猫を起こさないように
月: <span>2023年10月</span>
月: 2023年10月

雑文「STARRAIL SENSATION(近況報告2023.10.26)」

 崩壊スターレイル、PS5版の登場による実装分を最後までクリア。以前、「西洋のSFは空間の横軸的な広がりを志向するのに対して、東洋のSFは時間の縦軸的な経過を志向する」と指摘しましたけど、新キャラの専用イベントを通じて、その確信はますます強まりました。さらに、ファンガスの記述するFGOが「生命の一回性を通じて、人間讃歌をうたう」一方で、崩スタは一貫して「不死は呪いである」と繰り返すことで「定命である尊さ」を逆説的に浮きあがらせることに成功しているのです。メインストーリー部分では現在、ロシアと中国をモチーフにした2つの惑星が実装されていて、中華人民とその歴史を魅力的に語るーー皮肉ではないーー段階をようやく終えて、今回は3つ目の惑星へと旅立つまでの幕間が描かれたのですが、いまを生きる人々が読むべき緊張感をはらんだ内容となっています。幹部たちが2つ名で呼びあうカンパニーなるアメリカ(の企業体)相当の組織が登場し、先祖の残した数百年前の借金をカタにロシアへ主権を売りわたすよう詰めより、その代わりに極寒の大地をテラフォーミングでかつての温暖な気候に変えてやると迫る。若い君主が国体の維持と国民の幸福を天秤にかけられて苦悩する中、日本人・中国人・ドイツ人・異星人から構成される「列車組」ーー武力介入しまくるので、国連というよりは「沈黙の艦隊」的な存在ーーが両者の調停に立ちあがる……どうです、そこの未プレイ組のアナタ、読みたくなってきたでしょ?

 パッと見は、美少女・美青年を美麗に彫刻する超絶3Dモデルの「萌えゲー」なのに、ほんの一皮をめくれば現代の世相に対して、かなりハードに接近した物語になっている。そして、すべての組織のメンツをつぶさないまま、「絶対悪」を想定しない解決を語りきる手腕は、もう脱帽という他ありません。まさに、ホヨバの企業理念である”Tecn Otakus Save the World.”を、絵空事ではなく実践してやるんだという気概が、ビンビンに伝わってくるのです。かつて栗本薫が好んで使った「飢えた子どもの前で、文学は有効なのか?」という問いに、彼らは「少なくとも、私たちは有効だと信じている」と歯を食いしばりながら答えるだろうと信じさせてくれる。この、創作物を用いて現実と真正面から対峙する「意気と視点の高さ」は近年、界隈において見つけるのが難しくなってしまったものでもあります。そして、これだけ今日的に重要な課題に取り組んでいるにも関わらず、崩スタにせよ、原神にせよ、本邦において批評的な言説の俎上にのぼるどころか、ほとんど感想をさえ見かけません。今回の幕間劇は、「どれだけキレイごとをならべても、最後の解決は暴力によって行われる」という矛盾、すなわちJRPGというシステムの宿痾に対して、アンサーを与えるべく苦心しているようにも見えるし、かつてのエロゲー全盛期に存在した「傍流に一流が集結する」、あの梁山泊的な熱気が吹きあがっていて、現在進行形で追いかけるべきゲームであることを、強く感じさせてくれます。

 古いオタクたちは、16bitセンセーションなる「初老男性の懐古的な自分語り」を目的とした昭和の談話室に引きこもるのはやめて、令和の不愉快な黒船である崩壊スターレイルをこそプレイするべきだと、ここに断言しておきましょう。ゲイカ、あっちのアニメの制作者インタビューにもイヤイヤ目を通しましたけど、どうしたらあの本編からこの内容が出てくるんだという感じの、コンサルそっくりの語り口になっていて、「いやー、豪華なパワポやねえ」というのが、商材の実際を見てしまった者のいつわらざる感想でした。「どんなガラクタでも売ってみせますよ」というのは、居酒屋で放言する個人の自負としてはけっこうなことですが、企業としては魅力的な製品を作っていただくことが、まずもって先決ではないでしょうか、知らんけど。その点、ホヨバさんの商品はどれもこれも生地と縫製がしっかりした(て)はるわー。今後も贔屓にさせてもらいますさかい、あんじょうよろしゅうお願いします。

アニメ「16bitセンセーション」感想(2話まで)

 16bitセンセーションを2話まで見る。特定の世代の、特定の趣味嗜好を持った人物には、ナナメ方向から鋭角にブッささるクリエイターの名前を目にしたのと、PC-98のゲームを模したドット絵によるプロモーション画像にひどく想像力を刺激されたことが視聴のきっかけでした。「”To Heartから20年”的な内容を、斬新なドット絵アニメによって表現する、今期の鉄板ヘゲモニー」みたいな期待のブチあげ方をしていたこちらが悪いと言えば悪いのですが、正座待機の眼前に始まったのが、脚本・演出・アニメーション、いずれをとってもひどくチープな「クオリティが低い側の昭和アニメ」だったのには、心の底からガッカリしました。全体的にただよう古くさい雰囲気ーーテーマ由来ではないことを強調しておくーーの中でも特に問題なのは、主人公のキャラクター造形でしょう。2023年現在、高卒で就職していると仮定して、いまどきのハタチ前後にこんなシーラカンス級のオタク女子などいるはずもなく、ほとんど「最後に個体の生存が確認されたのは十数年前」みたいな記載がレッドデータブックにあるレベルで、作り手の感覚と観察が、ある時代で完全に停止してしまっていることを如実に表しています(「どん底のぞこ」って口グセもだけど、令和の御代にこんなキャラ立てする?)。

 さらに言えば、エロゲーの歴史を語るのに秋葉原を無思考のオートマチックで持ってくるのも、シンカイ・サンが先鞭を付けてしまった「地域振興結託アニメ群」を前にすると、アンテナの低さみたいなのを感じざるをえません。もちろん、関西在住のオタクとしていつもの「トーキョー部族の内輪ウケ」に対する恨み節が半分なわけですが、ここまでの内容的にも、秋葉原という土地は別の場所へ置換可能ですので、恵美須町駅から南海難波駅に至る一帯ーー日本橋と書くと部族の偏った知識に誤読されてしまうーーを舞台にするぐらいの機転はきかせてほしいものです(初めて言いますが、拙テキスト「美少女への黙祷」の舞台はここです)。3話以降が「スタートアップ企業の部活動的な楽しさ」に再び焦点を当てるのか、「エロゲー黎明期に存在したロストテクノロジーの博物館的保存」を目的にするのか、はたまた「レッドデータ少女の大作エロゲー制作奮闘記」が描かれることになるのか、いまの段階ではまったく予想がつきません。ただ、2話までの印象は、高い期待が反転した結果としての「どん底のぞこ」であることをゲイカ、お伝えしておきます。

 アニメ「16bitセンセーション」感想(最終話まで)

雑文「政治的ヌヴィレット礼賛(近況報告2023.10.13)」

 原神の第4章、ヌヴィレットの伝説任務をクリア。諸君に「アカの手先」と思われたくないので、もう二度と言及するまいと心に誓うのですが、ストーリーのすばらしさが毎回それを超えてくるのです。課金量を調整するため、「男性キャラは引かない」というハウスルールを敷いている萌えコションにも関わらず、終盤のムービーにおける「水龍、水龍、泣かないで」のセリフにふいをつかれて号泣し、ナヴィアとフリーナのためにとっておいた原石をすべて吐きだして、ヌヴィレットを引いてしまいました。ヴァイオレット・エヴァーガーデンのときにも少し触れましたが、オタクの自己定義とは、正しい見本や教育を得なかったために人としてのふるまいを教わらず、「人間社会にまぎれこんでしまったエイリアン」として毎日をやり過ごす者であると指摘できるでしょう。それゆえ、己の日々の苦闘や人生の辛酸を体現するかのような「人に憧れ、人を知り、人になろうとする」キャラクターたちに、とても強く共鳴してしまうのです。「感情を排して論理的にふるまおうとするためにセルフケアがおろそかとなり、結果それがむきだしのウィークポイントとして露呈する」ーー古いオタクに自己投影を促してきた、おそらくはミスター・スポックを源流とする人物造形の最新のかたちが、ヌヴィレットの上に表れています。

 書き手にとって、かなり取り扱いの難しいキャラクターのはずですが、本人にはいっさい感情を語らせないまま、周囲の言動や時々の情景をていねいに描写することで彼の内面の輪郭が浮かびあがる図式は、じつに見事な手さばきです。さらには描写されたその内面が、「もっとも賢い者が持つ心の陥穽と、長く続いた差別構造の解体」というストーリーラインへと自然にリンクしていく。原神が導く「どうすれば、この世から差別がなくなるのか?」という究極の問いへの回答は、ズバリ「争いをやめてから、数百年が経過すること」であり、ここには差別の解消が進んでいくにつれ、ある段階において人権活動が構造解消の足かせになることへ向けた批判すら含まれています。「同じ過ちを繰り返さないため」という表向きの題目が、その裏で「活動によって己の口を糊すること」につながっていないかを自覚し、抵抗運動の自己解体までを差別の解消に織りこむことは、おそらく容易なふるまいではありません。近年の世界情勢を見るにつけ、「数百年に向けた数十年の前進が、またゼロからのふりだしにもどった」ような状況は慨嘆にたえませんし、「『だれもが死ぬ』という事実が教育を生んだが、教育では多くの憎しみを消せない」というシンプルな無力感は痛切ですが、原神のストーリーは「真に世界市民的」な態度でそこへ向きあっており、我々の見る現実と物語のシンクロニシティが意図的か偶然かに関わらず、「いま」を生きる同時代のだれかによってつむがれているということが、ひしひしと伝わってくるのです。

 12の言語で世界展開するゲームのストーリーを語る主体は、自国による文化的検閲や各国の政治情勢について、けっして無頓着ではいられないでしょう。最近どこかで「学生運動を正しく鎮圧できなかったことが、過去から現在に至るまで本邦の大きな負債となっている」という指摘を見かけましたが、マネジメント側から見ると大いにうなづける話です。これは刑罰を適切に与えなかったという意味ではなく、「自分たちが間違っていた」と彼らに思わせることが、ついにできなかったという話なのでしょう。本邦において、一定の歳月を耐えた組織に根深い野党的な言説というのは、「母体に害をなす致死性のヴァイラス」であり、発熱によるこらしめにとどまらず、後遺症を残したり、死につながるような暴れ方さえする。自分たちの非をいっさい認めず相手を悪魔化して糾弾し、譲歩を引きだしたり妥協点を見いだすことではなく、批判する姿勢を仲間や周囲に見せることが自己目的化している。最近のフィクションで言えば、昭和の活動家が用いた左翼的論法を無意識のうちに内面化したファイナルファンタジーの最新作などに、「学生運動を正しく鎮圧できなかった名残り」を見ることができます。「世界を変えず、己が負けない」論法を便利な手段として後の世代が学んでしまったのはつくづく大きな負の遺産であり、本邦の歴史に根ざした品性に欠けるその「土着ぶり」は、村上春樹などよりもずっとノーベル文学賞が求める資質ーーqualityではなくnatureーーに近いものだと言えるでしょう。

 大幅にそれた話を元へ戻しますと、昨今の「物語から書き手の内面を想像するな」という意見には、私はまったく同意できません。その主張を認めるならば、同じ題材やテーマで充分に完成された古典がすでに山ほどあるわけで、人類が「異曲」をつむぎ続ける理由とは、商業的な要請を別とすれば、同時代を生きるだれかの生が否応に作品へと混入し、その語り方を変じるからなのです。原神のつむぐストーリーは、両手足を縛られたようながんじがらめの状況から深く思考して、「どの国の、どの年代の、だれにとっても不快ではない」ラインを見きわめた針の穴を通すストーリーテリングを徹底しており、この創作手法こそが真の意味での「政治的な態度」だと言えるでしょう。あと10年もすれば、「テロリストをアイドルと奉じる一群」は死や恍惚によって現世への影響を完全に失います。そこからさらに半世紀も待てば、「被使用者から使用者への逆差別構造」は消えてなくなるはずです。その日を心待ちに、せいぜい長生きしましょう、マネジメントを生業とするご同輩! あと、永野のりこのマンガに青春期の一部をコンタミされていたので、第4章のプレイ中、エリック・サティっぽい一部の楽曲に、なんだか学生時代にタイムスリップしたみたいな感覚を味わったことを、最後にお伝えしておきます。

アニメ「葬送のフリーレン」感想(4話まで)

 葬送のフリーレン、アニメ版を4話まで見る。金曜ロードショーでの一挙公開と聞いていたので、推しの子1話拡大版みたいなリッチさを期待していたのに、マンガ版の絵の密度と動きをそのままトレースしたようなプアさで、「これをゴールデンタイムで流すなんて、よくぞそんな大バクチをしようと思ったな」と逆の意味で感心しました。原作のストーリー展開については、まだベターになる余地がけっこうあると感じていたんですけど、本作は近年における「人気作品のアニメ化」のご多分にもれず、ストーリー展開はもちろんのこと、セリフまで一字一句たがわず(たぶん)、そのまま再現されています。昭和時代のアニメには、全共闘くずれのアニメーターが「原作をグシャグシャに換骨奪胎して、己の思想を表現する道具として使う」みたいな作品がよくあったじゃないですか(ミスター味っ子のアニメが面白かったので原作を読んだら、キャラと設定以外はまったくのベツモノで首をかしげたことを昨日のように思い出します)。他者の創造へ対するレスペクトにあふれた「お行儀のいい」アニメ化ばかりを目にしていると、ああいう原作無視の大狼藉をまただれかにやってほしいなー、などと無責任に考えてしまいます。

 ドラゴンクエストの世界観ーーなぜかファイナルファンタジーが用いられることはないーーを剽窃して、物語のビルドアップをそこへ丸投げする例の作品群を見ていていつも思うのは、「魔王」はゲーテかシューベルト由来、「エルフ」や「ドワーフ」はトールキン由来の概念として、広く人口に膾炙しているのだろうと百歩ゆずっても、「勇者」という単語だけは個人のテンポラリーな状態に対する賞賛の形容に過ぎないわけじゃないですか。古典的な教養の段階に達するほど年月を経ていない若い文化の用語の、さらに特殊な定義を読み手へと押しつけて、まっさらな物語を始めるのに必要な説明をスッとばす横着な感じは、説明なしの「勇者」概念を見るとき、いつも気になります。その疑念は同じくあるにせよ、後発のフリーレン(notダジャレ)が、雨後のタケノコのごとく乱発されている「転生ドラクエ大喜利モノ」をじっくりと観察した上で、「人生の終わりが彼方に見え始めたドラクエ世代」へ向けたボールを投げたのは、オタク文化の成熟を意識した慧眼だったと言えるでしょう。

 しかしながら、「正しい看取り」というテーマと「週刊誌の連載」はまったくの水と油になっていて、この2つを両立させることはきわめて難しいバランスであると感じざるをえません。なんとなれば、すでにハンターハンターの念を彷彿とさせる魔法バトルの挿入による引きのばしが始まっており、「他ならぬ原作者が、原作の持つ魅力の本質を理解していない感じ」がある種の不安として、ずっとつきまとっているからです。最新刊においては、ついに過去の勇者と現在のフリーレンが互いの肉体に触れたり、意思疎通のできる状態での追想編が始まってしまいました。人生も後半戦に入ると、だれしもが「二度とくつがえせない過去の悔恨」を大なり小なり、何かしら抱えているものでしょう。多くの場合においては、アルコールの力を借りた曖昧化による回避などが行われるのでしょうが、良質なフィクションがつむぐ「別の手段、別の機会、別の相手によって痛みをやわらげ、その一部をいやす」という成熟の処方箋は、きっと現実に対しても有効だろうと私は信じているのです。「死者と直接に対話して、後悔をやりなおす」なんてのは、凡百のループものとまったく同じ、幼稚きわまる大ウソの解決じゃないですか。「フリーレンが、新たな旅の仲間を看取る(あるいは、看取られる)」のを真正面から描くことでしか、この物語が正しく閉じることはないと、ここに断言しておきます。

 今回、マンガの朗読劇みたいなアニメを見ながら頭の片隅に浮かんだのは、血を分けた盟友の最期を看取った82歳の宮﨑駿が、常のごとく原作を完全に無視した2時間の劇場版で葬送のフリーレンを作れば、おそらく私がもっとも見たい形で作品のテーマは昇華されるだろうという妄想でした。そこまではのぞめなくとも、5話以降はバトルシーンをすべてオミットして旅を進めて、最終話でフリーレンの死が語られるぐらいはやってほしいものです。本来、マンガとアニメは別々のジャンルなんだから、全体の1%にも満たない狂信的かつ偏執的ファンなんてガン無視して、ぜんぶ昭和アニメみたいな「アナザー」や「イフ」をやればいいんじゃないですかね、もう。

 

漫画「ベルセルク42巻」感想

 ベルセルク42巻を読了。本作の熱心なフォロワーではなくなってひさしく、特に単行本の刊行に1年以上の間が空くようになったあとは、前巻までのストーリーを忘れたまま流し読みして終わりくらいの温度感でいました。新たな体制によるベルセルクへの雑感を述べますと、台詞が少なくなり、コマ割りが大きくなり、背景ではなく人物が中心の作画ーーほぼほぼマシリトの指摘どおりーーになったなあぐらいのもので、狂信的な方々がツバをとばしておっしゃる「まったくのベツモノ」やら「ほとんど同人誌レベル」やらの指摘には、まだ本作に対してそんな熱量が残っているファンが存在したことへ、純粋に驚く気持ちが先に来ました。すでに「絵画作品」と化していた原作のストーリーがこの速度感で畳まれていくのなら、まことに不謹慎な言い様ながら、むしろ作品にとってよかったのではないかとさえ感じております。つくづく思うのは、特に10年を越える連載期間を持つマンガは、作者にとっては次第に人生そのものと癒着して不可分になっていくのに対して、読者にとってはどんどん人生と乖離してどうでもいいものになっていくということです。

 かつての長期連載マンガとは、「美味しんぼ」とか「ゴルゴ13」とか「浮浪雲」とか、”大人としての個”がすでに確立した者へ向けた、青年誌のものばかりだったように思います。「マンガやゲームなどは文化未満の、くだらないもの」と断じて一顧だにしなかった世代が現役をしりぞき、現世からも退場することで、人生のステージが変遷する際に、「マンガを帯同して持ちあがること」への抵抗感が社会全体で薄れ、徐々に「一定の年齢でかならず卒業すべきポンチ絵」から「一生涯にわたって楽しむことのできる文化」へと変質していったのでしょう。ことほどさように、社会の変化とは旧世代の死によってしか引き起こされないものなのです。個人的には、スケートボードやブレイクダンスがもてはやされる近年の風潮を、唾棄すべきものとして心の底から嫌悪していますが、私の世代の死によってそれらの文化は「社会が当たり前に受け入れるもの」として完成するにちがいありません。

 それた話を元へ戻しますと、マンガが社会に受け入れられる過程で失われたのが「少年マンガ」というカテゴリであったのだと、あえて断言させていただきます。いまや10年を越える連載も珍しくはなく、20年になんなんとする作品が雑誌の看板をはっているーーこの状況に、私は「少年マンガ」なるものの消滅を見るのです(「クリエイターがクリエイターに向けて作品をつくるようになった」ことも影響していると考えていますが、長くなるので割愛)。偉大なるコロコロコミックが小学生のみをターゲットにしぼり、「児童マンガ」のカテゴリを堅守し続けているのに対して、「週間少年ジャンプ」はもはや大人相手の商売に変わってしまっている。私の定義する「少年マンガ」とは、「コロコロコミックを卒業した中学1年生が、受験や就職をむかえる高校3年生までに体験し終えるもの」であり、これを満たすためには連載期間は長くとも5年以内に収まらなくてはなりません。近年では「鬼滅の刃」がこの定義に該当し、中学1年生でキメツに出会った少年は、少年という属性を失う前に物語の終わりまでを体験できたがゆえに、彼の心の中でその後に通過するあらゆるマンガとは異なった、特別な場所を与えられることになるのです。

 因果を逆にして言えば、我々の社会が「大人」を喪失して、ネオテニー的な未成熟を許容するものに変質していっているのは、20年を越える長期連載マンガがその元凶であると指摘できるでしょう。不惑を過ぎたオッサンが、毎週月曜日に「ゴム人間の展開、アツい!」とか言ってるんじゃあないぞ! むしろオマエの尻のほうに火がついて、人生が熱くなってるんじゃないのか? みんな、マンガ連載の長期化には、これまでのように消極的な黙認ではなく、ガンガン積極的な「ノー」を編集部へ突きつけていこう! 興味はあるけど、寿命とのレースが怖くて、「じゅぢちゅ廻戦」に手をつけることができない、舌の短い美少女オジサンとの約束だぞ!