猫を起こさないように
月: <span>2024年10月</span>
月: 2024年10月

映画「室井慎次・敗れざる者」感想

 室井慎次・前編を映画館で見る。踊る大捜査線シリーズについての印象を言えば、非実在警察署の捜査現場で起こる小規模なできごとをコミカルに描く小品ーー大上段な「大捜査線」とのギャップを笑うーーだったものが、映画版の1と2が空前の超ヒットとなり、それまではフレーバーにすぎなかった「本庁と所轄の対立」「警察機構の腐敗の是正」という、フィクションでは解決しようのない問題へと本格的に着手せざるをえなくなり、2の撮影後にいかりや長介が亡くなってからは、3と4でキャラクターの成長とテーマの前進が完全に停止して、同じ棒の周辺をグルグルと回る犬のようになり、おそらく制作者にとっても不本意な形でシリーズを頓挫させるハメになってしまったのです(もううだれも、2以降なんておぼえてないでしょ? 当時、いっしょに映画館へ行ったはずの家人にたずねたら、「え、3なんてあるの? 4も?」という返答でしたからね!)。

 そして、なにより忘れてはならないのが、大捜査線シリーズは脚本・撮影・音楽などの多岐にわたって、これ以上ないほど明々白々とした、旧エヴァの初期フォロワーだったという点でしょう。話はそれますが、シン・ゴジラにおいて、テレビ版エヴァの象徴である「でん・でん・でん・でん、どんどん」ーー加齢のせいで曲名を思いだせないーーを使ったのも、かつて踊る大捜査線に許諾を与えたことが、Qアンノの一線を越える決断を後押ししたのかもしれないなと、ふと思いました。フィクションの新旧を判断する個人的な基準として、旧エヴァをゼロ地点に置いているため、踊る大捜査線シリーズにはかなり新しいイメージをいだいていたのですが、もう20年以上前の作品であるという事実を前に、あらためて衝撃を受けておる次第です(じっさい、当日の劇場に座っていた客層は中高年ばかりであり、若いカップルなどは一組たりともいませんでした)。

 オープニングで過去作のダイジェストをラッシュで見せることで、脳ミソにウロの来はじめた観客たちに内容を思いださせ、本編終了後には作品内にちりばめられた小ネタの元となる旧作の場面を提示し、エンドロールの末尾で後編の予告をドンと打つーー全体を通じて、きわめて正しいパッケージングで作品が包装されており、さすが腐っても大手テレビ局の仕事だと感心させられました。かつてスタイリッシュで鳴らしたはずの演出も、令和の視点でながめると、スローテンポな浪花節みたいになっていて、演歌が古びていったのと似たような時代の推移を痛いほどに感じます。おしむらくは、私自身が本シリーズの熱心なファンでないことはない(二重否定)ため、完全新規の観客にとって、「はたして1本の映画として、成立しているのか?/おもしろいのか?」に回答できる立ち場にないことです。しかしながら、同行した家人の言を借りれば、「登場人物が役者としてではなく、ちゃんと物語内のキャラクターとして出てくる」ほど、作りこまれた世界観を楽しんだ劇場版第2作までのファンにとって、本作が120点の仕上がりであったことは、やはりお伝えしておくべきでしょう。

 大捜査線シリーズはスピンオフをふくめて、「すでに語りつくされた物語」であり、さらに言えば、劇場興収の誘惑から着地点を見いだせないまま、蛇足的に続編を重ねた「正しく終われなかった物語」でもあります。室井慎次・後編において、現在の「青島君」や「すみれさん」を登場させ、彼らの人生の変遷を描きつつ、「解決はまだ遠いものの、警察の状況はベターにはなった」ことを、現実社会の変化と重ねあわせて語る最後のチャンスを逃さず、今度こそ大捜査線シリーズが真の大団円をむかえることを切に願います。仮に本作がスピンオフの位置にとどまり、5などの本編がのちにひかえているとするならば、それは相当に厳しいと指摘せざるをえません。20年後からふりかえってみれば、このシリーズはいかりや長介の最晩年にレッドカーペットを引いた功績が最大のもので、それを証拠に彼の死による退場と物語の失速は完全に同期しています。いろいろ言いましたが、邦画史上、最大級のヒットとなった作品の末路が4のアレでは、どうにもしまらないじゃないですか。リブートへの余計な色気を廃して、今度こそ大捜査線シリーズを「正しく終わった物語」のカテゴリで上書きしてくれればと、いまは祈るような気持ちでいるのです。

 あと、本作の回想シーンを通じて、ひさしぶりに小泉今日子の怪演を目にしたのですが、昭和のピン・アイドルって「若さに由来する普遍的な美しさ」が消えたのちに、「美しい生き物として愛でていたら、その正体はおそろしい”けもの”だった」とでも言うような、「ほとんど怪物性に近い本領」の立ちあがる人物が少なくない気がします。近年のグロス販売なアイドル集団の中に、長い歳月に耐える怪物性を持った存在がはたしてまぎれているのか、むこう20年を楽しみに待ちたいと思います。

映画「ジョーカー2:フォリ・ア・ドゥ」感想

 ロッテントマトの見たこともないような低評価と、初日視聴組の自分語りと大喜利合戦がタイムラインに垂れ流れるのを横目に、ジョーカー2をIMAXで見てきました。どんなグズグズの映画未満がお出しされるのか、かなり警戒して身がまえていたのですが、実際のところは「脚本よし」「演技よし」「撮影よし」で、一定以上の水準を満たしたクオリティに仕上がっており、ひどく拍子抜けしました。ふりかえれば前作は、ホアキン・フェニックスの超絶的な一人芝居が、DCコミックスの大看板であるジョーカーを完全に凌駕し呑みこんでおり、その後の彼の俳優人生に避けがたい影響を与えてしまうことになった、映画史へ燦然と刻まれる傑作中の傑作でしたが、続編である本作は、その「ホアキン・ジョーカーの解体」をかなり明確に意識して作られていて、「前作ジョーカーのファン」「原作ジョーカーのファン」「バットマン・シリーズのファン」にとって、極めて不愉快な内容だったであろうことは、想像に難くありません。わたしの観客としての立ち位置は「ホアキン・フェニックスのファン」なので、次になにがとびだすかわからない彼の演技に集中して見たため、緊張感は2時間20分を途切れることなく続きました(じつは一瞬だけ途切れたのですが、後述します)。

 冒頭のあの「異形の背中」を見たとたん、ネット情報からの懐疑的な気分はふきとび、「ボーはおそれている」の主人公と同一人物とはとうてい信じられない、マシニストばりの身体のしぼり方に、一気に作品世界へと引きこまれます。小鳥猊下の自認は「失敗した演技者」であるため、母のかけた無意識の呪縛によって、おのれの特性と致命的に反するコメディアンの道を選んだアーサーの挫折と苦しみは、ある種の「自分ごと」として、切実さをもって胸に迫るのでした。映画館の観客席と裁判所の傍聴席で「巨悪の出現」への期待が強くシンクロする中で披露された、アーサーによるジョーカーの演技は、「小人の元同僚が持つ、一般市民の善性」を前にすると、いたたまれなさに目をおおいたくなるような大根役者のそれになっていて、ホアキン・ジョーカーの魅力を徹底的に排除し無化するための「演技の二重性」は、すさまじいレベルにまで達しています。レディ・ガガの起用について言えば、「解毒か解呪のため、観客に飲みこませなければならない、苦い苦い黒色の丸薬」を包む糖衣としてのミュージカル要素を導入するにあたり、ある意味での必然だったと納得はしています。前作の提示するメッセージに激しく共鳴してしまった、学の無い「ストレート・ホワイト・アンド・プア」へと監督の用意した解毒剤を届かせるために、大衆歌謡の人気シンガーの登用は”うってつけ”だったと言えるかもしれません。ただ、彼女に役者としてホアキン・フェニックスへ互する力量があるかと問われれば、はなはだ疑問を呈さざるをえず、引退したケイト・ブランシェットあたりとミュージカル抜きでする、凄絶なメソッド演技対決を見たかったというのが、正直なところです。

 また、ゴッサム・シティとか、ハービー・デントとか、ハーレイ・クインとか、バットマンに由来する設定がもはや雑味にしかなっていないのも悩ましく、その極めつけはジョーカーのシンパによる裁判所の爆破事件でしょう。伏線ゼロからの唐突な爆発の瞬間、「ボーはおそれている」で屋根裏の”おCHINPOモンスター”を見たときと同じくらい、虚構への深い没入から強制的にキックアウトされましたもの! この展開は、「前作の象徴となった長く急峻な階段で、恋人から別れを告げさせたい」という監督のワガママーー必然性が絶無なのでーーをかなえるためでしょうが、この場面を含めたラスト20分の展開は、ちょっとフィクション然としすぎています(アーサーの「歌うのをやめろ」というセリフは、あまりにメタっぽくて微苦笑してしまいました)。ラストシーンにおいて、「ジョーカーの死を、執拗な長回しで観客に確認させる」のも、前作の解体という監督の意志が全面に出すぎており、個人的には「トゥレット症を想起させる例の哄笑が、絞首刑の瞬間に途絶える(ダンサー・イン・ザ・ダーク!)」ぐらいで収めてくれれば最高だったのにと思います。ここまでの感想を最新のネットバズ・ミームでまとめますと、「アーサー48歳、DCコミックス設定なし、ミュージカル要素なし、ケイト・ブランシェットあり……」だったなら、わたしの好みにド・ストライクの映画になったでしょうが、前作ジョーカーのファンa.k.a.低学歴の白人貧困層へは届かなかったにちがいありません。本作への驚くべき低評価は、監督の思いどおりに罹患した人々へと解毒剤がゆきわたった結果であり、いまごろ役者ともども失望する観客たちを見て、ほくそ笑んでいるのではないでしょうか。

 最後に、本作でも提起されている、良家の子女がDV男や犯罪者へ、なぜか好意を寄せてしまうことがある文明のバグにふれて終わります。最近、ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」を読んでいるのですが、「文明の発展はあまりに速く進んだため、遺伝子の変化を置き去りにした。ゆえに我々は、農耕時代の習慣に生きながら、狩猟時代の脳と身体のまま、都市生活を営んでいる」との指摘は、身の回りの様々な事象に説明がつき、いろいろと腑に落ちる感じがありました。すなわち、「逸脱と暴力による資源の獲得」は、生存と繁殖に大きく寄与する要素であり、古い遺伝子の乗り物たる私たち人類が、そこに言語化不能の誘引力を見いだしているのでしょう。くれぐれも若いメスのみなさんは、「狩猟時代なら食いっぱぐれがないだろう、粗暴なアルファ・オス」にどうしようもなく引かれる遺伝子の陥穽へと自覚的になり、現代社会での生存に特化ーー繁殖は知らないーーした理系のオメガ・オタクを伴侶に選ぶよう心がけましょう! それでは、みなさん、ごいっしょに「解呪の真言」をご唱和ねがいます! ふぉりやー、どゎー!(おわり)

ゲーム「原神5章4幕・燃ゆる運命の虹光」感想

 原神の第5章を実装分まで読む。特に4幕について、画面内で起こっていることに1ミリも同調できず、これほど物語に入りこめなかったのは、ディシアの伝説任務ぶりかもしれません。その理由としては、受容のための心がまえができていなかったことが半分、ストーリー展開と演出のまずさが半分、といったところです。まず、今回の魔神任務をシロネンの伝説任務だとカン違いしてスタートしてしまったのが、ボタンのかけ違いのはじまりでした。と言いますのも、なぜか大型アップデートに必ず付随してきたフィールド部分の拡張がなく、「6つの部族から6人の英雄を選出する」という設定から、残りの3部族と呼応する新エリアが登場するまで、メインストーリーは先に進まないという思いこみがあったせいです。ナタのそもそものサイズ感も、宝箱の位置を示すトレジャーコンパスの解放前から、既存マップをすべて達成率100%にできてしまったくらいで、スメールやフォンテーヌをふりかえれば、同サイズの新規マップが当たり前のようにドンと追加されると予想するのは、それほどおかしなことではないでしょう。

 シトラリなる胡乱な人物ーーおそらくセリフの翻訳に失敗しており、中国語原文で読まないとキャラ造形がわからないーーの人探しへ同行していたら、あれよあれよという間に、ご近所の顔見知りぐらいの狭い範囲内で、なぜか6英雄が確定してしまい、ナタの全容も明らかになっていない状態から、アビスとの全面戦争がはじまったのは、旧エヴァで例えれば第拾六話Bパートの途中から、そのまま人類補完計画が発動したみたいなものです。そこから、長時間にわたって離脱できない戦略シミュレーション”風”の特殊モードへと移行するのですが、基本的にストーリーは一本道で、なにをしようと成功裡に進むため、ときおり挿入される勝敗率や損耗率などに、フレーバー以上の意味がまったくありません(FF11のデュナミスをやりたいのかな、とは思いました)。MGSを彷彿とさせる姉妹潜入パートも同様で、元ネタとなる和製ゲームから本歌取りを試みながら、57577の枠組みさえとらえきれていないような有様なのです。残念ながら、これらは中華のコピー商品や偽ブランドと、まさに同じクオリティになっていて、時間に追われた定期更新をそろそろ間遠にし、ガワだけマネた仏に魂を入れるための、テストプレイとリテイク作業を優先すべきだと進言しておきます。

 また、ロシアの上級将校に当たる敵方の人物ーー二つ名はそのまんま「隊長」ーーが、「祖国を戦争で滅ぼされたことがあるので、ナタの防衛に協力したい」みたいなことを言いだしたときには、現実と虚構がオーバーラッピング(笑)し、「オイオイ、どのクチがぬかすねん!」と関西弁による激しいツッコミが入りましたし、パイモンがいちいち民間人の戦死を見て悲鳴をあげるのにも、ほとんど初めて「ウザい」という感情ーー「なに、カマトトぶっとんねん! 悲しいけど、これ、戦争なのよねん!」ーーを抱いてしまいましたし、近所の顔見知り6人による謎の儀式によって、なぜか「全部族の一般人が死んでも復活できる」状態になってからの、アビスに対する大反攻と炎神の「一人ドラゴンボールZ」も、ご都合主義の臭みが強くはなたれた「偽りの昂揚」に感じられました。それもこれも、ホヨバのつむぐ物語には、「現在の社会状況や世界情勢へ向けた、批評的な視点」がどこか含まれ続けてきたからで、今回は「ロシア(相当の組織)と共闘して、なに/だれと戦うのか?」から意図をもって焦点をボカしたせいで、描かれるナタ防衛戦と勝利の喜びは、ウソと欺瞞に満ちたものに映ってしまいます。そうなると、戦争の残酷さを伝えるために、景品表示法から課金キャラは殺せないので、その係累を退場させたのも、作り手の打算的な思惑が透けて見えるようで、どこか鼻じろむ感じはありました。

 正直なところ、今回の第5章4幕においては、世界の実相に迫ろうとしながらも、深さが足りずに座礁した印象があり、ホヨバの苦手分野での底の浅さが割れてしまったことで、日本ファルコムやタイプムーンの「世界の深奥には迫らない、なぜなら売る商品がなくなるから」という姿勢は、もしかすると企業体としては正しいのかもなー、とほんの一瞬だけ思ってしまったことをお伝えしておきます。ただ、本編のあとに解放されたシロネンの個別ストーリーは、「母なる狂気」をミステリーじたてでネチッこく描いていて、あいかわらず最高でしたね。シロネン本人も「情に流されない、冷静かつ理知的な工学系ギャル」として、大いに株を上げました(レベルMAX、スキルMAX、聖遺物は軽く厳選ずみ)。やはり、中華のフィクションは大所高所から天下国家などを語らず、「家族の物語」「時間のSF」だけを書き続けるべきなのかもしれません。この2点においてだけは、まちがいなく他国の追随をゆるさないクオリティですもの!

雑文「シン・ヤマト(仮)制作発表に寄せて」

 ごくごく一部のみなさんは知りたがるかもしれませんので、スタジオ・カラーが宇宙戦艦ヤマトの制作を発表した件にまつわる私的な感情について、イヤイヤお伝えさせていただきます。以前、「シン・ウルトラマンシン・仮面ライダーときて、シン・ヤマト、御大が旅立つのを待ってからシン・ガンダムを作れば、昭和のオタクにとって完全なアガりですね」みたいなことを冗談みたいに書きましたが、これまでのところ、Qアンノの動きは忠実にこの予想をトレースしてきています。さっそく話はそれますが、シン・エヴァンゲリオン最大の功”罪”は、「シン」という接頭辞を同作のフォロワーであるクリエイターたちばかりか、一般企業や官公庁までが、アホみたいに使いだしてしまった点にあるでしょう。一時期、ビートルズ・ソングがテレビCMを席巻したことがありましたが、あれから十数年、組織内の世代交代はさらに進み、いよいよ数少ない氷河期世代の生き残りたちが現場の実権をにぎりはじめたようです。旧エヴァ当時ならば、上長に鼻で笑われて却下され、お追従の取り巻きに社内イジメのターゲットにされたようなオタク事案について、スーツ(吊るし)の居ならぶ大マジメの会議で決定するという「ギーク・ストライクス・バック!」な舞台裏が、まざまざと目にうかびます。

 個人的に、「”シン”を嬉々として使うヤツは、絶望的にセンスと審美眼の欠如したカス」であると心中に断じており、リトマス試験紙的に機能することだけが、唯一のメリットだと言えるでしょう(余談ながら、呪術廻戦で「シン・陰流」の表記が出た瞬間、反射的に電書のブラウザを閉じました)。だいたい、サラリーマンが電車で漫画雑誌を読んでいることが批判的な論調で話題となり、中高生になってもテレビゲームをやめようしないことを親に泣かれた経験がある(やだなあ、例え話ですよ!)昭和世代のオタクの感覚からすれば、還暦を越えたいい大人たちが、衆人環視の壇上で「ガンダムは1話が最高で」なんてニチャクチャしゃべってるのは、たいへんに「情けなくも、気味の悪い」光景として映るわけです。令和の御代において、オタクがウッカリ市民権を得てしまったことに、いつまでも戸惑いが消えない同世代の方々は、ご自身に内在化した古いオタク批判に照らして、このエゲツない物言いにも多少は共鳴するところがあるでしょう。

 おそらく、Qアンノが左脚を複雑骨折した件と密接な関わりを持つだろうこのたびの顛末は、原作者が亡くなるのを待ってから権利者に許可をとりに行っている事実からも、「好きなクリエイターに嫌われたら泣いちゃうけど、ただの権利ホルダーならエヴァの看板で遠慮なくブンなぐれる」という思惑が見え隠れするところが、最高にキモチワルイです。きっと、シン・ガンダムの企画も「天気待ち」ならぬ、御大の「死亡待ち」をしているんでしょうし、すでに公私ともズブズブにとりいることによって、口頭での約束を得ているシン・ナウシカと、どちらの制作へ先に入れるのかが、エヴァを壊した手腕から、作品の中身にはいっさい興味のない外野にとって最大の関心事であり、昭和オタク史の終着点をながめるがごとき無責任の娯楽であると言えるでしょう。「宮崎翁にはシン・ナウシカを見てほめてもらいたいが、富野翁にはぜったいにシン・ガンダムを見られたくない」というオトコゴコロの決着は、「両御大のうち、どちらが先に鬼藉に入るか?」への回答に、あらかじめ結論をブン投げているのです。そして、Qアンノが作りたい順番は、まずまちがいなくガンダムが先でしょうから、後者のケースがもっとも彼のオタクゴコロを利することになるでしょう。

 業界における不可侵のスメラミコトと化した人物に、私たちが観客席からできる最大の嫌がらせは、ハゲの御大が白髭のおんじより1日でも長生きするよう、神に祈ることだけです。ロングリブ、トミノ! ゴッド・セイブ・ザ・ハゲ!

映画「ボーはおそれている」感想

 「ボーはおそれている」をほんとうに、心の底からイヤイヤ見る。最近では、「2時間30分以上の映画には、監督のオナニー要素が必ず入りこむ」との確信を強めており、「3時間な上に、アリ・アスター」という事実だけで、相当に視聴する意気をくじかれます。しかしながら、ジョーカー以降「ホアキン・フェニックス主演の映画は必ず見る」という誓約をおのれに課しているため、陰鬱なるドカチンの日々から無理やり3時間を捻出して、まったく気のりのしないまま、シアタールームのソファにほとんど身体をしばりつけるようにして、視聴を開始したのでした。ここにいたるまでの心象が最悪だったせいでしょう、すべてが主人公の妄想か幻覚か走馬灯か判然としない最初の1時間は予想外に楽しく見れて、ヒステリー少女のペンキ鯨飲から外科医の家を脱出するくらいまでは、それこそデビッド・リンチの新作ぐらいの印象が維持され続け、我ながら異様に高い評価を与えていました。それもこれも、ホアキン・フェニックスによる精神遅滞の演技がすばらしく、いちいち動きがスローで言葉の出にくい中年男性の様子は、いらだちで観客を作品世界に引きこむ奇妙な魅力があり、レインマンやフォレスト・ガンプやアイ・アム・サムに連なる傑作なのではないかという期待さえあったのです。けれど、物語が進むにつれて、アリ・アスターの「見せたい絵ヅラと予定調和的な不幸がストーリーラインに優越する」という個性と言いましょうか、悪癖が頻繁に顔を出すようになると、次第に虚構が壊れはじめると同時に、きわめて西洋的な理屈っぽさが浮かびあがり、没入の熱が急速に冷めていくところは、ミッド・サマーと同様の体験でした。

 シーンごとまるまる削除してもストーリーになんの影響も与えない、絵に描いたようなスネーク・フットである演劇村パートーー「お父さんは童貞なのに、どうしてボクたちが生まれたの?」「(無言)」ーーを終えると、いよいよ「三流の監督がパンチの足りない自作に加えるのは、決まってエログロである」を地でいく展開となってゆき、屋根裏の「おCHINPOモンスター」ーー「ドヤッ! 自宅のバスルームでチラ見せし、外科医も指摘していた睾丸肥大という伏線を、みごとに回収したったで!」ーーがメガテンのマーラ様ばりに暗闇から出現した瞬間に目が点(笑)となり、心の機微は上下動を失って真一文字のフラットラインへと変じ、わずかに残っていた作り手への敬意も完全に雨散霧消して、そこからエンディングまではケイタイをさわりながら、ただスクリーンを”ながめて”いました。最後のコロセウムにおける弾劾裁判ーー怒れる母親の握力で手すりが外れて水面に落ち、スローモーションで水冠があがる、映画史上もっとも無意味な演出ーーを見ながら、このタワーリング・シットを一瞬でも大デビッド・リンチの名に比肩させてしまったことを、深く恥いる気持ちになりました。アリ・アスターの創作態度は、「観客をとことんイヤな気分にさせてやろう」という負のモチベーションを基軸としていて、正直なところ、ストーリーテラーとしては三流以下の力量しかありません。視聴を終えたいま、本作はルーパーとかノープとかザ・メニューとかラストナイト・イン・ソーホーとかターみたいな「雰囲気クソ映画」の系譜に連なるものであったことがわかりました。センスの良さを自認する若い芸術かぶれの方々は、こういった映画をついほめがちですが、あんまり声を大きくしすぎると、ライアン・ジョンソンにスターウォーズを壊されたのと同種の悲劇を、再び地上へまねくことにもなりかねません(もっとも、スターウォーズ級のIPなんて、もう人類には残されていないのですが……)。

 そして、ボーの支離滅裂な被害者としてのふるまいが、人類の運行にカケラの影響もない娯楽の範疇にとどまればよかったものを、監督がインタビューに答えた「この映画はユダヤ人の内面を表している」という発言によって、ミドル・イーストで進行中の惨禍へ向けた命題として焦点化してしまいました。すなわち、この世紀の大凡作には「ジューはしいたげられている」という視点が混入してしまっており、主人公のする「あれだけひどい目にあい続けて、これだけ面と向かって罵倒されたんだから、突然の激情でウッカリ相手を殺すまで首をしめても、過剰防衛なんてヤボは言わずに、”I’m sorry.”だけでゆるしてくれるよね?」というウワメづかいの哀願は、まさに遅滞した精神そのものの恥ずべき痴態として、世界から強く非難されるべきものとなったのです。ホラ、いつまでも過去のうらみにブンむくれてないで、住む場所をタダでもらったことと、地域の新参者として共生させていただいていることを、右や左のダンナ様に心から感謝しなきゃダメでしょ? ありあすたー(ありがとうございました)!

ゲーム「FGO奏章III:アーキタイプ・インセプション」感想

 FGO奏章III:アーキタイプ・インセプションの後編を読了。ファンガスと制作陣のハワイ慰安旅行がルルハワへと化けたように、我々の課金をふんだんに使用したドバイへのお大尽ツアーが今回の水着イベントへと結晶したのだろう現実に微苦笑していたら、物語はいつのまにか奏章に変じたかと思えば、急激に加速しながらグングンと上昇してゆき、ついにはブルジュ・ハリファをはるかしのぐ高い位置にまで到達していました。エジソンやバーソロミューという、記号でしか内面を造形できない他ライターによるトップクラスに「悪い見本」である死にキャラたちを、彼らの生き方へと優しくよりそうことで見事に再生してみせた手腕は、ファンガスにしかできないと信じさせてくれるものです。「ビーストを見逃したことが、結果として人類を救う」展開は、指輪物語における「ゴラムを殺さなかったビルボの慈悲が、長い年月をへだてて、すんでのところで世界の破滅をふせぐ」の変奏になっていて、もうそうなることは半ば以上わかっていながら、いざその場面をむかえる段になると、「ずるいよー!」などと言いながら、泣き笑いに嗚咽するハメになるのでした。BBドバイなんて、ふざけた名前の過去資源再利用キャラに向けた小さな嫌悪感からはじまった旅路が、他ならぬ彼女の「あれだけがんばってるんだから、まちがうに決まってるじゃないですか!」という直球のセリフーークリプターのリーダーが言う「人間はみんな、がんばっているんだよ」に呼応しているーーにガツンとやられて、号泣させられるところへまでたどりつくとは、「稀代のストーリーテラー」という称号に恥じぬ書き手であることを、再確認した気持ちになっております。

 ファンガスの作家として特異な点を挙げるならば、「英霊システム」という、おそらくファミコンを「ピコピコ」と吐き捨て、蔑視の対象としていた我々のひとつ上の世代にとって、完全に理解の範疇外にある荒唐無稽の狭小な設定を用いながら、あらゆる人間に通用する高い普遍性を描いていることでしょう。「なぜかわからないが、泣いてしまう」という評は、弱き者たちへ向ける優しいまなざしと、意図せず大きな責任をあずけられた者が見せる気高いふるまいに、その理由の一端があると考えています。名も無き人々が粛々と生活を積みあげた先で、時に選ばれただれかが名をあたえられ、人類を救う仕事をするーーふだんの生活では決してたどりつかない、「世界のために善行をなしたい」という巨大な感情を自覚させられ、登場人物たちのそれに強く共鳴することによって、涙が流れるのにちがいありません。これは推測にすぎませんが、奏章IIIは過去の持ちキャラを動かしていくうちに、昨今における人工知能の急速な発展に対する思考と強い化学反応が起きてしまい、作者のつもりを越えて「書かされてしまった」物語なのではないでしょうか。ストーリー全体を通じて、あまりにFGOという作品の、もっと言えばファンガスという作家の集大成的な内容になっていて、ここまで世界の秘密を語り尽くした上で第2部の終章をどうするのか、外野ながら心配になるほどです。

 そして、人間を人間たらしめているのは、同時代を生きる他者とつながるための「仕事」であり、「仕事」の本質とは、後世と後生にたくす「継承」であるーー半世紀を創作にのみ捧げてきた人物が、なんのてらいもなくこれを正面から言えることに、わたしは軽い驚きを禁じえません。ゲームアプリという一過性の娯楽に、彼/彼女の才能が費やされていることを嘆く声もあるようですが、いったいなにを読んでいるのだろうと不思議に思います。FGOがなければ、ファンガスの生涯テキスト生産量は現状の10分の1にも満たないでしょうし、このような高潔の思索へと至ることはなかったと断言できます。創作のみで口を糊していける幸運な方々の予後は、あまりよろしくないというのが個人的な観察で、虚構排出を人間の営為の最上に置いてみたり、作品を通じて特殊な政治信条をたれながしはじめたり、”既存のものではない”宗教的な考えにとりつかれだしたり、人生のどこかで世界との接続が曲がるか外れるかして、深く静かにくるっていく。ファンガスの実像がどうなのかはおくとして、書かれているものにそれらの「濁り」が寸毫も、一文たりとも混入しないのは、じつのところ、すさまじい克己によるバランシングなのです。

 今回、死者の訪れなくなった冥界を比喩として、「終わらない物語」「終わろうとしない物語」「終わったことに気づかない物語」の”醜さ”に対する嫌悪感をあらわにした彼/彼女が今後、「終われない物語」となってしまったFGOアプリをどのように定義していくかは、非常に気になります。キリシュタリア・ヴォーダイムの名前が、作中で美しく想起されるのは、彼がFGOという進行形の物語において、ほとんど唯一「終わることをゆるされた存在」だからであると指摘できるでしょう。きわめて重要な奏章IIIが時限イベントにとどまり、結果として主人公の記憶からさえ抹消されてしまうのは、経済と大人の理屈で「死を喪失して」存続していかざるをえなくなったゲームアプリが、「美しく終わることもできたこと」を我々に覚えていておいてほしいからであるような気がしてなりません(蛇足ながら、「喪失の美しさ」と「生き続けることの汚さ」は、我々の心性に歴史がエンベッドした潔癖な倫理感であるやもしれず、そうなれば「英霊システム」の”英霊”も、異なった意味あいをもってひびいてきます)。

 奏章IIIにおいて語られた、いくつもの印象的なエピソード群のうち、個人的にもっとも大きな感銘を受けたのは、エジソンの冥界通信に関する挿話でした。亡くなった妻と話をしたいという欲望は、「死んでから、はじめて大切だったことに気づく」のではなく、ある種の人々にとっての「死んだあとでしか、大切にならない」という宿業、つまりは人外の冷徹さを描いているのではないかと、我が身に引きよせて感じられたからです。BBドバイへと仮託されたファンガスの悲鳴は、「生きているものを、生きているうちに愛したい」という、オタクたちの祈りにも似た願いなのかもしれません。