猫を起こさないように
月: <span>2024年9月</span>
月: 2024年9月

漫画「呪術廻戦」感想(27巻まで)

 連載終了が近いとの報を聞き、ようやく呪術廻戦に1巻から着手する。なんとなれば、遠くはグイン・サーガ、近くはベルセルクと、作者の死去による作品の中絶を幾度も経験してきたため、人生の残り時間を横目にしながら、「もう終わった物語しか読まない」との誓いを立てたからである。冒頭からさっそく話はそれますが、ブルーカラーへのナチュラルな差別意識を披露したゆえの炎上騒動を遅ればせに知り、中卒か高卒の両親を持つ昭和に生まれた人物は、「いい大学を出て、ホワイトカラーの高給取りになる」ことを、旧世代からの怨念に近い強迫として刷りこまれているため、ほんの少しだけ同情する気持ちにはなりました。結局のところ、時代の変遷にともなう「意識のアップデート」とは、古い世代にとって「公の場で口にしてはいけないことがらが増える」だけに過ぎず、心中に居座る「のちに間違っていると断じられた感覚」を完全に上書きするのは、ほとんど不可能に近いと言ってよいでしょう。そして、昭和生まれのオタクにとってさらに根深いのは、ホワイトカラーの上にクリエイターを置いてしまっていることです。このヒエラルキーは、現実社会に対する乖離度に正比例、貢献度へ反比例しているにも関わらず、おのれの仕事の価値をどこか相対的に低く考えてしまうという思考のクセから、いつまでも抜けだすことができません。呪術廻戦を読んでいるあいだ、この胸中にどよもしていたのは、少年ジャンプの歴史のうちで第5世代あたりの、「地方在住のパチンコ好き高卒ヤンキー」的な属性を持つ作者が、おのれの体験してきたオタク文化を悪びれずに剽窃しながら、ブルーカラーとクリエイターの「悪魔合体」を生き生きと体現している事実への感慨でした。毎週月曜日にエッキスのトレンドへと浮上してくるため、単行本に未収録のラスボスとの決着もうっすら知ってしまっているのですが、「高卒ヤンキーのまっすぐな善性」が、彼に主人公としての資格を取りもどさせるという展開は、人の減りゆく時代の問いーー「コンサルや投資家は、はたしてブルーカラーより価値のある仕事なのか?」ーーに対するひとつの回答のような気がしてなりません。

 さて、大上段な放言から、呪術廻戦の内容へと話をもどしましょう。古くからのマンガ読みとして、本作への印象をざっくり一言でまとめるなら、「孫悟空が主人公”ではない”ドラゴンボール」とでもなるでしょうか。じっさいに読むまで、なにかヒネリがあるのかと期待していた「呪力」は結局、「気」や「霊力」と同じエネルギーの言い換えにすぎず、戦闘を単調にさせないためのキモである「領域展開」も、「幽波紋」や「念能力」を変奏したものになっていて、あまり新しいアイデアとは言えません。バトルものとして最大の難点は、「新旧最強の呪術師と明言されている、五条悟か両面宿儺が関与する戦いに比して、その他は常に相対的に格落ちになる」ところでしょう。五条悟・イコール・孫悟空ーー偶然にも「悟」の字が共通ーーが戦うのを見たいのに、ヤムチャやクリリン、下手をするとギランやバクテリアンの試合に延々と紙幅を割いているーー「五条ー!!! はやくきてくれーっ!!!」ーーように感じたことは否めません。また、渋谷事変の途中くらいから、1ページあたり3コマ前後で描かれるバトルの筆致が荒れはじめ、作者の精神状態が心配になるのですが、ハンターハンターを彷彿とさせるネームと言いましょうか、コマを細分化した文字優勢の語りに変じることで面白さを回復させたのには、「参照する過去作品があって、本当に良かったな」と、メタフィクショナルな安心を得てしまいました。あらためて、先行作品のない地平を単独で切り開いていった鳥山明のすごさを、噛みしめておる次第です。

 呪術廻戦における戦闘のビジュアル表現は、「鬼滅の刃ほどわかりにくくないが、ドラゴンボールのわかりやすさには劣る」ぐらいの塩梅であり、描線の荒れ方が調子を崩しているときの冨樫義博ーーのちに慢性的な腰痛が原因と判明ーーソックリで、ある作者にとっての不本意をレスペクトすべき妙味として神格化している様には、ちょっと背筋の寒くなる感じはありました。そして、鬼滅の刃にも通ずることながら、「連載の初回からラスボスが登場していて、連載の最後までずっと変わらない」というのは、良し悪しではないでしょうか。ゴールと線路を最初に引いてしまえば、物語のフレームはカチッと決まるのかもしれませんが、週間連載を通じた作者の成長が敵キャラの魅力に反映される余地を、あらかじめうばってしまうことにもなりかねないからです(ハイキュー!!のネコマ高校を想起)。あらためて、ピッコロ、マジュニア、ベジータ、フリーザと、魅力あるボスキャラを変幻自在に登場させ続けたドラゴンボールの偉大さを、噛みしめておる次第です。さらに重箱の隅をつついておくと、「過去のフィクション群に全力でもたれかかった、ビルドアップのスッとばし」ーーこのキャラの設定(六眼など)は、あの作品のアレですよ!ーーも散見されます。もっとも顕著な例は「しゃけ先輩」で、作中でいっさい能力の来歴が語られない準主役級のキャラって、めずらしくないですか? 他に気になったのは、主人公の目標でありライバルでありバディでもある黒髪クールキャラの存在で、ハイキュー!!でも見かけましたけど、流川楓が源流なんでしょうかねえ(最近どの作品にも、ひとりはいる気がする)。

 さんざん過去作との比較で腐してきましたが、これまでの少年マンガと一線を画するビッカビカのオリジナルは、27巻での高羽史彦とケンさんによる「お笑い幽波紋バトル」であると断言しておきます。社会生活を営めるほどの軽度な鬱で、四角四面のドシリアスな内面を持ち、いつも生と死のはざまに引かれた白線の上を歩いている感覚があり、おもしろテキストをときどきインターネットへ記述することによって、死の側へとかしぎがちな身を生の側へと引きもどしているだれかにとって、永遠に倦みはてた者と一瞬の恍惚を去りがたい者、2つの魂が交錯する「やがて悲しき」顛末には、この上ない切迫感に胸を突かれて、顔をクシャクシャにした大笑いのまま大泣きするハメになりました。じつのところ、初回の読み味が忘れられなくて、いまでもここだけちょくちょく読みかえしてしまうほどです(まあ、幽遊白書の最終回パロディはどうかと思いますが……)。バカサバイバー編の存在で、呪術廻戦への評価が天井をたたいたため、評判のいいアニメ版も履修しようと、アマプラでゼロを冠した劇場版を再生して、ひっくりかえりました。エヴァQのキャラデザの人に加えて、シンジさんの声優を臆面もなく起用しており、「商業作家による、自作人気を利用した、他社作品の二次創作」というトンデモに仕上がっていたからです。乙骨憂太のセリフをノリノリのシンジさん演技で演じあげるのには、品行方正な勤め人としてのブ厚いペルソナを貫通して、リアルで「うっぜえ」と低い声が出ましたもの! これまで見聞きした中でも、最高(最悪)レベルの「クリエイターがクリエイターに向けて作った作品」になっていて、呪術廻戦への評価がたちまち底をうちました。

映画「きみの色」感想

 あまり話題になっていない「きみの色」を劇場で見る。同監督の作品でパロディ小説を書いたことのある身にとって、これは一種の責務のようなものでした。簡潔にまとめると、「どうってことない青春の蹉跌を、流麗な美術とアニメーションで描く、どうってことない物語」で、話題になっていないのも納得の内容だと言えましょう。主人公である小太り平沢唯の「多幸性人格障害」を許容できるかどうかと、物語終盤における講堂でのライブにノレるかどうかが、本作への評価を大きく分けるように思いました。映画「リンダリンダリンダ」を模して、徹底して湿度の高いジケッとした学生生活を描いたあとに、ラストのライブですべての鬱屈を吹きとばす大爆発が起こり、その余韻のままバツッと切断的にエンディングへ突入すればよかったのに、蛇足的なエピローグを付け足したのは悪手だったのではないでしょうか。そのせいで、1時間40分を並走してきた観客に「あれ、このグリッドマンのヒロインみたいな女子の問題、なんも解決してなくね?」と気づかせてしまうのは、もったいないなーと感じました。

 そもそも、この女子が「なぜ学校をやめたのか?」も芯をくわないフワッとした理由ーー「私は、悪い子だから」ーーしか与えられておらず、強い消化不良感を残しています。もっと言えば、高校をやめてピアスをあける女子の漂着する先が、夜の繁華街ではなく裏路地の古本屋だというのは、現代社会において相当なファンタジーだと言えるでしょう。さらにダメ押しすると、物語をセットアップするフレーバーにとどまるのかと思えば、ストーリー全体を通しての問題としてあつかわれてしまったので、スルーできずにイヤイヤ言及しておきますと、1年毎にクラス単位で生徒がいなくなる公立の底辺校ならいざ知らず、「ええとこの子女」を集めた偏差値の高そうなミッション系の女子校で、保護者の了承なしに生徒の退学を認めるなんて、ぜったいにありえないことです。孫に退学を告白されたあとの祖母の行動はふつうなら、まちがいなく学校相手に退学の不成立と地位保全を求める裁判を起こすことでしょう。もしや、子どもを守ろうとする大人の意志と責任を軽んじた、子どもであることと地続きになった人生の「ふわふわタイム」が、いまだ継続されてはいないでしょうか。

 ルイ君の取りあつかい方もそうで、作品から徹底的に”性”の要素をとりのぞくために、「ぬいぐるみ without ペニス」な男子として描写され続けます。「男のスタイリストが女の顧客に警戒されないために、芸能界ではゲイとしてふるまっている」ようなモゾモゾとした座りの悪い感じーー衝動的に女子が女子にするようなハグをしたり、廃教会でお泊まり会a.k.a.パジャマ・パーティをしたりーーは、ずっとつきまといました。物語の後半でルイ君とグリッドマンのヒロインが、保護者に隠していた秘密を吐露する場面を交互に切りかえて映す演出があるのですが、そもそものところ、2人の告白する内容が絶望的につりあっていません。国立の医学部に進学するような男子は、言わば同年代の上澄みのスーパーマンであり、高3の夏まで全力で部活にうちこみ、なんなら全国大会に出場までした上で、スルッと現役合格してくるものです。昨今では、激務をぬってバンド活動にいそしむ医師さえめずらしくはなく、この場面にはちょっと男性のスペックの上限を甘く見ている感じが、どこかただよっていました(蛇足ながら、音楽と数学は先天的な能力が9割優勢の分野で、たがいに強い相関関係を持ちます)。つまり、「受験のあいまに、隠れて音楽活動をやっている」なんてのは、「保護者に無許可で書類を偽造し、無断で退学した」のとはまったくつりあわない、甘ったれのざれごとにすぎないわけです(「医学部を受験しない」or「実家の医院を継がない」ならわかりますが、島を離れて本土の大学へと進学する様子を、最後にシレッと描いているので……)。

 ここまできたら、もうツッコめるだけツッコんどきますけど、「男女交際を禁止する」ようなルールがあるミッション系の女子校で、親族でもない独身男性が校内に入れてもらえるわけないでしょ。バレンタイン祭の翌日(下手すると当日)には、父兄からのクレーム電話で回線がパンクし、シスター校長は後日、保護者会での謝罪に追いこまれると思います。全体的に「社会経験をせず、創作活動だけやってきた」人間のワキの甘さが目だち、「創作活動をせず、社会経験だけやってきた」人間の眉間にきざまれたシワは、否応に深くなっていくのでした。さんざん文句をつけましたが、この映画感想文の読後感のようにはひどい作品ではありませんので、未見のみなさんは、ぜひ劇場に足を運んでくださいね(手遅れ)! あと、中庭の噴水を校舎が囲むこの感じ、神戸女学院っぽいなーと思ったら、エンドロールに大学名がありました。海の見える坂道は宮崎っぽいし、路面電車は高知っぽいし、もう調べる気はありませんが、作品舞台はどこなんでしょうね。

ゲーム「原神5章・ナタ編」感想(少しFGO)

 原神の第5章である「ナタ編」を実装部分までクリア。「戦争が恒常化した国家」とのふれこみから、ジューに対するナチの所業が、歴史の宿痾として残穢するミドルイーストの被虐殺国ーー不謹慎を承知で言えば、スターウォーズ4を持ちだすまでもなく、大衆向けフィクションは「反乱軍視点」を好むためーーが舞台になるだろうと予想していたのですが、フィールド音楽がライオンキングのテーマをモロにアレしている点からもわかるように、アフリカ・モチーフだったのには拍子抜けしました。キリンヤガの映像化を25年待ち続け、ぢじゅちゅ廻銭の連載より20年も早くムンドゥングゥ(呪術師)が主人公の小説を書いたアフリカ通にとって、評価のまなざしは、いきおい厳しいものにならざるをえません。うがった見方ながら、ロシア相当であるファデュイの悪魔化が薄まってきていることとあいまって、中華の経済政策とリンクした舞台チョイスになっているような気がしてきております。まずフィールド部分について言えば、フォンテーヌ編で導入された水中操作は大きなインパクトを与えましたが、ナタ編はここまでのところ既存エリアのギミックを集積させただけになっていて、新奇さの演出に成功しているとは言えません。特に、恐竜へとモーフィングすることで追加されるアクションの一部が、他のエリアならプレイヤーがふつうにできる行動と重なっているため、不便さの方を強く印象づけてしまっています。フィールドのサイズもフォンテーヌより、さらにコンパクトになっており、「狭いエリアでギミックの密度を高める」方向の調整がなされていて、スメールにあった「広大さに由来する冒険感」はかなり薄まってしまっています(まあ、あっちはちょっと広すぎましたが……)。

 また、しばらくぶりに世界レベルの上限が解放され、プレイヤーの強さはすえおきのまま、敵のレベルだけが10ほども上昇し、反射神経の衰えた世代による「帰宅後の酩酊プレイ」は、いよいよ厳しいものとなってきました。さらに地方伝説をふくめ、「元素パズル」や「純粋アクション」な高難度チャレンジが追加されているのですが、「ターゲットロック」「ローリング」「防御」「パリィ」がすべて”存在しない”原神において、一撃で3万超あるHPを蒸発させるボスの攻撃には、「気がくるってる」以外の表現は思いつきません(初回アップデート前のエルデンリングDLCで、大盾もローリングも使えないボス戦を想像してみましょう)。原神の戦闘は、上記のアクション群がない代わりに「元素爆発」なる必殺技の無敵時間を使って敵の攻撃を回避する仕組みなのですが、これに加えて超必ゲージにあたる「元素エネルギー」の蓄積を阻害するオーラを一部のボスがまとうという、きわめてストレスフルなギミックを導入してきました。RPGというジャンルの欠かざる美点は、「レベリングでプレイヤースキルの拙劣さを緩和できる」ことであると、ゲーム制作者のみなさまにはくりかえしお伝えすると同時に、原神プレイヤーの9割が求めていないことが過去のアンケートでも明らかな、高難度の緩和施策をホヨバに強く求めるものです。個人的に、格闘ゲームへ嫌気がさしてプレイしなくなったときと似た感覚があり、このままではちょっとまずいような気がします。開発チームのみなさまにおかれましては、先進国のチーズ・カウではなく、ゲームにはじめてふれる「アフリカの子ども」を念頭においた調整をお願いし申し上げます。

 ここまで、さんざんゲーム部分の文句を言ってきましたが、ストーリー・パートはあいも変わらぬハイクオリティを維持しており、中華フィクションの真髄および真骨頂は、世界的な超ヒットとなった三体の例をとりだすまでもなく、「気の遠くなるような長い時間」のあつかい方であることを再確認しました。ナタの炎神であるマーヴィカは「赤髪ライダースーツのお姉さん」であり、開いた胸元にはじまる前面のチャックが股関に向けて伸びてゆく、昨今のポリコレ潮流をガン無視したギンギンにセクシャルな造形ながら、彼女を形づくる内面には毛ほどもチーズ・カウ的な劣情を混入させないのは、原神や同社の崩スタの大きな特徴だと言えるでしょう。今回はストーリーの初期から、炎神とのコミュニケーションを深める機会が幾度も設けられており、自然と「TINTINスタンディングの状態から、その魂の高潔さに触れて、崇敬の念に膝を折る」気持ちにさせられるのです(マーヴィカが実装されたあかつきには、雷電将軍と同じだけの課金をしようと固く心に決めました)。また、ナタにおける部族たちの時間感覚は「過去・現在・未来がひとつながりの糸(未来からのホットライン!)」のようになっていて、「個人のふるまいに対する集団の記憶が、長い時間をかけて英雄を形づくる」という仕組みは、非常に考えさせられるものがあります。エス・エヌ・エスでは「いま、この瞬間」だけが常にフォーカスされ、個人の感情を微細にドぎつく言語化してゆく一方で、ロングタームでの集団の記憶は形づくられにくくなり、人々に行動の規範を示して皆の精神を鼓舞するような「古名」は、出現をさまたげられてしまうのかもしれません。

 そして、ナタ地方においては「モノに宿る記憶と精神」が現実へ物理的な影響をおよぼす描写があり、これは重要な伏線になるだろうと予想しています。炎神の孤独と責任の旅路を慰撫すべく、建築物か美術品へと託された「500年前に妹が残した、姉へのメッセージ」がどう描かれるのか、いまから楽しみで仕方ありません。「人間であった時期があるから、私はこの世界を愛おしく、守る価値のあるものだと信じることができる」という彼女の言葉は、現代の孤独な王たちの倦み疲れた心を癒すものではあるでしょう。「王になる」とは、個人であることを捨てて、計画やシステムそのものと同化することに他なりません。夜中に自室で「だれかがここで、やらねばならぬ」とつぶやいた言葉が、ふいに呼び水となって号泣するような、元より少ない仲間をさらに失った就職アイスエイジ・エラのマネジメント層にとって、炎神マーヴィカのふるまいは、まるで血を分けた同志のように感じられることでしょう。最後に別作品の話をしますが、FGO奏章IIIの中編における、箱男の文化的対偶であるところの盾女が叫ぶ、「いえ! わたしひとりで、やるのです!」という決意の言葉は、ファンガスその人がFGOのライティングへ向けた宣言のようにも聞こえて、ひどく胸をうたれました。あなたとはちがう世界に生きていて、組織の規模も養うべき人間の数も、きっとケタ違いなのでしょうけれど、わたしもここで、ひとりでやってみせます。

映画「ドント・ルック・アップ」感想

 ずっと気になっていた配信映画の「ドント・ルック・アップ」をネトフリでみる。まず目につくのは出演陣の異様な豪華さで、もしかするとオーシャンズ11とかエクスペンダブルズみたいなキャスティングの裏話があるのかもしれません。ディカプリオは言うにおよばず、出演作は必ず見ると決めているところの、ケイト・ブランシェットとメリル・ストリープが配役されているーー彼らの最高傑作は順に、「ブラッド・ダイヤモンド」「ロード・オブ・ザ・リングス」「クレイマー・バーサス・クレイマー」ーーことも視聴の決め手となりました。ストーリーは、半年後に地球へ衝突する大質量隕石をめぐる、主にアメリカ国内の狂騒を描いているのですが、日本沈没の例を持ちだすまでもなく、ある破滅や災厄が人間性の底の底までをもあばいてゆく展開は、おもしろくなることが確定した「思考実験」と言えましょう。ちょうど殺狼奈禍の真ッ最中に公開された作品であり、「これからの映画は、配信が主流になる」みたいな、スローガン未満のボンヤリとした”かけ声”を元に、劇場でというよりは、家庭での視聴に軸足を置いて撮影されたと推測するのですが、「暗いハコに2時間をおもしろさでピン止めしなければならない」という制約から外れて、いつでも一時停止からの離席や”ながら見”が可能なことを前提とした作り方は、構成にしまりがないと言いましょうか、編集でシーンを刈りこめていないと言いましょうか、どこか緊張感を欠いているように感じました。冒頭付近で画面を静止させて、テロップによるツッコミが入ったときは一瞬、「コメディ路線かな?」と思ったのですが、その演出はなぜか1回きりで終わり、社会風刺のような文明批評のようなSNS批判のようなサイファイのような、風に舞う落ち葉がどの地面にも落ちきらない(フォレスト・ガンプ!)ようなトーンで物語は進行してゆきます。

 いつものごとく、冒頭からフルスロットルで重箱の隅を激しくスタッブしておきながら、小鳥猊下が自信をもって「ドント・ルック・アップ」を全人類マスト・ウォッチの一級品であると断言するのは、同様のテーマを持つ作品群がむかえがちな、「破滅はすんでのところで回避され、人々はすべてを忘れたかのように、また微温的な日常にもどって」は、”いかない”からです。ここからは盛大なネタバレになるので、まだ本作を見ていない方は、見たあとにもどってきましょう。企業の利潤追求と政権与党の腐敗ーーこんなサヨクのハンコ・フレーズを、まさか使う日が来ようとは!ーーに、マスメディアのトーン・ポリシングとSNSを通じた衆愚たちの発信が臨界に達した場所で、なんと大質量隕石はじっさいに地球へと衝突してしまうのです! 本作の監督がインタビューに答えたところの、「現代社会において、宗教は掃いて捨てるほどあれど、信仰がない」という言葉から判断するに、全生命必滅のジャイアント・インパクトが進行する中で、狂乱の日々ーー超絶ハイスペ女子アナとの不倫などーーから家族のもとへと帰り、心おだやかに日々の生活をふりかえりながら、神に祈りをささげる最後の晩餐が、彼の考える「正しい信仰」の描写なのでしょう。ディカプリオが最後につぶやく、「じつは、すべて持ってたんだな」という台詞は、タイタニックでの「軽薄な美男子」というレッテルに始まり、現在へいたる彼の長い長い俳優人生がオーバーラップして聞こえて、少し涙が出ました。

 そして、地球の大災厄からエンドロールへと突入し、その終わりに「2万2047年後ーー」のテロップが出たときには、この監督が「トップをねらえ!」か「ワールド・イズ・マイン」の熱心なフォロワーであることを、心中に確信しましたね(たぶん、ちがう)。与えられた死の予言に対して、家族を大切にした者は回避ーー孤独には死なないーーでき、家族を粗末にした者は成就ーー異星で怪鳥に食われるーーするという展開は、あまりにもキリスト教のスキームが全宇宙をすみずみまでおおいすぎていて、なんだか笑ってしまいます。良きにつけ悪しきにつけ、この強固な枠組みが彼らの精神の基底部を形づくっており、シリアスなものであれ荒唐無稽なものであれ、どんな種類の虚構や創作もこれを無視しては成されないのだなと感じました(マリリン・マンソンのインタビューを見たときも、同じことを考えたのを思いだしました)。また、「最後のエデン」へとたどりついたのは、大企業の年老いた社長とCEOや、功なり名とげた著名人ばかりで、「産めよ、増やよ、地に満ちよ」という神の御心からはもっとも遠い、致命的に繁殖の不可能な集団になっていて、あまり言いたくはないのですが、就職アイスエイジ・エラを経験した身にとって、ニュートラルな他人事の戯画や風刺画のようには、どうにも受けとれませんでした。

 あと、ティモシー・シャラメが「敬虔な耶蘇教徒である町のチンピラ」という役まわりで登場するんですけど、髪の毛はボッサボサながら、昭和のスポーツ紙のフーゾク・コーナーふうに表現すると、「生ツバ、ゴックン!」の高貴なエロさを横溢させていて、こいつスゲエなとあらためて感心しました。ちなみに、デューンはすごくつまらない映画です(おしまい)。