猫を起こさないように
年: <span>2025年</span>
年: 2025年

ゲーム「メタファー:リファンタジオ」感想

 前から気になっていたメタファーが蒸気のセールでほぼ半額になっていたため、ダウンロードして35時間ほどプレイ。本邦における「スタークリエイターの功罪」問題を極限にまで煮つめたような作品で、ここまでの印象をお伝えするならば、「最新の調理器具をそなえた、ビカビカにみがきあげられてホコリひとつない厨房に案内され、最高級食材の説明を受けていたら、奥からトップシェフが下半身まるだしで登場し、キメキメのポーズでとりだした小皿にぶりぶりと軟便をひりだすと、とめるいとまもあらばこそ、優雅な仕草でそれをフォン・ド・ヴォーに溶きいれだした」のを目のあたりにする唖然とでも表現できるでしょうか。すなわち、最高の美術とデザインに最低の世界観とシナリオーー「ライターはまともで、物語がエス・エイチ・アイ・ティー」なのは、めずらしいパターンーーという自己矛盾をはらんだ、FF16を彷彿とさせる「やっぱじんしゅさべつとせんそーはいくないし、なかまとみんしゅしゅぎはさいこー」な昭和時代のレフトウイングド平和教育の恩恵をぞんぶんに受けた、無思考的自動書記の脳天壊了ファンタジーになっているのです(システム面は後述します)。女神転生ではない新規IPを立ちあげるために、「王道ファンタジー」として企画され、7年もの制作期間を費やした本作は、近年の創作で言うなら「全修。」のような「自分の実力をカンちがいしたアホ」がやらかした感にあふれています。海外の児童文学と、たぶん偉大なるドラクエの影響から、本邦ではファンタジー作品を「気軽に作れるもの」として、フィクションのうちでも下に見る傾向がある気がしますが、本来はル・グゥインや栗本薫トールキンのようなレベルの創作者たちによる、作家人生の円熟期に全知全霊をかけた、世界をまるごとゼロから構築するヤハウェにひとしき御業(みわざ)なのであり、言語と文化はもちろん、歴史と宗教、重力の規模や大気の組成、物理法則や公転周期にいたる「ほしのなりたち」のすみずみにまで通暁していなくてはなりません。

 個人的に、生殖と交雑についての言及がゼロなのは大問題で、8つの種族のうち、どれとどれの生殖器が合致し、どれとどれが交配可能で、どれとどれが一代雑種にとどまるのかは、良識的なプレイヤーに生じて当たりまえの疑問でしょう。トールキンの強い影響下にあるD&Dをダイレクトに孫引きした、半世紀前の和製ファンタジー群ですら、「美形のエルフと人間のオッチャンはセックスできるヨー! チンチンマンマン、チンチンマンマン!」みたいないきおいで、ハーフエルフを登場させるぐらいの機転(性欲?)はありました。他ならぬクリエイター本人に聞いても、この質問に対する回答がまったく用意されていないことを想像できてしまうのは、アセクシャルな性嫌悪の時代を象徴しているとは言えるかもしれません。そして、ファンタジー世界を構築する上でなにより重要なのは「固有名詞のセンス」であり、貴族にはルイ(サイファー?)、武人にはなんたらベルグ、ミノタウロスまんまの見た目をした敵はモジってグプタロスみたいな、3秒の思考も感じられない借り物のネーミング(と、過去のメガテン制作者たちによる知恵の結晶である魔法名の丸パクり)で構築できるのは、「ファンタジーの王道」とはほど遠い「劣化した現実」でしかないのです。今後、小説を通じた民主主義の描写や、東京タワーの3Dモデルがオープニングに登場することから、真・女神転生4よろしく地下か天上に渋谷やら新宿が存在していて、「その通り、メタファー世界とは、我々が生きる現実の暗喩であり、その劣化が争いや差別の萌芽につながるという、一種の社会批評実験なのです!」などの、アタマが悪くプライドは高い人物(オマエが言うな!)による言い訳が用意されていたらイヤだなーと思っています。

 ゲームシステムについて言えば、そのまんまペルソナ5を踏襲していて、傑作と名高い同作を終盤でほうり投げ、クリアにいたっていない身には、かなりきびしい仕様であると言わざるをえません。なんとなれば、完璧なデータを作るためには日数とMPのリソース管理をかなり厳密に行わねばならず、後追いで攻略サイトをフル活用するばかりの社畜ゲーマーにとって、チャートをカタワらに置いて指呼確認しながら、他所様の粘液トラックを1ミリも外れないようなぞるだけの作業と化してしまうわけです(ペルソナ5はどこかでトレースしそこねて、「取りかえしのつかない要素」が生じたことに、嫌気がさしてやめた)。公転周期の話をしましたが、異世界なのに1ヶ月30日のカレンダーが存在するのも意味不明ーー週5日で日曜が多いのだけは好印象ーーで、本邦に住まう者たちの共有財産であるところの、学生生活を下敷きにしていたからこそ有効だったフレバー要素を、無思考でファンタジー世界に敷衍する態度には、「作り手の怠慢」以外の言葉が見当たりません。プレイヤーの行動を制限すればするほど、全体のゲームバランスはとりやすくなるのでしょうが、なにも参照せずにプレイを進めると適切な強化を得られず、明確な”詰み”が生じるのは、いかがなものかと思います。うすうす、このシステムの欠点に気づいているのでしょう、ネット経由で他プレイヤーによる同日の行動を見られる機能もあるのですが、溺れる者へ投げわたされる竹の棒くらいしか役にたちません。

 また、とりこぼしのないデータを作るためには、タイトなスケジュール管理を要求され、ダンジョンの低レベル攻略をなかば強いられることになり、20年間を改善なくこすり続けられているプレスターンとの食いあわせは最悪です。フォロワーが生まれないことからもお察しである、「弱点」「回避」「クリティカル」で彼我の行動数が増減する戦闘システムは、特に低レベル帯において運の要素を大きくしすぎるからです。ボスが最弱行動を選択し、できるだけ多く味方の回避とクリティカルが出ることを祈りながら、幾度も「戦闘をやり直す」ボタンを押すのって、RPGの楽しさからはもっとも遠い作業のように思えてなりません(しかしながら、「格下をフィールド攻撃で一掃でき、ダンジョンの出入りで敵が復活する」仕様を悪用して、無限にレベリングできることに気づいたあとは、いっきにヌルゲーと化してしまいました)。全体的に、用意された多くの要素がたがいにかみあわずチグハグとなっており、完全新規のゲームシステムを求めて、7年間をかけたスクラップ・アンド・ビルドをくりかえしたあげく、タイムアップでペルソナのシステムにもどしたような印象を受けます。最近、似たようなことを感じたゲーム、あったなー、なんだったかなーと考えていたら、モンスターハンター・ワイルズだった。また、タウンマップより遷移する全体マップからは各地のロケーションに直接は飛べず、いちいち鎧戦車へと移動しなくてはならなかったり、装備・アイテム・アーキタイプの階層が絶妙に使いにくかったり、7年間の建て増しによる弊害ーーステータス画面のデザインを変更できなかったのか、右下の余白に三角アイコンでジョブ着脱のボタンが追加されたのには、微苦笑しましたーーだろうとは察しながら、「日本人はゲームを作るのが、本当に下手になったなー」と思いました。最近、似たようなことを感じたゲーム、あったなー、なんだったかなーと考えていたら、ドラクエ3リメイクだった。

 ……などとブツクサ言いながらプレイしていたら、やっぱり出てきましたよ、現代都市が作中の古代都市として地下に眠ってるヤツ! あー、もう! こんな手クセのマンネリをいつまでも続けるくらいなら、前から言ってるみたいに、ファミコン版の女神転生2から関西をロケーションにして、順にリメイクしていきましょうよ! 梅田、なんば、天王寺、三ノ宮、四条あたりをダンジョンにして、奈良はフィールドマップで再現、東大寺、法隆寺、唐招提寺をめぐり、盧舎那仏、百済観音、鑑真和上をたおすと、興福寺の阿修羅戦がアンロックされる、簡単なメインクエストです! もちろん、文明は崩壊していますから、移動手段は徒歩のみとなります(暗黒微笑)。

映画「鬼滅の刃・無限城編第一章」感想

 それほど熱心なファンというわけでもないので、一般客が一巡して落ちつくぐらいの時期に行こうと思っていたのを、めずらしく家人がしめした興味にうながされる形で、「鬼滅の刃・無限城編第一章」公開初週の劇場へと足を運ぶ。すべての上映回において、通常のシアターが予約でほぼうまっていたため、アニメ作品をアイマックスで見る恩恵は少ないと知りつつ、わずかに席の残っていたそちらを選択する(2人横ならびは無理だった)。ニュース等で「首都における初日の単館40回上映がすべて完売」などの状況を仄聞してはいたものの、じっさいに昭和の映画館と見まがうばかりにごったがえすロビーや、2700円もの単価で学生や貧乏人などの客層をスクリーニングするために利用する、ふだんは10人も座っていないアイマックス・シアターが、老若男女で満席になっている様子を目のあたりにすると、めまいのするような大衆的熱狂への実感がわきあがってきた。上映終了後、三々五々、席を立つ観客たちの感想戦に耳をそばだてるのも楽しく、女子中学生とおぼしき人物が友人にする「わたし2回目やけど、アカザが死ぬとこ、寝てて見られんかったわ」という、最高に中2病な発言をナマで拝聴させていただき、背筋がゾクゾクした。(ドウマの顔で)うんうん、わかるよぉ。あんな回想シーンに心をゆさぶられたなんて知られたら恥ずかしいし、学校でウワサになったら困っちゃうもんねえ、わかる、わかるよぉ(ちなみに、家人の感想は「日本のアニメってすごいねえ。スーパーマンが幼稚に見えたわ」でした)。

 閑話休題。鬼滅の刃は、よい少年漫画だと思う。アクション描写が得手ではないゆえ、言語過剰になるという原作の弱点を、確かな漫画読みの目を持つ制作会社が超絶アニメーションによって補完ーー「アニメ版は下書きの清書」という評を見て、笑ったーーすることで、万人にとどく最強コンテンツにまで昇華した経緯も理解する。ただ、配信全盛のタコツボ時代に、ここまでの客を劇場へと誘引するような、社会現象となるほどの作品かと問われたならば、疑問符をつけざるをえないことも、また事実なのである。きょうは、この一種の巨大なフェノメノンについて、つらつらと思考をならべてゆきたいと思う。まず、すべての状況を言葉で説明するーー「歩きだした。どこへ行く気だ。止まったぞ」「左耳が聞こえなくなった。右手の感覚もない」などーーため、小学校低学年からアニメを見慣れない老人までのあらゆる観客が、100%同じ物語を受けとって劇場を去ることができるのは、小鳥猊下をふくめたすれっからしの”物語読み”が馬鹿にしがちな要素ではあろう。だが、「余白や行間を読ませる」しかけは、ともすれば創作サイドの自己満足になりかねない、知能と感性で受け手をふるいにかける行為でもある。この意味において、鬼滅の刃の作劇は「すべての”ご見物”を平等にあつかい、知性の高低で差別を行わない」とも表現でき、それが超ヒットの基盤を形成しているのかもしれない。

 また、作品テーマとしては、以前にも指摘した「利他と継承」が挙げられ、無限城編第一章を見ながら、さらに感じた追加の主題は「感謝と報恩」と「家族愛」であった。これだけの人気を博すようになった原作も、週刊連載の常として、読者からの反響をさぐりながら展開をつど軌道修正しているため、全話を通して読むとブレている部分はかなりある。攻撃と回避の技術は「匂い」「糸」「透明」とたがいにつながりなく場あたり的に変遷するし、主人公の血統をほのめかしながらじつは赤の他人にすぎず、修得したはずの最強必殺技は完遂できないまま終わってしまう。しかしながら、ヴィンス・ギリガン作品に通底する「コズミック・ジャスティス」を思わせる、鬼滅世界のすべてをおおう、まったくゆるぎのない一貫したスキームは、たしかに存在するのである。「鬼にも鬼になる理由がある」「人を食った鬼は必ず退治される」ぐらいの指摘はすでに星の数ほどあろうし、「縁壱の才能という集合に、物語中のすべての要素が包含されている」という小鳥猊下の評にも、感心させられるものがある。それらにくわえて、物語のもっとも中核的な場所を占めているのは、すでに公の場では口にしにくいものとなった、”一日一善”に類する「昭和の道徳観・倫理観」なのだ。友人が「私の母親は毒親でェ……」とめそめそ泣きだせば、「自分は両親を心から尊敬している」とは言いにくくなるし、同性愛のカミングアウトをした同僚に対しては、「つわりの妻を世話して寝不足ぎみで……」との弱音は口腔にとどまるだろう。年収の低さによる生活苦をなげく氷河期世代の友人を、老人ホームや障害者施設のボランティアに誘うことははばかられるし、インスタで旺盛な趣味の発信を行う独身者のいる職場では、2人の子どもがうつった家族写真を取りだすのには抵抗をおぼえることだろう。

 秘孔を突かれて全身の痛覚神経がむきだしになった、アミバのような(わかりにくい例え)人々と接するにあたり、良識的な多数派のとるもっとも賢明なふるまいは、「内心と私生活のいっさいを表明しないこと」に帰着するのである。米国におけるTRUMP PHENOMENONや、本邦でのSAY THREE PARTYの躍進を極北として、マジョリティ側が「沈黙の忍従を強いられている」と実態以上に思いこまされている”程度”のグラデーションが我々の日常の背景にあり、鬼滅の刃を社会現象へと押しあげる遠因になったのではないかと推察する次第である。すなわち、「弱きをたすけ、強きをくじく」「家族を持って一人前」「人への感謝を忘れずに」「恩返しの心」「おじいさん、おばあさんを大切に」「立って半畳、寝て一畳」「ご先祖さまに恥じぬよう」「お天道さまが見てる」など、もはや広言せぬほうがよいものとして、内心の自主検閲に黒塗りした”人の道”が、鬼にむかって大音声で説法されるのを聞く快感は、まちがいなくあると思う。個人的なことを言えば、最高学府の法学部を卒業した人物が、持てる能力を薄給のビューロクラットとして民草にそそぐのではなく、高年収の外資コンサルファームにささげる利己の時代において、「オマエもかつては弱かったはずだ! 弱い者を助けるのは、強い者の責務だ!」と寸分の迷いもなく、怒りとともに断言する主人公の姿を見て、かなり胸のつかえがとれたーー「あ、それ、言ってもいいんや」ーー感覚は、まぎれもなくあった。

 以前の感想にも書いたように、現代を生きる子どもたちが、もはや大人たちはおもてだって口にできず、そちらへ教え導くこともはばかられる、「利他と継承」「感謝と報恩」「家族愛」について、この作品を通じて学ぶことができるとするならば、もしかすると冗談めかして聞こえるかもしれないが、本邦の未来はきっとよりよく、明るいものになるだろうという予感がするのである。あと、制作会社による「無限城のレンダリングに3年をついやしたので、3部作の完結には10年かかる」との談話を知り、だれもそこに力を入れることを望んでいないという点で、「スターウォーズ3における、惑星ムスタファーの溶岩みたいだなー」と思った。

映画「スーパーマン」感想

 キメツによって劇場を占拠される直前にすべりこむようにして、アイマックスでスーパーマンを見る。以下は、2006年公開のスーパーマン・リターンズにおけるスタジアムの場面を、こよなく愛する人物による感想です。「いまさら、この超有名ヒーローの設定説明を必要とする人間なんて、地球上におるめえよ」とばかりに怒涛の冒頭キャプションだけで作品世界のビルドアップをすませたあとは、「3分前:スーパーマン初の敗北」から当該の人物がナナメにスッとんできて雪の大地へと激突するという、じつに人をくったオープニングにはじまり、DCコミック版のリブートというよりは、「ジェームズ・ガンのスーパーマン」とでも名づけたくなるような、ユーモアたっぷりの演出が続いてゆきます(特に、格納庫のシャッターがゆっくりと、それこそ1分ほどかけたワンカットで開いていくのを見せるシーンは、スーパーマンというよりガーディアンズ・オブ・ギャラクシーの文法になっていました)。ストーリー展開としては、「膨大な体力ゲージを持つオポネントに対して、初撃が当たれば無限につながるコンボの完遂をねらう格闘ゲーム」がずっと続く感じで、レックス・ルーサー側へ感情移入できれば手に汗をにぎれるのでしょうが、スーパーマンのファンはカタルシスの爆発を延々とひきのばされて、イライラすることうけあいです。また、他のヒーローたちと共闘する姿は新鮮でしたが、「あらゆる生命を助ける、リスも助ける」場面はシリアスなのかギャグなのか、はたまた、このリスがのちの派生作品でヒーローになる伏線なのか、いだくべき感情がわからなくて困惑しました。

 物語のクライマックスにおけるスーパーマンのスピーチは、過去の失言をツイッターから掘りおこされて、監督降板にまでいたったジェームズ・ガンその人が憑依したような内容で、数テイクは撮影しているはずなのに、少々ドモッてロレツのあやしい部分があるものを採用していて、おそらく熱量が優先されたのでしょう、舞台演劇をナマで見るような迫力がありました。そのあとに続く、あれだけ饒舌な道化師であったレックス・ルーサーが、ただ無言でスーパーマンをにらみつけながら静かに涙を流すシーンでは、「永遠の日陰者であり、けっしてヒーローにはなれない者」の玄妙きわまる感情を、同じ属性を持つ小鳥猊下としてモロにくらってしまい、「泣くなや! なに、泣いてんねん!」と言いながら、いっしょに泣いてしまいました。「中東のユダヤ国家によるホロコーストを免罪符としたジェノサイド行為」に対する強い批判が、本作にはこめられているとの指摘があるようですが、日々のニュースを心に留めないよう聞き流していたつもりで、ずっとフラストレーションが溜まっていたことに気づかされました。なぜなら、ただのフィクションであるにもかかわらず、鑑賞後にかなりその溜飲が下がってしまった感覚があったからです。これはすべての物語がおのずと持つ癒しの効果にはちがいありませんが、本作の高評価にその事実がいくばくかでも寄与しているのだとすれば、きわめて危険なことのようにも思います。それは、虐殺の現場にいない者たちのストレスを慰撫しているだけであり、現在進行形で殺されている者たちとは、なんの関係も連絡もないからです。「創作者によるフィクションの効能とメッセージ性へ向けた過大なまなざし」には、適切な批判が必要なように感じました。監督色がマーベルの「工業製品っぽさ」を越えた独特の”読み味”を本作にあたえていることはまちがいありませんが、同時に時事色にもドぎつく塗られた最新のスーパーマンを単純にシリーズのリブートとしてあつかっていいのかについて、個人的には疑問が残ります。

 あと、よい大人のnWo(猫を起こさないように)は25年前から猫派なので、皆様が話題にするマントをはおったテリア犬の愛嬌と狼藉は、特に刺さりませんでした。

雑文「Apocalyptic STARRAIL and Continuous GQX」(近況報告2025.7.10)

 崩壊スターレイルの最新バージョン3.4を読了。メインストーリー部分は、もはやゲームとして遊ばせる努力を放棄しているが、ナタ編後半で投入されるシナリオがことごとく失速ぎみの原神に比べると、たいへん高い熱量がこめられていて、大いに作品世界へと引きこまれた。先に予測していたように、オンパロスは無限の演算能力を持つ装置による”シミュレーテッド・リアリティ”であることがついにあきらかとなり、これまでに体験してきた「世界の崩壊へとむかうギリシャ悲劇」は、登場人物を同じうして3355万335回くり返されてきたことが示される。「膨大なテキストと細密な演出でつむがれてきた人々の想いは、それでもなお、プログラムされたフィクションにすぎず、現実との連絡は絶無で少しの影響もあたえられない」という絶望は、おそらくホヨバという会社が市場での規模を拡大させる過程にいだき続けてきたもので、神の被造物である人間を似姿とした人形が、ハードロックをBGMに神へ一矢むくいるという手描きのアニメーションは、「若く青くさい、熱情の切実さ」ゆえに強く胸をうった。この「虚構から現実への反逆行為」の実行者であり、のちにオンパロス世界の観測主体だとわかるファイノンというキャラクターは、壮麗かつ破天荒な綺羅星の如き他の英雄たちとは異なり、勤勉かつ実直な良識人として描かれてきた。失敗にいっさいの言い訳をせず、おのれの弱さを認めた上で、日々の鍛錬でそれを克服しようとする姿勢は好ましいものの、いささか生真面目すぎて人間的な魅力にはとぼしいと言わざるをえない。「親は婿として欲しがるが、娘は恋人に選ばない」タイプの、やや面白みに欠ける人物なのである(崩スタ未プレイ勢には、ジークアクスのエグザベ君を想起してもらうとわかりやすいと思う)。のっぺりとしたその特徴のなさは、じつのところ、驚愕の謎解きへと転化するための、「ミステリー小説における、真犯人からの視線そらし」であったことが判明し、アベンチュリンを前例に経験していたにもかかわらず、まんまと同じ手口にひっかかってしまったわけである。

 さらに、3355万335回のニーチェ的”永劫回帰”を追体験するパートは、古いオタクのたとえながら「エンドレスエイト」を想起させ、薄暗いシアターでプレイしていたことと相まって、ほとんど気がくるうかと思った。「観測者にとって”正しい”世界を求めて、無限個の試行をくり返す」物語ギミックは、太古のエロゲーであるデザイアがその原型を考案し、まどマギなるコピーキャットによって爆発的に人口へと膾炙させられたものだ。同様の物語類型として、直近ではジークアクスが記憶に新しいが、本作においては明確に次回のコラボ先でもあるFateの本歌どりを意図したのだろう。ここでまた、ジークアクス方向へ脱線しておくと、総集編による劇場版やブルーレイ販売の予告が、不自然なまでに避けられている現状について、いまにしかできない予想を述べておく。各話タイトルに話数の表記がないことから考えて、ズバリ、テレビ放送した12話へ新作の12話プラスアルファを挿入した「全26話の完全版」制作が、水面化で進行しているのではないだろうか。スタジオの体力面と金銭面での不安は、今回のメガヒットによって払拭され、パッと思いつくままにならべると「省略されたクランバトル回」「コモリ少尉とエグザベ君の交流”回”」「主人公とコモリ少尉の親睦”回”」「主人公失踪後の母親・同級生・運び屋回」「主人公とヒゲマンの特訓回」「アルテイシアと本ルート生存者の暗躍回」「最終話のエッセンスを3話に拡張(シュウジのループ回含む)」「登場キャラそれぞれの後日談」ぐらいのエピソードを、完全版において物語の大きすぎる余白へ埋めていくはずだと放言しておこう。

 ここからさらにアポカリプスホテル方向へと脱線し、本テキストは崩壊スターレイルという本筋から離れて、複線ドリフトしたまま終わると思われる。同作を最終話まで見たのだが、ゲストキャラにとどまると考えていたタヌキ一族が物語の中心にすえられて、主人公の属性である”永遠と停滞”の対比として「時間経過による成長と変化」を担当することになったのは、意想外の展開だった。6話までの感想にも書いた「昭和の風俗紹介」という印象は当たっていて、未確認飛行物体を召喚する呪文からはじまり、セーラー服反逆同盟(!)を思わせるスケバンのいでたちーーパーマネント、紫のチークとアイシャドウ、足首までのロングスカート、風船ガムという徹底ぶりーーまで、あると信じていたメインストーリーそっちのけで、徹底的に脇道のスラップスティックをつらぬく”ひらきなおりっぷり”には、もはやある種のすがすがしささえ感じたぐらいである。やがて、その「ドタバタ無法」は、結婚式と葬式を同時に挙行したあげく、祖母の遺体を手品の余興でもてあそぶという、往年の筒井康隆を彷彿とさせるブラックユーモアの絶頂へと達するのだった。ロボットたちの創造主である地球人が帰還する最終話にも、期待していたような”コッペリア的悲劇”はみじんも混入せず、最後の最後まで人をくった展開のまま、物語は幕を閉じてしまう。全体として、昭和末期から平成初期に国営放送で全52話が放送されていたアニメのサブシナリオだけを集めたような構成になっていて、これはもう国営放送で全52話のアポカリプスホテルを制作するしかない(政治家の名を冠した、例の構文)。終わる。

ゲーム「エルデンリング:ナイトレイン」感想

 エルデンリング:ナイトレイン、20時間弱でいちおうのエンディングを見る。本作はDLCではなく独立したゲームになっていて、本家にくらべると規模感はかなり小さい。時限の拡張エリアがいくつかあるワンマップで、用意された6体のボスから3体をたおせばラスボスが出現する仕組みになっている。15分の探索2回と10分のボス戦が1セッションなので、ソウルシリーズに対して無意味な仮定と知りつつ、もっとも極端な理論値を言えば、2時間40分でクリアできてしまうぐらいのサイズなのである。ゲーム内容は、ローグライクという単語があまり好きではない、古いオタクに表現させるならば、「攻略に時間制限のかかった、あわただしい風来のシレン」であり、マップ各所に用意された中ボスが落とす「武具とステータス強化のガチャ」をいかに効率よく回しながら、最大レベル15へと近づけるかが攻略のキモになっている。そして、正直に告白しておくと、私にはナイトレインを正しく評価する資格がない。本作のリリース日には、フランス産のJRPGにどっぷりとハマりこんでおり、プレイを開始できたのは発売から2週間後だったからだ。シャドウ・オブ・ザ・エルドツリーへの感想にも少し書いたが、オンライン要素のある近年のゲームは、発売直後3日からせいぜい1週間ぐらいまでが、混沌としていていちばん楽しい。その最高の時期を「熱と光の奔流が乱舞するビッグバン」とたとえるなら、1ヶ月後の現在は「暗く冷えた宇宙における背景放射」を観測しているようなものだ。

 クリアまでの20時間に感じていたことを率直に申せば、「最適解を知っているプレイヤーたちに引率されるリアル・タイム・アタック」であり、毎回がアイテムを吟味するヒマさえない高速参勤交代みたいな道中になっていて、たび重なる死や頻繁な迷子状態に対してはリアルに耳元で舌うちが聞こえたほどで、ソウルシリーズだからと意地になっての乞食プレイでクリアまではこぎつけたが、まったく楽しくはなかった。プレイ中、多くの時間を占めていた気持ちは「自己決定できないみじめさ」であったことを、ここに書き残しておく。ナイトレインをプレイするなかで気持ちがアガったのは、ボスガチャで強い武器や良い効果が引けた瞬間だけであり、楽しさの質としてはエルデンリングというよりパチンコやパチスロに近い。それにしても、よくもまあ、こんなに賞味期限の短いゲームを世に出そうと思ったものである。もっとも熱くてうまい提供直後を過ぎれば、どんどん冷めてまずくなってゆく”油そば”みたいなもので、しょうこりもなく美味しんぼでもたとえておくと、「果汁で皮がふやけてしまうため、作成してから数分しかもたないマスカット最中」のようなゲームなのだ。すでにして、順次追加される強化ボス以外は過疎っぽくなっており、時間帯によってはマッチングにさえ苦労する有り様である。

 え、マルチプレイに苦労して疲弊するぐらいなら、ソロで攻略すればいいじゃないですか、過疎の心配をする必要はなくなりますよ、だって? ほうら、体育とスポーツの得意なオマエら陽キャは、いっつもそれだ! 逆あがりや二重跳びのできない児童に指導ではなく、ため息や冷笑をかえしやがって! 「ストリートファイター6は、だれでもマスターランクまでいけますよ」じゃねえんだよ! 人間社会には想像を絶する下の下がいるという、単純な事実へ考えもおよばないまま、本邦の上位10%の知能の集積体であるエッキスに引きこもって、ヘラヘラ高等遊民ゴッコばっかやってるから、そんな無神経な発言ができんだよ! 就職氷河期世代でも年収4桁万円ごえなんて簡単だし、世帯を持って子育てするぐらい、ふつうにできるじゃないですか? どうだ、これでオレの傷つきをよーく理解できたろうがよ! ナイトレイン、知能は低く反射神経は高く、長期の計画より短期の快楽が好きな、社会保障費で優遇されている層へ、おススメのゲームになっておるゾイ(暴言)!

映画「28年後…」感想

 奈良の片田舎の小さなシアターで、ぶんむくれながら「28年後…」を見る。なんとなれば、前作「28週後…」をゾンビ映画の最高峰だと心から信じており、公開のあかつきには当然のことながら、本邦でもスター・ウォーズ級の待遇をもってむかえられるだろうと、無邪気に考えていたからである。ところがどうだ、我が土人県ではアイマックスはおろか、単館のノミみたいなスクリーンにかけられるばかりで、1ヶ月もせぬうちに上映が終了しそうないきおい(の無さ)であり、それが冒頭の不機嫌を引き起こしたのであった。だが、いざ映画がはじまるとそんな個人的なぶんむくれは、はるか視界の背後へとたちまち消えさってしまう。弓矢を装備した父子の冒険行へ「ドキュメンタリー映像」と「古い映画の映像」を順にオーバーラップさせながら、単調な「ブーツ、ブーツ、ブーツ」という詩の朗読にあわせて、速いテンポで画面が切りかわる導入部分は、ウスターソース野郎によるハリウッド文法をガン無視した、堂々たる「B級カルト映画」のたたずまいになっていて、いっきに作品世界へと引きずりこまれたからである。赤黒い血と白濁した脳漿がしぶき、内臓がドロリとこぼれるグロ映像の連続に、右ナナメ前に座っていた老夫婦からは「うわっ、やめてえや」「こんな映画やと思わへんかったわ」などの悲鳴があがるも、座っているハコの小ささとあいまって、それさえ映画の一部を成す環境音のように聞こえたぐらいだ。おそらく、「トレインスポッティング」や「スラムドッグ・ミリオネア」のほうのダニー・ボイル作品が好きで劇場に足を運んだのだろうが、アカデミー賞監督の威光というより本シリーズの世界観を偏愛する者からすれば、彼らの無知と無検索に対しては「ご愁傷様」以外に、かける言葉がない。シリーズ初登場の匍匐前進するスローロー、おなじみの全力疾走でせまる感染者、2メートルを越える体躯のアルファa.k.a.バーサーカーなど、いちどは途絶したはずの世界観が最新の映像技術で再現される、めくるめく”恐怖のなつかしさ”に、20年前(!)からのファンは陶然とさせられるのであった。特に、文明が崩壊したゆえの満天の星空を背景にした逃避行は耽美の極みであり、暗闇の中、全力疾走で父子を追う筋骨隆々のアルファに、炎のバリスタが突き刺さるまでのシークエンスは、呼吸さえ忘れるほどのすさまじい緊迫感だった。

 しかしながら、この地点を情動のピークとして、物語そのものへのクエスチョンは、どんどん増大していくのである。まず、作中で「本土」と呼ばれているのは、どうやらヨーロッパ大陸ではなくグレート・ブリテン島のようで、前作のラストにおいてエッフェル塔の下を走りまわる感染者の群れに大興奮してから、20年(!)ものオアズケをくった身にとっては、高まった意気をかなり阻喪させられる設定であると言えよう。また、「本土で感染者を殺すこと」がムラの男子のイニシエーションになっているのだが、自給自足のコミュニティなのに欠乏する物質の描写は、それこそベーコンぐらいしかないため、わざわざ危険を押してまで本土へわたる理由としては、「そうしないと、映画が始まらないから」以外に見つからなかった。さらに、あれだけ感染者たちにビビりまくっていた主人公の少年が、遠目に父親が人妻とファックするのを見かけただけで、観客からは完全に無謀だとわかる、病気の母親を連れての本土行きを決意するのも意味不明で、「まあ、主要キャラだから死なないだろう」ぐらいのメタで薄弱な根拠しか感じられない。そもそも、外部の人間から「近親相姦もめずらしくない」と揶揄され、人口維持を目的とした乱交パーティ(だよね?)が開催される規模の小さなムラ社会で、スマホもインターネット接続もないのに、「父親が一穴主義を裏切ったことへ、深甚な怒りをおぼえる潔癖さ」は、脚本家の倫理観に由来するのでなければ、いったい人生のどこで獲得したものなのか、じつに不可解である。意味深な描写をされる病気の母親にしても、当初はレイジウイルスに感染しているのを村人から隠す目的で、二階へかくまってるのだろうと思っていた。なので、廃教会で眠りこける息子を助けるためにスローローを撲殺したときには、「理性をたもった感染者、アルファ・メスだ!」と大よろこびだったし、みずから産婆となって感染者の妊婦から非感染者の赤子をとりあげるーーこの子の体液がのちに治療の血清となる伏線なのだろうが、前作でも類似の話はすでに提示されていたーー場面において、おぼろげな予想は強い確信へと変わったのだ。

 にもかかわらず、ヨードチンキおじさんの診断で、母の奇行と怪力はリンパにまで転移した末期癌ゆえだと判明したときには、公の場にもかかわらず、強めの「ハア?」という悪態が、知らずマウスからほとばしっていたほどである。このあとに続く、とってつけたような「メメント・アモリス」発言からの安楽死という展開も、作品世界の死生観を体現しているというよりは、監督か脚本家の実体験を反映しているようにしか見えなかった。そして、あろうことか、少年がコミュニティを離れてから「28日後…」のテロップが表示された直後、感染者と近接戦闘を行うテレタビーズの擬人化みたいなジャージ集団ーー「かまれる」「ひっかかれる」「体液が粘膜にふれる」と潜伏期間ゼロで発症するウイルス持ちが相手なので、ソウルシリーズで例えるなら、レベル1全裸短剣おじさんのような存在ーーの登場で、なんら伏線を回収しないまま、物語は幕となってしまったのだった。20年ぶりのシリーズ再始動は、コロナの世界的なパンデミックに新たな着想を得たためだろうと予想していたら、まったく1ミリも、露助のルーブルほどもそんなことはなく、この尻切れトンボな欠陥映画にたいそう感情を乱されたまま帰宅してググッてみると、本作は3部作の1作目だというではないか! だったら、スタッフロールのあととか、作品内で続編の存在をキチンと明示しろよ! 右前方に座っていた善のダニー・ボイルが好きなグロ耐性の低い老夫婦なんて、ぜったい次は見に来ないじゃねえか! ここにいたり、3部作の3作目を3部作にするというボーン・テンプルばりの不安定でイビツな構成があきらかになったわけで、1にあたる本作は28年後の28日後を描き、続編の2が28年後の28週後の話で、完結編の3が28年後の28年後を語る仕組みに……って、ややこしすぎるわーい(目の前の卓をひっくりかえす)!

 おまけに撮影が終わっているのは2までで、3の制作に入れるかは今後の興収次第らしく、本邦での様子をうかがうかぎり、パリからヨーロッパを経てユーラシア全土へと感染が広がっていく阿鼻叫喚の地獄絵図は、またも古参ファンの妄想に終わりそうな気配が、すでにしてただよってきているのであった。「物語を終わらせないまま、この世を去ることによって、擬似的な永遠を獲得したい」という欲望は、広く受容される虚構世界ーーガラスの仮面や王家の紋章などーーを構築した創作者にとって、めずらしいものではないのかもしれないなと思うと、発作的な空ぜきにも似た、乾いた笑いがでてくる。ラわーん、もう”終わらないフィクション“はこりごりだよう(年齢的に)!

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(最終話)」感想

 アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(11話まで)」感想

 ジークアクス最終話、Qアンノにシンエヴァ由来の悪感情を持つ人間の事前予想よりは、かなり好印象な方向へと急旋回できたように思います。前回、”シャロンの薔薇”の正体をエルメスに改変したことで、話の大元が曲がったと指摘しましたが、手描きと3DCGの新旧ガンダムたちが、空前の一大バトルをくり広げる新作アニメーションという予想は、Qアンノを過大評価ーー「ヤツに関しては、つねに最悪の予想をしておけ。ヤツは必ずそのナナメ下を行く」ーーしすぎていたことが、今回わかりました。平成にリメイクされたヤマトを見て、「自分ならオープニングは1カットも変えない」と豪語した人物がやりたかったのは、光る宇宙?のモビルスーツ戦を現代のアニメ技術で”完コピ”することだけだったのです。彼の視野レンジの狭さによって、マッキーが最終話で自由に差配できるスペースが増え、主人公とそのマヴの描写に長めの尺をとることができたのは、作品にとって僥倖だったと言えるでしょう。

 でもね、1000ピースのパズルを12時間で完成させるリアル・タイム・アタックで、11時間ほど経過したのに600ピースぐらいしか埋まっていなかったのが、突如として北斗百裂拳のような動きへと加速して、ラスト1秒で最後のピースがハマッたみたいなもんですよ、これ。Qアンノによる余計なクチバシ・ツッコミを排除して、「虚構内虚構」のギミックをアトヅケで建て増ししていなければ、”TikTokガンダム”とでも名づけたくなるほどの超圧縮エンドロールを回避して、もう少し尺にゆとりをもたせてキャラの内面を掘りさげーーインド人の娼婦ばっか「傷ついた、傷ついた」って連呼しやがって、この作品の中でいっちゃん傷ついてんのは、主人公の母親やでーーながら、より正しく架空戦記として着地できたろうにと思ってしまいます。やはり、視聴後に「アルテイシアって、だれだっけ?」とウィキを調べたぐらいのガンダム下手が、Qアンノに向けた私情のみで、うかつに口をだしていい作品ではなかったと、いまは深く反省をしておる次第です。

 雑にまとめておくと、ジークアクスは悪く言えば、作品単体では自立できないーーアルテイシアがシャアの妹なんて説明、作中にいっさいなかったじゃん!ーー悪ふざけのすぎる夢小説で、良く言えば、新しいファンを古いガンダム作品の視聴へと環流する高性能のマシンなのでしょう。最後に識者のみなさんへ聞きたいのですが、結局、イトウ・シュウジって何者だったの? 重度のガンダム下手だから、ノーマルなファンにとっては自明すぎる帰結が追えてないだけ? あと、緑のヒゲ(マン)が全編を通してふりかえっても底割れしない、近年まれに見る「良い大人」であり続けたのには、率直に言って、とても感動しました。

アニメ「機動戦士ガンダム・ジークアクス(11話まで)」感想

 生来のガンダム下手で、再放送によるガンプラブームをリアルタイムに経験し、逆襲のシャアも初映を映画館で見ているはずなのに、本シリーズに心を動かされたことが、まったくと言っていいほどありません。愛好家たちの語り口がおそろしく類似している点からも、炎上を避けるために肯定的な表現で申すならば、ガンダムは「数字や型式の暗記が得意な、知能の高い人物に特有の発達特性」へ深く刺さる物語造形なのではないかと、ずっと疑ってきた人生なのです。そんなわけでジークアクスに関しては、毎週の沸騰するタイムラインを横目に、資格のない者が余計な口をはさむまいと貝になってきたのですが、11話の放映でガンダム下手にもさわれる位置まで墜(堕)ちてきたーー最後の最後でビルドアップの積み木崩しをして、架空戦記としての軟着陸を放棄して、安直な「虚構内虚構」へと走ったストーリーについて、以前は「高い城の男」になぞらえていたことをディックに謝罪したいですーーことと、Qアンノのそらとぼけた「ボクもやりやがったと思ってる」発言にカチンときて、最終話の放映前にちゃんと真相を解明しておこうと思いたった次第です。

 ジークアクスはシンエヴァ副監督のスタートさせた企画とのことですが、「アバンタイトル5分で終わらせるはずだった”正史のif”」をQアンノが映画1本分に膨らませたところから、本作の方向性はゆがみはじめたと言えるでしょう。仮面ライダーがこの怪人を釘づけにしているうちに、さっさとプロットを固めてしまえばよかったものを、7年もの制作期間が日本3大オタクのひとりにつけいる隙をあたえてしまい、「ガール・ミーツ・ガール」の本筋をどんどん浸食して、半世紀前のロボットアニメからの汚染を拡大させてしまったのです。ビギニングでの狼藉が存外な好評価を得たことへ気をよくしたQアンノが、ウッカリ口をすべらせた「マッキーたちは、まだ禿頭の御大に遠慮してる」発言は、関係者の言う「制作の途中で、最初に用意したストーリーを大幅に改変することとなった」原因の震源地に彼がいたことを証明してしまっています。その変更とはズバリ、「”シャロンの薔薇”の正体はなにか?」という謎解きの中核部分で、映画を分割した2話と8話に続いて、テレビ新作パートのみの9話に、脚本担当としてQアンノの名前があることからも、あきらかでしょう。これは本来、シンエヴァ副監督が幾度も再話ーー栗本薫がそうだったように、同じテーマをくりかえし追い求めるのは、優れたストーリーテラーの資質でもあるーーしてきた「若さの喪失におびえる、少女たちの青春譚」の添えものに過ぎなかった要素が、メインディッシュへとすりかわった瞬間でもあります。

 8話までは、この2つの要素が拮抗しながらも、どちらを上に置くでもない、ちょうどいい塩梅で調理がなされていました。緑のヒゲ(マン)が口にした「総帥とその妹を同時に排除する計画」が物語終盤の本筋だったのでしょうし、ファーストガンダムにいっさい思い入れを持たない”物語至上主義者”からすれば、9話以降の展開は「奇妙な磁力にねじ曲げられた、不自然の変節」にしか見えないわけです。もちろん、その磁場の発生源は社長・Qアンノであり、「もうガンダムは満足した」との発言は、ビギニング・パートに由来すると考えてきましたが、どうやら「初代ガンダムを3DCGではなく、自身の手描きで動かしたい」という欲求が満たされたからであるような気がしてきました。最終話でのアニメーター・Qアンノによる手描きの”ガンダム無双”は、45年来のファンを狂喜させるすさまじいクオリティで饗され、申しわけ程度に主人公がチョロっと活躍して痛み分けぐらいの印象にもどして、ジークアクス世界とオリジナル世界の並立みたいな落としどころを見つけるのでしょうが、サイコガンダムの予告と単騎による大気圏突入のさいに、まざまざと幻視した「新世代が心の熱量だけで、旧世代の冷めた諦念をうち砕く」ことによって、主人公が主人公たる資格を真正面から証明する機会は、残念ながら永久にうしなわれてしまいました。

 Qアンノの偏執狂的な「クシャナ殿下のこのアクションだけをアニメ化したい」に類するこだわりによって、点景へまで追いやられた少女たちの「喪失と成長を交換する物語」をじっくり見たかったというのが、小鳥猊下のいつわらざる本音です。ジークアクスは「ガンダムシリーズの復興」という観点からすれば、商業的な大成功となったのかもしれませんが、物語の自走性とキャラクターの自我を無視したという意味においては、あの「親に捨てられた14歳の少年」に対する仕打ちとまったく変わるところがないと、ここに吐き捨てておきましょう。以上、ガンダムという単語を聞いても心の天秤が完全にフラットな、古い物語読みからの世迷言でした。くれぐれも、古参ファンのみなさまにおかれましては、気を悪くなさらぬように! この予想が外れることを、同時に願ってもいるのですから!

映画「トラペジウム」感想

 劇場公開当時から、様々のオタクたちによる正負の感情がうずまいているトラペジウムを、ようやくアマプラ配信で見る。全体的な印象としては、「男性の性欲フィルターを通さずに撮影した、思春期の少女たちのお話」で、なぜか「きみの色」を思いだしました。パッと見は、地方アイドル・グループの結成から解散までを追いかけるストーリーでありながら、その本質は、異常者であることに無自覚な東ゆうの言動を愛でる映画だと断言しておきましょう。未見の方にもわかりやすいよう、彼女の異常性を少しずつ位相をズラして例えるなら、理由もなく白發中の三元牌に強いこだわりがあり、「とても背が高いのに、なぜバスケ選手にならないんだろう」「ひどく太っているのに、なぜ相撲とりにならないんだろう」に類する思考の型を有していて、おそらく「女性の身体に男性の心」を持つ人物です。最後に挙げた性質は、思春期の少女にとって一過性の場合もあり、女子校の王子様が大学でブリブリの姫になるのを観測したことがある方もおられるでしょう。この現象を誘発するのがなにかと申せば、蛍光物質にむけたブラックライトのごとき「オス度の照射」の有無であり、令和のフィクションにおいてはバキやタフに代表される、ほとんどギャグへと突き抜けないと、発露をゆるされない種類のパーソナリティでもあります。もし本作において、東ゆうの協力者であるカメラ小僧が範馬勇次郎の0.01%でもオス度を有していたら、物語の展開がまったく変わっていた可能性はあります。

 少々それた話を元へもどしますと、作品世界そのものが「アイドルであること」を全力で称揚するアイマスやラブライブなどとはちがって、トラペジウムにおいてその特別性を信じているのは、登場キャラの中で東ゆうただひとりであることが、彼女の異質さをきわだたせていると指摘できるでしょう。アイドルなる職業に人生で一度たりとも魅力を感じたことのない者からすれば、「若い肉に価値があり、換金性まで有することを知った女性の、人生の予後は悪そうだな」ぐらいの感想しかないのですが、狂犬・東ゆうはこの冷めた視線に逆らうように、「ちがう! 特別な人間は発光するんだ!」と異様な想念を画面外へむけて吠えたててくるのです。偶像発生の初源を問えば、それは「神殿や河原や娼館や奴隷市場における、旦那衆への歌舞音曲」であり、かつては”必ず”売買春をともなう生業だったのです。「非常に整った造作」という稀少の例外こそあれ、多くの男性は「特別な情報を付加された肉」にしか性的な興奮を感じられないためかもしれません。その歴史的な営みから肉の媾合(媾合陛下!)を切りはなした上で、「一晩に一人」という物理的な限界を拡張する、動画配信やコンサートを通じた不特定多数との”まぐわい”が、現代におけるアイドルの本質だと言えます。かような穢れた実態について盲いたままで、「アイドルはみんなを笑顔にする」と「恋人のいないアイドルは高値で売れる」を同じ口から発することのできる東ゆうが、常軌を逸した妄想を破格の行動力で実現して、運痴や理系や整形などの「売春宿で値のつく少女たち」を手練れの女衒のように見初めて、いつわりの”トモダチ”へと籠絡してゆくさまは、ある種の恐怖と、誤解を恐れず言えば、清々しさの入りまじった光景でした。

 ここで確認しておきたいのは、彼女を動かしているのは名声欲ではなく、まして性欲や金銭欲でもなく、「金閣寺は燃やすべき、なぜって美しいから」へほとんど近接した、”狂人の美学”だということです。トラペジウムという作品への評価は、「東ゆうの異常さを、はたして受認できるか?」にすべてかかっており、ここからは個人的な話になってしまうのですが、彼女の言動にはたいへん身につまされるものがありました。なんとなれば、東ゆうの「アイドルになれば、なにか特別なことが起こる」という、根拠を持たないがゆえの強烈な思いこみは、「テキストを書けば、なにか特別なことが起こる」と四半世紀を書き続けて、何者にもなれずにいる小鳥猊下のそれと、奇妙な相似形を成していたからです。東ゆうには、「必ずアイドルになる」という妄執とともに、10年たっても20年たってもオーディション会場に現れる怪人として、界隈における”口裂け女”の逸話にまで昇華されていってほしい。そうして、若い肉と審査員からの失笑を買い続け、何者にもなれないまま、むなしき希望だけをいだいて、アイドルへの憧れに溺死してほしいのです。私の目には、「四者四様な、女のしあわせ」を描くエピローグは読後感を整えて、映画パッケージとしての体裁をつくろうためだけに用意された、東ゆうのような人物がけっしてたどりつくはずのない、虚栄に満ちたまぼろしにしか映りませんでした。

 「アイドルだとは明言されていないが、何者かにはなれた」ことを示す、数年後の東ゆうへのインタビュー場面なんて、あんなのはスタジオを借りて自腹で劇団員をやとって、彼女の妄想を台本で撮影させた自作自演のものにちがいありません! 小鳥猊下と同じ妄念をいだく東ゆうが、過ぎゆく時間に破滅しないのだとしたら、そんなのあまりにも都合がよすぎるし、なにより小鳥猊下がかわいそうじゃないですか! 公立校出身で、容姿にすぐれず、理系の才能もなく、実家も太くなく、オスとのつがいにもなれない東ゆうへ、「アイドルになれないまま、アイドルを目指し続ける」以外の道なんて、残されていないんですよ! フィクションだからって、ウソつかないでもらえますか(けだし名言)!

ゲーム「Clair Obscur: Expedition 33」感想

 海外で異様に評判のいい、仏国発のエクスペディション33を35時間弱でクリア。本邦のお家芸”だった”コマンド式RPGとソウルシリーズをガッチャンコしたシステムを用いて、世界観とストーリー以外のすべては過去のJRPG群、特にファイナルファンタジー・シリーズへのオマージュから構成されています。エフエフのナンバリングで言えば、7と8と10と13を下敷きにしながら、プレイフィールはそれらのゴチャマゼといった塩梅になっていて、なかば嫉妬に由来するエスプリをきかせまくった揶揄でJRPGをケチョンケチョンにけなし続けていたら、ガイアツに弱い本邦のメーカーがコマンド式RPGを作るのをなんとなくやめてしまい、絶滅危惧種と化した生物をあわてて異国の地で人工繁殖させたのが、このゲームの本質であると指摘できるでしょう。本作をプレイしていると、フランス人たちがときに蔑視の対象とし、音楽や舞台や映画に比べて一頭地劣るとされてきたゲームという名の革袋は、文化の精髄たるワインの豊潤を彼らに満たさせるほど、充分に古くなったのだという感慨がジワッとわいてきます。もっとも、ゲーム内で使われている美術や楽曲や文芸は、同時並行で制作進行中の映画版と共有することで爆死保険ーー学資保険のイントネーションーーをかけていたようで、「そういうところだぞ、この差別意識まみれのサレンダー・モンキーどもめ!」という気持ちにはさせられました。同じくJRPGの再興を目指した崩壊スターレイルが地に伏して我々を崇敬する一方で、エクスペディション33は青い瞳と天狗鼻を傲然とそらしながら我々を見くだす感じになっていて、不可解なアジア地域への恐怖ーードラゴンロード!ーーと劣等感が反転する、いつもの”西洋しぐさ”をそこに見ることができます。勝てない分野でのルール変更がきゃつらのオハコで、「ナイフを胸部中央に突き刺したのは認めるが、殺意はなかった」という態度で、「歴史に埋もれていた神秘のバサロ泳法を、私たちが再発掘した」みたいに喧伝してまわる様子には、さすがに「シェイム・オン・ユー!」とは言いたくなりますけれど!

 海外での激賞の裏には、こういった文化的な背景と歴史的な経緯があることを前置きとして、エクスペディション33への感想を述べていきましょう。RPGとしては、”かゆいところに手が届かない”不親切な部分が多くあり、メジャーな要素だけでも「ダンジョンでミニマップとコンパスが存在しない」「目的地へのガイドやマーカーが存在しない」「エフエフで言うところのアビリティに相当するルミナの仕様説明が充分ではない」「ほぼ必須のパリイにエフェクト等による補助が存在しない(モーションごとに目視で識別するしかない)」など、プレステ2か3時代のユーザー・アンフレンドリーを模している可能性は捨てきれませんが、とにかく「さわっておぼえる」しかないところが、現代のゲームにしては多すぎるように感じます。システムの全容を把握するまでの序盤は、いったいなにが楽しいのか伝わりにくいゲームなのですが、「エアリス相当の三十路独身男性」が退場(バレ)するあたりから、グングンと尻あがりにおもしろくなってゆくのです。ワールドマップに出てからは格段に自由度が高くなり、「キミはすべてをパリイする……それだけで、どんなボスにも勝てるよ」というソウルシリーズ由来のゲーム性によって、「序盤のうちから高難度ダンジョンに挑戦し、進行度に合わない高性能の武器を入手する」みたいな遊び方もゆるされています。くやしいですが、「わざと詰めを甘くしたバランス崩し」が大好きな、ファミコン時代からのRPGファンにとって、かなりグッとくる調整になっていることは、認めざるをえないでしょう。少し話はそれますが、いにしえの時代にバロックという中2病的な世界観をウリにしたゲームがありまして、「バランス調整に失敗した3D風来のシレン」としか形容できないシロモノなのですが、しつこく、しつこく、しつこぉく根強いファンがいて、延々とこすり続けていたのを、なぜか思いだしました(最近では、さすがに観測されなくなりましたが……)。

 このエクスペディション33も世界観が肌にあう人にはブッささり、そうでない人には意味不明という危ないラインをボールが転がっているような気はしますが、ベル・エポックへの造詣はあまり深くなく、記憶にあるフランス映画は「ロスト・チルドレン」「レオン」「アメリ」「エコール(最低)」ぐらいの人物にとって、まったく先の読めない物語の展開に、プレイの興趣を刺激された側面が大きかったことは否定いたしません。本作のストーリーを簡単に説明しますと、タイトルの33はある人物の享年(バレ)を意味しておりまして、この年齢以下の人間しか生存をゆるされず、年々カウントダウンが進行する世界という設定になっております。三十路半ばの独身男性が、年上の恋人の消滅を見送るところから物語は始まるのですが、「古いものほど価値がある」石の文明の有するアンティークの見立てを、脳がバグって人間にまで適用してしまった”おフランス”らしい導入だと言えるでしょう。MCRN大統領は世界でもっとも有名なグルーミングの被害者だと信じて疑わないのですが、この奇ッ怪の価値観を最先端だと叫んでやまない彼の国では、こんな当たり前の同情を口にすることさえできないのですから、まったく「進歩的である」とは、いつだって窮屈なものです。その一方で、おぶぁ(おぢの対義語)とのバランスをとるために少女愛ーージュディット・ヴィッテ! ナタリー・ポートマン!ーーを天秤の反対側に置くのが”カエル食い”どもの習い性で、本作のヒロインたちは順に「三十路独身女性」「三十路経産寡婦」「10代半ばの少女」となっており、ほとんど放言に思えるだろう分析の裏付けとなってしまっております(結果として、20代女性への言及が完全に消えるのは仏国のおもしろいところですが、それを愛でる中央値の男性は芸術になど、たどりつかないからかもしれません)。

 そして、FF7で言うところのクラウドに相当するマエルたんの造形がじつにすばらしく、本作の傑出している点は表情による演技の細かな機微であり、ひそかに思慕を寄せる年上の男性が惨殺(バレ)される場面で見せる絶望の様子には、局部へ電流が走りました。このグロテスクかつ壮麗なノワールは残念なことに、やがて「ある家族の問題」へと収斂していくのですが、ゲーム文化が充分に成熟して大人も楽しめるものになった結果、「各国の家族観」をそこに見られるようになったのは、非常に興味深いことです。イヤイヤながらに言及しておきますと、本邦の創作トレンドは「時代と毒親に人生を破壊された(と信じる)人物が、墓じまいをしてから自身を海に散骨する」みたいな内容ばかりですが、他方で大陸のそれは「祖父母の仕事と人生に敬意をはらい、家名に恥じぬ行動をおのれに求める」ような筋立てになっていて、人間集団の総体としてどちらが衰退してどちらが繁栄するかは、あまりにも自明すぎるでしょう。「愛国と差別」をそれに並立して矛盾を感じない心性は、全共闘世代のまいた病理の種の萌芽によるものだと考えていますが、以前よりくり返している話題なので、これ以上はここで申しますまい。ただ、我々の文化が西洋化されて長いため、本作に描かれる家族の軋轢はどこか既視感ーー山崎豊子とか横溝正史?ーーをともなうもので、大陸産のRPGにふれたときのような「蒙を啓かれる」感覚は生じませんでした。エクスペディション33の中核を成すミステリー要素について不満を述べておくと、そもそも「虚構内虚構」という入れ子細工でより外側にあるフィクションを補強しようとする仕掛けは、作り手の創作に対する強い自意識が臭みになるケースが圧倒的に多く、本作でもきついパルファムの香りの下から消せぬ臭気がただよってしまっております。「こんな大傑作を初手から上梓してしまうなんて、ミーの才能はそらおそろしいザマス! ジャポンで継承の途絶えた伝統芸能を復活させたフランセの手腕をもっとほめたたえるでセボン!」と大はしゃぎなのを、無言の微笑で生温かく見まもるぐらいが、我々にとってちょうどよい距離感でしょう。

 いつものごとく、メチャクチャにディスってるみたいになってしまいましたが、なァに、きゃつらのエスプリとやらへ対抗したまでのことです。ともあれ、エクスペディション33、ACT3の世界探索とマエルたんのダメージインフレまでを加味するならば、ファイファン派に敵愾心を燃やしていた、かつてのエフエフ愛好家のみなさんに、心の底からオススメできる珠玉の一品となっております。