猫を起こさないように
月: <span>2024年2月</span>
月: 2024年2月

映画「ナポレオン」感想

 ホアキン・フェニックス目的でナポレオンを見る。「暴の雰囲気を濃厚にまとわせる無表情から、突然のチャーミングな大破顔」というどこぞの宮崎駿みたいな役作りをしていて、現代へいたる法体制を整備した「稀代の政治家」ではなく、戦争ですべてを解決する「狂気の戦術家」としての側面に強いフォーカスがあり、そこへジョセフィーヌとの関係性を歴史ミステリーの軸にすえた「人間ナポレオン」の物語として全体は進行していきます。戴冠式のアレを始めとして、有名な西洋画の構図をそこここにノールック・スリーポイントシュートーーあれ、オレまたなんか新古典主義キメちゃいました?ーーでバシバシに投入してくる撮影はさすがの大巨匠リドリー・スコットであり、「同氏にとってブレードランナー以来の傑作」という、褒めてんだか貶してんだかわからない評も大いにうなづけるところではあります。アウステルリッツからワーテルローまでをド正面から四ツに組んで映像化しており、堂々たる歴史大河として「これぞ映画芸術の真髄なり!」と思わず膝をうつほどの快作であるのに、本邦ではいつ劇場にかかっていたのかわからないほど、一瞬で上映が終了してしまいました(たぶん、スパイ家族のせい)。配信ドラマや一分動画が全盛の現在、それこそブランデーを片手にドッシリと腰をすえて二時間半を銀幕の幻想に没頭する姿勢が、珍奇でまれな心理的外傷のケーススタディになる日も、もはや遠いことではないでしょう。

 個人的には、LGBTQF(レズ・ゲイ・バイ・トランス・クイア・フィーメイルを表すnWoの造語)以外に属する者として、同胞たる市民に向けて散弾をこめた大砲を水平射撃して鎮圧する様ーー足を失った婦人が血塗れで這いずるーーには背筋がゾクゾクしましたし、歴史の教科書でしか知らなかったナポレオンの大勝と大敗を象徴する2つの戦闘を、あたかもその場にいるような砂かぶり席で見られたことに、アドレナリンが全身へ充満する昂揚を感じました。歩兵・騎兵・砲兵を基軸としたファイアーエムブレム時代(まちがい)の戦争は現代のそれと異なり、「肉に食いこむサーベルの感触と、血しぶきとともに冷えていく遺体」を否応にともなっており、誤解を恐れずに言うならば、LGBTQF以外を心の底からワクワクさせる、ホンモノの闘争であると言えましょう。特に、アウステルリッツで砲撃をくらった露助どもが、極寒の湖へ血煙とともに沈んでいくのを幾度も幾度も執拗に映す様子は、「撮影時、私はナポレオンその人だった」とふりかえるリドリー翁が感じている「殺戮の悦楽に、硬く反った陰茎」がまざまざと伝わってくるようでした。そして、「勝っている戦争ほど、楽しいものはない」「異人を殺すとき、胸は寸分も痛まなない」という身もフタもない興奮状態から編集時にハッと我へかえったのか、外人傭兵部隊が設立される理由にもつながる「ナポレオンが戦場で死なせた、おびただしいフランス兵の数」をエンドロールの手前に申しわけ程度のテキストで列挙することによって、「せんそー、はんたーい」みたいな弱々しいシュプレヒコールをあげるフリで物語の幕を閉じるものの、この映画が表現しているのはそれとは真逆の内容ーー「祖国のための戦争で他国を蹂躙するのって、ハッキシ言って最高におもしろカッコイイぜ!」ーーであると指摘しておきます。

 あと、レ・ミゼラブルの感想のときにも言いましたが、フランスというのは若者の無軌道な衝動性をレボリューションなる語彙で称賛する短慮短絡な国家であり、賢明な老人諸氏にはさぞかし生きづらい場所だろうと推察するとともに、心からの同情をお寄せいたします。本邦に根強い仏国に対する好印象は、主にベルばらと宝塚によるプロパガンダ的な由来を持っており、まだ大聖堂が燃え落ちておらず、中心街が移民によって釜ヶ崎みたいにはなっていない時分に渡仏(ぬりぼとけにあらず)し、埃っぽいシャンゼリゼ通りでバケツ一杯のムール貝をむさぼり食った経験を持つ貴人に言わせれば、パリなんてのは錆びた鉄塔と治安の悪い地下鉄があるだけの小汚い下町に過ぎず、その意味で新世界周辺となんら変わるものではありません。「イラついたので王を引きずりおろしたクセに、なんだか不安になってすぐさま次の王を立てたかと思えば、やっぱりムカついたのでその王を引きずりおろしたあげく、尻のすわりが悪いのでまた別の王をすえなおす」みたいな、前頭葉に欠陥のあるとしか思えない、感情の抑制がきかないバーバリアンどもから、ローマ帝国の浴場的末裔であるプレーン・フェイス族の我々は、くれぐれも何かを学んだりしないようキモに銘じたいところです。それと、ナポレオン式着衣後背位(高速)ーー「なんで妊娠しねえんだよ、チャクショーッ!」ーーが史実なのかどうかは、とても気になりました。

ゲーム「崩壊スターレイル・第3章前半」感想

 崩壊スターレイル、ピノコニー編を実装部分までクリア。本作のシナリオは、同社の他作品と比して「情の原神、理の崩スタ」とでも評すべき、仮面ライダーみたいなテイストの棲み分けになっています。「新規のSF的概念」「組織と人物の相関図」「各キャラの台詞と、その裏」を、かなり丁寧に読みこんでいかないとストーリーの本筋が理解できない作りになっていて、グラフィックというよりテキストに強く依存した形式は、かつてのゲームブックを彷彿とさせます。その一方で、JRPGに向ける怖いような畏敬から造形されたフィールド部分に、イヤというほど盛りこまれた大量のギミック群は、本邦のユーザーに「知育玩具」と揶揄されるぐらい、わざわざプレイさせる意味を哲学的なレベルで考えてしまうほど単純なものばかりで、「漢詩の教養が市井の一市民にまで浸透しながら、理系分野においてはいまだひとつもノーベル賞の受賞がない、スーパー文系国家」である事実に由来しているのではないかと、邪推しておる次第です。理系分野の根幹を成す数学という技術は、乱暴な言い方をすればIQテストのパターン認識と事物の抽象化であり、「重厚なシナリオと対極をなす、簡素きわまるパズル遊び」は、中華のその特性にピッタリと合致するように感じられます。

 第三章前半のストーリーについて言えば、今回も世界情勢との意識的なリンクをうかがわせる内容になっていて、故郷を失った「星間難民」であるヒロイン(ホタルたん!)が違法なデバイスを使って夢の世界に密入国したことを告白するくだりは、世界各国の12言語を相手に物語をつむぐホヨバにしか、正面から取りあつかえないだろうと思わせるもので、そこへさらに「筋ジス患者にとってのバーチャル・リアリティ」とでも表現すべきハードな詩情を盛りこんでくるのです。最近、タイムラインに流れてきた「現実が厳しい者は仮想現実を選び、現実に満足している者は拡張現実を好む。それを証拠に、メタクエストは500ドルで、ビジョンプロは5000ドル」という記事を読んださいには考えもしなかった、「現実への充足」とはカネや社会的地位だけを意味するのではないという気づきを前に、五体と五感が不足なく動くことを当然とみなす人物の背筋は、内省によってわずかに伸びる感じさえありました。パイモンのしゃべくり一人称で進行してゆく原神と比べて、崩スタは無言の主人公と距離をおいた三人称のカメラで語られるせいか、ただでさえ速いストーリー展開は緩へ急へとさらに大きな振り幅を見せ、そのドライな筆致によって重要と思われる人物を拍子抜けなほど、アッサリと退場させたりする。もしかするとその唐突ささえ、第三章の後半であつかわれるだろう「夢の中での死は、精神的な死である」という指摘が、いかなる実相をともなうかを種あかしの中心にすえたミステリー要素の一部なのかもしれず、いまはあらゆる想像や予断を外して心静かに続きを待ちたい気分でおります。

 そして、ここまでのマジメな考察と分析をすべて台無しにする萌えコションならではの視点を、我慢できず露出狂のようにまろびださせていただくならば、ピノコニー編に登場する多くの新キャラのうち、なんといってもその白眉は金槌花火(たぶん偽名)たんでしょう! この少女は、下品なワードなので自分のテキストに残すのも正直はばかられますが、いわゆる「メスガキ」というエロマンガ由来のネットミームからその造形をスタートしつつ、その概念をいったんすべて脱構築してから、異なる位相で再構築したキャラになっているのです。同ワードを用いて、本邦の創作者たちが描くだろうエレメンタリー・ガールを想像してみましょう。いま貴君の脳内にうかんでいる、魚類に関するワードを連発する記号まみれのコピーキャットから遠ざかって一個の人格を編みあげた上で、なお「メスガキ」と呼ぶにたるというのは、じつに見事な手腕です。これはまさに、足し算と掛け算をいったん別宇宙に分離してから再構築するがごときアクロバットの所業であり、金槌花火(おそらく偽名)たんの存在は、美少女ゲーにおける宇宙際タイヒミュラー理論だとさえ言えるでしょう(言えると思う……言えるんじゃないかな……まあ、ちょっと覚悟はしておけ)。画面外の大きなお友だちは大興奮なのに、画面内のキャラたちはだれもがうっすら彼女のことを嫌っていて、すでに「どうしてみんな、しかめっ面するの」みたいな負けフラグも口にしており、「登場時に必敗を前提とした優越を持つ」みたいなルールを付与されているところまで再現されていて、花火たんが今後いかに敗北するかを想像するだけで、もうワクワクがとまりません。

 あと気になったのは、特に三月なのかや今回のヒロインであるホタルたんに顕著なんですけど、朗読されるセリフに息つぎのブレスが入りまくるところです。これって本来は編集で消すべきなのか、話し手がブレスの瞬間にマイクを外すべきなのか、どっちが正解なんでしょうか?(旧エヴァ第弐拾弐話のビデオフォーマット版で、「時計の針は元へは戻らない」というゲンドウの台詞の直後に、本放送版ではなかったかなり大きめの息を吸いこむ音が収録されていて、演出意図なのか消し忘れなのかわからず延々と悩んでいたのを、いま思いだしました) 最後に、中華サイファイから理論物理学へと連想ゲームを飛躍させた近況報告で終わります。以前、ピーター・ウォイトのブログを週イチでチェックしていることをお伝えしましたが、あれだけ厳しく弦理論をとりまく状況を批判しておきながら、リジェクトされた論文未満の万物理論に関するアイデアを科学誌のインタビューで得々と語ってしまい、ストリングスの専門家と同じ不健全さでマスコミを利用しているとブログのコメント欄が炎上していることに、満面の笑みを浮かべております。もっとも冷静かつ論理的であらねばならない理系分野のテニュアどもが、ほとんど2ちゃんねるやツイッターみたいなレスバトルをくりひろげている様子を極東の観客席から眺めるのは、(ビールの泡を白ヒゲに、破顔して)本ッ当に最高の娯楽ですね!

ゲーム「原神・閑鶴の章」感想

 原神の最新アップデート部分をクリア。「フォンテーヌと璃月はつながっている」という伏線の解消に、シルクロード的なエリアをはさんでくるのかと考えていたら、璃月エリアの拡張を中華の願望そのままに、ガチャッとフォンテーヌの隣へ接続させたのには、思わず苦笑してしまいました。原神はチャイナ発のゲームなので、同国をモチーフにしたエリアやキャラが増えていくのは仕方のないことですが、「鶴の仙人(鶴仙人!)をメガネ美女として擬人化するのは安直にすぎませんかね、更新頻度が高すぎてついに息ぎれですか?」などと、ヘラヘラ弛緩した笑いを笑っていたら、いつも通り原神のオハコである「家族の物語」を火の玉ストレートでキレーにみぞおちへと食らって、胃液を吐きながら号泣するハメになるわけです(学習しませんね)。実家を離れて都会に出た2人の娘を心配してコッソリ職場を見に行く母親の様子は、まさに子育てが終わったばかりの「空の巣症候群」の心情によりそったものだし、両親に先立たれて認知症のはじまった祖母と2人暮らしする少女について、ヤングケアラーなる珍奇な欧米の概念を用いず肯定的に描いているのも、その確信に満ちた手つきにほうと嘆息がもれます。つくづく思うのは、本邦において標準的な中央値の生活をしていると、「何者かの意図」みたいな陰謀論は申しませんが、うっすらと家族を嫌うように仕向けられていく気がしてなりません。当事者でない状況へわざわざ首をつっこんで口角泡をとばしたり、他者のルールをユニバーサルなお仕着せと信じて袖を通すのではなく、色川御大の言葉を借りるならば、我々はもっと「既製品ではない、手縫いの生き方をつくる」ことにのみ心を砕くべきだと強く思います。様々な形式の言語芸術が存在する中で、太古の昔より作りごとにすぎない虚構が途絶えず物語られ続ける理由は、自分ではない主観を通じて「手縫いの生き方」を追体験できるからで、その意味において、のちに仙人の弟子となるこの少女は、断じてヤングケアラーなる単語でおしはかれる存在ではないのです。

 永遠も半ばを過ぎると、多かれ少なかれ「取り返しのつかない後悔」はだれの中にも生じてきて、これを書いているのは大作ゲームを始める前に「ゲーム名」「取り返しのつかない要素」で必ずグーグル検索ーーバルダーズゲート3も2章の終盤で「取り返しのつかない要素」があまりに多くなりすぎて、頓挫してしまっているーーする人物なのですが、「あ、これ、ホンマに取り返しつかへんのや」との冷えた実感が、骨の髄まで浸透する人生のステージへとさしかかりつつあります。今回の伝説任務の終盤で、物忘れの果てに「人でも獣でもないモノ」と化す前に本来の姿へ戻ろうとする祖母へ孫がかける言葉、「おばあちゃんにとっては後悔ばかりだったのかもしれないけど、そのおかげで私はこの世に生まれることができた」は、物語の称揚による劇的な負の反転であり、ありえなかったはずの後悔の取り返しであり、「ジャパニーズ・フィクションa.k.a.中年男性が裏声でする十代のジャリの世迷言」では決してたどりつかない深い人生訓であると同時に、人間讃歌にさえいたっていると言えるでしょう。全共闘に端を発した「体制殺しによる国家解体」のカーボンコピーである「毒親殺しによる家族解体」をテーマとした昭和の物語群が、ついに新しく来た若い世代によって上品に忌避されはじめたことで、原神の大ヒットが生まれているのだとすれば、世界は確実に良い方向へと進んでいるのだと感じられます(いまなら、「昭和のフィクションたちの墓標」として、シン・エヴァンゲリオンに歴史的な評価を与えることができる気さえする)。また、「いやしい身分に己をやつしてまで、親の意に染まぬ相手とかけおちすることを選んだ娘」に対して、表面上の怒りとは裏腹に陰ながらゆるしと慈しみを与えるキャラの描き方は、「バブみ」や「オギャる」などの空疎なワーディングでしか、母性の輪郭を表現できなくなった本邦でのそれとは異なり、真の意味での「母なるもの」を篆刻していると言えるでしょう(本シナリオを読了後、レベルMAX・スキルMAX・聖遺物の軽い厳選・モチーフ武器への課金を最速で完了しました)。

 あと、パイモンが夢を見ていないことに気づく描写が一瞬だけ挿入されるのですが、いよいよ原神世界はペガーナの神々におけるマアナ・ユウド・スウシャイ(MMGF!の元ネタ)の、あるいは幸福な妖精の見る「夢そのもの」である可能性が高くなってきましたねー。

ゲーム「鉄拳8」感想

 鉄拳8のストーリーモードをクリア。「なぜ、小鳥猊下が格闘ゲームを?」とのクエスチョンが、諸君の脳裏を龍虎乱舞していることだろう。ストリートファイター2ダッシュ時代、関西各地のゲーセンにおいて、主に「見る専」として出没し、対戦には怖くて1コインも投じたことのないカワードであるからして、格闘ゲームとは浅からぬ”えにし”があると言っても過言ではないのである。お行儀のいい令和のオンラインとちがって、昭和のゲーセンは試合の勝敗が近隣の愚連隊とのリアルファイトに発展することもしばしばであったため、小生をふくめた多くの賢明な君子は危うきを避けるべく、スーパーファミコン版の無印を自宅でプレイするにとどめていたのだった。いまでも鮮烈におぼえているのは、近場の家族経営のゲーセンーー当時はそれほどめずらしくなかったーーで、スト2ダッシュの対戦台を背後から腕ぐみして、軍師の表情でながめていたさいのできごとである。プレイアブルとなったばかりで調整の甘い四天王のうち、居住地の近隣ではベガーーバイソン将軍? だれそれ、こわーーが猛威をふるっていたように記憶している。飛行機のサウンドでカッとぶサイコクラッシャーの執拗な往復に、ときどき投げとダブルニーの2択みたいな、キャラ性能へ寄りかかった雑きわまるプレイングに、リュウで負け続けていたガタイのいい兄ちゃんが突如、椅子を蹴って立ちあがり、アストロ筐体の画面をリアル正拳づきでたたき割ったのである! 奥に座っていたオバチャンの、血相を変えて路上にとびだしてくるビジュアルが頭に残っているため、冤罪をきらった他の観客といっしょに、それこそ蜘蛛の子を散らすように、その場から逃げだしたのかもしれない。この逸話からもご理解いただけたように、昭和のゲーセンはきわめて治安の悪いヤンキーどもの溜まり場であり、筐体に置かれているだれも掃除しない灰皿ーー分煙なんて概念は、オヤジの毛ほども存在しないーーが宙を舞うことも頻繁だった。

 そのため、個人的な鉄拳シリーズの体験はコンシューマー版(すでになつかしい表現)の内側にとどまっており、1と2を初代プレステのCPU対戦で楽しみ、3と4と5はまったく記憶になく、6と7はハードの変遷にともなって無料かセール中にダウンロードはしたものの、ほぼ手つかずといった具合である。もっとも時間を費やしたのは2で、持ちキャラの三島平八を使って「アッパーで浮かせてから崩拳をたたきこみ、起きあがりにダッシュ浴びせ蹴りを重ねる」みたいな戦法が、いまだ手に残っている感じがある。そんな酷薄(こくすい)プレイヤーが、なぜ鉄拳8をプレイしているのかと問われれば、nWoはいまもなおテレホーダイ時代の回線速度56Kbpsを生きており、情報の取得に大幅なタイムラグがあるせいで、「無名のパキスタン人2名が鉄拳7の世界大会へなぐりこみ、なみいる強豪を下して優勝と準優勝を独占した。しかも、優勝者はパキスタンの国内大会で17位の選手だった」というみなさまが数年前からご存じのシンデレラ・ストーリーへいまさらに接して、メチャクチャ心を動かされたからなのであった。この実話に感動したポイントは2つあって、1つ目は「幽遊白書の魔界格付けランキング」をただちに連想したことである。「当局の手に負えない妖怪を便宜上はSランクとしているが、Sランク内にも天と地ほどの実力差がある」という、オタクのみんなが大好きなあの概念だ。本邦や欧米の鉄拳トッププロがAランクだとすれば、ビザの取得も困難な辺境のムスリム国家に、なんとSランク妖怪がひしめいていたというのである。2つ目の感動ポイントは、かつてネットが存在せず、交通網の貧弱さによって世間から分断されていた、地方の貧しい農村に生まれた人物が村民たちの期待を背負って送りだされ、豊かな都会の英俊たちを努力と才覚で屈服させて政界や財界でのしあがるという、立身出世の古い物語類型を幻視したゆえである。当該の大会における快進撃を時系列で追った動画、電力にとぼしくわずかな部品の交換にさえ難渋するパキスタン国内のゲーセンに密着したドキュメンタリー、そして優勝者が地元の人々へ感謝の辞を述べるインタビューを見て、「うわー、オレもこのPAKI(蔑称)どもみたいに、祖国を背負って戦いてー」などと、年がいもなく思ってしまったからなのだった。当然のことながら、ゲームをする時間帯には必ずアルコールが入っており、加齢による反射神経の衰えと生来の「親指5本」な不器用さに苦しむ人物にとって、中の人がいるオンライン対戦で勝利による愉悦を得られるはずもなく、いきおい、オフラインで楽しめるアーケードモードやストーリーモードを、本作から導入された簡易操作で楽しむことになるわけである。

 ここで、初期鉄拳シリーズに抱く個人的な印象を述べておくならば、バーチャファイターの超ヒットへ2匹目のドジョウをねらいにきた、品性に欠ける二流三流のパチモンであり、前者が高級レストランのコース料理なら、後者は小汚い商店街で立ち食いするB級グルメぐらいの差を感じていた。そこから30年ばかりを経た現在、大味の鉄拳シリーズが世界的なヒットで隆盛をきわめ、淡麗なバーチャファイターシリーズがe-sportsというガワでの巻き直しに失敗して完全にポシャってしまったのは、我々の本質である「求道的な潔癖さ」が、いよいよ袋小路のドンづまりを迎えていることの証左だとも思えるのである。しかしながら、3時間ほどをかけて鉄拳8のストーリーモードの全容を体験してしまうと、バーチャファイターを猛烈に擁護したい気持ちにさせられるのも、また事実なのであった。このストーリーモードの内容だが、1と2の時代に三島由紀夫の顔と姓をあからさまな下敷きにした主人公や、男塾塾長から剽窃したラスボスの名前と容姿や、バーチャファイターのオリジナリティにキャラ数で対抗するため、骨格の使いまわしでKUMAなんてふざけたキャラを出したり、そこから思いついたのだろうA-KUMAが海外向けにDEVILとなり、DEVILの2PカラーとしてANGELが登場するみたいな、質の悪い連想ゲームによるガッチャガチャにとっちらかった設定を大マジメに「正史」として、湯水のごとくカネを注いでビジュアル化した結果の滑稽さなのである。たびたび指摘している「本邦の大作ゲームと劇場長編アニメにおいて、プロのライター(脚本家と表記しにくい社会情勢)が常に不在である問題」を強く感じさせるシナリオで、ビジュアルの面ではきわめて高度なことを行っていながら、この激動の時代に対して何の批評性も持つことができない、例えるなら「キリスト教系の保育園でするアドベントお遊戯会」とでも表現すべき、旧来のオタク文化を聖典として孫引きしただけの幼稚で無思考なシナリオが、終始むりむりと軟便のごとく垂れ流され続けるのである。特に「聖闘士星矢の黄金聖衣から範馬刃牙の親子喧嘩」へと至るラストバトルは、勝利条件のいっさい不明なまま、ダメージ描写皆無のなぐりあい(シンエヴァ!)が延々と続くため、「神殺し・イコール・親殺し」をよろこぶ本邦の中2病的な精神性にいい加減、イヤ気がさしていることもあって、ファイナルファンタジー16ぶりに1時間くらい「もうええて」を連呼し続けながらプレイするハメになってしまった(原神の話は、もうしないでおきます)。

 最後に、格闘ゲームとしてのバランスをどうこう言えるレベルのプレイヤーではないため、登場キャラについての雑感を述べて終わりたいと思います。コスプレみたいな奇抜な服装のピンク頭が軍属なのにはめまいを禁じえませんが、実のところ彼女はロボットで、着脱可能な爆弾としての頭部(!)をオーバーヘッドキックし、敵の腹部で爆発させるアタオカな必殺技を見せられて、ガッチャガチャの世界観をほこる鉄拳らしい演出だと半笑いになりました。「『だれも思いつかなかったアイデアを思いついた』場合、『なぜだれもそれをやらなかったのか』の観点で、まず考えなおしてみましょう」という例の金言を思いだしましたね(16bitセンセーションかよ!)。しかしながら、すべてのマイナス要素を上書いてプラスへと変じる圧倒的な加点要素として、初代ラスボスの三島平八を時流にのってトランス・セクシャル転生させた(!)レイナたんの存在を無視することは、己のロウワー・ボディへ誠実なオタクには、とてもできません。30年来の三島平八使いーー28年ぐらい前に半年ほど使って、以後は未使用の意ーーとしては、鉄拳9でデビルと化す(ネタバレ)レイナたんを、イッツ・オートマティック、持ちキャラにせざるをえないのです。「カズヤが1と8だから、1引いて0と7でレイナ」みたいなガッチャガチャに安直な連想ゲームは健在ですが、「女子中高生にオッサンの趣味をさせる」からさらにふみこんで、「女子中高生にオッサンの自我を入れる」のは、小鳥猊下の性癖どころか、小鳥猊下その人を表現していると言っていいでしょう。終わります。