猫を起こさないように
月: <span>2024年6月</span>
月: 2024年6月

雑文「中年が終わって、パーティが始まる」

 パーリィズ・オーバー・ゼン・ミドルエイジ・ビギンズを読了。現実との間に薄皮が一枚あるように生きているとか、きっと「人生ってウソみたいだ」と思いながら死ぬだろうとか、かなり近い生活実感を持っている人物で、もしかすると世代という言葉でまとめられるのかもしれませんが、「逆だったかもしれねェ…」という感慨はあります。結局のところ、すべてのパーソナリティは幼少期の体験を色濃く反映するものであり、筆者が徹底して言及を避けている家族との関係のほうを読ませてくれないかなーと思いました。天性の露出癖から、聞かれてもいないのに自身のことを申せば、いまチーズを好物としているのは、粉ミルクでの子育てに対する罪悪感からか、母親が離乳食でチーズを与えまくった(支離滅裂な行動)からだし、タオル地の感触に安心を覚えるのは、夜泣きに疲れはてた母親がベビーベッドへぎゅうぎゅうにバスタオルを詰めて己が抱擁の代わりとしたからです。弊害として極度の閉所恐怖症となり、小学生の時分に体育マットでス巻きにされたことが人生でもっとも発狂に近い瞬間であり、いまだに思いだすと手のひらへ汗をかきます。現実との間に薄膜があるのも、やわらかい時期の精神に向けられた、たび重なるダイレクト・アタックを少しでも弱めるための防衛規制の名残りでしょうし、残念ながら幼少期の体験から逆算するだけで、だいたいの個人的な性質には説明がついてしまいます。その「個性の凡庸さ」に、早い段階で気づいておかなければ、弱い風邪にすぎないものをこじらせる結果となります。ようやく中年が終わって、パーティを始めつつある「暴れ大納言」からは、「早めに夏休みの宿題を終わらせておかないと、バケーションの予後は悪くなる」という話をしておきましょう。近年では「末代の大騒ぎ」にかき消されがちな、当然の前提をだれかが残しておかないと、じきにキャンセルやカウンターが機能しなくなりますからね!

 じっさい、それは宿題と表現するような大げさなものではなくて、平均寿命から逆算しても生命の時間を4分の1ほど使うだけの作業ですし、貴君の人格や生き方に深刻な影響を与えるほどのものではありません。未経験者は「先天2割、後天8割」と考えがちですが、じっさいは「先天8割、後天2割」ですので、まったく気負う必要はないでしょう(さっきと違うこと言ってる)。いま7月を生きていて未着手のみなさんには、早めに宿題へ取りかかることをおススメしておきます。個人的な観察の範囲だけでも、8月の中盤へ差しかかるほどに、識字と発話に問題の生じるケースが有意に増え、4分の1が1になるリスクを高めるようですから。また、推測するしかありませんが、この宿題は8月の終盤へ進めば進むほど重さを増すようで、「やらないこと」へのアナーキーかつ優越的な高楊枝が、次第に背中の冷や汗へと変じてゆき、聞いてもいない過剰な言い訳を、周囲へまきちらかすようになります。自分を作った者たちの衰弱による完全な自己消滅への自覚と、社会の豊かさへ何も加えずフリーライドしている事実への後ろめたさが、彼らの内面でジリジリとまさってゆくからかもしれません。「世界に恩恵を受けた2が、世界に2をお返しする」という公式の、なにを足し引きする必要もないエレガントさに対して、そうではない別解を証明しようとする試みのほうが、大きな物量をともなってしまうーーそもそも”not even wrong”だからーーのは避けがたいことながら、いま7月を生きているみなさんは、そういった「非証明ノイズ」に惑わされずに、実証されたシンプルな完全解を生きてください。

 最後に、正直なところを述べておきますと、筆者の言う「インターネットが叡智の集積となる未来」を夢見た時期があり、「テキストはすべて全世界に公開」を基本とし、書いたものに値段をつけるなら「100億円、さもなくば無料」を信条とする身にとっては、このぐらいの内容で「1500円(!)を払わないと読めない」という事実が、本書における最大の皮肉だなーとは思いました。カネがあることで避けられる8月後半のミゼラブルは少なくなく、みなさんは7月を生きるうちに、先人の知恵を骨身のものとして体得しましょう。ともあれ、(浅い塹壕から上半身をのぞかせながら)ウェルカム・トゥ・アンダーグラウンド、虚構日記でした。

書籍「麻雀漫画50年史」感想

 麻雀漫画50年史をようやく読了。電子版が無いために読む場所が限られ、ずいぶん時間がかかってしまいました。え、通勤カバンに忍ばせていけばいいじゃないですかって? おお、とんでもない! 同僚や近隣の住人に、麻雀好きの博徒だなんて思われたら、社会生命が終わってしまうじゃないですか! それに、同じ車両へ居あわせた乗客を不必要に怖がらせたくもないですからね! 冗談(半ば本気)はこのくらいにして、本書の内容にふれていきますと、比較的まだ歴史の浅い、一般人よりは知識があると自負している分野で、こんなにも知らないことがあるのかと、まず驚かされました。小鳥猊下がモノを書くときの基本スタンスは「やがて一人になるだろう読者へ向けての、感情と記憶の記録」であり、事実の誤認や反社会的な感情さえ、その一人にとって「意味のある過誤」だとひらきなおっていますが、こういう「ちゃんと調べて、正しく書く」姿勢の方には、ずいぶんといい加減なテキストに見えるんだろうなと少し反省しました。本書を読みながら感じていたのは、「組織内にいる若い世代が、かつての自分より優秀だとわかったときの安堵」にも似た気分であり、よくぞ10年の長きを費やしてここまで調べ、よくぞ最後まで書ききったと、ブラヴォの拍手を送りたいです。

 著者が生まれる前の70年代については、事実のみをベースとした研究書を思わせる淡々とした語りだったのが、おそらく実体験の伴う80年代後半以降からは、書き手の主観の漏れだす瞬間がいくつかあり、たいへん微笑ましく読みました(以前も述べましたが、私がもっとも知りたいのは「同時代の作り手の感情」なのです)。「ナルミ」とか「麻雀放浪記classic」とか、長らく忘れていた漫画の絵柄を目にして、かつての記憶がよみがえるのも楽しい体験でした。「遊戯の代償行為としてスタートした麻雀漫画が、ネット麻雀の台頭にその快楽の唯一性を奪われ、衰退が始まる」という指摘はまさに慧眼であり、「セックスの代償行為として発展したエロゲー」に置換しても成立しそうな、ロングスパンでの鳥瞰が可能にした上質の社会分析だと言えるでしょう。しかしながら、本書に最大級の敬意を表して、筆者が麻雀漫画のベストだと推薦する「麻雀蜃気楼」と、もっとも紙幅が割かれた上、表紙にまでキャラを使っている「咲-saki-」を全巻購入して読み進めるうち、小鳥猊下の表情は穏やかな微笑から眉根を寄せたしかめツラへと、みるみる曇っていったのでした。あらかじめ断っておきますと、ここから記述する内容は本書の評価とはまったく関係のない、それぞれの作品へ向けた単独の感想となります。

 「麻雀蜃気楼」は、昭和のモーレツ社員を想起させる懐かしいサラリーマン描写が魅力で、麻雀打ちというより勤め人に向けた印象的な人生訓がいくつもとびだします。師匠とする雀荘の立ち退きをかけた勝負までは、ストーリーに一貫性があるのですが、最終巻になると、おそらく人気の低迷から打ち切りに至るまでの試行錯誤と言いますか、迷走感がただよっており、「麻雀とどう向きあうか?」という問いに主人公の出した答えが、保育園だか児童養護施設だかの運営だったのには、たいそうガッカリさせられました(子どもたちを守るため、悪の地上げ屋と麻雀勝負するってこと? もしかして、タイガーマスクの影響?)。余談ながら、これは絶賛放映中であるユーフォニアム3期で、あれだけ奮闘している主人公の行く末が、母校の教員ーーしかも、吹部の顧問ーーであることをwikiで知ってしまったときと、同じガッカリ感だと言えるでしょう(10年後の同窓会でプロの奏者となった友人と再会したとき、学生時代と同じ笑顔で男性顧問との不倫と金賞の話しかしない、タコツボ某みたいな未来を幻視したためです)。

 そして、いよいよ、多くに嫌われる覚悟を決めて、「咲-saki-」の話をしてゆきましょう。本作は「はじめて漫画を描くことになった、美少女ゲームのイラストレーターによる作品」であり、最近タイムラインで見かけた「凄腕アニメーターだからといって、漫画を上手く描けるわけではない」と同じ問題が、白日の下に提起されています。50年史では、いくつもの点から「画期的」であり、「00年代で最も重要な作品」とまで持ちあげられているのですが、「女子中高生にオッサンの趣味をさせる一般漫画の系譜から生まれた亜種であって、麻雀漫画の通史の延長線上にはいないのでは?」と考えてしまいました。人生でいちどは口に出したい台詞が「三カンツリンシャンカイホウ、マンガン」であり、麻雀漫画でもっとも好きな擬音がひらがな縦書きの「りんしゃん」である哭きの竜ファンにとって、主人公の能力である「嶺上開花で必ずツモる」はオマージュの範疇を越えたパクりのように感じるし、「海底で必ずアガる」という敵ーー国文学者の父を持つ幼女という設定で、漢語によるキャラ立てが痛々しいーーとの対局も麻雀というより、もはや異能力バトルになってしまっています。「どんな点棒状況からも、気迫と胆力でまさったほうが役満で勝つ」みたいな闘牌を、残念ながら面白いと感じることはできませんでした。

 この序盤のトンデモ決勝戦のあとは、美少女ゲームのキャラデザという作者の得意分野を生かし、全国大会に向けてこれでもかと美少女キャラが追加されていくのですが、「萌え」を引退してひさしい身には外見と個性ーーたい焼きの代わりにタコスを使うなどーーのリャンメンでまったく見分けがつきません。本作の本質は「汗か小水か愛汁か判断のつかない液体が付着した、パンツをはいてない股ぐらを写す不自然なカットの多い、ソフトレズ風味の美少女動物園」であり、麻雀要素を重視しなかったからこそ、LGBTQF以外の絶大な支持を得て大ヒットした作品だと思うのですが、これを麻雀漫画のカテゴリ内でほめあげるのは、ステラーブレイド(また!)を称揚するのにブレワイとかエルデンリングを持ちだすようなものでしょう。求められていたのは、「ポコチンを外して記述し、ポコチンを装着して読みなおす」というリビドー・フリーな態度だったと思います。オタクとは、すなわち「脳からポコチンを外せないホヤであり、性欲を客体化できない生物である」ことの傍証がまたそろってしまったなーというのが、本作へ向けた偽らざる感想です。もちろん、よく内容を確認もせずに「電書で既刊25巻を一括購入」してしまった憤りも、この筆の勢いを多分に手伝っているのは間違いありません。私からの「咲-saki-」に対する歴史評価は、「麻雀漫画50年史を書かせる強い動機のひとつとなった」という一点のみであることを、吐き捨てるようにお伝えしておきます。

 最後に公平を期すため、小鳥猊下のオススメ麻雀漫画6選を挙げておきますと、「哭きの竜」「ショーイチ」「トーキョーゲーム」「根こそぎフランケン」「ノーマーク爆牌党」「むこうぶち」です。

映画「マッドマックス・フュリオサ」感想

 待望のマッドマックス・フュリオサを、オッピーから得た教訓を生かし、公開初週のIMAXシアターで見る。前作が映画のフレームごとふきとばす、激しい情動の物語だとすれば、本作はカチッと枠組みを作ってから中身をならべるような、非常に理性的な作品でした。フュリーロードは新奇の世界観を消化しきれないうちから足元の水位がどんどん上がりはじめ、気がつけば濁流に呑まれ溺れており、流れは泥から砂利に砂利から石に石から岩にとどんどん変化してゆき、最後は怒涛の土石流と化した奔流の中で「アカン、もうこれは死んだ」と観念したところで、気がつけば清浄な河口の岸辺に、五体満足の無傷で横たわっている自分を発見するような体験だったと表現できるでしょう。一方でフュリオサの急流は、船頭つきの保津川下りになっている感じで、単体としてはIMAXシアターで必ず見るべき90点越えの快作にしあがっていながら、映画史において燦然たる記念碑と化した前作と比較すると、端々に物足りなさが目立ってしまいます。比肩できるアクションシーンは連結トレーラーと飛行バイク部隊の戦いぐらいだし、構成にも「ゆきてかえりし、青い鳥の物語」という見事さに匹敵する驚きはありません。フュリーロードの関係者インタビューによるメイキング本に、「これまで存在しなかった種類の映画」を出資者に認めさせるため、編集権をめぐる監督と会社側との火を吹くような争いの記述があり、それが前作を1秒1カットの無駄も見つからないソリッドさに磨きあげたのだと思うのですが、本作ではおそらく監督の意志が100%通る状態ゆえに、余計なシーンや長すぎるカットが散見されます。クリエイターの意向を最大限に尊重するほうへ時代は動きつつありますが、観客動員数と興業収入を丸がかえにして、すべての責任を負ったプロデューサーとの火花散る激突という「金床」で鍛えられる作品が、どんどん減ってきているような気がします。反対に、創作者の「知恵と理性と良心」を信じすぎる態度に冗漫化して肥大化した、だらしのない作品が増えてきていることに、疑う余地はありません。

 本作で言えば、残念ながらアニャ・テイラー・ジョイにまつわる撮影がそれで、連結トレーラーから降ろされたあとの立ち姿を延々と写すシーンとか、悪夢にとび起きたフュリオサが再び横になって眠りにつくまでのシーンとか、「ああ、監督はアニャたんが大好きなんだろうな……」とは感じるものの、物語に対して何のプラスも与えていないのです。格子と爆炎を「炎の十字架」に見立てて背負わせるとか、ウジの洞窟を産道に見立てた生まれなおしとか、象徴的に読ませたいんだろうなという場面さえ、ストーリー中の正しい位置に挿入されていないような、チグハグした印象を受けます。美男美女というには、特徴的すぎる造作の俳優を愛しており、アダム・ドライバー(デイジー・リドリー、ざまあ! スターウォーズの呪い、すげえ!)と同じくらいアニャ・テイラー・ジョイのことを好いているのは、これまでにもお伝えしてきている通りですが、惜しいことにフュリオサという作品は、彼女の良さを生かしきれておらず、互いの長所どうしが水と油になってしまっています。乱暴な言い方をすれば、アニャ・テイラー・ジョイの魅力って、外形的にはマリリン・モンローなんですよ。それなのに、金髪を黒く染めあげ、顔には墨を塗りたくり、台詞も少なく満足に演技をさせないため、長所のほとんどを消されて、特徴的な目だけがギョロギョロとした「目ヂカラ・モンスター」みたいな存在にさせられてしまっている。さらに、エージェントからの要請もあるのか、本作では少女のフュリオサが「レイプされたか」「セックスしたか」を徹底的にボヤかして、いっさい語ろうとしない。他方で前作のヒロインたちは、「レイプされ、セックスしたが、それは彼女たちの純潔を汚すことかなわず、見よ、太陽の下で黄金に輝いている」という描き方になっていました。「黄金に輝くアニャ・テイラー・ジョイの本質が、いかにしてイモータン・ジョーにおとしめーー絶対に彼と性交しとかなきゃダメ! フュリオサの欠かざる属性は、”石女”なんですから!ーーられ、復讐に燃える隻腕の黒い戦士となるか?」を描かなければ、本作でも空々しく使われてしまった決め台詞「リメンバー・ミー?」へ、恩讐の彼方にある因縁の重さが乗ってきません。

 また、フュリオサが大隊長にまでのしあがった経緯についても、「身軽ではしこいメカニックが初陣で戦果をあげ、前隊長に”情婦として”見初められる」みたいな文脈になっちゃってませんか、これ。そもそもの身体つきが戦士のそれではなく、いつもの勝手な思いこみから、シャーリーズ・セロンとかクリスチャン・ベールとか実写版変態仮面の人みたいな肉体改造までする系統の俳優だと思っていたので、本作の役作りには少々ガッカリさせられました(ナイフをふりあげる腕の、まあ細いことったら!)。いちばん気になったのは、荒野の逃避行ーーこのロマンスに至る男性サイドの動機も「惚れたオンナのため」ぐらいのペラさしかないーーの果てに捕えられ、悪党の長広舌を聞く場面で、フュリオサがマックスもどきの肩にしなだれかかり、言葉を交わす様子が映るのですが、彼女のキャラ造形からすれば、この苦境からどう脱するのかをあきらめずに話しているのかと思うじゃないですか。それが、女は伏線回収のために切断予定の腕を吊られ、男は砂中ひきまわしの上で犬に食われ、先ほどのやりとりがただの「愛のむつみ」だったとすぐに判明するのです! アニャ・テイラー・ジョイと間男のする、解釈違いのアドリブ演技をそのままスルーして使ったのだとしたら、監督はあまりにも彼女に気をつかいすぎてはいないでしょうか。映画の結末にしても、5人のワイブズを映したところで終われば必要十分だったのに、フュリオサが彼女たちをトレーラーに乗せる場面から、スタッフロールにあわせて前作の映像を流したのは、本シリーズの格調ーーそう、マッドマックスは、エゲツない世界観にも関わらず、高い格調があるのですーーにあわない興ざめな下品さであり、さらに時系列的に本作と前作を「直つなぎ」にしたことはフュリオサとイモータン・ジョーとの因縁がまったく存在しなかったことを確定してしまっていて、きわめて悪手だったと思います。子役とアニャ・テイラー・ジョイの顔をAIモーフィングで融合していることが話題になりましたが、冒頭の「緑の地」やエンディング直前の「果樹と付随物」の描写もかなりVFXしていて、次作「ザ・ウエイストランド」に向けて不安は高まります(夢と現実が持つ質感の差異を表現していると思いたいです)。撮影地ではなく、舞台そのものがオーストラリアであることも映像で明示してしまったし、続編の制作はあれだけ広大だった世界をどんどん狭めていくだけではないかと、少し心配になってきました。

 なんだか全体的にディスってるばかり(いつもの)になりましたが、100点満点中200点を取った作品の続編が90点の採点だったゆえの無いものねだりであり、未見のみなさんはぜひ劇場に足を運んでくださいね! 「偏屈で狭量なファンの脳内では、この大傑作がそんなふうに見えているのか!」と驚かれること、必至でしょうから! 正直なところ、本作の主役はフュリオサというよりディメンタスであり、「戦乱の末法において、『狂気の王か、道化の王か』の選択肢をしか与えられない民衆」という図式は現代社会に対して充分に批評的ですし、「与党イモータン・ジョーの生んだ冨やインフラにフリーライドしながら、なにひとつ生産性のない挑発的なスピーチで存在感だけアピールする野党ディメンタス」という見方も、カントーのみなさんにはきっと楽しいですよ(低みの見物)! あと、40日戦争はドラマとかゲームとかでスピンオフ化する気マンマンなんだろうなーと思いました。

アニメ「ウマ娘プリティーダービー・新時代の扉」感想

 「当世イチのアニャたんファンとしては、フュリオサの予告トレーラーをスクリーンで見ておかなくちゃな……」というよこしまな欲望に駆動されて、外出中のスキマ時間で劇場版ウマ娘を見る(どんなチョイスやねん)。主役の”オレっ娘”が多彩な美少女たちと勝負にシノギをけずる、昭和の少年誌に掲載されていたかのような「熱血スポ根もの」という怪作にしあがっています。おもしろいかと問われれば、確かに平均以上にはおもしろいのですが、中盤で延々とくりひろげられるいわゆる「曇らせ」が間のびしているのと、いちばん盛りあがるはずのレースシーンがいずれも同じ一本調子のため、既視感によるダレはありました。本シリーズは、実在する競走馬のレース人生を「史実」に見立てて、「もし、彼/彼女がヒトと同じ内面を持っていたのなら、いったいなにを感じただろうか?」という問いかけに対するアンサーによってストーリーは進行していくのですが、もともと競馬に興味を持たず、スマホ版もリリース初年度の半年ほどで脱落した身からすると、アグネスタキオンというキャラの内面が大仰な描写のわりに意味不明で、視聴後にウィキペディアを調べて、ある程度の「答えあわせ」はできたものの、「立式の過程が解説されない」というモヤモヤは残りました。それもこれも、筋書きを史実に寄りかかりすぎているせいであり、テレビシリーズもそうでしたが、「栄光を挫折で”曇らせて”からの、大復活劇」なる物語の型にピッタリとハマる競走馬を探しだして主役にすえることが、悪い意味での枷になっている気はしました。本作をあしたのジョー(古ッ!)で例えるなら、ジャングルポケットが矢吹丈、アグネスタキオンが力石徹、フジキセキがカーロス・リベラ、テイエムオペラオーがホセ・メンドーサみたいな配置と役割になっており、「力石をリング上で撲殺してしまったため、顔面を打てなくなったジョーが、カーロスとの死闘でボクサーとして復活する」ところまでは、史実を利用した葛藤とその克服を演出することに、かろうじて成功していたとは思います。しかしながら、「フジハ、ポケットトハシルマエ二、コワサレテシマッテイタンダ……オペラオーノスエアシニヨッテネ」へ相当するラスボスとの因縁が作中でいっさい語られないため、最終レースの意味づけというか、作品中での意義が薄くなってしまい、ラストはいまひとつ盛りあがりに欠けました。

 「凄腕アニメーターたちがCGに頼らず、迫力のレースをペン1本でえがききる」という盤外のナラティブも目にしたものの、レース描写じたいがけっこうマンネリ化してきているとは思います。「美少女にさせるスレスレの変顔」「疲労や絶望を表すさいは多めのシワ」「スパートをかけるさいは地面を踏む足のスローモーション」「最高速に達したことを表す風防様のエフェクト」「限界を超えたことを表す劇画調の主線の乱れ」などの決まり芝居から、何より「史実による歴史修正力」で勝敗が決まるため、レースの展開がいささか説得力にとぼしく、結果に納得感が生まれてこない。なぜかシンカイ=サンが”いっちょかみ”で「レース後、唐突にライブが始まるのが異文化体験」みたいに語っているのを目にしましたが、そもそもライブの前提であるレースが筋書きありきのミュージカルになってしまってはいないでしょうか。これだけレースの過程や結果を「史実」に依存しているのだから、実在する競走馬の体格や筋肉の付き方、性格や走り方のクセについて、ケレン味を廃した確かな動きとしてアニメーションに落としこむ方法論もあったんじゃないですかね(宮﨑駿みたいなこと言ってる)。さらにうがった見方をすれば、本作のレースシーンは「クリエイターがクリエイターに向けて作る」の見本みたいな中身になっており、「いやー、ここの表現はグレンラガンのアレを参考にしてまして」みたいなニチャクチャとしたエクスキューズが終始、耳元でささやかれるかのようでした(幻聴です)。競走馬の名前もアニメーターの名前も知らない市井の一市民にとっては、そういったメタ要素から二重の意味でフィクションへの没入をさまたげられる感覚があり、マモルさんのよく言う「アニメーターは犬の集団と同じ。いちばん上手いヤツに、全員がゾロゾロついていく」との指摘が正しいとするならば、ガールズバンドクライみたいにレースの絵はぜんぶ3DCGで作って、脚本と構成に時間をかけたほうが、上手い犬に全体のトーンをひっぱられずにすむんじゃないですかね(頭頂部から雨様の黒いエフェクトを吹きだしながら)。

 「まだ上半期だけど、実写を含めた本年度のベストになるかもしれない」みたいなタガの外れた激賞も見かけましたが、ウマ娘は「美少女が制服や体操服やアイドル服を着て走ってるから、楽しく見ていられる」という、LGBTQF以外が抱く欲望を極大の前提としている事実に関して、どういった心の動きで意識の死角へと追いやることができるんでしょうか。これはステラーブレイドの大ヒットと同じ根を持っていて、アーマードコア6をその難易度から早々に投げた人物が、エロ装備を目的に数多の強ボスを撃破し、エロ装備を目的に全マップを隅々まで踏破し、エロ装備を目的に全クエストをクリアし、エロ装備を目的にドリンク缶をすべて収拾し、エロ装備を目的に2周目を始めるべきかをいま真剣になやんでいますが、この50時間をもってステラーブレイドは空前絶後の大傑作だなんて強弁するつもりは、サラサラーーロングポニーテールがラテックス臀部をなでる擬音ーーありませんからね! おのれの性欲を客体化できないのは昭和の太古より変わらぬ、オタクの持つ精神の陥穽だと言えますが、このたびの唐突な視聴には「ウマ娘初日の劇場がとんでもなく臭い」という直球ディスをひさしぶりにタイムラインで見かけてうれしくなってしまい、台風の日に川が氾濫する様子をうかがいに行くような野次馬的側面が、多分にあったことは伝えておきましょう。おとしめたい相手とケガレを紐づけるのは、人類史に変わらぬ差別の本質であり、オタクという概念が文字通り脱臭され、そのリプレイスとして「チー牛」なる単語が生まれたことには、ある種の感慨があります。長い苦闘の末に克服したと思った負の感情を、後の世代がガワだけ違えてくりかえすーーそれは、虚脱にも似た悲しみだと言えましょう。ともあれ、「差別の形は、人の心の形」との思いを再認識すると同時に、エスエヌエスへ垂れ流れる情報の胃ろう的な吸収は、知恵や知識とはほど遠い流動食にすぎないとの指摘を、自戒とともにここへ残しておきます。

 最後にウマ娘へ話をもどしますと、フジキセキのレース服が裸ジャケットで、申し訳にネクタイを谷間へ垂らしているのは、何か照応する「史実」があるんですかね? ちょっと走っただけで「まろびでそう」なのにハラハラさせられたので、せめて肌色のインナーとか着せてほしいなーと思いました。