猫を起こさないように
月: <span>2025年7月</span>
月: 2025年7月

映画「鬼滅の刃・無限城編第一章」感想

 それほど熱心なファンというわけでもないので、一般客が一巡して落ちつくぐらいの時期に行こうと思っていたのを、めずらしく家人がしめした興味にうながされる形で、「鬼滅の刃・無限城編第一章」公開初週の劇場へと足を運ぶ。すべての上映回において、通常のシアターが予約でほぼうまっていたため、アニメ作品をアイマックスで見る恩恵は少ないと知りつつ、わずかに席の残っていたそちらを選択する(2人横ならびは無理だった)。ニュース等で「首都における初日の単館40回上映がすべて完売」などの状況を仄聞してはいたものの、じっさいに昭和の映画館と見まがうばかりにごったがえすロビーや、2700円もの単価で学生や貧乏人などの客層をスクリーニングするために利用する、ふだんは10人も座っていないアイマックス・シアターが、老若男女で満席になっている様子を目のあたりにすると、めまいのするような大衆的熱狂への実感がわきあがってきた。上映終了後、三々五々、席を立つ観客たちの感想戦に耳をそばだてるのも楽しく、女子中学生とおぼしき人物が友人にする「わたし2回目やけど、アカザが死ぬとこ、寝てて見られんかったわ」という、最高に中2病な発言をナマで拝聴させていただき、背筋がゾクゾクした。(ドウマの顔で)うんうん、わかるよぉ。あんな回想シーンに心をゆさぶられたなんて知られたら恥ずかしいし、学校でウワサになったら困っちゃうもんねえ、わかる、わかるよぉ(ちなみに、家人の感想は「日本のアニメってすごいねえ。スーパーマンが幼稚に見えたわ」でした)。

 閑話休題。鬼滅の刃は、よい少年漫画だと思う。アクション描写が得手ではないゆえ、言語過剰になるという原作の弱点を、確かな漫画読みの目を持つ制作会社が超絶アニメーションによって補完ーー「アニメ版は下書きの清書」という評を見て、笑ったーーすることで、万人にとどく最強コンテンツにまで昇華した経緯も理解する。ただ、配信全盛のタコツボ時代に、ここまでの客を劇場へと誘引するような、社会現象となるほどの作品かと問われたならば、疑問符をつけざるをえないことも、また事実なのである。きょうは、この一種の巨大なフェノメノンについて、つらつらと思考をならべてゆきたいと思う。まず、すべての状況を言葉で説明するーー「歩きだした。どこへ行く気だ。止まったぞ」「左耳が聞こえなくなった。右手の感覚もない」などーーため、小学校低学年からアニメを見慣れない老人までのあらゆる観客が、100%同じ物語を受けとって劇場を去ることができるのは、小鳥猊下をふくめたすれっからしの”物語読み”が馬鹿にしがちな要素ではあろう。だが、「余白や行間を読ませる」しかけは、ともすれば創作サイドの自己満足になりかねない、知能と感性で受け手をふるいにかける行為でもある。この意味において、鬼滅の刃の作劇は「すべての”ご見物”を平等にあつかい、知性の高低で差別を行わない」とも表現でき、それが超ヒットの基盤を形成しているのかもしれない。

 また、作品テーマとしては、以前にも指摘した「利他と継承」が挙げられ、無限城編第一章を見ながら、さらに感じた追加の主題は「感謝と報恩」と「家族愛」であった。これだけの人気を博すようになった原作も、週刊連載の常として、読者からの反響をさぐりながら展開をつど軌道修正しているため、全話を通して読むとブレている部分はかなりある。攻撃と回避の技術は「匂い」「糸」「透明」とたがいにつながりなく場あたり的に変遷するし、主人公の血統をほのめかしながらじつは赤の他人にすぎず、修得したはずの最強必殺技は完遂できないまま終わってしまう。しかしながら、ヴィンス・ギリガン作品に通底する「コズミック・ジャスティス」を思わせる、鬼滅世界のすべてをおおう、まったくゆるぎのない一貫したスキームは、たしかに存在するのである。「鬼にも鬼になる理由がある」「人を食った鬼は必ず退治される」ぐらいの指摘はすでに星の数ほどあろうし、「縁壱の才能という集合に、物語中のすべての要素が包含されている」という小鳥猊下の評にも、感心させられるものがある。それらにくわえて、物語のもっとも中核的な場所を占めているのは、すでに公の場では口にしにくいものとなった、”一日一善”に類する「昭和の道徳観・倫理観」なのだ。友人が「私の母親は毒親でェ……」とめそめそ泣きだせば、「自分は両親を心から尊敬している」とは言いにくくなるし、同性愛のカミングアウトをした同僚に対しては、「つわりの妻を世話して寝不足ぎみで……」との弱音は口腔にとどまるだろう。年収の低さによる生活苦をなげく氷河期世代の友人を、老人ホームや障害者施設のボランティアに誘うことははばかられるし、インスタで旺盛な趣味の発信を行う独身者のいる職場では、2人の子どもがうつった家族写真を取りだすのには抵抗をおぼえることだろう。

 秘孔を突かれて全身の痛覚神経がむきだしになった、アミバのような(わかりにくい例え)人々と接するにあたり、良識的な多数派のとるもっとも賢明なふるまいは、「内心と私生活のいっさいを表明しないこと」に帰着するのである。米国におけるTRUMP PHENOMENONや、本邦でのSAY THREE PARTYの躍進を極北として、マジョリティ側が「沈黙の忍従を強いられている」と実態以上に思いこまされている”程度”のグラデーションが我々の日常の背景にあり、鬼滅の刃を社会現象へと押しあげる遠因になったのではないかと推察する次第である。すなわち、「弱きをたすけ、強きをくじく」「家族を持って一人前」「人への感謝を忘れずに」「恩返しの心」「おじいさん、おばあさんを大切に」「立って半畳、寝て一畳」「ご先祖さまに恥じぬよう」「お天道さまが見てる」など、もはや広言せぬほうがよいものとして、内心の自主検閲に黒塗りした”人の道”が、鬼にむかって大音声で説法されるのを聞く快感は、まちがいなくあると思う。個人的なことを言えば、最高学府の法学部を卒業した人物が、持てる能力を薄給のビューロクラットとして民草にそそぐのではなく、高年収の外資コンサルファームにささげる利己の時代において、「オマエもかつては弱かったはずだ! 弱い者を助けるのは、強い者の責務だ!」と寸分の迷いもなく、怒りとともに断言する主人公の姿を見て、かなり胸のつかえがとれたーー「あ、それ、言ってもいいんや」ーー感覚は、まぎれもなくあった。

 以前の感想にも書いたように、現代を生きる子どもたちが、もはや大人たちはおもてだって口にできず、そちらへ教え導くこともはばかられる、「利他と継承」「感謝と報恩」「家族愛」について、この作品を通じて学ぶことができるとするならば、もしかすると冗談めかして聞こえるかもしれないが、本邦の未来はきっとよりよく、明るいものになるだろうという予感がするのである。あと、制作会社による「無限城のレンダリングに3年をついやしたので、3部作の完結には10年かかる」との談話を知り、だれもそこに力を入れることを望んでいないという点で、「スターウォーズ3における、惑星ムスタファーの溶岩みたいだなー」と思った。

映画「スーパーマン」感想

 キメツによって劇場を占拠される直前にすべりこむようにして、アイマックスでスーパーマンを見る。以下は、2006年公開のスーパーマン・リターンズにおけるスタジアムの場面を、こよなく愛する人物による感想です。「いまさら、この超有名ヒーローの設定説明を必要とする人間なんて、地球上におるめえよ」とばかりに怒涛の冒頭キャプションだけで作品世界のビルドアップをすませたあとは、「3分前:スーパーマン初の敗北」から当該の人物がナナメにスッとんできて雪の大地へと激突するという、じつに人をくったオープニングにはじまり、DCコミック版のリブートというよりは、「ジェームズ・ガンのスーパーマン」とでも名づけたくなるような、ユーモアたっぷりの演出が続いてゆきます(特に、格納庫のシャッターがゆっくりと、それこそ1分ほどかけたワンカットで開いていくのを見せるシーンは、スーパーマンというよりガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの文法になっていました)。ストーリー展開としては、「膨大な体力ゲージを持つオポネントに対して、初撃が当たれば無限につながるコンボの完遂をねらう格闘ゲーム」がずっと続く感じで、レックス・ルーサー側へ感情移入できれば手に汗をにぎれるのでしょうが、スーパーマンのファンはカタルシスの爆発を延々とひきのばされて、イライラすることうけあいです。また、他のヒーローたちと共闘する姿は新鮮でしたが、「あらゆる生命を助ける、リスも助ける」場面はシリアスなのかギャグなのか、はたまた、このリスがのちの派生作品でヒーローになる伏線なのか、いだくべき感情がわからなくて困惑しました。

 物語のクライマックスにおけるスーパーマンのスピーチは、過去の失言をツイッターから掘りおこされて、監督降板にまでいたったジェームズ・ガンその人が憑依したような内容で、数テイクは撮影しているはずなのに、少々ドモッてロレツのあやしい部分があるものを採用していて、おそらく熱量が優先されたのでしょう、舞台演劇をナマで見るような迫力がありました。そのあとに続く、あれだけ饒舌な道化師であったレックス・ルーサーが、ただ無言でスーパーマンをにらみつけながら静かに涙を流すシーンでは、「永遠の日陰者であり、けっしてヒーローにはなれない者」の玄妙きわまる感情を、同じ属性を持つ小鳥猊下としてモロにくらってしまい、「泣くなや! なに、泣いてんねん!」と言いながら、いっしょに泣いてしまいました。「中東のユダヤ国家によるホロコーストを免罪符としたジェノサイド行為」に対する強い批判が、本作にはこめられているとの指摘があるようですが、日々のニュースを心に留めないよう聞き流していたつもりで、ずっとフラストレーションが溜まっていたことに気づかされました。なぜなら、ただのフィクションであるにもかかわらず、鑑賞後にかなりその溜飲が下がってしまった感覚があったからです。これはすべての物語がおのずと持つ癒しの効果にはちがいありませんが、本作の高評価にその事実がいくばくかでも寄与しているのだとすれば、きわめて危険なことのようにも思います。それは、虐殺の現場にいない者たちのストレスを慰撫しているだけであり、現在進行形で殺されている者たちとは、なんの関係も連絡もないからです。「創作者によるフィクションの効能とメッセージ性へ向けた過大なまなざし」には、適切な批判が必要なように感じました。監督色がマーベルの「工業製品っぽさ」を越えた独特の”読み味”を本作にあたえていることはまちがいありませんが、同時に時事色にもドぎつく塗られた最新のスーパーマンを単純にシリーズのリブートとしてあつかっていいのかについて、個人的には疑問が残ります。

 あと、よい大人のnWo(猫を起こさないように)は25年前から猫派なので、皆様が話題にするマントをはおったテリア犬の愛嬌と狼藉は、特に刺さりませんでした。

雑文「Apocalyptic STARRAIL and Continuous GQX」(近況報告2025.7.10)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.4を読了。メインストーリー部分は、もはやゲームとして遊ばせる努力を放棄しているが、ナタ編後半で投入されるシナリオがことごとく失速ぎみの原神に比べると、たいへん高い熱量がこめられていて、大いに作品世界へと引きこまれた。先に予測していたように、オンパロスは無限の演算能力を持つ装置による”シミュレーテッド・リアリティ”であることがついにあきらかとなり、これまでに体験してきた「世界の崩壊へとむかうギリシャ悲劇」は、登場人物を同じうして3355万335回くり返されてきたことが示される。「膨大なテキストと細密な演出でつむがれてきた人々の想いは、それでもなお、プログラムされたフィクションにすぎず、現実との連絡は絶無で少しの影響もあたえられない」という絶望は、おそらくホヨバという会社が市場での規模を拡大させる過程にいだき続けてきたもので、神の被造物である人間を似姿とした人形が、ハードロックをBGMに神へ一矢むくいるという手描きのアニメーションは、「若く青くさい、熱情の切実さ」ゆえに強く胸をうった。この「虚構から現実への反逆行為」の実行者であり、のちにオンパロス世界の観測主体だとわかるファイノンというキャラクターは、壮麗かつ破天荒な綺羅星の如き他の英雄たちとは異なり、勤勉かつ実直な良識人として描かれてきた。失敗にいっさいの言い訳をせず、おのれの弱さを認めた上で、日々の鍛錬でそれを克服しようとする姿勢は好ましいものの、いささか生真面目すぎて人間的な魅力にはとぼしいと言わざるをえない。「親は婿として欲しがるが、娘は恋人に選ばない」タイプの、やや面白みに欠ける人物なのである(崩スタ未プレイ勢には、ジークアクスのエグザベ君を想起してもらうとわかりやすいと思う)。のっぺりとしたその特徴のなさは、じつのところ、驚愕の謎解きへと転化するための、「ミステリー小説における、真犯人からの視線そらし」であったことが判明し、アベンチュリンを前例に経験していたにもかかわらず、まんまと同じ手口にひっかかってしまったわけである。

 さらに、3355万335回のニーチェ的”永劫回帰”を追体験するパートは、古いオタクのたとえながら「エンドレスエイト」を想起させ、薄暗いシアターでプレイしていたことと相まって、ほとんど気がくるうかと思った。「観測者にとって”正しい”世界を求めて、無限個の試行をくり返す」物語ギミックは、太古のエロゲーであるデザイアがその原型を考案し、まどマギなるコピーキャットによって爆発的に人口へと膾炙させられたものだ。同様の物語類型として、直近ではジークアクスが記憶に新しいが、本作においては明確に次回のコラボ先でもあるFateの本歌どりを意図したのだろう。ここでまた、ジークアクス方向へ脱線しておくと、総集編による劇場版やブルーレイ販売の予告が、不自然なまでに避けられている現状について、いまにしかできない予想を述べておく。各話タイトルに話数の表記がないことから考えて、ズバリ、テレビ放送した12話へ新作の12話プラスアルファを挿入した「全26話の完全版」制作が、水面化で進行しているのではないだろうか。スタジオの体力面と金銭面での不安は、今回のメガヒットによって払拭され、パッと思いつくままにならべると「省略されたクランバトル回」「コモリ少尉とエグザベ君の交流”回”」「主人公とコモリ少尉の親睦”回”」「主人公失踪後の母親・同級生・運び屋回」「主人公とヒゲマンの特訓回」「アルテイシアと本ルート生存者の暗躍回」「最終話のエッセンスを3話に拡張(シュウジのループ回含む)」「登場キャラそれぞれの後日談」ぐらいのエピソードを、完全版において物語の大きすぎる余白へ埋めていくはずだと放言しておこう。

 ここからさらにアポカリプスホテル方向へと脱線し、本テキストは崩壊スターレイルという本筋から離れて、複線ドリフトしたまま終わると思われる。同作を最終話まで見たのだが、ゲストキャラにとどまると考えていたタヌキ一族が物語の中心にすえられて、主人公の属性である”永遠と停滞”の対比として「時間経過による成長と変化」を担当することになったのは、意想外の展開だった。6話までの感想にも書いた「昭和の風俗紹介」という印象は当たっていて、未確認飛行物体を召喚する呪文からはじまり、セーラー服反逆同盟(!)を思わせるスケバンのいでたちーーパーマネント、紫のチークとアイシャドウ、足首までのロングスカート、風船ガムという徹底ぶりーーまで、あると信じていたメインストーリーそっちのけで、徹底的に脇道のスラップスティックをつらぬく”ひらきなおりっぷり”には、もはやある種のすがすがしささえ感じたぐらいである。やがて、その「ドタバタ無法」は、結婚式と葬式を同時に挙行したあげく、祖母の遺体を手品の余興でもてあそぶという、往年の筒井康隆を彷彿とさせるブラックユーモアの絶頂へと達するのだった。ロボットたちの創造主である地球人が帰還する最終話にも、期待していたような”コッペリア的悲劇”はみじんも混入せず、最後の最後まで人をくった展開のまま、物語は幕を閉じてしまう。全体として、昭和末期から平成初期に国営放送で全52話が放送されていたアニメのサブシナリオだけを集めたような構成になっていて、これはもう国営放送で全52話のアポカリプスホテルを制作するしかない(政治家の名を冠した、例の構文)。終わる。

ゲーム「エルデンリング:ナイトレイン」感想

 エルデンリング:ナイトレイン、20時間弱でいちおうのエンディングを見る。本作はDLCではなく独立したゲームになっていて、本家にくらべると規模感はかなり小さい。時限の拡張エリアがいくつかあるワンマップで、用意された6体のボスから3体をたおせばラスボスが出現する仕組みになっている。15分の探索2回と10分のボス戦が1セッションなので、ソウルシリーズに対して無意味な仮定と知りつつ、もっとも極端な理論値を言えば、2時間40分でクリアできてしまうぐらいのサイズなのである。ゲーム内容は、ローグライクという単語があまり好きではない、古いオタクに表現させるならば、「攻略に時間制限のかかった、あわただしい風来のシレン」であり、マップ各所に用意された中ボスが落とす「武具とステータス強化のガチャ」をいかに効率よく回しながら、最大レベル15へと近づけるかが攻略のキモになっている。そして、正直に告白しておくと、私にはナイトレインを正しく評価する資格がない。本作のリリース日には、フランス産のJRPGにどっぷりとハマりこんでおり、プレイを開始できたのは発売から2週間後だったからだ。シャドウ・オブ・ザ・エルドツリーへの感想にも少し書いたが、オンライン要素のある近年のゲームは、発売直後3日からせいぜい1週間ぐらいまでが、混沌としていていちばん楽しい。その最高の時期を「熱と光の奔流が乱舞するビッグバン」とたとえるなら、1ヶ月後の現在は「暗く冷えた宇宙における背景放射」を観測しているようなものだ。

 クリアまでの20時間に感じていたことを率直に申せば、「最適解を知っているプレイヤーたちに引率されるリアル・タイム・アタック」であり、毎回がアイテムを吟味するヒマさえない高速参勤交代みたいな道中になっていて、たび重なる死や頻繁な迷子状態に対してはリアルに耳元で舌うちが聞こえたほどで、ソウルシリーズだからと意地になっての乞食プレイでクリアまではこぎつけたが、まったく楽しくはなかった。プレイ中、多くの時間を占めていた気持ちは「自己決定できないみじめさ」であったことを、ここに書き残しておく。ナイトレインをプレイするなかで気持ちがアガったのは、ボスガチャで強い武器や良い効果が引けた瞬間だけであり、楽しさの質としてはエルデンリングというよりパチンコやパチスロに近い。それにしても、よくもまあ、こんなに賞味期限の短いゲームを世に出そうと思ったものである。もっとも熱くてうまい提供直後を過ぎれば、どんどん冷めてまずくなってゆく”油そば”みたいなもので、しょうこりもなく美味しんぼでもたとえておくと、「果汁で皮がふやけてしまうため、作成してから数分しかもたないマスカット最中」のようなゲームなのだ。すでにして、順次追加される強化ボス以外は過疎っぽくなっており、時間帯によってはマッチングにさえ苦労する有り様である。

 え、マルチプレイに苦労して疲弊するぐらいなら、ソロで攻略すればいいじゃないですか、過疎の心配をする必要はなくなりますよ、だって? ほうら、体育とスポーツの得意なオマエら陽キャは、いっつもそれだ! 逆あがりや二重跳びのできない児童に指導ではなく、ため息や冷笑をかえしやがって! 「ストリートファイター6は、だれでもマスターランクまでいけますよ」じゃねえんだよ! 人間社会には想像を絶する下の下がいるという、単純な事実へ考えもおよばないまま、本邦の上位10%の知能の集積体であるエッキスに引きこもって、ヘラヘラ高等遊民ゴッコばっかやってるから、そんな無神経な発言ができんだよ! 就職氷河期世代でも年収4桁万円ごえなんて簡単だし、世帯を持って子育てするぐらい、ふつうにできるじゃないですか? どうだ、これでオレの傷つきをよーく理解できたろうがよ! ナイトレイン、知能は低く反射神経は高く、長期の計画より短期の快楽が好きな、社会保障費で優遇されている層へ、おススメのゲームになっておるゾイ(暴言)!