猫を起こさないように
月: <span>2025年10月</span>
月: 2025年10月

ゲーム「サイレントヒルf」感想

 馬齢を重ねるうち、現実と同じ重さを持つゲーム内での記憶というものがいくつか生まれてきて、そのうちのひとつに、盆の時期に仕事が入ったため、家人たちだけを実家に帰したあと、ひさしぶりの一人の夜にシアターで遊んだSIRENがあります。薄暗い空間で体験する和風ホラーは本当に怖くて、口内炎に舌でさわるのをやめられないみたいに、延々と伊東家を探索した記憶は、生々しい現実のように思いだされるのです。庭と和室の間に横たわる長い縁側とか、廊下の突き当たりにある収納とか、セルロイドの人形やピンクのペンケースなどのかわいらしいグッズがならんだ祖母の部屋など、少年時代の夏休みに訪れた両親の出里と印象が混濁して、どちらがゲームでどちらが現実に見たものだったか、わからなくなるほどでした。少しばかり長い前置きとなりましたが、サイレントヒルの最新作が海外ではなく、昭和後期における日本の農村部を舞台にしていると聞きおよび、かつての経験をふたたびと、このたびのプレイにいたったわけです。幼少期に目にした記憶のある古い町並みの再現度がすばらしく、マネキンをモチーフにしたクリーチャーも恐怖と嫌悪を同時に生じさせるユニークさなのに、主人公はまたまたご多分にもれず女子高生で、「セーラー服の背中におかっぱの黒髪がシャラシャラゆれる! ゲーム中でもっとも長い時間を目にするものに、これ以上いいものなんてないアルヨ!」などとセルフパロディでヘラヘラ笑っていたら、ストーリーを進めるにつれて、不思議な違和感がどんどん強まっていきました。

 少年のようにふるまう少女の奇矯なキャラ造形にはじまって、「相棒」「戦友」「宇宙戦争」などの首をかしげるワードからなる舞台設定など、かつて上の世代が程度の低い作品をけなすときに用いたのと同じ意味で、「ほとんどマンガかラノベ」みたいなシナリオなのです。これがまた、フォトリアルなCGからは致命的に浮いていて、以前にどこかで書いた「口を閉じれば絶世の美少女なのに、口を開くと中身はアホでセリフはひらがな」を地で行くようなゲーム体験になっている。それでも、絵作りの雰囲気とBGMや環境音の鳴らし方ーーサラウンドが用意されていないのは、残念のひと言ーーはとてもいいので、テキスト由来の違和感を押さえつけながら、プレイを続けました。ゲーム部分については、わかりにくいマップにわざとカメラの視野角を狭く設定し、主人公の動きをモッサリと操作性の悪いものにしているのは、ホラーゲームとしての怖さを演出するためだと、百歩ゆずってのみこんだとしても、それらにくわえて「生命力」「精神力」「スタミナ」「溜め」「武器の耐久度」の5ゲージを管理しながら、ソウルシリーズばりのジャスト回避まで強制されるのは、すべての要素がケンカをしすぎていて、ほとんど「醤油豚骨味噌塩魚介ラーメン」みたいな、絶望的な味わいになっています(クリアまで8時間ぐらいしかないボリュームなのに、マルチエンディングをエサに周回させる仕様もダルくて、トゥルーエンドは動画サイトによる視聴となりました)。

 そして、”それ”は物語の終盤にさしかかるあたりに、突然やってきました。エッキスにおいて、主人公のおかしな性格に言及した序盤の感想をしか見かけない理由が、ようやくわかった次第です。かつてのオタクたちは、どこか露悪や反社会をことさらに誇示する傾向があって、その極北に「リョナ」と呼ばれるーー調べると、「猟奇的オナニー」の略称だそうーー異常性癖が位置しています。おもに少女の四肢を欠損させたり、腹を裂いて内臓をまろびださせたり、不可逆の傷を負わせることに性的な興奮をおぼえる嗜好のことで、善良な市民のみなさんには、この文面の意味さえ理解できないことでしょう。サイレントヒルfのストーリーに、なんの前ぶれもなく挿入された「リョナ」について、アカウントを凍結される覚悟で具体的に描写ーー相当に”胸クソの悪い”中身なので、読みとばしてかまいませんーーしますと、「少女自身にノコギリで右腕を切り落とさせる」「少女の背中に焼印を押して広範囲のケロイドを生じさせる」「少女の顔面の皮をナイフで剥ぎとる」であり、これをフォトリアルのCGで表現するものだから、様々な虚構で数々のグロを経験してきて耐性があるはずなのに、少し気分が悪くなってしまったほどで、オーストラリアなどで販売禁止の判断が下されたのも、むべなるかなといったところでしょう(ドン引きしてプレイをやめた層の多いことが、感想のかたよりにつながっているのかもしれません)。

 そして、この凄惨なリョナ場面が物語上でなにを意味しているのかと言えば、「地元の旧家に嫁ぎ、姓を変更する女性の葛藤」だそうで、書きたいテーマのショボさとは到底つりあわない、大さわぎの頭文字F(F!)的仕草となっていて、手段が目的とみあわないという意味で、児童虐待と殺人を通じて日常の大切さを説いたタコピーの原罪を思いだしました。また、「戦争がえりのPTSDに駆動された父親の家庭内暴力と、それに文句も言わず忍従する母親」という昭和のアニメみたいな描写も、人生で一度もペアレンタル・ワークに従事したことがない者による一方的な断罪にしかなっておらず、端的に言って不快でした。なによりかわいそうだったのは、本作の主人公のボイスとモーション・キャプチャーを担当した女性タレントで、インタビュー記事を読むと「気がふれてしまいそうな日もあった」とか、「あんな世界には1秒たりともいたくない」とか、「台本も読んだはずなのに、撮影時の記憶がほとんどない」など、あきらかに心的外傷による解離性健忘にかかっていて、もし自らの係累が同じような経験をさせられたらと想像するだけで、怒りに目がくらみます。

 いったいだれがこんなひどい話を書いたのかとググッてみたら、なんということでしょう、”あの”ドラグーン・オー・セブンじゃないですか! どうりで美麗なCGにまったくみあわない、同人ラノベみたいなシナリオだと思いましたよ(オマエが言うな)! つまり本作は、他社IPの乗っとりによる「夏の終わりに鳴くセミの鳴くシーズン」のリメイクみたいなものだったわけで、年齢の上昇とともに上の世代が集団から消えると、かつての鼻つまみ者たちが能力ではなく、時間の経過だけで大家としてあつかわれだす例の現象を、まざまざと見せつけられた気分です。組織に所属する就職氷河期の生き残りは、自己評価の低さから自身の影響力をひかえめに見積もりがちですが、このような他者のする狼藉を見るにつけ、若い世代への自らの言動を戒めねばならぬという気持ちを、新たにさせられました。それこそ、幼稚な思考の浅さをグロで補填するアブノーマル・シングル・ミドルエイジ・土人作家が、モーション・キャプチャーでの演技やボイス収録の場に立ち会って、我が子ほど年齢の離れた女性に、おのれの反社会的欲望が具現化される喜びにやにさがった顔で、指導や声かけをおこなう場面を思いうかべるだけで、同情とくちおしさに涙がにじみます。

 メタファーヴィンランド・サガとはまた別の意味で、「戦争を知らない昭和生まれ」が手がける虚構には、同世代の者にしかわからない独特の臭気がこびりついており、クリア後は自己嫌悪に近い感情でひどく落ちこみました。サイレントヒルfの物語は、コナミのような大手からの発売をゆるされる”品格”を持ちあわせておらず、もしあなたがフランス行きのエアバスでこれをプレイしているのをCAに目撃されたならば、シャルル・ド・ゴール空港に到着した瞬間、児童略取の罪で逮捕されること、うけあいでしょう(え、しつこいって? すいません、あまりにおもしろい事件だったので……)。

映画「国宝」感想

 かつて南極物語を見に行かされたのとおなじ同調圧力にうながされ、奈良県の小さなシアターで家人とイヤイヤ国宝を鑑賞する。半年ちかくにおよぶロングランにも関わらず、老若男女の入りまじったさまざまな客層で7割がたの席はうまっており、上映前のガヤガヤとした野卑な空気感は、いったん映画がはじまると鳴りをひそめ、3時間にわたる長丁場にもかかわらず、しわぶきのひとつ、離席のひとりもありませんでした。これはひとえに、作品の力によるものでしょう。たしかなご見物の目でこの映画を大ヒットにおしあげた”かしこい大衆”が、まだ本邦に存在することをたのもしく思いますし、昭和後期の長崎をはじめとした綿密な時代考証と、徹底したロケハンによる舞台セットには、これだけの”日本映画”をキチンと撮りきる地力が制作会社に残されていることへ、素直に感動しました。抑制された演技と演出によって、「日常を超越した、舞台の魔性」を、我々みたいな虚構アディクトではない一般市民にまで届くよう描ききっていて、「これがヒットしないなら、なにがヒットするのか」とまで感じた次第です。道明寺の幕があがる瞬間、泥酔の朝帰りから「ダルい、しんどい」を連呼していたボンがスッと役の顔になるところとか、殺されたお初を我が身に憑依させ、完全なる自失で彼岸に腰をおろしていた喜久雄が「よかったで」と肩をたたかれ、ジワッと現世にもどってくるまでの様子など、観客の気づきによって強い感動が惹起する淡い演出が、冴えに冴えています。

 さて、ここからはいつものnWo節になるため、両手ばなしの大絶賛をしか聞きたくない向きは、回れ右してお帰りください。国宝について、十年に一度の傑作であることは認めながら、はたして3時間もの長尺が必要だったのかと問われれば、疑問符をつけざるをえません。この物語の本筋は、「花柳章太郎をモデルとした芸の話」であり、歌舞伎役者として完全に羽化する1回目の曽根崎心中までで作品テーマはほぼ語りきられていて、以降にこれを越える情動を引き起こす場面は存在しません(鷺娘は、後述します)。ストーリーを肥大化させている要素はなにかと言えば、「横浜銀蝿?とのバディの話」と「森七菜との地方ドサまわり」ーー「このニセモノが!」と言いながら足蹴にするシーンは、ダシの旨みで飲ませる淡麗スープを賞味していたら突如、ガリッと塩のかたまりをかんだような過剰演出になっているーーであり、まったく不要であるとまでは申しませんが、たとえば俊介サイドのドサまわりは舞台の床を這う数秒で終わらせたように、2回目の曽根崎心中をダイジェストにするなど、もうすこし尺を短く刈りこめたはずです(ダブル主役をやるには、ドラマシリーズの長さが必要です)。これはおそらく、キャスティング段階で芸能事務所からの、出演時間に関する要望ないし圧力があったためでしょう。

 特に、後者の展開へつながる名跡の娘の寝取りは、本作において雑味中の雑味になっていて、かつてのやおい界隈で死ぬほどこすられた梨園を題材にしていることを勘案すれば、国宝のジャンルは燦然たるボーイズラブなのです(力説)。撮影の仕方に由来するのでしょうけれど、本作においては寺島しのぶを”除く”女性陣が、男性陣にくらべて一段も二段も魅力を欠いており、我々ご見物のイラだちを例の「百合の間にはさまるな」になぞらえるなら、「薔薇の間にはさまるな」とでも表現できるでしょう。舞台上で、糖尿病におかされた盟友の足にすがりつく吉沢亮の様子は、セックス以外の言葉で表現できるものではなく、客席にすまし顔で座るビーエルの存在を知らないオバサマたちも、人生で経験したことのない感情に心をゆさぶられ、胸中で黄色い悲鳴をあげたにちがいないのです。それでは、本作の大トリである、人間国宝に認定されたあとの鷺娘についてふれていきましょう。役者自身の血のにじむような努力はおくとして、「人間国宝の芸である」ことに説得力を持たせるために制作陣のとった手法は、「映画のカメラによって、寄りの絵とカット割を作り、BGMとして劇伴をかぶせる」ことでした。いっしょに見た家人は、山本安英の夕鶴を思いだしたと言っていましたが、私にはこの演出はごまかしに感じられてなりませんでした。稀代の舞踏家か、実際の歌舞伎役者をボディダブルに立てて、観客席視点からのカメラで長回しにし、劇半は排除すべきだったと思います。もしかすると、これに耐えて万人を黙らせる”ホンモノ”を提示できないことが、現代における梨園の真実なのかもしれません。

 最後に大蛇足を付記しておきますと、個人的にきわめて大問題だったのは、喜久雄の少年時代を演じる子役があまりにもエロすぎて、青年時代の吉沢亮が相対的に魅力を欠くように見えてしまったことでした。私の心に巣くう少女は、彼が登場するたびに頬を赤らめて、両手でおおった指の隙間からチラチラとのぞき見るような始末で、田中泯が鏡ごしにその立ち姿を一瞥するシーンでは、虚構のデリケートゾーンがフラッド状態になったほどです。さらに言わせていただければ、ふりむきの動きを体へおぼえこませるために重い荷物をかつぎながら、はだけた上半身へ汗をしたたらせてうめく様子は、ほぼ児童ポルノで、フランス行きのエアバスで国宝が上映されたあかつきには、乗客全員が逮捕されること必定でしょう。仮に栗本薫が存命だったならば、本作に狂喜乱舞して、大部のやおい小説を商業と同人の双方で量産しまくったにちがいなく、劣化と陰口をたたかれ、温帯と揶揄されようとも、やっぱり生きていてほしかったなと心から思いました。国宝の次は同じ制作チームで、長唄を題材にした同女史の名作「弦の聖域」を映像化していきましょう。

雑文「V. Saga, M. Lion and H. Diver」(近況報告2025.10.13)

 ヴィンランド・サガの最終巻を読む。少し前の巻での「長年の仇敵が主人公をゆるす瞬間」の描き方がとてもよかったので、戦争の時代における”不戦”の先をどう語るのかについて、かなり期待していたのですが、さんざんメタファーの感想でディスった「昭和の平和教育」のお題目ーー戦争は反対です、なぜって戦争は反対だからですーーをトレースするみたいにして、尻きれトンボで終わってしまった。それこそ、菜切包丁をホウレン草の固い部分にふりおろすみたいに、「物語がそこで終わることを求めた」のではなく、「作者がその地点で語るのをやめた」終わり方になっているのです。ふたたび、我々の世代が呪われている呪いの実在をまざまざと見せつけられ、朝晩が急に寒くなってきたのあいまって、海溝のようにストンと気持ちが落ちるのを感じて、あわてて3月のライオン18巻を手にとりました。これまでに指摘した「脇役たちのサブシナリオが魅力的すぎて、主人公のメインストーリーが相対的に弱くなる」を煮つめたような内容ーーまあ、17歳のジャリなんて肉の輝きをとりのぞけば、中身はペラッペラでしょうけれど!ーーになっていて、おまけに巻末で作者が「次巻、最終巻!」を宣言しており、ひっくりかえりました(てっきり、群像劇と英雄譚は両立しないーーすべての人物の内面を微細に語れば、主人公の特別さは消えるーーことを自覚した、ライフワークとしての「終わらない物語」になるのだと思っていたのです)。たった2作品だけで一般論へ落としこむつもりはないのですが、作者が週間連載に耐えられないほど年齢を重ねて、月刊誌移籍や不定期掲載になった作品は、画面の密度はどこまでもあがれど、物語としての構造をうしなってーー描きたい場面を数珠につないで、気力かアイデアが切れたら、両端をひもでゆわえて提出するーーいく気がします。

 陽のいきおいのかげりと中年期以降の人生の衰退をオーバーラップさせるような読書体験に、気持ちの落ちこみはいっそう加速するなかで、タイムラインに流れてきたハチワンダイバーの電書半額セールを一括購入し、すがるように読みはじめました。すると、心のテンションはみるみるうちに急浮上へと転じたのです。メチャクチャおもしろいじゃないですか、これ! 描線ブレまくりのお世辞にも上手いとは言えない絵で、フキダシはアホみたいにデカくて、ストーリーはいきあたりばったりなクセに、鼻血とゲロが大好きなことだけは終始一貫してて、ヒロインは特殊性癖を対象にしすぎて魅力ゼロ、幼女の描き方もブッサイクなのに、なのにですよ、ほぼネームとパースとくるったような将棋への熱量だけでどんどん読ませていく、夕暮れの空き地に現れる薄汚れた(失礼)紙芝居師のような、マンガ本来のプリミティブな魅力がギュッ(ギュッ!)と詰まった作品になっている。最初のうちは、プロ棋士になれなかった者たちの”その後”をドキュメンタリー的に描くのかと思っていたら、仮面ライダーにはじまり、ドラゴンボール、バーチャファイター、大和に武蔵にビスマルクと、「男のコの好きなモノ」を闇鍋みたいにほうりこんだ、グッチャグチャの物語へと変じてゆきます。将棋への私的造詣を開陳すれば、ファミコンが家にくる以前に「はさみ将棋」「歩まわり」「コマくずし」を遊んでいたぐらいの人間なのですが、盤上に起こるさまざまな局面を絵による直喩でガンガン表現してくれるので、そんなルールを知らないシロウトでも楽しむことができ、将棋の魅力に対する呼び水的な普及マンガとして成立しているのです(年に数回、一日の作業手順をすべて記憶して、どの段階にも脳内でロールバックできる状態が必要な頭脳労働があって、もしかすると将棋への適性があるような気はしますが、いまさら手をだそうとは思いません)。

 個人的に強く感銘を受けたのは、奨励会の年齢制限によって、人生の時間をほぼすべてささげてきた道をとりあげられる残酷さで、「将棋より大切なことなんて、人生にあるのか」という言葉は、重たいボディブローのように心へズシリとひびきました。なんとなれば、小鳥猊下がいまだに書き続けているのは、テキスト奨励会には年齢制限がないだけのことで、「おもしろい、あるいは美しいテキストを書く以上に大切なことなんて、人生にあるのか」と、なかば本気で考えているからです。また、「社会のだれの役に立たなくてもゆるしてください、死ぬまで将棋の地獄で苦しみますので」というセリフもまさに至言であり、ちかごろ急激に数を増してきた多くの虚業に従事する者がいだくべき、”覚悟の質”を言い当てています(その一方で、ガテン奇乳と妊婦腹への嗜好を前面に押しだし、40歳をババアと呼び、35歳を人生の折り返し地点とする作り手の主観世界が、万人に受け入れられるとも思いません)。ハチワンダイバー、すべての女性を読者から排除し、さらに男性さえもふるいにかける作風だとは感じながら、読めばたちまちテンションがぶちアガるという一点において、日常に鬱傾向のある非虚業のみなさんにオススメです! 「ラスボス戦がショボい」というのも、名作の条件を満たしていますね! あと、チェンソーマン第2部の変容ーーアホみたいにデカいフキダシーーは、この作者のセンをねらったのかなと、ふと思いました。

ゲーム「ボーダーランズ4」感想(少しFGO)

 発売初週で、エンドゲームの薄さに文句をつけている異常者たちを尻目に、ゆっくりとボーダーランズ4をプレイ中。近年に類を見ないほど、心中にハクスラ熱が高まっており、発売3日で72時間プレイするようなキティ・ガイ(子猫系男子、の意)たちーー中の人は、大富豪か生活保護受給者ーーと勝ち目のない勝負をして優越感をあたえたりしたくないので、「ラダーもシーズンもないハック・アンド・スラッシュ」を探し求めた結果、本作へたどりついたというわけです。昔ッから、ファースト・パーソン・シューターに苦手意識があり、最後にプレイした純粋FPSーーアンチャーテッドみたいな「使用武器に銃もある」だけのゲームはのぞくーーは、おそらく初代プレステのキリーク・ザ・ブラッドにまでさかのぼります(操作性の悪さと、なにより初めて体験するポリゴン空間に脳が慣れていなかったため、いつも車酔いのような症状に悩まされていたことが、昨日のように思いだされます)。なにより、コントローラーのレバーを使ったエイムが極端に苦手で、ゲーム内で銃を手にしたさいのこれまでの命中率を合算して平均すれば、きっと50%を下まわっていることでしょう。そういったわけで、どれほど世間をにぎわせていて、どれほど名作の呼び声が高くとも、ずっと純粋FPSを避けてきた人生だったのに、なぜいまボーダーランズ4なのかと問われれば、そのきっかけはサイバーパンク2077にあります。同ゲームの1周目を刃傷沙汰プレイでクリアしたあと、2周目のJUNKER(スナッチャー!)プレイであまりに拳銃が当たらないため、ふとした思いつきで目の前のマウスをつかんでエイムしたら、今後の人生でなんど訪れるかわからない、かなり大きめのパラダイムシフトを経験したからです。なぜか、ずっと疑問をいだいてこなかったコントローラーによるエイムとカメラ操作のチグハグさは、iPadでコマンド入力の複雑な格闘ゲームをやっているみたいなものだったことがわかった瞬間でした。

 長い前置きとなりましたが、いよいよボーダーランズ4の中身の話をしていきましょう。コントローラーで移動を行いながら、マウスでエイムするプレイスタイルならば、超遠距離の敵もスコープなしで狙撃できますし、短中距離からはヘッドショットによるクリティカル連発で命中率は体感90%を越え、永遠もなかばを過ぎたいまになって、ついにファースト・パーソン・シューターの楽しさに開眼した次第です。正直なところ、システム的にはひと昔もふた昔も前の手ざわりになっていて、ファストトラベル地点がそれぞれ間遠なため、かなりの時間を割くことになるロケーション間の移動に、オープンワールドのキモである探索要素が皆無ーーマップにバラまいてあるボックス・イコール・宝箱の中身は、ほぼすべて弾薬ーーだったり、マップの高低差をどこまで二段ジャンプで越えられるかの基準があいまいだったり、クエスト等へのガイド機能がいい加減でいつまでも目的地にたどりつけなかったり、純粋FPSゆえにプレイヤーのとれる行動は少ないはずのにクエストのヒントもまた少なく、せまいエリア内でむなしい試行錯誤を延々と行うハメになったり、エネミーやオブジェクトがポリゴンの隙間に消失してクエスト進行不可となったり、マッチング機能が弱くてずっとソロプレイを強いられたり、ディアブロ2のごとく「マルチにタダ乗りしてストーリー部分をスッとばし、ハクスラの醍醐味である”装備掘り”のステージへ早々に突入する」ことを意識していた最初の10時間ぐらいは、近年の他ゲーム群に比してきわめてムダの多いこれらの仕様に、心の底からイライラしていました。しかしながら、大富豪の生活保護受給者と勤め人が、ゲームの進捗で張りあったところでしょうがないと考え方をあらため、ボーダーランズ・ワールドをじっくり楽しむほうへ軸足を移すと、気がつけばこの世界のことがすっかり好きになってしまっていたのです。マッドマックスに銃夢を足して軽薄を調味料にしたような世界観で、主人公はトリガー・ハッピーかつ利己的な快楽主義者、NPCたちは底抜けに頭の悪いゴロツキかクチの悪いロボばかり、リッパーたちの生命はどこまでも粗末に軽く、「世界の命運」なんて言葉がいちばんにあわない物語だと言えるでしょう。

 少し話はそれますが、FGOの最新イベントである「新撰組・ジ・エンド」が、「ぐだぐだに外れなし」を更新する出色のできで、さすがファンガスの次に信頼する書き手だと感心させられました。本来のなりわいである漫画家の持つ特性でしょう、キャラクターの内面をしっかりと把握した上での短いセリフのかけあいでストーリーを進行させ、「だれの人生にも、ゆずれないものがある」からこそ起こるコンフリクトを、絶対悪を作らずに登場人物のだれも下げないまま語りきるのは、ファンガスの創作手法ととても似ているように感じます。今回のシナリオも、冷厳かつ辛辣な歴史家の視点で、敵味方の双方から近藤勇という人物を徹底的に批判していきながら、最後の最後に「でも、」と言って、他ならぬ作者その人が彼にやさしく救済の手をさしのべる。世界に必要なのは、いつだってこの「でも、」なのであり、「どこまでも人の争いは絶えず、いくら時代を経ようとも人の知恵は深くならず、いまの戦争は未来の戦争の火種を次の世代へと植えつけ、本質的に多くの人生は生きる価値の無いものである」との諦念へと沈んだあとに、「でも、」と言いながら顔をあげられるかが重要なのです。今回のシナリオで個人的に気にいったのは、人斬り抜刀斎が空腹のときにオニギリをもらったお礼として神を斬るエピソードで、あきらかにファンガスと社長の関係性への目くばせがあり、長きにわたり近くで2人を見てきた人物だからこそ可能な、FGO終章へささげる最高の手向けだと思いました。

 意図的にそらせた話をボーダーランズ4へもどしますと、本作のサブクエストはどれもよくできていて、この世界観を好きになる決定的なきっかけは、自我を持った不発弾であるジジのお話でした。かつてちゃんと爆発できなかったことで、おのれのアイデンティティに悩む爆薬を爆発させてやるため、ミサイルのガワと起爆装置を用意してやるというブッとんだ筋書きなのですが、道中に少女の声でとつとつと語られる内省的な”自己定義”の弁にすっかり感情移入させられて、荒唐無稽な出だしにゲラゲラ笑っていたはずなのに、やがてこれは本質的に自殺幇助の話なのだと気づかされて真顔になり、発射台のカウントダウンにせまる大量のエネミーをむかえ撃つころには、両目は涙でいっぱいになっていました。そうして、無事に爆発の本懐を遂げたジジの正体が、弾道ミサイルではなく打ち上げ花火だったのには、「ああ、よかった! あんなにやさしいキミが、人を殺す道具でいいはずがない!」と、ひとり哀悼の嗚咽をもらしたのです。ふざけたハンドルネームからもわかるように、小鳥猊下がまさにそれで、ぐだぐだの作者もきっとそうだと確信していますが、なにより含羞から、最初はだれにもとりあってほしくなくて、下品なギャグやオドケから軽薄にはじまった語りが、次第に熱をおびて真剣さを増してゆき、最後には「わたしを愛してくれ!」という魂の絶叫へと変じる、”臆病なくせに尊大な自我”を隠しきれない書き手が大好きなのでしょう。以上、ぐだぐだ新撰組と不発弾ジジと小鳥猊下の三者へ、身勝手な牽強付会の共通点を見つけだす自分語りのご紹介でした。

 あと、最初のうちは英語音声でプレイしていたのですが、複数の敵と交戦するエイムの過集中において、リスニングだけで内容を理解できる英語力を持ちあわせていないため、泣く泣く日本語へと切りかえたところ、本作のローカライズは過去に例を見ないほどクオリティが高く、ビックリさせられました。原文を生かしながら、本邦のオタク文化とネットスラングをたくみに織りまぜて、ギャグや方言や固有名詞のすみずみにいたるまで、すべてを徹底的に我々のローカル言語へと置換して、ボーダーランズの世界観を”日本語の感覚”で再構築することに成功しているのです。まさに翻訳ソフトや人工知能ではたどりつかない、人のする文系スキルの結晶になっていて、いちテキスト書きとしてうれしくなってしまいました。不発弾ジジの話も日本語でなければ、ここまで感動しなかったような気もしますし、まだかろうじて地上に残されている”人の御業”に対して、素直にシャッポをぬぎたいと思います(もちろん、デュエルシャポー)。