猫を起こさないように
月: <span>2023年12月</span>
月: 2023年12月

映画「窓ぎわのトットちゃん」感想

 スパイを夢見る少女が、二国間の争いに翻弄される例の映画を見てきた。なんとかファミリー、楽しみですね、早くもコナンに次ぐ国民的作品になりそうじゃないですか、だと? バカモノ! スパイを夢見る少女の映画と言えば、国民的エッセイをアニメ化した「窓ぎわのトットちゃん」に決まっておろうが! この週末を越えれば、そのホニャララ家族によって上映回数を大幅に駆逐されてしまうだろうから、「徹子の部屋」という重大なネタバレ(ひどくない?)を回避しつつ、元祖・和製アーニャを劇場へおがみにいくがよいわ!

 視聴する前は、著者本人が「大した中身がないので、映像化は難しいだろう」と言っていたように、下手をすると「となりの山田くん」みたいな小品の集積になっているのではないかと危惧していましたが、本作はトモエ学園での教育を物語の中心にすえて、戦前の社会と暮らしをていねいに描いていきます。「確かな考証と観察と演出があれば、脚本は補助線にすぎない」を地で行く、高畑・片渕両監督の系譜に連なる作品になっていて、前半は古き良き時代の邦画が持つ心地よさに身をゆだねられ、予告にもあった「きみは本当は、いい子なんだよ」の台詞を皮切りにして、そこからほぼ全編を泣きどおしでした。「すぐに特性の診断名がついて、その一般名詞に向けた対応を最適化する」近年の風潮のようではなく、「いっさいの判断を留保した状態で、ひとりの子どもと視線を水平に合わせる」ふるまいは、有限の時間をしか持たない大人にとって、きわめて難しいことでしょう。しかし、その理想に近似しようとする努力までを放棄すべきではないと、小林校長先生は教えてくれるのです。

 さて、ここまでを絶賛しておきながら、ところどころでスッと涙のひっこむ場面があって、原作は数十年前にいちど読んだきりのウロおぼえなのですが、おそらくアニオリで挿入されたパートが雑味と言いましょうか、ノイズになっているような気がしてなりません。具体的にいくつか例を挙げますと、憲兵に父親がつっかかるのをトットちゃんの機転で切り抜ける場面、他校の児童が竹槍で示威しながらトモエ学園を揶揄するのを歌唱で追い返せてしまう(なぜかマクロス7を想起)場面、アンクル・トムの小屋を娘に読み聞かせした父親がひとしきり敵性音楽を演奏したあとで「ぼくのバイオリンに軍歌を弾かせたくない」とつぶやく場面、ヤスアキちゃんが雨の中で水たまりに片足でリズム(死因がこじらせた風邪に思えてしまう弊害も)を取りはじめて以降の場面、友人の葬儀から抜けだしたトットちゃんが「商店街に掲げられた戦時国債のバナー」「出征する兵士たちに歓呼する民衆」「片足や両目を失った傷痍軍人」「遺骨の箱を抱きしめたまま動かない老女」のかたわらを駆けていく場面が、それに該当します。特に最後のシーンに対しては、怒りにも似た感情がふつふつと浮かび、「小児麻痺で夭逝した子どもとその親の無念と、親友の死に胸のつぶれる子どもの悲しみは、太平洋戦争となんの関係もないやろが!」と心の中で絶叫してしまいました。

 物語の後半、明らかに「トモエ学園での教育」から「戦争と国家に向けた批判」へとテーマの軸足が移ってしまい、「マンガ映画ばかり作ってきたけんども、オラたちもいいトシになってきたし、そろそろ戦争をキビシク描いてブンゲイの仲間入りすっぺか!」「んだんだ、イサオやスナオみてえになるだよ!」のような大人の思惑が見えかくれし、「それでも、生きていく」子どもたちの懸命さを汚している。教育とはまさに「きょうを行く」ことであり、会社名や役職名という過去の蓄積によりかかって、楽に定型のコミュニケーションをとる態度からはもっとも遠いやり方で、それらの社会的な外殻いっさいを脱ぎすてて、現在のあらゆる瞬間を裸で子ども・イコール・未来と対峙することであり、本作における前半から後半にかけてのこの変節は、トットちゃんの受けた教育をふみにじっているとさえ感じられるのです……そうそう、裸で思いだしました!

 児童たちが男女とも水着なしでプールに入る場面は本作の白眉ですが、百歩ゆずって女児は角度の関係から具材が見えないのだと仮定しても、大マタをオッぴろげた男児の股間がツルツルというリアリティの無さには、強いいきどおりをおぼえます! 幼いBLACK-WILLOWのCHIKUBIはあざやかなPINKで活写したくせに、いいですか、おちんちんはエッチじゃありません! あと、青森に疎開するために乗った列車で、トットちゃんが果樹の中を踊り狂うチンドン屋を幻視して幕となったのには、「オマエらは、物語の最初と最後に現れる少女・綾波レイかよ!」と思わずツッコんでしまいました(このエンディング、どうなの?)。それと、同じ上映回にストレッチャーで運ばれてきて、最前列で視聴していた高齢の女性がおられたのですが、もしかするとトモエ学園の関係者だったのでしょうか。

アニメ「薬屋のひとりごと」感想(5話まで)

 薬屋のひとりごとをすすめられたので、5話ほど見てみる。ひどくなつかしい昭和の物語類型で、特に女性がこれにハマるのはよくわかる気がします。もし本作が同人小説で栗本薫が存命なら、たちまち小説道場でベタ褒めされて段位がついて、角川ルビー文庫で書籍化されそうな内容です(道場主がカセットブックの声優をワチャワチャ妄想する様が、テキストで目に浮かぶよう)。出自的には、「現代人の自我と衛生観念を持った主人公が、作者の薬学知識を使って前近代で無双する」ことから、擬似中華っぽい舞台設定ーーナーロッパならぬ、なんのこっチャイナ?ーーもふくめて、異世界転生モノの亜種に分類できると思います。この作品がうまいのは、「美と生殖が至上の価値にある場所で起きる事件を、知識と推理と行動力によって解決する」仕組みになっている点で、かつて美容ではなく勉学に青春を全振りした高学歴女性たちが、本作のプロットを通じて大きく溜飲を下げており、それがヒットにつながった理由だと推測します(余談ながら、女子の人生において「いつ色気づくか?」というのは、生涯年収にも影響をおよぼす、きわめて重要なのにアンコントローラブルでもある命題ですが、長くなるのでここでは省きます)。

 「美に価値を見出さず、知識に全幅の信頼を置く奇人のたぐいだが、ある種の人々を魅了する美しさを備えていないわけではない」というのは、高偏差値女子にとって人生の遅くになって満開に咲く花、さらに下品な言い方をすれば、キャリアという名の豚骨ラーメンに美男子のチャーハンがついてくる「オンナの欲望まんぷくセット」となっていて、総体としてハーレクインロマンスを複雑骨折させた後の自然治癒みたいな作品だなーと感心しました(ほめてます)。あと、最近のテレビアニメは「このシーンの動き、すげえ!」みたくSNSでバズらせるために、両肩でゼイゼイ息をしながら、使用者も求めていない36協定を無視した労働を自発的にやってる感じが見ていてつらいのですが、本作は適度に手を抜いて枚数をセーブした9時5時のサラリーマン労働からできており、管理職が見ていてしんどくならないのはいいなーと思いました。

映画「アイの歌声を聴かせて」感想

 数年ぶりにスカイリムをインストールした話、しましたっけ? 年末年始の休みにドバッとまとめてメインストーリー部分をプレイするため、10月くらいから毎日コツコツとMODを入れては、競合の解消やロード順の調整に努めてきました。以前のパソコンでは重すぎてゲームにならなかった4KテクスチャMODが、fpsを下げずに動いたのには感動しましたし、近年のくだらない風潮によって、エロMODのあふれかえるNexusからさえ姿を消した、現実生活では個室での音読すらはばかられるMODをダークサイドウェブ(笑)よりサルベージしてドキドキしながら導入したり、ストーリーを進めるための装備を作る目的で鍛治・符呪・錬金などの生産系スキルを上げているとき、ふいにウルティマ・オンラインを始めたばかりの記憶がよみがえったりして、本当に楽しい2ヶ月間でした。

 それが先日のこと、突然ゲームが起動しなくなったのです。首をかしげながらSKSEの更新状況を確認し、MODをあれこれと差しつ戻しつ試行錯誤をくり返しても、ウンともスンとも言わない。よくよく調べてみると、野良MODを一掃するべくゲームファイルの根幹に抜本的な変更を加えるアップデートが、それこそ10年ぶりに行われたというではありませんか。この所業はまさに、長きにおよぶファンたちの熱意や愛情へ向けて枯れ葉剤を散布するかのごとき暴挙であり、ベセスダの親会社のゲーム畑以外から就任した役員が「素人どものMODを取りしまって、同じ機能の公式MODで置きかえて課金させれば、ずいぶんもうかるじゃないか。なぜ、こんな簡単なことを思いつかなかったんだ?」などと経営戦略会議で放言する様がまざまざと脳裏に浮かび、怒りで視野が狭窄しました。かように、人や文化を育てるのには穏やかな場所と多くの善意と変化にとぼしい長い時間が必要とされるのに対して、それを終わらせるのには一人の部外者の思いつきと引き金をひく一瞬で完全につりあってしまう絶望的な不均衡が、現在進行形にくり広げられるこの世の不幸の実相である気がしてなりません。まあ、制作に6年をかけた超大作であるところのスターフィールドが、ゲーム・オブ・ザ・イヤーでジャンル部門のみの温情ノミネートにとどまり、受賞は絶望的という盛大なポシャり方をしたせいで、”ちいやわ”社がベセスダに対して収益構造の見直しを迫ったというのが、本当のところに近いのでしょう。

 こうして、スカイリムが過去の美しい思い出ごと完全に視界から消滅したあと、一日の終わりのア・フュー・アワーズにすべりこんできたのは、原神において各地の探索率を100%にする作業でした。鋳造したコンパスなどを使いながら、宝箱や神の瞳をチマチマ探す行為は、マリオ64での「スター120個と全ステージの全コイン取得」のそれをどこか思いださせ、かけた時間が必ず積みあがるという点で、たいへんに心やすまるひとときとなっています。バージョンの変遷にともなうマップの進化もクリアに見えてきて、茫洋として特徴に欠ける丘陵のモンドから、パキッとした高低差で地形を表現する璃月、ギミックの量とシビアさにイライラがつのるーーあらゆる崖にCHINPOのカリみたいなネズミ返しがついている地味な嫌がらせも!ーー稲妻、気合いの入ったマップが広大すぎて探索の喜びを移動のダルさが上回るスメール、そしてここに至るすべての反省を生かしたちょうどいいサイズ感で探索の楽しいフォンテーヌと、着実な改善がうかがえるのはじつにすばらしい点だと言えましょう。この推移を分析したさいに浮かびあがってくるのは、「謙虚で内省的な、頭のいい中華人民」という人物像であり、エンタメ業界の皆様にはあらためて、アホのインフルエンサーが暴れまわる煙幕の向こうにキチンと敵の実体を見きわめておかねば、今後の勝ちをひろうのは難しいだろうとお伝えしておきます。

 その探索率100%の旅のオトモに、アマプラで「アイの歌声を聴かせて」をながら見していました(ここからが本題です)。ぶっちゃけ、「君の名は。」の下に2匹目のドジョウをねらった数匹目のヤツメウナギではあるのですが、冒頭のSF的なビルドアップが秀逸で「日常のガワはそのままに、中身と部分へ革新が忍びこむ」というのは、ブレードランナー的な描き方になっていて、説得力あるなーと感心しました。人工知能がする言動の不自然さを、発達の特性によるエキセントリシティへとまぎれこませるのも、「木を隠すなら森」で大いにうなづけるところです。しかしながら、このふるまいを許容されるのは女性だけであり、男性ならば即座に場から排除されるのを理解した上での描写だとすれば、シンカイ・サンが先鞭をつけてしまったゆえに、「雨後のタケノコ」いう言い方が類型的すぎるなら、日陰の石の裏の湿った場所から地虫のごとくゾロゾロと這いだしてきた「地方在住の女子高生ヒロイン」というバニラへ、どんなフレーバーをトッピングするかというだけの違いを持つ作品群へ向けた、批評的な視点をはらんでいるのかもしれないと一瞬だけ思いましたが、すぐに気のせいだとわかりました。そもそも、「学校にまぎれこませて、見破られないAIを作れるか?」という命題以前に、「動作から表情から、じっさいに触れられてさえ、完璧に人間を擬態できるガワ」の実在が、まったく言及なくスルーされている時点で相当なファンタジーであり、多少の強引な筋書きは美麗な絵と歌唱でねじふせてゆくミュージカルとして視聴するのが正解かもなー、などと考えつつ、ヘラヘラとながら見していたのですが、物語の後半へと進むにつれて眉間のシワはどんどん深まってゆきました。

 決定的だったのは、シングルでバリキャリの母親がひとり娘をヤングケアラーとして家事を丸投げし、連日の午前様で家庭を省みずに人生を捧げてきたプロジェクトである人工知能なのに、小学校へ上がる前のハッカー少年が手なぐさみで作成したものに、いつのまにかすりかわっていたと判明したときで、「大人をコケにすんのもたいがいにせえよ、ジャリどもが!」と思わず絶叫していました。この「40代経産婦を対象とした、サイファイ風味のキャリア・ネトラレ」は、あまりに特殊な性癖すぎて、私のINKEI(ナイキのアナグラム)は恐怖に縮みあがり、ふかふかのTAMAKIN(金玉のアナグラム)内部へと後退してしまったほどです。そして、このテの青春グラフィティでいつも気になるのは、「勉学と進路に多くの時間を費やさなくてはいけない時期に、女子たちが色恋沙汰へと時間を全振りする」有り様です。本作に登場する男子たちについて言えば、ハッカー少年は旧帝大か海外大の理系学部にノー勉でスルッと現役合格するに違いないし、自らを80%となげくイケメンも東京の有名私大に推薦入学するだろうし、柔道ボーイも高卒で農業か土方ーーいやだなあ、”ひじかた”ですよ!ーーをするか、地元の三流大から声のバカでかい営業になるかだろうし、彼らの進路は容易に想像ができるんですよ。

 一方で、ヒロインを含む女子たちのキャリアはまったくと言っていいほど思いうかばない。この時期の女子は、よっぽど強い意志をもって勉強と進路へ時間を全振りしないと、フワッとしながらも根強く消えない社会通念にからめとられてしまうことが、まったく意識されていない。この映画のエンディングの先に、残された2人の行く末を想定するなら、ヤンキー女子は地元でスナックのママ、主人公は実家住みの家事手伝いでしょうね。なぜなら、女子高生を題材にする作り手の感覚が、女性を「永久不老の処女」か「幸福なお嫁さん」に留めおく無意識の力学として働いているからです。オトコに逃げられたり、トシとったらのうなってまう「しあわせ」なんかに、青春を全振りしとったらアカンで! 恋愛に発情して頬を染めるヒマがあるんやったら、おどれの進路を見さだめて1日キッチリ12時間は勉強せんかい、このダボが! ついつい激昂してしまいましたが、本作の女子たちに向けた「良い大人」からのアドバイスは、以上になります。

 あと、日々の仕事に疲れはてたハイキャリア女性が、「娘にはしあわせになってほしい」みたいなボンヤリとした感じで、子どものスペックに見あわない人生の選択をほとんどネグレクト的に看過する生々しい雰囲気は本作の全編にわたってただよっていて、背筋がうすら寒くなりました。それと、仮にAIのシオンが受肉して不死性を失ったら、地下アイドルかキャバクラ嬢になって、ファンや客の怨恨かウッカリ事故で早死にすると思いました。

書籍「還暦不行届」感想

 安野モヨコの還暦不行届を読む。Qアンノとその周辺に関して、無駄に解像度が上がってしまったので、ここへ忘備録的にしるしておく。女史のことはハッピーマニアの当初から、あからさまな岡崎京子フォロワーであると感じていた(調べてみると、アシスタント経験等の親交がある)。以前、「近年、クリエイターがクリエイターに向けて作品を作るようになった」と指摘したが、その走りのような存在のひとりだと言えるかもしれない。演劇にせよ、漫画にせよ、アニメにせよ、それぞれの黎明期は参照すべき既存作品にとぼしく、かつてはムラの外部にいるクリエイターではない一般大衆に向けて、娯楽から啓蒙までの振り幅はあれど、「何かを伝える」ために物語は物語られていたように思う。そこから長い年月が過ぎて、各ジャンル内に作品の点数が積みあがり、多くの傑作や駄作のうちから古典が生まれ、単純な物量の裾野が業界の基盤を形成するようになると、あとから来たクリエイターは全創作物の中での己のポジション、すなわち「どの系譜に連なる者か?」を一種のアイデンティティとして、否応に示さなければならなくなる。これは同時に、オマージュやサンプリングが創作の手法として機能しはじめる段階でもある。前述したように、安野モヨコの漫画には岡崎京子とそのファンへの目くばせがあるし、最近はやりのぢぢちゅ回銭(原文ママ)も冨樫義博とそのファンをどこか意識しているのがわかるだろう。この段階においては、ムラの外にいる非クリエイターへとメッセージを送ろうとする力学は弱まり、懐から取りだした骨董品を好事家にチラ見せしながら、「アナタ、わかるでしょ、これ?」とささやいて、2人きりで忍び笑う楽しみ方が創作の小さくない部分を占めるようになる。我々のたどりついたこの現在の様相こそが、「いまは、クリエイターがクリエイターに向けて作品を作っている」という発言の真意である。

 本作の内容に話を戻すと、昔からのファンにとっては周知のことなのだろうが、女史が親から虐待を受けていたことをサラリと述べているのには、おどろきと同時に腑に落ちる感じがあった。理由は後述する。また、女史がクリエイターという職業を「人類史のうちで最も高い位置にあるもの」とみなしていることが、文章の端々から伝わってくるのである。いくらか年齢を重ねてゆくと、日々の生活をただ平穏に過ごしていく裏に、一言も発さないまま世界の基(もとい)たるインフラを黙々と維持する人々の気配を近くに感じ、己が連綿と続く「生命の鎖」の一部である事実へ自然とこうべを垂れる気分が勝ちそうなものだが、その鎖から外れた一個のビカビカの金の輪であることこそ、「正しく、ありうべき姿だ」という考えがどこかにじむのは、興味深いところだ(これ以上はゲスの勘ぐりになるので、書かない)。このエッセイは、20年にわたるQアンノとの関係性の変化によってたどりついた先であるが、交際をはじめるようになったきっかけは間違いなく「旧エヴァンゲリオンを見たこと」だろう。岡崎京子フォロワーを自認し、サンプリングの手法でモノを作ることに悪びれず、「創作って、そういうもの」とうそぶいて、売れっ子漫画家としての人生を軽やかに駆けていたところ、同時代に存在する圧倒的なオリジナルと、ほとんど出会い頭の事故にも似た邂逅をはたす。そうして、過ごそうとしていたトレンディドラマのような日常から、かつての欠損家庭という出自に襟元をつかまれて、彼女はグイと元いた場所へと引きもどされてしまったのだろう。それは、ほとんど改宗に近い人生のパラダイムシフトだったのではないかと想像する。

 結婚生活に限らず、人間関係などというものは”必ず”どちらかが多く支払っており、多く支払ってる側に納得感のあることが関係の長続きする理由だろう。本作を読んでつくづく思ったのは、安野モヨコの方がはるかに多くを支払い続けているにも関わらず、2人が破局へと至らないのは、「クリエイターの才能へと向けた畏敬」と「人間になれなかった者の育てなおし」という2つの業病が、創作者を最高の職業と信ずる、虐待を生育史に持つ者の歪みにピッタリとハマったからなのかもしれない。唯一無二のオリジナリティをしてコピーだと自虐する才能を前にして、「自分の漫画が書けなくなる」のは表れて当然の反応だとさえ思う。Qアンノと旧エヴァに出会い、「岡崎京子のいる世界で、そのサンプラーが表現をする意味とは?」に再びブチあたった結果、ただひとつ最後に残ったのがオチビサンだったとするならば、なんだか息苦しいような気持ちにもさせられる(以前、「スヌーピーのポテンシャルはない」などと放言したことを少し後悔している)。キューティハニー実写版の怪人デザインをQアンノから依頼された女史が、何を提案しても徹底的にダメ出しをされて、最終的には激昂して相手にモノを投げつけるところまでいく話が、これまたサラッと書いてあるのだが、見方を変えればこのやりとりは、「真作からオマエは贋作だと言われ続ける」という残酷な図式になっており、「そら、こんなことを無自覚にくりかえされたら、書けなくもなるわ……」と深く同情した次第である(さらに言えば、女史がQアンノの世話に人生を捧げようとまで惚れこんだ、旧エヴァから受けた衝撃のほとんどが、彼以外のクリエイターの手による要素だったとシンエヴァで判明してしまったことは、限りなく喜劇に近い悲劇だろう)。

 あと、ずっと謎の存在だった「庵野の母ちゃん」が、偏食で口うるさい神経質な義母として登場しており、「父親との対立で始まったはずの物語が、退行して無形の母なるものにからめとられる」という旧エヴァの構図の答えあわせをした気になりました。例えば、アル中で暴れまわる父親は子どもにとって明確な敵ですが、その状況のベースを作りだしているのは、せっせと酒類を買い足し続ける母親だったりするわけです。実家を離れてはじめて理解できた、「荒ぶる犠牲者」としての父親とは和解できても、「尊大なる甘やかし」で間接的に家庭内のトーンを決めていた母親とは、元より対立のステージに立つことさえできないのですから! それと不謹慎ながら、本作を読むと「宮村優子と結ばれた庵野秀明」という世界線のことは、どうしても考えちゃいますねー。本人が後書きで言っているように「奥さんに生活の世話をしてもらっていなかったら、もっと早くに糖尿病とかで死んでいた」でしょうから、MIYAMOOとの結婚生活を早々に破綻させた彼が、シンエヴァみたく健康な還暦オヤジのヌルい泣き言を垂れ流すのではなく、キャラデザの人と地球外少年少女の監督に土下座でゆるしを乞い、余命宣告を受けてから彼らのサポートの下に、病に失われゆく視力の中でこれでもかと絶望をたたきつけた「真のエヴァンゲリオン」を完成させていたかもしれないーーそんな、せんのない妄想です。

漫画「チェンソーマン16巻」感想

 「最近、ツイッターのトレンドでとんと見かけなくなったなー」なんて考えながらチェンソーマンの16巻を読みはじめて、ひっくり返りました。「合理的配慮の義務化」に先がけて、視力に生得的な問題を抱えていたり、特性で文字を読むのに集中できなかったりする人々に向けて編集された、ユニバーサル・デザイン版を買ってしまったのかと真剣に考え、表紙と裏表紙をなんども調べましたが、残念なことにこれが通常版のようです。バカみたいにデカいコマの半分が吹きだしで埋まっていて、その中にはアホみたいに大きいフォントでセリフがならんでいる。残りの空白には、サインペン1本で引いたような強弱にとぼしい線によるキャラのアップが、ほとんど背景なしに描かれている。こいつがまた本当に読みづらくて、何回も行きつ戻りつしながら内容を理解しようとしたのですが、ついには巻の途中で読むのをやめてしまいました(こんなことは、生まれて初めてです)。いまは、「視覚に問題を抱えた方々や特性から読みとりに難のある方々が、人口の9割を占める社会にまぎれこんでしまった健常者」みたいな気分を味わっています。この一種異様な変容の理由がなにかを考えたとき、うるさ方のファンたちにアニメ2期を中絶させられて自暴自棄になったタツキが、画面サイズが小さく解像度の低い貧乏人のスマホを想定した集英ムラ独自のネット連載ルール(怪獣8号!)を露悪的に援用して自分の大切な作品を壊すという、言わば自傷行為の公開におよんでいるような気がしてなりません。チェンソーマン第2部はただちにネット連載を中断させ、一定の休養期間を彼に与えたあと、月刊でかまわないので作品を雑誌連載へもどすべきだと強く進言します。ひとりの才能あふれる作家が、無言の衆人環視のうちに自壊していくのを、現在進行形で見せられているような気がしてならないからです。

 タツキ、その言葉なきハンストにも似た抵抗運動は、現代の社会においてまったく有効じゃないんだ。チェンソーマンの現状に対して、ファン全体の1パーセントが「劣化」や「ゴミ」などの強い言葉を表明し、残りの99パーセントはただ黙って読むのをやめて、やがてキミという作家がいたことさえ忘れてしまうだろう。ルックバックで成層圏へと突き抜けて、編集者たちは作品の内容に口をはさめなくなり、ウェブ連載の独自ルールだけを伝えられ続けた結果、どこかの段階でキミは静かに発狂してしまったんじゃないか。集英ムラの連中は、ワンピースやぢじゅちゅ回銭(原文ママ)があるから、たとえキミが筆を折って失踪したところで、「逸話を持つレジェンド作家が、またひとり増えたか。これで残された作品の価値が上がるわい」ぐらいにしか思わないだろう。私にはネットの片隅でただ息をつめて、両腕をもみしぼりながら見まもることしかできない。だが、チェンソーマン17巻がページの4分の3を吹きだしに占拠されるようになったとしても、キミの才能を買いささえることだけはここに誓う。タツキ、キミは紙媒体でこそ輝く作家だと確信している。これ以上の自傷行為はやめて、集英ムラを離れてでも、ネット以外の媒体へともどる道を探すべきだ。

映画「ゲゲゲの謎」感想

 外出中のスキマ時間にピッタリとハマる上映時間があったため、日本3大しげるの命日にあやかって、見る気はなかったゲゲゲの謎を見る。以下は、テレビアニメ版は第3期のみをリアルタイム視聴し、もっとも印象に残っている関連作品はファミコンの妖怪大魔境ーー「げっげげのげー」からの「ぱわわわー、ぱわっ」ーーーという、昭和の鬼太郎ファンの中央値を自認する人物による感想です。それこそ冒頭の第一声からフィクション然とした説明セリフーー「あれは3万年前に絶滅したとされる、伝説の怪鳥ラドン!」ーーを聞かされてゲンナリしたり、「”哭倉”なんていう趣味的な当て字の地名を、初見で読めるわけねーじゃねーか!」などとツッコんだりはさせられましたが、その後にはじまった過去編は、往年の巨匠たちを思わせる堂々たる絵づくりで、横溝正史ばりの因習村でまき起こる、旧家の家督をめぐる連続殺人事件をスリリングに描いていきます。個性ゆたかな宗家一族の面々のうち、特に末娘のサヨはファンガスの性癖であるところの「穢された聖女(夜は娼婦)」として造形されており、事件の解決編は半ば予定調和的だったものの、近年のフィクションでは珍しくなった「女の情念」による破滅の美を、清々しいまでに見せつけてくれました。

 全体の4分の3ほどまでは、「ゲゲ郎のアクションがアニメ自慢のファンサービスで、ストーリーの雑味になってんなー」ぐらいの感想で、かなり好意的に古き良き日本映画の末裔として見ることができていたのですが、結界の地下で前当主と対峙するあたりから、その評価は急落していくこととなります。ゴジラ-1.0を引きあいにして、「当事者ではない人物が、左の平和学習と同じ視点から描く、幾度もカーボンコピーされて劣化した戦争」が、今後のフィクションにおける主流となることを危惧する向きもあるようですけど、本作は御大の著作が確かな下敷きにあるため、その批判は当たらないと感じました。ならば何が問題なのかと言えば、昭和の巨魁たるラスボス相当の人物を「野党の見る与党コピペ」として極めて類型的に描き、「悪の美学」や「権力の魔性」を1ミリも表現できていないことに起因する、ここまでに語られた物語全体へとさかのぼって波及してしまう、フィクションとしての説得力の欠如です。児童の身体に老人の頭部をのせたキャラ造形は「非難したい相手の容姿を醜く誇張して、戯画的に描く」の典型だし、セリフのすべてが「誅殺の快楽を増幅させるため、主人公サイド・イコール・観客を徹底的ににイラだたせる」のを目的とした非人間的な内容ばかりで、「悪いことをしてきたから、お金持ちになったんでしょ」みたいな小学生の世界観を一歩も出ることがありません。

 大きな権力を掌握した人物が持つ「懐の深さ」や「機転ある賢さ」や「人間的な魅力」のいっさいを、存在しないものとしなければならない暗黙の了解は、以前に指摘した「全共闘運動を正しく鎮圧できなかったこと」に同じ根を持っているような気がします。斧をふりかざされたラスボスがする、「会社を2つやる。いいスーツを着て、いい車といい女を手に入れろ」みたいな命乞いの勧誘に、「アンタ、つまんねえなあ!」と主人公が返す場面があるんですけど、それって一貫して強調されてきた「戦争ですべてを奪われたから、カネと権力を手に入れてやる」という野心を持った人物の発想じゃないですよね? 「農村の百姓や市井の市民の中に、人間のまことがある」という、クロサワを筆頭とした戦争経験のある監督たちの信念ですよね? 劇中において、主人公が「資本主義の走狗」より翻心する描写がまったくないものだから、この場面はギョッとするような唐突さになっていて、「サヨク妖怪に憑依されて、うわごとを言いだした」とさえ感じました(ゼット世代は、強い反発を感じるのでは?)。

 子どものあつかいが雑なのに、感動的っぽい演出がなされてるのもイヤなところで、ドストエフスキーじゃないですけど、この世界では子どもの絶望だけが唯一「取るに足る」んですよ。彼が連続殺人犯の元へ昇天するって絵ヅラも、自分の頭で考えていないと言いましょうか、昭和アニメのデータベースからオートマチックに既製品を選択したように見えてしまいました。原作にはないオリジナル脚本(ですよね?)なんだから、作り手の意志をいくらでも反映できるでしょうし、「子どもの死」をあえて触りたいというなら、もっとデリカシーが必要であると感じます。未就学児に「忘れないで」って言わせることで、自己満足的に成仏させることができるのは、大人の悔恨と後味の悪さだけでしょ。それを意図しているとまでは言いませんけど、この内容はペアレンタル・ガード12を突き抜けて、映画館に座っている実在の児童を刺しにいってると思いますよ。結部のつたなさのせいで、全体の読後感が悪くなったために、サヨたんの犬死に感が強まってしまっているのも最悪です。あと、前当主の死因って、初登場シーンを思い返すと、あきらかに腹上死ですよね? やっぱり、あんなヒヒ爺じゃなくて、サヨたんをすべての元凶にしておいたほうが、はるかに美しく収まったのでは? それと「幽霊族」って概念、ダーレスの言う「クトゥルフは水属性」と同じくらいうさんくさく感じるんだけど、これ公式設定なの?