デモ版
ゲーム「ファイナルファンタジー16(デモ版)」感想
開始10時間
ファイナルファンタジー16製品版、主人公が本当の自分を受け入れる(笑)ところまで進める。PS5専売のおかげで大画面に耐えるほどグラフィックがいいし、デモ版でステレオかと残念に思っていたサウンドがサラウンドで鳴っているのは驚きでした。アクションは軽快かつ派手な上に、ボス戦を含めた難易度も全体的に低めで、反射神経の衰えた中年美少女であるにも関わらず、ここまで一度の全滅さえなく、アルコールを入れながらのプレイでも大丈夫そうなのは、個人的に好印象です。ゲーム部分の手触りは正直なところ、エルダー・スクロールズで言うならオブリビオン、ゴッド・オブ・ウォーで言うなら3、アンチャーテッドで言うなら2って感じで、一本道のマップとムービーが交互に繰り返され、自由度はそれほど高くありません。しかしながら、召喚獣戦が出色のオリジナリティで、ハイテンポのグレゴリオ聖歌みたいな男声合唱が流れる中での大怪獣バトルは、シンプルにテンションがブチあがります。さて、ここまでを絶賛しておきながら、ストーリーに触れる段になると急ブレーキを踏まざるをえないのも、また事実です。
ビジュアル優先で、キャラの感情と言動に一貫性がないのは、当シリーズのお約束として看過しましょう。もっとも気になるのは女性の描き方、もっと言えば「母なるものへの嫌悪」を強く感じるところです。本作では、魔法を使える人間が被差別民として描かれるーー「ベアラー」という単語が語尾下がりでなく語尾上がりで発音されるところに、我々の英語下手の正体がある気がするーーのですが、その表現の仕方がひどい。漫画家が批判者の容姿を不細工にする感じとでも言いましょうか、差別側をとにかく悪魔的に描くのです。とあるクエストなどは、「そろそろ説明だけじゃなくて、差別の具体的な感じをプレイヤーに伝えておきたいな……そうだ! 産み落としたばかりの新生児を母親が『おぞましい』と役人に処分してもらう話を入れよう! そのときの兄の台詞はこうだ、『今度はもっとちゃんとした弟をちょうだい』! (手の甲で垂れ流れるヨダレをぬぐいながら)ククク……残酷だ、この上なく残酷な世界の実相だよ……!!」とか言いながら書いてる感じで、それまでの好印象とゲームへの熱を一気に氷点下へ冷却するレベルにまで達しており、正直この場面を読んだ直後にもうプレイするのを止めようかと思ったほどでした。
FF14のときにも感じましたが、この制作者はあまりに思考が軽いというか、デリカシーが著しく欠如しているように思います。弟を溺愛し兄を冷遇する主人公の母親の描き方も極端だし、幼少期のプライベートな体験を反映しているのではないかと疑うレベルです。これが原神なら、ストーリーテリングで特定の人々を不快にさせるようなヘマは、絶対にしませんよ。両者へ感じる差異について、フォロワーの減少を覚悟で率直に思ったままを書けば、原神が「両親を敬う国立理系博士たちによる対話」で作られているのに対して、FF16は「両親の離婚した私立文系学士による独断暴走」で作られていると表現できるでしょう。ちょうど主人公たちの旅の最終目的は「”マザー”クリスタルを、ブッこわーす!」であることが判明したところですが、生命や魂のあつかいが雑で「世界観そのものが不快」ーーFF14でも同じことを言った気がしますーーって、かなり致命的じゃないですか? もちろんクリアまではプレイするつもりですが、現段階の印象がくつがえるかは、はなはだ疑問です。
思い返せば、最初のクエストが「舶来のラム酒」を「鍛冶屋ブラックソーン」に渡すという内容で、思考の無さとセンスの欠如をフルスロットルでぶつけられるイヤな予感は、残念ながら当たっていたと言えるでしょう。「ラム酒」は百歩ゆずって認めるとして、すべて地続きの世界で「舶来」ってどういう意味で使ってんの? どうせ、「スミスじゃ安直だからソーンにしよう、なんかカッコいいし」って、安直に決めたんでしょ? 形容詞1つと固有名詞1つで世界観の崩壊寸前まで持っていけるセンスは、逆トールキンとでも表現すべきもので、ファンタジー世界を構築するには致命的な非才に、FF14に覚えた不快感は正しいものだったなとあらためて思いました。あと、「機会を反故にする」とか、日本語もところどころ間違ってるし、あーもう! ホンマにイライラするわ!
13年後の5年後
雑文「PAPER MOONとFINAL FANTAZY(近況報告2023.6.26)」
デビルタイタン後
ファイナルファンタジー16、就寝前の30分でプレイを継続中。グラフィックに関しては、屋内外の明暗差とか、植生にこだわったフィールドとか、布の材質までわかる衣類とか、よくできている部分は本当に多いんですよ。エヴァっぽい召喚獣戦も、大画面のサラウンドを条件として、大迫力の仕上がりになっています。それなのになぜ、こんなにも強く残念な感じが全体にただよっているのでしょうか。シナリオの無神経さはすでにクソミソにお伝えしましたので、今日はゲーム部分のダメさについて触れていきましょう。
「スタイリッシュにもふるまえる」戦闘は、大剣使いにも関わらず主人公の攻撃力が異常に低く、1体を倒すのに誇張ではなく100回も斬りつけなくてはならず、ベルセルクのような「重たい一撃で敵を粉砕する」快感は絶無です。リミットブレイクなる必殺技も、攻撃力をそのままに動きの速度だけが上昇する仕組みになっていて、その様子はまさに以前どこかで表現した「ストロー級のアジア人がヘビー級の黒人に向かって行う飛燕の連撃」であり、演出の派手さも相まって、思わず変な笑いがこぼれてしまうほどです。ボス戦はこれに加えて、「地面に大技の予告エフェクトが出る」のを範囲外へ回避するステップが加わりますが、「アイスピックを高速で突きたてて氷を削る」みたいにして1000回も斬りつける作業は、基本的に変わりません。
フィールド部分の話をすれば、主人公はジャンプが苦手で、わずかな段差さえ常に迂回することになり、チョコボのダッシュも必死に足を動かしている割にはスピード感に欠け、店に売っている品物は数千から数万ギルするのに、意味深に光っている探索物の正体は2ギルか3ギルなのです。ここまで書いてきて気づいたんですけど、本作の正体って「オンラインゲームしか作ったことのない人物が、初めて手をつけたオフラインゲーム」なんじゃないですかねえ。1アタックの攻撃力がいちじるしく低いのも、床に長々と回避エフェクトが表示されるのも、回線のラグから逆算された仕様に思えるし、キャラの行動範囲とリソース獲得への強い制限は説明するまでもないでしょう。
思えば、ニンテンドーの主力ゲーム群がすばらしいのは、2Ⅾにせよ3Ⅾにせよ、プレイヤーの分身たる「マリオのアクション」や「リンクのできること」をまず「気持ちよさ」の観点から作りこみ、それを前提としてゲーム部分を構築している感覚が常にあるところでしょう。他方で、本作を含む近年のファイナルファンタジーは、「イケメンの主人公と美麗なフィールドを作成しました。さて、どうやってこれを遊ばせましょう?」という手順で作られてるように見えるんですよね。前者が「作る料理を決めてから材料を仕入れる料理人」なら、後者は「高級食材を購入してから何を作るか考えるグルマン」だと指摘できるでしょう。ニンテンドーの好ましさを例えると、「安い赤身しか手に入らなかったから、いい醤油を使ってヅケにしよう。ご飯は釜で炊いて、せめてワサビはすりたてで提供しよう」といったふうに、熟練の料理人によるジャッジがあるところなんですよね。
一方でファイナルファンタジー16は、「最高級の大トロを仕入れてきやしたぜ、旦那!」「うーん、いまオレは麻婆豆腐の気分なんだ……ひらめいた!」「オッ、まさか!」「そのまさかさ!」「うへえ、大トロをマーボーの具材に使うなんて、聞いたこともねえ! こいつァ、豪気だ!」「(小鼻をふくらませて)フフフ、真のクリエイティブは、だれも想像しないような地平にこそある……」といった、自称グルメの成金が内輪ウケに大金を使ってる感じであり、客である私の感想は「まっず!」なわけです。それにしてもこの怪作に、いったいどのくらいの人とカネと時間を費やしたんでしょうか(ググる)……(ギョロ目で)はあぁちいぃねえぇんん!? この間に台頭した半島や大陸の制作会社のきらびやかな活躍を見れば、本邦のゲーム業界が負けるべくして負けたことがよくわかりますね……。
バハムート後
ファイナルファンタジー16、ド迫力のバハムート戦をクリア。兄弟召喚獣での共闘に始まり、宇宙へ舞台を移してのグレンラガンを彷彿とさせる大立ち回り、メガからゼタへと至るフレアのインフレーションなど、QTE的とは言いながら、そこに介入して勝敗を決することのできる喜びに酔いしれました。他のすべての要素は脇に置くとして、召喚獣戦だけは100インチ以上のスクリーンと7チャンネル以上のサラウンドを前提に、ぜひ体験することをオススメします。しかしながら、その昂揚の極みは直後のムービーシーンで氷点下を突き抜けて、絶対零度にまで冷却されてしまったことも、また事実です。繰り返しますが、本作の主人公サイドはどいつもこいつも「犯罪歴の無い半天狗」であり、そもそもだれかと対話をしたり説得したりしようとする意志はなく、クリスタルを破壊したあとに自然が回復するような描写もないものだから、隠れ家の一味全員が故人の妄言を疑わないマルセイーーやだなあ、バターサンドのことですよ!ーー集団にしか見えません。それ以外のあらゆる登場人物も「狂気じみた差別者」ーーしかも、昭和前期の地域・血脈へ向けられたレベルーーとしてしか描かれないため、プレイ中に不快な気分が途絶えることはありません。
バハムート打倒後のムービーを見たとき、私に訪れた慨嘆はこうですーーどうして我々は、こんなにも親を憎むようになってしまったんだろう! ひとりの母親に息子たちを化け物と呼ばせ、錯乱の果てに頸動脈をみずから掻き切っての自死を選ばせるーー原神を経てしまったいま、これは本当に異常な作劇だと感じます。「平手を打って自殺を止め、隠れ家に連れ帰る」、そこまでは無理でも、せめて「崩落した瓦礫の下敷きとなり、事故死する」ぐらいにとどめる判断をしないのは、あまりにもデリカシーに欠けていませんか。あるいは以前に指摘したように、制作者の抱く「母なるものへの憎悪」が深すぎるせいなのかもしれません(思考が浅いだけの可能性も充分にあるーー「うーん、和解ルートもありっちゃありだけど、尺の問題もあるし、ここで処理しとくかー」ーーのが、本作の怖いところです)。タイムラインに「PS5を持っていないのは、ゲーム業界を志す者にとって致命的。Steamがあるって言うけど、いつFF16をプレイするつもりなの?」みたいな関係者の話が流れてきましたが、こんなゲームをプレイしても世界と戦えないことだけは断言できます。
いますべきなのは、大陸の為政者へ向けた敵愾心をオーバーラップさせるのを止めて、オリジナルを作れない剽窃ベースの程度が低い文化と侮るのを止めて、なぜ原神がここまでの規模で世界的にヒットしたのか、どうして居ならぶ本邦のゲーム制作会社たちはこれを生むことができなかったのか、見ないふりをせず、丁寧に真摯に虚心に坦懐に、その理由を分析することです。「母親が目の前で自殺するのを止めない子ども」の話が、いったい世界中のどの文化圏で肯定的に受け止められるのか、答えを持っているというのならぜひ教えていただきたいものです。アニメにせよゲームにせよ、スーパーアニメーターやスーパープログラマーが大ヒット一発でフワッとディレクターへと昇格し、シナリオのライティングまでぜんぶ任されてしまう「構造的問題」をどうにかしないと、本当にもう先はありませんよ。両業界をあげて、専門のシナリオライターをしっかり育成することが急務であると、老婆心ながら忠告しておきます。
クリア後(FINAL DIS-CLIVE)
ファイナルファンタジー16、発売日から2週間をかけてようやくクリア。最終戦のフィニッシュブローが「くたばれ!」と叫びながらラスボスの横ツラにグーパンをいれるQTEーーこんなにも加担したくないQTEは生まれて初めてーーだったのには、999999のダメージ表示を前に、乾いた笑いが出ました。シンエヴァのときにも書きましたが、かつて大卒高偏差値のサロンだったオタク文化は、いまや「中卒ヤンキーたちがうんこ座りするトー横」に変じてしまったことを、あらためて実感させられた次第です。それから、冗談ぬきで30分近く延々と続くエンドロールをながめながら、口を糊するための仕事にすぎないとは言え、こんなにも「意味不明の設定」「支離滅裂な言動」「浅薄で稚拙な人間観」にあふれたヨタ話を、よくぞ完成までこぎつけたものだと、ディレクターとシナリオライター「以外の」すべてのスタッフをねぎらう気持ちになりました。
制作者インタビューを読んでいて思いましたけど、この人物って「ゲーム畑の外から就任した経営陣」に向けたプレゼンが、メチャクチャうまいんでしょうねー。生涯で一度もゲームになんか触ったことのない取締役たちも、召喚獣戦とか盛り上がるシーンだけをつなぎあわせて見せられたら、大ヒットで制作費を回収できるような気になっちゃったんでしょうねー。その華々しいプレゼンの裏で、初めてのオフラインRPG制作にまったく手ごたえを感じられず、「やっべー、これマジでシリーズ最終作になっちまうかもなー」などと考えてしまい、ラスボスに「最終幻想」と言わせてみたり、初代FFオープニングの「そして・・・・ たんきゅうのたびははじまった」を裏返した台詞でゲームを閉じたりしたんでしょうねー。もし今後、ファイナルファンタジー17が作られるとしたら、6までの初期メンバーを呼び戻してほしいし、それが無理なら11をオフライン版でHDリメイクするのがあらたな死に金を生まない経営戦略だと、ゲームに微塵も興味のない首脳陣へと進言しておきましょう。
最後に、語り忘れていたミドなるキャラクターへ焦点を当てて終わります。このキャラ、ファンタジー世界なのに女子大生という気のくるった設定で、シドの娘を名乗らせるくせに母親の存在や幼少期の様子など、のちの登場のための伏線らしい伏線はいっさいなく、それこそ虚空から突然、13年後の5年後にアジトへ出現するのです。彼女のする奇矯な言動の数々は、あきらかに何らかの発達特性を示すもので、男性ならば「空気を読めない」や「対人能力が欠如している」などの評価から、組織内で孤立するだろうレベルに達しています。作品中でこのキャラが皆から好意的に受け止められているのは、これを「エキセントリックな魅力」として受容する、男性側の性的なまなざしで作品世界の根幹が構築されているからでしょう。本作において、しつこく、しつこく、しつこぉくーー「もうええて!」とリアルで思わず叫んだほどーー繰り返される「人が人として生きられる世界」というフレーズも、昭和の人権活動家が部落差別を語るときの「人」とまったく同じ色がついているし、以前に「世界観が不快」とお伝えしましたが、「世界を語る作り手の視線がキモチワルイ」と言い換えて、この怪作へたむけるファイナルディスクライブ(FINAL DIS-CLIVE)とさせていただきます……ドヤッ!