猫を起こさないように
月: <span>2024年11月</span>
月: 2024年11月

雑文「THE ODORU and DQ3 LEGEND ALREADY DIED」(近況報告2024.11.28)

 映画「室井慎次・敗れざる者」感想
 ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ようやく室井慎次・後編を劇場で見る。ほとんど邦画を見ないため、長く動かなかったnWoオールタイム・ワーストの1位が陥落し、ついに本作へとってかわられたのであった。予告編で観客へ錯誤を起こさせるために挿入された、旧エヴァ・イコール・実相寺アングルっぽい特殊部隊の突入シークエンスはほんの数分だけで、残りの時間はすべて、前編で語り終えたはずの3人の里子に関する話を延々とやる。詳細に書きだすとキリがないため、「北の国から」で例えておくと、「東京へ行く息子に父親が手わたした一万円札に、畑の泥がついている」みたいな、”お涙ちょうだい”昭和小話のパッチワークになっているのである。わざわざ劇場版1と2の犯人たちを引っぱりだしてきたのだから、前編は後編で起こる事件のビルドアップに過ぎず、東北に端を発した小さなできごとが、東京の警視庁を巻きこんだ「大捜査線」へと拡大し、かつての湾岸署の面々とモリアーティたる小泉今日子との冷厳な知能戦を、今度こそ本庁と所轄の垣根を越えた熱い共闘で打ち崩すような展開が、多くのファンによって期待されていたことと思う。それが、まちがったハコに入ってしまったのかと何度も疑うような、ほとんど前編となにも変わらない、どうでもいいエピソードが執拗に蒸しかえされるのである(あのアダルトビデオに出てきそうな女子高生との失恋話、なんなん?)。きわめつけは、20年を追いかけてきた室井慎次の人生の結末が、「寒さに強い秋田犬を冬山で追いかけていたら、ウッカリ遭難して凍死する」だったことで、カネもうけのための本質的に不要な続編によって、大切な作品を汚されるという意味においては、さすが旧エヴァの熱烈なフォロワーだけあって、旧作を台無しにする以外の効能を持たない、シンエヴァ級の「そびえたつウンコぶり」だと言えるだろう(警察無線に涙声で流れる「犬が……犬が、遭難者を離れません!」は大爆笑の、最高にアタマの悪い演出で、ここだけは聞く価値あり)。

 じつは、前編で「踊る熱」が高まった結果、わざわざテレビ版をすべて見返すまでしたのだが、最終話が記憶よりもだいぶひどかった。エヴァ様のテロップふくめ、映画好きの大学生が編集したようなアマチュアっぽい場面のつなぎ方で、警察トップのお歴々の前でする室井と青島のやりとりなどは、織田裕二の大根演技ーーホアキンがフリーザとするなら、ユージはバクテリアンーーとあいまって、支離滅裂で意味不明なものになっている。全体的に「エヴァの影響を受けた軽薄なテレビマンによる、若いセンスだのみの編集と借り物の音楽で、ストーリーが成立しているような雰囲気だけを醸成している」感じで、室井慎次・後編を見てしまった現在、この評が踊る大捜査線シリーズの正味ではないかと思いはじめている。大手テレビ局の元社長をかこむ、元スタッフによる「踊る同窓会」でついつい酒をすごして、当初の予定通り配信ドラマでお茶を濁しておけば、まだ傷も浅かったものを、「興収200億の夢、ふたたび」と盛りあがってしまったのだろう。結果、軽薄なテレビマンが軽薄なふるまいに無自覚のまま、20年をかけて映画スキルの獲得も精神的な成長もなかったことを全国的に披露する、「虚無の出がらし」みたいな映像の集積体ができあがることとなる。室井慎次・後編は、ファンの記憶と俳優の晩節をともに汚しにくる空前の駄作であり、特にすみれさんが劇場版2で銃撃を受けた後遺症に苦しんで警察を辞めたみたいな挿話は、劇場版3と4の存在がスッポリと抜け落ちており、アルコール性の記憶障害か若年性の痴呆症を疑わせるほどのひどさだった。室井慎次が訥弁で家族愛を語ると、あらゆる不良や半グレや犯罪者がみるみる改心して、魔法のように「完落ち」することから、本作のジャンルは広義の魔法少女モノと言えるかもしれない(言えない)。

 ついでにドラクエ3リメイクの進捗も報告しておくと、ゾーマとしんりゅうをかるくやっつけて、現在は試練の神殿を進行中である。またぞろ懐古的な昔話をするが、ファミコン版のゾーマはあざやかな色あいで登場し、ひかりのたまを使うと全身が青白く褪色するという演出になっていた。子どもながらに、これを「闇(夜)の世界における色あざやかさは、すべてマガイモノである」という深い人生訓として受けとっていたため、スーファミ版で変化の順を逆にされたことには、いまでも納得がいっていない。本リメイクにおいても、青白いボディがひかりのたまで色づく仕様になっており、「またニセモノのゾーマか」と画面の前で思わず毒づいてしまった。もっと言えば、スーファミ版以降のゾーマは、鳥山明のデザインに寄せすぎているため、カブトこみで頭部がデカすぎ、プロポーションが悪いと感じている。ファミコン版はもっと頭が小さく、逆三角形に近いシルエットになっていて、無そのものの白い目ーー三白眼で黒目が描きこんであるのは、ひどい解釈ちがいに思えるーーでこちらを見つめてくるのが、最高にカッコよかった。

 話をリメイクにもどすと、クリア時のレベル平均は40台前半で仲間の転職も1回ほどだったので、ゾーマにいたるボスラッシュ3連戦には死闘感があり、すばらい体験だった。ただ、バラモスゾンビの攻撃力は調整に失敗していると思うし、「プレイヤーが死なない」という、RPGのゲーム性を全否定する驚愕のイージーモードは、パラメータ上限を思いつきで255から999に変更したせいで生じたインフレを、制作側が御しきれなかったゆえの苦肉の策であることが、ストーリーの終盤へと進むにつれてわかってきた。きわめつけはクリア後に訪れる試練の神殿で、指定された武器種を装備しないと、複数回の転職をくり返してフルパラメータに近いパーティでも、1000近いダメージーープレイヤー側のHP上限は999ーーをくらうという思考放棄のザルみたいな調整なのである。最悪なのはパンドラボックスの存在で、バカ体力とバカ回復に加えて仲間を無限よびするという、「テドンの悪夢、ふたたび」になってしまっている(ねえ、アタマと性格、どっちが悪いの?)。たびたび書いているが、「最強装備をすべて集めて、キャラをカンストまで成長させて、ようやく敵味方の戦力が均衡する」という調整は、制作側の怠慢ーーくわしくは、メガテン5あたりの評を読んでほしいーーであり、レベルデザイン・イコール・数値の調整だけで世界観と冒険の旅を演出できる「本邦にスペシャルなお家芸」の喪失だと言えよう。いい加減、ファミコン版ドラクエ2などもむずかしかったと思うが、試練の神殿の難易度はドラクエのそれとはあきらかに性質を異にしており、こと最終局面にいたって本リメイクからドラクエである必然性すら消えてしまうのは、とても悲しい。ドラクエシリーズの本質とは、言葉にできない「冒険の手ざわり」であり、この感覚を本リメイクの制作者と共有できているという信頼は、もはや絶無である。

 リメイクを重ねるごとに漸減する戦士の価値についても触れておくと、新たに導入される職業を使わせるため、既存のそれとのバランス調整をいっさいせずに、強力なアドバンテージのみを与えるという措置が、スーファミ版に引き続いて本作でも行われてしまった。だれでも全体攻撃と複数回攻撃ができる世界で、ダメージ量が特につきぬけているわけでもない単体攻撃の戦士を使うインセンティブはもちろん、どこにもない。さらに追いうちをかけるように、強力無比の「まものよび」によって戦士のとくぎはすべて無意味化し、転職先として経由するわずかのメリットすら消滅してしまっているのである。おまけに、発売前に物議をかもしたように、女戦士のルックス(笑)さえダウングレードされており、この職業を選ぶ理由は、もはや1ミリも存在しないのである。パラメータ上限を255から999に変更したせいで制作者の頭が「こんらん」したのだろう、なぜか武闘家の会心率まで目に見えて下がっており、「日本人はゲームを作るのが、本当に下手になったなー」と、プレイを通じて、何度も何度もくり返し落胆させられている次第である。

 古参の愚痴ばかりになって申し訳なかったが、昔からのドラクエ3のファンならだれでも思いつく、「オルテガが仲間になる」や「クリア後に勇者が転職できる」ぐらいを雑に放りこんでおけば、勉学やスポーツではなく、ピコピコに青春をささげてきた氷河期のロースペック人材たちは、みんな文系の単純なアホばかりなんだから、他のすべての不満に目をつむって、手のひらがえしの絶賛をしたにちがいないんですよ。その最低限すらもやらずに追加した新要素がなにかと言えば、「まもの使いのせいで、戦士が死んでてやべーな……そうだ、オノしばりの超高難度ダンジョンを用意しよう!」であり、脳ミソがフットーしちゃってるとしか思えません。意味深にホーリー遊児がほのめかしたエンディングの仕かけにしたところで、「1のラスボスであるりゅうおうの養育者が、2の準ラスボスであるハーゴンだった」という、もうアトヅケ感しかない残念なものなのです(「りゅうおうのひまごじゃ!」と、どう整合をつけるんでしょうね? 「竜の血筋に見切りをつけて、破壊神に鞍がえした」みたいな意味不明の文脈が、すでに発生してしまっていませんか?)。

 あと、室井慎次・後編でスタッフロールのあとに青島君が出てくるんですけど、ドラクエ3リメイクのハーゴンにせよ、「虚無の出がらし」の「氷河期ホイホイ」はどれも似たような、古いファンに対してウワメづかいの哀願みたいな仕草をするなーという感想をいだきました。この青島君が、例のダッフルだかアーミーだかのコートを着て東北に現れるのを見たとき、平成前期のルックス(笑)と大根演技はそのままに、ユージの顔だけがメチャクチャ老けてて、それが本邦の変化できなさと低成長の時代を象徴しているようで、ひどく情けない気分になりました(エリが出演していないことだけは、本当によかったです)。

ゲーム「ドラクエ3リメイク」感想

 ロマサガ2リメイクのベリーハードを最終皇帝で放りだし、ドラクエ3リメイクに鞍がえしてプレイ中。個人的なことから言うと、オリジナルのファミコン版は、人生ではじめて発売日前日の深夜行列にならんだ作品であり、シリーズの中でも特に思い入れが深い。冷静に考えれば、6千円ほどをにぎりしめた小中学生が、オモチャ屋の前に大挙してならんでいるのは、強盗やカツアゲの養殖漁場みたいなもので、その野放図さが昭和だと言われれば反論の余地はないが、令和の感覚に照らすと、なぜ親たちがあれを許可したのかわからないし、教師や警察や補導員もいったいなにをしていたのか不思議に思う。そして、朝日の差す社宅の居間で、興奮にふるえながらカセットをさしこんで電源を入れると、真ッ黒な画面に白抜きで「DRAGON QUEST III」とだけ表示されたときの気持ちを想像してみてほしい。当時、全国の母親たちがとまどいをもってゲームを「ピコピコ」と表現したように、ファミコンの隆盛は多くの良識ある大人にとって、理解不能の病原体に我が子の精神を狂わされてしまうような経験だったと推察する。さらに、個人が経営する町のゲームショップなどは、つど流行りものに便乗するだけの、まっとうな仕事につけない悪い大人がする商売という感覚も多分にあったため、「だまされて、パチモンをつかまされた?」という考えが、まずはじめに脳裏をよぎった。あとからふりかえれば、カセット容量をギリギリまで捻出するための「ロムの伝説」だったのだが、背後に流れるかすかなノイズを聞きながら、しばし茫然とした時間を過ごしたことは、いまでも忘れられない。そんなわけで、ファミコン版ドラクエ3は現実での経験や感情と強くひもづいた、魂の深い部分へ不可分に癒着する、良性だか悪性だか判然としない腫瘍みたいなものなのである。余談ながら、もっとも印象的なドラクエ音楽のひとつであるこの「ボー」というノイズが、どのCDにも収録されず、ドラクエコンサートで演奏されたためしがないというのは、どうにも信じられない。ただ観客席に「ボー」というノイズが流れ続けるのを、「4分33秒」ばりにシレッとやってほしいところだ。

 さて、思い出ばなしはこのくらいにして、ファミコン版は数十周、スーパーファミコン版は数周、ゲームボーイカラー版は1周だけした程度のドラクエ3ファンの中央値から、今回のリメイクの気になる点(穏当な表現)を順にあげていこうと思う。まず、36年という長い歳月を経て、スーファミ版がドラクエ3の定本のようなあつかいを受けているのに、一抹の寂しさを禁じえない。本リメイクもご多分にもれず、システムの根幹部分はスーファミ版のガワを巻きなおしたものになっていて、より正確なタイトルは「SFC版ドラクエ3リメイク」であろう。正直に言えば、辛辣きわまる性格診断の導入があまり好きになれなかったし、もしかすると近年の若人の目にはどの結果も、異様なネガティブさで響いてしまうのではないかと危惧している。なので、勇者の性格はほぼ唯一、精霊ルビスがベタ褒めするところの「ごうけつ」一択であり、仲間には「きれもの」と「セクシーギャル」しかいなかった(ところで、セクシーギャルって性格なの? ホーリー遊児の性癖じゃないの?)。ロマサガ2リメイクと同じく、本作でも3段階の難易度が用意されているのだが、あちらはオリジナルの超難度をどうにか現代に再現するための、やむをえない措置だった。万人むけのバランス調整で鳴らすドラクエでこれをやるのは、高級料亭へ入ったはずなのに、卓上に塩・胡椒・醤油・ケチャップ・マヨネーズ・ニンニクのすりおろしなどが置かれており、ゴシック体でデカデカと「ご自由にご調味ください」と印字された黄色いテプラが、ベッタリ貼られているようなものだ。料理人がギリギリの、これ以上はない調整を行った最善と信じるものが客に出され、各自の口腔にて一期一会のケミストリーを起こす。それは接待の席かもしれないし、なにかの記念日かもしれないし、はたまたフラッとのれんをくぐっただけかもしれないが、至高の品々とそれぞれの人生が交錯するからこそ、一晩かぎりの唯一無二な体験が起きあがるのである。ゆるい軟便のようなイージーや、骨を抜いた魚のようなノーマルは言うにおよばず、ハードでさえファミコン版に比べるとプレイヤーに有利な要素が多すぎ、オリジナルのドラクエ3体験を再現しているとは言いがたい。レギュレーションが選手全員に対して同一であるからこそ、自由度の高さから工夫の余地が生まれ、その試行錯誤から達成感やドラマが生じるのであって、難易度をいつでも変更できる本作の仕様は、誤解を恐れず言うならば、パラリンピックと同じ競技性に堕しているのである。つまり、「車椅子ホニャララで生涯無敗って、ギアが高価すぎて競技人口が限られていて、そもそもまともな対戦相手がいないだけじゃないの?」みたいな疑問を投げかけられた選手のような気分にさせられるのだ(絶対に勝てるニッチ分野を探しだす嗅覚はすごい)。

 つい興が乗って言い過ぎてしまったが、難易度変更以外の部分でも、「ダンジョンの奥深くで半壊するパーティ」「体感蘇生率30%以下のザオラル」「枯渇するMPと1回の使用で砕ける祈りの指輪」というヒリヒリ感はのぞむべくもなく、「魔法以外の多様で多彩な全体攻撃」「体感蘇生率80%以上の謎呪文ザオ」「レベルアップで全快するHPとMP」というぬるま湯のような仕様になっているのである。ファミコン版のドラクエ3は、「とぼしいリソースを管理して、なんとかやりくりする」ゲーム性だったのに、本作は「豊富なリソースを、好き放題に蕩尽する」方向へ、その本質を変じてしまっていると指摘できるだろう。次にゲーム全体のルックス(笑)ーーリメイクを重ねるごとに戦士の価値が減じていくが、その問題はまた別の機会にするーーへ触れていくと、精緻に描きこまれたグラフィックは、「光と影の明暗」「水のきらめき」「そよぐ風」「大気のゆらぎ」までもが豊かに表現されており、全体的な縮尺が上がったーー建物の壁が高すぎる問題はあるーーのもあって、壮大な冒険”感”を演出することに、成功しているとは言えるかもしれない。ただ、「HD-2Dリメイク」という珍奇な表現で先行的に言い訳が成されているのだろうが、3D空間なのにいっさいカメラを回すことができず、おまけに障害物の背後に移動しても透過しないため、慣れないうちは町中でしばしば自キャラを見失うハメになった。いきおい、ミニマップばかりに目がいくようになり、おまけに初めて訪れるロケーションにおいても、完全に踏破された状態の地図が表示される(なんで?)ものだから、探索の喜びとグラフィックの価値は大幅に毀損されてしまっている。

 また、自キャラとモンスターは、だれのどういうジャッジか、解像度の高い背景から浮きまくりのドット絵で描写されており、「オリジナルの持つ暖かみを大切にした」みたいに喧伝しているのだが、これを喜ぶのは36年前に小中学生だったオッサンとオバハンだけだろう。あらゆる仕様において、親切を大きく越えたプレイヤーへの甘やかしを敢行し、令和の新規層へバチバチと目くばせを送りながら、肝心かなめの部分で安易な昭和レトロ(笑)に逃げているのである。例えるなら、ラップも容器も使わず素手でじかに握っていた当時のオニギリを「オフクロの味」と表現するみたいなもので、令和の衛生観念からすれば、とても口に入れられるようなシロモノではない。「ばあちゃんのオニギリはあったかくて、特別な味がした」ってそれ、ボットン便所で用を足してから八切りの新聞紙で尻をふいたあと、モンペを引きあげた手を洗わずに握ったため、手の常在菌と黒インクと大腸菌が米の表皮に付着しているだけですからね(ちなみに、うちのオニギリは化粧水の味がした)! バトルに関しても、モンスターのドット絵による動きを作りこんだ時点で力つきた感じで、制作中の画面でだれもが期待したような、プレイヤー側の攻撃や魔法がクォータービューでとびかうことはなく、コマンド入力時にキャラの背中だけを見せる「予告編詐欺」みたいな仕上がりになっている。正直なところ、ドラクエ11の素材とデータをそのまんま流用して、適宜2Dと3Dを切りかえられるあのシステムで作ったほうが、はるかに安あがりで工期も短くすんだのではないかと真剣に疑っている。

 さらに細かい点をあげれば、ルーラが天井無視でMPゼロの単なる「どこでもファストトラベル」ーーダンジョンを含めたすべてのロケーションがリスト登録されるのも気にくわないーーと化したせいで、キメラのつばさとリレミトの役割が完全に死んでいたり、バシルーラの効果が「酒場へ強制送還」ではなく「その戦闘のみ離脱」になっていたり、ガイドマーカーと「おもいで」の機能が完全にカブッているのに閲覧頻度の高い「つよさ」を押しのけてウィンドウの上位階層に入っていたり、ゲーム性の核の部分を変更しておきながら何の調整もせず放置された残骸が散見され、「本当に日本人はゲームを作るのが下手になったなー」と、思わずため息がもれてしまった。追加要素も首をかしげるものが多く、テドンの新規ボスは3回以上攻撃しないとたおせない高体力なのに仲間を無限呼びーーアルファベットが一巡してAに戻ったときは、コントローラーを投げつけそうになったーーしたり、サマンオサ初回訪問時の印象的な葬式シーンになぜかボイスがついていなかったり、おそらくホーリー遊児がこれまで担っていた「ゲーム全体を見通す一貫的な視点」が欠けているように感じられるのだ(1メッセージ中に「時」と「とき」の表記が混在するのを見つけたときは、暗澹たる気持ちになった)。これだけブツブツと文句を重ねながら、3日ほどでネクロゴンドまで進行しているのだから、ここまでに指摘した部分以外(どこやねん!)は、もしかするとよくできているのかもしれないことは、最後に付記しておく。

 昭和のやっかいなオタクによる、陰鬱なダウナー批評という印象を結部で弱めるため、当時、関西局所で流行っていたドラクエ3のフィールド音楽の替え歌を披露しようと思う。冒頭部分から、いっしょに歌ってほしい。さんはい、「ナワでーしばりー、ムチでーたたく、これがほんとのーマゾなのー、おねがいー、おねがいー、すてーえなーいでー……(ドラクエとは似ても似つかぬ転調)ってなこと言われてその気になって、女房にしたのが大まちがい! 炊事洗濯まるでダメ! 食べることだけ3人前! ひとこと文句を言ったなら! プイと出てゆき、はい、それまーでーよー……ぼーくーは泣いちっち、横むいて泣いちっち」。脳内で勝手に転調したあとの歌詞の正体がなんなのか、いまだにサッパリわかっておらぬのだが、記憶の澱として記述して終わ……なに、シルエトだと? バカモノ! 女戦士の乳当てなどより、こっちのほうがよっぽど大問題だわ! 変更することで、逆に「ホログラム幽霊」以上の意図があったように思われるだろうが! いっそ、バーン・ゼム・オールとかに改名してやろうか(ゼムの指すものを答えよ)!

雑文「Update of Romancing S…TARRAIL」(近況報告2024.11.7)

 ロマサガ2七英雄の逆襲、1周目をノーマルでクリア。プレイタイムは50時間ほどで、かなりガッツリと楽しませてもらった計算です。いにしえのスクエアにおなじみの、踏破に軽く数時間はかかる「ラストダンジョン」という名前のラストダンジョンを進軍しながら、「高速ナブラ」とか「乱れ雪月花」をはなっていると、未来への焦燥と自棄の放埒が同居していた学生時代のあの午後に、精神がタイムスリップするような感覚をいだきました。ほぼほぼ技と術は閃きつくしており、もはや作業としか呼べない最適化された行動のくり返しなのですが、それに安らぎをおぼえるのは、もしかするとファミコン時代のコマンド式RPGが、当時まだ病名の存在しなかった精神類型を持つ人々にとって、ある種のセラピーとして機能していたからかもしれません。カウンセリング室のカウチに深く身を沈めるような穏やかな時間はやがて終わりをむかえ、ラストダンジョンを永久に周回することへ後ろ髪を強く引かれながら、最終バトルへと突入してゆきます。スーファミ版は、たしか七英雄をたおせないまま投げだしたように記憶しているので、じつに30年越しのリベンジ(!)というわけです。まず、ラスボスの外見を描写しておくと、宙空に浮かんだ虹色ミートボールから七英雄の上半身だけが次々に生えてくるという、あらためて3Dモデルで見せられると、なかなかに気のくるった造形となっています(ただ、全員が生えそろったあとに、「七英雄」のキャプションが出現するところは、当時の1枚絵を再現していて、メチャクチャかっこいいです)。

 ドキドキしながら高火力技を連続で入力してゆくと、危なげなくゲージを半分まで削れてしまい拍子ぬけしていたら、オリジナルには存在しなかった「七英雄の七連携」による反撃をくらい、一瞬でパーティを壊滅させられたのには「さすがロマサガ2」と、落胆とも安堵ともつかない深いため息がもれました。調べても調べても、まともな攻略情報にたどりつかないのは、長い歳月を煮つめたスーファミ版の攻略サイトのせいか、数年前に発売されたリマスター版のせいか、はたまた本作が25万本ほどしか売れてないせいかはわかりませんが、ここで少し脱線をして、あとから来る人たちのために、七英雄の私的クリア手順を残しておくとしましょう。ラストバトルのオススメ陣形はもちろん、他をすべて無意味にするほど強力なラピッドストリームです。術役は2枚用意して、それぞれ「レストレーション」と「光の壁LV.2」を覚えさせ、毎ターンの詠唱を分担しましょう。さらに、アタッカーをふくめて「リヴァイヴァ」持ちを3枚用意して、敵の攻撃が弱かったターンに術役優先でかけてください。攻撃技は「乱れ雪月花」と「千手観音」がよく通るようです(「無明剣」は高ダメージですが、フィールド属性によるボスの回復を誘発するため、トータルでマイナスになります)。言うまでもないですが、「テンプテーション」と「ソウルスティール」の見切りを全員にセットしておくのも、お忘れなく! あとは、七連携によるパーティ半壊から、うまく態勢を立てなおせれば、勝利は目前です!

 閑話休題。ロマサガ2リメイクの評価をクリア後の視点からざっくり申しあげますと、「ゲームシステムとバランス調整は最高」「干支2周ほど遅れた品質のグラフィックは最低」「新規テキストはふんぷんたる臭気をはなつスカム」とでもなりますでしょうか。オリジナル版の七英雄は、ゲーム内でほとんど情報が示されないこともあり、謎のベールにつつまれた、非常にミステリアスな存在でした。今回のリメイクには「七英雄の記憶」として、「英雄たちは、いかに人類へ弓を引くようになったか?」の舞台裏を描写する15本の連作ムービーが用意されているのですが、これがまあ、本当にどうしようもない、もっとも控え目かつ上品に表現してさえ、カス・オブ・カスみたいなシロモノなのです。彼らが怪物に身をやつしてまで打倒を試みた相手が例の女王アリーーおそらく、エピローグにおけるリソースの都合ーーだったり、陰キャのクジンシーに対して陽キャの男女6名でイジメ的な言動をくり返したり、原典ではあれだけ魅力的に思えたキャラクターたちの個性を、まるで老婆の娼婦を白日の下に引きずりだすかのように、太陽光に劣化したプラスチックがボロボロとくだけるように、おまえの大切な記憶とやらは「くだらない、子どもだましのゴミ・オブ・ゴミ」だったのだと、執拗に上書きしてくるのです。きわめつけは、7人がアリの討伐から徒歩(笑)で凱旋したさいに、ひとりの子どもによる「7人のヒーローたちだね!」という発言を聞いた大人たちが「七英雄!」を連呼しはじめるシーンで、怒りのあまりあやうくコントローラーを画面に投げつけかけました。オリジナルでは、古代の戦争や各地の神話や古典の戯曲に由来する重厚な言葉だった「英雄」が、軽々しくもペラッペラなマーベル由来のアメコミ概念に置き換えられてしまってるんですよ! 中卒・高卒が構成員の大半を占めるかつての社会では、英単語はハイセンスな魔法のように響いたのでしょうが、令和のそれは当たり前のインフラ・イコール・下水道にすぎないでしょう。「ヒーロー」という単語にいまだ特別なマジックを感じるようなアホが、ボクらの七英雄を目の前でさんざんにテキスト・レイプするのを見せられる屈辱といったら! 王国の支配階層や七英雄たちのそもそもの行動原理も支離滅裂かつ意味不明なもので、あのスクエアがゲーム専門学校に通う学生の習作レベルを客へお出ししている現実に、もはや目をおおって天をあおぐばかりです。

 ある疑惑が確信へと近づいたので、いっときの感情で下品にブチまけてしまうと、かつてテレビや映画やアニメの各業界に全共闘の闘士たちが流れこんだのと同様に、ゲーム業界が就職氷河期のハイスペック無内定者たちの受け皿になっていた時期が存在し、業界の輝かしい一時期を作りだしていた事実は、あるんじゃないでしょうか。それがいまや、旧帝大の上澄みは外資コンサルに流れこみ、中上位の私立大の学生さえ、その空隙を埋める形で国内の大企業に席を得ることができてしまう就職状況の帰結として、ゲーム業界にはかつてのようではない、ロースペック人材しか漂着しなくなっているのかもしれないなと、ロマサガ2リメイクへの失望(主にシナリオ)から、ここに吐き捨てておきます。同時並行で崩壊スターレイルの「美少女忍者編」をプレイしていることをお伝えしていましたが、ニンジャスレイヤーそのまんまな世界観に、「しょせんは、大陸産のコピーキャットよ」などと唇の端をゆがめる軽い侮蔑からはじまった視聴が、ストーリーを進めるにつれて、カウボーイビバップのマッド・ピエロ回のような全容が立ちあがってきて、奇矯な彼女の言動は過酷な成育環境から文字通り、おのれの心身を守るための「忍者バリヤー」とでも呼ぶべき、精神防壁の一種だったことが明らかになるのです。この、小鳥猊下を名乗って25年が経過する疑似パーソナリティや、もしかすると肉の現実における本体の人格と言動さえ、劇中に語られる「忍者バリヤー」と等価なのかもしれないと遅れて気づいて、その妖しくも滑らかな語り口に、背筋がゾッと寒くなりました。彼我のシナリオが持つクオリティの差は、もはや天文学的な単位でしか表現できないとさえ言えるのかもしれません。

 しかしながら、トリリンガル以上を駆使する理系の博士号を持った人物たちによる崩壊スターレイルを、モノリンガルさえ満足にあやつれない専門学校卒のシロウトたちによるロマサガ2リメイクが確実に上回っている要素は、まちがいなく存在するのでした。それは、この場末のテキストを記述しているあいだにさえ、絶え間なく脳内に鳴り響き続けている、ゲーム・ミュージックです。崩壊スターレイルのピノコニー編で、ずっと不満に思っていたのは楽曲の弱さで、銀河の歌姫であるはずのロビンが、リン・ミンメイにもランカ・リーにもなれなかった事実に内心では失望していたことへ、いまさらに気づかされた次第です。今回、彼女が銀河のラッパー?としてマイクをDJコントローラーに持ちかえて臨んだ野外コンサートも、映像の美麗さに比べると音楽部分があまりにショボすぎて、まったくと言っていいほど耳に残りません。それに対して、ロマサガ2のバトル・ミュージックは50時間中40時間を聞き続けたせいでしょうが、油断すると頭蓋の内側で勝手に演奏されはじめて、もはや日常生活に支障をきたすレベルです。(満員電車の座席で、スーツ姿の男が跳ねるように起立し、よだれを垂らしながら)ぱーぱらぱぱっぱーぱーぱらぱらぱー、ちゃーちゃらららっちゃーちゃーちゃららららー、ぱーぱらぱぱっぱーぱーぱらぱらぱー、ちゃーちゃらららっちゃー、ちゃーちゃららららー……あかん、またプレイしたくなってきた! セブン・ヒーローズ(笑)のフヌケた裏の顔は見なかったことにして、グラフィックのダメさは薄目で物理補正して、冥術と陣形の取りのがしを埋めるために、いまからベリーハードの2周目いってきます! やはり、ゲームのバランス調整とBGMは、まだまだ半島や大陸のおよばない、本邦のお家芸ですね! ロマサガ2リメイク、新規のライティング部分は本当に、なんの擁護もできないほど、クソ・オブ・クソなんですけどね!

ゲーム「ロマンシング・サガ2:リベンジ・オブ・ザ・セブン」感想

 ロマンシング・サガ2:七英雄の逆襲をプレイ中。まず、近年の洋画につけられた悪いカタカナ邦題を逆輸入したサブタイトルに苦言を呈しておくと、”オブ”入りの場合は日本語の機序を無視するため、きわめてダサくなるという審美眼ぐらいは、養ってほしいところです(おそらくリベンジ・オブ・ザ・シスのパクりで、ウェイ・オブ・ウォーターに背中を押されたのでしょう)。崩壊スターレイルの「ピノコニー学園編」序盤を視聴し、ニンジャスレイヤーそのまんまな美少女忍者の言動にゲラゲラ笑ってから、非常にゆかいな気分で目尻の涙をぬぐいつつ、本作を起動してオープニングをながめたとたん、デプレッションの井戸の底の底までストンとまっすぐに気持ちが落ちました。ホヨバの手がける世界最高水準の3DCGを見た直後だと、モデリング・モーション・カメラワークなど、ゲームのルックスに関わる部分が、すべてプレステ2の水準にとどまっていて、25年前の就職氷河期の入口まで、人生の強制ZAPをくらったような感覚を味わわされたからです。

 以前からくりかえしていますように、「本邦の衰退」という言葉を聞くとき、それをもっとも実感するのは、スクエアというファミコン時代の絶対ブランドーースクエニ? なにそれ、こわーーだったゲームメーカーが、その技術とセンスにおいて、完全に時代遅れになってしまっているのを目のあたりにする、今回のような瞬間です。深い悲しみにつつまれながら、クジンシー打倒を進めていくのですが、崩スタの饒舌なシナリオを目にした直後だと、リメイク用に追加されたとおぼしきテキストが、声優の下手クソさもあってか、寒気のするほど幼稚な内容に響いて、近年の商業作品が持つクオリティに達しているような気さえしません。かつて、簡素なテキストとチープなドット絵を無限の想像力で補完して、脳内にくり広げられていた壮大な帝国興亡史の正味は、じっさいこの程度のものだったのかと、ひどく落胆させられました。タイムラインに好評価しか流れてこないのは、直近で言えば室井慎次のような、思い出補正の「氷河期ホイホイ」だったのだろうとコントローラーを置きかけたところ、3代目の皇帝に代がわりしたあたりから、独自のシステムと戦闘の軽快さが欠点をまさってきて、がぜんおもしろくなってくるのです。

 オリジナルはウィザードリィと同レベルの不親切なゲームで、イベントのフラグ管理は紙と鉛筆と記憶力でするしかなく、戦闘難度の高さからプレイの手順次第では、簡単にゲーム進行不能の”詰み”状態に陥ってしまうぐらいでした。その、プレイヤーをつきはなした感じが同時にロマサガ2の魅力になっていて、今回のリメイクは原典が持つおもしろさの本質をこわさないまま、巧みにユーザー・フレンドリーを作りだしていることも、ショボい(失礼)グラフィックに慣れてくると、次第にあきらかになってきます。誇張ぬきでプレイ時間の70%以上を占めるだろうバトルは、高火力を押しつけあう「殺られるまえに殺る」バランスで、ヒットポイントがゼロになるとライフポイントが失われ、ライフポイントがゼロになるとウィザードリィばりの擬似ロストーー本家とちがって、すぐに同じ能力の後継を雇えるためーーを体験でき、非常に緊迫感あふれるものになっています。「ゲーム中はデメリットなしで、いつでも難易度を変更できる」という仕様によって、令和の御代に平成前期のゲームバランスを再現しているのですが、「ノーマルが充分にハードで、カジュアルもイージーとは言いがたい」のは、ロマサガ2本来のゲーム性を守るための、かなり攻めた調整だと感じました。

 システム由来の没入が深まると、つたないグラフィックやテキストも、こちらの想像力による補完をゆるす対象に思えてくるから、不思議なものです。オリジナルをプレイしていた当時とはちがって、塩野七生の「ローマ人の物語」をすべて読み、サピエンス全史の記述から「帝国なる現象」への解像度が格段にあがっているため、脳内に仮構される物語はいきおい陰影に富んだ重厚なものとなり、この胸に大きな感慨を引き起こすのでした。それとは対照的に、原神にせよ崩スタにせよ、ホヨバのゲームは最高レベルのグラフィックと完成されたテキストゆえに、プレイヤーが行間を埋める余地をほとんど残していません。もしかすると、半島や大陸で勃興した新進気鋭のゲームメーカーに、本邦が対抗できる唯一の要素は「遊び手へ、想像の余地を与える」ことなのかもしれないーーなどと一瞬だけ考えたものの、1分動画を愛好する昨今の若人たちが、硬く乾いたスルメのごとき、いかめしいルックスをした本作を味の出るまで(3時間くらい)しがんでくれる気はしませんので、やはりタイムラインの盛りあがりは「踊る大捜査の最新作に足を運んで、キャッキャはしゃぐ中高年」と同質のものなのでしょう。

 ここからは完全なる妄言なので、積極的に聞き流してほしいのですが、冨樫義博がFF11の重篤な廃人プレイヤーだった事実を、識者のみなさまはすでに忘れかけてはいないでしょうか? つまり、昔ながらのディープ(ダンジョン!)なスクエア・ファンである彼が、ロマサガ2における最強の体術技である「千手観音」やターム軍団の襲来ーー「アリだー!!」ーーに影響を受けていないはずがないとお思いになりませんでしょうか! さらに踏みこんで言うと、ハンターハンターのアリ編はロマサガ2をきっかけに「閃いた」アイデアであるのやもしれず、だとすれば「創造物による感染」こそが本邦のオリジナルであり、やはり半島や大陸にまさる唯一無二の美点なのかもしれません。あと、タイムラインに流れてきた「3代目以降の皇帝が全員巨乳」という昭和の性倫理な漫画は、ロマサガ2あるあるすぎて、思わず笑ってしまいました。