉沢亮の様子は、セックス以外の言葉で表現できるものではなく、客席にすまし顔で座るビーエルの存在を知らないオバサマたちも、人生で経験したことのない感情に心をゆさぶられ、胸中で黄色い悲鳴をあげたにちがいないのです。それでは、本作の大トリである、人間国宝に認定されたあとの鷺娘についてふれていきましょう。役者自身の血のにじむような努力はおくとして、「人間国宝の芸である」ことに説得力を持たせるために制作陣のとった手法は、「映画のカメラによって、寄りの絵とカット割を作り、BGMとして劇伴をかぶせる」ことでした。いっしょに見た家人は、山本安英の夕鶴を思いだしたと言っていましたが、私にはこの演出はごまかしに感じられてなりませんでした。稀代の舞踏家か、実際の歌舞伎役者をボディダブルに立てて、観客席視点からのカメラで長回しにし、劇半は排除すべきだったと思います。もしかすると、これに耐えて万人を黙らせる”ホンモノ”を提示できないことが、現代における梨園の真実なのかもしれません。

 最後に大蛇足を付記しておきますと、個人的にきわめて大問題だったのは、喜久雄の少年時代を演じる子役があまりにもエロすぎて、青年時代の吉沢亮が相対的に魅力を欠くように見えてしまったことでした。私の心に巣くう少女は、彼が登場するたびに頬を赤らめて、両手でおおった指の隙間からチラチラとのぞき見るような始末で、田中泯が鏡ごしにその立ち姿を一瞥するシーンでは、虚構のデリケートゾーンがフラッド状態になったほどです。さらに言わせていただければ、ふりむきの動きを体へおぼえこませるために重い荷物をかつぎながら、はだけた上半身へ汗をしたたらせてうめく様子は、ほぼ児童ポルノで、フランス行きのエアバスで国宝が上映されたあかつきには、乗客全員が逮捕されること必定でしょう。仮に栗本薫が存命だったならば、本作に狂喜乱舞して、大部のやおい小説を商業と同人の双方で量産しまくったにちがいなく、劣化と陰口をたたかれ、温帯と揶揄されようとも、やっぱり生きていてほしかったなと心から思いました。国宝の次は同じ制作チームで、長唄を題材にした同女史の名作「弦の聖域」を映像化していきましょう。