猫を起こさないように
年: <span>2023年</span>
年: 2023年

雑文「テキストサイト・サーガ実績解除報告」

 シンエヴァの円盤発売に伴って2年前の「:呪」が掘り起こされ、ジワジワと閲覧数が増えているようです。新規フォロワーもチラホラ見かけるので、あらためて自己紹介をしておきましょう。ここは1999年1月に開設したテキストサイト「猫を起こさないように」ーーのちに「よい大人のnWo」へ改名ーーの分社であり、その管理人は詭弁タラコの「2ちゃんねる」より古くからインターネットの深海に生息している小鳥猊下です(例えの通り、現実に引き上げられると口から内臓を吐き出して死ぬ)。自分の中にあるオタク気質を嫌悪するあまり、人生の岐路は常にオタクから遠ざかる選択をし続け、現世に口を糊する裏でオタクへの怨嗟を表明する小説を3本書き、それでも内なるオタクを殺しきれず、いまはエヴァへの愛憎と中華アプリへの礼賛を垂れ流すばかりとなった「なれはて」でもあります。

 しかしながら、長くインターネットを続けていると、ときには望外のすばらしいことも起こります。(突然のドラムロール)このたび、なんと小島アジコ先生に萌え絵を寄贈していただきました! 私の中でテキストサイト時代のインターネットーー個人的な定義は、1999年1月から2000年12月までのワールドワイドウェブ空間ーーと強く印象が結びついている絵師が何人かおり、氏はまさにオレのレジェンド伝説の一人だと言えるでしょう。また、この萌え絵はnWoのトップ画像であると同時に、ある意図をもって作られた現代芸術でもあります。次に鑑賞の手順を示しますので、これに従ってください。

 『56kbps程度までの遅い回線を準備し、夜の11時以降に当該の画像が上部から30秒ほどをかけてジワーッと表示されるのを、貧乏ゆすりでマウスをカチカチ鳴らしながら閲覧する』

 あなたが創造的行為に加わることで、はじめてこの作品は完成するのです(背景に走るイナヅマ、「デュシャーン!」の擬音)!

 今回の寄贈によって、私が20年以上をプレイしているクソゲーであるところの「テキストサイト・サーガ」実績解除が、数年ぶりにまたひとつ進みました。生ウガニクには5年前に会ったし、あとは生ノボルとオフ会して天野大気さんにトップ絵を依頼したら、実績コンプでプラチナトロフィーをゲットだなー(左の目尻に瑠璃色の涙が盛りあがり、やがて頬を伝い落ちる)。

雑文「新世紀エヴァンゲリオン二周忌に寄せて」

 追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」
 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

 シンエヴァの新作映像を見る。みなさん、「あれだけボロクソ言っといて、まだディスク買ってんの?」とあきれているでしょうけれど、否定派の真摯かつ丁寧なダメ出しに反省した監督が地球外少年少女のアニメーターに全権委任して、エヴァ破の続きを3時間くらい新作しているのではないかという一縷の望みを捨てきれなかったからです。しかしながら、かつての自分がどこかで書いたように、いつだって「希望とは絶望への準備動作にすぎ」ません。内容的にはエヴァQの前日譚で、ピンクタラコが訓練で懸垂をしていたら、過去に懸垂で死にかけた場面を思い出すみたいな、しょうもないプロットでした。ほんの10分ぐらいの映像なのですが、「人間ドラマに興味がなく、見たい絵だけをつなげたい」という監督の悪癖がギュッと詰まった怪作に仕上がっております。

 エヴァ初号機が地面から生えてきたり、父母兄弟を亡くしたばかりなのにモノローグが家出少女のそれーー親になったことがないからじゃねーの? おっと、作家は体験したことがなくても、ビビッドに描けるんだったね!ーーだったり、赤い煤が髪に触れたらなぜか眉毛ごと(たぶんアンダーヘアも)キレイなピンクに染まったり、倫理観は女性から男性に向けた暴力を許容する80年代のアニメだったり、短い中にもツッコミどころは満載です。きわめつけに、弐号機の戦闘シーンでは何のアイデアもない右腕一本のCG押し相撲を延々と見せられる。「ほんの短い時間を、映像の力で引きこむ」ことさえもはやできない、おそらくエヴァに関する最後の映像を、かつて大聖堂だったモノの瓦礫として悲しくながめました。

 まあ、ここまでは予想の範疇であり、金満家の初老オタクにとって円盤のはした金など、葬式への香典ぐらいにすぎません。一瞬、「やっぱり、原神への課金にすればよかったな……」とは思いましたが、じつのところ問題はここからです。この円盤には「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」なる書籍?を宣伝する紙きれが同封されており、本作の意義についてカラー関係者が総括するみたいな目次が書かれています。公開から2年間、だれかが「逆襲のシャア・友の会」みたいなのを、シンエヴァでやってくれないかウズウズしてたのに何の反応もないので、自作自演におよんだというのが真相でしょう。しかしながら紙片を見た瞬間、2年をかけてようやく鎮火したはずの激情が再び身内にカッと燃えあがるのを感じました。読むまでもなく、これはヒトラーの「我が闘争」と同じ性質の書物であり、スターリンやチャウシェスクやポル・ポトやプーチンの内閣に所属する者たちが議場で順に演台へ上げられ、独裁者が眼前でにらみをきかせる中で、「自由に」彼の政策の「正しさ」への批判を促されるという内容なのです。

 現代の本邦において史上最強レベルの独裁気質をもった人物が、アニメや特撮という「昭和のオモチャ」だけにご執心であることを、我々はむしろ喜ぶべきなのかもしれません。有権者のみなさん、間違ってもこの人物を国会に送ったりしたらダメですからね! 超絶プロパガンダ映像で、気がつけばたいへんな場所へ連れていかれることになりますよ! ともあれ、エヴァンゲリオンという大半の人間にとっては娯楽のひとつにすぎない映像作品への「歴史修正」に抵抗を示したい奇特な方々は、私の「:呪」をはじめとした多くのネット批判記事について検閲に先んじてプリントアウトし、それでも焚書が不安というならば石碑として文言を刻みこみ、後世へと真実を伝えていってほしいと思います。

 あと、今回の新作映像にアスカの「子ども! よくがんばった!」っていうセリフがあるんですけど、これを聞いてあらためて、テレビ版の第八話からエヴァ破に至るすべてのアスカは殺されたんだな、と思いました。

 シンエヴァ新作映像の戦闘シーンについて、「初代ウルトラマンのある回における怪獣ファイトを再現したもの」との情報をいただきました。ご指摘、ありがとうございます。だからなんだってんだよ! 小鳥猊下さんだってオタクのクセに、何もわかってないクセに! オタクだからどうだってえのよ! それが面白さにつながってないことが大問題なんだよ! 「気づいた人がクスッと楽しいスパイスとしての小ネタ」だから許せるのであって、ご飯茶碗にコショウをテンコ盛りに出されて、それをおいしくいただけるのかって話をしてんだよ! もうクシャミがとまらねーよ! 目もかゆいし、オマエは花粉症かよ! しゃくしゃくしゃく、えぷそーん! エヴァ序のときは「ポジトロンライフルの照準の動きがウルトラセブンだかの戦闘機と同じそれ」みたく、上品に隠されたオマージュだったじゃねえかよ! それを、シン・ウルトラマンに関わったせいだろうよ、ギンギンにポッキアッパした部位をもう隠そうともせず、画面中央で大胆にポロリさせやがって! アタシゆるさないからね、一生アンタをゆるさないからね! FGO7章前半の感想にもチョロっと書いたけど、上目づかいの哀願から大強姦まで一足とびできる節操と距離感の欠落がオタクの下品さの正体なんだよ! キミのそういうところ、キライ、キライ、大ッキライだなあ! しかも、「何のアイデアもない」って指摘だけは当たってんじゃねーか、キモチワルイ! ご教示、ありがとうございました。

雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」

 原神の最新ストーリーを読む。ディシア編については演出の一部が破綻しており、定期的なバージョン更新の弊害を強く感じさせる仕上がりで、物語としてもビルドアップとその解決に雑な部分が見られました。いくらでも待てるーー探索しても探索しても、達成率100%にならないーーので、納期よりもブラッシュアップを優先してほしいと思います。その一方、魔神任務「カリベルト」は叙述トリックを交えた描写で原神世界の深奥に迫るばかりか、SF的なセンス・オブ・ワンダーにも満ちあふれていました。大胆に予想しておきますと、テイワットは2重地下世界の上部構造なんじゃないでしょうか。ナヒーダ編とあわせて考えると、もう1つ上に本当の世界があるーーいま冒険しているのは、ドラクエ3で言うところのアリアハンにすぎないーー3層構造になっているような気がします。

 このストーリーで語られているキャラの心情についても、ほとんど文学の域に到達していると言えるでしょう。我々がカタカナで無益さを揶揄するときのそれではなく、かつて帝国大学文学部が重々しく教授していたときの、大文字の「文学」です。nWoの更新において幾度もリフレインされてきた「醜い肉塊にすぎない私が愛されたいと願うとき、貴方は私を愛することができるのか?」という究極の問いに、「できる。それが我が子ならば」と親の立ち場から断言されてしまったことに、いまは少し愕然とさせられています。この問いは本来なら肉親に向けられるべきところを、肉親との関係性からそれがかなわず、他者へと向かうがゆえにいつも無効化されてしまう性質を持っており、例えば栗本薫を創始とする「やおい」作品群などは、なんとかしてこの無効化を乗り越えて他者へ届こうとする力学が、特定の人々にとって極めて切実な「文学」でした。ある種の悲鳴とも言えるその問いかけに対して、まっすぐ目をのぞきこみ、「まず、親との関係をちゃんと精算しろ。そうすれば、我が子がどんな存在であれ、おまえは抱きしめることができる」と、たかだかゲームぐらいに言われてしまったことへ、ある種の敗北感がこみあげてくるのです。

 さらに自分語りを続けるならば、かつて「虚構における美少女キャラの白痴性を消費することに、罪は無いのか?」と問いかけた小説を書いたことがありました。「見た目が愛らしく、性的な視線を許容してくれ、簡単にセックスできる」という男性の古い欲望を、2次元に投影する過程で希釈したのがエロゲーの美少女であり、泣きゲーにおいて「見た目が儚く、深く傷ついていて、簡単に依存してくる」へと変奏されたのち、現在の萌え絵へと遺伝子を継承されていく。おそらくは自己嫌悪から発した、このほとんど神学的な問いにさえ、原神はこちらの両肩へ手を置いて「罪は無い。一個の人間として描写されるならば」と断言した上でショウ・アンド・テルにまでおよんでくるのが、本当におそろしい。国家と世代の双方にまたがるゲームを通じたこの異文化体験のさなか、長く依怙地に保持してきたアイデンティティをキャンセルされる瞬間があり、油断しているとプレイ中にしばし茫然とさせられてしまいます。

 先日、タイムラインへ流れてきた大陸の「寝そべり族」に関する記事を読みました。興味深くはありましたが、場の衰退と個の加齢をオーバーラップさせて、本邦の精神性の正体である「寂滅」に訴えるのは、読者を獲得する戦略としては正しいのでしょうが、社会批評として早々に結論を出そうとするのはイージーに過ぎます。少なくともこれから20年を定点観測して、彼らが思想未満のそれを老いていく過程で成熟させ完遂できるのか、その行く末までを含めてこの記事は完成するような気がしました。原神になぞらえて言うなら、死をゼロとした衰えの時間軸に精神を「摩耗」させられない強靭さを、いったいどのくらいの数の魂が維持できるのでしょうか。個人的には、「最後の世代」を政治的に標榜する若者の内面などよりは、世界最大のアプリに携わる人々が抱く「もちろんゲーム制作に、社会を維持するための生産性なんてない。しかし、これこそが我々の存在理由であり、いまを生きる意味そのものだ」という熱量に進行形の時代を感じます。それに原神を愛好する若いファンたちは、熱を失うばかりの世代の諦念とは、離れた場所にいるように見えるのです。

 最近では、先に退場する者たちが「世界はどんどん悪くなっていく」と口に出すことの無責任さを、強く意識します。特攻隊員の生き残りがテレビの生放送に呼ばれ、司会者がなんとか戦後の若者たちへの批判を引き出そうとするのに、「彼らは教育も受け、私たちよりずっと賢い。きっと、世界は良い方向に進んでいくと思う」と答えたというあの逸話を思い出すのです。余談ながら、いまはなきマイナー球団のホームラン打者についてのドキュメンタリーを偶然に見てしまったのですが、全編にわたって昭和のイヤな部分が濃縮された内容で、あの時代に感じていた「生きづらさ」を生々しく追体験させられました。二度とあそこへ戻りたくないと心の底から言えることは、多少の行きつ戻りつはありながら、人類が総体としては良くなっていくことの証左であるようにも感じます。上の世代を憎む者たちの作り出した文化から、憎しみだけを取りのぞいた遺伝子が、異境の若者たちを通じて世界中へと伝播し受け継がれていくーーこの未来はもちろん、我々にとって愉快ではありませんが、それほど悪い顛末ではないような気がしてなりません。

映画「ザ・メニュー」感想

 円盤でザ・メニューを見る。アニャ・テイラー・ジョイ目当てなので、内容なんざハナからどうだっていいっちゃいいんですが、とにかくヘンな映画でした。ミステリーかと思えばそうではなく、ホラーかと言えばそうでもなく、エル・ブジ的なるものへの批判かと問われればさらにそんなことはなく、正体のわからないまま、緊張感だけは100分を途切れることなく続いていきます。いっしょに見た人は「夢のような脈絡の無さ」と表現していましたが、それを志向したというよりは、役者のアドリブを許容するユルい物語フレームのせいで、結果としてそうなってしまった感じなのです。

 チョコ天冠とマシュマロ経帷子で、無抵抗のまま荼毘に付される気のくるったラストシーンを見終わってから、モヤモヤした気分を持てあまして監督の過去作を調べたら、サシャ・バロン・コーエン主演のアリ・Gがあるじゃないですか! そっかー、下ネタありの社会風刺ブラックユーモアとして見ればよかったのかー……って、そんなわけあるかーい! ともあれ、ザ・メニュー、商売女役のアニャたんがノースリーブ・ドレスでチラ見せするワキだけは、文句なしに最高でした(性的な消費)!

映画「ブルージャイアント」感想

 小鳥猊下のキャラに合わないものは極力、言及を避けてきた十数年だったのですが、最近はその制約と誓約もだいぶ希薄になってきたーー現実ではルールを守っても、特に能力がカサ上げされないことが判明したためーーので、もうしゃべっちゃいますけど、漫画ブルージャイアントの大ファンなんですよねー(ジャズってスカしてて、nWoっぽくなくない?)。無印から始まって、シュプリーム、エクスプローラーと単行本はずっと発売日に買ってます。この作者の描くキャラクターたちは、昔の文芸時評ふうに言えば「ちゃんと人間が書けて」おり、読んでて腹が立ってこない(かなり重要)ので、とても好きなのです。ただ、人に薦めるにあたって注意しておくべき点があって、この漫画家の信条と申しましょうか、創作姿勢みたいなものを言葉にすれば、「偶然いま、この人物にカメラが向いているけれど、世界に主人公なんてものは存在しないし、だれにでもどんな不条理でも起こりうる。それが生きることの残酷さってものだ」とでもなるでしょうか。山岳救助隊のスーパー・ボランティアを描いた前作も、この考えに従って最後には主人公を二重遭難でキッチリ殺して終わらせている。

 この後味の悪い結末への非難ーーバッドエンドとわかっている長編を読みたくない層は一定数いるーーに懲りたのか、ブルージャイアントでは単行本の巻末に「有名ジャズプレイヤーとなった主人公を、過去の関係者が語る」挿話が毎回あり、「ダイ・ミヤモトは夢の途上でdieしませんよ、サクセス・ストーリーだから安心して読んでね」という目くばせをセーフティ・ネットとして用意している。なので、読者は今度こそ安心して読めると思うじゃないですか。いやいや、少しの内省で創作の信念が曲がるほど、売れているプロ作家の業は甘いものじゃありません。主人公を守られた安全圏へしぶしぶ退避させながら、本作において作者の牙は準主人公へと向かうことになります。無印ブルージャイアントの最終巻、大事なライブの前日にメンバーのピアニストが何の脈絡もなく大事故に巻きこまれ、右腕をグシャグシャに損傷させられてしまうのです! 工事現場の立ちんぼで誘導棒を振っている準主人公に、ページをめくったとたん見開きでダンプが突っ込んでくる絵は、あまりの唐突さに「コイツ、やりやがった!」と思わず爆笑してしまったほどでした。そして、どれだけ過去の巻を見直しても、この結末に至る伏線なんか微塵も出てきません。作者を問いつめたとして、「若くして大動脈解離で亡くなった有名人の死に、伏線があったか? これが世界の残酷な実相ってもんだ」としか返ってこないと想像できるあたりが徹底しています。

 無印ブルージャイアントの映画化と聞いてまっさきに思い浮かんだのが、ダイ・ミヤモトの海外雄飛のきっかけとなった、物語としては読者を絶頂からドン底に叩き落すーーじっさい、リアルタイムでは非難轟々だったーー作劇をどう再現するのか、またはしないのかという興味でした。んで、きょう見てきたんです。あまり大きくないハコだったのですが、若い原作ファンと年配のジャズファンが半々といった感じで埋まっていて、アニメ作品としては面白い客層でした。ラストの改変は、映画として収めるにはこれしかないというラインでしたが、あまりにフィクションの機能による称揚が強すぎて、石塚真一作品の本質からは少し浮いているような印象を持ちました。話題になっている演奏シーンの映像的なクオリティは、京アニの音楽モノなどで目の肥えたオタクには正直なところ、厳しいと言わざるをえません。上原ひろみのギャラが制作予算の大半を占めてしまったせいなのか、CGを含めたルックスは全体的に劇場版というより、テレビアニメのレベルです(録音は文句なしなので、円盤でのリテイクを期待)。

 「アニメ映画を見る」のではなく、「ジャズライブに参加する」意識で行った方が満足感は高まるーー前の席の老人は終盤、目をつむって横ゆれしていたーーと思いますが、夢を追う若者たちの青春を描く、最近ではめずらしくなってしまったストーリー展開は原作同様、やはり特筆すべき熱量に達しています。疲れた大人たちは、若いパッションが己の諦念を砕いてくれる瞬間をどこかで夢想しているし、子どもの純粋さが冷めた大人の打算に勝ってほしいと、いつも願っているのです。その意味で、ダイ・ミヤモトの狂気じみた情熱が本作を視聴する若い人々に感染し、この老いた世界の見かけに充満する「冷めたあきらめ」を吹きとばしてくれればと、半ば本気で期待しています。あと、「映画館で見るべき!」との感想を散見しましたが、「防音室とサラウンド再生環境の無い家庭は」を条件として追記しておきましょう。映像の一部は大画面に耐えるレベルじゃないし、ホラ、衰退期とはいえ全国民がウサギ小屋に住んでる貧民ってわけじゃないから……(無用の挑発、そして台無し)。

雑文「PEOPLE‘S GENSHIN IMPACT(近況報告2023.2.21)」

2022年12月29日

 今年を振り返れば、原神から受けた衝撃は個人的な大事件であった。もちろん諸君の予想するとおり、窓がネジで閉まりきらず、隙間風のびょうびょう鳴るデジタル四畳半の向かいには、雷電将軍がプレステ5のつながれたブラウン管テレビをながめながら、つまらなさそうにコタツ蜜柑に興じておられる。しかも、草薙の稲光を携えた防御60%無視のご本尊であり、レベルは本体・武器ともに90へと到達し、なんとなれば聖遺物の厳選も軽く終わっているぐらいである。

2023年2月21日

 原神、冒険ランク56に到達。苦節2ヶ月をかけて育成した天賦オール10のパーフェクト雷電将軍がおっぱいの谷間から刀ーーおそらく、ウテナへのオマージューーを抜き出しながら、「稲光・イズ・永遠」とハスキーボイスで発声すると、世界ランク8のあらゆる敵が一瞬で蒸発するようになった。このゲーム、FGOなどの旧世代アプリに比べるとガチャがとてもよく考えられていて、天井が低い代わりとして育成をかなり重めに設定してあり、ガチャへ付随するポイントで育成に必要な各種リソースを交換できるようになっている。例えば、FGOのガチャはピックアップの星5以外すべてゴミが排出され、まさに「万札シュレッダー」としか形容のできない人類悪的ギャンブルであるのに対して、原神のそれは「ゲーム内のモノと時間を適正価格で購入させていただいている」ような印象さえ受ける。それこそ、「キャラは持ってるけど、育成のためのモラと素材が足りないからガチャで補充しよう」なんて引き方もできなくはなく、天井がアホみたく高いクセに育成は秒で終わるーーゆえにキャラへ愛着のわきにくいーーどこぞのFGOには新アプリを導入する際、ぜひこのバランスを見習ってほしいものだ。

 さて、「おっぱい、ぷるんぷるーん」以外のゲーム内近況報告ですが、重すぎる育成リソースをやりくりするため、モラと経験値本めあてに各地の探索度を上げたり、手つかずだったデートイベントを順に消化しているところです。初期に導入された軽い読み物と油断していたら、凝光の「私は幼少期に良い教育を受けられなかったから、貧しい子どもたちと関わることが彼らにとって教育になればと考えている。時が過ぎて私の肉体が消えたあとも、この名が良い統治を表す概念として彼らに引き継がれていけばと願う」という告白にふいをうたれ、号泣してしまいました。人間の世界と関わるのがイヤでイヤでオタクになったはずなのに、気がつけば人類の継続を願う言葉に共鳴している自分を不思議な気持ちでながめています。親を憎まない若いオタクたちがこうなのか、大陸の文化に底流する思想がこうなのかは判然としませんが、P’S REPUBLIC OF CHINAのことは嫌いになっても、GENSHIN IMPACTのことは嫌いにならないでください! 貴様ッ、中華アプリへの課金は銃やミサイルに姿を変えてオマエをいずれ殺しにくるぞ! 構わないッ、凝光様や雷電将軍への愛がオレの死だというなら、むしろ望むところだッ!

質問:実際、大陸文化とのかろうじて共感できる部分ってMOEしかないんじゃないかとか本気で思いますね
回答:まあ、チビで出ッ歯でメガネで首からカメラをさげた農協の我々も、同じ手法で世界を懐柔してきたわけですから、このカウンター文化侵略に異議を申し立てる権利などないわけで。さあ、ごいっしょに、「萌え、萌え、きゅん」!

ゲーム「ヘブバン・Angel Beats!コラボ」感想

 ヘブバンの最新イベントを読む……というより、視聴する。コラボ先のアニメは知りませんでしたが、以前に指摘した「不老不死美少女フィギュアのマインドスプラッタ」は、このライターの性癖であることが確定しました。本編のほうは重要な設定を吐きつくして、今後の展開にはまったく期待できない袋小路のドン詰まりに来ていますが、やはりイベントにおけるギャグパートだけはハチャメチャにおもしろい。作者が関西出身ということもあり、くりだされるギャグとのシンクロ率は120%を優に越えて毎回を大笑いさせられてしまうのですが、この人物の書くシリアスパートがもうとことん肌にあわない。そのあわなさっぷりはシンクロ率ゼロを突き抜けてマイナスに突入するレベルで、今回のシリアスパートが長めの上、2部構成だったのには本当にまいりました。途中からもう画面を正視できなくて、ブラウザをゲームウィンドウーー容量の問題でPC版に移行済みーーにかぶせて「はよ終われ」と念じながらのネットサーフィン(古ッ!)を強いられる始末です。「高校生の想像する人生」や「大学生の思い描く家族」みたいな、社会人経験がまったくない人物の妄想に近いタワ言を一方的に聞かされていると、かつての泣きゲー人気の正味はじっさいこんなものだったのかという気分にさせられます。しかしながら、FGO第7章後半の感想で冗談みたいに書いた「2次元文化の成熟が生む新たなスピリチュアル」は、すでにヘブバンにおいて実現していることがわかりました。美少女動物園で語られる死生観によって成立したこの「美少女新興宗教」は、サイエンスフィクションへ中老年期の人生を仮託する「私小説ロボットアニメ」と同じ、人類の歴史に新しい展望を与える本邦でのみ可能な一大オタクタキュラー(なんじゃ、そりゃ)だと言えるでしょう。

 あと、今回のイベントを読んでつくづく考えさせられたのは、人生も半ばを過ぎるとだれしも「これ以降、もう決して手に入ることはないもの」が見えてきて、それらへの感情は「嫉妬」「執着」「無化」「諦念」のように様々な形で噴出するのだということです。そして、ヘブバンにおいて最も強く表出されている反応は、手に入らなかった対象の究極的な「美化」です。その「美化」の純度はあまりに高すぎて、例えば板垣恵介の作品において「母である以前に女である」が「女である以上に母である」へ反転する瞬間と同じように、ただの子どもに過ぎない少女を無垢無謬の天使の位置へまで称揚してしまっている。さらに言えば、FGOのシナリオ(onlyファンガス)が得意とする「醜いと断じられた存在から生じる美」や「砕かれた悪徳の残骸から惹起する善」の玄妙さと比べると、ヘブバンはあまりに無邪気に世界すべての真善美を「美少女の『個人的な体験』」へと還流させすぎており、「大人の責任」、もっと言えば「男性に課せられた義務」が微塵も、どこにも存在しないのです。しかしながら、この「小児的な無邪気さ」がギャグパートにおける「うんこちんちん」と同質の、狂笑を誘うセンスと骨がらみで表裏になっているのも事実で、これはじつに悩ましい点だと言えましょう。なんとなれば、私にとっての「いちばん好き」と「いちばんキライ」が一作品の中で同居するハメになってしまっているのですから!

 余談ながら、もしFGOとヘブバンに共通する志向性があると仮定するなら、それは「良い人間でありたい」という願いなのかもしれません。もう充分に古い引用になってしまいますが、無印銃夢に損壊した死体の写真、特に子どもの写真を撮りたくて戦場カメラマンになった男が少女を助けるため、銃を持った兵士の気を軽口で引いて近づいて、ついには射殺されてしまうという下りがあります。最近では、我々を駆動するのはこんな、「善への希求」のような強度を持たない、ほとんど突発的な「善への衝動」なのではないかと感じることがあります……オップス、ただのディスレスペクト・テキストなのに、あやうくいい話ふうなテイストでまとめそうになりました! ヘブバン、シラフのときはオヤジギャグでドッカンドッカン笑いをとる軽薄なイケオジなのに、アルコールが入ると激重トーンで反論も離席もゆるさない雰囲気を出しながら、「熱烈な恋愛の果て、愛するオンナと添い遂げるのが最良の人生」という単線の説教をオッぱじめるの、なんとかしてくれないかなー。それってさあ、ぜんぜんキャラクターの話じゃなくない?

雑文「アニメ版チェンソーマン・第1期終了に寄せて」

 NOPEについての感想を調べるうち、チェンソーマン作者の妹アカウント(意味不明)がこの映画をほめているのと、チェンソーマンのアニメが漫画版のコアなファンたちに大きな不興をかっているのを同時に知りました。この配信全盛の時代に、いい音響設備を持っていれば話は別として、わざわざ円盤を買う層がいるとも思えませんのに、その売り上げを人気のバロメータとして語っているのには、いつまでも野球のニュースがスポーツコーナーの大半を占める「本邦の変化できなさ」と同じものを感じます。以前、いくつかの読み切りへの感想に、「この作者を理解できるのは自分だけだと思わせ、読者の一人ひとりと直接に書簡を交わすことのできる、稀有な作家」みたいなことを書きましたが、今回はこの特性がアダになっている気がします。なまじ感想を言語化できる、中途半端に偏差値の高い層がファンなので、SNSでバズりやすいと同時に燃えやすくもあったんだろうなーと思いました。当の監督さえも口を閉じていられずに、「アニメではなく、邦画のように撮影した」みたいなことを得々と語らされてしまうあたり、本当にファム・ファタールのような作家性だなあと感心してしまいます。まあ、チェンソーマンは洋画、それもB級洋画のチープさで撮らなきゃダメなんですけどね(「運命の女」の色香にやられた者の目で)!

 「アニメ版チェンソーマンのどこがダメか?」という議論をイヤイヤ横目で流し見しましたけど、わかりにくい例えながら「東大京大以外に通っていた者が、自分の出身大学は明かさないまま、私立大学の序列について語りあってる」みたいな雰囲気を感じましたねー。この例えに乗っかって言うなら、アニメ版の評価は「都心から少し離れてるけど、難易度も手ごろで、いい大学よ」とでもなるでしょうか。自戒をこめて書き残しますが、中途半端に偏差値が高い人物の言語化は、表現した内容と意識の本体に微妙なズレがあるんですよね。そして、発した言葉の方にピッタリ合うよう意識の本体を補正していくことで、やがて人格にまで影響が出るようになっちゃう。SNSがもたらした最大の弊害は、「言語化しないほうがいいもの」の存在を人々に忘れさせてしまったことだと考えています。個人的には「言語化に前駆する意識の広がりを後置される言葉で剪定しない」ということを、最近では肝に銘じておる次第です(これを記述するのが、そもそもの矛盾ですが……)。

 余談ながら、海賊王を名乗る詐欺事件の話が原作ファンの間で思ったほど燃えているように見えないのも、ファン層の大半を占めると思われる言語化の苦手な低偏差値ヤンキーたちは、ツイッターに生息していないからでしょうねー。長くなってきたのでまとめにかかりますと、アニメ版チェンソーマンの敗因は、「中途半端にかしこいメンドくさいファンが、受け手と送り手の双方に多く含まれていたこと」だと指摘できるでしょう。特に本邦での「かしこさ」ってのは、神経症の言い換えみたいなもので、美人の顔にある小さなひとつのシミさえ批判の本体にしちゃいますからねー……おっと、例えが昭和オヤジすぎて、平成キッズのみんなは引いちゃったカナ? 美醜は無いもののようにふるまうのが令和流だったよね、メンゴメンゴ! 最近では加齢と飲酒で脳細胞の多くがいい具合に破壊され、「言葉が存在しない状態」に生きる時間が増えてきました。これこそ、実家住み・マルチプルインカム・中卒ヤンキーの持つ多幸感の正体なのだと気づき、これまでの無用の苦しみをふりかえると、その遠回りに悔しいような気持ちにもさせられます。

 ともあれ、イケメンの頭頂部の砂漠化ぐらいのこと(大問題)で第2期を立ち消えにしてしまっては、元も子もありません。いまこそ私たち高偏差値の男前ハゲは、あたかも高等教育を経験しなかったかのようなフリで、アホになるべきではないでしょうか。では、みなさん、ごいっしょに! (ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)チェンソーマンのアニメ、さいこー!

小説「虐殺器官』感想

 タイトルがすばらしいので、「読まなきゃな……」と思いながら十数年が経過した虐殺器官をようやく読む(青少年のみなさん、これが中年期以降の時間感覚です)。膨大な設定と蘊蓄の集積を、まるで日本人みたいな自意識のアメリカ人の語りで聞かされる、しかもぜんぜん話が進まない、ダメなときのメタルギアシリーズみたいな作品でした。「ストーリーを語るための設定」と「設定を語るためのストーリー」があるとすれば完全に後者へ寄ってて、全体の90%を過ぎてもまだ蘊蓄を語り始めるので、思わず「いい加減ストーリーに集中しろ!」と叫んでしまいました。もはや調べる気はありませんが、世界のコジマが激賞しそうな雰囲気だけはただよっています。なんと言いますか、現実における死の経験不可能性が結果として神秘のヴェールをまとわせたって感じがしますねー。

 あと、三体のときにも指摘しましたけれど、男性作家が作中でつい少女をリョナっちゃうのは、現実における少女との性交不可能性にイラだつあまり、架空の暴力へと欲望を転化しちゃうんでしょうか。作中で頻発する児童スナッフには、現実における本作の映像化不可能性を感じますが、もし「原作に極めて忠実な」実写が存在するのだとしたら、ぜったいに見ます!

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第2部7章後半を読了。「育ちの悪い会社」だなんて、「だれかが非難や糾弾に用いる言葉は、その人が最も言われたくない言葉でもある」を地で行く育ちの悪いシャバゾーがチョーシこいて、本当に申し訳ありませんでした(土下座)。重課金者にとって愉悦のORT戦についてはすでにお伝えしておりますが、カマソッソさんが文字通りのゾンビアタックでこの難敵を単騎撃破したことを想像するとき、私のマナコとオソソッソはじゅんと熱くうるんできます。戦闘の合間合間に語られる挿話はどれも出色の出来で、アルコールが入っていたこともあり、ずっと号泣しながらプレイしていたことをまずお伝えしておきます。都市英霊の最期へ至る顛末は「勝ちがないのに、なぜ戦うのか?」という問いへ真正面から答えており、いままさに行われている地上の虐殺のすぐ傍らへ鳥瞰から舞い降りるような気さえしましたし、異霊プロテアの言葉なき翻心を描く下りには、「人は打算には打算を、気持ちには気持ちを返すものだ」という台詞を思い出して、夜中なのに強めの嗚咽がほとばしり出て近隣を騒がせたほどです。

 良質な物語だけが与えられる豊かな余韻に浸りながら、さらに思いつくまま7章での印象に残った場面をあげていきます。ある人物へ向けた「リーダーの器でないことを自覚しながら、必要な場面では逃げずに気持ちをふるいたたせ、必ず決断の責任を取る」という評が、個人的に深く胸へ刺さりました。存外「決める」ことのできる人間は少なく、それが組織や人の生き死にに関わるとなれば、さらにその数を減じるにちがいありません。社会の底から見上げる野党的な視点のフィクションばかりが横行する現在、意図せぬまま高所に立たされた者の責任と覚悟の気高さを描けるのは、FGOが空前の大ヒットとなったからこそで、他のスマホゲーでは表現のおよばない魅力だと言えるでしょう。じっさい、昨今のSNSにおける他責や他罰の有り様は見ていられないほどですし、学生の世迷言や貧乏人の私小説なんて、もう薬にもしたくないですからね!

 また、あるディノスの死に際しては旧エヴァの「彼の方がずっといい人だった。生き残るならカヲル君の方だったんだ」という告解を思い出しましたし、「フィクションには涙を流せるくせに、身近な人たちの死にはまるで不感症である」という自責の吐露は、己のことを言われているようでした。以前、「nWoに可能な愛と勇気の物語を」とスタートした小説に「紡がれるのがどのようなテキストであれ、私たちは本質的に小鳥猊下を読んでいるのです」という感想を寄せられたことがあり、当時は批判のようにも感じられたのですが、いまならばこの感覚はよくわかります。私がFGOに触れるときの態度がまさにそれで、本作を通じて「リアルタイムで追う最高の物語のひとつ」を体験しているのと同時に、「同じ時代を生きるファンガスの人生」を読んでいるのだと言えるでしょう。第2部6章が彼の歴史観や人間観を高い視点から集大成的に表現していたのに対して、この7章は王道的なストーリー展開でありながら、地に足をつけた彼の個人的な感覚や感情を引き写して、そこここに落とし込んでいるような印象を受けました。

 マーリンに代表される「現世と隔絶された、孤高の観察者」というモチーフには、生涯を語り部として過ごしてきたファンガスの人生と自意識が仮託されていると確信するのですが、今回の「星見の姫」はより解像度の高いリフレインとなっているように思います。これだけ多くのファンたちに求められている人物の自意識が、「与えられた環境からは離れて生きられない巨竜、その心はどれだけの時間を経ても成長せず、善悪の区別なく未来永劫を観察し続けるのみ」であることには悲しみにも似た、しんとした気持ちにさせられます。成長とは幻想であり、たとえ家族を持ち日々を仕事にやつしたところで、容れ物の外殻が厚みを増すだけのことで、たたえる中身が大きく変質することはありません。彼はあるキャラの幕間の物語において「生きることは、濁ること」と表現しましたが、その言葉とは裏腹に出力されるテキストは、ますます清明に研ぎ澄まされていくのです。この事実は私に、戦争帰りのトランペット吹きを書いた古い小説を想起させました。人を殺したために音楽から見放されたと嘆く黒人ペッターへ、乞うて一曲を吹かせたところ、これまでに無いような深い音を響きわたらせる。彼はその直後に、信じていた音楽から裏切られたと感じ、自殺してしまうーーそんな内容です。

 あと、「死徒」とか「直死の魔眼」とか、月姫リメイクアルク・ルートだけ読んで続きを断念した私にもかろうじてわかる単語を散見しましたが、「同じ部品で再構築しても、機能停止を一度でも通過すると再起動できないのが、生命の本質であり死の定義」という考え方は、初期作品での観念的な「書生の繰り言」から大幅にアップデートされた「魂の思想」とも言うべき何かへと至っており、「書き続けること、生き続けること」による長い時間をかけた変化を見ることができました。キノコの着ぐるみの中にいるファンガス本体はアラフィフぐらいだと推測しますが、この年代は論語とは違って天命を知るどころか、フォントサイズ100かつボールドの「惑」一文字であり、人生の残り時間が見えてくるからでしょうか、傍目には無謀に思える大転身をする方々がポロポロ出始める時期です。どうか社長を筆頭とする周囲の大人たちは、この希代のストーリーテラーが乱心して道を踏み外さないよう、最果ての塔の錠前をしっかりとロックして、物語だけをさえずるカナリヤとしての天寿を、彼にまっとうさせてあげて下さい。

 7章読了後に型月世界とやらのwikiを眺めていると、20年を塩漬けにされていた大学ノートの「最強設定集」が、FGOの大ヒットにより正史として語られ始めていることへ感動を覚えると同時に、これがコアなファンの内輪ウケに消費されるだけでいっさい世に出ないまま、書き手が寿命を迎える未来も充分にありえたのだと思うと、そら恐ろしい気分にもさせられるのです。もはや中身がスッカスカのアバターでさえ、「全5部作!」なるキャメロン翁の妄言を看過しているのですから、型月世界の膨大な裏設定をすべて預けられつつあるFGOなら、「全9部作!」くらいブチ上げてファンガスに残された作家人生へ明確なロードマップを引いても、だれからも文句は出ないでしょう。

 そして古希を迎えるあたりから、FGOが「世界の真実」を観念的なテキストで語る新しい宗教と化していったとして、それを2次元文化の成熟が生みだした新たなパースペクティブとして全面的に受け入れ、什一税のお布施も死ぬまでは欠かしませんので、関係者のみなさま、どうか何卒、なにとぞ!