猫を起こさないように
年: <span>2023年</span>
年: 2023年

アニメ「範馬刃牙」感想

 範馬刃牙「親子喧嘩編」を通して見る。低クオリティの静止画に音声がついただけみたいなシロモノで、どこか激しく動かしたいシーンがあるから作画の足をためているのかと思いきや、そんなシーンは一瞬もなく、最後までずっと同じ調子のまま、低クオリティのまま終わります。意味不明の展開を超絶な作画力で、まさに勇次郎が息子の頭をなでるように無理やり読ませた原作から、作画力だけを抜いて何も足さない仕上がりになっています(ユーザー・イリュージョンの話がマルシーとれないので引かれてる)。でもね、この程度の品質で、居ならぶ韓ドラまでおさえて、ネットフリックスの視聴ランキング世界1位をとってんですよ(!)。

 原神のときにもさんざん言いましたけど、我々を停滞させているのは、もはや呪いと化した国民的心性である「神経質なまでの几帳面さと行儀のよさ」なんじゃないですかねえ。チェンソーマンがあれだけのハイクオリティだったのに、解釈違いと原作ファンに難クセをつけられて、2期の制作さえ絶望的な状況に追いこまれているのに対して、刃牙シリーズは死刑囚編から安定の「低クオリティ・コントロール」で、ついに最後の最後まで語りきっちゃった。さらには、刃牙ファンの裾野を世界各国のあらゆる人種へと広げ、近い将来に幼年編から最大トーナメント編まで作られそうな勢いです(スターウォーズの大好きな世界中のオタクたちは、この順番のストーリー提示に大興奮すること間違いありません)。

 本邦の漫画界隈には、「あまりに名作すぎて、おそれ多くてさわれない」や「ファンが厄介すぎて、怖くてさわれない」作品が、誇張ぬきで数十年来を塩漬けにされたまま、ゴロゴロしてるじゃないですか。あのチェンソーマンの仕上がりでダメなら、もう何をどうやったって一部のファンにはダメなわけで、我々は刃牙シリーズの雑なアニメ化が大成功したことを見ならうべきだと思うんですよね。全視聴者の1%にも満たない、うるさ方の原作ファンや声の大きい作画オタクは無視して切り捨てて、低品質の雑なアニメ化をもっとガンガン増やしていきましょう! 有識者および資本家のみなさん、本邦の衰えたプレゼンスを回復するのに、これほど簡単で安あがりな施作はありませんよ! とりあえず、高校鉄拳伝タフあたりからやっていきましょうか!

 『(バーガーとコークを手に、あきれ顔で)このアニメは世界でいちばん視聴されている。だから世界でいちばん面白いものに決まってるだろ。』

雑文「IUT続報に寄せて(近況報告2023.8.31)」

 宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる状況の続報にふれて、満面の笑みを浮かべている。あらかじめ、以下は高校レベルの数学さえあやしい人物による外殻の政治的な「面白がり」だということを伝えておきます。そもそもの発端は、5年近く前に同理論の成否を確かめるため、ドイツから2人の高名な数学者が京都を訪れたことでした。一週間にわたる論文著者との議論の末、帰国した2人は「乗り越えられない決定的な瑕疵があり、証明は無い」との結論を10ページの報告書として発表します。同理論はあまりに長大で難解なため、理解できる者は世界で十指にわずか余るほどと言われており、多くの数学者はフィールズメダル受賞者のこの宣言に、もう余計なことを考えなくてすむとホッとしたのです。そこから現在まで続く集団的思考停止の状況を「数学にとって不健全」だとして、論文著者が報告書の撤回を求めるメールを昨年、2人のドイツ人数学者へ2度にわたって送りつけたにも関わらず、完全に無視される結果となりました。業を煮やした彼はつい先日、その私的メールをネット上に公開したのですが、最近はDeeplやChatGPTなど翻訳に便利なツールもあるので、ぜひ本文を読んでみてほしいと思います。

 まあ、最大限ひかえめに言ったとしても、相当に「態度の悪い、挑発的な」内容になっていて、「あなたが健康な状態であることを願っています」から始まり、「あなたが議論において、ささいなことに固執していたのを鮮やかに思い出します」とか、「仕事や金銭の調整は必要ですが、京都に来るなら解放的かつ自由な議論を約束します」とか、「なぜあなたほどの人が、こんな簡単な数学が理解できないのかわかりません」とか、「私の師匠に理論の誤りを指摘すると『権威を盲信すべきではなかった』とすぐに認めました」とか、「『真実を受け入れる者は解放される』という金言の意味をもう一度よく考えるべきです」とか、とにかく全編にわたって「格下の相手にレベルを合わせてお願いしてやっている」というアロガントな雰囲気を隠しきれていません。メール内の文章表記も相手の読解力を疑うように、単語をダブルアスタリスクで強調(初めて見た)したり、読み落とさせたくない箇所は一文中であってもわざわざ改行の上で段落化したり、どこの00年代テキストサイト運営者によるテキストいじりなのかと疑うばかりの粘着ぶりです。

 さらに問題なのは、存命する数学者の中でトップクラスに入り、歴史上においても最高ランクに位置するだろう頭脳から、はた目にわかるほどの「激おこイライラ状態」でこれが出力されていることであり、選ばれる単語が高級で文章が難解なことをのぞけば、やっていることの本質は巨大掲示板での文系レスバトルとなんら変わりありません。そして何より悪いことに、わざわざ京都まで来て一週間を費やしてくれた相手の態度を硬化させている原因の最たるものは、間違いなくこれまでの論文著者のふるまいなのです。「証明なし」との報告書が公開された直後の彼の反応としては、「議論の最中、相手の説明する馬鹿げた解釈は自分の理論とは似ても似つかないと、ずっと考えていた」(なら、その場で指摘しようよ……)や「なぜこんな初歩的な数学が理解できないのか、同僚たちと爆笑した」などがあり、これだけでもかなりひどいのですが、きわめつけはドイツ人数学者2名を、名前の頭文字を並べてナチス親衛隊を意味する「SS」呼びしたことでしょう。なぜ非アカデミアのトーシロがこんなことまで知っているのかと言えば、これらすべてが論文の中に注釈としてそのまま書いてあるからです(!)。さらに、わずか10ページのその報告書に対して150ページ超の反論を公開したり、やってることはどこぞの訴訟インフルエンサーと大差ありません。

 今回の顛末について、以前にも指摘したように、コーケイジャンたちが99%の時間を意志と理性の力で抑制している人種差別の感情が、あるシリアスな一線を越えて噴出する領域へと論文著者が踏みこんでしまったことで引き起こされた可能性は、非常に高いと思っています。同時に、「アジアの黄色いサルに、ナチ呼ばわりされた。ヤツらモンキーどもに西洋文明の精髄である、数学のアルテを理解できるはずがない」という人格の底の底にある昏い負の感情が、メール無視による撤回拒否につながっているとすれば、外野の文系にとってこれほど面白い見せ物はありません(まあ、このへんは欧州の高位?数学者や数学倫理規定?みたいなものを引っぱりだしているあたり、薄々わかっているのかもしれません)。スーパー・ストリングスにせよ、インターユニバーサル・タイヒミュラーにせよ、もっとも冷徹に論理的であるべき物理学者と数学者が、「半世紀を捧げて己が権威となった分野が、すべて灰燼に帰すなどありえない」や、「30年をかけて完成させた究極の理論を、ポッと出の若造ごときに潰されるなど断じて許せない」といった感情にふりまわされているのを観客席からビール片手に眺めるのは、とうの昔に己の人生の相対的な無価値を受認した文系人間にとって、この上ない愉悦の娯楽だと言えましょう。

 いまの私の最大の関心事は、世界を席巻するAIがはたして人類にとって「我々はエヴァを生みだすためにその存在があったのです」という台詞の、エヴァに相当する対象になるのかどうかです。現存する人類すべての成果物を学習し終わったところでAIの成長が止まるのか、そこからさらに成長が続いていくのか、まだだれにもわからない段階とのことですが、これは私がよく使う例えであるところの「1を100にすること」と「0を1にできること」の対比によく似ているように思います。そして、前者に長けた人工知能がはたして後者の能力を有しているかどうか、すべての学習対象を消化したあとに無から有を生み出せるかどうかは、人の持つ知性と人の抱く感情が可分か不可分かの、数学的に言うならば、”conjecture”になっているような気がするのです。最高峰の知性さえも「乗り物」にしてしまう感情という制御不能のドライバーが、知的創造とは切っても切り離せない要素だと判明するなら、それは世界文学と同じ種類の人間讃歌だと言えるのではないでしょうか。私の生命が残っているうちに、人類全体をまきこんだ壮大な実験の結果が見られることを、切に願っています。そして、だれかが私のテキストに対して言ったように、「歴史上の数学者の人生を、リアルタイムに砂かぶり席で見ることができる」喜びを噛みしめたいと思います。

映画「ザ・フェイブルマンズ」感想

 スピルバーグ監督の自伝的作品であるザ・フェイブルマンズを見る。邦題は「ザ」を欠落してフェイブルマンズとしているが、”The + family name + s”が「ホニャララ一家」を意味する語法をガン無視しており、アジア人に向けてはふんぞりかえるクセに、西洋人には出ッ歯の平身低頭な虚業従事者のみなさまに対して、素直にshine(「輝け」、の意)と思いました。もっとも言いたいことを最初に述べておくと、アカデミー賞において本作が無冠にとどまり、エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスに7冠が与えられたという事実だけで、ポリコレ的なムーブメントが少なくとも芸術分野においては一利も無いことが証明されたと言えるでしょう。本作は「自伝的」と紹介されていますが、描かれているのはスピルバーグが映画業界に足を踏み入れる20歳ぐらいまでの話で、まさに「フェイブルマン一家」のたどる顛末がストーリーの中心となっています。すべてのシーンが観客にとっては少しずつ冗漫で、スピルバーグ自身がエンターテイメントというよりは、自分の大切な思い出をフィルムへと固着するために撮った作品のように感じました。その意味で、いまは亡き母親へ向けた強い思慕を含めて、宮崎駿の最新作と奇しくも同じような読み味になっています。

 家族と芸術に引き裂かれる者の業を説く映画業界の叔父や、両親の離婚という家族の修羅場を引いた位置からカメラを通してながめる主人公など、名シーンはそれこそ枚挙にいとまがありませんが、個人的にもっとも印象的だったのは、海辺での夏休みを撮影したドキュメンタリーをプロムで上映した後に、ロッカールームで起こったできごとでした。この場面は、監督する側の意図にはまったく存在しなかった、しかし観客にとっては深刻な解釈が生じる可能性があるということをしめすと同時に、以前「桐島、部活やめるってよ」で指摘したのと同じ構図が現れています。すなわち、映画を好むような陰キャは、スポーツ万能で異性にモテる陽キャを「人生に苦悩の存在しない、すべてを持てる者」として考えがちですが、彼らの中にも生きることへの不安や苦しみは「持たざる者」と同じように存在しているのだという当たり前の事実です。踏み外したと感じる者の諦念と踏み外せないと信じる者の重圧の対比、複雑な世界のひと筋縄ではいかなさに若き青年がはじめて気づいたという点で、きわめて重要なできごとだと言えるでしょう。我々が陥りがちな「彼(ひ)は満ち、此(し)は空なり」という甘い自己卑下を離れることが人生にとっては重要なのだという教訓を、この挿話は与えてくれているのです。

 映画の最後に、往年の大監督から「地平線が上か下にあるのがいい絵で、真ん中にあるのはダメな絵だ」と教えられた主人公が、画面の奥へと遠ざかっていくのを映すシーンで、しばらくののち、カメラがあわてて上方向にチルトして地平線を下げたのには、笑いながら泣いてしまいました。これこそ、映画芸術からしか得られない感情の機微だと言えるでしょう。宮崎駿の最新作が死の予兆に吞みこまれて終わったのに対して、本作は新しい生き方を始める青年の若々しい高揚感に満ちたまま、幕が下ろされます。東西の巨匠2人による最晩年のレイトワークに生じた差異は、「血を分けた盟友の死」の有無によって生じたものかもしれません。ともあれ、ひさしぶりに良い映画を見たときの贅沢な余韻にひたることができました。「映画とは、何か」の手ほどきを受け、そこから半世紀近くをともに歩んでくれた相手に、評価などというおこがましい行為は、もはや私にはできません。賞レースなんてどうでもいいと本人も思っているにちがいないでしょうが、本作を視聴したことで「エブエブ」への嫌悪感だけは確実に高まりました。

映画「ター」感想

 ケイト・ブランシェット引退の報を聞きつけ、急遽ターの円盤を購入して見る。酷薄なコーケイジャン女性の顔面が大好きなことは、もはや認めざるをえないでしょう。ブルージャスミンで証明されたように、彼女は見事な「人格憑依型」の俳優であり、本作においても監督の考える「ぼくのせかいさいきょうしきしゃ」を完璧に演じてみせました。映画の冒頭からシアター、レストラン、階段教室と、一流の手品師がトリックを見破られない自信があるときのように、アンチョコもプロンプターも存在しないことを示すためのステージと長回しの撮影から、クラシック音楽にまつわる難解な長広舌がマシンガンのごとくとびだしてきます。才能にあふれた美形をしか愛せないレズビアン、愛情と愛着の区別がわからない冷徹な人非人、他者の感情と人生までをコントロールできると信ずるその傲慢さによって、虫ケラと断じて切り捨てたはずのつまらない存在たちに逆襲され、ついには王位を剥奪されてしまう。音への過敏にはじまる不眠と神経症から、首席指揮者としての自我に亀裂が生じ、そこから坂道を転がり落ちるように壊れていく様は、ケイト・ブランシェットでなくては成立しえない圧巻の演技だと言えましょう。特に、プエルトリカン学生の「進歩的な態度」を粉々に打ち砕くために行った「あらゆる価値判断を放擲し、楽譜に従属する奴隷として、魂さえ捨てた空の器たれ」という講義は、最近の私の気分にぴったりと当てはまるものでもありました。

 本作をして、女性やLGBTQ差別への批判を読む向きもあるようですが、まったくそれには同意できません。むしろ極めて深刻なのは、漏斗状に上から下へと濃縮していく人種差別の構造であり、おそらく監督自身がそれに無自覚である点でしょう。降板させられた主人公がコンサート会場に現れ、演奏中の男性指揮者へ殴りかかるシーンで終わればよかったものを、そこから大蛇足の30分を追加したために、クラシックの歴史と業界の現在に対する批判へと内容に強いエッジがかかってしまったことが、それへ拍車をかけています。ベルフィンフィルを追い出されたあと、放浪の末に中国人のパトロンを見つけ、最後はモンハンのコスプレをした観客が会場を埋める中で、アジア人のオケを相手になんと「英雄の証」の指揮をするところで物語は幕となります。これは、「白人男性によって築かれたクラシック音楽はカビの生えた古典となって死に瀕しており、いまやアジア人のゲーム音楽にこの分野の新たな萌芽がある」という無邪気な批判のつもりなのでしょうが、以前にグラン・トリノで指摘したものと同じ「西洋的な差別意識の類型」を露わにしているのです。すなわち青い目の視界の外、石の文明の埒外で、もっとも取るにたらぬと侮蔑していた存在が偉大な欧州文化の精髄を継承するがゆえの衝撃であり、「差別構造の最下層にいるアジア人」が対偶に存在しなければ、最大級に痛烈な批判としての機能をこの結末が持たないことが、我々にとっての大問題なのです。逆ピラミッドの最上部にいる白人男性から、白人女性、中南米男性、中南米女性、黒人男性、黒人女性と順に階位が下がってゆき、その「人種漏斗」のいちばん細くなった部分から濃縮されて垂れ流れているのがモンゴロイドへの差別意識であり、この映画の体現する侮辱に対して我々は怒らねばなりません。

 本作は、ケイト・ブランシェットのファンがケイト・ブランシェット最後の演技を愛でるために見るのでなければ、まったく1ミリもおススメできません。全面協力したベルリンフィルは、たいそうなババを引かされたものですね。ああ、最後の30分さえなかったらなあ! 白人至上主義者がアジア人差別を無自覚に利用した、けったくそわるいクソ映画で引退を表明させられるなんて、ケイトがかわいそうだ!

ゲーム「FGOサバフェス2023」感想

 サバフェス2023の前半?までクリア。肩の力を抜いたファンガスの筆に、ところどころ他のライターによる文章ーー同人誌制作パートとかーーが混ざるので、読み味はいまいちスッキリとはいきませんでした。しかしながら、尽きせぬ揶揄の源泉たる「シャチョーのハンコ絵」をひらきなおってネタにするふてぶてしい態度は、「6体の水着キャラ」という重課金要素こみで意図せぬ押入り強盗ぽいふるまいになっており、思わず笑ってしまいました。8周年記念で配布された石と札だけでハンコ絵バーサーカーの宝具は4まで重なったのに、欲しかった方の星4キャラ(どっちかはヒミツ)が1体も手に入らず、毎度のことながらじつに排出バランスの悪いガチャになっていて、乱数をまともに組める人間がいないんじゃないのかとカンぐってしまうほどです。ここまでのストーリーについて感想を述べるならば、主人公格の通称アルキャスについては、本編である第6章から引き続いて「過酷な生育環境を経たため、他者が抱く負の感情へ敏感になってしまった子ども」のような描かれ方ーー設定的には「あらゆるウソを見抜ける」だそうですーーをされており、「高潔なる英雄」である無印セイバーのネガとして配置されているのは重々に承知ながら、茨木童子とのやりとりなどでは大の大人に「アイタタタ……」と目をおおわせてしまうような痛々しさを覚えました。また、今回のイベントテキストも例年どおりオタク界隈の最新トレンドをふんだん取りいれていて、特にブルーアーカイブ方面への目くばせはなんだか強めに感じましたねー。でも、「ガネーシャ不在のカルデア・ゲーム部」みたいな、かゆいところへ絶妙に手の届かない”雑さ”ーーおそらくファンガス以外のライティング・パートーーこそ、半島や大陸のつむぐ物語によって少しずつ本邦のオタク業界が版図を押しこまれている遠因となっているのではないでしょうか、知らんけど。本イベントのライティングがいつなされたのかはわかりませんが、山火事や台風上陸など現実のディザスターとのシンクロニシティが偶然に生じてしまうあたり、まことに不謹慎ながら「稀代の巫女、神おろしの自動書記」であるファンガスの有様を再認識する気分にはなりました。

 最近、他者への想像力を欠くブンガク畑出身の人物に向けた批判がタイムラインを下ってきましたけれど、あの界隈の文字列が本来の意味での「文学」だったことはついぞなく、ヒューマンロストの昔からひとつ残らず「私小説」の範疇にとどまり続けることが、あらゆる問題の大元であり根源でしょう。世界と何の接点もない個人の感想が公の場で取りあげられるのは、「大文字の文学」と「単なる私小説」が賞レースという枠組みの中でずっと混同され続けてきたからだと指摘できます。ひと昔前なら面相のうるわしい若きアイドル文士たちに冠が与えられていたところに、近年では「ゲイ」「レズ」「クリップルド」などの属性がその対象となってしまったことへ、表層的な時代の変化だけは否応に感じざるをえません。これは「私小説」の「わたくし」部分が、あえて言いましょう、「一過性のトレンド」によって首をすげかえられている状態であり、この意味で本邦の「ブンガク」は「文学」とほど遠い場所でマニュファクチャリングされた、「値段のつく感想文の集積」と同義になってしまっているのです。この類の問題を考えるとき、どこで触れたのかは忘れましたが、「私たちは一見、たがいに異なっている。けれど、その皮一枚の下は、だれもがみな同じだ。そして、さらに少し先で、やはり私たちはみな異なっている」という言葉がいつも頭によぎります。ゲイがゲイの、レズがレズの、クリップルドがクリップルドの生活実感を記述したものは、2段階目までの中身がせいぜいで、下手をすれば1段階目の表明に満足しているケースさえあります。私の言う「文学」とは、このフレーズの3段階目にある普遍的かつ荒涼とした孤独のことなのです。

 例えば、どんなアングラな場所でのささやきであっても「ペドフィル的な愛」が手ひどく糾弾されるのに対して、いまや「ゲイのファック」や「クリップルドの性欲」は大っぴらにしていいばかりか、あまつさえ大量の紙に印字されて全国の津々浦々へと配られてさえいる。この状況を目のあたりにして私が思いうかべるのは、冨樫義博のレベルEに描かれた「愛する者の肉を食べる欲求を隠して生きる宇宙人」の話です。結局のところ、社会や法律の枠内であるからこそ発信をゆるされている事象には、それらを気どったところでなんの叛逆も孤絶もふくまれません。もしFGOのつむぐ物語が文学たりえるとするならば、最も重要なファクターのひとつは語り手たるファンガスの「無属性”性”」なのかもしれません。SNS上で外形的な個人情報の列挙から始まり、果ては知りたくもない性自認までをもストリーキングのごとくひけらかし、ジャンルを問わず生活感情の延長たる私小説にしかならない書き手は、普遍的な人間の苦しみとは一生涯、なんの連絡も持てないでしょう。神話の匿名性を保つため、公の場から遠ざかり、容姿を隠し真名を伏せた、ゲイやレズやクリップルドであるかもしれないファンガスのテキストを、ゲイやレズやクリップルドであるかもしれない小鳥猊下が読むーーこの営為の鳥瞰にこそ、私は深い文学を感得します。現在の暗澹たる社会状況を眼前にしながら、ファンガスがなお筆を止めないことへの感謝を表すため、追加の大きめな課金で水着クロエたんを引かんと試みたのですが、結果は大爆死に終わりました(だれか、星4の引き方を教えてほしい)。やはり、本邦はロリコンには生きづらい社会なのですね……正しい性嗜好の在り方を拡張していくため、小鳥猊下はこれからも徹底的に戦っていきますよ!

雑文「DIABLO4, FLEABAG and SANCTUARY(近況報告2023.8.3)」

 パス付きのアルティメット版を購入してしまっていたので、なんだかんだ言いながらディアブロ4のシーズン1をポツポツとプレイしている。名声値の獲得とリリス像の解放は、じつに軽快な脳死プレイ(毎シーズン、この作業やらすの?)なので、配信作品の「ながら見」が否応に促進されてしまうのだった。

 キャラメイクからレベル40くらいまでは、アマプラでフリーバッグを流していました。インディ・ジョーンズ最新作において、稀代のアンチ・ヒロインをつとめたフィービー・ウォーラーの持ちこみ企画と聞いて、興味を引かれたからです。1話の冒頭から品性に欠ける下ネタが全開のフルスロットルで提示され、上品な貴人である小鳥猊下としては、視聴を続けるかどうか迷う気分にはさせられました。撮影もそれほどよくはなく、ストーリーもコメディなのかシリアスなのかチューニングをあわせづらく、2ちゃんねるのアスキーアートみたく、いちいち画面を見て話しかけてくる主人公に、思わず「こっち見んな!」とツッコまされてしまう始末にも関わらず、とにかく間持ちするフィービー・ウォーラーの表情から目が離せずいるうちに、最後まで見てしまいました(前から思っていましたが、もしかすると顔フェチなのかもしれません)。このフリーバッグというドラマは、最終話ラスト10分のためにビルドアップされたと言っても過言ではないでしょう。母は他界し、父は再婚ずみ、姉は優秀で、友人には死なれ、経営するカフェは破綻寸前、ひとつ残った我が身さえ、近い将来にはだれからも性的に求められなくなるのではないかと恐れるセックス・アディクションが、通りすがりにすぎない銀行の融資係へ思わず吐露する心の底からの慟哭には、その切実さへ胸をつかれて知らず涙がこぼれました。汚濁の果ての美、ウソの果ての真実、「人は過ちをおかすから、鉛筆には消しゴムがついている」ーーこれは、私にとって長く忘れられないメッセージとなることでしょう。

 「やれやれ、いいものを見たわい」とアマプラを終了しようとしたら、なんとシーズン2がある。レストランでの目をおおうような流産から始まって、そこからは主人公がひたすら神父とエロいことをしようと試み続けるという、これまたひどい内容の大蛇足であり、早々に見るのを止めようと思ったんですけど、主人公がアスキーアートの顔で視聴者へ話しかけてくる瞬間に、「君は心ここにあらずの瞬間がある、ほら、いまも」などと、神父が不穏なメタいツッコミを入れだしたのです。もしかすると、ドラマ的にたいへんな大どんでん返しがあるのかもと我慢して視聴を続けたのに、結局はそれに何の意味もなくてズッコケたんですけど、ウイスキー片手に酔っぱらいながら入った告解室での号泣懺悔シーンには、やはり心うたれてしまいました。舞台出身だからでしょうか、フィービー・ウォーラーはひとり芝居がメチャクチャうまいですねー。ぜんぶ通して視聴しろとは「よぉ言わん」感じですが、この2つの場面だけでも見てほしいと思いました。

 そして、レベル40からナイトメア突入ぐらいまでは、ネトフリでサンクチュアリを見ていました。いわゆる「悪童」が道を踏み外す寸前で、スポーツや格闘技に救われる類の物語なのですが、なんと本作の題材は大相撲となっています。「ブスゴリラ」たる主人公の煽り体質と憎まれッ子ぶりが徹底していて、話が進むにつれて好感度は下がる一方なのに、先ほどのフリーバッグ同様、どんどん感情移入させられるのは、SNSを通した匂いのしない清潔な虚飾から離れて、生きることの手触りを我々に思い出させてくれるからなのかもしれません。主人公がボコボコに負けたあと、強くなりたいと敬語で師匠に頭を下げる場面には、そういう展開になることをなかば想定しながらも、この瞬間まで積みあげた「悪たれぶり」があるからこその落差に、ひどく涙腺を刺激されてしまいました。サンクチュアリ、大相撲には毛ほどの興味もないウラナリに対してイッキ見を強いる破格の面白さなのですが、「イジメ」「可愛がり」「パワハラ」「八百長」「タニマチ」などを角界の暗部として、かなり戯画的かつ露悪的に描いているので、たとえエンタメのための誇張だと頭の片隅では理解できても、相撲協会などが積極的に本作を宣伝して若い世代への普及に利用できるような中身にはなっていません(テレビで干されているピエール瀧のキャスティングも、発表後の作品の取りあつかわれ方を考えて、かなり自覚的にやっている気がします)。

 ストーリー展開は、単発のイベントが次々と劇中に発生する感じで、それらが相互に強くは関連しないまま、現実の実相を追うかのように粛々と進行しますので、物語の結末をシーズン2への引きだとは受けとれませんでした(ここを幕引きとして、まったく過不足ない気がします)。しかしながら、仮に続編が企画されるとすれば、父母との葛藤を乗り越えた件のアイドル力士が、無敗の「木鶏」と化して主人公の綱取りに立ちはだかる展開になると予想しておきましょう。個人的なことを言うと、小鳥猊下の本質を一言で表せば「ガタイのいい文学少女」なわけで、チマチマとテキストを記述する腺病質のホワイトカラーではなく、もっとこういう体格差でブンなぐるブルーカラー方向へパラメータを振ったほうがはるかに楽な道行だったのではないかと、永遠も半ばを過ぎてしみじみと考えさせられてしまいました。例え話ですが、「相撲部屋のほうが適性のあっただろう人物に、高いカネをはらって大学へ通わせたあげく、就職先は”非”生産業の究極であるコンサル会社だった」みたいな話は、現代社会の引き起こす明確なひずみであるとは思いましたね。

 あと、ネトフリって「視聴上の注意」みたいな項目をご丁寧に表示してくるんですけど、そのせいで用意されたミステリ要素の謎解きが2話冒頭の段階でわかってしまい、たいへん興ざめでした。ピエール瀧が親方役をつとめて、キャバ嬢がヘロイン、じゃなかったヒロインのドラマをわざわざ見る層にとって、無用の配慮なんじゃないの?

映画「夢と狂気の王国」感想

 最近は思うところあって、ジブリに関するドキュメンタリーをいろいろと見返している。もののけ姫の大ヒット以降、スタジオへ頻繁にカメラが入るようになった結果、Qアンノがカズ・シマモトを評して言うところの「つくる作品よりも本人のほうが面白いのが問題」という問題、つまりジブリ映画そのものよりも「白髭のおんじ」の言動のほうが、ずっと魅力的で興味深く感じるという呪いを、私たちはかけられてしまっているのかもしれないーーそんな感慨にふけりつつ、買ったままずっと積んであった夢と狂気の王国のディスクを再生したのだった。全体的に、ジブリが大好きな若い女性ファンがトシオあたりにだまくらかされて、おずおずとカメラを回している腰の引けた感じが伝わってきて、この人物でなければ撮れなかった場面や引きだせなかった台詞というのは、いっさいありませんでした。本来まとうべき批評性は皆無であり、全身小説家あたりを教材にドキュメンタリーのなんたるかを勉強しなおすべきでしょう。元々がジャケット買い、タイトル買いだったことを思い出しましたが、パッケージのコラージュ写真は若い女性ファンではなくハヤオの手によるもので、タイトルにしても「風立ちぬ制作秘話」ぐらいが適切な内容なので、バイヤーに錯誤を起こさせるための誇大広告として、たぶんトシオあたりがあの手書き文字でネーミングしたのにちがいありません。

 なんとなれば、このタイトルで多くの視聴者が期待する、イサオとハヤオの濃厚なカラミやトサカの突きあわせがいっさい収められていないどころか、イサオがカメラの前へ姿を現すのは全体でほんの3分ほど、話すシーンはそれこそ1分もありません。イサオの冷徹にビビッてしまった若い女性ファンがハヤオ側のスタジオに引きこもって、カメラを向けるだけで勝手にしゃべりだすサービス精神旺盛な2人の老人を撮り続けているだけの中身になってしまっているのです。言語と演技の過剰なハヤオとトシオが作り出すスタジオジブリの虚飾部分を、スタッフや関係者からの証言で浮き彫りにするのがドキュメンタリー作品の本来というものでしょう。この点において若い女性ファンに協力してくれたのは、「人生は顔に出る」という言葉を想起させる、泣き顔がデフォルトの表情になってしまった作画スタッフのお姉さんだけでした。2人の狂人男性に翻弄され、画面の外から質問未満のかぼそい発語を繰り返すばかりの若い女性ファンを見るにみかねて、声をかけてくれたのかもしれません。彼女が泣き笑いでハヤオについて語るその内容だけが、本作の中で唯一ドキュメンタリーな瞬間として立ちあがっていました。この類の証言を求めて、イサオを含めた強面の男性スタッフへ図々しく切り込んでいかなければ、すでに無数の映像ドキュメントが存在するジブリを題材として、あらためて取りあげる意味はありません。

 もっとも老獪なトシオのことですから、「腰が引けて切り込めない」ことまでも見越して、この若い女性ファンに白羽の矢を立てた可能性は充分にあります。2人の巨匠の長編が同時進行する裏側に、たとえば原一男みたいなホンモノを放りこんで真の混沌を引き起こす勇気は、さすがになかったのでしょう。全体的に「『もののけ姫』はこうして生まれた。」や国営放送の過去の密着取材を見ていれば、わざわざ手にとる必要のない中身ーーニ十年以上にわたって変わらぬハヤオの日々には、揶揄ではなく、心からの敬意を表します。まさに「延々たる冴えない日常を送るのが労働」を実践しているのですーーですが、印象に残った場面をいくつかあげておきましょう。ハヤオはなんだかんだ言いながら、人間としてのヒデアキを心の底から無条件で愛していて、エヴァが壊れる遠因となったことは差し引いても、その関係性をうらやむ気持ちにはなりました。一方で、息子のゴローは本当に他罰的でどうしようもない恫喝型のパーソナリティであり、親の威光によって映画を撮らせてもらったことに対する今さらの恨み節を聞かされて、「おまえ、ル・グウィンの遺族を前にしても同じこと言えんの?」と思わず大きな声を出してしまいました。そして、トシオが後継者と目していたノブオがゴローの不機嫌に気おされ、甲高い声で早口になってキョドる様子を見て、「ああ、こらハヤオも最新作で塔を崩壊させるわ」と妙に得心する気分になりました。

 個人的なことを言えば、「何の才能も持たないハヤオやトシオ」みたいな人物たちーーいずれも定年をむかえるか、すでに現世から退場するかしたーーと仕事をする時期を経てきましたので、あの類の全共闘くずれなレフティたちが職場でかもしだす雰囲気というのをひさしぶりに思いだして、どこかなつかしい気持ちになったのは自分でも驚きでした。あと、ちょっと気づいちゃったんですけど、最近トシオとタイ人女性との適切とは言いにくい関係が週刊誌にスッパぬかれたことがあったじゃないですか。この若い女性ファンを監督として抜擢するときも、あの件と同じ心の動きーー老いて現世の権威となった自分から、若い女性へ何か無形の遺産を残したい気分ーーがトシオの中に生じていたと考えたら、失敗したドキュメンタリー作品である以上の意味あいをもって、本作を視聴できるような気がしてきました。それにしても、「年齢を重ねて気難しくなった老人には、若い女性をあてがうとうまくいく」という処方箋は、いつでもどこでも身もフタもなく有効すぎて、笑ってしまいますね。

映画「ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング、これまた愛マックスで見る。前作からあいだにトップガン・マーヴェリックを挟んだせいで、「配信全盛の現代における、劇場映画の守り手」とか「自制心に満ちた一流の俳優で、最高の映画キチガイ」など、ちょっとトム・クルーズに対する評価と期待値を上げすぎた状態で見始めたのですが、映画が終わる頃には「ああ、MIシリーズって元々はB級C調のバカ映画だったし、トムも他の役が回ってこないスタローン級の大根役者だったわ」としばらくぶりに長い幻惑から覚めて、真顔になってしまいました。「コンプライアンスの概念がハリウッド全体に浸透し過ぎたため、ヤクザまがいの横車を押して編集権をにぎる往年の剛腕プロデューサーは姿を消し、映画制作がクリエイター主導となってしまった結果、近年の作品はどんどん大長編化して冗長になっている」との指摘をどこかで読みましたけれど、本作にはこの批判がそのままピッタリと当てはまります(最初に流れたデューン第2部の予告編の、まあダラダラと長かったこと!)。

  このシリーズ最新作、なんと脚本を準備せず撮影に入ったそうなのですが、「撮りたい絵が優先した支離滅裂なストーリー」「一貫性の無いキャラクターの感情と言動」「物語を駆動しない、”撮影したから使っただけ”の意味不明なカットの数々」などなど、「手に入った映像素材のパーツでジグソーパズルをしている」みたいな、迷走した仕上がりになっています。特に目立つのが「欽ちゃん走り」ならぬ長回しの「イーサン走り」で、その多くがシーンごと丸々とりのぞいてもストーリー進行には何の影響も与えないことでしょう。序盤で空港の屋根を延々と走る場面などは「60歳を越えて、長距離を全力疾走できるトム・クルーズの節制はえらいなあ」というメタい感情を観客に惹起することが目的でないとしたら、「がんばって走ったら飛行機を追い抜いて、現地へ先回りできた」みたいな意味不明の文脈を生じさせてしまっています。

 また、近年の界隈に顕著である「人種アファーマティブ枠」で選ばれたヒロインがまったく魅力に欠けており、この女優に「ルパンを手玉に取る峰不二子」という役割を与えようと試みたのが、映画内で起こったあらゆる事象を踏まえたとしても、最大のアクシデントでしょう。ただのモブだと思っていたスリの男顔女が、前作からのバディを押しのけてまでずっとスクリーンに居座り続けたのには、ビックリ仰天しました。いつまでも終わらないカーチェイスや、アクション映画のお約束となった暴走列車の屋根における肉弾戦など、直近に視聴したインディ・ジョーンズ由来の既視感はすさまじかったのですが、ハリソン・フォードがトム・クルーズよりはるかに動けていないことを勘案しても、フィービー・ウォーラーのヒロイン分だけ、あちらの方が上等な作品と言えるでしょう。予告編でさんざん撮影の舞台裏を含めて公開した、バイクで崖から飛びおりる例のシークエンスにしても、ストーリー上での使い方がヘッタクソーーイーサンの機転ではなく、失敗の帳尻あわせーーすぎて、「予告編で観客の脳内に繰り広げられた妄想が最高潮」という情けない有り様になっているのです。おまけに、飛びおりからパラシュートで列車に取りつくところまでを長回しでやるのかと思いきや、「まあ、それはさすがに危険すぎるでしょ」と2つにカットを割ったのも、かなり興ざめでした。

  映画終盤のアクションも、撮影技術的にはすごいのかもしれませんが、「アンチャーテッド2の冒頭を実写でやってるなあ」という感想が先に来て、少しもワクワクできませんでした(アクションシーンの新味という意味では、出がらしみたいな作品です)。「トム・クルーズ本人が墜落しても骨折ですみそうな、ほんの低い位置をパラセイリングする」という貧弱なスタントシーン(笑)から、2時間40分もの長尺を使っていながら尻切れトンボの方がまだ尻尾が長く残っているぐらいの感じでエンドロールとなるのですが、「撮りたい場面だけカメラを回していったら、ある程度の映像素材がたまったので、パートワンのラベルを貼ってとりあえずの幕引きとした」みたいな、観客をナメきった不誠実さを強く感じました(パートツーの構想は、現段階でほぼゼロなんじゃないでしょうか)。クランクインに先んじて脚本がキチンと用意されていて、剛腕プロデューサーが興行収入という自身の職責に照らして編集権を行使できる現場なら、「沈没したロシアの潜水艦へ深々度ダイブして、鍵を使って人工知能を停止する」までやった上で2時間に収めて、1作で完結できていただろう内容の薄さです。

 かように受け手をナメきった態度は、デッド・レコニングというカタカナ邦題にも表れていて、この単語の意味はもちろんのこと、航海用語であることすらわかっていない人がほとんどでしょう。それを「いいって、いいって、そのままで! トム・クルーズの名前が入ってるだけで、みんな見に来るんだからさ!」と広報宣伝の努力どころか、己の職責さえ完全に放棄したヤリサー陽キャ電通マン(幻覚)の態度には、しんとした深い怒りさえ覚えます。こうやって映画は緊張感の欠落した、人生とは何の連絡もない「パッケージ商品」へどんどんと成り下がっていくのでしょう。いま本邦で、もっとも客を劇場に呼べる作品を教えてさしあげましょうか? ジャンルやタイトル、だれが監督かさえどうだっていいのです、ズバリ、「ショーヘイ・オオタニ主演」ですよ! 芸術を解さない、この田吾作どもめが、みんな死んでしまえ!

書籍「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」感想

 プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン、電子書籍で購入して、イヤイヤななめ読みする。客観的な数字に基づいた外部監査と思いきや、主観的な言葉ばかりの関係者によるお手盛り調査で、完全に予想通りではあったものの、ガッカリする気持ちをおさえきれませんでした。旧劇での「私たち、正しいわよね?」「わかるもんか」に延々と紙幅を割いてやっている感じと言えば、伝わる人には伝わるかもしれません。一見すると誠実そうなこの仕草は、新劇の抱える根本的な瑕疵から関係者全員が暗黙のうちに視線をそらし、言及を不可能にしている社内状況を如実に表すものでもあります。「思ったよりちゃんとプロジェクトしてた」みたいに印象操作を受けてしまっているアカウントも見かけましたが、このレポートの持つ性質は共産主義国家における全国人民代表会議であり、全体主義国家における国民総選挙であるという事実は最低限、ふまえておかなければならないでしょう。大本営発表へのカウンターとして、もうただの義務感から繰り返しますが、エヴァ破の予告からエヴァQへの変質について、東日本大震災に言及した反省が無いかぎり、現れる様々の症状から悪性腫瘍の存在に薄々は気づいていながらも、切除ではなく薬物療法のみを選択し続けるのと同じ結果になります。このまま病巣を放置すれば、エヴァンゲリオンというIPはますます痩せ細っていき、ついには取りかえしのつかなくなる地点にまでたどりつくにちがいありません。

 ステークホルダーまみれで構成された本冊子の中に外部的な視点があるとすれば、それはジブリの鈴木翁が寄せた原稿だけだと指摘できるでしょう。他の人物たちのものは、忖度たっぷりの筆致へさらに当局が検閲とリライトを重ねており、まったくの無味無臭へとロボトミー的に脱色されているのです。アニメ界での権威を完成させたがゆえに、旧エヴァのときのスキゾ・パラノにおける「庵野の母ちゃん、パイオツでけえのかなあ」みたいなざっくばらんさで、カラーのスタッフが語るインタビューを読むことは、もう決してかなわないのだと知り、どこか寂しい気持ちになったのは確かです。唯一、検閲からまぬがれた鈴木翁の文章を読みながら、庵野秀明の能力は「昭和アニメと特撮の完璧な脳内データベース構築」に双璧を成す、「ジジたらし、ババたらし」の人間的な魅力だったんだなあと、あらためて気づかされました。これも自戒をこめて書きますが、「ジジババたらし」の才覚でうまうまと組織や業界の上に昇ってしまった人物は、そのジジババの引退や現世からの退場を迎えてはじめて、等身大の中身と能力を部下や若い世代から検証されることとなり、精神的に厳しい立ち番へ置かれることとなります。本冊子には、その有形無形のプレッシャーに対して防壁を立てたいという気分が、全編にわたって横溢しているように感じました。もし巻末に、匿名Aと匿名Mの対談がノンタイトルで収録されていて、

「宮さん、もうぶっちゃけて言いますけど、なんであのとき、ボクを福島に連れていったんですか。あれからエヴァがおかしくなって、昔からの友人ともケンカ別れになっちゃった。予定してた会社の事業計画はもうグチャグチャで、クリエイターとしての円熟期を十年以上もエヴァで食いつぶすハメになるし、もうマジでシッチャカメッチャカな状況っすよ……」
「正直、一見チャランポランで、オレにもズバズバとモノを言うオマエが、じつは先生の言うことを真面目に受けとめる優等生タイプで、何の気なしの放言をあそこまで作家人生の宿題にしてしまうとは、思ってもみなかったんだよ。すまなかったな、ヒデアキ。だが、人生に無駄なことなどひとつもない。大事なのは、ここから君たちカラーという会社がどう生きるかということなんだな」
「なんかいい話ふうにまとめようとしてますけど、Qとシンはやっぱり余計な苦労だったと思うっす……」
「ハハハ、終わったことをクヨクヨするな! さあ、しみったれた顔してないで、飲め飲め! 若者は元気がいちばん!」
「宮さん、ボクもう還暦っすよ……」

 などのやりとりが赤裸々に交わされるのを見ることができれば、私はきっとシン・エヴァンゲリオンという大いなる駄作をゆるす気になれたでしょう。終わります。

映画「君たちはどう生きるか」感想

 君たちはどう生きるか、愛マックスで見る。残念ながら、平日の昼間からアニメ映画を見に行く異常者ーーシンエヴァを月曜朝イチの回で見たオマエが言うな!ーーの集団によってタイムラインが形成されているため、おぼろげながら視聴前から全体像がつかめてしまっていました。グッツグツに煮詰まったファンの脳髄から垂れ流れる「少年はハヤオで、鳥はトシオ」「塔はジブリで、内郭はイサオで、外殻はハヤオ」「つみ木は過去作で、老賢者はハヤオで、インコ将軍はゴロー」「老ハヤオが若ハヤオに権威を禅譲しようとして論理エラーを起こす、インナートリップの旅」などのメッタメタな解釈にあらかじめ汚染されていたものだから、スタジオジブリのことも宮崎駿のことも知らない10歳の子どもの視点で、作品内の要素でのみ完結する物語として視聴しようと、たいへん意気ごんで劇場へと向かったのです。速度、重量、質感をアニメーションで表現する卓抜した技術に支えられ、実際のところ90分くらいまでは「非常に良質なジュブナイル作品」とさえ言える仕上がりになっていて、ゴローが台無しにした「影との戦い」について、舞台と登場人物を変奏しながら語りなおしているような印象さえありました。個人的には、インターネットの存在しなかった少年時代にどうやって過ごしていたかの記憶を掘りおこされ、いまは亡き父方の祖母がテレビを見ている小学生の私の隣にやってきて、横顔をしばらくじっとみつめてから吐息のように「きれいな子じゃ」とつぶやいた場面を、しばらくぶりに思いだしました(これは私にとって、自己肯定感の絶えない源泉であり、とても重要なできごとです)。

 もっとも生命力にあふれているはずの青年期において、父母に背を向けて遠ざかりながら死に近い場所へ自らの意志で最接近し、そこを危うくフライバイによって逃れて生へと離脱する軌道が、子ども時代に別れを告げるイニシエーションの儀式となるーー長く読みつがれる児童文学のいずれにも通底する要素だと言えるでしょう。本作もこれをなぞって、母と死のメタファーを強く前面に押しだしながらストーリーが進んでいくのですが、物語の終盤においてそのジュブナイルとしての骨格を急速に喪失していってしまうのです。いつのまにか、死のメタファーは青年期の退けるべき「死の予感」ではなく、老年期の受容すべき「死の予兆」にすりかわり、母のメタファーは記憶を媒介とした曖昧なイメージではなく、少女に受肉した抱きしめることのできる実在へと変容してゆきます。物語だけではなく絵的にも、最後の30分だけ急激にクオリティが下がって、「宮崎駿監督作品」としてのグリップを外れていく感じがあり、庵野秀明が「絵コンテだけは完成させてください。あとは僕が引き継ぎますから」と御大に言った話とか、関係者のみの試写会へ本人は姿を現さず手紙の読み上げだけがあった話とか、制作終盤において体調面での落ちこみが生じたのではないかと疑ってしまうレベルです。全体の4分の3までは、作品外の要素をしめだしてジュブナイルとして読解できていたので、ラスト4分の1がスタジオの現状とクリエイター個人の情報を抜きにするとまったくの意味不明になってしまうのは、非常にもったいないと感じました。さらに終盤、うまく気配を消していた「アニメーション見本市」の要素が色濃く立ちあがりはじめ、それは技術の継承を目途としたというより、もしかすると他の作品に結実したかもしれない動きやイメージを、己の残り時間から逆算して悔いを残さないよう、すべて放出したような性質のものになっています。本作が宮崎駿版のゲド戦記「影との戦い」として、自伝ではなく児童文学の範疇で終わることができていれば、スタジオに残された負の遺産であるル・グウィンへの遺恨も、一方的ながら清算することができたのにと残念な気持ちでいっぱいになりました。

 あと、スタッフロールで流れるヨネヅ某の曲が絶望的に浮いていて、作品に何かを足すどころか接続することさえできていません。オイ、宮崎御大はラジオでパプリカを聞いて、てめえにオファーすることを決めたそうじゃねえか! だったら求められてんのは「子どもの本質を突いたスローテンポで憂鬱な童謡」であることは、作品の中身から考えても明白じゃねえかよ! それなのに、いつもの耳に残らねえスカした曲調でボソボソ陰気に歌ってんじゃねえよ! 歌詞テロップも出ねえから、なに言ってんのかサッパリわかんねーんだよ!  ファイナルファンタジー16のエンディングと区別のつかねえ曲を聞かせやがって、否応に記憶が混線して読後感が汚されたじゃねーか! シン・ウルトラマンといい、なんでもかんでも節操なくでしゃばってくるんじゃねえ! あいみょんの作詞作曲で、アホっぽくハキハキ「お母さん、大好き!」とか歌われたほうが百倍マシだったわ! それと、作品タイトルは伏線的な回収も乏しかったーー登場人物のだれかが、「君たちはどう生きるか」と発話するのをずっと待ちかまえていたのに!ーーので、海外版につけられた「少年とアオサギ」のほうがずっといいなと思いました。