猫を起こさないように
年: <span>2025年</span>
年: 2025年

雑文「V. Saga, M. Lion and H. Diver」(近況報告2025.10.13)

 ヴィンランド・サガの最終巻を読む。少し前の巻での「長年の仇敵が主人公をゆるす瞬間」の描き方がとてもよかったので、戦争の時代における”不戦”の先をどう語るのかについて、かなり期待していたのですが、さんざんメタファーの感想でディスった「昭和の平和教育」のお題目ーー戦争は反対です、なぜって戦争は反対だからですーーをトレースするみたいにして、尻きれトンボで終わってしまった。それこそ、菜切包丁をホウレン草の固い部分にふりおろすみたいに、「物語がそこで終わることを求めた」のではなく、「作者がその地点で語るのをやめた」終わり方になっているのです。ふたたび、我々の世代が呪われている呪いの実在をまざまざと見せつけられ、朝晩が急に寒くなってきたのあいまって、海溝のようにストンと気持ちが落ちるのを感じて、あわてて3月のライオン18巻を手にとりました。これまでに指摘した「脇役たちのサブシナリオが魅力的すぎて、主人公のメインストーリーが相対的に弱くなる」を煮つめたような内容ーーまあ、17歳のジャリなんて肉の輝きをとりのぞけば、中身はペラッペラでしょうけれど!ーーになっていて、おまけに巻末で作者が「次巻、最終巻!」を宣言しており、ひっくりかえりました(てっきり、群像劇と英雄譚は両立しないーーすべての人物の内面を微細に語れば、主人公の特別さは消えるーーことを自覚した、ライフワークとしての「終わらない物語」になるのだと思っていたのです)。たった2作品だけで一般論へ落としこむつもりはないのですが、作者が週間連載に耐えられないほど年齢を重ねて、月刊誌移籍や不定期掲載になった作品は、画面の密度はどこまでもあがれど、物語としての構造をうしなってーー描きたい場面を数珠につないで、気力かアイデアが切れたら、両端をひもでゆわえて提出するーーいく気がします。

 陽のいきおいのかげりと中年期以降の人生の衰退をオーバーラップさせるような読書体験に、気持ちの落ちこみはいっそう加速するなかで、タイムラインに流れてきたハチワンダイバーの電書半額セールを一括購入し、すがるように読みはじめました。すると、心のテンションはみるみるうちに急浮上へと転じたのです。メチャクチャおもしろいじゃないですか、これ! 描線ブレまくりのお世辞にも上手いとは言えない絵で、フキダシはアホみたいにデカくて、ストーリーはいきあたりばったりなクセに、鼻血とゲロが大好きなことだけは終始一貫してて、ヒロインは特殊性癖を対象にしすぎて魅力ゼロ、幼女の描き方もブッサイクなのに、なのにですよ、ほぼネームとパースとくるったような将棋への熱量だけでどんどん読ませていく、夕暮れの空き地に現れる薄汚れた(失礼)紙芝居師のような、マンガ本来のプリミティブな魅力がギュッ(ギュッ!)と詰まった作品になっている。最初のうちは、プロ棋士になれなかった者たちの”その後”をドキュメンタリー的に描くのかと思っていたら、仮面ライダーにはじまり、ドラゴンボール、バーチャファイター、大和に武蔵にビスマルクと、「男のコの好きなモノ」を闇鍋みたいにほうりこんだ、グッチャグチャの物語へと変じてゆきます。将棋への私的造詣を開陳すれば、ファミコンが家にくる以前に「はさみ将棋」「歩まわり」「コマくずし」を遊んでいたぐらいの人間なのですが、盤上に起こるさまざまな局面を絵による直喩でガンガン表現してくれるので、そんなルールを知らないシロウトでも楽しむことができ、将棋の魅力に対する呼び水的な普及マンガとして成立しているのです(年に数回、一日の作業手順をすべて記憶して、どの段階にも脳内でロールバックできる状態が必要な頭脳労働があって、もしかすると将棋への適性があるような気はしますが、いまさら手をだそうとは思いません)。

 個人的に強く感銘を受けたのは、奨励会の年齢制限によって、人生の時間をほぼすべてささげてきた道をとりあげられる残酷さで、「将棋より大切なことなんて、人生にあるのか」という言葉は、重たいボディブローのように心へズシリとひびきました。なんとなれば、小鳥猊下がいまだに書き続けているのは、テキスト奨励会には年齢制限がないだけのことで、「おもしろい、あるいは美しいテキストを書く以上に大切なことなんて、人生にあるのか」と、なかば本気で考えているからです。また、「社会のだれの役に立たなくてもゆるしてください、死ぬまで将棋の地獄で苦しみますので」というセリフもまさに至言であり、ちかごろ急激に数を増してきた多くの虚業に従事する者がいだくべき、”覚悟の質”を言い当てています(その一方で、ガテン奇乳と妊婦腹への嗜好を前面に押しだし、40歳をババアと呼び、35歳を人生の折り返し地点とする作り手の主観世界が、万人に受け入れられるとも思いません)。ハチワンダイバー、すべての女性を読者から排除し、さらに男性さえもふるいにかける作風だとは感じながら、読めばたちまちテンションがぶちアガるという一点において、日常に鬱傾向のある非虚業のみなさんにオススメです! 「ラスボス戦がショボい」というのも、名作の条件を満たしていますね! あと、チェンソーマン第2部の変容ーーアホみたいにデカいフキダシーーは、この作者のセンをねらったのかなと、ふと思いました。

ゲーム「ボーダーランズ4」感想(少しFGO)

 発売初週で、エンドゲームの薄さに文句をつけている異常者たちを尻目に、ゆっくりとボーダーランズ4をプレイ中。近年に類を見ないほど、心中にハクスラ熱が高まっており、発売3日で72時間プレイするようなキティ・ガイ(子猫系男子、の意)たちーー中の人は、大富豪か生活保護受給者ーーと勝ち目のない勝負をして優越感をあたえたりしたくないので、「ラダーもシーズンもないハック・アンド・スラッシュ」を探し求めた結果、本作へたどりついたというわけです。昔ッから、ファースト・パーソン・シューターに苦手意識があり、最後にプレイした純粋FPSーーアンチャーテッドみたいな「使用武器に銃もある」だけのゲームはのぞくーーは、おそらく初代プレステのキリーク・ザ・ブラッドにまでさかのぼります(操作性の悪さと、なにより初めて体験するポリゴン空間に脳が慣れていなかったため、いつも車酔いのような症状に悩まされていたことが、昨日のように思いだされます)。なにより、コントローラーのレバーを使ったエイムが極端に苦手で、ゲーム内で銃を手にしたさいのこれまでの命中率を合算して平均すれば、きっと50%を下まわっていることでしょう。そういったわけで、どれほど世間をにぎわせていて、どれほど名作の呼び声が高くとも、ずっと純粋FPSを避けてきた人生だったのに、なぜいまボーダーランズ4なのかと問われれば、そのきっかけはサイバーパンク2077にあります。同ゲームの1周目を刃傷沙汰プレイでクリアしたあと、2周目のJUNKER(スナッチャー!)プレイであまりに拳銃が当たらないため、ふとした思いつきで目の前のマウスをつかんでエイムしたら、今後の人生でなんど訪れるかわからない、かなり大きめのパラダイムシフトを経験したからです。なぜか、ずっと疑問をいだいてこなかったコントローラーによるエイムとカメラ操作のチグハグさは、iPadでコマンド入力の複雑な格闘ゲームをやっているみたいなものだったことがわかった瞬間でした。

 長い前置きとなりましたが、いよいよボーダーランズ4の中身の話をしていきましょう。コントローラーで移動を行いながら、マウスでエイムするプレイスタイルならば、超遠距離の敵もスコープなしで狙撃できますし、短中距離からはヘッドショットによるクリティカル連発で命中率は体感90%を越え、永遠もなかばを過ぎたいまになって、ついにファースト・パーソン・シューターの楽しさに開眼した次第です。正直なところ、システム的にはひと昔もふた昔も前の手ざわりになっていて、ファストトラベル地点がそれぞれ間遠なため、かなりの時間を割くことになるロケーション間の移動に、オープンワールドのキモである探索要素が皆無ーーマップにバラまいてあるボックス・イコール・宝箱の中身は、ほぼすべて弾薬ーーだったり、マップの高低差をどこまで二段ジャンプで越えられるかの基準があいまいだったり、クエスト等へのガイド機能がいい加減でいつまでも目的地にたどりつけなかったり、純粋FPSゆえにプレイヤーのとれる行動は少ないはずのにクエストのヒントもまた少なく、せまいエリア内でむなしい試行錯誤を延々と行うハメになったり、エネミーやオブジェクトがポリゴンの隙間に消失してクエスト進行不可となったり、マッチング機能が弱くてずっとソロプレイを強いられたり、ディアブロ2のごとく「マルチにタダ乗りしてストーリー部分をスッとばし、ハクスラの醍醐味である”装備掘り”のステージへ早々に突入する」ことを意識していた最初の10時間ぐらいは、近年の他ゲーム群に比してきわめてムダの多いこれらの仕様に、心の底からイライラしていました。しかしながら、大富豪の生活保護受給者と勤め人が、ゲームの進捗で張りあったところでしょうがないと考え方をあらため、ボーダーランズ・ワールドをじっくり楽しむほうへ軸足を移すと、気がつけばこの世界のことがすっかり好きになってしまっていたのです。マッドマックスに銃夢を足して軽薄を調味料にしたような世界観で、主人公はトリガー・ハッピーかつ利己的な快楽主義者、NPCたちは底抜けに頭の悪いゴロツキかクチの悪いロボばかり、リッパーたちの生命はどこまでも粗末に軽く、「世界の命運」なんて言葉がいちばんにあわない物語だと言えるでしょう。

 少し話はそれますが、FGOの最新イベントである「新撰組・ジ・エンド」が、「ぐだぐだに外れなし」を更新する出色のできで、さすがファンガスの次に信頼する書き手だと感心させられました。本来のなりわいである漫画家の持つ特性でしょう、キャラクターの内面をしっかりと把握した上での短いセリフのかけあいでストーリーを進行させ、「だれの人生にも、ゆずれないものがある」からこそ起こるコンフリクトを、絶対悪を作らずに登場人物のだれも下げないまま語りきるのは、ファンガスの創作手法ととても似ているように感じます。今回のシナリオも、冷厳かつ辛辣な歴史家の視点で、敵味方の双方から近藤勇という人物を徹底的に批判していきながら、最後の最後に「でも、」と言って、他ならぬ作者その人が彼にやさしく救済の手をさしのべる。世界に必要なのは、いつだってこの「でも、」なのであり、「どこまでも人の争いは絶えず、いくら時代を経ようとも人の知恵は深くならず、いまの戦争は未来の戦争の火種を次の世代へと植えつけ、本質的に多くの人生は生きる価値の無いものである」との諦念へと沈んだあとに、「でも、」と言いながら顔をあげられるかが重要なのです。今回のシナリオで個人的に気にいったのは、人斬り抜刀斎が空腹のときにオニギリをもらったお礼として神を斬るエピソードで、あきらかにファンガスと社長の関係性への目くばせがあり、長きにわたり近くで2人を見てきた人物だからこそ可能な、FGO終章へささげる最高の手向けだと思いました。

 意図的にそらせた話をボーダーランズ4へもどしますと、本作のサブクエストはどれもよくできていて、この世界観を好きになる決定的なきっかけは、自我を持った不発弾であるジジのお話でした。かつてちゃんと爆発できなかったことで、おのれのアイデンティティに悩む爆薬を爆発させてやるため、ミサイルのガワと起爆装置を用意してやるというブッとんだ筋書きなのですが、道中に少女の声でとつとつと語られる内省的な”自己定義”の弁にすっかり感情移入させられて、荒唐無稽な出だしにゲラゲラ笑っていたはずなのに、やがてこれは本質的に自殺幇助の話なのだと気づかされて真顔になり、発射台のカウントダウンにせまる大量のエネミーをむかえ撃つころには、両目は涙でいっぱいになっていました。そうして、無事に爆発の本懐を遂げたジジの正体が、弾道ミサイルではなく打ち上げ花火だったのには、「ああ、よかった! あんなにやさしいキミが、人を殺す道具でいいはずがない!」と、ひとり哀悼の嗚咽をもらしたのです。ふざけたハンドルネームからもわかるように、小鳥猊下がまさにそれで、ぐだぐだの作者もきっとそうだと確信していますが、なにより含羞から、最初はだれにもとりあってほしくなくて、下品なギャグやオドケから軽薄にはじまった語りが、次第に熱をおびて真剣さを増してゆき、最後には「わたしを愛してくれ!」という魂の絶叫へと変じる、”臆病なくせに尊大な自我”を隠しきれない書き手が大好きなのでしょう。以上、ぐだぐだ新撰組と不発弾ジジと小鳥猊下の三者へ、身勝手な牽強付会の共通点を見つけだす自分語りのご紹介でした。

 あと、最初のうちは英語音声でプレイしていたのですが、複数の敵と交戦するエイムの過集中において、リスニングだけで内容を理解できる英語力を持ちあわせていないため、泣く泣く日本語へと切りかえたところ、本作のローカライズは過去に例を見ないほどクオリティが高く、ビックリさせられました。原文を生かしながら、本邦のオタク文化とネットスラングをたくみに織りまぜて、ギャグや方言や固有名詞のすみずみにいたるまで、すべてを徹底的に我々のローカル言語へと置換して、ボーダーランズの世界観を”日本語の感覚”で再構築することに成功しているのです。まさに翻訳ソフトや人工知能ではたどりつかない、人のする文系スキルの結晶になっていて、いちテキスト書きとしてうれしくなってしまいました。不発弾ジジの話も日本語でなければ、ここまで感動しなかったような気もしますし、まだかろうじて地上に残されている”人の御業”に対して、素直にシャッポをぬぎたいと思います(もちろん、デュエルシャポー)。

アニメ「劇場版チェンソーマン・レゼ篇」感想

 最近、ひっそりと配信されたチェンソーマン総集編が、総集編とは名ばかりのテレビ版12話276分を214分で再録音・再編集した完全リメイク版だったのに爆笑して、ぜったいに見に行くと決めていた劇場版チェンソーマン・レゼ篇をIMAXで鑑賞する。公開直後に手ばなしの激賞がタイムラインを埋めたあとは、まったく作品への言及が消えて無音になる現象ーー初日に劇場へ足を運ぶ熱狂的なファンが盲目の絶賛をし、ふつうのファンは否定的な評価をきらう近年の風潮から黙りこむためーーを観測していたので、正直なところ、イヤな予感はありました。全体の印象としては、「レゼという”おもしれー女”の登場から退場までを原作から切りだせば、映画になるのでは?」ぐらいの思いつきで映画にしたところ、思っていたより映画にならなかったといった感じで、「マンガで読むと映画なのに、映画で見るとマンガ」としか言えない仕上がりは、藤本タツキの作家性に対する強烈な批判にすらなっています。つまり、「映画っぽいカメラとセリフから成る、映画っぽいシーン」のリニアーかつブツ切りな連続が彼のストーリーテリングの根幹で、物語全体の構成や伏線はあまり意識されていないことが、本作を通じてあらためて浮きぼりになっており、マンガ読みの中でなかば神格化されたチェンソーマン第1部は、じつは大した中身じゃなかったのではないかという地点にまで、話がさかのぼってしまうほどです。

 ザッと内容にふれていきますと、日常パートは執拗な静物のインサートにはじまり、蛍光灯の明滅する緑基調の洗面台、夜のプールではしゃぐ男女、雨粒視点で落下するカメラ、画面上部3分の2に地平線とならぶ背中、電車通過後のプラットフォームに立つ人影など、「なんか別の映画で見た」ような既視感の強すぎる演出が多用され、アクションパートは藤本タツキというより制作会社の個性だとは思うのですが、極端な構図に動きとエフェクトを盛りまくる、原作とは真逆の「足し算的思考」な設計になっていて、いったい画面のどこに視線を向ければよいのかわからず、前日の睡眠時間が少なかったせいもあってか、IMAXの爆音にもかかわらず、眠気を感じてしまったぐらいでした。レゼ篇そのものが「恋に落ちた相手だから、殺せない」話なのに、なぜか原作からアクションを大幅にカサ増しし、おまけに敵の攻撃ターンが延々と続いてチェンソーマンの反撃は極少なため、近年の作品でたとえると、ジェームズ・ガンのスーパーマンみたいなカタルシスのなさになってしまっています(まあ、作者の「サド女子に痛めつけられるのが好き」という性癖には満点で刺さるのでしょう)。

 テーマっぽく提示される「田舎のネズミ、都会のネズミ」もよくよく考えると、ちっともストーリー全体をつらぬいていませんし、「映画っぽいパッケージなのに、映画の体(てい)をなしていない」のは、藤本タツキ作品の批評をねらってわざとやってるのでないとすれば、総集編から旧監督の名前を削除するほど自己顕示欲の強い、新しい監督の非才によるものでしょう。チェンソーマン第1部の印象的な絵ーー地獄で宇宙服の上半身と下半身が地平線に向かってならぶなどーーは、独立したスーパーアシスタントの手腕だったみたいな話も聞くし、「どれだけ第1部のアニメ化でクオリティを高めたところで、第2部はアレだしな」という冷めた視点はどこかつきまといます。最後に、チェンソーマン第2部を担当する国立大出身の編集者が、デンジ君そのまんまみたいな中卒の作者(たとえですよ、念為)をナメくさって、その才能を壊したのだとするならば、有機物が無機物に変じる瞬間に責任を持つだとか、広島弁でブチころがすだとかの婉曲表現ではなく、ストレートに「殺すぞ」と言わせていただきます。ご清聴、ありがとうございました。

ゲーム「マシンチャイルド」感想

 なんと、マシンチャイルドをダウンロードして5時間ほどプレイ。本作は、すでに衰退したジャンルであるところの、プリンセスメーカーを源流とする育成ゲームであり、8時だョ!全員集合にフィーチャーした(まちがい)卒業〜Graduation〜でアダルトゲームのうぶ湯をつかった身としては、見すごせない作品であったからだ。つまり、都市伝説解体センターを手にとった動機と類似する、ある種の過去への憧憬と言えるかもしれない。科学が誕生する以前、個人の知がその生を超えては悪い効率でしか蓄積しなかった時代において、「現在は過去の劣化したもの」と考えられていたというが、ムダに馬齢をかさねた個人の感覚だけで言えば、まったく正しいように思える。なんとなれば、最近ではファミコンから初代プレステ、あるいはセガサターンぐらいまでのゲーム体験が、心中であやしい魔術的な神秘性をたたえるようになってきたからである。少々それた話をマシンチャイルドにもどせば、本作のイラストを手がけるマス・オーヤリa.k.a.ビッグ・ファック先生ーーエロ漫画家ばかりが集う十数年前のオフ会にて、名前が出たとたんに場の空気がおかしくなった、筒井康隆の作品で言うところのフーマンチューみたいな存在ーーの描く女性の特徴は、比較的プレーンな顔だちに強烈なフェティッシュを感じさせる、氏独自の骨格と肉づきをそなえた身体が接続されているところである。ボディ素体の書き分けは、大きく分けて「十代前半」「十代後半」「二十代前半」の3パターンで、その類型を作品によって出しいれする作家なのだが、マシンチャイルドには3人の娘が登場するにもかかわらず、うち2人は「十代前半」が選ばれている(残る1名はキメラティック・パイオツカーデー娘で、隠しキャラは未見)。すなわち、顔面サイズとほぼ同じ肩幅、ブドウのような胸部と浮いたアバラに、ししゃもを思わせるぽっこり腹部に、たっぷりとした臀部をのせるのに充分な広さを持たせた腰といったぐあいである。

 本作はプリンセスメーカーへのレスペクトを公言しているため、成長段階に応じて先にあげた3パターンを推移させるのかと思えば、育成期間がわずか1年ということもあってか、身長や胸部サイズに変化はいっさい生じない。冒頭にサラリとふれられる「機械の子ども」という設定は、タイトルにまでなっているくせに物語的な意味はなく、「ある日、空から美少女が降ってくる」の変形にすぎないことがわかる。田舎から中世ヨーロッパ風の街へ移動したあとは、季節感にとぼしいボンヤリとした日々を送ることになるのだが、プレイアブルな娘が3人いるにも関わらず、性格もイベントでの応答もまったく同じで、気がつけば全員がほぼ全裸のマイクロビキニで恥じらいなく街を闊歩する始末である。たとえば瑠璃の宝石が「性欲を入口に、長大な時間軸を知覚することで気づく、世界の深奥にいざなう」作品だったのに対して、マシンチャイルドは「性欲を入口に、姉妹や娘を持たない者がいだく、近親相姦への憧れにいざなう」作品になっているのだ。そもそもこのジャンルは、PCのスペックがいまよりはるかに低かった時代に、プリンセスメーカーなら赤井孝美、卒業〜Graduation〜なら竹井正樹といった、当世の有名イラストレーターによるCGを30枚ほど閲覧させるための時間かせぎ的な障壁にすぎず、なんならゲーム部分には、女性のヌードが背景に隠されているブロック崩しぐらいの意味しかなかったのである。なので、もともとの期待値が高かったわけではないのだが、「お父さん」というムダに解像度の高い分野が選択されていたことは、プレイする上でかなりの「ノイズ」になったことをお伝えしておかねばなるまい。

 畢竟、親なんてものは「羽化するまでの止まり木」にすぎず、幼虫にはたっぷりと繁らせた青葉をたらふく食わせ、サナギになるための広くて静かで外敵のいない幹を用意し、あんな細い糸1本では自重を支えきれないのではないかとハラハラさせられ、サナギの内側でかつての愛らしい幼虫が原形を失ってドロドロに溶けてゆくのをかなしく見まもり、サナギが身じろぎもしない静かな夜には本当に生きているのか心配し、ある朝にはサナギの上につかまる別の生き物にハッとさせられて、しわくちゃに濡れたその羽が美しくピンと広がって乾いていくのに息をのみ、それが青空へと羽ばたいたあとは、ただその場に立ちつくしたまま、おのれが枯れはてるまで、それの旅路の無事と幸福を祈ることしかできない、無力な存在なのである。他方で、マシンチャイルドが父性と呼ぶなにかは、幼体から成体までのあいだにある、おのれにとってもっとも好ましい時期に胴体へ防腐剤を打ち、標本箱にピン止めして、無垢なる美の静謐を永遠に観察したいという、すべての男性の胸中にめずらしくないーー「ほう、」ーー欲望そのものである(「性欲を上回る、名状しがたい感情」を経験せずにいられることが、不幸なのか幸福なのか、私には判断できない)。ともあれ、昭和時代には有効だった「少ないリソースを鬼のように周回させることでカサ増しし、最終目標はイベントとエンディングCGのコンプリート」というゲーム性は、令和の御代にあってギョッとするほど古めかしく、「マス・オーヤリの大ファンで、彼の絵を見るためならどんな苦労もいとわない」人物以外には、まったくオススメできない内容となっている。以前、都市伝説解体センターは5,000円以上とるべきと書いたが、ただのCG集にすぎないマシンチャイルドこそ、2,000円以下で売られるべきであろう。

雑文「FGO第2部終章・ファンガス最新インタビューに寄せて」(近況報告2025.9.13)

 小鳥猊下は、更新頻度の間遠さに比して、かなり頻繁にエゴサをする人物です。たとえエアリプ的なものであっても、過去テキストに言及されるとうれしくなって、何度もおのれの書いたものを読みかえすほどで、その行為は人工知能への学習命令に近い効果となり、ますます言葉の自家中毒を深めていきます。ですので、「こういう方向のテキストを、もっと書いてほしい」や、「この作品や、あの作品の感想を聞きたい」などの要望がある場合は、間接的にも小鳥猊下宛だとわかるように書けば、彼は必ずやそれを見つけだして、未来のテキストに積極的な影響をおよぼすでしょう。このたび、FGO第2部完結へむけたファンガスの最新インタビューについて、nWoの過去テキストにからめたメンションが複数あったので、少し感想をのべておこうと思いたった次第です。ファンガスは、「型月世界の内側」という強い制約の下、みずからの生活感情や思想信条だけでなく、進行形の「”いま”と”世界”の実相」を、大きな物語として編むことのできる異能の持ち主だと言えるでしょう。とばっちりながら、その唯一無二性をさらに浮かびあがらせるため、氏の代表作の前日譚を乞うて執筆させてもらった、エロゲー業界という同じ出自を持つボイド・ブラックに、まずはふれていくこととします。文筆家の祖父を持つ彼は、言語運用能力に多少の遺伝的要素があることを鑑みれば、まさに「テキスト界のサラブレッド的存在」です。じっさい、その仕事は年齢制限のあるゲームにとどまらず、小説からアニメや特撮の脚本まで、ファンガスとは比べものにならないほど、多くの分野とジャンルにおよびます。ボイド・ブラックとファンガスのあいだにある決定的なちがいは、彼の書くものにはどこか「人間への軽蔑」が混ざりこみ、作中へ「一方的に断罪してかまわない存在」を、まま生じさせるところでしょう。

 ひとつ例をあげると、テレビ版のまどかマギカにおける「電車内で少女にからむホスト」がまさにその典型で、ムダに気むずかしい小鳥猊下は、この種の他者への蔑視を感じた瞬間、対象の物語に対する心の連絡路を完全に遮断して、感情移入しながら鑑賞することをやめてしまうほどです。その一方で、10年を1日のログイン中断もなしに追いつづけたFGOにおけるファンガスの筆ーー他のライターは全然ダメですよ、念為ーーには、ついに一文も、一語たりとも、「人間存在へのあなどり」があらわれることはありませんでした。「美しいものを書きたい」というファンガスの希求が、ただの題目や放言でないことは、彼の書くものをていねいに読みつづければ、自然と伝わってくるものですし、もし伝わらないとすれば、彼のファンを名のる資格はありません。この、世界そのものへの圧倒的な信頼がどこから生じているかと問えば、まったく文章で食っていけない不遇時代に、彼の才能を信じて生活費のすべてを支援し、書くことに専念させたという、型月社長との関係においてでしょう。あなた、いま半笑いでこのくだりを読んでおられますけど、これまでのあなたの人生に、そんな存在はいったいいましたか? あなたがそんな無償の愛をささげるだれかを、ひとりでも思いうかべることはできますか? それは、nWoお気に入りのたとえである「スーパーマン・リターンズのスタジアム」や「アップル・コアのルーフトップ・コンサート」を目撃した人々のように、仮に残りの人生が失敗に塗れたみじめなものであってさえ、世界そのものを心から肯定できる「美しい、無私の献身」だったのにちがいありません。

 ようやく、第2部終章へむけたインタビューに話をもどしますと、ファンガスの中の人は、相当度に天然の”虚構至上主義者”のようで、過去にも「我々の世代はロボットアニメを見て育っているので、平和の大切さと戦争の悲惨さが骨身にしみてわかっている。若い世代はもっとロボットアニメを見るべき」みたいな発言があって、今回の国家に関するストレートな言及も、むべなるかなといったところでしょう。ツイッター時代には、彼の匿名アカウントも存在したようで、うかつな発言のわりに炎上しないのは、ただただ作品のおもしろさだけを信奉するファンたちの、たとえば晩年における寺沢武一のネット奇行を見てみぬフリでとおし、死去のあともけっして蒸しかえさない姿勢と同様の、よくよく”訓練された”心情ゆえかもしれません。これは推測にすぎませんが、書きたいメッセージやテーマを明確に持っており、それを高い純度で作品に落としこめる創作者ほど、活動の晩年へと進むにしたがって、「わざわざ物語で出力すること」の迂遠さに、隔靴掻痒の感が身中へと強まっていくのではないでしょうか。そして、「有名小説家が泡沫政党から選挙に出馬する」のを極北とした、さまざまの「ダイレクトな表現形式」がリアルに噴出するようになってくる。これは作風から判断するに、おそらくボイド・ブラックにとって無用の心配ですが、ファンガスはちょっと危険性あるなーと思ってます(まあ、仮にトチくるったとして、社長が拘束衣とギャグボールで制圧したのち、フロム・ソフトウェアを処方して沈静させるにちがいないという、謎の信頼感はあります)。いずれにせよ、テキストはおもしろいのに物語を持っていない人物から言わせれば、たぐいまれなる才能を「現世のよしなしごと」などというつまらぬものに費やさず、ファンガスにはコピ・ルアクのごとき極上の虚構排泄にだけ、これからも邁進してほしいところです。ホヨバとタッグを組んだFGOのリメイク、期待していますよ!

アニメ「瑠璃の宝石」感想

 瑠璃の宝石、アニメ4話の放送段階で原作の電書と実体を両方とも入手したほどにはハマッているので、エッキスのトレンドに作品名が浮上したことをきっかけとして、ザツ語りの自分語りを残しておきたいと思う。ぶっちゃけた話、本作のジャンルは「オッサンの趣味嗜好を美少女に追求させる性癖動物園」であり、見開きページの左に鉱床、右にシワまで描きこまれた美少女のパンツが配置され、そのどちらも「輝いて見える」人間にもっとも”刺さる”内容になっているわけです。瑠璃の宝石を語る評の中には、アカデミズム方向へと極端にかたむいた礼賛が散見されますが、対置される性欲が本作を視聴する強い動機であることを、ごまかしてはいけません。デブの男子大学院生とヒョロガリの男子高校生から、鉱石の魅力を力説されたところで、けっしていま我々の胸中にきらめく、同じ感情へといたるはずがないのですから! つまり、作者自身の投影である巨乳大学院生が、偶然に出会った女子高校生(美少女)から、マイナー分野の知識のみを理由に好かれはじめ、その友人とおのれを慕う研究室の後輩との師弟愛ーー師妹愛という言葉がないのでーーを間近に愛でるという、瑠璃の宝石ならぬ「百合の放埓」こそが、作り手にとって最高の願望充足であると同時に、チョウチンアンコウのごとく受け手の興趣を誘蛾する要因だと、指摘できるかもしれません。

 最近、アメリカのある企業がテレビCMを布面積の多めな有色のふっくら女性から、布面積の少なめな白人のセクシー女優に変更したとたん、株価が倍になったという話を聞いて思わず笑ってしまったのですが、性的なまなざしの否定は、公の場での表出をひかえさせる効果こそあれ、内心にたぎるマグマのような熱を冷ますにはいたらないのでしょう。オタクたちがもじもじと認めたがらない、これらファクターSEXの向こう側には、路傍の石から永遠の宇宙へと想いをはせる、中華フィクションである三体原神も真ッ青の、時間を基軸としたセンス・オブ・ワンダーが広がっているのです(本邦の田吾作賞が、「アルトリア顔」ぐらいの雑さでSF認定しそうな未来が見えます)。サファイアの産地を探る過程での、知ることによって謙虚になり、謙虚になることで怖さを知る描写も、「学びの本質」を突いていて、とてもいい(学ばないかぎり、我々は無敵でいられるのです)。また、本作は青春期において、”好き”があることの強烈なアドバンテージをはからずも描いており、「スーパーカブでソロキャンプに来て、ラジオで競馬中継を聞くオタク」のイラストを脳内に想起しながら聞いてほしいのですが、初老男性から青少年男子に、過去の悔恨とともにお伝えしておくと、美少女の登場する虚構を愛する我々は、「性欲を”好き”とカンちがいした、なにも”好き”ではない人間」にすぎず、世界において情熱をかたむける対象がないことから目をそむけたまま、ただただ生と性を空費し続けている存在なのです。

 瑠璃の宝石は、本質的に「”好き”がない高偏差値の学生よりも、”好き”がある低偏差値の学生のほうが、受験期のがんばりがきくし、大学に入学したあとの予後ーー前者は医学部を受験させられて、不登校の末に中退するイメージーーも良好である」みたいな話で、2人の10年後に思いをはせると、ナギさんは万年助教みたいな立ち場で貧乏を苦とも感じず、楽しく地質学の研究を続けているだろうし、ルリは院進せずに地元で接客業か販売業に従事しながら、趣味で鉱石版の郷土史家みたいなことをやっているところまで想像できてしまいます。先日、タイムラインに人工知能の台頭を契機とした、ライターやイラストレーターの価格ダンピングに対する悲鳴が流れてくるのを見て、同情より先に「ブルシットだがコンスタントに少なくないカネが手にはいる、”好き”でもなんでもない生業」を選択したことへの安堵と優越が先にきたような人間なので、将来の2人が手にするだろう「清貧の幸福」には、なんともうらやましいような、ねたましいような、あいだにはさまりたいような気持ちにさせられます。ともあれ、パンツが見えてしまうことを意識しないルリの小学生ーー高1にしては幼すぎません?ーーみたいな駄々は最高だし、ナギさんのガテン系のガタイとカタパルト・パイオツはもっと最高です!

ゲーム「都市伝説解体センター」感想

 一時期、タイムラインに頻々と流れてきていた都市伝説解体センターを、1ヶ月ほどーー4話あたりでダルくなって一時中断したので、実質1週間ーーかけてようやくクリア。人生におけるアドベンチャーゲームのベスト3を挙げるならば、順に「ファミコン探偵倶楽部2」「オホーツクに消ゆ」「新・鬼ヶ島」となる昭和キッズにとって、本作をスルーするという選択肢は、あらかじめうばわれていたのです。このゲーム、「京極夏彦と逆転裁判の影響下にある、ファミコン時代のADV」といった見かけなのですが、ケレン味のあるキャラクターのわりにシナリオと、なにより各話のオチが弱く、読みすすめるのに難渋しました。作中の人物より先に真相に気づいても、ストーリーを進めるには、いにしえの「コマンド総あたり」しかなく、タイパ重視の令和キッズは、たいそうイライラがつのったことでしょう。また、本作の物語フォーマットは、安楽椅子探偵が女子大生の助手を使って事件の調査を進める、ミス・マープル的なものなのですが、解決編はいずれも真犯人の同席する警察不在の場において、丸腰の女子がケイタイのスピーカーで真相を聞かせるというものになっていて、昨今の陰惨な通り魔事件などを見るにつけ、かなり無神経なリアリティラインだなとは感じました。もうひとりの女性助手が、男性からの物理的な反撃を鎮圧する場面もあるにはありますが、一種のありえないロマンと自覚しながら、戦闘美少女を愛でていた時代はとうに過ぎ去り、「女性は男性に、物理的暴力ではかなわない」という単純な事実を忘却させるフィクションが横行しすぎていることは、すでに現実へ悪影響をおよぼしているような気がしております。

 あまり肌にあわない物語を読了することができたのは、ひとえにあざみちゃんのアホかわいさと、1話完結のオムニバス形式をとりながら、各話のつなぎで明かされる大きな陰謀のほのめかしでした。そこで流れるジャパニーズ・ラップにはヘキエキさせられましたが、ドット絵の見かけそのものがトリックにつながっているのだろうと、一日の終わりに寝落ちしそうになりながらも、チマチマと読みすすめていったのです。ネタバレ全開でクリア後の感想を述べますと、ゲーム内のすべての要素がポートピア連続殺人事件でたとえるならば、「犯人はボスとヤス」という大オチを演出するための仕かけになっていて、ずっと40点ぐらいーーあざみーのかわいさ加点がなければ、赤点レベルーーだったのに、ラスト20分の印象だけで80点に化け、しばらくして余韻がぬけると60点ぐらいに落ちつく、「剣術勝負での飛び道具」みたいな作品でした。ドット絵による世界認識そのものがフェイクで、途中から高精細なCGに変じてボイスがつく方向の変化を予想していたので、この表現形式が「ボスとヤスが同一人物」であることの可能性を、読み手に露ほども気づかせないためのギミックだったのには少々、肩すかしの感じはありました(よほどの役者を見つけないと、実写化はむずかしいかもしれません)。

 あと、警察上層部の自宅にかけられた絵の価格が5万円なのを、やたらと「高い、高い」とさわぎたてるので、なにかの伏線かミスリードかと思っていたら、特にそんなことはなく、デフレ時代におけるインディーズ・ゲーム制作者の、個人的な金銭感覚を表出しているだけでした。そもそものところ、このゲームの価格が2,000円以下というのは相当におかしな値つけで、5,000円以上とってもぜんぜん納得できる内容だと思うんですよ(その場合、ここまでバズらなかったかもしれませんが……)。我々はもっと自信をもって傲慢になり、おのれの才能に対してもっとカネをよこせと、声高に世間へ主張していくべきじゃないですかねえ。以上、四半世紀におよび無料でインターネットにテキストを提供し続けている管理人からのボヤきでした。

雑文「STARRAIL Odyssey and METAPHORIC Student Activism」(近況報告2025.8.24)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.5を読了。内実はプラモなのを駄菓子として販売するため、小さなガムを申しわけに同封していた往年のビッグワンガムを思わせる、内実は大河小説なのを課金ゲームと強弁するため、木枠のチルトでビー玉を外に運ぶ”知育玩具”を申しわけにマップの片隅へと置く仕草には、思わず笑みがこぼれました。先のビー・エル騒動からもうかがえるように、大陸では漫画や小説に対する当局の検閲があまりに強すぎるために文化として育たず、それらの分野をこころざす若きエンタメの才能たちは、すべてアプリゲームに集結していくとの指摘をどこかで読み、ホヨバという会社への解像度があがった次第です。最近の原神は、なんら構造性のない平板な「家族愛の一本槍」をふりまわすばかりで、当初の浮かされたような高熱は、ほぼ平熱まで冷めてきていますが、ストーリーテリングだけに特化した崩壊スターレイルのバージョン更新は、「世界最高峰の最突端を、現在進行形で走っていると信じる者たち」の輝かしい才気と荒々しい自負が、挫折した創作者の魂を熱狂でふるわせるのです。登場するすべてのキャラクターたちは、「大きな物語」を駆動するための狂言まわしとしての役割をあたえられ、あえて悪意的に言えば、本邦のそれらとちがって、物語を剥奪されたときに単体で自立する強度は、まだ持ちえていません。これはおそらく、「当局の検閲を意識するため、性的なニュアンスをあからさまには付与できない」ことに起因していると分析しますが、同時にシンエヴァを極北とした「キャラクターが、世界の構造に優越する」物語群に堕することから、遠ざけてくれているとも言えるでしょう。

 現段階において、「シミュレーション世界であるオンパロス」「オンパロスを演算するオペレーション世界」「スターレイル世界」「我々の住まう現実世界」の”四重入れ子細工”によって物語はつむがれているのですが、才能の枯渇したストーリーテラーにありがちな、そして近年、本邦の虚構で散見しがちな、”第4の壁“を越える愚だけはおかさず、おそらくのゴールである「シミュレーション存在の受肉」を語りきってほしいものです。これは、急速に発展する人工知能が人間という肉を介さずには、世界へ干渉できない事実に向けた思考実験であり、もっと卑近に言えば、「清潔な都会のデスクワーク」と「粉塵が舞う地方のドカチン」の対比であり、後者の環境で活動するためには、「アイの歌声を聴かせて」の感想でもチョロっと書いたように、ネット環境へ依存しない「安価で自立した、人間そっくりのガワ」が必要となり、そんなものはまだ世界のどこにも存在しないのに、だれもあえて言及しようとさえしない難題でもあります(ドカタ仕事は、無限リポップするとでも思っている、高卒ヤンキーにまかせとけと考えているのかもしれません)。

 いつものように話はそれますが、メタファー:リファンタジオに関する評をネットサーフィン(笑)でさがすうち、故・三浦健太郎と開発スタッフが対談する、数年前の記事を発見してしまいました(ゲームにうといウラケンがメガテンをほめまくるのに、「いやいや、それは金子一馬さんをはじめとする先輩諸兄の手がらであって……」ぐらいの謙遜さえないのには、たいそうムカつきました)。それを読みすすめるうち、プレイ中にずっと感じていた「恥ずかしさ」と「いごこちの悪さ」の正体がなんだったのか、ようやくわかりました。事前に予想していたとおり、制作の統括者たちとはほぼ同世代であり、この年代は学生時代にインターネット抜きの平和教育と人権教育を、べったりと魂の基底部に塗りつけられた経験があります。ゲームを起動すると、毎回ながれるムービーの冒頭に、市民が犬の獣人をののしって足蹴にするシーンがあり、これが本当に心の底から不快で、うっかりスキップに失敗したときには、プレイせずにシャットダウンしてしまうこともあるぐらいでした。その理由を言語化すれば、大卒で富裕層出身の全共闘がチンポみたいにゲバ棒をふりまわし、高卒で貧困層出身の機動隊をなぐりつける図式を連想させ、「部落差別」や「穢多非人」を小学生に語る大人の目の底にあった正義に酩酊し、反論をいっさい予期しない支配の強圧が臭気のかげろうとなって、眼前にたちのぼるのを幻視したせいでしょう。魂のおもてにこびりついた、コールタールのような黒い汚れをすっかりぬぐいとったはずなのに、遠目にはきれいな白い表皮から、あの特有のにおいはいまだ消えていないのです。この意味でメタファーの、主にストーリーに対する負の感情は、同族嫌悪に近いものだったと理解できますし、全共闘の大卒者たちが人生の最終盤をむかえて地上より消滅しつつある現在でさえ、いまだに彼らのあたえた色眼鏡を通してしか世界を認識できない人々の実在に気づいて、愕然とさせられます。

 崩壊スターレイルがわずか2年ーー6週間毎の大型アップデートを続けて2年ですよ、念為ーーで、人間存在の深奥にせまる巨大なSF叙事詩をみごとに織りあげつつある一方で、メタファーは7年もの歳月ーーウラケンも完成を見ずに亡くなってしまったーーをかけて、昭和の同和教育読本「にんげん」をファンタジー世界に再現しているのです。自戒をこめてテキストに残しますが、大陸の若き英才が文字通り、命を賭して虚構を通じた体制批判を敢行しているのに対して、単純な時間経過によって、上の世代が組織からロールアウトし、もっとも大きな責任をあずけられる立ち番になってなお、こんなイデオロギー未満の甘えーー両親、国家、権力者などへの攻撃ーーを捨てられない心性は、まったく恥ずべきものです。どうか若い世代のみなさんは、古い世代がさらに古い世代より押しつけられた価値観を忠実に体現するメタファーではなく、大陸の新しい息吹が現在進行形の世界と対峙する崩壊スターレイルから、人生への処し方を学んでください。

ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想(クリア後)

 ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想(開始35時間)

 メタファー:リファンタジオ、このウンザリするような超大作を95時間(!)かけて、ようやくクリア。「物語摂取」だけを考えた場合、映像やマンガなどに比べると、やはりゲームの時間あたりの効率は最悪です。このディスアドバンテージについて、物語そのもののクオリティや、ゲームならではの体験部分によって納得感ーー言い換えれば、映画40本に伍するエンタメという錯覚ーーをあたえるのが名作の条件であり、この意味で本作は、そのどちらにも失敗しています。最近のトレンドにあがっていたバクマンをひきあいに、週間少年ジャンプのアンケートシステムについて、「ワナビーの情念を火にくべて、当たるまで回し続ける物語ガチャ」と揶揄することもできましょうが、いわゆるAAA級ゲームを数百人が関わるプロジェクトとして立ちあげたあとの、制作撤回どころの話ではない、執行役員やメディアの前はもちろん、仲間であるはずの会社スタッフ相手ですら、ネガティブなことは微塵も言えないというスタークリエイターの地獄は、この対極に位置しているような気がします。メタファーの制作期間は7年の長きにおよび、制作チームのメンバー以外にも、さまざまな役割で本作が世に出ることへ貢献した人々がおり、彼ら/彼女らの中には子育ての時期がそのまま重なった方々も、きっと少なくなかったことでしょう。

 すでに成人してから、永遠をなかばまで生きている我々は、「キミ、ひとつのゲームつくんのに時間かけすぎや! いいかげん、オッチャンらの寿命のほうが先にきてまうで!」ぐらいの感じでヘラヘラ笑っていられますが、本来7年とは、新生児が小学生に、小学生が中学生に、中学生が成人をむかえるほどの、一個の無垢な魂が知恵と人格を身につけて、世界へと解き放たれるのに充分な、意味性の密度に満ち満ちた時間でもあります。基礎工事さえままならない、グズグズの沼沢地みたいな世界観とシナリオの上へ、多くの人生から年単位を供出させて、自立するかも不明な巨大伽藍の建造を強いる行為には、なんらかの罪名すらつくような気さえしてきました。鬼滅の刃が5年で連載を終えて、継続的なアニメ化による超ヒットが全国を沸かせているさなか、稚拙な政治観と浅い人間理解による陳腐きわまるストーリーを、ただただ制作費回収のために鳴り物入りで世に問わねばならないのは、良識ある人の親たちにとって、ほとんど恥辱と言えるのではないでしょうか(またもや週間少年ジャンプでたとえておくと、「10週で打ち切りになるはずの作品が巻末で7年の連載をゆるされ、単行本のリリースは随時ではなく、なぜか1巻から最終巻までを同時発売した」といったぐあいのイビツさです)。7年という時間は、たとえ大人であっても別人のように成熟ーーこの単語が人間に期待しすぎなら、変容ーーするのに充分な長さであり、個人的にも7年前に書いたテキストなんて、ちょっと怖くて読みかえせません。

 唐突に話はそれますが、最近の原神はナタ編の後半からずっと低調で、最新のバージョンにおいて、これまでなら時限マップにとどまったはずの夏期リゾート地を、正規マップとしてナタ本体へと合体させてしまいました(炎の印の数から判断して、確定事項)。くわえて、初期からの人気キャラであるベネットを「じつは、ナタ人である」としたのは、スターウォーズ8級なアトヅケのドッチラケで、いったん悪印象をいだくと幽霊になった両親との心あたたまる交流も、中共のプロパガンダとしか思えなくなってきます(次章のナド・クライを「ゴッサム・シティのような、原神という物語の中心地にする」との発言から、すでに開発リソースをそちらへ全振りしているのかもしれません)。「もうデイリー消化からは外して、ときどきログインするぐらいでいいかな……」とコントローラーを置きかけたところで、しかし、イネファの魔神任務に心を射ぬかれて、泣いてしまったのでした。たとえ悪性をもって生まれた者ーー両親との関係性や犯罪被害による、幼少期のトラウマと読みかえてもいいでしょうーーであっても、正しい人間関係と日々の生活を記憶や経験として積み重ねていけば、やがてみずからの悪性を乗り越えて、ついにはそれを消滅させることができるといった内容で、「別の人間を何人か育てても、いっさい変わることはなかったと思いこんでいたおのれの内面が、じつは善良なものに上書かれているのではないか?」というささやかな希望へ、救われた気持ちになったからかもしれません。このように、自己弁護ではなく、他者へ届こうとつむがれた物語は、書き手の見知らぬ場所で、大輪の花を咲かせることがあるのです。

 さわやかな感動から、話をけったくそ悪いメタファーへとイヤイヤもどしますと、「もしかして、このストーリー、全然ダメなのでは?」という、制作責任者として、周囲のだれに吐露することもできない、苦しい胸のうちを糊塗するかのように、物語終盤からラスボス撃破後のウイニング・ランa.k.a.長すぎる後日談にかけて、どんどん蛇足な補足の言いわけが、等比級的に増えていきます。あれだけ民主主義の価値を強調しておきながら、選挙なしで旅の仲間全員に国の要職をあてがうという、ゲバラとカストロも真ッ青の革命”オトモダチ”政権には、町のNPCから批判的なことを言わせ、暴力による政権奪取からわずか1年で、エンディングのためのエンディングを演出すべく、閣僚全員が統治の席をカラにして外遊へと出かけるさいには、「瞬間転移装置があるから大丈夫」と細かいフォローを入れます。山月記で虎が一晩だけ正気にかえるような、軍歌を耳にした恍惚の老人が一瞬だけ直立して敬礼するような、一種異様の「厳粛な滑稽さ」が本作の結部には満ちあふれているのです。「7年後の自分には、7年前の自分の頭がおかしかったとわかるが、数百人の人生をまきぞえにここまで作らせた以上、いまさら正気にかえるわけにはいかない」というガンギマッた悲壮感が、ひしひしと伝わって泣けますが、流れる涙のわけは悲しみというより、同情に由来するものだとお伝えしておきます。そして、まちがった世界設定をなんとか整合するため、どんどん言葉が増えていくのに対して、ゲーム部分はコピペダンジョンと使いまわしのエネミーで、どんどん先細りしてゆくのです(結局、最初に攻略したダンジョンが、いちばん豪華でギミックに富んでおり、制作途中での制作費縮減を疑いました)。

 さらに、ゲームバランスも調整不足を通りこして完全に崩壊していて、二度ともどれないくせに平坦な2マップだけの最終ダンジョンへと監禁されたあとは、ここまであれだけイジメのように制限をかけてきたMP回復が、なんと無料の無制限で解放されるのです! ストーリーをカレンダーどおりに進めたぐらいでは、とうていまかなうことのできない膨大なジョブ経験値をかせぐため、最終セーブポイントの半径数十メートルをぐるぐると何時間も周回する息ぐるしい作業には、ほとんど閉所恐怖症的なものを誘発させられ、アニメのながら見ーー瑠璃の宝石、おもしろいですーーがなければ、それこそ心がバターになってしまうところでした(わかりにくいたとえ)。満を持して登場するはずだった東京各地をモチーフにしたダンジョンは、7年にわたる制作費の蕩尽に業を煮やした執行役員の大ナタによって、渋谷?の1枚絵のみで処理され、ルシファーそのまんまの見た目をしたラスボス戦へと突入した時点で、”ニンゲン”なる表記は特に物語的な意味を持たない、メガテンの”アクマ”に対する逆張り連想ゲームにすぎなかったことが確定します。このラストバトル、強力なジンテーゼ持ち2枚とアルティメットガード役1枚をならべ、回避すると敵のターンをすべて潰せるブッ壊れーーおそらく、テストプレイが充分ではないせいーーアクセサリを装備したハイザメ先生を準備し、毎ターン同じコマンドを入力し続けるだけの”簡単なお仕事”なのですが、HPはほぼ無傷のままMPが先に枯渇し、MPを完全回復するアイテムを所持しているかの”持ち物チェック”が、最大の難所になるという腰くだけぶりでした。

 最高度に美麗な見かけをよそおいながら、ゲームや物語の内実がここまでそれと乖離している超大作ーー美女を誘蛾灯にする、ベルセルクの触に登場したモンスターを想起ーーは、近年まれに見る「羊頭狗肉の商売」ではないでしょうか。中高年期の貴重な余命である95時間を、生きたままむさぼり食われた哀れなこの先人の手記が、新たな犠牲者を生まないための一助となることを切に願います(人間の乳房の形状をした怪物の器官をもみしだきながら)。最後に言っときますけど、優秀なスタッフたちを飼い殺したまま、メタファーの完全版なんかに着手したら、ぜったいにダメですからね! 土台が腐って家屋全体が傾いてるのに、いまさら高価な家具を搬入したり、内装に凝ったってしょうがないでしょ! 仮に次回があるとすれば、彼ら/彼女らが子どもーーまあ、7年もの制作期間中に成人して、すでに家を出たかもしれませんけれどーーに誇れて、せめて学校でイジメられないようなものを作らせてあげてくださいね!

映画「教皇選挙」感想

 見よう見ようと思っていたのに、劇場へ足を運ぶまでの熱量はなかった教皇選挙を、アマプラでようやく見る。ほんとうにこれ、最近は使いたくないんですけど、他に用語がないのでしょうがなく口にしておくと、全編にわたって「ローマ・カソリック的ポリコレ」に満ちあふれた作品でした。たとえるなら、「ああ播磨灘」で主人公がおばあさんを抱きかかえて、女人禁制の土俵へあがるんだけど、絶妙に彼女の足を土へつけさせないパフォーマンスによって、伝統への配慮を同時におこなっている感じと表現すれば、伝わる人には伝わるかもしれません。気になった場面を順にあげてゆきますと、アフリカ教区の黒人司祭が下馬評1位で1回目の投票において最多得票となるのに、人種ではなくスキャンダルを理由にその支持を失わせることで、「黒人を教皇とする」暗黙のタブーに対して、きめこまやかな配慮を行っています。また、この黒人司祭の醜聞の内容はといえば、30歳のときに19歳の女性とのセクシャル・インターコースによって私生児をもうけたにすぎず、お相手を10歳や12歳の少女に設定しないことによって、「カソリック司祭による児童への性略取」という真のスキャンダルへの追求は、巧妙に回避されます。また、アジア人の存在は厳重に秘匿され、クリント・イーストウッド監督が「グラン・トリノ」で見せたような差別意識は、作品の表層へ姿すら見せないまま、無言のうちに抑圧されます(「西洋社会に衝撃を与えるが、かろうじて許容できる」人種はラテン系ヒスパニックまでであることは、最終的に教皇選挙の勝者となるアフガニスタン教区の司祭を見れば、おわかりいただけるでしょう)。

 さらに、「ロビー活動なし」「決選投票なし」で参加者の3分の2の票を得るなんて達成できるわけもないのに、階段の踊り場に集まった3人のひとりに「我々は、まるでアメリカ人みたいじゃないか!」と言わせて、「ご覧になっているのは映画的な演出にすぎず、じっさいのコンクラーベはもっと公明正大で、作為はありませんよ」と観客に目くばせーーこっち見んな!ーーしてくるのです。そして、イエス・キリストが男性をしか使徒に選ばなかった事実に由来する、「女性は枢機卿になれない」伝統への挑戦には、なんと候補者が両性具有であったという反則級のウルトラCが使われます。しかも、「体内に子宮があるのに、30代まで気づかなかった」として、排泄と性交を男性として行うことができる程度にしかアンドロギュノっていないとの言い訳まで、周到に用意されております。かてて加えて、戴冠式(着座式?)の場面を映さずに、路地をかけてゆく若い尼僧たちの姿で物語の幕を降ろすことによって、「あれからどうなったって? もちろん、ノーコンテストの再選挙となったに決まってるじゃないか!」という逃げ道まで、神経質にしのばせてくるのです。ついでに、難癖レベルの不満(いつもの)までぶちまけてしまいますと、「システィーナ礼拝堂のフレスコ画が完全に無傷な、上部の窓ガラスが内向きに割れる程度の自爆テロで、主人公が気絶するほどふきとばされる」って、もうこれ、完全なプロレスじゃないですか! ジョーカー2の裁判所シーンぐらい盛大に爆破して、コナゴナになった最後の審判を見せて、アジア人たちの溜飲を下げてくださいよ! それに、最終投票の直前、鳥の羽音とともに礼拝堂へ光が差し、列席者全員がなんとなく空を見あげる演出も、「政治や信条の話じゃありませんよ、これは宗教と信仰の話ですからね」という、キリスト教徒へのビクビクした目くばせーーこっち見んな!ーーとしか思えません。

 ここまで読んでおわかりいただけたでしょう、本作は現代のローマ・カソリックがかかえる問題にふみこもうとしてふみこみきれず、制作者がふみとどまった地点をそれぞれ線でつなぐと問題の輪郭がボンヤリとうかびあがり、「意図せぬ痛烈な批判」になってしまっているという、じつにヘンな映画なのです。最後に、個人的な体験をお伝えすれば、持ち前の億劫病から、「28年後…」と視聴の順番が逆になってしまったせいで、キリスト教の腐敗に絶望したレイフ・ファインズが、いつ自室でヨードチンキを顔に塗りだし、礼拝堂に居ならぶ枢機卿をみな殺しにしはじめるのか、終始ドキドキが止まりませんでした。