猫を起こさないように
月: <span>2025年9月</span>
月: 2025年9月

アニメ「劇場版チェンソーマン・レゼ篇」感想

 最近、ひっそりと配信されたチェンソーマン総集編が、総集編とは名ばかりのテレビ版12話276分を214分で再録音・再編集した完全リメイク版だったのに爆笑して、ぜったいに見に行くと決めていた劇場版チェンソーマン・レゼ篇をIMAXで鑑賞する。公開直後に手ばなしの激賞がタイムラインを埋めたあとは、まったく作品への言及が消えて無音になる現象ーー初日に劇場へ足を運ぶ熱狂的なファンが盲目の絶賛をし、ふつうのファンは否定的な評価をきらう近年の風潮から黙りこむためーーを観測していたので、正直なところ、イヤな予感はありました。全体の印象としては、「レゼという”おもしれー女”の登場から退場までを原作から切りだせば、映画になるのでは?」ぐらいの思いつきで映画にしたところ、思っていたより映画にならなかったといった感じで、「マンガで読むと映画なのに、映画で見るとマンガ」としか言えない仕上がりは、藤本タツキの作家性に対する強烈な批判にすらなっています。つまり、「映画っぽいカメラとセリフから成る、映画っぽいシーン」のリニアーかつブツ切りな連続が彼のストーリーテリングの根幹で、物語全体の構成や伏線はあまり意識されていないことが、本作を通じてあらためて浮きぼりになっており、マンガ読みの中でなかば神格化されたチェンソーマン第1部は、じつは大した中身じゃなかったのではないかという地点にまで、話がさかのぼってしまうほどです。

 ザッと内容にふれていきますと、日常パートは執拗な静物のインサートにはじまり、蛍光灯の明滅する緑基調の洗面台、夜のプールではしゃぐ男女、雨粒視点で落下するカメラ、画面上部3分の2に地平線とならぶ背中、電車通過後のプラットフォームに立つ人影など、「なんか別の映画で見た」ような既視感の強すぎる演出が多用され、アクションパートは藤本タツキというより制作会社の個性だとは思うのですが、極端な構図に動きとエフェクトを盛りまくる、原作とは真逆の「足し算的思考」な設計になっていて、いったい画面のどこに視線を向ければよいのかわからず、前日の睡眠時間が少なかったせいもあってか、IMAXの爆音にもかかわらず、眠気を感じてしまったぐらいでした。レゼ篇そのものが「恋に落ちた相手だから、殺せない」話なのに、なぜか原作からアクションを大幅にカサ増しし、おまけに敵の攻撃ターンが延々と続いてチェンソーマンの反撃は極少なため、近年の作品でたとえると、ジェームズ・ガンのスーパーマンみたいなカタルシスのなさになってしまっています(まあ、作者の「サド女子に痛めつけられるのが好き」という性癖には満点で刺さるのでしょう)。

 テーマっぽく提示される「田舎のネズミ、都会のネズミ」もよくよく考えると、ちっともストーリー全体をつらぬいていませんし、「映画っぽいパッケージなのに、映画の体(てい)をなしていない」のは、藤本タツキ作品の批評をねらってわざとやってるのでないとすれば、総集編から旧監督の名前を削除するほど自己顕示欲の強い、新しい監督の非才によるものでしょう。チェンソーマン第1部の印象的な絵ーー地獄で宇宙服の上半身と下半身が地平線に向かってならぶなどーーは、独立したスーパーアシスタントの手腕だったみたいな話も聞くし、「どれだけ第1部のアニメ化でクオリティを高めたところで、第2部はアレだしな」という冷めた視点はどこかつきまといます。最後に、チェンソーマン第2部を担当する国立大出身の編集者が、デンジ君そのまんまみたいな中卒の作者(たとえですよ、念為)をナメくさって、その才能を壊したのだとするならば、有機物が無機物に変じる瞬間に責任を持つだとか、広島弁でブチころがすだとかの婉曲表現ではなく、ストレートに「殺すぞ」と言わせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

ゲーム「マシンチャイルド」感想

 なんと、マシンチャイルドをダウンロードして5時間ほどプレイ。本作は、すでに衰退したジャンルであるところの、プリンセスメーカーを源流とする育成ゲームであり、8時だョ!全員集合にフィーチャーした(まちがい)卒業〜Graduation〜でアダルトゲームのうぶ湯をつかった身としては、見すごせない作品であったからだ。つまり、都市伝説解体センターを手にとった動機と類似する、ある種の過去への憧憬と言えるかもしれない。科学が誕生する以前、個人の知がその生を超えては悪い効率でしか蓄積しなかった時代において、「現在は過去の劣化したもの」と考えられていたというが、ムダに馬齢をかさねた個人の感覚だけで言えば、まったく正しいように思える。なんとなれば、最近ではファミコンから初代プレステ、あるいはセガサターンぐらいまでのゲーム体験が、心中であやしい魔術的な神秘性をたたえるようになってきたからである。少々それた話をマシンチャイルドにもどせば、本作のイラストを手がけるマス・オーヤリa.k.a.ビッグ・ファック先生ーーエロ漫画家ばかりが集う十数年前のオフ会にて、名前が出たとたんに場の空気がおかしくなった、筒井康隆の作品で言うところのフーマンチューみたいな存在ーーの描く女性の特徴は、比較的プレーンな顔だちに強烈なフェティッシュを感じさせる、氏独自の骨格と肉づきをそなえた身体が接続されているところである。ボディ素体の書き分けは、大きく分けて「十代前半」「十代後半」「二十代前半」の3パターンで、その類型を作品によって出しいれする作家なのだが、マシンチャイルドには3人の娘が登場するにもかかわらず、うち2人は「十代前半」が選ばれている(残る1名はキメラティック・パイオツカーデー娘で、隠しキャラは未見)。すなわち、顔面サイズとほぼ同じ肩幅、ブドウのような胸部と浮いたアバラに、ししゃもを思わせるぽっこり腹部に、たっぷりとした臀部をのせるのに充分な広さを持たせた腰といったぐあいである。

 本作はプリンセスメーカーへのレスペクトを公言しているため、成長段階に応じて先にあげた3パターンを推移させるのかと思えば、育成期間がわずか1年ということもあってか、身長や胸部サイズに変化はいっさい生じない。冒頭にサラリとふれられる「機械の子ども」という設定は、タイトルにまでなっているくせに物語的な意味はなく、「ある日、空から美少女が降ってくる」の変形にすぎないことがわかる。田舎から中世ヨーロッパ風の街へ移動したあとは、季節感にとぼしいボンヤリとした日々を送ることになるのだが、プレイアブルな娘が3人いるにも関わらず、性格もイベントでの応答もまったく同じで、気がつけば全員がほぼ全裸のマイクロビキニで恥じらいなく街を闊歩する始末である。たとえば瑠璃の宝石が「性欲を入口に、長大な時間軸を知覚することで気づく、世界の深奥にいざなう」作品だったのに対して、マシンチャイルドは「性欲を入口に、姉妹や娘を持たない者がいだく、近親相姦への憧れにいざなう」作品になっているのだ。そもそもこのジャンルは、PCのスペックがいまよりはるかに低かった時代に、プリンセスメーカーなら赤井孝美、卒業〜Graduation〜なら竹井正樹といった、当世の有名イラストレーターによるCGを30枚ほど閲覧させるための時間かせぎ的な障壁にすぎず、なんならゲーム部分には、女性のヌードが背景に隠されているブロック崩しぐらいの意味しかなかったのである。なので、もともとの期待値が高かったわけではないのだが、「お父さん」というムダに解像度の高い分野が選択されていたことは、プレイする上でかなりの「ノイズ」になったことをお伝えしておかねばなるまい。

 畢竟、親なんてものは「羽化するまでの止まり木」にすぎず、幼虫にはたっぷりと繁らせた青葉をたらふく食わせ、サナギになるための広くて静かで外敵のいない幹を用意し、あんな細い糸1本では自重を支えきれないのではないかとハラハラさせられ、サナギの内側でかつての愛らしい幼虫が原形を失ってドロドロに溶けてゆくのをかなしく見まもり、サナギが身じろぎもしない静かな夜には本当に生きているのか心配し、ある朝にはサナギの上につかまる別の生き物にハッとさせられて、しわくちゃに濡れたその羽が美しくピンと広がって乾いていくのに息をのみ、それが青空へと羽ばたいたあとは、ただその場に立ちつくしたまま、おのれが枯れはてるまで、それの旅路の無事と幸福を祈ることしかできない、無力な存在なのである。他方で、マシンチャイルドが父性と呼ぶなにかは、幼体から成体までのあいだにある、おのれにとってもっとも好ましい時期に胴体へ防腐剤を打ち、標本箱にピン止めして、無垢なる美の静謐を永遠に観察したいという、すべての男性の胸中にめずらしくないーー「ほう、」ーー欲望そのものである(「性欲を上回る、名状しがたい感情」を経験せずにいられることが、不幸なのか幸福なのか、私には判断できない)。ともあれ、昭和時代には有効だった「少ないリソースを鬼のように周回させることでカサ増しし、最終目標はイベントとエンディングCGのコンプリート」というゲーム性は、令和の御代にあってギョッとするほど古めかしく、「マス・オーヤリの大ファンで、彼の絵を見るためならどんな苦労もいとわない」人物以外には、まったくオススメできない内容となっている。以前、都市伝説解体センターは5,000円以上とるべきと書いたが、ただのCG集にすぎないマシンチャイルドこそ、2,000円以下で売られるべきであろう。

雑文「FGO第2部終章・ファンガス最新インタビューに寄せて」(近況報告2025.9.13)

 小鳥猊下は、更新頻度の間遠さに比して、かなり頻繁にエゴサをする人物です。たとえエアリプ的なものであっても、過去テキストに言及されるとうれしくなって、何度もおのれの書いたものを読みかえすほどで、その行為は人工知能への学習命令に近い効果となり、ますます言葉の自家中毒を深めていきます。ですので、「こういう方向のテキストを、もっと書いてほしい」や、「この作品や、あの作品の感想を聞きたい」などの要望がある場合は、間接的にも小鳥猊下宛だとわかるように書けば、彼は必ずやそれを見つけだして、未来のテキストに積極的な影響をおよぼすでしょう。このたび、FGO第2部完結へむけたファンガスの最新インタビューについて、nWoの過去テキストにからめたメンションが複数あったので、少し感想をのべておこうと思いたった次第です。ファンガスは、「型月世界の内側」という強い制約の下、みずからの生活感情や思想信条だけでなく、進行形の「”いま”と”世界”の実相」を、大きな物語として編むことのできる異能の持ち主だと言えるでしょう。とばっちりながら、その唯一無二性をさらに浮かびあがらせるため、氏の代表作の前日譚を乞うて執筆させてもらった、エロゲー業界という同じ出自を持つボイド・ブラックに、まずはふれていくこととします。文筆家の祖父を持つ彼は、言語運用能力に多少の遺伝的要素があることを鑑みれば、まさに「テキスト界のサラブレッド的存在」です。じっさい、その仕事は年齢制限のあるゲームにとどまらず、小説からアニメや特撮の脚本まで、ファンガスとは比べものにならないほど、多くの分野とジャンルにおよびます。ボイド・ブラックとファンガスのあいだにある決定的なちがいは、彼の書くものにはどこか「人間への軽蔑」が混ざりこみ、作中へ「一方的に断罪してかまわない存在」を、まま生じさせるところでしょう。

 ひとつ例をあげると、テレビ版のまどかマギカにおける「電車内で少女にからむホスト」がまさにその典型で、ムダに気むずかしい小鳥猊下は、この種の他者への蔑視を感じた瞬間、対象の物語に対する心の連絡路を完全に遮断して、感情移入しながら鑑賞することをやめてしまうほどです。その一方で、10年を1日のログイン中断もなしに追いつづけたFGOにおけるファンガスの筆ーー他のライターは全然ダメですよ、念為ーーには、ついに一文も、一語たりとも、「人間存在へのあなどり」があらわれることはありませんでした。「美しいものを書きたい」というファンガスの希求が、ただの題目や放言でないことは、彼の書くものをていねいに読みつづければ、自然と伝わってくるものですし、もし伝わらないとすれば、彼のファンを名のる資格はありません。この、世界そのものへの圧倒的な信頼がどこから生じているかと問えば、まったく文章で食っていけない不遇時代に、彼の才能を信じて生活費のすべてを支援し、書くことに専念させたという、型月社長との関係においてでしょう。あなた、いま半笑いでこのくだりを読んでおられますけど、これまでのあなたの人生に、そんな存在はいったいいましたか? あなたがそんな無償の愛をささげるだれかを、ひとりでも思いうかべることはできますか? それは、nWoお気に入りのたとえである「スーパーマン・リターンズのスタジアム」や「アップル・コアのルーフトップ・コンサート」を目撃した人々のように、仮に残りの人生が失敗に塗れたみじめなものであってさえ、世界そのものを心から肯定できる「美しい、無私の献身」だったのにちがいありません。

 ようやく、第2部終章へむけたインタビューに話をもどしますと、ファンガスの中の人は、相当度に天然の”虚構至上主義者”のようで、過去にも「我々の世代はロボットアニメを見て育っているので、平和の大切さと戦争の悲惨さが骨身にしみてわかっている。若い世代はもっとロボットアニメを見るべき」みたいな発言があって、今回の国家に関するストレートな言及も、むべなるかなといったところでしょう。ツイッター時代には、彼の匿名アカウントも存在したようで、うかつな発言のわりに炎上しないのは、ただただ作品のおもしろさだけを信奉するファンたちの、たとえば晩年における寺沢武一のネット奇行を見てみぬフリでとおし、死去のあともけっして蒸しかえさない姿勢と同様の、よくよく”訓練された”心情ゆえかもしれません。これは推測にすぎませんが、書きたいメッセージやテーマを明確に持っており、それを高い純度で作品に落としこめる創作者ほど、活動の晩年へと進むにしたがって、「わざわざ物語で出力すること」の迂遠さに、隔靴掻痒の感が身中へと強まっていくのではないでしょうか。そして、「有名小説家が泡沫政党から選挙に出馬する」のを極北とした、さまざまの「ダイレクトな表現形式」がリアルに噴出するようになってくる。これは作風から判断するに、おそらくボイド・ブラックにとって無用の心配ですが、ファンガスはちょっと危険性あるなーと思ってます(まあ、仮にトチくるったとして、社長が拘束衣とギャグボールで制圧したのち、フロム・ソフトウェアを処方して沈静させるにちがいないという、謎の信頼感はあります)。いずれにせよ、テキストはおもしろいのに物語を持っていない人物から言わせれば、たぐいまれなる才能を「現世のよしなしごと」などというつまらぬものに費やさず、ファンガスにはコピ・ルアクのごとき極上の虚構排泄にだけ、これからも邁進してほしいところです。ホヨバとタッグを組んだFGOのリメイク、期待していますよ!

アニメ「瑠璃の宝石」感想

 瑠璃の宝石、アニメ4話の放送段階で原作の電書と実体を両方とも入手したほどにはハマッているので、エッキスのトレンドに作品名が浮上したことをきっかけとして、ザツ語りの自分語りを残しておきたいと思う。ぶっちゃけた話、本作のジャンルは「オッサンの趣味嗜好を美少女に追求させる性癖動物園」であり、見開きページの左に鉱床、右にシワまで描きこまれた美少女のパンツが配置され、そのどちらも「輝いて見える」人間にもっとも”刺さる”内容になっているわけです。瑠璃の宝石を語る評の中には、アカデミズム方向へと極端にかたむいた礼賛が散見されますが、対置される性欲が本作を視聴する強い動機であることを、ごまかしてはいけません。デブの男子大学院生とヒョロガリの男子高校生から、鉱石の魅力を力説されたところで、けっしていま我々の胸中にきらめく、同じ感情へといたるはずがないのですから! つまり、作者自身の投影である巨乳大学院生が、偶然に出会った女子高校生(美少女)から、マイナー分野の知識のみを理由に好かれはじめ、その友人とおのれを慕う研究室の後輩との師弟愛ーー師妹愛という言葉がないのでーーを間近に愛でるという、瑠璃の宝石ならぬ「百合の放埓」こそが、作り手にとって最高の願望充足であると同時に、チョウチンアンコウのごとく受け手の興趣を誘蛾する要因だと、指摘できるかもしれません。

 最近、アメリカのある企業がテレビCMを布面積の多めな有色のふっくら女性から、布面積の少なめな白人のセクシー女優に変更したとたん、株価が倍になったという話を聞いて思わず笑ってしまったのですが、性的なまなざしの否定は、公の場での表出をひかえさせる効果こそあれ、内心にたぎるマグマのような熱を冷ますにはいたらないのでしょう。オタクたちがもじもじと認めたがらない、これらファクターSEXの向こう側には、路傍の石から永遠の宇宙へと想いをはせる、中華フィクションである三体原神も真ッ青の、時間を基軸としたセンス・オブ・ワンダーが広がっているのです(本邦の田吾作賞が、「アルトリア顔」ぐらいの雑さでSF認定しそうな未来が見えます)。サファイアの産地を探る過程での、知ることによって謙虚になり、謙虚になることで怖さを知る描写も、「学びの本質」を突いていて、とてもいい(学ばないかぎり、我々は無敵でいられるのです)。また、本作は青春期において、”好き”があることの強烈なアドバンテージをはからずも描いており、「スーパーカブでソロキャンプに来て、ラジオで競馬中継を聞くオタク」のイラストを脳内に想起しながら聞いてほしいのですが、初老男性から青少年男子に、過去の悔恨とともにお伝えしておくと、美少女の登場する虚構を愛する我々は、「性欲を”好き”とカンちがいした、なにも”好き”ではない人間」にすぎず、世界において情熱をかたむける対象がないことから目をそむけたまま、ただただ生と性を空費し続けている存在なのです。

 瑠璃の宝石は、本質的に「”好き”がない高偏差値の学生よりも、”好き”がある低偏差値の学生のほうが、受験期のがんばりがきくし、大学に入学したあとの予後ーー前者は医学部を受験させられて、不登校の末に中退するイメージーーも良好である」みたいな話で、2人の10年後に思いをはせると、ナギさんは万年助教みたいな立ち場で貧乏を苦とも感じず、楽しく地質学の研究を続けているだろうし、ルリは院進せずに地元で接客業か販売業に従事しながら、趣味で鉱石版の郷土史家みたいなことをやっているところまで想像できてしまいます。先日、タイムラインに人工知能の台頭を契機とした、ライターやイラストレーターの価格ダンピングに対する悲鳴が流れてくるのを見て、同情より先に「ブルシットだがコンスタントに少なくないカネが手にはいる、”好き”でもなんでもない生業」を選択したことへの安堵と優越が先にきたような人間なので、将来の2人が手にするだろう「清貧の幸福」には、なんともうらやましいような、ねたましいような、あいだにはさまりたいような気持ちにさせられます。ともあれ、パンツが見えてしまうことを意識しないルリの小学生ーー高1にしては幼すぎません?ーーみたいな駄々は最高だし、ナギさんのガテン系のガタイとカタパルト・パイオツはもっと最高です!