猫を起こさないように
月: <span>2025年6月</span>
月: 2025年6月

映画「28年後…」感想

 奈良の片田舎の小さなシアターで、ぶんむくれながら「28年後…」を見る。なんとなれば、前作「28週後…」をゾンビ映画の最高峰だと心から信じており、公開のあかつきには当然のことながら、本邦でもスター・ウォーズ級の待遇をもってむかえられるだろうと、無邪気に考えていたからである。ところがどうだ、我が土人県ではアイマックスはおろか、単館のノミみたいなスクリーンにかけられるばかりで、1ヶ月もせぬうちに上映が終了しそうないきおい(の無さ)であり、それが冒頭の不機嫌を引き起こしたのであった。だが、いざ映画がはじまるとそんな個人的なぶんむくれは、はるか視界の背後へとたちまち消えさってしまう。弓矢を装備した父子の冒険行へ「ドキュメンタリー映像」と「古い映画の映像」を順にオーバーラップさせながら、単調な「ブーツ、ブーツ、ブーツ」という詩の朗読にあわせて、速いテンポで画面が切りかわる導入部分は、ウスターソース野郎によるハリウッド文法をガン無視した、堂々たる「B級カルト映画」のたたずまいになっていて、いっきに作品世界へと引きずりこまれたからである。赤黒い血と白濁した脳漿がしぶき、内臓がドロリとこぼれるグロ映像の連続に、右ナナメ前に座っていた老夫婦からは「うわっ、やめてえや」「こんな映画やと思わへんかったわ」などの悲鳴があがるも、座っているハコの小ささとあいまって、それさえ映画の一部を成す環境音のように聞こえたぐらいだ。おそらく、「トレインスポッティング」や「スラムドッグ・ミリオネア」のほうのダニー・ボイル作品が好きで劇場に足を運んだのだろうが、アカデミー賞監督の威光というより本シリーズの世界観を偏愛する者からすれば、彼らの無知と無検索に対しては「ご愁傷様」以外に、かける言葉がない。シリーズ初登場の匍匐前進するスローロー、おなじみの全力疾走でせまる感染者、2メートルを越える体躯のアルファa.k.a.バーサーカーなど、いちどは途絶したはずの世界観が最新の映像技術で再現される、めくるめく”恐怖のなつかしさ”に、20年前(!)からのファンは陶然とさせられるのであった。特に、文明が崩壊したゆえの満天の星空を背景にした逃避行は耽美の極みであり、暗闇の中、全力疾走で父子を追う筋骨隆々のアルファに、炎のバリスタが突き刺さるまでのシークエンスは、呼吸さえ忘れるほどのすさまじい緊迫感だった。

 しかしながら、この地点を情動のピークとして、物語そのものへのクエスチョンは、どんどん増大していくのである。まず、作中で「本土」と呼ばれているのは、どうやらヨーロッパ大陸ではなくグレート・ブリテン島のようで、前作のラストにおいてエッフェル塔の下を走りまわる感染者の群れに大興奮してから、20年(!)ものオアズケをくった身にとっては、高まった意気をかなり阻喪させられる設定であると言えよう。また、「本土で感染者を殺すこと」がムラの男子のイニシエーションになっているのだが、自給自足のコミュニティなのに欠乏する物質の描写は、それこそベーコンぐらいしかないため、わざわざ危険を押してまで本土へわたる理由としては、「そうしないと、映画が始まらないから」以外に見つからなかった。さらに、あれだけ感染者たちにビビりまくっていた主人公の少年が、遠目に父親が人妻とファックするのを見かけただけで、観客からは完全に無謀だとわかる、病気の母親を連れての本土行きを決意するのも意味不明で、「まあ、主要キャラだから死なないだろう」ぐらいのメタで薄弱な根拠しか感じられない。そもそも、外部の人間から「近親相姦もめずらしくない」と揶揄され、人口維持を目的とした乱交パーティ(だよね?)が開催される規模の小さなムラ社会で、スマホもインターネット接続もないのに、「父親が一穴主義を裏切ったことへ、深甚な怒りをおぼえる潔癖さ」は、脚本家の倫理観に由来するのでなければ、いったい人生のどこで獲得したものなのか、じつに不可解である。意味深な描写をされる病気の母親にしても、当初はレイジウイルスに感染しているのを村人から隠す目的で、二階へかくまってるのだろうと思っていた。なので、廃教会で眠りこける息子を助けるためにスローローを撲殺したときには、「理性をたもった感染者、アルファ・メスだ!」と大よろこびだったし、みずから産婆となって感染者の妊婦から非感染者の赤子をとりあげるーーこの子の体液がのちに治療の血清となる伏線なのだろうが、前作でも類似の話はすでに提示されていたーー場面において、おぼろげな予想は強い確信へと変わったのだ。

 にもかかわらず、ヨードチンキおじさんの診断で、母の奇行と怪力はリンパにまで転移した末期癌ゆえだと判明したときには、公の場にもかかわらず、強めの「ハア?」という悪態が、知らずマウスからほとばしっていたほどである。このあとに続く、とってつけたような「メメント・アモリス」発言からの安楽死という展開も、作品世界の死生観を体現しているというよりは、監督か脚本家の実体験を反映しているようにしか見えなかった。そして、あろうことか、少年がコミュニティを離れてから「28日後…」のテロップが表示された直後、感染者と近接戦闘を行うテレタビーズの擬人化みたいなジャージ集団ーー「かまれる」「ひっかかれる」「体液が粘膜にふれる」と潜伏期間ゼロで発症するウイルス持ちが相手なので、ソウルシリーズで例えるなら、レベル1全裸短剣おじさんのような存在ーーの登場で、なんら伏線を回収しないまま、物語は幕となってしまったのだった。20年ぶりのシリーズ再始動は、コロナの世界的なパンデミックに新たな着想を得たためだろうと予想していたら、まったく1ミリも、露助のルーブルほどもそんなことはなく、この尻切れトンボな欠陥映画にたいそう感情を乱されたまま帰宅してググッてみると、本作は3部作の1作目だというではないか! だったら、スタッフロールのあととか、作品内で続編の存在をキチンと明示しろよ! 右前方に座っていた善のダニー・ボイルが好きなグロ耐性の低い老夫婦なんて、ぜったい次は見に来ないじゃねえか! ここにいたり、3部作の3作目を3部作にするというボーン・テンプルばりの不安定でイビツな構成があきらかになったわけで、1にあたる本作は28年後の28日後を描き、続編の2が28年後の28週後の話で、完結編の3が28年後の28年後を語る仕組みに……って、ややこしすぎるわーい(目の前の卓をひっくりかえす)!

 おまけに撮影が終わっているのは2までで、3の制作に入れるかは今後の興収次第らしく、本邦での様子をうかがうかぎり、パリからヨーロッパを経てユーラシア全土へと感染が広がっていく阿鼻叫喚の地獄絵図は、またも古参ファンの妄想に終わりそうな気配が、すでにしてただよってきているのであった。「物語を終わらせないまま、この世を去ることによって、擬似的な永遠を獲得したい」という欲望は、広く受容される虚構世界ーーガラスの仮面や王家の紋章などーーを構築した創作者にとって、めずらしいものではないのかもしれないなと思うと、発作的な空ぜきにも似た、乾いた笑いがでてくる。ラわーん、もう”終わらないフィクション“はこりごりだよう(年齢的に)!

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(最終話)」感想

 アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(11話まで)」感想

 ジークアクス最終話、Qアンノにシンエヴァ由来の悪感情を持つ人間の事前予想よりは、かなり好印象な方向へと急旋回できたように思います。前回、”シャロンの薔薇”の正体をエルメスに改変したことで、話の大元が曲がったと指摘しましたが、手描きと3DCGの新旧ガンダムたちが、空前の一大バトルをくり広げる新作アニメーションという予想は、Qアンノを過大評価ーー「ヤツに関しては、つねに最悪の予想をしておけ。ヤツは必ずそのナナメ下を行く」ーーしすぎていたことが、今回わかりました。平成にリメイクされたヤマトを見て、「自分ならオープニングは1カットも変えない」と豪語した人物がやりたかったのは、光る宇宙?のモビルスーツ戦を現代のアニメ技術で”完コピ”することだけだったのです。彼の視野レンジの狭さによって、マッキーが最終話で自由に差配できるスペースが増え、主人公とそのマヴの描写に長めの尺をとることができたのは、作品にとって僥倖だったと言えるでしょう。

 でもね、1000ピースのパズルを12時間で完成させるリアル・タイム・アタックで、11時間ほど経過したのに600ピースぐらいしか埋まっていなかったのが、突如として北斗百裂拳のような動きへと加速して、ラスト1秒で最後のピースがハマッたみたいなもんですよ、これ。Qアンノによる余計なクチバシ・ツッコミを排除して、「虚構内虚構」のギミックをアトヅケで建て増ししていなければ、”TikTokガンダム”とでも名づけたくなるほどの超圧縮エンドロールを回避して、もう少し尺にゆとりをもたせてキャラの内面を掘りさげーーインド人の娼婦ばっか「傷ついた、傷ついた」って連呼しやがって、この作品の中でいっちゃん傷ついてんのは、主人公の母親やでーーながら、より正しく架空戦記として着地できたろうにと思ってしまいます。やはり、視聴後に「アルテイシアって、だれだっけ?」とウィキを調べたぐらいのガンダム下手が、Qアンノに向けた私情のみで、うかつに口をだしていい作品ではなかったと、いまは深く反省をしておる次第です。

 雑にまとめておくと、ジークアクスは悪く言えば、作品単体では自立できないーーアルテイシアがシャアの妹なんて説明、作中にいっさいなかったじゃん!ーー悪ふざけのすぎる夢小説で、良く言えば、新しいファンを古いガンダム作品の視聴へと環流する高性能のマシンなのでしょう。最後に識者のみなさんへ聞きたいのですが、結局、イトウ・シュウジって何者だったの? 重度のガンダム下手だから、ノーマルなファンにとっては自明すぎる帰結が追えてないだけ? あと、緑のヒゲ(マン)が全編を通してふりかえっても底割れしない、近年まれに見る「良い大人」であり続けたのには、率直に言って、とても感動しました。

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(11話まで)」感想

 生来のガンダム下手で、再放送によるガンプラブームをリアルタイムに経験し、逆襲のシャアも初映を映画館で見ているはずなのに、本シリーズに心を動かされたことが、まったくと言っていいほどありません。愛好家たちの語り口がおそろしく類似している点からも、炎上を避けるために肯定的な表現で申すならば、ガンダムは「数字や型式の暗記が得意な、知能の高い人物に特有の発達特性」へ深く刺さる物語造形なのではないかと、ずっと疑ってきた人生なのです。そんなわけでジークアクスに関しては、毎週の沸騰するタイムラインを横目に、資格のない者が余計な口をはさむまいと貝になってきたのですが、11話の放映でガンダム下手にもさわれる位置まで墜(堕)ちてきたーー最後の最後でビルドアップの積み木崩しをして、架空戦記としての軟着陸を放棄して、安直な「虚構内虚構」へと走ったストーリーについて、以前は「高い城の男」になぞらえていたことをディックに謝罪したいですーーことと、Qアンノのそらとぼけた「ボクもやりやがったと思ってる」発言にカチンときて、最終話の放映前にちゃんと真相を解明しておこうと思いたった次第です。

 ジークアクスはシンエヴァ副監督のスタートさせた企画とのことですが、「アバンタイトル5分で終わらせるはずだった”正史のif”」をQアンノが映画1本分に膨らませたところから、本作の方向性はゆがみはじめたと言えるでしょう。仮面ライダーがこの怪人を釘づけにしているうちに、さっさとプロットを固めてしまえばよかったものを、7年もの制作期間が日本3大オタクのひとりにつけいる隙をあたえてしまい、「ガール・ミーツ・ガール」の本筋をどんどん浸食して、半世紀前のロボットアニメからの汚染を拡大させてしまったのです。ビギニングでの狼藉が存外な好評価を得たことへ気をよくしたQアンノが、ウッカリ口をすべらせた「マッキーたちは、まだ禿頭の御大に遠慮してる」発言は、関係者の言う「制作の途中で、最初に用意したストーリーを大幅に改変することとなった」原因の震源地に彼がいたことを証明してしまっています。その変更とはズバリ、「”シャロンの薔薇”の正体はなにか?」という謎解きの中核部分で、映画を分割した2話と8話に続いて、テレビ新作パートのみの9話に、脚本担当としてQアンノの名前があることからも、あきらかでしょう。これは本来、シンエヴァ副監督が幾度も再話ーー栗本薫がそうだったように、同じテーマをくりかえし追い求めるのは、優れたストーリーテラーの資質でもあるーーしてきた「若さの喪失におびえる、少女たちの青春譚」の添えものに過ぎなかった要素が、メインディッシュへとすりかわった瞬間でもあります。

 8話までは、この2つの要素が拮抗しながらも、どちらを上に置くでもない、ちょうどいい塩梅で調理がなされていました。緑のヒゲ(マン)が口にした「総帥とその妹を同時に排除する計画」が物語終盤の本筋だったのでしょうし、ファーストガンダムにいっさい思い入れを持たない”物語至上主義者”からすれば、9話以降の展開は「奇妙な磁力にねじ曲げられた、不自然の変節」にしか見えないわけです。もちろん、その磁場の発生源は社長・Qアンノであり、「もうガンダムは満足した」との発言は、ビギニング・パートに由来すると考えてきましたが、どうやら「初代ガンダムを3DCGではなく、自身の手描きで動かしたい」という欲求が満たされたからであるような気がしてきました。最終話でのアニメーター・Qアンノによる手描きの”ガンダム無双”は、45年来のファンを狂喜させるすさまじいクオリティで饗され、申しわけ程度に主人公がチョロっと活躍して痛み分けぐらいの印象にもどして、ジークアクス世界とオリジナル世界の並立みたいな落としどころを見つけるのでしょうが、サイコガンダムの予告と単騎による大気圏突入のさいに、まざまざと幻視した「新世代が心の熱量だけで、旧世代の冷めた諦念をうち砕く」ことによって、主人公が主人公たる資格を真正面から証明する機会は、残念ながら永久にうしなわれてしまいました。

 Qアンノの偏執狂的な「クシャナ殿下のこのアクションだけをアニメ化したい」に類するこだわりによって、点景へまで追いやられた少女たちの「喪失と成長を交換する物語」をじっくり見たかったというのが、小鳥猊下のいつわらざる本音です。ジークアクスは「ガンダムシリーズの復興」という観点からすれば、商業的な大成功となったのかもしれませんが、物語の自走性とキャラクターの自我を無視したという意味においては、あの「親に捨てられた14歳の少年」に対する仕打ちとまったく変わるところがないと、ここに吐き捨てておきましょう。以上、ガンダムという単語を聞いても心の天秤が完全にフラットな、古い物語読みからの世迷言でした。くれぐれも、古参ファンのみなさまにおかれましては、気を悪くなさらぬように! この予想が外れることを、同時に願ってもいるのですから!

映画「トラペジウム」感想

 劇場公開当時から、様々のオタクたちによる正負の感情がうずまいているトラペジウムを、ようやくアマプラ配信で見る。全体的な印象としては、「男性の性欲フィルターを通さずに撮影した、思春期の少女たちのお話」で、なぜか「きみの色」を思いだしました。パッと見は、地方アイドル・グループの結成から解散までを追いかけるストーリーでありながら、その本質は、異常者であることに無自覚な東ゆうの言動を愛でる映画だと断言しておきましょう。未見の方にもわかりやすいよう、彼女の異常性を少しずつ位相をズラして例えるなら、理由もなく白發中の三元牌に強いこだわりがあり、「とても背が高いのに、なぜバスケ選手にならないんだろう」「ひどく太っているのに、なぜ相撲とりにならないんだろう」に類する思考の型を有していて、おそらく「女性の身体に男性の心」を持つ人物です。最後に挙げた性質は、思春期の少女にとって一過性の場合もあり、女子校の王子様が大学でブリブリの姫になるのを観測したことがある方もおられるでしょう。この現象を誘発するのがなにかと申せば、蛍光物質にむけたブラックライトのごとき「オス度の照射」の有無であり、令和のフィクションにおいてはバキやタフに代表される、ほとんどギャグへと突き抜けないと、発露をゆるされない種類のパーソナリティでもあります。もし本作において、東ゆうの協力者であるカメラ小僧が範馬勇次郎の0.01%でもオス度を有していたら、物語の展開がまったく変わっていた可能性はあります。

 少々それた話を元へもどしますと、作品世界そのものが「アイドルであること」を全力で称揚するアイマスやラブライブなどとはちがって、トラペジウムにおいてその特別性を信じているのは、登場キャラの中で東ゆうただひとりであることが、彼女の異質さをきわだたせていると指摘できるでしょう。アイドルなる職業に人生で一度たりとも魅力を感じたことのない者からすれば、「若い肉に価値があり、換金性まで有することを知った女性の、人生の予後は悪そうだな」ぐらいの感想しかないのですが、狂犬・東ゆうはこの冷めた視線に逆らうように、「ちがう! 特別な人間は発光するんだ!」と異様な想念を画面外へむけて吠えたててくるのです。偶像発生の初源を問えば、それは「神殿や河原や娼館や奴隷市場における、旦那衆への歌舞音曲」であり、かつては”必ず”売買春をともなう生業だったのです。「非常に整った造作」という稀少の例外こそあれ、多くの男性は「特別な情報を付加された肉」にしか性的な興奮を感じられないためかもしれません。その歴史的な営みから肉の媾合(媾合陛下!)を切りはなした上で、「一晩に一人」という物理的な限界を拡張する、動画配信やコンサートを通じた不特定多数との”まぐわい”が、現代におけるアイドルの本質だと言えます。かような穢れた実態について盲いたままで、「アイドルはみんなを笑顔にする」と「恋人のいないアイドルは高値で売れる」を同じ口から発することのできる東ゆうが、常軌を逸した妄想を破格の行動力で実現して、運痴や理系や整形などの「売春宿で値のつく少女たち」を手練れの女衒のように見初めて、いつわりの”トモダチ”へと籠絡してゆくさまは、ある種の恐怖と、誤解を恐れず言えば、清々しさの入りまじった光景でした。

 ここで確認しておきたいのは、彼女を動かしているのは名声欲ではなく、まして性欲や金銭欲でもなく、「金閣寺は燃やすべき、なぜって美しいから」へほとんど近接した、”狂人の美学”だということです。トラペジウムという作品への評価は、「東ゆうの異常さを、はたして受認できるか?」にすべてかかっており、ここからは個人的な話になってしまうのですが、彼女の言動にはたいへん身につまされるものがありました。なんとなれば、東ゆうの「アイドルになれば、なにか特別なことが起こる」という、根拠を持たないがゆえの強烈な思いこみは、「テキストを書けば、なにか特別なことが起こる」と四半世紀を書き続けて、何者にもなれずにいる小鳥猊下のそれと、奇妙な相似形を成していたからです。東ゆうには、「必ずアイドルになる」という妄執とともに、10年たっても20年たってもオーディション会場に現れる怪人として、界隈における”口裂け女”の逸話にまで昇華されていってほしい。そうして、若い肉と審査員からの失笑を買い続け、何者にもなれないまま、むなしき希望だけをいだいて、アイドルへの憧れに溺死してほしいのです。私の目には、「四者四様な、女のしあわせ」を描くエピローグは読後感を整えて、映画パッケージとしての体裁をつくろうためだけに用意された、東ゆうのような人物がけっしてたどりつくはずのない、虚栄に満ちたまぼろしにしか映りませんでした。

 「アイドルだとは明言されていないが、何者かにはなれた」ことを示す、数年後の東ゆうへのインタビュー場面なんて、あんなのはスタジオを借りて自腹で劇団員をやとって、彼女の妄想を台本で撮影させた自作自演のものにちがいありません! 小鳥猊下と同じ妄念をいだく東ゆうが、過ぎゆく時間に破滅しないのだとしたら、そんなのあまりにも都合がよすぎるし、なにより小鳥猊下がかわいそうじゃないですか! 公立校出身で、容姿にすぐれず、理系の才能もなく、実家も太くなく、オスとのつがいにもなれない東ゆうへ、「アイドルになれないまま、アイドルを目指し続ける」以外の道なんて、残されていないんですよ! フィクションだからって、ウソつかないでもらえますか(けだし名言)!

ゲーム「Clair Obscur: Expedition 33」感想

 海外で異様に評判のいい、仏国発のエクスペディション33を35時間弱でクリア。本邦のお家芸”だった”コマンド式RPGとソウルシリーズをガッチャンコしたシステムを用いて、世界観とストーリー以外のすべては過去のJRPG群、特にファイナルファンタジー・シリーズへのオマージュから構成されています。エフエフのナンバリングで言えば、7と8と10と13を下敷きにしながら、プレイフィールはそれらのゴチャマゼといった塩梅になっていて、なかば嫉妬に由来するエスプリをきかせまくった揶揄でJRPGをケチョンケチョンにけなし続けていたら、ガイアツに弱い本邦のメーカーがコマンド式RPGを作るのをなんとなくやめてしまい、絶滅危惧種と化した生物をあわてて異国の地で人工繁殖させたのが、このゲームの本質であると指摘できるでしょう。本作をプレイしていると、フランス人たちがときに蔑視の対象とし、音楽や舞台や映画に比べて一頭地劣るとされてきたゲームという名の革袋は、文化の精髄たるワインの豊潤を彼らに満たさせるほど、充分に古くなったのだという感慨がジワッとわいてきます。もっとも、ゲーム内で使われている美術や楽曲や文芸は、同時並行で制作進行中の映画版と共有することで爆死保険ーー学資保険のイントネーションーーをかけていたようで、「そういうところだぞ、この差別意識まみれのサレンダー・モンキーどもめ!」という気持ちにはさせられました。同じくJRPGの再興を目指した崩壊スターレイルが地に伏して我々を崇敬する一方で、エクスペディション33は青い瞳と天狗鼻を傲然とそらしながら我々を見くだす感じになっていて、不可解なアジア地域への恐怖ーードラゴンロード!ーーと劣等感が反転する、いつもの”西洋しぐさ”をそこに見ることができます。勝てない分野でのルール変更がきゃつらのオハコで、「ナイフを胸部中央に突き刺したのは認めるが、殺意はなかった」という態度で、「歴史に埋もれていた神秘のバサロ泳法を、私たちが再発掘した」みたいに喧伝してまわる様子には、さすがに「シェイム・オン・ユー!」とは言いたくなりますけれど!

 海外での激賞の裏には、こういった文化的な背景と歴史的な経緯があることを前置きとして、エクスペディション33への感想を述べていきましょう。RPGとしては、”かゆいところに手が届かない”不親切な部分が多くあり、メジャーな要素だけでも「ダンジョンでミニマップとコンパスが存在しない」「目的地へのガイドやマーカーが存在しない」「エフエフで言うところのアビリティに相当するルミナの仕様説明が充分ではない」「ほぼ必須のパリイにエフェクト等による補助が存在しない(モーションごとに目視で識別するしかない)」など、プレステ2か3時代のユーザー・アンフレンドリーを模している可能性は捨てきれませんが、とにかく「さわっておぼえる」しかないところが、現代のゲームにしては多すぎるように感じます。システムの全容を把握するまでの序盤は、いったいなにが楽しいのか伝わりにくいゲームなのですが、「エアリス相当の三十路独身男性」が退場(バレ)するあたりから、グングンと尻あがりにおもしろくなってゆくのです。ワールドマップに出てからは格段に自由度が高くなり、「キミはすべてをパリイする……それだけで、どんなボスにも勝てるよ」というソウルシリーズ由来のゲーム性によって、「序盤のうちから高難度ダンジョンに挑戦し、進行度に合わない高性能の武器を入手する」みたいな遊び方もゆるされています。くやしいですが、「わざと詰めを甘くしたバランス崩し」が大好きな、ファミコン時代からのRPGファンにとって、かなりグッとくる調整になっていることは、認めざるをえないでしょう。少し話はそれますが、いにしえの時代にバロックという中2病的な世界観をウリにしたゲームがありまして、「バランス調整に失敗した3D風来のシレン」としか形容できないシロモノなのですが、しつこく、しつこく、しつこぉく根強いファンがいて、延々とこすり続けていたのを、なぜか思いだしました(最近では、さすがに観測されなくなりましたが……)。

 このエクスペディション33も世界観が肌にあう人にはブッささり、そうでない人には意味不明という危ないラインをボールが転がっているような気はしますが、ベル・エポックへの造詣はあまり深くなく、記憶にあるフランス映画は「ロスト・チルドレン」「レオン」「アメリ」「エコール(最低)」ぐらいの人物にとって、まったく先の読めない物語の展開に、プレイの興趣を刺激された側面が大きかったことは否定いたしません。本作のストーリーを簡単に説明しますと、タイトルの33はある人物の享年(バレ)を意味しておりまして、この年齢以下の人間しか生存をゆるされず、年々カウントダウンが進行する世界という設定になっております。三十路半ばの独身男性が、年上の恋人の消滅を見送るところから物語は始まるのですが、「古いものほど価値がある」石の文明の有するアンティークの見立てを、脳がバグって人間にまで適用してしまった”おフランス”らしい導入だと言えるでしょう。MCRN大統領は世界でもっとも有名なグルーミングの被害者だと信じて疑わないのですが、この奇ッ怪の価値観を最先端だと叫んでやまない彼の国では、こんな当たり前の同情を口にすることさえできないのですから、まったく「進歩的である」とは、いつだって窮屈なものです。その一方で、おぶぁ(おぢの対義語)とのバランスをとるために少女愛ーージュディット・ヴィッテ! ナタリー・ポートマン!ーーを天秤の反対側に置くのが”カエル食い”どもの習い性で、本作のヒロインたちは順に「三十路独身女性」「三十路経産寡婦」「10代半ばの少女」となっており、ほとんど放言に思えるだろう分析の裏付けとなってしまっております(結果として、20代女性への言及が完全に消えるのは仏国のおもしろいところですが、それを愛でる中央値の男性は芸術になど、たどりつかないからかもしれません)。

 そして、FF7で言うところのクラウドに相当するマエルたんの造形がじつにすばらしく、本作の傑出している点は表情による演技の細かな機微であり、ひそかに思慕を寄せる年上の男性が惨殺(バレ)される場面で見せる絶望の様子には、局部へ電流が走りました。このグロテスクかつ壮麗なノワールは残念なことに、やがて「ある家族の問題」へと収斂していくのですが、ゲーム文化が充分に成熟して大人も楽しめるものになった結果、「各国の家族観」をそこに見られるようになったのは、非常に興味深いことです。イヤイヤながらに言及しておきますと、本邦の創作トレンドは「時代と毒親に人生を破壊された(と信じる)人物が、墓じまいをしてから自身を海に散骨する」みたいな内容ばかりですが、他方で大陸のそれは「祖父母の仕事と人生に敬意をはらい、家名に恥じぬ行動をおのれに求める」ような筋立てになっていて、人間集団の総体としてどちらが衰退してどちらが繁栄するかは、あまりにも自明すぎるでしょう。「愛国と差別」をそれに並立して矛盾を感じない心性は、全共闘世代のまいた病理の種の萌芽によるものだと考えていますが、以前よりくり返している話題なので、これ以上はここで申しますまい。ただ、我々の文化が西洋化されて長いため、本作に描かれる家族の軋轢はどこか既視感ーー山崎豊子とか横溝正史?ーーをともなうもので、大陸産のRPGにふれたときのような「蒙を啓かれる」感覚は生じませんでした。エクスペディション33の中核を成すミステリー要素について不満を述べておくと、そもそも「虚構内虚構」という入れ子細工でより外側にあるフィクションを補強しようとする仕掛けは、作り手の創作に対する強い自意識が臭みになるケースが圧倒的に多く、本作でもきついパルファムの香りの下から消せぬ臭気がただよってしまっております。「こんな大傑作を初手から上梓してしまうなんて、ミーの才能はそらおそろしいザマス! ジャポンで継承の途絶えた伝統芸能を復活させたフランセの手腕をもっとほめたたえるでセボン!」と大はしゃぎなのを、無言の微笑で生温かく見まもるぐらいが、我々にとってちょうどよい距離感でしょう。

 いつものごとく、メチャクチャにディスってるみたいになってしまいましたが、なァに、きゃつらのエスプリとやらへ対抗したまでのことです。ともあれ、エクスペディション33、ACT3の世界探索とマエルたんのダメージインフレまでを加味するならば、ファイファン派に敵愾心を燃やしていた、かつてのエフエフ愛好家のみなさんに、心の底からオススメできる珠玉の一品となっております。