猫を起こさないように
月: <span>2023年9月</span>
月: 2023年9月

ゲーム「スターフィールド(1週目クリア)」感想

 ゲーム「スターフィールド(開始20時間)」感想

 スターフィールド1周目クリア。もう少し引きのばす予定だったんですが、それもこれもコラ・コーとのロマンスがない事実に絶望し、次点としてお顔のいいアンドレアを連れてネオンの歓楽街をねり歩いていたら、なぜかスターパワーが暴発してしまい、市民をまきこむ阿鼻叫喚のチマタと化してしまったのが悪いんです。警官たちに追われながらも、ほうほうの体で宇宙船に乗りこんで他星系へとジャンプして、やれやれとふりかえったら、なんだかアンドレアの機嫌がすごく悪い。あれだけデレデレだったのに、「最小限のやりとりにしましょう」とか「あなたとは距離をおいたほうがいいと思う」など、現実の女性がキモオタにするような態度へと豹変しているのです。「どしたー、ピー・エム・エスかー?」などとオドケて肩をたたこうとすると、「さわらないで!」とピストルを突きつけてくる始末。ホールドアップの姿勢のまま泣く泣く彼女を下船させてから、突然の別れによる傷心をいやすため、ペンディングにしていた聖堂巡礼の旅へと出かけることにしました。この決断が、最悪だったのです。

 なぜか黒人だけが知っている所在地の星へファストトラベルし、スキャナーの輪郭がギザギザになる方角へ何もない地表を延々と「歩いて」聖堂を見つけ、無重力状態でこのまま風にさらわれたいようなドーム状空間のキラキラに接触(当たり判定が意味不明)するミニゲームをこなし、聖堂の外で必ず待ちかまえているスターボーンを射殺するーーこの作業を20回ほど繰り返すうち、パソコンの新調に大枚をはたいたこともあって、ここまではうまく自分をだましてきたのに、心の底からスターフィールド宇宙がイヤになってしまっていることに気がつきました。本作では失われてしまった、これまでのベセスダゲーが持っていた魅力とは間違いなく「フラフラと無目的に、フィールドをうろつきまわる楽しさ」であると言えるでしょう。「広大な宇宙空間をさまよううち、新惑星にたどりつく」ではなく、「あらかじめ星図に載っている惑星に、ファストトラベルする」しか移動手段がないため、広大なはずの宇宙を本当にせまく感じてしまうのです。この感覚、なにかで体験したことあるなー、なんだったかなー、と考えていたら、最後のジェダイだった。

 制作側のだれかが「我々はMODDERに素材を提供するためにゲームを作っているのではない」と息まいているのを見ましたが、その言葉とは裏腹に本作は総体として「MODによる補完を待つ未完成素材群」としか形容できない中身になっています(まあ、いつまでもコンソール機能を削除できない時点で、ゲームソフトとしてはだいぶ腰が引けてますわな)。ドヴァキンのシャウトに相当する24個のスターパワーも、ゲーム会社の新任研修で「重力に関係する能力をできるだけ多く考案しましょう。制限時間は20分です」みたいな課題への回答をそのまま使ったようなものばかりで、「ゲーム内でこう使わせたい」という作り手の明確な意志は少しも見られません(ひと通り試したあとは、擬似V.A.T.S.であるフェーズタイムしか使わなくなった)。以前にどこかで使った表現であるところの「高級食材の水煮」みたいなゲームになっていて、しかも一人前の食材を手鍋でも寸胴でもなく、芋煮会の大釜で延々と煮ている感じであり、大釜のどこにお玉を突っこんでも、すくえるのはだいたい「味のとぼしい湯」でしかありません。いまは「特定の人物が嫌いになると、その人物の衣装までが嫌いになる」ということわざの心境に寄ってきていて、宇宙規模の組織のトップや要職にいる人物が白人以外と男性以外ばかりーーSFなんだから、トカゲ星人とかクラゲ星人とか、現実からの要請をいくらでも回避する手段はあるでしょ!ーーなのもアホらしいし、主人公がスターボーンへと転生するくだりも、創造主の実在を前提として、キリスト教の枠組みにぶつかったり否定したりしないようにソーッとライティングしてるのが伝わってきて、「まあ、このぐらいがケトゥ族の限界だわな……」という気分にはさせられました。

 かようにスターフィールド熱は急速に冷めていっているのに、依然として身体はベセスダ熱にほてったままであり、なんと数年ぶりにスカイリムをインストールしてしまったのです! 旧パソコンでは重すぎて動かせなかった、あれやこれやのMODを試せるかと思うと、始める前からワクワクしますねー。アニバーサリー・エディションも気になるなー。スターフィールド? もうこれはMODが来てもダメかもわかりませんね……。

漫画「ケンガンアシュラ」感想

 ケンガンアシュラの無料公開、通勤時間にチマチマ読み進めて、ようやく読了。うーん、前から気にはなっていた作品なんですけど、ジェネリック刃牙の中央値と言いますか、「格闘技好きが描いたマンガ」というよりは、「格闘技マンガ(あるいはゲーム)好きが描いたマンガ」みたいな中身になってます。格闘技モノの面白さの本質って、勝敗の「意外性」と「納得感」だと思ってるんですけど、本作の試合では両者がそろっているケースがとても少ない。一方で、ジェネリックじゃないほうの刃牙には、主人公の試合「以外」において、かなりの確率で両者がそろっている。他作品からのオマージュというには、あまりに加工の無い直接の引用みたいな場面や設定も多くて、「若いオタクが2次元から学んだ3次元を2次元に模写している」ような違和感は、ずっとつきまといました。

 ネタバレ上等でしゃべっちゃいますと、本作は所謂「あしたのジョー」エンドなんですけど、試合前のヒロイン(ヤマシタカズオ)とのやりとりから始まって、燃えつきの大ゴマにいたるまでをトレースしておきながら、引用元とは天と地ほども違っていて、結末が納得感ゼロの他人事にしか見えないのは、ある意味すごいことなのかもしれません。矢吹丈は「昭和の根無草、風来坊の父(てて)なし子」であり、ある時代においてアイデンティティと「生きる意味」の不在に苦しむすべての若者の象徴でしたが、本作の主人公は作者補正タップリの、強さに説得力を欠いたーーここだけ刃牙ソックリーー格闘技マンガのいちキャラクターにすぎません。

 1話からずっとただよい続けた、悪い意味での「同人誌感」は、作者の成長とともに薄まっていくかと期待していましたが、ついに最終話まで消えることはありませんでした。海外のファンには申し訳ないですが、本邦にはもっと先にアニメ化しておくべき格闘技マンガが、いくつもあると思います。

雑文「『鵼の碑』刊行に寄せて(少しストリングス)」

 きょうは18年ぶりのアレについて話そうと思う。おぉん? まさか野球がお好きだとは知りませんでした、だと? バカモノ! 18年ぶりのアレと言えば、「鵼の碑」の刊行に決まっておろうが! 発売日に天尊(アマゾン)から届いたものの、誇張ぬきでレンガを2枚はりあわせたようなシロモノであり、書見台に乗せても開かず、寝ながら読むには重すぎ、通勤カバンに入れるには分厚すぎるという、ドラゴン殺しもかくやという凶器的存在なのだ。おまけに、家にいる時間はずっとスターフィールドをやっているものだから、日常生活のどこにこれを挿入(デビルワールドの擬音)すればいいのかサッパリ見当もつかず、アレを抱えたまましばらくウロウロしてから、とりあえず本棚に収めてしまった。まず電子書籍版を買い、充分に面白ければ物理的な実体を入手するという読書スタイル?になって久しいため、リアルな紙の塊をどう楽しめばよいのかわからず、モノリス周辺に集う類人猿のように困惑している次第である。よって、これ以降は最新作を1ページも読んでいない人物による京極堂シリーズ本編への雑感だととらえていただきたい。

 まず自己紹介をしておくならば、いまは無き京都の書店で処女作を手にとって以来、「邪魅の雫」までをほぼリアルタイムで追いかけてきたが、それ以降の派生作品はまったく読んでいない程度のファンである。令和の御代ならば NPO団体から断罪されるだろう、桜玉吉をはじめ陰キャのオタクどもが「ほう」と嘆息をつき、「酷く羨ましくなつてしまつた」みつしりハコヅメ少女(not婦警)に脳を焼かれ、生涯にわたり消えない印を額に刺青されたことは、本シリーズをとりまく事件のうち、最大のものだと言えよう。いまは亡き栗本薫が、「作者は処女作において、風采のあがらない小男に己を仮託していたのに、売れっ子作家となるにつれて作中のヒーローへ自意識を同化させていった。(中略)私は、見えすぎるこの目を封印した」と指摘したのは、本シリーズのことだったと確信しているが、作者が京極堂という虚構内のハイパー書痴と自意識を融合させていった結果、ついには外見も含めてその人物へと完全にメタモルフォーゼし、「本好き、妖怪好きにとってのヒーローを彫刻する」という本シリーズ執筆につながる初期動機を失ったがゆえに、18年という長い中断につながったのだと分析する。

 かようなメタい話をわきに置いて、作中の情報だけでシリーズ本編が頓挫した理由を考えるとするなら、初期のほうでも例の探偵の「ほとんど漫画」な言動でリアリティラインがグラつく傾向はあったが、あくまで脇役だったために本筋への大きな影響はなかった。それを、京極堂の宿敵としてモリアーティ教授に当たる人物を登場させ、さらに男女2人の美児童を助手としてはべらせた時点で、作品の虚構度がついに漫画方向へと雪崩れてしまったのである。いったいどう立て直すつもりかと続刊を手に取ったら、教授との対決はどこへやら、「姑獲鳥の夏」の裏バージョンが始まってしまう。さらなる続刊を読み、登場人物の名前に盛大な誤植があって混乱させられながらも、「ああ、これまでの事件の陰陽表裏となるセット部分を描く2周目に突入したんだな。ということは、モリアーティ教授との対決は刊行ペースから逆算して10年後かな」と予想していたら、そこでプッツリと続きが途絶えて、ファイナルファンタジー16ばりの「18年後ーー」な現在へといたるわけである。シリーズの慣例として、続刊タイトルも巻末に予告されているものの、「作品の完結と作者の寿命がチキンレースを始める」段階の物語群に入ってしまったなというのが、いつわらざる実感だと言えるだろう。「鵼の碑」は熱心なファンが読み終わり、だいたいの感想が出そろってから手をつけることになりそうだ。なんとなれば、いまは空いてる時間すべてをスターフィールドに使いたいからである。

 最後にぜんぜん話も口調も変わるけど、最近「東洋の若い物理学者や数学者の女性が西洋の有名な団体から賞を与えられた、なぜなら超弦理論をサポートする分野での貢献があったから」という記事がたて続けにタイムラインを流れてきたけど、ひどく政治的な動きに思えるのは、うがった見方すぎるかなー。「若い世代」かつ「男性ではない性別」で「西洋ではない場所」の人物が受賞するのって、「たとえ粒子加速器で超対称性が見つからなくとも、スーパーストリングスは中絶させない。世界各地の次世代へ向けて、これを研究すれば名誉もカネもポストも約束されるというメッセージを伝えたい」っていう西洋の年老いた物理学者や数学者の男性による強い意志とプロパガンダを感じるんだけどなー。同じ成果なら女性に与えた方が、企業や団体に対する世間の印象はよくなるしねー。アタシ、ザビーネウォイトのせいで、よごされちゃった?

ゲーム「スターフィールド(開始20時間)」感想

 スターフィールドを黙々とプレイ中。あまりにも黙々と集中してやってしまうので、タイマーをセットしておかないと、つい大人の義務の遂行を忘れてしまうほどです。本作をまともに動かすには、原神のロード時間がいまや気絶するほど長くなり、崩スタは上から2番目の画質でもカクつくようなスペックではまったくお話にならないため、数年ぶりにデスクトップPCの新調にまでおよびました(「家電の更新を促すエンターテイメント」って、すごく昭和感ないですか?)。なんとなれば、Fallout3とNewVegasをガッチャンコしたtwo wastelandsに、決して人には言えないmodを大量導入し、もし人に言ったらヒかれるぐらいの時間を遊んだ生粋のベセスダっ子にとって、以後の10年をプレイし続けるだろうゲームにかける投資としては、むしろ安すぎるぐらいのものです。家庭内におけるエンゲル係数の教育費版が近年、急速に下落していることも、この昏いオタク趣味への蕩尽をあと押ししてくれました(背後には、眉間に深いシワを刻んで腕を組む家人)。これから語ることは、「バニラで数十時間」ーーDLSSを有効にするmodだけは入れたーーという来たる総プレイ時間の0.1%にも満たない、「高級スポーツカーの助手席に尻をのせた」ぐらいの段階での感想としてお聞きください。

 まず、ざっくりとした全体の印象を申しますと、居住性や快適性を犠牲にしてエンジンの排気量だけを馬鹿デカくしたアメ車みたいな設計思想のゲームで、チュートリアルはいっさい不在のまま、世界最速のインディアンよろしく時速300キロでいきなり真空の宇宙へと放りだされます。例えるなら、「オー、ボーイ! 新車を購入したとき、販売員がハンドルの説明をしてくれるっていうのかい? 『これは方向制御に関わる操舵装置です』って具合にかい? 違うだろ、ガレージでパパのジャンクをバラすように、手と身体で覚えるんだよ! どうしてもチュートリアルが必要だってんなら、それはたった4文字、『ベ・セ・ス・ダ』さ!」と、肩をすくめたレッドネック野郎にあきれ顔で言われている感じと言えば、伝わるでしょうか。ゲーム部分を細かく見てゆきますと、アインシュタインならぬベセスダ物理学に支配された惑星地表のプレイフィールは、舞台が北斗の拳ばりのポスト・アポカリプスだろうが剣と魔法の中世ファンタジーだろうがずっと変わらなかった感覚を、25年前からビックリするほど何も変えないまま踏襲しています。まさに「実家のような安心感」ではあるのですが、ここ最近はホヨバの人間工学に元づいたクッション性の高い低負荷な3D世界に慣れていたため、開始直後はガチガチの鉄みたいな座席に4点式のシートベルトで固定され、まばたきできないよう上下のまぶたに器具を挿入されているような気分にはなりました。それこそ、前頭葉へじかにアイアンクローを入れられているような頭痛と3D酔い未満の感覚がつきまとったのですが、人間の偉大なる視覚および認識補正の力でしょうか、気がつけばそれは消えていました。

 最初のクエストで「ベセスダで拾わねば…無作法というもの…」などとつぶやきながら、施設内の拾えるものをスキャン視点ですべて拾いまくっていたら、重量超過の酸欠状態となり、同行する無機物コンパニオンに「キミ、なんでそんな”物”に執着あんの?」とからかわれたのには、たいそうムカつきました。すべてのジャンクをクラフト素材に変換できると思いこんでいたのにまったくそんなことはなく、結果として「無駄な努力の総天然色見本」みたいな道化師ムーブだったわけですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。そして、なぜかいつものV.A.T.Sシステム(Pip-Boy!)が搭載されておらず、それに代わる重力を駆使した戦闘ギミックは使い勝手がはなはだ悪く、アクション部分はアルコール中毒かつ反射神経の衰えた中年にとって厳しい内容なのですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。また、シリーズの伝統であったはずの四肢欠損や全裸パンイチも削除されており、マッパの死体を吊りあげてゲラゲラ笑うことさえできませんが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。

 あと、新要素の宇宙船によるドッグファイトは、スターラスターの丸パクりだったFC版スターウォーズのミレニアムファルコン・パートを、なぜか彷彿とさせました。この宇宙船どうしの戦闘、何が起こっているのかサッパリわからず、何度も何度も撃墜されるムービー(これ、いる?)を見せられた結果、敵影を見た瞬間にワープで他星系へとガン逃げするようになりましたが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。それと、銀河と惑星間のファストトラベルをなぜか個人のバックパック積載量で禁じていたり、光年単位の移動が可能なテクノロジーを持つ文明なのに、惑星内は地図なしの徒歩移動のみという不便さ(せめてホバー車くらいは用意しといてよ……)ですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。さらに、スターウォーズやスタートレックのような異星人との邂逅を求めて銀河をさまよっても、出てくるのは昆虫と爬虫類を足したような知性の欠落したクリーチャーばかりですが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。個人的にかなり衝撃を受けたのは、主人公の所属する組織のメンバーであるサム・コーの娘が、バニラ・ベセスダなのに生々しいリアル児童だったことです。これは欧米の倫理基準に照らして、四肢欠損ならびに全裸パンイチとトレードオフになっている要素なのかもしれず、だとすればプラスマイナスでプラスが勝っていると言えます。いまのところ、キャラクリで児童をプレイアブルにすることはできませんが、いずれはすべてmodが解決してくれることでしょう。

 ここ2年ほどで触れたサイファイは、小説なら「三体」と「プロジェクト・ヘイル・メアリー」、ゲームなら「崩壊スターレイル」と本作「スターフィールド」ですが、見事なまでにSF的宇宙観の「洋の東西」を対比する作品群となっています。すなわち、東洋では「気の遠くなるような”縦”の時間軸での広がり」にセンス・オブ・ワンダーを感じるのに対して、西洋では「気の遠くなるような”横”の空間軸での広がり」にそれを感じるという点です。100年に一度、天女が舞い降りて羽衣の触れた大岩が砂となって消滅する時間を「一劫」と表現しますが、この過程を想像するだけでも、魂が肉体を離れて浮遊するような途方もなさを覚えます。一方で、物理的な速度の上限が秒速30万キロメートルに制約され、宇宙の辺縁はそのライトスピードを超えるペースで膨張しているという事実も、また同じように途方もない感覚をもたらします。もしかすると、この小さな惑星において100年を長らえない知性体の苦悩を、相対化の果てに無化してくれるスケール感が、SFなるものの正体なのかもしれないーーそんなことを考えました。私たちがこの矮小な人生において直面する困難も、いずれはすべてmodが解決してくれることを祈りつつ、スターフィールドについてのファースト・インプレッション未満な雑文を終わります。

 ゲーム「スターフィールド(1週目クリア)」感想

ドラマ「ワンピース(実写版)」感想

 悪い評判が流れてこないので、イヤイヤ薄目でゴム人間の実写版1話を見る。ファンから総スカンを食らったカウボーイビバップ実写版の制作会社によるもので、正直なところ、クオリティはあちらと大差ありません。マッケンユー等の見どころは若干ありますが、他の漫画実写化で言えば、るろ剣というよりハガレンの方にカテゴライズできるでしょう。アルファ的な方々が、チラホラ頭のいい批評的な褒め方をしてるのは、どうにも「企業案件」くさいなと思っています。本当にファンへ受け入れられて流行っているなら、まっさきに低偏差値ヤンキーどものアホな歓声がタイムラインを埋めつくすでしょうからね!

 少し話はそれますが、原作の漫画は本邦において「マスコミ不可触群」に繰りいれられていることが、容疑者が海賊団の首魁を名乗る例の事件で明らかとなりました。この不可触群の中身としては他に、親族や私生活がどれだけアレでも騒がれないフィギュアと新体操の元メダリストや、千と千尋ばりの「本名剥奪刑」を受けたのにどこの人権団体も動かない女優や、「美男の名優」という公式設定を各社が共有するチンピラ大根などが挙げられるでしょう。最近、ようやく旧メディアへ現出するようになった「邪児縊頭(キタキターン!)」の、過去最大1億2千万人の共犯者を持つ「漏れスター(アイドル失禁?)事件」にせよ、外圧からの出火が自然鎮火しそうにないことを充分に確かめてから、横目で互いの動向を確認しつつ、早すぎないよう遅すぎないよう、会釈と見分けがつかないレベルの謝罪を申しわけに公表するのがマスコミ仕草であり、「数ヶ月におよぶ誤報と3行の訂正文」が天地開闢よりずっと変わらぬ、きゃつらの心根の正味なわけです。そして、我々が住まう地の本質とは「泣いている者と怒っている者」が共同体の安定のため、最優先でケアされるクレーマー天国a.k.a.土人の巣であり、この環境下においてはヤクザ者のたつきが消えようはずもありません。

 話をラバーメンに戻しますと、こちらが燃えず、カウボーイビバップが燃え、範馬刃牙が燃えず、チェンソーマンが燃えたことは、フィクションの特性を分析する上で好対照の材料になっているように思います。キーワードは「リアリティラインの位置」と、それに伴って変動する「原作ファンのシリアスネス」だと指摘できるでしょう。チェンソーマンが作者の資質から、「文学」や「芸術」の枠組みに片足をつっこんでしまっているのに対して、ワンピースはどれだけ連載が長期に渡ろうと、任侠風味の「少年向け冒険活劇」という範疇にとどまります(刃牙シリーズ? あれは、ジャンルが唯一無二の「格闘ギャグ」になって長いから……)。そして、オリジナル版カウボーイビバップの「構成の見事さ」と「アニメによるウソ」から絶妙に成立する高品質の「リアルな本物っぽさ」は、大の大人をシリアスに狂わせるレベルにまで達していたわけです。実写化によって、この2つの要素を失った残骸を見せられ、ファンは自分たちの信仰を侮辱されたように感じてしまったのでしょう。

 原作ラバーメンは「グランド・リアリティ・ライン」がどこまでも低めーー人間がゴムて、キミ!ーーなので、期待値ゼロベースからの加点方式で評価が行われているのが、燃えなかった理由かもしれません。ゴチャゴチャ言いましたが、単純な真相は連載開始から25年が経過した現在、もう熱心なファンがそれほど残っていないってことじゃないですかね! そろそろ禁断のパチンコ・ブースト、いっときますか!

アニメ「範馬刃牙」感想

 範馬刃牙「親子喧嘩編」を通して見る。低クオリティの静止画に音声がついただけみたいなシロモノで、どこか激しく動かしたいシーンがあるから作画の足をためているのかと思いきや、そんなシーンは一瞬もなく、最後までずっと同じ調子のまま、低クオリティのまま終わります。意味不明の展開を超絶な作画力で、まさに勇次郎が息子の頭をなでるように無理やり読ませた原作から、作画力だけを抜いて何も足さない仕上がりになっています(ユーザー・イリュージョンの話がマルシーとれないので引かれてる)。でもね、この程度の品質で、居ならぶ韓ドラまでおさえて、ネットフリックスの視聴ランキング世界1位をとってんですよ(!)。

 原神のときにもさんざん言いましたけど、我々を停滞させているのは、もはや呪いと化した国民的心性である「神経質なまでの几帳面さと行儀のよさ」なんじゃないですかねえ。チェンソーマンがあれだけのハイクオリティだったのに、解釈違いと原作ファンに難クセをつけられて、2期の制作さえ絶望的な状況に追いこまれているのに対して、刃牙シリーズは死刑囚編から安定の「低クオリティ・コントロール」で、ついに最後の最後まで語りきっちゃった。さらには、刃牙ファンの裾野を世界各国のあらゆる人種へと広げ、近い将来に幼年編から最大トーナメント編まで作られそうな勢いです(スターウォーズの大好きな世界中のオタクたちは、この順番のストーリー提示に大興奮すること間違いありません)。

 本邦の漫画界隈には、「あまりに名作すぎて、おそれ多くてさわれない」や「ファンが厄介すぎて、怖くてさわれない」作品が、誇張ぬきで数十年来を塩漬けにされたまま、ゴロゴロしてるじゃないですか。あのチェンソーマンの仕上がりでダメなら、もう何をどうやったって一部のファンにはダメなわけで、我々は刃牙シリーズの雑なアニメ化が大成功したことを見ならうべきだと思うんですよね。全視聴者の1%にも満たない、うるさ方の原作ファンや声の大きい作画オタクは無視して切り捨てて、低品質の雑なアニメ化をもっとガンガン増やしていきましょう! 有識者および資本家のみなさん、本邦の衰えたプレゼンスを回復するのに、これほど簡単で安あがりな施作はありませんよ! とりあえず、高校鉄拳伝タフあたりからやっていきましょうか!

 『(バーガーとコークを手に、あきれ顔で)このアニメは世界でいちばん視聴されている。だから世界でいちばん面白いものに決まってるだろ。』

雑文「IUT続報に寄せて(近況報告2023.8.31)」

 宇宙際タイヒミュラー理論をめぐる状況の続報にふれて、満面の笑みを浮かべている。あらかじめ、以下は高校レベルの数学さえあやしい人物による外殻の政治的な「面白がり」だということを伝えておきます。そもそもの発端は、5年近く前に同理論の成否を確かめるため、ドイツから2人の高名な数学者が京都を訪れたことでした。一週間にわたる論文著者との議論の末、帰国した2人は「乗り越えられない決定的な瑕疵があり、証明は無い」との結論を10ページの報告書として発表します。同理論はあまりに長大で難解なため、理解できる者は世界で十指にわずか余るほどと言われており、多くの数学者はフィールズメダル受賞者のこの宣言に、もう余計なことを考えなくてすむとホッとしたのです。そこから現在まで続く集団的思考停止の状況を「数学にとって不健全」だとして、論文著者が報告書の撤回を求めるメールを昨年、2人のドイツ人数学者へ2度にわたって送りつけたにも関わらず、完全に無視される結果となりました。業を煮やした彼はつい先日、その私的メールをネット上に公開したのですが、最近はDeeplやChatGPTなど翻訳に便利なツールもあるので、ぜひ本文を読んでみてほしいと思います。

 まあ、最大限ひかえめに言ったとしても、相当に「態度の悪い、挑発的な」内容になっていて、「あなたが健康な状態であることを願っています」から始まり、「あなたが議論において、ささいなことに固執していたのを鮮やかに思い出します」とか、「仕事や金銭の調整は必要ですが、京都に来るなら解放的かつ自由な議論を約束します」とか、「なぜあなたほどの人が、こんな簡単な数学が理解できないのかわかりません」とか、「私の師匠に理論の誤りを指摘すると『権威を盲信すべきではなかった』とすぐに認めました」とか、「『真実を受け入れる者は解放される』という金言の意味をもう一度よく考えるべきです」とか、とにかく全編にわたって「格下の相手にレベルを合わせてお願いしてやっている」というアロガントな雰囲気を隠しきれていません。メール内の文章表記も相手の読解力を疑うように、単語をダブルアスタリスクで強調(初めて見た)したり、読み落とさせたくない箇所は一文中であってもわざわざ改行の上で段落化したり、どこの00年代テキストサイト運営者によるテキストいじりなのかと疑うばかりの粘着ぶりです。

 さらに問題なのは、存命する数学者の中でトップクラスに入り、歴史上においても最高ランクに位置するだろう頭脳から、はた目にわかるほどの「激おこイライラ状態」でこれが出力されていることであり、選ばれる単語が高級で文章が難解なことをのぞけば、やっていることの本質は巨大掲示板での文系レスバトルとなんら変わりありません。そして何より悪いことに、わざわざ京都まで来て一週間を費やしてくれた相手の態度を硬化させている原因の最たるものは、間違いなくこれまでの論文著者のふるまいなのです。「証明なし」との報告書が公開された直後の彼の反応としては、「議論の最中、相手の説明する馬鹿げた解釈は自分の理論とは似ても似つかないと、ずっと考えていた」(なら、その場で指摘しようよ……)や「なぜこんな初歩的な数学が理解できないのか、同僚たちと爆笑した」などがあり、これだけでもかなりひどいのですが、きわめつけはドイツ人数学者2名を、名前の頭文字を並べてナチス親衛隊を意味する「SS」呼びしたことでしょう。なぜ非アカデミアのトーシロがこんなことまで知っているのかと言えば、これらすべてが論文の中に注釈としてそのまま書いてあるからです(!)。さらに、わずか10ページのその報告書に対して150ページ超の反論を公開したり、やってることはどこぞの訴訟インフルエンサーと大差ありません。

 今回の顛末について、以前にも指摘したように、コーケイジャンたちが99%の時間を意志と理性の力で抑制している人種差別の感情が、あるシリアスな一線を越えて噴出する領域へと論文著者が踏みこんでしまったことで引き起こされた可能性は、非常に高いと思っています。同時に、「アジアの黄色いサルに、ナチ呼ばわりされた。ヤツらモンキーどもに西洋文明の精髄である、数学のアルテを理解できるはずがない」という人格の底の底にある昏い負の感情が、メール無視による撤回拒否につながっているとすれば、外野の文系にとってこれほど面白い見せ物はありません(まあ、このへんは欧州の高位?数学者や数学倫理規定?みたいなものを引っぱりだしているあたり、薄々わかっているのかもしれません)。スーパー・ストリングスにせよ、インターユニバーサル・タイヒミュラーにせよ、もっとも冷徹に論理的であるべき物理学者と数学者が、「半世紀を捧げて己が権威となった分野が、すべて灰燼に帰すなどありえない」や、「30年をかけて完成させた究極の理論を、ポッと出の若造ごときに潰されるなど断じて許せない」といった感情にふりまわされているのを観客席からビール片手に眺めるのは、とうの昔に己の人生の相対的な無価値を受認した文系人間にとって、この上ない愉悦の娯楽だと言えましょう。

 いまの私の最大の関心事は、世界を席巻するAIがはたして人類にとって「我々はエヴァを生みだすためにその存在があったのです」という台詞の、エヴァに相当する対象になるのかどうかです。現存する人類すべての成果物を学習し終わったところでAIの成長が止まるのか、そこからさらに成長が続いていくのか、まだだれにもわからない段階とのことですが、これは私がよく使う例えであるところの「1を100にすること」と「0を1にできること」の対比によく似ているように思います。そして、前者に長けた人工知能がはたして後者の能力を有しているかどうか、すべての学習対象を消化したあとに無から有を生み出せるかどうかは、人の持つ知性と人の抱く感情が可分か不可分かの、数学的に言うならば、”conjecture”になっているような気がするのです。最高峰の知性さえも「乗り物」にしてしまう感情という制御不能のドライバーが、知的創造とは切っても切り離せない要素だと判明するなら、それは世界文学と同じ種類の人間讃歌だと言えるのではないでしょうか。私の生命が残っているうちに、人類全体をまきこんだ壮大な実験の結果が見られることを、切に願っています。そして、だれかが私のテキストに対して言ったように、「歴史上の数学者の人生を、リアルタイムに砂かぶり席で見ることができる」喜びを噛みしめたいと思います。