猫を起こさないように
日: <span>2025年5月30日</span>
日: 2025年5月30日

映画「ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニングを映画館で見る。「配信時代の銀幕の守護者」「ボクらの疾走する映画バカ」が、トップガン・マーヴェリックぶりに、劇場へと帰ってきました! スパイ大作戦や009の亜流だかスピンオフだかからスタートしながら、続編を重ねるにつれてトム・クルーズのプライベート・フィルムと化していったことで有名な本シリーズは、いよいよ「俳優トム・クルーズの人生と、その生き様」をダイレクトに表現する装置と化してきたようです。3時間ちかくある作品なのに、上映中は時計も尿意もいっさい気にかからず、オープニングからエンディングまで、ほぼひとつながりの意識で画面に集中することができました。劇場を出てから行う内容の反芻においては、「上映時間を30分は縮められるだろう、長すぎるアクションシーン」や「ツッコミどころの多い、隙だらけでご都合主義のシナリオ」などの感想が浮かぶには浮かぶのですが、上映中はまるで80年代から90年代にかけてのハリウッド・ブロックバスターを見ているようで、ひとりの観客としてエンタメ・ジェットコースターの快楽へ、完全に身をゆだねていました。デッド・レコニングへの批判を受けて、ストーリーの構成と編集をイチからやりなおしたそうで、ドラマパートをバンズ、アクションパートをアンコで例えるならば、前作が薄く切った味のとぼしいカステラで蜜抜きをしないーー美味しんぼからの知識ーーギトギトのアンコをブ厚くはさんだ、ひどく胸やけのする「失敗したシベリア」だったのに対して、本作はしっとりフワフワで味の濃い生地にサラリと口の中でほどける上品な甘さのアンコをとじこめた、開店1時間で完売する「上質なあんぱん」ーー検索エンジンを意識した例えーーだと表現できるでしょう。もっと具体的に言えば、前作でのドラマパートは撮影してしまった「やりたいアクション群」をつなぐだけの粗悪な接着剤みたいな中身でしたが、本作のそれはこれまでのシリーズから引用した映像を織りまぜながら、時間をかけてアクションシーンの目的と必要性を説明してくれるため、観客が主体としてミッションへ感情移入できるようになっています。2つのチームと過去/未来の場面を速いカット割でザッピングしていく手法は、長尺を使ったアクションパートとの好対照なメリハリを成しており、緊張の系は細く長くずっと切れないまま、3時間にわたってつむがれていくのです。

 そしてなにより、還暦をオーバーしたトム・クルーズによるCGをいっさい廃した生身のスタントは、もはやロコモーションの型番を偏愛するような脳の特性にしか響かなくなった、ポスプロまみれのマーベル作品ーー上映前に予告編をアホほど見せられるの、もうなんかのハラスメントちゃうの?ーーに向けた無言の批判として成立するレベルで、近年のクリストファー・ノーランが高尚かつ思想めいてきたのに対して、アホで低俗で愚かな大衆である我々を、トムが全力の笑顔でハグしにきているような暖かみさえ感じます。もしかすると、上空3000メートルで複葉機に取りついて行うスタントは、CGで95パーセント同じシーンを再現できるのかもしれませんが、この愛すべき映画バカは「それを生身でやることで生まれる、差分の5パーセントの意味」に大金と、文字通りの生命までを賭けており、観客の冷めたハートもその本気度にどうしようもなく燃やされてしまうのです。ロンドン橋の上やレシプロ機を追いかけての”イーサン走り”は、もはや「間に合わないことの直喩」みたいになっていますが、本作では「ピッチャーゴロを打った高校球児が、一塁まで全力疾走する」のを見るときのような、青ビョウタンの「無駄じゃん(笑)」という冷笑を問答無用にふきとばしてしまう、不思議な感動がありました。結局のところ、リモートワークや人工知能などの便利なツールは世に氾濫すれど、人間は人間の肉の実在とその躍動にこそ心を動かされるのであり、自分もそうあらねばならないと背筋の伸びる気持ちにさせられます。「アラカンのトムがあれだけがんばってるんだから、オレも明日からもっとがんばらなきゃな!」と思いながら、すがすがしい気分で劇場をあとにしたご同輩も多いのではないでしょうか。ここでまたいつものように脱線しておくと、ジークアクス8話における大気圏突入のワンカットを見た瞬間、大号泣してしまったことを告白しておかねばなりません。なんとなれば、現状を現状のまま留めおこうとする打算に満ちた政治と、既得権益に満ちあふれた賢しい大人の権謀術策を、年若な底抜けのバカが情熱だけでブチやぶって、冷えて固くなった世界のド真ん中に風穴を空けるシーンに見えたからです。50年もののシリーズにガンダム素人がうかつなことを申すまいと、ずっと口を閉じておりましたけれど、次週の展開を見ることでこの印象が薄れたり変わったりするのが怖いので、ここに感情の記録として書き残しておきます。

 話をファイナル・レコニングに戻しますと、世界同時公開となる大作映画として、終わらない侵略と進行するジェノサイドを前に、前世紀末の「核戦争の恐怖」を援用しながら、人工知能を仮想敵とすることで、トップガン・マーヴェリック終盤のように「現代において、だれがなにを打倒するべきなのか?」への焦点を徹底的にボカしたまま、旧世代にとってのカタルシスーーポセイドン・潜水艦・アドベンチャー、時限爆弾の色つきコードと時計カウントダウン、デジタルの脅威をアナログの物理で粉砕などーーを演出しきったのは、お見事というほかありません(デジタル・ネイティブである新世代が、これらを”快”と感じるかどうかは、正直わからないです)。ただ、作品の瑕疵とまでは申しませんが、3時間の中で一ヶ所だけ、フィクションへの没入から思いきりキックアウトされる場面があったことを、最後にお伝えしておきましょう。深度200メートルの海中から、酸素ボンベなしのスッポンポンで水面へと浮上するところまでは、「まあ……イーサン・ハントなら……ギリいける……のか……?」と自分をだませていましたが、直後に行われたポッと出のヒロインによる救命シーンには、怒髪天を突きました。人工呼吸はチュウやないし、胸骨圧迫は乳首へのペッティングとちゃうんやで! そもそも心臓とまっとんのに、人工呼吸で蘇生するわけあるかいな! トムやなかったら、ゆうに5回は死んどるところやで! ヒジを伸ばして関節を垂直に固定して、骨折させるつもりの全体重をかけて胸骨をヤッたらんかい! あと、黒人の女性大統領に対して、だれもが”ミズ”ではなく「マザー・プレジデント」と呼びかけるのですが、これはプロトコール等において現実に先んずる形で、すでにルールが決められているのでしょうか。それと、”コーリング”という単語が劇中で何度かくり返されていましたが、キリスト教における「神から与えられた使命」という意味だそうで、トム・クルーズにとっての映画制作は、もはやこの境地に達しているのだなと思うと、じつに感慨ぶかいものがありました。