猫を起こさないように
年: <span>2025年</span>
年: 2025年

アニメ「チ。」感想

 モンハンワイルズ、本当にやることがなくなってきたので、「すべての防具を生産する」という奇行にはしっている。そうすると、「グラシスメタル」「ユニオン鉱石」「交換でしか入手できない素材」「交換でしか入手できない素材と交換する素材」がぜんぜん足りないことに気づいてしまうわけです。アニメをながら見しつつ、すっかり存在を忘れていた最終ならぬ採集装備に身をかためて、素材あつめマラソンを開始するハメになるのですが、これがまた、きわめてダッルい作業なわけです。適当なクエストを受注して、採取ポイントをR3ボタンで指定して、オートランの移動をボーッとながめて、すべてのスポットをまわり終わったら「クエストから帰還」を延々とくり返すのですが、総プレイタイム100時間超かつハンターランク250越えで、それぞれの素材スポットに15分程度のリポップ時間が設定されていることを、いまさら発見しました。でもこれ、クエスト終了やテントでの休憩ごとに待ち時間がリセットされるので、ゲーム的にはほぼ意味がありません。そのくせ、食事の効果時間はクエストと休憩をまたいで継続するし、「過去作と同じクエスト受注方式へと、泣く泣くもどす」以前のバージョンは、確実に存在していたと思われます。エルデンリングがデータの使い回しでムジュラの仮面みたいなのをリリースするみたいですし、いっちょモンスターハンターも「クエスト制を廃止して、同一サーバー内のすべてのプレイヤーに同じ時間が流れる」MOバージョンを出しましょうよ。2つのゲームで、売り上げも2倍だな(いにしえの呪言)! サブタイトルはズバリ、「リアル・ワイルズ」で! こっちでマルシーとっときますからね!

 さて、いつものごとく本題はここからなのですが、陰鬱な素材あつめのカタワらで、アニメ版の「チ。」を最終話まで流してしまいました(リスニング主体なので、「見て」とは申しません)。以前、原作マンガについて感想を述べたことがありましたが、いま読みかえすと1巻の段階では、理系への嫉妬とともに、今後の展開へ期待を表明しています。マンガにうといゲーム好きーーいるのか?ーーのために内容をゲームで例えますと、本作は地動説をめぐる「俺の屍を越えてゆけ」になっているのです。主人公はどんどん死んで入れかわるけど、目標とステータスは後続に引き継がれるというアレです。今回、原作そのまんまに朗読されるセリフをあらためてリスニングしていて気になったのは、「すべての登場人物が、同じレベルの言語運用能力を持ち、同じ語彙プールから選択している」ことでした。つまり、この作品はシンエヴァ以降に顕著となった「キャラのガワはちがっても、全員が作者の考えを代弁している」物語群のひとつに分類され、畢竟「フィクションへと仮託した自分語り」にしかなっていないのです。ハッとさせられる言い回しや感動的な場面もあるにはあるのですが、同質のボキャブラリーによる「殉ずる分野へ生命を賭すことさえいとわない、ウソくさい内面の同一性」が巻を追うにつれ、物語全体を単調なモノトーンにベタッと塗りつぶしてしまいます。さらに言えば、主題である地動説はもちろん、活版印刷などの実在する理論や技術を、発生当時から数百年が経過した歴史家の視点を持つ主人公たちが、ほとんど未来視のように語って、暗黒の中世を生きる「未開と文明」のモブたち相手に「論理で無双する」展開ばかりがずっと続いてゆきます。

 作り手にその意図はないのかもしれませんが、本作は「みずからの立ち位置は変更せず、対象を相対的に下げることでカタルシスを得る」近年の異世界転生モノと、なんら本質的に変わるところはありません。自覚的にその優越を摂取しにいく楽しみ方を否定はしませんが、「チ。」という玉に刻まれた瑕疵は、これだけにとどまらないことが、さらなる問題として挙げられます。アニメにうといゲーム好きーー本当に、いるのか?ーーのために、本作のストーリーをゲームで例えますと、「俺の屍を越えてゆけ」の最終主人公ーー仮に、名前は”鵺子”とでもしておきましょうか……仮にですよ!ーーがおのれの係累とは異なった血脈から出現し、数十時間におよぶプレイの結晶であるステータスの引き継ぎもないままに、単騎でラスボスの打倒に成功したみたいな、当のプレイヤー・イコール・読者にとって納得をえられない、意味不明の展開になっているのです。オイ、ハナからキリスト教と書きゃいいものをブルッちまって”C教”表記にして、「現実の歴史と関係ありませんよ、厳密な考証なんてしませんからね」とさんざん逃げ腰だったくせに、「やっぱり、最後はコペルニクスにつなげて幕を閉じたいな……」じゃねーんだよ! ラスボスの審問官が死んで、本が出版されたところで終わっときゃ、まだかろうじて読めたものを、これじゃ地動説をリレーしてきた全員が犬死にの無駄死にじゃねーか! このお話はフィクションだって1話から宣言してんだから、最後までフィクションのカタルシスに殉じろよ! 連載中の反響か、あるいはおそれていた耶蘇方面からの”反響のなさ”で方針転換したんだろうが、世間様を気にしてビクビクと臆病なくせに、肝心かなめのやり口がいちいちこざかしいんだよ! マンガとアニメ、両方を最後まで見させられたオレの死に時間をかえせよ(それはキミのせい)!

 あと、このアニメ、なぜか光源のない夜の場面が異様に暗く表現されていて、目をこらさないとなにが描かれているのか視認できないぐらいなのです。しつこくゲームで例えておくと、近年のオープンワールドの開始時に設定させられる、「模様がかすかに見えるようにしてください」という明暗スライダーの調整に大失敗したあげく、二度とコンフィグをさわらせてもらえないと表現すれば、未視聴のゲーマーには伝わるかもしれません。アニメの演出も、受け手の快不快を無視して作り手のこだわりを押しつけてくるあたり、原作ソックリだなと考えていたら、怖い可能性に気づいてしまいました。それは、「この画面の暗さは、白人の虹彩をベースに設計されているのではないか?」という疑惑です。つまり、ネトフリによる世界配給で本当にリーチしようとねらっていたのは、もしかすると白人のキリスト教徒だったのではないかという可能性です。まったく、臆病から傲慢へ突然に大跳躍できるのは、オタクどもの深刻な悪徳ですね! そもそも、この程度のマンガ(失礼)が放送前から枠を2クール押さえてもらって、全巻全話ひとつのセリフも余すことなくアニメ化って時点で、相当におかしな話ですからね! 以前も書いたような気がしますが、東大を卒業して大手出版社に入社したものの、望まぬマンガ部署へ配属されて腐っていた新人ーー編集王を想起ーーが、本作と運命的な出会い頭の事故を起こした結果、「愚かでチョレー大衆を、この書物でボクが啓蒙してやるんだッ!」と意気ごみ、モーレツな社内外でのプレゼンから世界を獲りにいったーー「”獲る”んじゃないス……”刺し”に行くんスよ……(!?)」ーーみたいな内幕があったとしか思えません(耶蘇へのオラついた挑発は、無視されたようですが……)。ともあれ、このムダに回転数の高い、傾ける情熱の方向性をまちがえた東大卒の編集者(幻影)には、次に小鳥猊下をプロデュースしてほしいと思いました。どっとはらい。

ゲーム「崩壊スターレイル第4章・安眠の地の花海を歩いて」感想

 あらゆる形態のフィクションのうち、いまもっとも続きを待ちわびていると言っても過言ではない、崩壊スターレイルの最新バージョン3.2を8時間ほどかけて読了。更新のたびに膨大なテキストが追加され、以前にも指摘したとおり、プレイフィールは「もはやゲームというより小説」なのですが、やはり中華の物語は「時間」「家族」「死生」を書かせると”群抜き”(平井大橋語)で、定命と不死を対比しつつ、死の根絶の是非を問答しながら、「死が人の心に情熱をともし、そこから愛が生まれた」という結論へといたる筆致は切実さに満ちており、じつに見事なものでした。最近、赤毛のアンをおそらく数十年ぶりに読み返したのですが、おのれの視点が完全にマリラ側になっていたのには、長い時間の経過を実感させられました。そして、子どもというのは、孤児であるかどうかに関わらず、ある日、突然に日常へ出現するものです。赤毛のアンとは、孤独な兄妹が過ごした、不死のように変わらぬ40年の日々が、ひとりの子どもの出現によって、ひとつの死へむかって動きだす物語でもありました。アンがクイーン学院へと旅立った夜、マリラはベッドの中で号泣し、「神ではないものを、こんなにも愛していいのだろうか」と自問するさまを見て、なぜ百年以上を離れた異国の地の作家が、同じ感情を知っているのだろうと、泣けて泣けてしょうがありませんでした。ことさらに無感動をよそおった若き日々から、心中に生じた愛の深まりへおそれおののく人生の季節を越えて、その執着を彼方へと見えはじめた死に向けてどう解消してゆくのか、かつては宗教がその答えを持っていたはずですが、いまは大量の等価で無価な情報にとりまかれたまま、ただ茫然と立ちつくすほかはありません。

 モンゴメリを読み、それから崩スタや原神を読むとき、私の胸へと去来するのは「この半世紀というもの、我々はあまりに少女を性的に消費し続けてしまった」という悔恨にも似た感情です。「少女の見た目をした、死をつかさどる双子の半神」という設定を、本邦における現代の創作者たちがあずけられたとき、どんな内容の物語が上梓されるのかを想像しただけで、暗澹たる気持ちにさせられます。まちがいなく、たっぷりと性的な百合展開が大半を占め、最上のものでも萩尾望都のカーボンコピーがせいぜいでしょう。キャストリスなるキャラクターを中心として語られる今回のバージョンは、キャッチーにセクシャルなモデリングで萌えコションたちへ旺盛な課金をうながしながら、そのストーリーの内実は非常に骨太な「家族愛」と「死生観」の話になっているのです。余談ながら、たびたび話題に挙げるところの漫画喫茶と温泉の複合施設で、なぜかトリリオンゲームをぽつぽつ読んでいるのですが、お話し自体はかなり行きあたりばったりなのに、池上遼一の画がいちいちおもしろすぎて、”間が持って”しまうという不思議な漫画体験をさせていただいております。その劇中に、おそらくパズドラあたりを下敷きにしたアプリ制作編があり、課金にまつわる”オレ理論”が展開されているのですが、ホヨバのリリースした原神が覇権アプリと化す”以前”の話になっていて、ほんの数年でここまで市場をゲームチェンジできるものかと、ある種の感慨をいだきました。その勝利の理由は言葉にすれば、「オタクの”好き”に向けた純粋さに対して、常に誠実かつ真摯であり続ける」という一点を極限にまで突きつめたゆえで、近年のFGOが失いつつある種類の美点でもあります。

 崩壊スターレイルというアプリは、その人気のわりにストーリー・パートへの感想がほぼ見当たらないので、ファンの多くを占める若者たちは、シナリオは全スキップしながら、登場人物たちの魅力的なルックスと、よくできたプロモーション・ビデオと、作中の派手なムービーだけを消費しているのだろうと推測しております。しかしながら、このゲームの本質は膨大なテキストにこそあり、じっくりと読みこんでいくことで世界観に由来する玄妙な情緒が立ちあがって、大の大人の鑑賞へ充分に耐える中身になっているのです。今回の更新部分で驚かされたのは、手書きのアニメーションが突如として挿入されたことで、驚くと同時に思わずヒザを打ちました。アニメ指向の3Dモデルは、派手なアクションのムービーで輝きこそすれ、動きの少ないシーンでは人形めいてしまい、どこか繊細さに欠けるものです。制作者の意図するキャストリスの遍歴と感情のゆらぎを表現するのに、3Dモデルでは演出をつけきれないと考えたのでしょう。たとえつたなくとも、たとえ失敗したとしてさえ、「意志のあるチャレンジ」は、惰性による停滞から抜けだすためにとても重要で、「意志なき現状維持による不失敗と不成功」を再生産し続ける界隈(ドキッ)に棲息する諸氏におかれましては、この姿勢をぜひ見ならってほしいものです。本章のヒキとなるクリフハンガー部分では、いよいよオンパロスを管理する「ラプラスの魔」に相当する存在が姿を現し、この世界がシミュレーション仮説そのものなのかもしれないという疑惑は、いっそう深まりました。ペガーナの神々で言うところの「眠れる大神」を思わせるほのめかしをして、「次回、乞うご期待!」となったときには、「えー!」と思わず大きな声が出たほどです。

 それにつけても、ひとりのトップクリエイターがプログラムからシステムからシナリオからぜんぶやる、他者の人生を平気で数年ほど待機させて恥じない傲慢な本邦のゲーム群とは異なって、6週間を待てば必ず続きがリリースされるのだから、まったく中華のクリエイティブ商売は大したものじゃないですか。本邦のゲーム制作に従事する諸氏は、ユーザーへ徹底的に奉仕する、この「謙虚さと誠実さ」を見ならうべきじゃないですかね。最後に、小鳥猊下の作品から一節を引用して、本邦のクリエイティブ界隈へひそむ不遜な性根へのカウンターとしておきます。『考えれば、この”やめる”という選択肢を持たないものは、世の中にそれほど多くありませんよ。さっき言った政治と、なんだろうな、愛? いやいや、冗談です。文学も、音楽も、芸術も、すべて疑いなくやめることができます。やめても生活が続くものを批評するのは、意味がない。ゲームなんて、文学や音楽や芸術のうちの末席の、更に後ろのムシロ桟敷でしょう』

アニメ「アン・シャーリー(1話)」感想

 エッキスのタイムラインが悪い意味で沸騰しているところの、国営放送のアン・シャーリー1話を見る。ご存知のように原作小説の周辺には、村岡訳に疑義を呈する英文科卒のおばさまたちをはじめとする、深海魚のごときファンが数多く潜伏しており、うかつなニュウビイたちが近づこうものなら、たちまち捕食されてしまう、男オタクにとってのファースト・ガンダムのような、じつに業の深い作品なのです。いまをさかのぼること半世紀、世界名作劇場における初のアニメ化が報じられると、やっかいな原作ファンによる反対運動がまきおこったものの、その騒ぎを高畑勲の演出による作品の真価だけで暴力的なまでに鎮圧したという逸話が、現代にも伝わってきておるほどです。この旧アニメ、制作中のエピソードもふるっていて、盟友たるハヤオの謀叛にも似た途中離脱や、大病をおしてまで作画を続けさせられたヨシフミや、彼の葬式ーーずっとあとのことです、為念ーーで「近ちゃんを殺したのは、高畑さんよね」と投げかけられたイサオがそっけなく「うん」と応じたなど、まさに歴史上の偉人たちがおのれの血と魂でもって錬金した珠玉の50話の存在を前にして、なお令和の御代に新作を上梓しようと考えたのが、蛮勇や無知によるものではないと証明されていくことを、1話視聴の段階からなかばあきらめつつも、せめて若いアニメファンたちがビートルズのように高畑版「赤毛のアン」を発見するためのきっかけになればと願っております。

 余談ながら、私にとっての高畑勲は、現実世界ではぜったいに遭遇したくない、正気と狂気のはざまを悠然と歩く真性の天才であり、奈良の片田舎に引きこもっていたおかげで、彼の死までに創作者としての姿勢へ総括を求める面罵を浴びる機会を持たなかったことへ、心の底からの安堵を感じている次第です。たびたび「演劇やアニメで革命を継続しようとした全共闘世代」を揶揄する発言を過去にくりかえしてきましたが、彼らの創作のほとんどが本当に手に入れたかったものーーたぶん、国家や体制の転覆など少しも望んではおらず、高給で召しかかえられる首相や首長の相談役みたいな立ち場ーーの代償行為、もっと言えば庇護者へする試し行為にすぎませんでした。高畑勲だけは、ちがいます。東京大学を卒業しながら、みずからの意志でアニメ制作を生涯の仕事として選びとり、「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」と、「それが出現する以前と以降では、世界の見え方がまったく異なってしまい、それが存在しない世界をもうだれも想像できない」という真の革命を、作品の力だけで体現し続けてきたのです。全共闘世代の虚構従事者でフィクションを通じた社会の変革に成功したのは、高畑勲だけだと言っても過言ではないでしょう。

 しぶしぶプッシー(推し、の意)への礼賛から、国営放送のアン・シャーリーへと話を戻しますと、まずもって今回の再アニメ化によるいちばんの僥倖は、「やっかいなおばさまたちの、メンドくさい言説」をひさしぶりにタップリと摂取できたことでした。それらはほとんど彼女たちの生存報告であり、人がらや人生観までもが行間へとにじみだす、定型の賞賛か完全の無視しかない昨今のつぶやき群とは性質を異にした、重層的な”人生の言葉”だと表現できるでしょう。続きまして、イヤイヤ作品の内容についてふれていきますと、若い女性のキンキン声が耳にさわることをのぞけば、「原作の知識があるプリキュアの一員みたいなアンが高速リアル・タイム・アタックで、マリラとマシュウの籠絡をこれまでの115分から23分へと大幅に短縮した」みたいな楽しみ方ができないこともありません(やっかいな高畑ファン)。しかしながら、元祖・喪男であるマシュウをシュッとした見た目の長身イケオジにしたことで、彼が60歳まで独身であった理由について、「生まれながらの男色家である」か「妹と近親相姦の関係にある」の二択を視聴者に迫る結果となったことは、ゆるしがたい原作改変でしょう(やっかいな原作ファン)。

 本作はグリーン・ゲイブルズのアンを越えて、アヴォンリーのアンまでを描く構成だと聞きましたが、原作の翻訳は「アンの青春」の途中で脱落した個人的な経験から申せば、世界的な大ヒットとなった1作目だけが真の意味での文学作品になっていて、物語の運びや文章の技巧こそ高まっていくものの、それ以降はアンという人物を追いかける、ファン向けに売りだされたキャラクター小説にすぎません。「だれのためともなく書かれ、数年間を物置で過ごした草稿」という意味で、シリーズ第1作「アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ」だけが「非現実の王国で」や「ダイヤモンドの功罪」と同じ性質をそなえていると言えるのです。泣きつかれて眠るアンのほおにはじめて口づけをし、屋根から転落して足首を折るアンの姿に胸のつぶれるマリラの心がわりの様子、「死と呼ばれる刈り入れ人」によって最愛のマシュウが神の御もとへと去り、アンは「人生は、もう二度と元にはもどらない」ことを知って、子どもから大人へと否応に、不可逆に成長してゆきます。そして、大きな無償の愛を得て正しく羽化した少女は、ついに「愛に飢えて彷徨する、寄る辺ない魂の遍歴」を終えることとなりました。そうなれば、もはや1個の大人として「なにがあろうと、なんとかひとりでやっていく」しかなく、孤独な少女の物語は物語として物語られる意味を失ってしまうのです。もしかすると、私に「アンの青春」の途中で本を閉じさせたのは、「この子は、このあともうなにがあっても大丈夫」という安堵の感覚だったのかもしれません。

 さらに無礼と審美眼の欠如を承知で付け加えれば、草木の描写と少女の長広舌による掌編を、時系列で数珠のようにつないでいく原作の語りは、100年以上前の小説技法を現在の目で断罪するつもりはありませんが、非常につたないものです。けれど、生涯を家族の介護とケアに費やしたモンゴメリが、みなの寝しずまった深夜に、だれのためでもない、おのれの魂だけを救うために、架空の少女に仮託した解放の夢として、毎日1話ずつを書いていったのだろうと想像するとき、胸の痛むような思いにさせられます(あら、でもいやな痛みってわけじゃないのよ)。いまや、このような物語のつむぎ方も、アンのように奔放な空想の広がりも、スマホやPCを媒介として我々の日々へ24時間を常駐するようになったインターネットによって、すべて発生をさまたげられているのにちがいありません。最後に、小鳥猊下がネットに記述するテキストのすべてについて、「押入れの草稿」として書いていることを、ゆめゆめお忘れなきよう諸賢へお願いし申し上げて、とりとめのない感想を閉じたいと思います。

雑文「虚構ガッカリ日記」(近況報告2025.4.3)

 原神第5章・栄華のバトルアリーナを読了。このお話、屋上に屋を架した大蛇足へのさらなる追加蛇足から、非実在ヘビの足首にリボンまでかけだしたみたいなもので、おのれをいつわらざるホンネの感想といたしましては、「いつまでもナタをこすりつづけてんと、さっさと次の国へ行こうや!」でした。それもこれも、制作ディレクターがマップ導入順の進行管理に失敗して、豊穣の邦での冒険より先に戦争の完全終結を語るハメになってしまったことが、悪印象を与えている主な原因です(妄言)。ヴァレサなる新キャラも、「ピンク髪に恥じらい多めの、怪力で大食いなのに小心な牛娘」という萌え要素をギガ盛りにした、原神世界というよりは昨今のVtuber界隈を模したみたいなキャラになっていて、ホヨバから「オタク君、こういうの好きでしょ? 性癖でしょ?」とウワメづかいに詰めよられても、キリッとした表情で「いや、あの戦争をともに戦わなかった者は、仲間でもなんでもないんだが?」と冷静に返答できてしまうほどの無感動ぶりです。なんの感情もINKEIの傾斜も動かぬのに、豊穣の邦のマップへ干渉できる竜の配置が絶妙に不便なせいで、探索要員としてガチャを引かざるをえないという鬱陶しさは、原神らしからぬユーザー・フレンドリー・ファイア(なんじゃ、そりゃ)な調整になってしまっているのです。終戦後のナタにおいて、登場するたびに炎神の格がどんどん下がっていくのも個人的には大問題で、古い人間ゆえに古い映画で例えておくならば、バグダッド・カフェにおける「トゥー・マッチ・ハーモニー!」の絶叫のあと、さらに2時間ほど映像が続いたようなゲンナリ感だとでも表現できるでしょうか。おい、ヴァレサ! オマエはノット・コーリング・ユーや! 「大戦終了後に、満を持して完成した決戦兵器」みたいなキミの立ち位置は、いったいぜんたいどないなっとんねん! ポッと出ェでがんばらなアカンのに、「演技は苦手だから、後方支援にまわるよー」じゃないんや! それこそ、今回が最後の出番なんやから、ナタの諸先輩方を押しのけて、もっとガツガツ前にいったらんかい、ボケェ!

 あと、遅ればせにアニメ版メダリストの12話を見たんですけど、マイ・フェイバリットであるところの「見なよ…オレの司を…」のコマが、思わずもれでる内面の声や表情のうるささへのキャプションではなく、直球にセリフとして処理されていたのには、心底ガッカリしました。音声エフェクトをかけてホーミーみたいに二重処理するとか、漫画版そのままに背景へ書くーー事実、「絶対に認めさせるマン」はそうなっているーーとか、やり方はいくらでもあったでしょうに、元々の主人公のセリフをオミットする最悪の選択をしてしまっている。メダリストという作品が大好きなので、多少の不出来ならば「黙して語らず」と思っていたのですが、このアニメ版は声優の生声”以外”のいっさいを、漫画版へ足すことができていません。原作の描線や構図を生かさない、簡素な棒立ちのバストアップによる会話のやりとりもそうですが、なによりひどいのはCG丸出しのスケーティング・シーンです。無機質に引いたカメラから、淡々と3Ⅾモデルへ付けられたモーションを追うばかりで、漫画版の見開きや大ゴマが持つカメラと構図のキレ、擬音のデザインやデッサンの歪みから醸成される、あの圧倒的なまでの情感を致命的に欠いている。この12話においても、外野でほめまくるモブのセリフがひどく浮いて聞こえるぐらいの、あんなフニャフニャな暗黒舞踊モドキを見て、リオウ君がツカサ先生に心酔するようになるわけないじゃないですか!

 イライラが止まらなくなってきたので、とばっちり的に単行本未収録のアフタヌーン本誌における展開へ言及しておきます。あのさあ、こんなことになるぐらいなら、北島マヤと姫川亜弓みたく最初からダブルヒロインを明言するか、いっそヒカルちゃんのほうを主人公にしておけばよかったじゃねえか! こっちは12巻をかけて、すっかりイノリちゃんの保護者か熱心なサポーターみたいな気持ちにさせられてんだよ! ヒカルがイノリを物心両面からボコボコにくらすシーンがしつこく何話も続きすぎて、作り手の「イノリの声優にアテレコさせるための悲鳴が書きたい!」というサドマゾ性癖を越えて、ヒカルの言動がほとんどサイコパスになってんだよ! メダリストが正しく終わるためには、「圧倒的な経験と才能の違いを、コーチによる差分でかろうじて上回る」展開しかねーんだよ! それが近年の艦これイベント海域の甲難度みてえに、どうひっくりかえしたって初心者スケーターの勝ち筋は、完全に消えてしまってんじゃねーかよ! 「12年選手の甲勲章32個持ちベテランに、4月からはじめたばかりの初年度ルーキーが、数年前に引退した提督からコーチングを受けながら、次回の夏イベント甲難度でRTAクリアに競り勝たねばならない」みたいな状況にしやがって! 練習ばかりで芽の出ない下積み期間が長くなりすぎて、イノリちゃんを見るまなざしに、かつて「自分がテレビで鑑賞したときには、なぜか必ず転倒する実在のスケーター」へ感じていたマイナスの気持ちが、否応に混入するようになっちまったじゃねーか! キャラクター全員の内面を等価に掘り下げたら、主人公が特別な理由なんてぜんぶ消えちまうに決まってんだろーがよ! こちとら、「実家が太くて、慶應幼稚舎から親戚のコネを使って、一部上場企業に就職」みたいな”血統書の物語”から逃避するために、フィクションを読んでんだよ! たのむから、庶民で雑種のイノリちゃんを、ひたむきな努力だけで勝たせてやってくれよ!

 すいません、ほんの少しだけ激昂しすぎてしまったかもしれませんが、いまは「おのれの寿命とのチキンレースを避けるため、完結した作品をしか読まない」という誓いをやぶってしまったことに、ひどく後悔を感じております。しばらくはメダリストから離れますので、イノリちゃんが「いまだかつて敗れたことのないヤンデレ系サブヒロイン」をブチころがして金メダルをとったら、そのときはそっと教えてください(グラップラー刃牙みたいな主人公補正マシマシの勝ち方だったり、「イマジナリー6回転アクセルの着氷の論評」みたいな話になったら、教えないでください)。

アニメ「全修。」感想

 モンハンワイルズ、アルコールを入れながら、就寝前に1時間ぐらいプレイしてる。本作のハンターはあまりに強すぎるため、「どんな危機的な場面でも、アクビがでるようになった範馬刃牙」みたいな状態に陥っており、おかげさまでアニメの”ながら見”が、非常ないきおいで進捗するのであった。それにつけても、いつまでもいつまでも終わらぬ、異世界転生モノの隆盛であることよ。どの作品も「文明国家に住まう者が、一等地劣った土人に文化を啓蒙する」というフォーマットになっており、作り手は「豊かな社会における消費者である自分」を最上の価値に置き、なんら変わることも傷つくこともなく、おのれ以下の存在をただ描写すればいいのだから、これほど楽なことはあるまい。もっと言えば、異世界転生モノはいまや「衰退国家に住まう貧者を慰撫する、マイルドなパトリオティズム」として機能し、暴力革命をいっそう遠ざけている側面は、まちがいなくあるだろう。ドカチンの日銭で食らう冷えたコンビニ飯も、画面の中でエルフ女が頬を赤らめながら「おいしーい!」とほめてくれれば、相対的な優越感によってハッピーでいられるというカラクリだ。

 そんなわけで、ひどく厭世的な気分を引きずりつつ、「全修。」を最終話まで見終わったのであった。この作品、異世界転生をとりあつかってはいるものの、近年ではめずらしい原作なしの完全オリジナル脚本で、第1話の巨神兵パロディがエッキスでバズッていたのをご記憶の向きも多かろう。実のところ、その地点が本作のおもしろさのピークになっていて、以後は「巨匠による渾身の一作のはずが、なぜ興行的な大爆死へといたったか?」をメタ的にトレースするような展開のまま、ズルズルと終わっていった印象である。過去のスーパー・アニメーターたちの作画をパロディ的に再現し続けるのかと思いきや、メインストーリーをシリアスに語るほうへと次第に軸足は動いてゆくのだが、その内容からは膨大な過去作の最突端にいる自覚も技巧も、皮肉なことに感じられなかった。全体的にクリエイター礼賛の色あいも濃く、本来ならば私がもっとも嫌うたぐいのアニメであるはずだ。点数を聞かれれば、もちろん0点をつける。しかし、最終2話はずっと泣きながら見ていた。虚構内虚構である「滅びゆく物語」の、ありきたりな設定とおぼつかない語り口へ、ネット巨匠・小鳥猊下による、どこにもたどりつかなかったライトノベル「MMGF!」を重ねてしまったからである。

 2次元のキャラにいだいた幼少期の恋慕だけをよすがとして、現実での喜びをすべて手ばなしてアニメーション制作へと傾倒させてしまうほど、だれかの心へ”届いて”しまう強度をあらゆる作品が持ちうることに、「挫折した創作者」としての自我をなぐさめられる思いがしたのだろう。大手スタジオによる新進の育成を目的とした実験作だとのふれこみも見かけたが、「ハッピーエンドだけがエンタメと思うな」みたいな、のぼせあがった若造の若書きもふくめて、どんなつたない作品だろうと、いったん世に出てしまったならば、受けとめた者の人生を変革させる可能性があるというメッセージを、不出来な「全修。」は不出来ゆえに、意図せず放射しているのである。小鳥猊下のもとにも、いつか手汗と付箋でよれよれになった「MMGF!」を胸元に抱いた美少女監督がやってきて、頬を赤らめながらアニメ化のオファーをおずおずと申し出てくれることを妄想しつつ、このいじましい感想文を唐突に終わる(図らずも、「生きながら萌えゲーに葬られ」と同じエンディング)。

雑文「M. Wilds and J. AYASEGAWA」(近況報告2025.3.19)

 モンハンワイルズ、複数の武器種をわたり歩きながら、ハンターランクは140を越え、そろそろ起動するのが億劫になってきた。いったん始めてしまえば、軽快なアクションと適度な難易度(重要)で、2時間ほどを没頭して楽しくプレイできることはわかっているのだが、なかなかそこまでたどりつかない。ワールドの末期もちょうどこんな感じだったなと回想しつつ、今日も今日とて、「せっかくの休みだし、ワイルズやらないとな……」と頭の片隅で思いながら、一種の逃避行動としてーーよりイヤなものがあると、よりイヤでないものに耐えられるーー艦これイベント海域に着手してE2をクリアしたばかりか、そのかたわらでダイヤモンドの功罪7巻までの3度目の通読をはたしたのであった。そこから、さらに平井大橋熱が冷めやらず、ヤングジャンプのアプリをインストールして、最新78話までを読了した現時点での、本作に関する印象を述べておきたいと思う。

 以前の感想に「人物の書き分けやコマ割に目を引くところはないが、少女漫画の文法に沿った心理描写でグイグイ引きこまれる」みたいなことを書いたが、3度目の通読を終えて、ダイヤモンドの功罪はストーリー構成が”群抜き”であることに気づいた。唐突な時系列の跳躍から過去現在をジグザグにザッピングしたり、長々ロングスパンでだれもが忘れている伏線回収を行ったり、この作者は読者よりもはるかに高い位置から作品世界を鳥瞰していることがわかる。世界大会の決勝マウンドから優勝記者会見への場面転換もそうだし、ジュニア全国大会の開会式でかつての面々を再会させて、さんざん読者の期待を高めておきながら、翌週には1年後に綾瀬川が自宅でコンタクトレンズをはめるところへ時間を早送りするなど、たとえばかつてのファイブスター物語のように、作品世界の始まりから終わりまでの全年表が作者の頭の中に存在していて、そこからどの場面をだれの視点で語るかを取捨選択しているとしか思えない構成の仕方になっているのだ。

 さらに言えば、この作者はみずからの長年の妄想の結晶体であるダイヤモンドの功罪の世界をしか「描けないし、描かない」のだろうと推測する。新人賞を獲得した読切作品をふくめて、だれかに読ませたり理解されることを前提としない、しかし、作者にとっては唯一無二の重大な物語であるという意味で、ヘンリー・ダーガー的なものを強く感じるからである。デビュー作であるゴーストライトを読んでいなければ、綾瀬川の才能に対置される存在である大和くんの初登場シーンはかなり唐突で、この人物が作中で重要な役割を占めるようになるとは、まったくわからないだろう。綾瀬川次郎と園大和は、平井大橋にとってあまりに自明すぎる、運命に導かれたヴィヴィアン・ガールズであり、自分以外のだれかに「理解してもらう」ために、説明をくわえる必要性を感じなかったのではないかとさえ思う。「連載開始前から、すでに数千ページにおよぶ草稿やラフ原稿が作者の自宅の押入れに存在し、それをどの順番で再構成して清書するかにだけ、四苦八苦している」ような凄みと怖さを、ダイヤモンドの功罪という作品からは感じてならないのだ。

 もしかすると、その創作手法こそが、たびたび引きあいにだして申し訳ないが、メダリストーーアニメの出来には毎週ガッカリし続けているーーの行間をすべて埋めていく足し算的な作劇に対して、描かれていない部分にこそ重要な情報が存在する引き算的な作劇に見える理由なのかもしれない。少年野球をとりまく大人たちの思惑や感情も、ストーリーが進むにつれて生々しさーー綾瀬川を隠語で”A”呼ばわりするなどーーを増してきており、もしかすると作者の属性は「子育てを終えて、時間のできた主婦」ではないかと、ここに放言してみる次第である。そんなわけで、パブリッシャー諸氏は、そろそろエンプティ・ネストで無聊をかこつ小鳥猊下を発見していただいても、いっこうにかまわない(唐突かつ台無し)。

 あと、先週に公開したモンハンワイルズ記事のアクセス数が急増しており、どうもメチャクチャ読まれているようなのだが、グーグルやエッキスを検索しても出元は不明のままで、どこからだれが来ているのかサッパリわからない。「底抜けにオープンで、世界をひとつながりにしていたインターネット」はもはや背後に過ぎ去り、ここがさまざまの小さなセクト(ディスコード?)に細分化された、現実のカーボンコピーを格納するだけの場所になってしまったことを、古い人間としてはすこしさびしく思う。

質問:既にご存知かもしれませんが、「平井大橋」という橋が実在してて「綾瀬川」にかかってる、、のを知ったときは本当にこの作者はこの世界を・綾瀬川次郎を世に知らしめるだけに漫画家になったのかな、、と震えたことがありました。確かに物語の全てはもう出来上がってるのかもしれませんね。
回答:恥ずかしながら初耳だったので、話を聞いて背筋がゾッと寒くなりました。逆光で顔を黒く塗る演出も、昔の少女漫画で見たことがあるような気がするし、休載の頻度から考えて、いよいよ作者は「親の介護がはじまったアラカン主婦」である可能性が高まってきましたねー(妄言)。

ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(HR100まで)」感想

 ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(下位クリアまで)」感想

 モンスターハンター・ワイルズ、ハンターランク100を達成。やっぱさあ、このゲーム、ボリューム足りてないんじゃないの(暴言)? より正確に表現すれば、ボリュームはあるんだけど、その見せ方に工夫が存在せず、「ロスの大邸宅の100畳あるエントランスの片隅に置いたコタツへ4人で座って、ホールのショートケーキのイチゴだけを食べる」みたいな行為を強要されている感じと例えれば、伝わる人には伝わるかもしれません。天候の変化、季節の移り変わり、モンスターや小動物の生態、NPCの細かな挙動やかけあいなど、世界の隅々までていねいに作りこんであるのに、それに気づかせる動線が少しも存在せず、狩り以外の遊ばせ方は皆無なのです。装備にしたところで、1つの武器種と汎用の一式を作りさえすれば、ハンターランク100まで攻略にわずかの支障も生じず、下位もふくめて膨大な数を用意された防具群に、重ね着で使う以外の役割がほぼ与えられていません。もはや、「シリーズの伝統」とひらきなおっているのかもしれませんが、オープンワールドという新たな舞台で、歴代の死に要素をゲーム的に復活させるアイデアは、検討されなかったのでしょうか(ダルくはなるけど、ホットドリンク等に類する極限環境へ対応する性能を追加するとか)。ファイナルファンタジー16の感想にも似たようなことを書きましたけれど、「5年かけて冒険の舞台をじっくりと作成し、残りの1年でいつものアクションをそこにどうなじませるか試行錯誤した結果、最後の最後ですべての施策を断念した」に類する顛末があったように思えてならない仕上がりなのです。現在のところ、武器ガチャと鎧玉あつめーー重鎧玉の価格が5000ポイントで、歴戦個体の素材売却が1個90ポイントなの、気がくるってません?ーーがエンドコンテンツなのですが、多種多様なモンスターとまんべんなく戦うより、デカくて動きの派手なわりにとても弱い、歴戦アルシュベルドをたおし続けることが、そのための最適解になってしまっていることは、本作の大きな問題点と言えるでしょう。美味しんぼで例えるなら、キロ数十万円のマグロの大トロを串であぶったものに塩をふって食べたあと、残りをどうするのか聞いたら、「捨てます。最上の部位を味わったあとでは、つまらぬものです」と返答されたときの若旦那みたいな顔になります。幼稚園児が中学生に、中学生が大学生になるような長い時間をかけて、コロナに耐え戦争をむかえ世界の混乱を横目にしながら、毎日コツコツと制作してきた成果物をぜんぶ台無しにするこの最終調整にいったい満足しているのか、制作チームの構成員ひとりひとりに聞いてみたいぐらいです。

 ゲーム全体への愚痴はこのぐらいにして、アクション部分についても上位の感想を述べておきますと、愛武器ーー愛犬ぐらいの意ーーである大剣の新ギミックをひととおり試しましたが、相殺とジャスガはソロorシラフ専用として、ボタンひとつでくりだせる集中モード貫通斬りが、まー、アホみたいに強い。強溜め斬りと貫通斬りのループでモンスターの傷口はひらきっぱなしになり、まるでプロレスみたいにドッタンバッタンひるみまくって、延々とこちらの攻撃ターンが続いていくのです。ウィキの最強装備を鵜呑みにして、「攻めの守勢」をスキル構成に入れて、チンタラ鍔迫り合いなんかねらってる連中には、「おまえら大剣のこと、なーんもわかってねえな」と、ここに吐き捨てておきましょう。モンスターの大技を2度のタックルでいなし、真・溜め斬りで敵のふところにとびこんだら、あとは強溜め斬りとワンプッシュおてがる連撃であるところの貫通斬りを交互にくりかえせば、エターナルフォースなんとかで相手は死ぬ(溜め段階によるダメージ上昇分が、そのまま貫通斬りにも乗っているようで、なにやらバグくさい挙動ではあるのですが……)。近年のモンハンでは、マルチプレイでギスらないために、本来ならリザルト画面にあるべき「累積ダメージ最大」の称号がオミットされているのですが、ワイルズにおいては多くのクエストで大剣がそれを達成していることに、もはやなんの疑いもありません(真顔)。まあ、モンスターの体力と攻撃力メガ盛りのマスターランクが解放されれば、通用しなくなるだろう戦法なこともうっすらわかっており、「どうせいまやりこんでも、ぜんぶムダになるしな……」という冷めた気持ちが常に頭の片隅にあるのは、G級商法の功罪の最たるものだと、最後に指摘しておきましょう。あと、歴戦ゴア・マガラだけが、アラカン・ロートル・プロレスラーの群れにひとり混じった、きわめて殺意の高いハタチの総合格闘家になっていて、小鳥猊下はモンスターハンターe-sportsを、ぜったいにゆるしません。

ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(下位クリアまで)」感想

 モンスターハンター・ワイルズ、発売日から有給をとって週末ぶっとおしの70時間プレイでハンターランクを100にしておきながら、「ボリュームが少ない!」などとほざく他責思考の貪食イナゴを横目に、1日2時間の優雅な貴族プレイでたっぷり1週間ほどかけて下位をクリアして、いちおうのエンディングを見たところである(悪文)。以下のテキストを記述するのは、本シリーズを右スティックで攻撃していた無印の初代からずっとプレイし続けてきており、PS2版のドスーー「まあ、自然は厳しいってことで(笑)」ーーが最高傑作であると信じて疑わない、とりあえず大剣1本で全クリしてから他の武器種に食指を動かすぐらいの、ただの人間ーー北斗の拳での用法ーーである。まずはじめに指摘しておくと、人気アクションゲームのシリーズ続編がかかえる避けがたい宿命とは、「前作の完成度がどれほど高かろうとも、”必ず”新システムを導入しなければならないこと」だろう。ワイルズにおいては「集中モード」がそれにあたり、「機動力を犠牲に、部位破壊がしやすくなる」という、思わず制作側の心中をお察ししたくなる、多くの武器種にとって恩恵の少ない、微妙きわまるシステムなのだが、大剣だけはちがう。なんと、このモードにおいては、溜め中に左スティック1本で自ハンターをカメラごと360度回転させることができるのである! これがなにを意味するかと言えば、ワールドから導入された大剣使いのリーサル・ウェポン「真・溜め斬り」の命中率が、発動後の縦回転中にも大きく軌道修正が効くこととあいまって飛躍的に向上し、30%ぐらいししかなかった敵弱点へのヒットが、体感で80%を超えるまでに上昇することとなったのだ。すなわち、とっくに眼前からターゲットが消えているのに、手淫でいきむかのごとく宙空へ精を放出したあのむなしい日々は、ついに過去のものとなったのである。新参者のチャージアックスやガンランスがダメージ効率をブイブイゆわせながら、「マジっすか、大剣っすか、パネェ(笑)」と揶揄してくるのを、「まあ、古参の懐古趣味だから……」とあいまいに微苦笑していた時代は終わり、ワイルズにおいて大剣はいっきに最強武器種の一角へとおどりでたのだった(新システムに強く依存した強化なので、次回作でまた大幅に弱体化することが見えているのは、悲しいが……)。

 また、登場するモンスターたちは全般的に、もうタイトルもよく思いだせない、けったくそわるい前作のモンスターハンターe-sports?における中年プレイヤーからのブーイングが作り手の猛省をうながしたのだろう、どれだけ派手な動きとエフェクトに見えても、プレイヤーの「攻撃ターン」と「防御ターン」がキチンと分けて用意されており、従来のモンハンのゲーム性へと回帰しているように感じられた。これはつまり反射神経だのみではなく、過去作の経験を生かせるということであり、下位クリアまでの死亡回数は、泥酔時に氷の巨大モンスター(名前失念)からカメラで轢き殺された1回のみだった。ただ、多くのファンからの高い期待を宿題としてしまった「なにがなんでも、本作をオープンワールドにする」という裏テーマは、必ずしも成功しているとは言えない。モンハンの楽しさのひとつに、「モンスターとの鬼ごっこ」があると思うが、本作のマップは広大かつ高低差に富んでおり、さらに移動できる地形が特定の法則に従って整備されているというよりは、作り手の恣意によって設定してあり、手動操作でモンスターを追いかけることは、ほぼ不可能になっている。おそらく、試行錯誤の末にたどりついた苦肉の策だろうと理解はするが、騎乗によるオート追尾をデフォルトの移動手段にせざるをえなくなったことで、「モンスターとの鬼ごっこ」と「オープンワールドの広がり」という2つのアドバンテージを消滅させる結果となってしまった(いまは上位クエストを進行中だが、「オープンワールドの探索”も”できる」ぐらいの、莫大な手間と時間ーーろぉぉくぅぅねぇぇんん!ーーをかけたにもかかわらず、付随的な要素にとどまっている)。本当は「採集でリソース管理しながら、痕跡を追いかけてモンスターを発見し、次々と狩りを続ける継戦の楽しさ」のような、シリーズを重ねるにつれて強まっていくアクション要素から、初代が指向したハンティングへと先祖がえりする、新たなゲーム性を模索するつもりだったのが、途中でディレクターが怖くなってしまい、いつものクエスト受注方式に戻したとしか思えないチグハグさが、ゲーム全体にどこかただよっている。制作途中で「オープンワールドの広大さと自由度の高さは、近年のモンハンのゲーム性と食いあわせが悪い」と気づかなかったはずはなく、すでに大勢のファンを持つシリーズものの続編へ、新味を加えることの難しさを物語っているとは言えるかもしれない。

 さて、ここからはトーンを変えて、ストーリー・パートについてふれていきましょう。今回のメインシナリオはオート移動を中心として、オープンワールドをなぜかベルトコンベアーな一本道で語る形式になっており、他プレイヤーと共闘する場面はほとんどありません。まるで、大型バスで行く観光地めぐりのような感じで様々なロケーションをめぐるのですが、自分の足で歩かないのでマップの印象はほとんど記憶に残らない。なのに、「(土地の固有名詞)の(知らない人物)と話せ」みたいなミッションが唐突に挿入され、言葉の通じない異国の地でツアーガイドが、「ここからは、各自でフリー・ショッピングをお楽しみくださぁい」と告げてから、こつぜんと姿を消すような恐怖をたびたび味わうハメになるのです。部族の村を熊のモンスターが襲撃するぐらいまでは、ていねいな世界観の提示があり、非常に好印象だったのですが、ストーリーを進めるにつれて、生態系などの説明もないまま障害物的に新規モンスターが投入される展開が続き、「これだけ作りこんでいるのに、出し方がもったいないなー」と思いました。イビルジョーになぞらえられたワールドの「(生理的に)ウケツケ”ナイ”ジョー」への反省からでしょう、本作では白メガネ学者娘と黒ギャル鍛冶屋にヒロインの要素を分割してきたことと、キャラクリ画面そのまんまの主人公が主体的にセリフをしゃべって物事を進めるのは、ベターになった要素としてみとめておきましょう(えらそう)。カプコンの真骨頂は、いずれのゲームでもアクション部分なので、文芸面に過度な期待をしてはいけないとわかっているのですが、「多様性」やら「モノ作り」やら「環境問題」やら、モンハン世界と水油の現代的な概念を、なんの変換もなしにチョクでつっこんでくる雑さには、思わず半笑いになりました。ストーリー展開としては、褐色の少年が白い竜を見て、唐突に感情的になりだすあたりから雲ゆきがあやしくなり、白メガネ学者娘がハンターの討伐した「護竜と書いて、ノー・ルビでガーディアン(笑)と読む」の死体を見て、「生殖器が退化してる」みたいなことを言いだしたときには、「ハァ? それって、ちんちんが小さいってことですかぁ?」と夜中に大きめの声でさけんでしまいました(階段をかけあがる荒々しい家人の足音)。

 エンディングは、生殖能力を持たない人造の生命が卵を生んだーー1頭でどうやって? 単為生殖ってこと?ーーことを「ちょっといい話」みたいにして終わるのですが、人工知能全盛の時代にクローン羊のドリーを彷彿とさせる生命倫理の話をいまさらやるのって、致命的に感覚が古くないですかねえ。「あの竜がそうしたように、ぼくたちも守り人の伝統から自由になっていい」というタワゴトも、どこかの同人誌にも書きましたけれど、地方の旧家から都会へ放逐された次男坊とその子どもたちぐらいまでをしか慰撫しないヨタ話で、いまや各地の伝統やら旧家の家督やらは人口減少で自壊しつつあり、人の生き方になんの拘束力も持たないどころか、むしろ若い世代にとって羨望して回帰することをのぞむ場所にさえ、なっていると思うんですよ。ワイルズのシナリオには、Qアンノが昭和の虚構に横溢していた「左翼的なるもの」や「全共闘的なるもの」をカッコいい概念として、自作の中で頻繁にとりあげるのと同じ手つきを感じましたねー(元の概念が、脱臭・脱色されているところまで同じ)。現代において、我々より下の世代が苦しんでいるのは、「家名もなく、束縛もなく、宗教もなく、信条もなく、目的もない」という”生きることの虚無”と”無重力に浮揚する魂”の問題だと思うので、アラフィフぐらいであろうこのライターは、平成初期の虚構から引用したテーマを手クセでまとめるのをそろそろ止めて、令和という時代について本気で思考を深めてほしいところです。え、「もはやモンハンとなんの関係ありませんね、それ」だと? バカモノ! この無軌道さが、(例の芸人のトーンで)ワイルズだろぉ?

 ゲーム「モンスターハンター・ワイルズ(HR100まで)」感想

アニメ「機動戦士Zガンダム」感想

 ジークアックスによるファースト・ガンダム特需を横目に、機動戦士Zガンダムを人生ではじめて通しで見る。まず結論から言えば、わたくし個人のかかえる「ガンダムが苦手で、単位が出ない」理由を、極限にまで煮つめたような作品でした。この唐突な奇行の裏事情ですが、週2くらいでチマチマ進めているドラクエ10オフラインにおける最強アクセサリであるところの、「再行動10.5%・アクセルギア」をパーティの人数分用意するため、キラーマジンガと56回ほど戦わなくてはならなくなったからです。ながら見で視聴すると、セリフとセリフのかけあいがまったくつながって聞こえない瞬間がかなりあり、最初のうちは一時停止からまきもどして聞きなおしたりしていたのですが、早々に「ガンダムって、そういうもの」とあきらめました。正直なところ、序盤の展開はひどく退屈で、ドラクエ10オフラインがなければ、アムロが登場するまでに視聴を脱落していたにちがいありません。シャアが「昔の名前で出ている」ことはうっすら知っていましたが、7年後?のホワイトベースの面々がガッツリと描写され、本作が「初代の正統なる続編」だったのには、新鮮な驚きがありました。無印がア・バオア・クーを旅の終着と見たてた縦方向の「ゆきて帰りし物語」とするなら、ゼータは「ガンダム世界の設定の、横方向への拡張」をかなり意識的にやっているイメージで、35年越しでようやくみなさんに理解が追いついたというわけです(幼いハサウェイが出てきたのには、のけぞりました)。恥ずかしながら、本作を見るまではガンダム世界について、宇宙戦艦ヤマトやスタートレックのような、銀河規模の話ーー「木星帰り」とか言ってるしーーなのだと、カンちがいをしておりました。光年単位のワープ航法が存在せず、あくまで地球と月軌道の範囲で起こる戦争だからこそ、資源の枯渇や大地の汚染がテーマの中心になるのだと、ようやく気づかされた次第です。

 しかし、「トミノ節」というのでしょうか、登場人物の心理描写は前作からいっそう独特さを増しており、大人たちは喜怒哀楽でいうところの「怒り」と「哀しみ」をしか発露しない。この世界で「喜び」と「楽しさ」を表現することをゆるされているのは、子どもたちだけなのです。もうひとつのポイントは「不機嫌」で、登場する大人たちの全員が胸中に「不機嫌になるトリガー」を持っているようなのですが、その正体がなんなのか、外野から見ているぶんにはサッパリわかりません。おまけに、令和の視点ではギョッとするほど頻繁かつ安易に、男女の別なくグーかパーで他人の顔をはりたおしーー修正? 修正って?--まくります。「キャラクター全員が、太平洋戦争帰りのPTSDを心中にかかえている」というのがもっとも合理的な説明のような気がしますが、やっかいなファンを多くかかえる、この歴史ある巨大シリーズ相手に、めったなことは申しますまい(言ってる)。ただ、登場するすべての女性キャラが男性の妄想をコピーした人形ではなく、少々のエキセントリックさはあるものの、それぞれ確固たる人格を与えられ、近年に顕著な「男性性を我がモノとして取りこんだ、頭文字エフ」とは大きく異なった”女性”として、所与の状況に向けて自らの意志をもって行動する様子は、不思議な感動を呼びおこしました。戦中戦後に幼少期を過ごされた禿頭の御大は、社会に充満していた無意識の抑圧から、決してお認めにはならないでしょうが、潜在的にかなりバイの要素をお持ちである気がします(「この哀れな魂が神のみもとに」というナレーションや、パプテマスという固有名詞には、キリスト教の洗礼を感じる)。また、「ここは託児所じゃないんだぞ」などのセリフから、ガンダムから旧エヴァが受けている影響もうっすら見えてきて、放送当時は唐突に思えた「男の戦い」というサブタイトルも、ガンダム世界の定義による”男”ーーくやしいけど、ぼくは男なんだなーーを意味していたのだと、ようやく腑に落ちました。

 全体的に雰囲気で聞いているセリフの中で、もっとも深く心に刺さったのは、ハヤト・コバヤシーーあの優しい少年が、ゲイルックの小太り暴力上官になっていたのは、本当にショックでしたーーがクワトロ大尉に伝えた、「あなたほどの人物が、現場で一兵卒をやっているべきではない。時間をかけても、組織のトップにまでのぼりつめてほしい」みたいな諫言でした。年齢と地位の上昇へ行動の変化を伴わせることは、じつのところ、かなり意識的にやらないとできないものです。「マネジメント層になったのに、言動はいつまでもどこまでも一兵卒」という態度は、典型的な”昭和の組織あるある”で、あさま山荘的な総括を恐れるあまり、組織の存続へ向けたオーダーではなく、かつての同僚に対する”おもねり”を優先してしまう、曲がった心性に由来しています。年齢を重ねて、以前と同じパフォーマンスを発揮できなくなったスポーツ選手が40歳、下手をすると50歳をむかえても現役を続行しようとする姿勢を、本邦のメディアはときに美徳のように語りますが、私はこれを明確に「逃げ」であり「醜い」と感じます。「体制に組みせず、管理側に就かず、生涯を一兵卒で終える」のは、身内による粛清をただただ恐れる、全共闘的な病理の保存に他ならないからです。ともあれ、Zガンダムの講義をすべて聴講ーー履修とは言わないーーしたいま、この観点から人生4度目の「逆襲のシャア」に挑戦してみるつもりでおります。

漫画「二階堂地獄ゴルフ(6巻まで)」感想

 温泉とサウナと漫画喫茶が複合したような施設で、二階堂地獄ゴルフを6巻まで読む。例によって、エスエヌエスで1話が話題になっていたのを思い出したからですが、結論から言うと、男性作家の悪い部分の煮こごりみたいな作品でした。直近に、メダリストダイヤモンドの功罪などの良質な少女漫画を経由したせいもありますが、すべての男性が多かれ少なかれ持っている異性への偏見(性的な)と、昭和の倫理観を令和にアップデートしようとして大失敗した臭気が、全編にわたってただよっているのです。なぜか「欧州における香水文化の発展は、下水道の整備が不充分なことによる、不衛生に起因するものであった」みたいな一節がアタマをよぎりましたね。本作の感想を述べるにあたり、福本作品との個人的な接触履歴をまず開陳しておくならば、天を全巻読破し、アカギの6巻までと最終話だけを読み、カイジは第1部終了までを追いかけて、以後は疎遠になったぐらいの不熱心なファンです。天の最終章を下敷きにしたパロディを書いたこともあるので、けっしてキライな作家ではないのですが、麻雀漫画のオススメに福本作品を挙げないことからも、小鳥猊下の感じている距離感は、みなさんに伝わっているかと思います。西原理恵子だったかが、彼の漫画群を評した「まちがった算数の計算式による頭脳戦」みたいな表現は、じつに正鵠を得ていて、摩訶不思議に私淑するファンの多いアカギにしたところで、「配牌とツモがいいことを前提にした、ご都合主義の奇矯な戦術披露」以上の感想は出てきません。もし漫画の神様(not手塚治虫)が、この寒風ふきすさぶ四畳半に現れて、仮に「1つの完結した作品を漫画史から消滅させることを代償に、1つの打ち切り作品を完結まで連載させてやろう」との申し出があったとすれば、秒でアカギを歴史から抹消して、度胸星を再開させますからね!

 いまゴールデンカムイの作者が、打ち切りになったアイスホッケー漫画のリベンジ・リメイクをしているように、近年の福本伸行は”熱いぜ辺ちゃん”あたりまでの「売れなかった人情モノ路線」へ再チャレンジしているように見えるし、アカギの娘?が主人公の新作ぐらいから、「これまで避けてきた女性キャラの描写をキチンとする」ことを創作の裏テーマとしているように思います。この2項目を補助線として引くと、二階堂地獄ゴルフという作品をより深く理解できるのではないかと考えながら、読みはじめました。さすが売れっ子の人気作家だけあって、物語の設定と序盤のビルドアップだけで、グイグイと読み手を引きこんでいきます。3巻までは近年の同氏の作品と比べて、ストーリー展開のテンポも早く、「これは、新境地を期待していいのかも?」とさえ感じていたのが、4巻冒頭から突如として「まちがった算数の計算式」によるトンデモ頭脳戦がはじまり、6巻を読み終えるころにはすっかり、男性作家による悪いストーリーテリングの総天然色見本ーーキャラはブレブレで一貫性がなく、ストーリー展開はその場その場の思いつきーーであるところの「いつもの福本漫画」へと印象は落ち着きました(続きを手にとることは、もうないという意味です)。二階堂地獄ゴルフのストーリーをメダリストで例えるなら、「バッジテストに落ち続け、司先生は選手に復帰して去り、18歳をひとりでむかえた結束いのりの話」であり、ダイヤモンドの功罪で例えるなら、「少年野球の監督に車内で肛門性交を強要され、トラウマで野球ができなくなった綾瀬川次郎の話」であり、本質的に「時間と紙幅を費やしまで、わざわざ語る必要のない話」になっているのです。なぜって、そんなみじめな話は、われわれ凡人の生きている現実そのままで、虚構の称揚ぬきで物語にする価値なんて、微塵もないからですよ!

 たしかに、漫画家として売れるまでの苦労はあったのかもしれませんが、いまや国民的な人気作家となり、横になっているだけで印税と利子で大金が転がりこんで(銀と金!)くる、現世での大成功を収めたイケメンなのですから、わざわざ社会の掃きだめに巣くう醜い容姿の男性をとりあげ、いたずらに不幸にさせる漫画ばかりを執筆するのは、札束の盾に守られた安全圏から”鉄骨渡り”の愉悦を味わうためでないとすれば、マゾヒスティックな性癖に由来した不謹慎きわまる執拗のいじめ行為にしか、もはや見えないのです。もう還暦をとうにすぎていらっしゃるでしょうから、そろそろ連載中の作品はすべてテキトーにーーだれも続きを待ちわびていないのでーー終わらせて、新人賞を受賞したあとの長い下積み時代からはじまり、麻雀誌で「バブル時代と寝た」あと、一般漫画での大ヒットへといたる、福本版アオイホノオに着手する人生の季節ではないでしょうか。そのほうが現状よりも、よっぽど作者と読者の双方にとってウィンウィンになると思いますよ! あと、温泉とサウナと温泉喫茶が複合したような施設に置かれていた二階堂地獄ゴルフの単行本ですが、3巻までは読まれすぎて分解しそうなほどメロメロになっているのに対して、4巻以降はほぼサラピンの状態で「た、大衆から虚構に向けられた批判の、アナログによる表現形式……!!」となりました(キライな表現)。