猫を起こさないように
年: <span>2025年</span>
年: 2025年

映画「トラペジウム」感想

 劇場公開当時から、様々のオタクたちによる正負の感情がうずまいているトラペジウムを、ようやくアマプラ配信で見る。全体的な印象としては、「男性の性欲フィルターを通さずに撮影した、思春期の少女たちのお話」で、なぜか「きみの色」を思いだしました。パッと見は、地方アイドル・グループの結成から解散までを追いかけるストーリーでありながら、その本質は、異常者であることに無自覚な東ゆうの言動を愛でる映画だと断言しておきましょう。未見の方にもわかりやすいよう、彼女の異常性を少しずつ位相をズラして例えるなら、理由もなく白發中の三元牌に強いこだわりがあり、「とても背が高いのに、なぜバスケ選手にならないんだろう」「ひどく太っているのに、なぜ相撲とりにならないんだろう」に類する思考の型を有していて、おそらく「女性の身体に男性の心」を持つ人物です。最後に挙げた性質は、思春期の少女にとって一過性の場合もあり、女子校の王子様が大学でブリブリの姫になるのを観測したことがある方もおられるでしょう。この現象を誘発するのがなにかと申せば、蛍光物質にむけたブラックライトのごとき「オス度の照射」の有無であり、令和のフィクションにおいてはバキやタフに代表される、ほとんどギャグへと突き抜けないと、発露をゆるされない種類のパーソナリティでもあります。もし本作において、東ゆうの協力者であるカメラ小僧が範馬勇次郎の0.01%でもオス度を有していたら、物語の展開がまったく変わっていた可能性はあります。

 少々それた話を元へもどしますと、作品世界そのものが「アイドルであること」を全力で称揚するアイマスやラブライブなどとはちがって、トラペジウムにおいてその特別性を信じているのは、登場キャラの中で東ゆうただひとりであることが、彼女の異質さをきわだたせていると指摘できるでしょう。アイドルなる職業に人生で一度たりとも魅力を感じたことのない者からすれば、「若い肉に価値があり、換金性まで有することを知った女性の、人生の予後は悪そうだな」ぐらいの感想しかないのですが、狂犬・東ゆうはこの冷めた視線に逆らうように、「ちがう! 特別な人間は発光するんだ!」と異様な想念を画面外へむけて吠えたててくるのです。偶像発生の初源を問えば、それは「神殿や河原や娼館や奴隷市場における、旦那衆への歌舞音曲」であり、かつては”必ず”売買春をともなう生業だったのです。「非常に整った造作」という稀少の例外こそあれ、多くの男性は「特別な情報を付加された肉」にしか性的な興奮を感じられないためかもしれません。その歴史的な営みから肉の媾合(媾合陛下!)を切りはなした上で、「一晩に一人」という物理的な限界を拡張する、動画配信やコンサートを通じた不特定多数との”まぐわい”が、現代におけるアイドルの本質だと言えます。かような穢れた実態について盲いたままで、「アイドルはみんなを笑顔にする」と「恋人のいないアイドルは高値で売れる」を同じ口から発することのできる東ゆうが、常軌を逸した妄想を破格の行動力で実現して、運痴や理系や整形などの「売春宿で値のつく少女たち」を手練れの女衒のように見初めて、いつわりの”トモダチ”へと籠絡してゆくさまは、ある種の恐怖と、誤解を恐れず言えば、清々しさの入りまじった光景でした。

 ここで確認しておきたいのは、彼女を動かしているのは名声欲ではなく、まして性欲や金銭欲でもなく、「金閣寺は燃やすべき、なぜって美しいから」へほとんど近接した、”狂人の美学”だということです。トラペジウムという作品への評価は、「東ゆうの異常さを、はたして受認できるか?」にすべてかかっており、ここからは個人的な話になってしまうのですが、彼女の言動にはたいへん身につまされるものがありました。なんとなれば、東ゆうの「アイドルになれば、なにか特別なことが起こる」という、根拠を持たないがゆえの強烈な思いこみは、「テキストを書けば、なにか特別なことが起こる」と四半世紀を書き続けて、何者にもなれずにいる小鳥猊下のそれと、奇妙な相似形を成していたからです。東ゆうには、「必ずアイドルになる」という妄執とともに、10年たっても20年たってもオーディション会場に現れる怪人として、界隈における”口裂け女”の逸話にまで昇華されていってほしい。そうして、若い肉と審査員からの失笑を買い続け、何者にもなれないまま、むなしき希望だけをいだいて、アイドルへの憧れに溺死してほしいのです。私の目には、「四者四様な、女のしあわせ」を描くエピローグは読後感を整えて、映画パッケージとしての体裁をつくろうためだけに用意された、東ゆうのような人物がけっしてたどりつくはずのない、虚栄に満ちたまぼろしにしか映りませんでした。

 「アイドルだとは明言されていないが、何者かにはなれた」ことを示す、数年後の東ゆうへのインタビュー場面なんて、あんなのはスタジオを借りて自腹で劇団員をやとって、彼女の妄想を台本で撮影させた自作自演のものにちがいありません! 小鳥猊下と同じ妄念をいだく東ゆうが、過ぎゆく時間に破滅しないのだとしたら、そんなのあまりにも都合がよすぎるし、なにより小鳥猊下がかわいそうじゃないですか! 公立校出身で、容姿にすぐれず、理系の才能もなく、実家も太くなく、オスとのつがいにもなれない東ゆうへ、「アイドルになれないまま、アイドルを目指し続ける」以外の道なんて、残されていないんですよ! フィクションだからって、ウソつかないでもらえますか(けだし名言)!

ゲーム「Clair Obscur: Expedition 33」感想

 海外で異様に評判のいい、仏国発のエクスペディション33を35時間弱でクリア。本邦のお家芸”だった”コマンド式RPGとソウルシリーズをガッチャンコしたシステムを用いて、世界観とストーリー以外のすべては過去のJRPG群、特にファイナルファンタジー・シリーズへのオマージュから構成されています。エフエフのナンバリングで言えば、7と8と10と13を下敷きにしながら、プレイフィールはそれらのゴチャマゼといった塩梅になっていて、なかば嫉妬に由来するエスプリをきかせまくった揶揄でJRPGをケチョンケチョンにけなし続けていたら、ガイアツに弱い本邦のメーカーがコマンド式RPGを作るのをなんとなくやめてしまい、絶滅危惧種と化した生物をあわてて異国の地で人工繁殖させたのが、このゲームの本質であると指摘できるでしょう。本作をプレイしていると、フランス人たちがときに蔑視の対象とし、音楽や舞台や映画に比べて一頭地劣るとされてきたゲームという名の革袋は、文化の精髄たるワインの豊潤を彼らに満たさせるほど、充分に古くなったのだという感慨がジワッとわいてきます。もっとも、ゲーム内で使われている美術や楽曲や文芸は、同時並行で制作進行中の映画版と共有することで爆死保険ーー学資保険のイントネーションーーをかけていたようで、「そういうところだぞ、この差別意識まみれのサレンダー・モンキーどもめ!」という気持ちにはさせられました。同じくJRPGの再興を目指した崩壊スターレイルが地に伏して我々を崇敬する一方で、エクスペディション33は青い瞳と天狗鼻を傲然とそらしながら我々を見くだす感じになっていて、不可解なアジア地域への恐怖ーードラゴンロード!ーーと劣等感が反転する、いつもの”西洋しぐさ”をそこに見ることができます。勝てない分野でのルール変更がきゃつらのオハコで、「ナイフを胸部中央に突き刺したのは認めるが、殺意はなかった」という態度で、「歴史に埋もれていた神秘のバサロ泳法を、私たちが再発掘した」みたいに喧伝してまわる様子には、さすがに「シェイム・オン・ユー!」とは言いたくなりますけれど!

 海外での激賞の裏には、こういった文化的な背景と歴史的な経緯があることを前置きとして、エクスペディション33への感想を述べていきましょう。RPGとしては、”かゆいところに手が届かない”不親切な部分が多くあり、メジャーな要素だけでも「ダンジョンでミニマップとコンパスが存在しない」「目的地へのガイドやマーカーが存在しない」「エフエフで言うところのアビリティに相当するルミナの仕様説明が充分ではない」「ほぼ必須のパリイにエフェクト等による補助が存在しない(モーションごとに目視で識別するしかない)」など、プレステ2か3時代のユーザー・アンフレンドリーを模している可能性は捨てきれませんが、とにかく「さわっておぼえる」しかないところが、現代のゲームにしては多すぎるように感じます。システムの全容を把握するまでの序盤は、いったいなにが楽しいのか伝わりにくいゲームなのですが、「エアリス相当の三十路独身男性」が退場(バレ)するあたりから、グングンと尻あがりにおもしろくなってゆくのです。ワールドマップに出てからは格段に自由度が高くなり、「キミはすべてをパリイする……それだけで、どんなボスにも勝てるよ」というソウルシリーズ由来のゲーム性によって、「序盤のうちから高難度ダンジョンに挑戦し、進行度に合わない高性能の武器を入手する」みたいな遊び方もゆるされています。くやしいですが、「わざと詰めを甘くしたバランス崩し」が大好きな、ファミコン時代からのRPGファンにとって、かなりグッとくる調整になっていることは、認めざるをえないでしょう。少し話はそれますが、いにしえの時代にバロックという中2病的な世界観をウリにしたゲームがありまして、「バランス調整に失敗した3D風来のシレン」としか形容できないシロモノなのですが、しつこく、しつこく、しつこぉく根強いファンがいて、延々とこすり続けていたのを、なぜか思いだしました(最近では、さすがに観測されなくなりましたが……)。

 このエクスペディション33も世界観が肌にあう人にはブッささり、そうでない人には意味不明という危ないラインをボールが転がっているような気はしますが、ベル・エポックへの造詣はあまり深くなく、記憶にあるフランス映画は「ロスト・チルドレン」「レオン」「アメリ」「エコール(最低)」ぐらいの人物にとって、まったく先の読めない物語の展開に、プレイの興趣を刺激された側面が大きかったことは否定いたしません。本作のストーリーを簡単に説明しますと、タイトルの33はある人物の享年(バレ)を意味しておりまして、この年齢以下の人間しか生存をゆるされず、年々カウントダウンが進行する世界という設定になっております。三十路半ばの独身男性が、年上の恋人の消滅を見送るところから物語は始まるのですが、「古いものほど価値がある」石の文明の有するアンティークの見立てを、脳がバグって人間にまで適用してしまった”おフランス”らしい導入だと言えるでしょう。MCRN大統領は世界でもっとも有名なグルーミングの被害者だと信じて疑わないのですが、この奇ッ怪の価値観を最先端だと叫んでやまない彼の国では、こんな当たり前の同情を口にすることさえできないのですから、まったく「進歩的である」とは、いつだって窮屈なものです。その一方で、おぶぁ(おぢの対義語)とのバランスをとるために少女愛ーージュディット・ヴィッテ! ナタリー・ポートマン!ーーを天秤の反対側に置くのが”カエル食い”どもの習い性で、本作のヒロインたちは順に「三十路独身女性」「三十路経産寡婦」「10代半ばの少女」となっており、ほとんど放言に思えるだろう分析の裏付けとなってしまっております(結果として、20代女性への言及が完全に消えるのは仏国のおもしろいところですが、それを愛でる中央値の男性は芸術になど、たどりつかないからかもしれません)。

 そして、FF7で言うところのクラウドに相当するマエルたんの造形がじつにすばらしく、本作の傑出している点は表情による演技の細かな機微であり、ひそかに思慕を寄せる年上の男性が惨殺(バレ)される場面で見せる絶望の様子には、局部へ電流が走りました。このグロテスクかつ壮麗なノワールは残念なことに、やがて「ある家族の問題」へと収斂していくのですが、ゲーム文化が充分に成熟して大人も楽しめるものになった結果、「各国の家族観」をそこに見られるようになったのは、非常に興味深いことです。イヤイヤながらに言及しておきますと、本邦の創作トレンドは「時代と毒親に人生を破壊された(と信じる)人物が、墓じまいをしてから自身を海に散骨する」みたいな内容ばかりですが、他方で大陸のそれは「祖父母の仕事と人生に敬意をはらい、家名に恥じぬ行動をおのれに求める」ような筋立てになっていて、人間集団の総体としてどちらが衰退してどちらが繁栄するかは、あまりにも自明すぎるでしょう。「愛国と差別」をそれに並立して矛盾を感じない心性は、全共闘世代のまいた病理の種の萌芽によるものだと考えていますが、以前よりくり返している話題なので、これ以上はここで申しますまい。ただ、我々の文化が西洋化されて長いため、本作に描かれる家族の軋轢はどこか既視感ーー山崎豊子とか横溝正史?ーーをともなうもので、大陸産のRPGにふれたときのような「蒙を啓かれる」感覚は生じませんでした。エクスペディション33の中核を成すミステリー要素について不満を述べておくと、そもそも「虚構内虚構」という入れ子細工でより外側にあるフィクションを補強しようとする仕掛けは、作り手の創作に対する強い自意識が臭みになるケースが圧倒的に多く、本作でもきついパルファムの香りの下から消せぬ臭気がただよってしまっております。「こんな大傑作を初手から上梓してしまうなんて、ミーの才能はそらおそろしいザマス! ジャポンで継承の途絶えた伝統芸能を復活させたフランセの手腕をもっとほめたたえるでセボン!」と大はしゃぎなのを、無言の微笑で生温かく見まもるぐらいが、我々にとってちょうどよい距離感でしょう。

 いつものごとく、メチャクチャにディスってるみたいになってしまいましたが、なァに、きゃつらのエスプリとやらへ対抗したまでのことです。ともあれ、エクスペディション33、ACT3の世界探索とマエルたんのダメージインフレまでを加味するならば、ファイファン派に敵愾心を燃やしていた、かつてのエフエフ愛好家のみなさんに、心の底からオススメできる珠玉の一品となっております。

映画「ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:ファイナル・レコニングを映画館で見る。「配信時代の銀幕の守護者」「ボクらの疾走する映画バカ」が、トップガン・マーヴェリックぶりに、劇場へと帰ってきました! スパイ大作戦や009の亜流だかスピンオフだかからスタートしながら、続編を重ねるにつれてトム・クルーズのプライベート・フィルムと化していったことで有名な本シリーズは、いよいよ「俳優トム・クルーズの人生と、その生き様」をダイレクトに表現する装置と化してきたようです。3時間ちかくある作品なのに、上映中は時計も尿意もいっさい気にかからず、オープニングからエンディングまで、ほぼひとつながりの意識で画面に集中することができました。劇場を出てから行う内容の反芻においては、「上映時間を30分は縮められるだろう、長すぎるアクションシーン」や「ツッコミどころの多い、隙だらけでご都合主義のシナリオ」などの感想が浮かぶには浮かぶのですが、上映中はまるで80年代から90年代にかけてのハリウッド・ブロックバスターを見ているようで、ひとりの観客としてエンタメ・ジェットコースターの快楽へ、完全に身をゆだねていました。デッド・レコニングへの批判を受けて、ストーリーの構成と編集をイチからやりなおしたそうで、ドラマパートをバンズ、アクションパートをアンコで例えるならば、前作が薄く切った味のとぼしいカステラで蜜抜きをしないーー美味しんぼからの知識ーーギトギトのアンコをブ厚くはさんだ、ひどく胸やけのする「失敗したシベリア」だったのに対して、本作はしっとりフワフワで味の濃い生地にサラリと口の中でほどける上品な甘さのアンコをとじこめた、開店1時間で完売する「上質なあんぱん」ーー検索エンジンを意識した例えーーだと表現できるでしょう。もっと具体的に言えば、前作でのドラマパートは撮影してしまった「やりたいアクション群」をつなぐだけの粗悪な接着剤みたいな中身でしたが、本作のそれはこれまでのシリーズから引用した映像を織りまぜながら、時間をかけてアクションシーンの目的と必要性を説明してくれるため、観客が主体としてミッションへ感情移入できるようになっています。2つのチームと過去/未来の場面を速いカット割でザッピングしていく手法は、長尺を使ったアクションパートとの好対照なメリハリを成しており、緊張の系は細く長くずっと切れないまま、3時間にわたってつむがれていくのです。

 そしてなにより、還暦をオーバーしたトム・クルーズによるCGをいっさい廃した生身のスタントは、もはやロコモーションの型番を偏愛するような脳の特性にしか響かなくなった、ポスプロまみれのマーベル作品ーー上映前に予告編をアホほど見せられるの、もうなんかのハラスメントちゃうの?ーーに向けた無言の批判として成立するレベルで、近年のクリストファー・ノーランが高尚かつ思想めいてきたのに対して、アホで低俗で愚かな大衆である我々を、トムが全力の笑顔でハグしにきているような暖かみさえ感じます。もしかすると、上空3000メートルで複葉機に取りついて行うスタントは、CGで95パーセント同じシーンを再現できるのかもしれませんが、この愛すべき映画バカは「それを生身でやることで生まれる、差分の5パーセントの意味」に大金と、文字通りの生命までを賭けており、観客の冷めたハートもその本気度にどうしようもなく燃やされてしまうのです。ロンドン橋の上やレシプロ機を追いかけての”イーサン走り”は、もはや「間に合わないことの直喩」みたいになっていますが、本作では「ピッチャーゴロを打った高校球児が、一塁まで全力疾走する」のを見るときのような、青ビョウタンの「無駄じゃん(笑)」という冷笑を問答無用にふきとばしてしまう、不思議な感動がありました。結局のところ、リモートワークや人工知能などの便利なツールは世に氾濫すれど、人間は人間の肉の実在とその躍動にこそ心を動かされるのであり、自分もそうあらねばならないと背筋の伸びる気持ちにさせられます。「アラカンのトムがあれだけがんばってるんだから、オレも明日からもっとがんばらなきゃな!」と思いながら、すがすがしい気分で劇場をあとにしたご同輩も多いのではないでしょうか。ここでまたいつものように脱線しておくと、ジークアクス8話における大気圏突入のワンカットを見た瞬間、大号泣してしまったことを告白しておかねばなりません。なんとなれば、現状を現状のまま留めおこうとする打算に満ちた政治と、既得権益に満ちあふれた賢しい大人の権謀術策を、年若な底抜けのバカが情熱だけでブチやぶって、冷えて固くなった世界のド真ん中に風穴を空けるシーンに見えたからです。50年もののシリーズにガンダム素人がうかつなことを申すまいと、ずっと口を閉じておりましたけれど、次週の展開を見ることでこの印象が薄れたり変わったりするのが怖いので、ここに感情の記録として書き残しておきます。

 話をファイナル・レコニングに戻しますと、世界同時公開となる大作映画として、終わらない侵略と進行するジェノサイドを前に、前世紀末の「核戦争の恐怖」を援用しながら、人工知能を仮想敵とすることで、トップガン・マーヴェリック終盤のように「現代において、だれがなにを打倒するべきなのか?」への焦点を徹底的にボカしたまま、旧世代にとってのカタルシスーーポセイドン・潜水艦・アドベンチャー、時限爆弾の色つきコードと時計カウントダウン、デジタルの脅威をアナログの物理で粉砕などーーを演出しきったのは、お見事というほかありません(デジタル・ネイティブである新世代が、これらを”快”と感じるかどうかは、正直わからないです)。ただ、作品の瑕疵とまでは申しませんが、3時間の中で一ヶ所だけ、フィクションへの没入から思いきりキックアウトされる場面があったことを、最後にお伝えしておきましょう。深度200メートルの海中から、酸素ボンベなしのスッポンポンで水面へと浮上するところまでは、「まあ……イーサン・ハントなら……ギリいける……のか……?」と自分をだませていましたが、直後に行われたポッと出のヒロインによる救命シーンには、怒髪天を突きました。人工呼吸はチュウやないし、胸骨圧迫は乳首へのペッティングとちゃうんやで! そもそも心臓とまっとんのに、人工呼吸で蘇生するわけあるかいな! トムやなかったら、ゆうに5回は死んどるところやで! ヒジを伸ばして関節を垂直に固定して、骨折させるつもりの全体重をかけて胸骨をヤッたらんかい! あと、黒人の女性大統領に対して、だれもが”ミズ”ではなく「マザー・プレジデント」と呼びかけるのですが、これはプロトコール等において現実に先んずる形で、すでにルールが決められているのでしょうか。それと、”コーリング”という単語が劇中で何度かくり返されていましたが、キリスト教における「神から与えられた使命」という意味だそうで、トム・クルーズにとっての映画制作は、もはやこの境地に達しているのだなと思うと、じつに感慨ぶかいものがありました。

アニメ「アポカリプスホテル(6話まで)」感想

 タイムラインが毎週ジークアクスに沸騰することへの逆張りとして、生粋のキャピタル・ウェイストランドッ子なことも手伝って、アポカリプスホテルを6話まで見る。この作品、なんと竹本泉(!)がキャラデザを担当しているおかげか、「宇宙船サジタリウス」や「YAT安心!宇宙旅行」のような”ザ・昭和のSFアニメ”というおもむきになっていて、毎回のゲスト宇宙人?もバラエティに富んでおり、とても楽しい。試聴しながら、なぜか昨年に放送された終末トレインを思いだしたのだが、あちらは「大好きな戦車に少女を乗せたらうまくいったので、大好きな電車に少女を乗せてもうまくいくのでは?」ぐらいの気軽な思いつきからスタートした企画が、物語の終盤に進むにつれて、脱線からの横転という大事故を引き起こす様は、悪夢のような一大スペクタクルだった(「原作なしアニメは、1話のおもしろさが最大になりがちだよなー」などと無責任に感じたのをおぼえている)。ざっくりあらすじをお伝えすれば、「こころざしと偏差値の低い少女が、こころざしと偏差値の高い少女に向けたチクチク言葉」に端を発した思春期のインナーワールドの話で、結局のところサイファイとしては飛翔しないまま、「男性作家が少女に世界の謎と命運を背負わせる」例の物語類型をなぞって、尻すぼみの地味な結末で終わってしまった。

 その一方で、アポカリプスホテルは少女の見かけをした存在を主人公に置きながら、これまでのところ内面の描写というよりは他者との交流に力点がある印象で、未来のイヴやフランケンシュタインのような「非人間に仮託した、父イコール造物主との関係性」へと、テーマは収束していくような気がしている。どちらも少女を物語の主体にしながら、両者の質のちがいが監督の性別にだけ起因するとすれば、なんとも即物的な結論であり、自省をともなった、やるせない気分にはさせられる。さらに、冒頭で挙げた昭和のSFアニメに視線をむけると、かつて多くの冒険譚の主人公は、男や少年たちであったことに気づく。彼らの成長を描くためにはイニシエーションとして、それを選ばないこともふくめた「暴力とセックス」を”必ず”通過させねばならず、後頭部に右手をあてながら令和の出ッ歯がおずおず告げる、「男女の性差は、物心ともに強調しない方向でオナシャス」というタテマエにそぐわなくなってきたからであろう。しかしながら、これがあらゆる物語ーー終末トレイン、迷走の果てにどこへ行った?ーーからストーリーテリングの起伏をうばってしまう遠因になっているような気がしてならない。なんとなれば、少年は時間の経過とともに低い場所から上昇しながら、「変化し、獲得する」ことで何者かにならなければならないが、少女は時間の経過とともに「一過性の特別さ」を喪失し続けて、高い場所から只人へと降下していくからだ(その後、さらにメタモルフォーゼの段階をむかえるが、ここでは論旨に合わないため、割愛する)。

 誤解をおそれずに言うならば、主人公の性別によって「獲得の物語」なのか「喪失の物語」なのかが、否応に決まるのである。ここでインプレッションを得んがために、nWoトレインはあえてガンダム方向へ脱線したいと思う。ジークアクスの設定が、グロス販売のアイドルユニットから影響を受けすぎているという批判を見かけたが、真におそれるべきは「30代、40代、50代になっても、10代の少女が好き」という多くの男性にとって身もフタもない事実を利用した、攻成り名遂げたアラカン監督さえもあらがうことのできない、この女衒商法の巧妙さであろう。一定の年齢に達した個体を”卒業”と称してグループから離脱させ、つねに新たな若い個体を補充することで総体を維持する”スイミー方式”は、「もっとも繁殖に適した条件を満たす細胞に強い魅力を感じなければ、効率的な種の再生産は見こめない」というオスの本能を逆手にとり、オスだけでなくメスたちにも、その欲望に応じることへの対価を用意し、チョウチンアンコウのイリジウムのように暗闇へ誘蛾の光をはなつ、邪悪な男性による奸佞邪智のたくらみの極北なのである。ジークアクスもそうだが、近年になって目だってきたのは、「少年のようにふるまう少女」を主人公にすえた物語群で、暴力とセックスを経由せずにーーもっと言えば、それらはモニター外の男性にあずけてーー「獲得をともなった上昇的変化」を目指そうとする試みなのかもしれない。水星の魔女は脚本の遅延で大失敗に終わったので、新しいガンダムが最終話でこれを達成することを、ひそかに願っているのだった。そして、7話のサブタイトルにおける”リベリオン”なる稀少ワードのチョイスは、小鳥猊下の小説の一節「本質的にrebellionが不可能である苛立ち」から、インスピレーションを得たにちがいないのである(ぐるぐる目で)。

 いつものごとく、だいぶにそれた話をアポカリプスホテルにもどすと、タヌキの協力でエイリアンの共通語を理解したあとは、異星人たちの文化や文明というより、彼らの言動に仮託した「昭和の風俗紹介」へと物語の屋台骨が傾いてきている気がするし、「出会って4秒」みたいなネットミームーーググッって元ネタを知ったときは、腰を抜かしましたーーは、竹本泉キャラに発話させるセリフとしては、いささか品位と品性を欠いてはいないでしょうか(やっかいなオールドファン)。また、各話で数十年単位の時間経過が生じているのに、登場キャラをふくむホテルの備品にまったく経年劣化がないーーベッドシーツなんて、住みにごりの引きこもり兄のタンクトップみたいになるはず(わかりにくい例え)ーーのも、中華のフィクション群を経てしまった身には、なんだかもの足りないところで、「時の流れによる摩耗」をキチンと描写するべきだと思うんですよね。映画化の決まったーー陽気なオッサンである主人公を、陰気なオジサマであるライアン・ゴスリングがどのように演じるのか、不安は絶えないーープロジェクト・ヘイル・メアリーで「脳のクロック数と生物の寿命は、居住する惑星の重力によって決まる」みたいな話があったように記憶していますが、物語の後半では後発のSFとして「定命の者の、定命の程度」を大きなスケール感ーー原神で言うところの「たとえ肉体は永遠を獲得したとしても、魂の摩耗はわずか千年を耐えない」ーーで表現していただきたいところです。

 あと、本作は劇伴の一部にオタクのみんなが大好きなジムノペディ調の楽曲を採用しており、人類滅亡後のダルでアンニュイな雰囲気を作りだすことに成功しているのですが、オープニング・テーマも同じ曲調で作られているせいでしょうか、メチャクチャ音痴でヘッタクソな歌唱に聞こえてしまうのは、数学と音楽の素養が絶無な”トーンデフ耳”のせいでしょうか? みなさんには、これ、どんなふうに聞こえてるの?

漫画「住みにごり(7巻まで)」感想

 例の複合施設で、住みにごりを最新7巻まで読む。近年、おそらくスーザン・フォワードの著書名から定着した「毒親」なる単語が人口に膾炙しすぎてカジュアル化し、本来は無限のグラデーションが存在する問題を、ゼロ100でデジタル的に断罪する方向へと、世相全体が傾いているように感じている。それもそのはず、この単語を使う者たちは「自分は生涯、当事者たる主体にはならないことを決めている、もしくはそれが事実として確定してしまった人々」だからで、あたかも”ホワイト企業”なる単語と同等の、毒の成分をまったく持たない親が実在するかのように、100の断罪を無敵の武器だと信じてふりまわし、もっと言えば末代が末代ではない者に向けるがゆえに、無意識の罪悪感や劣等感を打ち消そうと、いっそう過激にエスカレーションしていく側面はあると思う。以前、住みにごりの1巻を手に取り、稲中卓球部の人(名前失念)や新井英樹の系譜ーータコピーとは全然ちがいますよ、念為ーーに連なる新たな作家がひさしぶりに登場したなと感じたものの、引きこもりの兄をひたすら醜く不快に描き続ける展開に、コメディなのかシリアスなのかチューニングをあわせられなかったこともあって、読むのをやめてしまったのであった。今回、思いたって7巻までを通読し、毒成分の薄い家庭ーー子どもの才能や性質が毒素を希釈化したり、無毒化したり、薬に転じる状況もあることを付記しておくーーから、「親が子を、子が親を殺す」相克の猛毒家庭のあいだに存在する、無限のグラデーションのひとつを高い解像度で描こうとする作品なのだと、ようやく気づいた次第である。立ちあがりの遅い作品なので、不快感を我慢して物語の動きだす3巻までは、ぜひ読んでみていただきたい。「合う、合わない」を論じられるのは、そこからだろう。ネタバレを避けるために、抽象的な表現から始めるならば、「怪物だと思っていたものがじつは怪物ではなく、美醜と快不快が文字通りの”叙述トリック”として、主客の転倒を起こす」意想外の展開(ほぼバレ)がすばらしく、特に深夜の公園で行われるレスリングの場面は、漫画史上でも屈指の名シーンなのではないかと、ひそかに思っている。

 また、住みにごりを読む中で知らず満たされていたのは、以前フォールアウト3の感想にも書いた「おのれが住む町のすべての家庭の、すべての部屋の隅々までを、透明人間として探索したい」という、人には言えぬあの欲望であった。突如としてベセスダ方向へと話はそれるが、最近は就寝前の1時間ほどオブリビオン・リマスタードをプレイーーというより、シロディールで細々と生計を立てている。帝都の川べりの被差別地域にある掘ッ立て小屋の自宅から、近隣のダンジョンへと出勤し、目につく生物をみな殺しにしたあとは、めぼしい武具やアイテムを抱えられるだけ抱えて、なじみの商店へ売りさばいてからベッドに入るーーそんな平穏きわまる日々をくりかえしていた。ところが、ある日突然、全身からシュウシュウと白い煙がたちのぼり、日光の下では体力が減少するようになった。そう、シリーズおなじみの吸血病を発症したのである。過去の記憶を頼りにスキングラードの領主である吸血鬼(バレ)と面会して、治療薬の製法を知っている魔女の住処を聞きだす。魔女に言われるがままに、無実のアルゴニアンへ背中から切りつけ、強力なヴァンパイアを洞窟で殺害し、日の高いうちは屋内で時間をつぶしつつ、夜中にコソコソと人目を忍んで植物採集するものの、フィールドに自生しないニンニクだけ必要な数がそろわない。フードを目深にかぶって雑貨店へと買い求めにいくも、「この穢らわしい怪物め!」と剣もほろろに追いかえされてしまう。泣く泣く、人々が寝しずまった時間帯にピッキングで民家へと不法侵入し、暖炉へ吊るされたニンニクを盗むハメになるーー平穏なる市井の日常から、急転直下で犯罪者ロールプレイにきりかわる様は、もうどうしようもなくエルダースクロールズであると言えよう。なぜこんな話をしだしたかといえば、住みにごりを読むことと、オブリビオンをプレイすることは、体験としてきわめて近い位置にあるように感じたからなのであった。

 話を元にもどすと、ここまでを絶賛しておきながら、ささいな気にくわない点から急に評価が真反対へと舵を切るーー最近では、メダリストがその災難をこうむったーーのが、”nWoしぐさ”であることは、みなさまもすでにご承知おきであろう。醜く不快な肉塊の「ウンコ製造機」である兄が、おのれの王国たる2階の自室へ侵入をゆるしてしまった存在を凌辱できなかった時点で、彼はモンスターから只人へと受肉し、この物語の趨勢は不可逆に定まったのだ。3巻から6巻にかけての疾走感は、「ふいにおとずれた巨大な荒波の上で、作者はただサーフボードに自立している」ようなレベルにまで達しており、登場人物たちがそれぞれの自由意志で動くうちに、ストーリー自身が自明すぎるゴールを見つけて、そこへ向かって自走しているような印象さえあった。それを、6巻の途中で終わらせておけばよかったものを、ガロ方向のマイナーな作風で100万部も売れたものだから、明白きわまる着地点にピリオドを打つのがおしくなったせいだろう、5年後の「引きこもり支援編」という大蛇足へと突入してしまったのである。しかも、物語内での格付けがすんだはずの兄を「やっぱり、モンスターでした」と再び御輿でかつぎだしたあげく、終始セリフなしで演出をつけてきた彼自身の口で「引きこもりの哲学」を語らせた瞬間、本作は完全な”腰くだけのどっちらけ”になってしまったのだった。いまは「売れた男性作家の、作品との距離感」という例の命題を、”ひとつながり“や”狂戦士“に引き続いて、またもや突きつけられたような気分になっている。この先を読む必要はもうないと考えているので、遠い将来ーー数年は引きのばすだろうーーに住みにごりが最終回をむかえたら、小鳥猊下の見たてがはたして正しかったのかどうか、そっと耳うちしてほしい。

雑文「J. METATRON and D. SHINKANSEN(近況報告2025.5.8)

 FGO奏章IV、喜怒哀楽のいっさいが脳裏に浮上しないよう、心を無にして流し読みする。細かい批判はトラオムのときにさんざん述べましたので、まずは大枠からひどいことを言います。FGOが「他の課金ゲームに比べて、テキストがすばらしい」ともてはやされていたのは、もはや数年以上も前のこと、いまや半島や大陸のライターたちがおのれの置かれた政治状況から、当局の検閲による逮捕や投獄ギリギリのラインを攻めた「決死の文学」を試みているのに対して、かつてエロゲーや”軽い文芸”に従事しながら、一線級には届かず他分野への転身もできず、ほそぼそと業界の落ち穂ひろいをしている中高年ライターたちへの、老人ホーム的な社会福祉の場と化しています。すなわち、FGOという一大テキスト集金装置からブ厚く切り分けた肉を、大学のサークル棟の一室で仲間に分配しているようなもので、ときどき顔をのぞかせる一線級の書き手たちも、不健全な状況へ早々に見切りをつけて離れていっているのでしょう。それも当然のこと、この同人サークルではなにを書いても主催者であるファンガスのテキストと比較され、彼/彼女の筆が圧倒的でただ互することさえ困難であるという純然たる事実にくわえて、古くからの信奉者である取り巻き連からの激しい批判にさらされる、自分のウデだけで食えている人間にとって、まったく割にあわない仕事なのですから! 結果として、サークル棟の一室にずっとたむろしているのは、業界でひとりだちできない、食いつめた二線級のライターばかりになるというわけです。

 なぜアガルタのクソ女が、物語のプロット的にとても重要な部分ばかりをまかされるーーそして毎回、FGOの屋台骨を傾かせるレベルでぜんぶ台無しにするーーのかは、この「同人サークル理論」で簡単に説明がつきます。室内には、黒ぶち眼鏡でチェックのシャツを着た前歯が長めの男子数名と、フリル多めなピンクのワンピースをふっくらした体型にまとわせた女子1名がいると想像してください。次回の同人誌を作成するため、サークルの部長が各章に登場する人物とおおまかなプロットをまとめたカードをテーブルの上にならべてゆき、どれが書きたいかをメンバーたちへ問いかけます。「ハイハーイ、アテシ、これ書きたーい!」とまっさきに手を挙げたアニメ声のピンクフリルが、”オイシイ”場面をすべてかっさらったあげく、「ダメ? アテシ、欲ばりかな?」と得意のウワメヅカイで哀願します。その様子を見つめて微笑する男子たちに、元より否やはありません。なぜって、その部屋にいる全員が、ピンクフリルと寝ているのですから! そして、いいですか、この舞台裏はアラフィフからアラカンの登場人物によって演じられていると想像してみてください! おのれの力量に自負のある一線級の書き手や、現世のカネを前にして少しの理性と品性を失わなかった者たちが、このサークル棟の一室には、けっして近づかない理由をおわかりいただけたことでしょう。閨(ねや)で男子の胸に指で”の”の字を書きながら、「アテシ、アンタがファーストマスターだからぁ、ほんとよぉ?」と甘い声をだすふっくら女子が目に浮かぶようです(幻覚です)。

 今回のストーリーについては、細かいところを指摘しだすと数万字の呪詛になりそうなので、ざっくりと例え話でお伝えします。ふつうの書き手なら、「読み手の肩ごし」ぐらいの少し俯瞰した位置から、読者の予測を先まわりしながら、物語のつむぎ方をコントロールして、驚きを演出していくものです。これに対してアガルタのクソ女は、「読者の目の前で地面に這いつくばって、棟方志功ばりの近視眼で原稿用紙のマスを埋めていっている」と表現できるでしょう(ちなみに、平井大橋の特異性は、衛星軌道上から人工衛星の目で、物語と読者の双方を視界におさめているところです)。アタマが悪いとまでは申しませんが、不必要に冗長な描写をするくせに必要な説明や情報はつねに欠落し、ほんの短いテキスト射程距離のあいだでも論理と情緒が矛盾か破綻をしていて、登場人物たちの会話は成立する以前に崩壊しており、スキマだらけの行間をネットスラングに強く依存したーーたのむから、マトモな紙の本を読んでくださいーー品性の下劣な、「言っている本人だけが爆笑している」サムい水増しギャグで埋めていくのです。「いまながめているテキストは、本当にあの、天下のFGOなのか?」という疑問がずっとつきまとい続けるような始末で、たいへんによろしくない言い様ながら、「昭和時代の小規模な女性向け同人サークルによる、ハイテンションでやおい成分の多めな二次創作(手刷りホチキス)」を、ノンケ男性が強要されるのにも似た苦行でした。三国鼎立とライヘンバッハ、ダンテの神曲とメタトロン、多く人々が共有する既存の枠組みで物語のビルドアップをスッとばせるのはFGOの発明ですが、アガルタのクソ女は最高級の食材をあたえられながら、調理の結果は大量の塩と油で素材の良さをすべて殺した、印象派の絵画を原色ペンキで修復するがごとき、栗本薫のコンビーフ飯なのです(わかりにくい例え)。アテシのオリキャラにプレイヤーの分身たる主人公をベタベタとさわらせ、アテシのオリキャラでコヤンスカヤとホームズを雑に退場させ、アテシのオリキャラがとくだん因縁もないのにヒロイン(笑)へ執拗にウザがらみするーー被愛妄想からのストーカー殺人や通り魔事件の横行する世の中で、こんな気味の悪いサイコパスを、ファンガスの気高いFGOへチンポみたいにブチこめる厚顔無恥とデリカシーの欠如だけは超々一級品で、高畑勲とは真逆の意味で「現実では、ぜったいに遭遇したくない人物」だと吐き捨てておきましょう。

 今回のメインテーマである箱男の対偶a.k.a.盾女の話も、「味のしなくなったガム」を延々としがみながら唾液を嚥下している感じで、「男性作家による、世界の命運を少女に背負わせる話は、平成に置いてくるべきだったよなー」と、内省的な気分にさせられました。あッ、「少女に背負わせる話」で思いだしました! 連休中、ネトフリのオススメへ頻繁にあがってくる新幹線大爆発のリメイクを視聴したのですが、「失敗したシン・ゴジラ」としか形容しようのない作品に仕上がっているのです。車掌役なのにひどく滑舌の悪いクサナギ君と、干された事実への同情が消えるぐらいの大根役者ッぷりである「ouiの反対の意味の二つ名を持つ女優」が織りなす、題材のわりに緊張感に欠けるストーリー展開を、しまりのない撮影と編集でダラダラと垂れ流しにしてゆきます。昔ッから、ヒグチのほうのシンちゃんは、「映画を制作する過程が楽しいなら、出来あがったものは二の次でかまわない」という姿勢を貫いているようで、以前も紹介しましたが、シン・ゴジラ撮影時にQアンノの現場でのふるまいを見て、「本当にすごいし真似できないが、同時にああなったら終わりだなとも思う」と言及していたことは、この推測を裏づけます。底抜けのコミュ力でJR東日本との折衝を嬉々として行い、いち鉄道オタクとしてホンモノの統合指令所での撮影にテンション爆上げになり、ただただ和気あいあいとした現場を維持するため、演技にダメだしをしない一発撮りで役者をヨイショして、一日の終わりには気のおけない昔からの仲間たちと反省会と称した飲み会をもうけ、とにかく文化祭の前日の延長みたいに、クランクアップまでイヤな感情ぬきで楽しく仕事をしたいーーその姿勢が、よくも悪くもフィルムへと熱転写されているように思います。きわめつけは、女子高生が事件の真犯人だった(ハァ?)という話で、ガメラ3から連綿と続く作劇の手クセと言えば手クセなのですが、「男性の視点から見た、ギラギラした性欲を経由するがゆえの、一方通行の神秘性」をただの”未成年の子ども”へと、アラカンになっても付与し続ける態度って、「大の大人として恥ずかしくないのかなー」などと考えてしまう人生の季節をむかえております。

 だいぶにそれた話を奏章IVへともどしますと、ようやくクリプターの最後の生き残りが物語から退場する機会を与えられた直後に、「恥丘白痴化(だっけ?)が解決すれば、2016年に時間が巻きもどって復活する」可能性が提示されたことに、ファンガスの作品を貫くテーマであるところの「網膜を焼く生命の輝きと、二度と取り返せない喪失」をなにもわかっていないと、小鳥猊下はたいそう怒りくるっているだろうと、みなさんはご心配のことかもしれません。じつはねー、それとは真反対の精神状態なんですよねー、どうしよっかなー、これねー、型月本体と関連会社の株価に影響が出るレベルのインサイダーな憶測になるけど、言っちゃおっかなー。ズバリ、今回の唐突な「時間遡行による大団円の明示」が意味するところは、FGOの物語は第2部で終わりをむかえ、同一アプリで主人公を変えた第3部を開始するのではなく、崩壊スターレイルの開発チームとゲームエンジンによる、第1部からの3Dフルリメイクが行われる計画のほのめかしなのです。これはファンガスの負担を減らして、新たなクリエイティブへと向かわせるためのウルトラC(古ッ!)で、すでに存在する膨大な世界設定とキャラクターとストーリーを、世界最高峰の開発力を持った会社にあずけて、初期の拙劣なテキストとワイバーン地獄を修正しつつ、ときおり制作物の監修作業を行えばよいだけになるのですから! 余った時間を月姫やら魔法使いの夜やら、古いファンの期待を尻目に頓挫しているシリーズの続きーー私は読みませんがーーへと着手したり、まったく新しい物語を立ちあげることさえできるでしょう(まあ、執筆への強制力を失ったファンガスが、与えられた余暇をすべてゲームやマンガなどの消費活動に使ってしまう可能性は、きわめて高いと思っていますが……)。

 あと、今回の盾女のセリフに「始まったって、いないのです!」という文法の壊滅した一文ーーもしかして、「始まってすらいない」と言いたい? 日本語ネイティブではないライターなの?ーーがあり、「テキストサイト管理人の文章力を虚仮にしくさって、オォ? 要介護のロートル・ライターにはらうカネがあるんやったら、とっとと校閲部門を立ちあげんかい、ダボが!」と思いました。おわり。

ゲーム「オブリビオン・リマスタード」感想

 オブリビオンのリマスター版、まさかの「制作発表、当日販売」という気のくるった手法に完全に”幻惑”されて、スターフィールドをPCの新調にまでおよんで発売日に購入したことへの強い反省から、「もうベセスダゲーには、数ヶ月かけてmod界隈が成熟するか否かを見きわめてからしか、手を出すまい」とかたく誓っていたのに、即座にダウンロードしてプレイを開始してしまった。今回のリマスターは、ディアブロ2リザレクテッドと同じ仕組みになっており、オリジナルのプログラムに新たな描画エンジンをかぶせただけで、令和のルックスをまといながらも、往年のプレイフィールはもちろん、裏技やバグや進行不能やパンパカCTDするところまで、そっくりそのまま移植されている。「どうせ新規層なんぞ、プレイすめえよ」とばかりに、バカラグラスで片あぐらにドブロクをあおるみたいな、居なおり強盗めいた仕様になっているのである。20年ほど前に発売された本作は、まさにすべてのオープンワールドRPGの始祖となる存在で、他分野で言えばビートルズやリドリー・スコットのような、後続たちが知らず影響下にある、車輪や雨傘の形状にだれも意識を向けないのと同じ、もはや世界と同化した「原初の原形」を無から生みだすことに成功した、真性にオリジナルなクリエイティブなのだ。

 modまみれのスカイリムに十年以上を汚染された人種にとっては、「クエストとロケーションに密度感の薄い、簡素なタムリエル」とうつるのかもしれないが、そもそもオブリビオンは、スカイリムとは根本的に設計思想の異なった別モノと考えたほうがいい。スカイリムが前作への反省から、「より直感的に理解しやすい遊びやすさ」を志向して、従来型のRPGにシステムを寄せていったのに対して、オブリビオンはまさに「先行者のいない地平で、ゼロからの世界構築」を行ったのだから。その試行錯誤はシステム面により大きく現れていて、ファイナルファンタジーで例えるなら、3というよりは2のような作りになっているのである。すなわち、「ゲーム内におけるプレイヤーのすべての行動が数値として蓄積してゆき、ステータスの上昇は行動の種類に依存する」という、RPGの名の本来である”ロールプレイ”をどうゲーム体験に落としこむかへの、深い思考が存在する。具体的には、スキルレベル10回の上昇と全体レベル1がイコールになっていて、10回の内訳がどのスキルだったかを参照して、全体レベルアップ時にいずれのステータスがあがるかが決まる。この仕組みによって、「天井の低い洞窟でジャンプし続ける」とか「隠密状態で壁に向かって前進し続ける」とか「ウマの尻に魔法をかけて素手でなぐり続ける」などの、制作者が”そう遊んでほしくはない”狂人ロールプレイーースキル上げとてウマの尻をなぐらば、すなわち狂人なりーーの数々を生んでしまったことは、みなさまご存じのとおりであろう(このリマスター版では、手動でステータスにポイントをふりわけられるよう改変されて遊びやすくなったが、「キミはウマの尻をなぐってもいいし、なぐらなくてもいい」というサイコパスめいた自由度は、いっさい損なわれていない)。

 ファミコンとその後継機までの時代は、日本製のゲームに圧倒的なアドバンテージがあり、洋ゲーは「バランス調整のできていない、手にとる価値がない大味で大ざっぱなシロモノ」にすぎなかった。それが、初代ディアブロ、ウルティマ・オンライン、バルダーズ・ゲートあたりから、「辞書と首ッ引きでも、まっさきに遊ぶべき作品」ーー当時はsteamによるオンライン配信など存在せず、ローカライズにも大幅な時間差があり、輸入したパッケージ版をプレイするしかなかったーーに変じてゆき、衝撃的なオブリビオンの登場によって、ゲーム業界における和洋の攻守と優劣が、完全に逆転した印象を持っている。あれから20年が経過し、本邦のゲームはさらに半島や大陸のクオリティに追い抜かれてしまった(脳内で「四半世紀で2度も負けるバカがあるかッ!」と吠える例のキャラ)。個人的な体験を申せば、オブリビオンはプレステ3でふれており、modの存在も知らないまま、牧歌的なバニラで延々と遊んでいた。かなり長い時間をプレイしたはずだが、ほとんど内容はおぼえていない。ゲーム内のできごとで記憶しているものといえば、「ハープをつまびくようなフィールド音楽」と「カメラの操作を強制的に奪われてからの『スタアァァップ!』」と「暗闇に浮かぶ紫のエフェクトをまとったウマの尻と両手」ぐらいである。20年前のオブリビオン発売当時は、人生が劇的に変転する季節をむかえており、現実への対処に大きなリソースを割いていた。それこそモンゴメリではないが、家人の寝しずまった深夜に、部屋の電気を落としたまま、苦しみから逃避するためのセラピーとして、シロディールをねり歩いていたのだと思う。

 なにか言及が残っていないか、復活したnWoの過去テキストをさぐっていたら、次のような短い文章があった。『ぼくわシロディールだけがありばいーのです。シロディールわぼくおどーよーさせません。シロディールのひとわぼくみたいなばか人げんでもびょーどーにあいしてくれます。げんじつわシロディールよりもおもしろくありません。ぼくわもうげんじつわいらない』。あの頃の心情をしのばせる矮テキストながら、そもそもが「アルジャーノンに花束を」のパロディからの孫引きになっていて、現実での生活に創造的な思索を徹底的につぶされた、言うなれば轢死体の下からあげる、かぼそい悲鳴のような中身になっている。現在、20年後のシロディールでフィールド音楽を聞いているのは、それとはもはや完全に異なった存在であり、「人生への対処を知らない、荒波に巻かれるばかりの哀れな若造」は、もはや遠い過去へと消え去った。さあ、さっさとそのエロmodを導入しろ。オレはもう、バニラには関心がない(審問を受けるモーガン・フリーマンのキメ顔に続く、「REJECTED」のハンコ)。

アニメ「チ。」感想

 モンハンワイルズ、本当にやることがなくなってきたので、「すべての防具を生産する」という奇行にはしっている。そうすると、「グラシスメタル」「ユニオン鉱石」「交換でしか入手できない素材」「交換でしか入手できない素材と交換する素材」がぜんぜん足りないことに気づいてしまうわけです。アニメをながら見しつつ、すっかり存在を忘れていた最終ならぬ採集装備に身をかためて、素材あつめマラソンを開始するハメになるのですが、これがまた、きわめてダッルい作業なわけです。適当なクエストを受注して、採取ポイントをR3ボタンで指定して、オートランの移動をボーッとながめて、すべてのスポットをまわり終わったら「クエストから帰還」を延々とくり返すのですが、総プレイタイム100時間超かつハンターランク250越えで、それぞれの素材スポットに15分程度のリポップ時間が設定されていることを、いまさら発見しました。でもこれ、クエスト終了やテントでの休憩ごとに待ち時間がリセットされるので、ゲーム的にはほぼ意味がありません。そのくせ、食事の効果時間はクエストと休憩をまたいで継続するし、「過去作と同じクエスト受注方式へと、泣く泣くもどす」以前のバージョンは、確実に存在していたと思われます。エルデンリングがデータの使い回しでムジュラの仮面みたいなのをリリースするみたいですし、いっちょモンスターハンターも「クエスト制を廃止して、同一サーバー内のすべてのプレイヤーに同じ時間が流れる」MOバージョンを出しましょうよ。2つのゲームで、売り上げも2倍だな(いにしえの呪言)! サブタイトルはズバリ、「リアル・ワイルズ」で! こっちでマルシーとっときますからね!

 さて、いつものごとく本題はここからなのですが、陰鬱な素材あつめのカタワらで、アニメ版の「チ。」を最終話まで流してしまいました(リスニング主体なので、「見て」とは申しません)。以前、原作マンガについて感想を述べたことがありましたが、いま読みかえすと1巻の段階では、理系への嫉妬とともに、今後の展開へ期待を表明しています。マンガにうといゲーム好きーーいるのか?ーーのために内容をゲームで例えますと、本作は地動説をめぐる「俺の屍を越えてゆけ」になっているのです。主人公はどんどん死んで入れかわるけど、目標とステータスは後続に引き継がれるというアレです。今回、原作そのまんまに朗読されるセリフをあらためてリスニングしていて気になったのは、「すべての登場人物が、同じレベルの言語運用能力を持ち、同じ語彙プールから選択している」ことでした。つまり、この作品はシンエヴァ以降に顕著となった「キャラのガワはちがっても、全員が作者の考えを代弁している」物語群のひとつに分類され、畢竟「フィクションへと仮託した自分語り」にしかなっていないのです。ハッとさせられる言い回しや感動的な場面もあるにはあるのですが、同質のボキャブラリーによる「殉ずる分野へ生命を賭すことさえいとわない、ウソくさい内面の同一性」が巻を追うにつれ、物語全体を単調なモノトーンにベタッと塗りつぶしてしまいます。さらに言えば、主題である地動説はもちろん、活版印刷などの実在する理論や技術を、発生当時から数百年が経過した歴史家の視点を持つ主人公たちが、ほとんど未来視のように語って、暗黒の中世を生きる「未開と文明」のモブたち相手に「論理で無双する」展開ばかりがずっと続いてゆきます。

 作り手にその意図はないのかもしれませんが、本作は「みずからの立ち位置は変更せず、対象を相対的に下げることでカタルシスを得る」近年の異世界転生モノと、なんら本質的に変わるところはありません。自覚的にその優越を摂取しにいく楽しみ方を否定はしませんが、「チ。」という玉に刻まれた瑕疵は、これだけにとどまらないことが、さらなる問題として挙げられます。アニメにうといゲーム好きーー本当に、いるのか?ーーのために、本作のストーリーをゲームで例えますと、「俺の屍を越えてゆけ」の最終主人公ーー仮に、名前は”鵺子”とでもしておきましょうか……仮にですよ!ーーがおのれの係累とは異なった血脈から出現し、数十時間におよぶプレイの結晶であるステータスの引き継ぎもないままに、単騎でラスボスの打倒に成功したみたいな、当のプレイヤー・イコール・読者にとって納得をえられない、意味不明の展開になっているのです。オイ、ハナからキリスト教と書きゃいいものをブルッちまって”C教”表記にして、「現実の歴史と関係ありませんよ、厳密な考証なんてしませんからね」とさんざん逃げ腰だったくせに、「やっぱり、最後はコペルニクスにつなげて幕を閉じたいな……」じゃねーんだよ! ラスボスの審問官が死んで、本が出版されたところで終わっときゃ、まだかろうじて読めたものを、これじゃ地動説をリレーしてきた全員が犬死にの無駄死にじゃねーか! このお話はフィクションだって1話から宣言してんだから、最後までフィクションのカタルシスに殉じろよ! 連載中の反響か、あるいはおそれていた耶蘇方面からの”反響のなさ”で方針転換したんだろうが、世間様を気にしてビクビクと臆病なくせに、肝心かなめのやり口がいちいちこざかしいんだよ! マンガとアニメ、両方を最後まで見させられたオレの死に時間をかえせよ(それはキミのせい)!

 あと、このアニメ、なぜか光源のない夜の場面が異様に暗く表現されていて、目をこらさないとなにが描かれているのか視認できないぐらいなのです。しつこくゲームで例えておくと、近年のオープンワールドの開始時に設定させられる、「模様がかすかに見えるようにしてください」という明暗スライダーの調整に大失敗したあげく、二度とコンフィグをさわらせてもらえないと表現すれば、未視聴のゲーマーには伝わるかもしれません。アニメの演出も、受け手の快不快を無視して作り手のこだわりを押しつけてくるあたり、原作ソックリだなと考えていたら、怖い可能性に気づいてしまいました。それは、「この画面の暗さは、白人の虹彩をベースに設計されているのではないか?」という疑惑です。つまり、ネトフリによる世界配給で本当にリーチしようとねらっていたのは、もしかすると白人のキリスト教徒だったのではないかという可能性です。まったく、臆病から傲慢へ突然に大跳躍できるのは、オタクどもの深刻な悪徳ですね! そもそも、この程度のマンガ(失礼)が放送前から枠を2クール押さえてもらって、全巻全話ひとつのセリフも余すことなくアニメ化って時点で、相当におかしな話ですからね! 以前も書いたような気がしますが、東大を卒業して大手出版社に入社したものの、望まぬマンガ部署へ配属されて腐っていた新人ーー編集王を想起ーーが、本作と運命的な出会い頭の事故を起こした結果、「愚かでチョレー大衆を、この書物でボクが啓蒙してやるんだッ!」と意気ごみ、モーレツな社内外でのプレゼンから世界を獲りにいったーー「”獲る”んじゃないス……”刺し”に行くんスよ……(!?)」ーーみたいな内幕があったとしか思えません(耶蘇へのオラついた挑発は、無視されたようですが……)。ともあれ、このムダに回転数の高い、傾ける情熱の方向性をまちがえた東大卒の編集者(幻影)には、次に小鳥猊下をプロデュースしてほしいと思いました。どっとはらい。

ゲーム「崩壊スターレイル第4章・安眠の地の花海を歩いて」感想

 あらゆる形態のフィクションのうち、いまもっとも続きを待ちわびていると言っても過言ではない、崩壊スターレイルの最新バージョン3.2を8時間ほどかけて読了。更新のたびに膨大なテキストが追加され、以前にも指摘したとおり、プレイフィールは「もはやゲームというより小説」なのですが、やはり中華の物語は「時間」「家族」「死生」を書かせると”群抜き”(平井大橋語)で、定命と不死を対比しつつ、死の根絶の是非を問答しながら、「死が人の心に情熱をともし、そこから愛が生まれた」という結論へといたる筆致は切実さに満ちており、じつに見事なものでした。最近、赤毛のアンをおそらく数十年ぶりに読み返したのですが、おのれの視点が完全にマリラ側になっていたのには、長い時間の経過を実感させられました。そして、子どもというのは、孤児であるかどうかに関わらず、ある日、突然に日常へ出現するものです。赤毛のアンとは、孤独な兄妹が過ごした、不死のように変わらぬ40年の日々が、ひとりの子どもの出現によって、ひとつの死へむかって動きだす物語でもありました。アンがクイーン学院へと旅立った夜、マリラはベッドの中で号泣し、「神ではないものを、こんなにも愛していいのだろうか」と自問するさまを見て、なぜ百年以上を離れた異国の地の作家が、同じ感情を知っているのだろうと、泣けて泣けてしょうがありませんでした。ことさらに無感動をよそおった若き日々から、心中に生じた愛の深まりへおそれおののく人生の季節を越えて、その執着を彼方へと見えはじめた死に向けてどう解消してゆくのか、かつては宗教がその答えを持っていたはずですが、いまは大量の等価で無価な情報にとりまかれたまま、ただ茫然と立ちつくすほかはありません。

 モンゴメリを読み、それから崩スタや原神を読むとき、私の胸へと去来するのは「この半世紀というもの、我々はあまりに少女を性的に消費し続けてしまった」という悔恨にも似た感情です。「少女の見た目をした、死をつかさどる双子の半神」という設定を、本邦における現代の創作者たちがあずけられたとき、どんな内容の物語が上梓されるのかを想像しただけで、暗澹たる気持ちにさせられます。まちがいなく、たっぷりと性的な百合展開が大半を占め、最上のものでも萩尾望都のカーボンコピーがせいぜいでしょう。キャストリスなるキャラクターを中心として語られる今回のバージョンは、キャッチーにセクシャルなモデリングで萌えコションたちへ旺盛な課金をうながしながら、そのストーリーの内実は非常に骨太な「家族愛」と「死生観」の話になっているのです。余談ながら、たびたび話題に挙げるところの漫画喫茶と温泉の複合施設で、なぜかトリリオンゲームをぽつぽつ読んでいるのですが、お話し自体はかなり行きあたりばったりなのに、池上遼一の画がいちいちおもしろすぎて、”間が持って”しまうという不思議な漫画体験をさせていただいております。その劇中に、おそらくパズドラあたりを下敷きにしたアプリ制作編があり、課金にまつわる”オレ理論”が展開されているのですが、ホヨバのリリースした原神が覇権アプリと化す”以前”の話になっていて、ほんの数年でここまで市場をゲームチェンジできるものかと、ある種の感慨をいだきました。その勝利の理由は言葉にすれば、「オタクの”好き”に向けた純粋さに対して、常に誠実かつ真摯であり続ける」という一点を極限にまで突きつめたゆえで、近年のFGOが失いつつある種類の美点でもあります。

 崩壊スターレイルというアプリは、その人気のわりにストーリー・パートへの感想がほぼ見当たらないので、ファンの多くを占める若者たちは、シナリオは全スキップしながら、登場人物たちの魅力的なルックスと、よくできたプロモーション・ビデオと、作中の派手なムービーだけを消費しているのだろうと推測しております。しかしながら、このゲームの本質は膨大なテキストにこそあり、じっくりと読みこんでいくことで世界観に由来する玄妙な情緒が立ちあがって、大の大人の鑑賞へ充分に耐える中身になっているのです。今回の更新部分で驚かされたのは、手書きのアニメーションが突如として挿入されたことで、驚くと同時に思わずヒザを打ちました。アニメ指向の3Dモデルは、派手なアクションのムービーで輝きこそすれ、動きの少ないシーンでは人形めいてしまい、どこか繊細さに欠けるものです。制作者の意図するキャストリスの遍歴と感情のゆらぎを表現するのに、3Dモデルでは演出をつけきれないと考えたのでしょう。たとえつたなくとも、たとえ失敗したとしてさえ、「意志のあるチャレンジ」は、惰性による停滞から抜けだすためにとても重要で、「意志なき現状維持による不失敗と不成功」を再生産し続ける界隈(ドキッ)に棲息する諸氏におかれましては、この姿勢をぜひ見ならってほしいものです。本章のヒキとなるクリフハンガー部分では、いよいよオンパロスを管理する「ラプラスの魔」に相当する存在が姿を現し、この世界がシミュレーション仮説そのものなのかもしれないという疑惑は、いっそう深まりました。ペガーナの神々で言うところの「眠れる大神」を思わせるほのめかしをして、「次回、乞うご期待!」となったときには、「えー!」と思わず大きな声が出たほどです。

 それにつけても、ひとりのトップクリエイターがプログラムからシステムからシナリオからぜんぶやる、他者の人生を平気で数年ほど待機させて恥じない傲慢な本邦のゲーム群とは異なって、6週間を待てば必ず続きがリリースされるのだから、まったく中華のクリエイティブ商売は大したものじゃないですか。本邦のゲーム制作に従事する諸氏は、ユーザーへ徹底的に奉仕する、この「謙虚さと誠実さ」を見ならうべきじゃないですかね。最後に、小鳥猊下の作品から一節を引用して、本邦のクリエイティブ界隈へひそむ不遜な性根へのカウンターとしておきます。『考えれば、この”やめる”という選択肢を持たないものは、世の中にそれほど多くありませんよ。さっき言った政治と、なんだろうな、愛? いやいや、冗談です。文学も、音楽も、芸術も、すべて疑いなくやめることができます。やめても生活が続くものを批評するのは、意味がない。ゲームなんて、文学や音楽や芸術のうちの末席の、更に後ろのムシロ桟敷でしょう』

アニメ「アン・シャーリー(1話)」感想

 エッキスのタイムラインが悪い意味で沸騰しているところの、国営放送のアン・シャーリー1話を見る。ご存知のように原作小説の周辺には、村岡訳に疑義を呈する英文科卒のおばさまたちをはじめとする、深海魚のごときファンが数多く潜伏しており、うかつなニュウビイたちが近づこうものなら、たちまち捕食されてしまう、男オタクにとってのファースト・ガンダムのような、じつに業の深い作品なのです。いまをさかのぼること半世紀、世界名作劇場における初のアニメ化が報じられると、やっかいな原作ファンによる反対運動がまきおこったものの、その騒ぎを高畑勲の演出による作品の真価だけで暴力的なまでに鎮圧したという逸話が、現代にも伝わってきておるほどです。この旧アニメ、制作中のエピソードもふるっていて、盟友たるハヤオの謀叛にも似た途中離脱や、大病をおしてまで作画を続けさせられたヨシフミや、彼の葬式ーーずっとあとのことです、為念ーーで「近ちゃんを殺したのは、高畑さんよね」と投げかけられたイサオがそっけなく「うん」と応じたなど、まさに歴史上の偉人たちがおのれの血と魂でもって錬金した珠玉の50話の存在を前にして、なお令和の御代に新作を上梓しようと考えたのが、蛮勇や無知によるものではないと証明されていくことを、1話視聴の段階からなかばあきらめつつも、せめて若いアニメファンたちがビートルズのように高畑版「赤毛のアン」を発見するためのきっかけになればと願っております。

 余談ながら、私にとっての高畑勲は、現実世界ではぜったいに遭遇したくない、正気と狂気のはざまを悠然と歩く真性の天才であり、奈良の片田舎に引きこもっていたおかげで、彼の死までに創作者としての姿勢へ総括を求める面罵を浴びる機会を持たなかったことへ、心の底からの安堵を感じている次第です。たびたび「演劇やアニメで革命を継続しようとした全共闘世代」を揶揄する発言を過去にくりかえしてきましたが、彼らの創作のほとんどが本当に手に入れたかったものーーたぶん、国家や体制の転覆など少しも望んではおらず、高給で召しかかえられる首相や首長の相談役みたいな立ち場ーーの代償行為、もっと言えば庇護者へする試し行為にすぎませんでした。高畑勲だけは、ちがいます。東京大学を卒業しながら、みずからの意志でアニメ制作を生涯の仕事として選びとり、「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」「赤毛のアン」「じゃりン子チエ」「火垂るの墓」と、「それが出現する以前と以降では、世界の見え方がまったく異なってしまい、それが存在しない世界をもうだれも想像できない」という真の革命を、作品の力だけで体現し続けてきたのです。全共闘世代の虚構従事者でフィクションを通じた社会の変革に成功したのは、高畑勲だけだと言っても過言ではないでしょう。

 しぶしぶプッシー(推し、の意)への礼賛から、国営放送のアン・シャーリーへと話を戻しますと、まずもって今回の再アニメ化によるいちばんの僥倖は、「やっかいなおばさまたちの、メンドくさい言説」をひさしぶりにタップリと摂取できたことでした。それらはほとんど彼女たちの生存報告であり、人がらや人生観までもが行間へとにじみだす、定型の賞賛か完全の無視しかない昨今のつぶやき群とは性質を異にした、重層的な”人生の言葉”だと表現できるでしょう。続きまして、イヤイヤ作品の内容についてふれていきますと、若い女性のキンキン声が耳にさわることをのぞけば、「原作の知識があるプリキュアの一員みたいなアンが高速リアル・タイム・アタックで、マリラとマシュウの籠絡をこれまでの115分から23分へと大幅に短縮した」みたいな楽しみ方ができないこともありません(やっかいな高畑ファン)。しかしながら、元祖・喪男であるマシュウをシュッとした見た目の長身イケオジにしたことで、彼が60歳まで独身であった理由について、「生まれながらの男色家である」か「妹と近親相姦の関係にある」の二択を視聴者に迫る結果となったことは、ゆるしがたい原作改変でしょう(やっかいな原作ファン)。

 本作はグリーン・ゲイブルズのアンを越えて、アヴォンリーのアンまでを描く構成だと聞きましたが、原作の翻訳は「アンの青春」の途中で脱落した個人的な経験から申せば、世界的な大ヒットとなった1作目だけが真の意味での文学作品になっていて、物語の運びや文章の技巧こそ高まっていくものの、それ以降はアンという人物を追いかける、ファン向けに売りだされたキャラクター小説にすぎません。「だれのためともなく書かれ、数年間を物置で過ごした草稿」という意味で、シリーズ第1作「アン・オブ・グリーン・ゲイブルズ」だけが「非現実の王国で」や「ダイヤモンドの功罪」と同じ性質をそなえていると言えるのです。泣きつかれて眠るアンのほおにはじめて口づけをし、屋根から転落して足首を折るアンの姿に胸のつぶれるマリラの心がわりの様子、「死と呼ばれる刈り入れ人」によって最愛のマシュウが神の御もとへと去り、アンは「人生は、もう二度と元にはもどらない」ことを知って、子どもから大人へと否応に、不可逆に成長してゆきます。そして、大きな無償の愛を得て正しく羽化した少女は、ついに「愛に飢えて彷徨する、寄る辺ない魂の遍歴」を終えることとなりました。そうなれば、もはや1個の大人として「なにがあろうと、なんとかひとりでやっていく」しかなく、孤独な少女の物語は物語として物語られる意味を失ってしまうのです。もしかすると、私に「アンの青春」の途中で本を閉じさせたのは、「この子は、このあともうなにがあっても大丈夫」という安堵の感覚だったのかもしれません。

 さらに無礼と審美眼の欠如を承知で付け加えれば、草木の描写と少女の長広舌による掌編を、時系列で数珠のようにつないでいく原作の語りは、100年以上前の小説技法を現在の目で断罪するつもりはありませんが、非常につたないものです。けれど、生涯を家族の介護とケアに費やしたモンゴメリが、みなの寝しずまった深夜に、だれのためでもない、おのれの魂だけを救うために、架空の少女に仮託した解放の夢として、毎日1話ずつを書いていったのだろうと想像するとき、胸の痛むような思いにさせられます(あら、でもいやな痛みってわけじゃないのよ)。いまや、このような物語のつむぎ方も、アンのように奔放な空想の広がりも、スマホやPCを媒介として我々の日々へ24時間を常駐するようになったインターネットによって、すべて発生をさまたげられているのにちがいありません。最後に、小鳥猊下がネットに記述するテキストのすべてについて、「押入れの草稿」として書いていることを、ゆめゆめお忘れなきよう諸賢へお願いし申し上げて、とりとめのない感想を閉じたいと思います。