猫を起こさないように
月: <span>2024年7月</span>
月: 2024年7月

雑文「FUNGUS, HOYOBA and FGO(近況報告2024.7.25)」

 ホヨバ幹部とファンガスの対談記事を読む。崩壊サード(未プレイ)ローンチ時の反省をふまえて、ブレワイの影響下と揶揄されがちな原神に、英雄伝説のフォロワーと言われやすいスターレイルと、じっくりていねいに新規IPを育ててゆき、それらの世界市場におけるプレゼンスが充分に先人たちの実績を凌駕したことを何度も指さし確認してから、かつて好きだった作品や作家へ最大級のレスペクトをもって、コラボやイベントへの登壇(田中芳樹!)をおずおずと依頼するーーこの態度は、以前にも「本邦のエンタメ業界にとって、真の脅威である」と指摘した「謙虚で内省的な、かしこい中華人民」そのものだと言えるでしょう。本対談におけるファンガスのホヨバ作品へ向けた分析には、さすがにするどいものがありましたが、「ライターたちへ、もう心やすまる日々は訪れないとお伝えください」など、ウエメセの先輩風を接待ーーくれぐれもハニトラには注意して! ファンガスの性癖である「昼は聖女で、夜は娼婦」を体現する美人コスプレイヤーを当てがわれますよ!ーーで気持ちよく言わせてもらっている、小鼻の広がってる感がただよっており、完全に他業種の他人事ながら、エロゲー時代からのいちオタクとしてはどうにも忸怩たるものがありました。

 ここ10年近く、FGOからの課金でホヨバ以上の収益を得ていた時期がありながら、古くさい前時代のアプリを1ミリも刷新せず、新聞広告やリアルイベントに加えて、昔からのファンしかプレイしないような低クオリティの派生作品やリメイクの乱発に稼ぎを浪費しつづけ、たった5年ほどで作品クオリティと収益の両面において、完全にホヨバへ追いぬかれてしまった。本家の屋敷を粛々と増改築することに専念すべきだったのに、門外に安普請のバラックを何棟も立て続けたあげく、そのほとんどがすでに住む人もなく倒壊している事実を見れば、学生あがりの同人サークルからアップデートされていない組織風土と、ほとばしる情熱と分析的な視点をかねそなえた企業体との違いを、痛いほどに実感せざるをえません。学生ノリとは、この祭りは必ずいつか「終わる」ことを無意識のうちに内在化した、都の大路で銭をまきながらねり歩くような、瞬間のハレに特化した狂熱に他なりません。一方でホヨバの姿勢は、いつまでも祭りを「終わらせない」ために、神輿のメンテナンスや担ぎ手の健康管理という圧倒的なケを粛々と引き受けつづける、「祭りの外から祭りを見つめる者」であることを徹底しています。

 ファンガスのふるまいはその好対照になっていて、彼/彼女は神輿の上から民衆の狂乱をあおりたてる半裸の巫女であり、その死が祭りの終わりとわかちがたくイコールになってしまっている(もしかするとこれは、本邦のフィクション全般に当てはまるのかもしれません)。FGOがホヨバの作品群にかろうじて対抗できる要素は「巫女の託宣」、すなわちファンガスの筆のみであり、第2部終章へと向けた年単位の牛歩戦術がくりひろげられている現在、それすらもあやしいものとなってきています。原神やスターレイルのクオリティでFGOのキャラが実装されていく世界線も、我々がもっともふんだんに課金をしていた時期に有能なフィクサーがいれば、充分にありえたことを過去の後悔としていだくのと同じ強さで、めずらしく純粋に国籍と人種の観点から、ファンガス個人を応援したい気分もあります。彼/彼女がこの対談で高らかにうたいあげた「美しいものを書きたい」という宣言は、他のすべてのひねくれた見方をふきとばして、強く心に響きました。なんとなれば、小鳥猊下はnWo開設から25年を経てなお、この場末のテキスト墓場で、「美しいものを書きたい」という気持ちを失ってはいないからです。

 そして、ここからが重要なのですが、ファンガスの幽閉先である「さいはての塔」で行われたホヨバ幹部との交流を、「国家間の機密」とまで表現したことからわかるように、いよいよFGOは第3部からホヨバ謹製の原神規模アプリとして新生することが、確定的に明らかになったと言えるでしょう。サーバントの引き継ぎに関してはオレも動く。抗議デモだよ。はっきり言ってオレが声をかければ、元テキストサイト運営者の半数以上は動くだろう。皇帝、四天王、10傑(オレ含む)、3本柱などの超一流だ。なによりも強いのは、全員ツイッターでのデモをブッとおしで何日も可能なことだ。リアルでの予定が……なんてヤツは一人もいない。サーバント引き継ぎなしとかふざけんなよ。馬鹿ばかなの? 死ぬの? そもそも大量に課金しないと強くなれない仕様にしたのは型月だろう? 型月にはサーバント引き継ぎをする社会的責任があるはず。なんだよ星5キャラ1枚の天井が6万円で5枚引きの宝具最強を強要って、しまいにはコンテンツ参加にはクラス縛り。普通の企業なら優良な客には特典つけるのが常識(iTunesカードとか最たる例)。ちょっと顔なじみのエロゲー作家に話つけてくるわ。

ゲーム「エルデンリングDLC:シャドウ・オブ・ザ・エルドツリー」感想

 ゲーム「エルデンリング」感想

 エルデンリングDLC「シャドウ・オブ・ザ・エルドツリー」をようやくクリア。常のごとく、最初に水をBUKKAKEておきますと、2とは言わないまでも外伝などの位置づけで、アイテム持ちこみなしのレベル1から遊びたかったというのが、いつわらざるファースト・インプレッションでした。本DLCは、あらゆるレベル帯のプレイヤーを一堂に会させるためのバランス調整として、特定のアイテムを集めるほど、与ダメが上昇して被ダメが下がるという仕組みを導入しています。これはキャラクターレベルの影響を少なくし、フィールドの探索に意味を持たせる「冴えたやり方」だとは思うのですが、当該のアイテムに関する物語的な説明は薄く、各地の篝火で味気なくメニューから強化をするにとどまり、専用のモニュメントなども存在しないため、非常にゲーム的な調整だと感じさせてしまっている点は、神話的世界観をウリにするエルデンリングにとって、いささか雑な処理になっている気はしました。また、ジャンプでボスの範囲攻撃をかわすことを強制したり、しゃがみ状態でほんの一部の草むらをステルス移動させたり、ほぼ死んでいる「アイテム製作」コマンドのためにウィッカーマン?討伐用のツボを作らせたり、既存のアクションとギミックをなんとか流用してオープンワールドへ適応させようとする努力は伝わるのですが、デモンズソウルから15年と6作を経た現在、そろそろ完全新規のシステムによるダークファンタジーの制作を模索してもいい時期ではないかと思います。

 「ゲームは1日1(or2)時間!」を座右の銘とする社畜にとって、時間あたりの発見がプラトー状態となったあとは、例によって「ゲームは1日22時間!」な先人の攻略過程a.k.a.粘液トラックをなぞるだけの「瀕死の奴隷」と化してしまったものの、いっさいの情報を遮断した初見の探索は、キングズフィールド2より連綿と続く、これぞフロム・ソフトウェアといった破格の面白さで、ひさしぶりの充実したゲーム体験であったことを、ここまでさんざん腐しておきながら、本作の名誉のためにお伝えさせていただきます。特に、発売初週の日曜日にいどむこととなったレラーナ戦は、ボスたちが弱体化される前の「触られたら、即時蒸発」という地獄・鬼ゴッコ状態で、影の地への迂回路なんて知りもしないものですから、軽く数十戦のリトライを強いられることとなりました。本DLCでは、レラーナをはじめとして、体力ゲージが50%を切ると行動パターンの大きく変容するボスがおり、新たな動きを見極めて対応を習熟させたくとも、ゲージ半分への到達さえヒイヒイ言っているミドルエイジの反射神経では、賽の河原の石積みのほうがまだ進捗があるような状態に陥ってしまいます。人生に少年漫画的な覚醒が無いことを痛いほど知るマネジメント層は、協力プレイとは名ばかりの丸投げで、レラーナ打倒を下請けに外注しようと考えはじめるわけです。そうして、他世界のプレイヤーを召喚すべく、下卑た表情で鉤指を使った瞬間、かつての蓮コラのごとく床一面にビッシリと金文字が現れ、思わず「ヒッ」と殺される前の悪役じみた声がほとばしったのも、終わってしまえば楽しい思い出だと言えるでしょう。呼ぶ褪せ人、呼ぶ褪せ人、ほぼ全員と表現しても過言ではないほど、「左手に大盾、右手に長槍」というエルデンリング的には「誉れを捨てた」よそおいだったという事実をお伝えすれば、攻略情報の薄い時期にだけに訪れる、あの阿鼻叫喚の空気を感じていただけると確信しております。

 ファーストパッチ以前は、どのボスからの被ダメもあまりに大きすぎ、旧エヴァで例えるならば「ビームのタメ時間がゼロかつ動きの俊敏なラミエル」みたいな相手ばかりであり、「触られたら即死だが、盾の上からなら無傷」という一種異様な状況が、大盾マンを増殖させていったのだと分析できるでしょう。この重装備優勢の環境が、ゆるやかに「股間にシャブリリのブドウを2つ装備しただけの、レベル1短剣装備な”避け上手の若君(全裸)”」へ収束していくまでが、ソウルシリーズの変わらぬ伝統だと言えるかもしれません。動画配信でゲームを擬似体験する層にとっては、ローリングとパリィだけでボスを封殺する様子などを見ると、「なーんだ、エルデンリングって、簡単そうじゃん」などとナメた感想をいだくのかもしれませんが、じっさいにコクピットへ腰をすえ、操縦桿をにぎらされれば、たちまち音速のGで首ごと持っていかれ、なにもできないまま一瞬でブラックアウトする結果に終わることでしょう。本DLCのボスたちは、スキマ風のびょうびょう吹くパンスケのCHITSUにINKEIをエクストラポレートするような気軽さで、まばたきひとつのうちに2コマ漫画でゼロ距離へと接近し、コブシの根本までをキツキツのみぞおちに埋めてくる、高速のステゴロ番長ばかりなのDEATHから! 「シューティングゲームに搭載されていたらゲームバランスが崩壊するだろう、敵の弾の異常なホーミング性能」や「最新の人工知能も真ッ青な、プレイヤーの動きではなくボタン入力を検知した敵の回避行動」などは無印からいまだ健在で、影樹の地での冒険において再び、幾度かキャラクターではなくプレイヤーのステータスが「発狂」となりかけました。ロックオン状態からは、どれだけローリングしてもかわせない、大質量カバのゴキブリダッシューー満タンの体力が噛みつき3回でゼロになるーーに、褪せ人のマナコはスカーレットロットもかくやというほど、マネジメントの不可能なアンガーで真ッ赤に染まりましたからね(すぐに修正されたようです)!

 「妹による近親姦を目的に、兄の魂を移植した他人の遺体」という最高に気のくるったラスボスを、他世界のプレイヤーに外注してブッたおしてもらったいまは、情報なしの初回プレイでは決して回収できないNPCイベントーーすべての褪せ人が「撃たれる前に殺す」をモットーとする例の虫の死にかけを視界に入れた瞬間、反射的にたたきつぶしてしまい、バキボキにフラグをへし折るなどーーをイチから追いかけるべく、2周目の準備にとりくんでいるところです。装備や魔術や戦技や遺灰のリストを調べていくと、本編もふくめて信じられないほど膨大な取りこぼしをしていることがわかり、あらためてエルデンリングというゲームの規格外の規模を実感させられて、クラクラと目眩がしております。しかしながら、1日22時間プレイヤーが1週間で8周してゲームに熱力学的な死を与えるのに対して、1日1(or2)時間プレイヤーは極限にまでプレイタイムを縮小することで、有限なはずのゲーム体験から無限の主観時間を取りだせるのは、まさにフリーマン・ダイソン言うところの「永遠の知性」の定義そのものであり、エリート(ノット・ソー)サラリーマンの持つ特権だと言えますね!

アニメ「ルックバック」感想

 アニメ版ルックバックを劇場で見る。発表時、意味深な公開日とあいまってタイムラインを沸騰させた原作には、主人公の名前のモジりとか、11巻で休載するシャークキックとか、藤本タツキの自伝的な物語として読ませようとする誘導を強く感じたものである。「喪失を乗り越えて、描き続ける」というテーマは、創作を生業とする人々に深くささるものだったろうと推測するのだが、作者の半生を仮託していると考えた場合、「身近な現実として、その喪失を経験したのか?」は、作品の評価にかなり影響を与える問いのように思う(劇場版ヴァイオレット・エヴァーガーデンの行き過ぎた死の描写をしぶしぶ許容できるのも、このラインが判定基準にある)。原作ルックバックは、「作者の”実体験ではない”京アニ事件への哀悼と、クリエイターたちに向けた連帯のメッセージ」をオーバーラップして読ませようとした可能性が大いにあり、仮にそうだとするならば、東日本大震災を無邪気にエンタメ化した「すずめの戸締まり」と同じーー無神経にエンタメ化したエヴァQよりはマシーーカテゴリに属しているとも言えるだろう。何度でも繰り返すが、この世には軽々と第三者が触れてはならない痛みが存在しており、エス・エヌ・エスのかかえる最大の罪禍とは、どこからでも何にでも極小の労力で言及できるという性質から、その垣根を不可視化してしまったことにある。

 話がそれたが、原作ルックバックの問題点は、京アニ事件の発生した日付にわざわざ近接させて、あらゆる人間が閲覧可能なインターネットという媒体に公開されたことだ。本来ならば、一部のマニアしか目にしないマイナーなサブカル紙へひそやかに表明されるべき中身だったのが、文字通り全世界へと配信されてしまったことで、語りの質を決定的に変じてしまったのである。おそらくはフィクサー気どりの編集者が、おのれの手柄として盤外から意味をさらに付加しようと試みたせいだろうが、本来まとうべきではなかった情報までをも、読み手に受けとらせることとなってしまった。非クリエイター職の人間に言わせれば、それは梅雨の時期に食卓へ一日おいた煮物へ鼻をひくつかせるどころではない、口腔に広がり嚥下をさまたげるまでのふんぷんたる自意識の悪臭に他ならない。眉をひそめた百姓や商人の「芸ぐらいのことで命までとられて、哀れなもんやな」という軽侮のささやきの裏で、同胞の遺骸をかきいだいて河原へ落涙する本来的な絶望が、現代においては当事者にさえ遠いものとなっているのだ。

 このたび劇場公開されたアニメ版について言えば、チェンソーマンの映像化が監督の個性を前面に出しすぎて炎上した反省を踏まえ、「原作を一言一句、一場面も変更せず、藤本タツキの描線をそのままに動かす」という手法で作られており、皮肉なことにそれがわずかの改変をむしろ浮かびあがらせてしまった。すなわち、「漫画メディアは音声を欠落している」という当然の空隙に、監督の主観が「荘厳なる音楽」という夾雑物として混入したのである。人並み以上には映像作品を見てきた経験のある身なれど、かように作品の解釈を外挿的に強いる、むしろ邪魔だとまで感じさせるような劇伴は、二重の意味でこれまで聞いたことがない。エンドロールで流れる聖歌隊の斉唱へもっとも顕著にあらわれているように、原作では「河原者の慨嘆」として静かにひそやかに描かれていた諦念と隣接する覚悟を、近年の若いクリエイターたちに顕著であるところの、例えば「一次産業へ従事する者を下に見る」ような傲慢さによって、無限のグラデーションをともなっていたはずの機微の上から、「殉教者の高潔」という名の原色ペンキで一様に塗りつぶしてしまった。これは、高度の都市インフラが個人に「無限のヒマつぶし」時間を与えた結果、虚構が生命維持に不可欠であるかのような錯覚が横行し、「ただちに地上から消滅したとして、人類の運行に何の影響も与えない、無用物である本質への絶望」が、いつか極限にまで薄められてしまったゆえの喜劇と言えるだろう。

 原作におけるラストシーンの背中は、「最愛の人を亡くした後でさえ、”つながる”ために、ペンを動かすことをしか知らない者の悲しみ」まで伝えていたのに、アニメ版のそれは大仰な劇伴のせいで、「創作活動とは、この世のすべてにまさる崇高な営為だ」という、多くの生活者の神経を逆なでする余計なメッセージーーおそらくは監督と音響担当の気分ーーを付与してしまっている。円盤リリースの際には、一次産業や二次産業で口を糊する原作ファンのためにも、劇伴だけを抜いた「無音バージョン」の収録を、ここへ切にお願いするものである。あのさあ、監督チャン、タツキ作品にキミの余計な解釈や自己陶酔は必要ないねん! 昭和の地方在住オタクから、いらん忠告をしとくけど、「都の大通りの遠く、洛外に住む不倶」という自覚から創作活動をスタートせんから、こないなハメになってまうんやで! エロゲーを出自に持つ商業作家の深海魚のような慎重さに、少しは学んだらどないでっか!

 最後に、「原作との差違」という点で気になった場面をひとつあげておきますと、あの象徴的な雨中でのダンスは、「選ばれてあることの恍惚」を胸中にとどめおけず、魂の昂揚で肉体がつき動かされたルックバックの白眉ですが、漫画における表現のほうが圧倒的にすばらしく、よくできているのだろうアニメーションをながめながら、心の中では「解釈違いのクネクネ踊りで、名場面を台無しにすんなよなー」とずっと毒づいていました。