猫を起こさないように
月: <span>2024年5月</span>
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雑文「SHINEVA, STARRAIL and FGO(近況報告2024.5.20)」

 Qアンノによる「エヴァの続編」発言が、弊タイムラインをゆるい便のごとく垂れ流れてくるのを目にし、ひさしぶりに心の底の底までがしんとする、あの冷たい怒りを思いだす。これは確認するまでもなく、会社経営だけを念頭においた初老男性によるマウス・サービスa.k.a.ブロウ・ジョブa.k.a.フェラーティオウであり、自らが殺めて山に埋めたキャラクターたちの遺体を、嬉々として掘りおこしにいくがごときサイコパスな言動は、目にするたびに背筋へゾッとしたものが走ります。アルコールへ肉抜きで耽溺し続けることに起因する前頭葉の萎縮および加齢による健忘の影響でしょうが、またぞろ「エヴァをガンダムのようなプロダクトに」へ類する妄言もとびだしているようで、手づから稀代のサイファイに凡庸な私小説を上書きして抹殺した現実は、先ほどすませたばかりの昼食を再び息子(非実在)の嫁にせがむ老父がごとく、まったく記憶からは消えてしまっているようです。2013年までに新劇を完結させ、2014年というエヴァにとってのアニバーサリー・イヤーで別監督によるGガンダム方向の完全新作を発表するーーそんな絵図も序破の段階では確実に存在したと思いますが、東日本大震災の影響でひりだした駄作をファッション鬱のせいにする、いつもの逃亡癖(例のセリフ)ですべて台無しのご破算にしたのは、他ならぬ監督ご自身じゃないですか! 新規プロジェクトを始めるにあたり、まったく同じ内容とクオリティを準備できたとして、「この瞬間しかない」という決定的なリリースの時宜があるのは、マネジメントのご同輩には痛いほどおわかりのことでしょう。いったんそれを逃してしまえば、どれほど手元にあるプランの質を高めようともいっさい無駄であり、のちにふり返るとすべてを捨てることがもっとも有効な損切りだったとわかるのです。「もしかすると、ワンチャン生きてるかも?」と、東日本大震災の犠牲になったキャラクターたちの埋葬塚を掘りかえしたときの遺骸は、どういう状態でしたか? グズグズに腐敗がすすんでいて、もはや原形すらとどめていなかったでしょうに! もうだれも、社長以外は時宜を逃したコンテンツにさわりたくないだろうし、会社の健全な成長を考えるなら、空白の14年(笑)とやらの映像をパチンコ新台の確定演出に細々と提供し続けるのが、現在のエヴァンゲリオンの”格”にもっともみあった展開だと、場末のコンサルから進言し申し上げておきます。

 さて、けったくそ悪い義務感からする感情労働はこのくらいにしておいて、口なおしに崩壊スターレイル第3章後編の話でもしましょうか。最近ではマトモな虚構を体験したければ、40代以降を対象とした低品質な続編とリメイクの跋扈する列島より、半島や大陸の新規IPをファースト・チョイスにするのが、テッパンで間違いのない世界線に我々は生きていますからね! 内容的には、「ライトノベル」とラベルが貼られる以前の古いジュブナイル小説の朗読を聞くような感覚であり、ゲームとして遊べる部分は極少で、昔の食玩についていたガムほどもありません。「ホタルよ…生きるために死ぬのだと」の場面に涙腺を刺激され、おんおん泣きながらストーリーを読み進めるのですが、カヲル君の声をした黒幕がその精神世界において「私が目指すのは、週休2日でも3日でもない……週休7日の世界だ!」と宣言するあたりから、だんだん雲ゆきがあやしくなってきます。ラストバトルでは、唐突にROUGH(ラフ)の大将軍が大艦隊を引きつれてやってきて、「しゃあっ! シンクン・ソード!」と必殺技をくりだしたのには、「いや、背後の軍艦やのうて、オマエが撃つんかい!」と思わずツッコんでしまいました。その後のエピローグでは、退場したはずのアベンチュリンが文脈ゼロでシレッと復活しており、ここまで影も形もなかったトパーズが「あのう、こんな状態ですが、カンパニーとピノコニーの調停って、できますか?」とおずおず申しでるのに、ROUGH(ラフ)の大将軍は「はい! 一生懸命お願いすれば、以前より関係を強くできますよ!」などとニコニコ笑いながら、無根拠に安請けあいする始末。きわめつけに白々しいスタッフロールが流れだし、思わず「なんじゃこりゃ? シンエヴァか?」と虚構に向ける最大限の侮蔑が口からほとばしりでたところで、「貴方はいつのまにか、都合のいい夢にすべり落ちてしまった……分岐点はいくつかあるけど、どこだと思う?」と驚愕の解決編が始まったのです! 読み手の思惑と感情を縦横にあやつるその手腕に、思わずコントローラーを額へと当てて謝罪しましたよ、「シンエヴァなんてひどいこと言って、ごめんなさい」って。まあ、花火たんの「相互破壊確証ボタン」とホタルたんの「3度目の死」が伏線として回収されていないような気はしますが、他ならぬホヨバのことですから、次の惑星(江戸星?)へワープする前の幕間でスッキリと解決されることでしょう(この信頼を抱けるかが、スタジオ・カラーとの大きな違いです)。

 あと、ひさしぶりにFGOへも言及しておきますと、「魔法使いの夜」のコラボイベントは、とてもよかったです。ミステリ要素のあるこのくらい規模の中編が、もしかするとファンガスにとってのホームグラウンドなのかもしれません。「売れなかったアイドルと、たったひとりのファン」という、文芸小説にでもなりそうなテーマを世界の破滅へまで持っていくのは、彼/彼女にしかできない剛腕だといつも感心させられてしまいます。物語フレームそのものはいわゆる「セカイ系」なのに、弱き者たちを描く解像度の高さとだれも裁かない慈愛のまなざしがあるために、よくよく考えればひどく荒唐無稽な内容にもかかわらず、大文字の文学として成立しているのが、他の追随をゆるさないファンガスのスペシャルな持ち味で、それは創作の最初期から数十年を通じて一貫しており、少しもブレていない。多くの者が長い歳月のうちに、思想信条など「生身からの浸潤」によって初期動機を変節していく中で、そのメトロノームのような「ブレなさ」は広く周囲を見回しても、小鳥猊下ぐらいしか他の実例が思いつきません。肝心かなめの第2部ストーリー本体は、引きのばしと設定の建て増しでひどい状態ですが、今回のように100%ファンガスの筆による上質な小品がときどきは読めるのなら、細々と追いかけていこうという気にさせられます(ガベッジしか排泄、いや排出されないガチャのひどさは、どこかで改善してほしいところですが……)。じつを言うと、PC版「魔法使いの夜」をプレイしたことがあり、内容自体はほとんど忘れてしまっている一方で、終盤の展開とビジュアルが完全にエヴァ序のフォロワーになっていて、微笑ましく感じたのだけはおぼえております。ファンガスからエヴァ破以降のクラップa.k.a.タワーリング・シットに言及があるのを見たことはありませんので、きっと私と同じ気持ちでいるのだろうと、一方的なシンパシーを抱いておる次第です。主人公格の拳児っぽい男子がミンチにされるスプラッタ描写を読んで、しばらくぶりに「もっともアナーキーだった頃のエロゲー」がまとっていた香気ーー鼻腔の奥からする鉄錆びのにおいーーをかぎ、ひどくなつかしい気分にさせられたことも、あわせてお伝えしておきます。

 しかしながら、2002年開設ーー忘備録として、nWoは1999年開設ーーというテキストサイト界の新参者であるバンブー・ブルーム・ダイアリーに、続編へ設定を先送りにすることをほのめかす記述を発見し、「おまえ、もしかしてまだ、自分が死なないとでも思ってるんじゃないかね?」と真顔になりました。前作が12年前であることを勘案すれば、あと2作ぐらいでファンガスの健康寿命は尽きる計算になりますが、長年の持ちネタであるところの「まだ何か重大な秘密や、明かされていない設定があることの”におわせ”」はそろそろやめて、ランス10のいさぎよさを見習って、カタツキ世界をたたみにかかる人生の季節じゃないですかね! 中年期は身体への負債をまとめて支払う時期で、若い頃の無茶がたたって突然に死んだとして、なんの不思議もありませんよ! 仮にそうなったとしても、銭ゲバどもは「故人の遺志を継ぐため……」とか神妙な顔でショウ・マスト・ゴー・オンするのでしょうが、私はアナタ以外の書いた続きなんて、ぜったいに読みませんからね!

ゲーム「ステラーブレイド」感想

 エッキス局所で話題のステラーブレイドを、連休を有効活用してプレイ。いやー、すごいよ、これ。またなにも調べないままテキトーにしゃべるけど、スペースハリアーの擬似3D表現からはじまった欲望がドゥームあたりを始祖とするFPSに引き継がれ、マリオ64の三人称カメラ革命によるジャンル超新星爆発で3Dゲーム繚乱の時代が幕を開け、時のオカリナ、フォールアウト3、ドラゴンエイジ・オリジンズ、アンチャーテッド2、スカイリム、デモンズソウル、ウィッチャー3(順不同)あたりが、その時々のマイルストーンだったように感じています。ステラーブレイドのすごいところは、それらすべてを参照した上で「ええとこどり」だけに徹して、オリジナル要素への色気をいっさいにおわせず、言わばサンプリングの手法のみでゲームシステムの根幹部分を作りあげていることです。おまけに世界観はまんまマトリックスで、ストーリーはまんまエイリアンだし、「我々が生まれる以前に、クリエイティブの鉱脈は掘りつくされて枯渇しており、オリジナル鋳造の技術も失われている以上、過去のジャンクを解体して取り出したパーツを使って、模造品を組みあげる他はない」という最後発ゆえの割り切りは、ものすさまじいレベルにまで達しています(個人的な愚痴ながら、シャレオツな極小の白いアイコンだけは、ミドルエイジの眼にとって視認性が最悪なので、改善してほしい……)。

 しかしながら、たったひとつだけ、凝縮された欲望の一点突破による生のオリジナリティが強烈な香辛料として、すでに名前のある郷土料理の皿にふりかけられていて、それはまず遠回しに言えば、「キャラクターメイキングの撤廃」だと指摘できるでしょう。近年の3Dゲームは、どれもキャラメイクのパラメータが膨大になっていて、それこそ骨格から頭蓋骨の凹凸までを調整していくようなレベルのもので、早く遊びたいイライラのうちに数時間を費やさされたあげく、”必ず”どこか自キャラへの不満を抱えたまま、モヤモヤした気持ちでプレイを開始するハメになるのは、みなさんもご経験がおありでしょう。ゲーム愛好家の過半数を越えるLGBTQF以外に属するアジア人たちの、声なき声を図々しくも代弁させていただくならば、「見た目のいい美少女で(と)遊びてえ」という身もフタも無い内容であり、アンケートフォームには恥ずかしくて記入できないその無意識の欲望(情)を、スティーブ・ジョブス的な慧眼ですくいあげたがゆえに、本作は世界的なスマッシュヒットになったのだと言えるでしょう。

 ここからが本題ですが、すなわちステラーブレイドの本質とは、あどけない10代半ばの美少女の顔(かんばせ)に、水平方向へ満々にふくらみきるも重力にはまだ負けていない20代半ばの乳房に、わずかに脂肪の乗りはじめた10代半ばの腹部とまだ骨ばった腰に、たっぷりと脂肪をたくわえた30代半ばの臀部とふとももに、軽量級のローキック1発でへし折れそうなふくらはぎと足首という「男の欲望まんぷくキメラ」しかメニューにない専門店であり、お品書きを見ながら店主になにか尋ねようと口を開きかけると、「お客サン、ダメヨ! ダメダメ! ウチはコレしかヤッてないアル! ダイジョーブ、コレが宇宙でイチバン美味しいダカラ! 調味料と生卵はテーブルにあるノ、好きなダケ使って味ヘンするイーヨ!」と大声でかぶせてくる感じ。少しでも料理を残したり、不満げな表情を見せたり、味の批評なんかはじめようものなら、顔を真ッ赤にして「ナニ、ナマ言ってるカ! ラバースーツの下でテカテカ・パンパンになったシリを、ロングポニーテールがシャラシャラなでまわス! ゲームの中でイチバン長いあいだながめる光景に、コレ以上のモノなんてないアルヨ!」と絶叫しながら、菜切り包丁を片手に厨房からとびだしてくる感じ(ほめてます)。

 文字通りの半世紀近くをゲームの歴史と伴走してきた、エコノミック音痴のドメスティック・ビジネス従事者にとって、何より「海外における本邦のプレゼンス低下」とやらをまざまざと実感するのは、こういった本来ならば我々が世に問わなければならない作品を、半島や大陸の若い世代に先回りで上梓されてしまったのを見るときです。本作の持つ偏執狂的なまでの、むせかえるようなフェティシズムとエロティシズムに対抗できるのは、近年の国産ゲームにおいてファイナルファンタジー7リバースのクラウドさんくらいしか思いつきません。あと、エスエヌエスの著名人(笑)たちがセクシャル要素に目くらましをくって、ゲーム部分を両手ばなしで激賞しているのをいくつか拝見し、「男って生き物、チョロいよな……」と思わず微苦笑してしまいました。「ステラーブレイド、スゴい! ハシゴを裏側からさわっても、自動的に表側へ回りこんでのぼってくれる!」ーーいやいや、それ、「美少女アバターもえくぼ」ですやん。おあとがよろしいようで。

映画「アステロイド・シティ」感想

 ブルーレイ版を買ったきり、「皿の上の好物は、最後まで残しておく」みたいな一種の精神疾患から、長く積んであったアステロイド・シティを、連休の隙間にようやく見る。なぜか小鳥猊下が、よりによってウェス・アンダーソン監督作品だけ、ザ・ロイヤル・テネンバウムズ以降、あまり内容を理解できていないにも関わらず、ぜんぶ見ていることは、すでに周知の事実かと思います。予告映像から事前に想像していたのは、アラモゴード近郊に建設された「原爆の町」における日常を描くストーリーで、オッペンハイマーをイヤイヤながら履修し終えたいまがちょうどいいタイミングだろうと再生を開始したのですが、悪い意味で期待を裏切られる結果となりました。「窓から身を乗りだして、キノコ雲のスナップ写真を撮る」という、ほんの数十秒のシーンだけが作品中における唯一のロスアラモス案件であり、アジアの悲惨をオシャンティに消費するその欧米仕草を目にした瞬間、脳の血液が沸騰するーーレフト村の同族殺しの抜け忍なのに、敵を前にしたときだけ、かつての記憶と両手に染みついた殺人術がよみがえるイメージーー感覚があり、これから記述する内容は「殺る気スイッチ」が入ったゆえの、一般性をいちじるしく欠いた放言かもしれないことを、あらかじめ公平を期すためにお伝えしておきます。

 ウェス・アンダーソン作品の持ち味って、非常にロジカルな部分と乾いたエモーショナルな部分が作中でずっとせめぎあいながら進行してゆき、最後にスクリーン上というよりは、観客の胸中で「エモが勝つ」ところだと思うんですよね。もう少し具体的に説明すると、カメラアングルと物語フレームがロジ要素で、色彩とシナリオがエモ要素になっている。本作においては徹頭徹尾、前者のエレメントが後者のそれを過半の分水嶺付近でまさり続けていて、同監督のファンが好む「なんか話はようわからんかったけど、ええもん見たような気がするわ」という読後感を、残念なことに大きく損なってしまっている気がしました。それもこれも、「隕石によるクレーター周辺に建設された核兵器の町へ、UFOに乗った宇宙人がやってくる(ネタバレ)」というストーリーラインが単純すぎると考えたのか、はたまたそれだけでは思ったほど面白くならなかったからなのか、おそらく追加撮影とパッチワーク的編集による「あとづけ」感の非常に強い、本来的には不要のメタ的な設定を導入したことが原因ではないかと推測します。「アステロイド・シティ」をかつて上演された演劇作品にみたてて、その制作秘話と舞台公演を行き来しながらストーリーを進めていくのですが、話の筋と客の理解がややこしくなるだけで、面白さの点はもちろん、ストーリーにいかなる深みも加えていないことは、大きな問題でしょう。

 演劇を意識した真横からの観客席アングルも徹底できておらず、UFOを真下から見上げてみたり、人物の表情をアップで写してみたり、「どっちつかずのふりきれていなさ」はとても気になりました。前作のフレンチ・ディスパッチにも感じたことながら、物語フレームの難解さが「難解になること」自体を目的としていて、謎解きによる収束や驚きの結末による構造からの解放をどうやら意図していない。個人的な体験を言えば、ダージリン急行のエンディングで持っていた荷物をトランクごとぜんぶ捨てて、汽車の最後尾にとびうつるスローモーションのシーンは、映画の内容すべてを忘れてさえ、非常に鮮烈なイメージとしていまだに脳裏へ焼きついていますもの! それが、本作のラストシーンで再登場する「タッパーウェアに納められた妻の遺灰」というあざといエモ小道具に対しては、意地悪く「こっちは熱線で蒸発して、壁のシミしか残せんかったけどなあ?」としか思わなかったのは、やはり題材と国籍と世代の食いあわせが最悪だったせいなのかもしれません。

 最後に白状しますが、ストーリーに入りこめなかった理由はもうひとつあって、「英語による高速かつ膨大な情報提示を、字幕ではフォローしきれない」という、主に個人的なリスニング力の欠如によるものです。もちろん翻訳担当が悪いのではなく、「機銃掃射みたいな高速ナレーションを聞きながら、文字のビッシリ詰まった看板から情報をスキミングする」ような状況に対応できる字幕なんて、この世には存在しないからです。まさに、シン・ゴジラが海外では流行らなかった理由を、別の視点から追体験させられているような状況なのでしょう(シドニィ・シェルダンかナツコ・トダによる「超訳」なら、あるいは……)。もしかすると、旧帝大卒の日英バイリンガルで平和教育のくびきから解かれた若い世代なら、アステロイド・シティをもっとも屈託なく知的に楽しめるのかもしれません、知らんけど。