猫を起こさないように
月: <span>2024年8月</span>
月: 2024年8月

ゲーム「黒神話:悟空」感想

 待望の「黒神話:悟空」を第2回(章に相当)の、おそらく中盤までプレイ。まず、ゲーム部分をサッと湯どおしするように腐しておくと、システムはゴッド・オブ・ウォーをベースにダークソウルを隠し味に加えて、そこから防御とパリィを引いたものとなっています。武器はもちろん如意棒の一択であり、ボス戦は敵の大技をローリング回避しながら、FF16ばりに少ないダメージをペチペチーー効果音がショボいので、本当にこの擬音がピッタリくるーーと地道に累積していく以外の方法がありません。比較的ダメージ量の大きいタメ攻撃もあるにはあるのですが、道中の雑魚敵を気持ちよく処理するのには使えても、ボス戦ではほぼ役にたちません。なぜなら、こちらのタメ攻撃に対してはエルデンリングばりの、まるでキー入力をダイレクトに検知しているかのような超反応による「潰し」が入るからです。このことに気づくまで、濁流に下半身を封じられた南斗水鳥拳のごとき「跳べない猿」をしつこく棒で跳ばそうとし続け、PS5のコントローラー1個を破壊しました。近年ではゲームソフト1本よりも価格が高いぐらいになっており、破壊へのハードルは格段に上がっているはずなのですが、それさえも抑止にならず、このゲームはみごとに小鳥猊下から「撃墜数1」をあげたわけです。キー入力に対するレスポンスも微妙につっかかる感じがあり、あと一撃というところでR2L2を同時押しーーなんなん、この意味不明のキーアサイン?ーーする妖怪技が不発で得勝を逃したときには、夜中にもかかわらず魂の絶叫がほとばしりでました。もし今後、nWoの更新が長く止まるようなことがあれば、脳か心臓の血管に由来する激情型突然死か、近隣住人の通報による措置入院のせいだと考えてください。

 全体の進行は「オープンワールド風味の、枝分かれが若干ある1本道」になっていて、移動を制限する不自然な透明の壁があちこちにあり、関所のように立ちはだかる理不尽の中ボスを倒すまで、ゲームの進行は完全に停止します。アンリアルエンジン5によるフィールドは美麗さ優先で作られており、スターフィールド用に新調されたデスクトップPCでさえ、処理落ちで重くなる瞬間が何度かありました。また、レベルデザインが甘いため、ふつうはプレイヤーの強化にともなってゼロにまで漸減していくはずの経験値が、いつまでも固定された数字で入るので、ダークソウル式のリスポーンを利用して同じ雑魚敵を何度もたおすことで、序盤エリアから延々とレベル上げができてしまいます。この脳死周回はファミコン時代のレベリングを想起させる絶妙な楽しさーー普段の労働が「同じ内容を、同じ精度でくりかえす」ことに特化しており、性格由来の強い耐性があるーーであり、おかげさまで米国の共和党大統領候補みたいな略称を持つアニメの最新更新分までを、ながら見で履修完了しました(感想は言いません)。サッと湯どおしするだけのつもりが、「高温のコークスで、まる鍋の底を真ッ赤に焼く」みたいになってしまいましたが、本作に対する評価は言うまでもなく、120点です。なぜって、あの斉天大聖・孫悟空をプレイアブル・キャラとして操作できるのですから! この感情は、ワンサイズ小さいパンツでパンパンーー単なる擬音で、他意はなしーーになったムチムチの尻を誇示し続ける整形顔少女が大活躍のステラーブレイドによってかきたてられた欲望と、まさに陰陽をなすものだと言えるでしょう。半島と大陸の新進ゲームメイカーが、世界におのれたちを認めさせるための、言わば社運をかけた乾坤一擲の大バクチに、「美への欲情」と「猿の英雄」をそれぞれ選んだのは、文化論的にも非常に示唆に富んでいると指摘できるでしょう。同時に、本邦の例の超人気マンガに名前ごと上書きされてしまった自国のIPを、巨大な物量で塗りかえすことで取りもどそうとする静かな意志を、ひしひしと感じます。

 昭和後期に青春を過ごした人物は当時、おそらく国交正常化によって醸成された機運から山ほど作られた西遊記オマージュ作品に、心の深い部分をコンタミされており、原神インパクトに続いて長く閉じられていたフタを開かれ、その繊細な部分をひさかたぶりに外気へとさらされた気分になっております。いまパッと思いついた順にならべてみると、「そうさ、いまこそアドベンチャー」は言うまでもなく、「火の玉、悟空の大冒険、ドカーン!」や「ニンニキニキニキ、ニニンが三蔵」や「そこにゆけば、どんな夢もかなうというよ」など、傑作・怪作の数々がそろいぶみ、もしかすると「さらば地球よ、旅だつ船は」さえ、原作小説のSF的翻案だったのかもしれません。個人的には、たぶんタイムラインのだれも見ていないだろう、チャウ・シンチー監督の「西遊1&2」が大好きで、ガンダーラ編を描くだろう3の発表をいまだ心待ちにしているほどです。「黒神話:悟空」は、盛大にネタバレてしまえば、三蔵法師を無事に天竺へ送りとどけてから、悟空が作品舞台を再訪する後日譚であり、西洋文明のこざかしい批評家による「ストーリーは断片的で支離滅裂」などという指摘は、東洋文明における聖書に該当する書物についての基本的な知識すら持たないという、教養の欠落とむきだしの差別心をそれとは知らないまま、恥しらずに露呈しているにすぎません。たとえば、旧約聖書のテキストをそのままゲーム体験に落としこめば、ストーリーは現代の感性に照らして意味不明なものになるでしょうが、その指摘に対して金髪碧眼のサルは、黄色い肌をしたバーバリアンどもの無教養を、口をきわめてののしるにちがいないのです。

 ともあれ、全クリしたら(できたら)、また小鳥猊下の申しのべる感想をタダで読めるわけであるから、諸君はこれから壊れるだろう複数個のPS5コントローラーの代金(値上げ後は、1万2千円超!)として、noteにお気持ちを課金してよい。

映画「ザリガニの鳴くところ」感想

 盆休みのヒマにあかせて、なにか高尚な文芸映画を見ようとネトフリをさまよううち、よりによって「ザリガニの鳴くところ」を再生してしまう。アダルトビデオやかつてのエロゲーは、しばしば「男性向けフィクション/ファンタジー」なるレッテルで揶揄されてきたものだが、それになぞらえて本作を端的に評するならば、いまはなきハーレクイン・ロマンスの正統なる忌み子であり、女性の欲望を極限にまで圧縮することでショッキング・ピンクの塊に結晶化させた、「薬屋のひとりごと」もマッツァオの、超絶的「女性向けフィクション/ファンタジー」だと表現できるだろう。本職の生物学者が書いたという原作の夢小説ともどもから放たれる、男性のみが嗅ぎわけられる犬笛のような悪臭(なんじゃそりゃ)を、偏差値の高い女性ほどなにも感じないという慄然たる事実を目のあたりにし、配偶者やパートナーから「気がきかない」と言われがちな朴念仁の男性諸氏においては、オンナゴコロの教科書として、本作をケンケンフクヨーすべきだと断言することに、もはやなんのためらいもない。やはり、以前にも指摘したように、思春期を基準点として「いつ色気づくのか?」は、高学歴女子の人生において、きわめて重要な命題であるとの想いをあらたにした次第である。視聴中に生じたオトコゴコロの変遷について、順を追って説明していこう。

 まず、物語のキモであると同時に作品テーマの中心と思われがちな、天涯孤独の「沼地の少女」については、かつてのジュブナイル作品で、恋愛の進展やセックスの阻害要因となる両親を海外出張させたり、遺産を残して他界させたりするのと同じレベルの、作者にとって好都合な「舞台設定」にすぎない。それを証拠に、母親、きょうだい、父親が順にいなくなる過程を描写する筆のぞんざいさを見れば、のちにイケメンたちと気がねなくファックするための、人ばらい以上の意味は与えられていないことがわかる。小学生の女子児童が沼地にひとり生活するのは、あまりにウソっぽいと作者も感じたのだろう、主人公を気にかける「良い大人」として雑貨店の夫妻を登場させるのだが、彼らが有色人種に設定されているのは、たいへんにしゃらくさい。寝起きをともにする相手でさえなければ、肌の色の濃さぐらいは充分に許容範囲だし、「昨今うるさい、ポリコレまでクリアできちまうんだ」程度の安易な着想によるものだろう。そして主人公は、初潮など身体の変化に向けたとまどいみたいなメンドくさい箇所はスッとばして、沼地にひとりで住んでいるわりには、登場のたび衣装が変わり、ムダ毛の処理もおこたらない、とても清潔感のある女性に成長するーーというか、役者が変わる。ほどなくして、腺病質だが沼地の植物を愛する学者肌の「理解あるカレ」と出会い、その庇護の下において、アルファベットの記述さえおぼつかなかったのに、みるみるとウソのように識字を習熟させ、1年で町の図書館の本をすべて読破(!)するまでになる。もっともこの描写は、少年漫画で言うところの「過酷な修行とパワーアップ」へ相当するもので、内容のリアリティについて深く考えてはいけない。

 一般論として、性愛を知りそめた若い女性にとって、ただ優しいだけの男性とのセックスは、次第にものたりなさを増してゆくものだ。しかしながら、そんな下品な潜在意識を口には出せないものだから、男性側が大学進学でいったん地元を離れなければいけないことにして、10ゼロで非難されない状況を作りあげるのは、じつに巧妙かつ狡猾である。少し話はそれるが、のちに植物学者となって町にもどってくるこの人物は、出版社のリストを主人公に渡しながら、「キミの植物スケッチを送れば、必ず本にしてくれる」とうけあい、じっさいそうなる。25年ものあいだ、だれからも請われないままインターネットにテキストを記述し続けている身からすれば、本作における最大のフィクションかつファンタジーは、この点だと言えるだろう。「ラノベの賞に十数年、応募し続けてモノにならなかったのが、自らの身体障害をネタにしたら、即座にブンガク賞を受賞した」みたいな話を仄聞するにつけ、「インドの被差別層の親が子の片脚を切り落として、観光客の行きかう街路に座らせる」のと、いったいなにがちがうのか、真剣に考えこんでしまう。結局、現実の肉の属性だけが価値判断の基準となる時代であり、有名大学を卒業した190センチ近い高身長で、年収も本邦の同年代の上位5%に位置し、生物としての繁殖を堂々と終えた中年美少女の嘆きなど、だれも読みたいと思わないのである(虚構日記です)。

 話をザリガニだかゲジゲジだかにもどしますと、次に主人公は、傲岸不遜でアタマの悪い「ええとこの氏」であるところの、七三マッチョとつきあい始めるようになります。人ぎらいとうそぶきながら、わざわざ若者の集まる砂浜の片隅で本を読む様子は、ウツボカズラを彷彿とさせる食虫植物のようでしたし、濃厚なキスとペッティングのあとで自発的に身を横たえてからマッチョを突きとばして、「軽い女だと思わないで!」と叫ぶのには脚本と撮影の乖離を強く感じましたし、ファック後にする「私の心の貝が少し開くのを感じた」というモノローグには、「それ、股間の秘貝やないかーい!」と思わず大声でツッコまされてしまいました。結局、この七三マッチョの女グセの悪さと粗暴さに嫌気がさして、植物学者となった腺病質の元カレと元サヤーー刀がINKEIで鞘がCHITSUだと考えると、この単語、エロくないですか?ーーに収まるため、沼地の性質を利用したSATSUGAI計画を実行に移します(ミステリ小説の犯人名にマーカーを引くレベルのネタバレだが、正直どうでもいい)。この殺人事件をめぐる裁判が、ストーリーの柱と言えば柱なのですが、クライム・サスペンスに目の肥えた観客からすれば、裁判官も検察官も弁護士も陪審員も証人も傍聴人も、全員が「ことごとくバカ」という、とんでもなく視聴者の知性をナメた仕上がりになっていて、めまいがしました。

 そろそろまとめに入りますと、本作は「肉欲の権化みたいな男とレイプまがいの荒々しいセックスを充分に楽しんだあとは、ベッドでの所作は少し不満ながら、私のことを深く理解して尊重する、趣味のあう優しいカレと結婚したい。そのさい、以前に肉体関係を持った男には、みんな死んでいてほしい」という身もフタもない特濃の欲望からできあがっていて、男性が見ればなにが楽しいのかサッパリわからない、「フィーメイル・ポルノグラフィ」としか形容できない作品となっているのです。不自然な濡れ場カットも多く、文芸映画としてなら30分は尺を縮められると思いますが、ポルノ映画と考えれば、大いに得心する感じはあります。本作の視聴へといたった最大の動機はタイトルであり、いにしえの「ひらがな4文字の生物が鳴くシーズン」から宇宙背景放射のような影響をこの精神が受けていたのではないかと遅れて気づいて、いまはひどく気分が落ちこんでいます。ザリガニの英名がクロウダッドであると知った以外、この映画は私の人生から2時間をうばっただけで、なにひとつ加えなかったことをお伝えして、長々とした犬のような感想を終えることにしましょう。

ドラマ「地面師たち」感想

 近しい人にすすめられて、見る気はなかった地面師たちを1話から流しはじめた。エルデンリング2周目のオトモにと考えていたのが、いつしかコントローラーから手は離れて、視線は画面に釘づけとなっていた。クライム・サスペンスとしては、ベター・コール・ソウル級のおもしろさである(言い過ぎ?)。じつは直前に、実写版のゴールデンカムイを流し見していたのだが、両者の違いについて少し考えこんでしまった。以前、事大主義な全共闘の闘士たちが人定作業の甘い映像会社や演劇業界にもぐりこみ、そこでフィクションを通じて継続した「革命」が、本邦のアニメや映画における人物像と演出を、前世代の作法と連絡を断絶した独特の中身へ変質させていったと指摘したことがある。それに加えて、大手芸能事務所がキャスティング・ボードをグリップし、作品内のキャラクターというより、当該人物の作品外におけるイメージ戦略を優先した配役が長年、横行してきたことも原因の一端ではあるだろう。つまり、本邦におけるドラマや映画は商品販売のためのショーケースに過ぎず、本体というよりは冷蔵機能のついたガラス製の棚と同じあつかいを受け続けてきたのである。陳列された新鮮な果物がよく見えて腐りさえしなければ、それで必要十分だったのだろう。ネトフリ資本によって、こういった本邦に固有の二重、三重となった、本来的に物語を物語るのには不要な”枷”がとりのぞかれたことで、作品のクオリティを飛躍的に高めたのは、戦後のエンタメ業界に向けた意図せぬ批評かつ最大級の皮肉と言えるかもしれない。この理屈は、本邦の2次元文化を模した大陸産や半島産のゲームが大躍進している理由にも紐づけられる気はするが、ここではあえてふれないでおく。

 実写版ゴールデンカムイで、劇的な音楽をバックに両のマナコをカッぴらいた「俺は不死身のフジモトだ!」の絶叫を見たあとだからかもしれないが、地面師たちにおける抑制的な演技と主張しすぎない劇伴は、虚構内で誇張されたキャラクターではない、実在の人物による思惑が、だれからの優遇も受けず等価にからみあっていることを、ただ静かに主張している。少し話はそれるが、電気グルーヴのファンたちは、石野卓球が彼の最高のバディのために本作へ楽曲を寄せている事実に、涙したことだろうと思う。だが、かつて深夜ラジオで「魂のルフラン」をボロッカスのクソミソにけなした石野卓球が、まさに魂のルフランそのもののオシャンティなメロディを提供しているのに、舌うちとともに苦虫をかみつぶした表情になったことを、場外の情報として付け加えておく(音楽の良し悪しは不明ながら、春エヴァから夏エヴァにかけて、死ぬほどリピートした曲なので……)。閑話休題。地面師たちのクオリティは、脚本のよく練られたアジアを含む海外ドラマや映画と同じ域に達しており、角界の闇を描いたサンクチュアリに引き続いて、ピエール瀧がイキイキと最悪に反社な演技ーー「もうええですやろ!」ーーをしているのには、「オールド・メディアから干されて、本当によかったな」と心から思えたし、黒人ハーフのオロチさんが最後の最後まで、見ているこっちがイライラする底抜けのバカのままなのは、まさに「ストーリーの都合で変質しない、生育史をさかのぼれる人格」が与えられている証拠で、じつにすばらしい美点である(ピエール瀧に言わせる「ええシャブでも手に入れたんか!」という台詞は、さすがに遊びすぎですが……)。

 まあ、ゴジラ・マイナスワンみたいな映画を見すぎて、虚構接種の体幹がナナメになってしまった身ながら、マトモな脚本で演出と演技指導を正しく行えば、本邦の俳優たちの”格”は何倍にも上がるのだなと、しみじみ感じました。本作のトヨエツなんて、ジャンカルロ・エスポジートに匹敵する風格と存在感ですよ(言い過ぎ?)! 特に最終話におけるGOアヤノとの対決なんて、沢田研二と藤竜也のテレビドラマからウッカリ「やおい文学」を創設してしまった栗本薫が見たら、墓穴からとびだして真夜中の天使クラスのナマモノを一晩で記述するだろうほどの、ヌレヌレとした濡れ場でしたよ! 細かい場面を思いつくまま書きますと、稟議書の捺印にまつわる社内政治には、組織の規模こそまったく異なりますが、メチャクチャ感情移入して胃が痛くなりましたし、その後の大はしゃぎの絶頂から、地獄の底の底までストンと一直線に落ちる感じも身に覚えがあり、なぜかずっと泣きながら見ていました。あと、トヨエツがリリーフランキーを突き落とす場面は、現場で演出担当が「ダイハードになぞらえて、1で押すと思わせて2で押しますから」とリリーフランキーに言いふくめたあと、トヨエツに「3で押してください」と伝えて撮影されたにちがいなく、その驚愕の表情に思わず笑ってしまいました。それと、暴力シーンはどれも目をおおいたくなるほどリアリティのある凄惨さなのに、セックスシーンがすべて着衣なのには、「コンプラを気にする場所がちゃうやんけ! 四十路の尼さんの乳首みせんかい! いや、それより、山本耕史の尻エクボださんかい!」と純粋な義憤にかられました。しかしながら、トランクスの前の穴からTINTINだけ出してバックから挿入する様子を、頭上のフキダシに想像すると、もっともフィジカルでプリミティブでフェティッシュなファックにも思えてきますね(きません)。

漫画「ハイキュー!!」感想

 インターネットの無い時代に受けたハードコア平和学習ーー何の事前ノーティスもなく、小学生に突然ケロイドの写真を見せるなどーーの影響から、「平和への希求」というより「盛夏の滅び」を心に植えつけられてしまっているため、毎年この時期になるとひどく気持ちが落ちこみます。それに加えて、艦これのイベント海域がはじまってしまったものだから、「ただただ気分のアガるフィクションが読みたい!」と考え、ハイキュー!!の電子版を全巻一括購入しました(時節柄、エヌ・エイチュ・ケーからのサブリミナルな影響を排除できませんが……)。「本邦の男子バレーボール人口を有意に増やした、平成後期のスラムダンクに相当する作品」以外の情報をいっさい持たないまま、艦これのウィンドウにキンドルのそれをかぶせるようにしながら、読み進めていきます。最初の20巻ぐらいまでは、まさにジャンプ漫画の王道といった展開で、弱小チームが格上の強豪へいどむ試合は手に汗にぎり、地方予選の1回戦で敗退する「部活としてバレーボールを経験した者」へ向ける優しいまなざしに落涙し、何よりも作者の真摯な熱量に圧倒されて、「ああ、十代の頃にこの作品にふれたら、バレーボールはじめるわなあ」とひどく納得させられる感じがありました。

 20巻以降は、「これまで見たこともないバレーボール表現」の斬新さに慣れてしまったせいもあり、「ワンチ」「シンクロ攻撃」「ナイスキー」を対戦相手の過去でサンドイッチする繰り返しにあきてきて、どこかダレる感じもあったのですが、毎話の最終ページにおける”ヒキ”が強烈で、ページを繰る手を止められないのは、さすが少年誌の頂点であるところのジャンプ連載作品だと素直に感心しました。我々スラムダンク世代は、「1つ前の試合を超える試合が見たい!」と作者をアオリたて、それにこたえる形で内容をエスカレートさせていった結果、全国大会の1回戦でそのドラマツルギーは臨界に達して、「2回戦でウソのようにボロ負け」となり、作品そのものが中絶させられたトラウマを、いまだ心のどこかに抱えたまま生きております。なので、ハイキュー!!がそのラインを超えてくるかどうかは、私にとって非常に大きな関心事でした。全国大会1回戦の相手が雑魚っぽいことに安心し、2回戦におけるジャイアントキリングを経て、ついに3回戦へと突入したときには、スラムダンクのトラウマをようやく克服できたように思いました。

 ただ、連載の初期からライバル校として登場し続け、苦しい時期を支えてくれて、作者の思い入れも強いだろうネコマ高校が、この段階をむかえて相対的にまったく魅力を失っていることは、どうにも否定できませんでした。「オレたちは血液」ではじまる例のルーチンも、リアルとフィクションのどちらへより大きく振るかが決まっていなかった時期の「キャラ立てフレーバー」に過ぎず、数々の強豪を打倒してきたいまとなっては、共感性羞恥をまねく中2病的フレーズとして浮いてしまっています。ネコマ高校を見て思いだしたのは、名門!第三野球部で主人公チームを倒すことになる、主人公チームよりも低いスペックと厳しい環境を、努力と団結力と「けっぱれ」で乗りこえる東北の弱小高校でした。少年漫画の楽しさの基盤って、「最弱の主人公が強くなる過程で引き起こす、奇跡的なジャイキリの連続」だと思うんですよ。ネコマ高校との試合がハイキュー!!のベストバウト?に選ばれてるのは、その意味でたいへん納得が行かないし、腐女子による「ケンマ×ヒナタ」のBL組織票を疑っております。

 そして、地味な3回戦を終えて、作品テーマである「小さな巨人」を描く準々決勝がはじまり、もうこれでスラムダンクの呪縛は完全に解かれたのだとホッと胸をなでおろしたところに突然、なんの前ぶれもなくそれはやってきました。ハンターハンターのゴンさんを彷彿とさせる怪物性が開花して、3セット目の大詰め最高潮のいよいよこれからというところで、主人公はケガですらない、体調不良による発熱で試合を途中離脱してしまうのです! 当然のごとくチームはやぶれ、「まあ、1年目で全国制覇はムシがよすぎるか」と気をとりなおし、キャプテンかプレイボールばりの2年生編がはじまるのを、当時の99パーセントの読者と同様に期待したわけです。にもかかわらず、高校の残り2年間をナレーションでスッとばして、ブラジルでのビーチバレー編がはじまったのには、冗談ではなく椅子から転げ落ちました。あとづけの推察ながら、35巻ぐらいから表紙の折り返しにある作者コメントから熱量が薄まっていくのは気になっていましたし、「じっさいに試合をすればいいだけなのに、なんでオレはわざわざこれを紙に描いてるんだ?」との慨嘆にいたっては、描きたいテーマ・場面・セリフを出しつくして、なお人気が下がらず、連載をやめたいと泣きついても編集部と、おそらくバレーボール協会から、「せめて、東京オリンピックまでは続けてくれ」と引き止められ、もうバレーボールの試合を描きたくない作者の気持ちとカネ勘定の得意な大人たちの思惑の落としどころが、南米への取材旅行の許可とビーチバレー編だったと想像すると、なんだか胸が苦しくなってきます。

 そうしてついには、ありえたはずの「2年生編」「3年生編」「ユース編」「大学編」「Vリーグ編」「オリンピック編」「ワールドカップ編」を大急ぎの駆け足でぜんぶ塗りつぶして、続編の制作が不可能な地点にまで時間軸を早送りして、ハイキュー!!世界に完全なるトドメをさしてしまいました。これは、「もうだれがなんと言おうとバレーボール普及の神輿には乗らないし、バレーボール漫画だけは今後の人生でぜったいに描かない」という、作者の悲鳴に近い宣言のようにも聞こえるのです。この結末には、シンエヴァを見たときと同じ感覚がよみがえって、当初のつもりであったのとは逆に、「盛夏の滅び」による気持ちの落ちこみは、よりいっそう加速していきました。私がハイキュー!!という作品を通じて知りたかったのは、あの小柄な16歳の少年の歓喜と成長であって、40がらみのオッサンが吐露する創作の苦しみでは断じてありません。「スラムダンクの呪縛」は1回戦から準々決勝へとコマを進めた状態で「ハイキュー!!の呪縛」によって、新たに上書きされる結果で終わり、「少年漫画の連載は5年以内、30巻未満で終了」せねばならぬとの思いをあらたにした次第です。

 あのね、艦これで例えるなら、ビーチバレー編は「連合艦隊12隻大破進軍」ですよ。最近の人気作になぞらえるなら、ビーチバレー編は「死にたがりの鬱君」ですよ。シンエヴァにせよ、正しい方向性を直言できる「良い大人」不在のまま、作者がいっときの自暴自棄で壊してしまった作品を見ると、どうにも自殺の名所で死者の手まねきに引きこまれるような気分にさせられます。20歳を越えた大人の話なんて、なにがあったって自分ひとりでやっていくしかないんだから、もうどうだっていいじゃないですか。少年漫画には、どこどこまでも思春期の葛藤へ寄りそって、少年が少年のまま世界の不条理を超克して、フィクションにのみ可能な栄光の輝きを見せてくれることを望みます。