猫を起こさないように
月: <span>2023年8月</span>
月: 2023年8月

映画「ザ・フェイブルマンズ」感想

 スピルバーグ監督の自伝的作品であるザ・フェイブルマンズを見る。邦題は「ザ」を欠落してフェイブルマンズとしているが、”The + family name + s”が「ホニャララ一家」を意味する語法をガン無視しており、アジア人に向けてはふんぞりかえるクセに、西洋人には出ッ歯の平身低頭な虚業従事者のみなさまに対して、素直にshine(「輝け」、の意)と思いました。もっとも言いたいことを最初に述べておくと、アカデミー賞において本作が無冠にとどまり、エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスに7冠が与えられたという事実だけで、ポリコレ的なムーブメントが少なくとも芸術分野においては一利も無いことが証明されたと言えるでしょう。本作は「自伝的」と紹介されていますが、描かれているのはスピルバーグが映画業界に足を踏み入れる20歳ぐらいまでの話で、まさに「フェイブルマン一家」のたどる顛末がストーリーの中心となっています。すべてのシーンが観客にとっては少しずつ冗漫で、スピルバーグ自身がエンターテイメントというよりは、自分の大切な思い出をフィルムへと固着するために撮った作品のように感じました。その意味で、いまは亡き母親へ向けた強い思慕を含めて、宮崎駿の最新作と奇しくも同じような読み味になっています。

 家族と芸術に引き裂かれる者の業を説く映画業界の叔父や、両親の離婚という家族の修羅場を引いた位置からカメラを通してながめる主人公など、名シーンはそれこそ枚挙にいとまがありませんが、個人的にもっとも印象的だったのは、海辺での夏休みを撮影したドキュメンタリーをプロムで上映した後に、ロッカールームで起こったできごとでした。この場面は、監督する側の意図にはまったく存在しなかった、しかし観客にとっては深刻な解釈が生じる可能性があるということをしめすと同時に、以前「桐島、部活やめるってよ」で指摘したのと同じ構図が現れています。すなわち、映画を好むような陰キャは、スポーツ万能で異性にモテる陽キャを「人生に苦悩の存在しない、すべてを持てる者」として考えがちですが、彼らの中にも生きることへの不安や苦しみは「持たざる者」と同じように存在しているのだという当たり前の事実です。踏み外したと感じる者の諦念と踏み外せないと信じる者の重圧の対比、複雑な世界のひと筋縄ではいかなさに若き青年がはじめて気づいたという点で、きわめて重要なできごとだと言えるでしょう。我々が陥りがちな「彼(ひ)は満ち、此(し)は空なり」という甘い自己卑下を離れることが人生にとっては重要なのだという教訓を、この挿話は与えてくれているのです。

 映画の最後に、往年の大監督から「地平線が上か下にあるのがいい絵で、真ん中にあるのはダメな絵だ」と教えられた主人公が、画面の奥へと遠ざかっていくのを映すシーンで、しばらくののち、カメラがあわてて上方向にチルトして地平線を下げたのには、笑いながら泣いてしまいました。これこそ、映画芸術からしか得られない感情の機微だと言えるでしょう。宮崎駿の最新作が死の予兆に吞みこまれて終わったのに対して、本作は新しい生き方を始める青年の若々しい高揚感に満ちたまま、幕が下ろされます。東西の巨匠2人による最晩年のレイトワークに生じた差異は、「血を分けた盟友の死」の有無によって生じたものかもしれません。ともあれ、ひさしぶりに良い映画を見たときの贅沢な余韻にひたることができました。「映画とは、何か」の手ほどきを受け、そこから半世紀近くをともに歩んでくれた相手に、評価などというおこがましい行為は、もはや私にはできません。賞レースなんてどうでもいいと本人も思っているにちがいないでしょうが、本作を視聴したことで「エブエブ」への嫌悪感だけは確実に高まりました。

映画「ター」感想

 ケイト・ブランシェット引退の報を聞きつけ、急遽ターの円盤を購入して見る。酷薄なコーケイジャン女性の顔面が大好きなことは、もはや認めざるをえないでしょう。ブルージャスミンで証明されたように、彼女は見事な「人格憑依型」の俳優であり、本作においても監督の考える「ぼくのせかいさいきょうしきしゃ」を完璧に演じてみせました。映画の冒頭からシアター、レストラン、階段教室と、一流の手品師がトリックを見破られない自信があるときのように、アンチョコもプロンプターも存在しないことを示すためのステージと長回しの撮影から、クラシック音楽にまつわる難解な長広舌がマシンガンのごとくとびだしてきます。才能にあふれた美形をしか愛せないレズビアン、愛情と愛着の区別がわからない冷徹な人非人、他者の感情と人生までをコントロールできると信ずるその傲慢さによって、虫ケラと断じて切り捨てたはずのつまらない存在たちに逆襲され、ついには王位を剥奪されてしまう。音への過敏にはじまる不眠と神経症から、首席指揮者としての自我に亀裂が生じ、そこから坂道を転がり落ちるように壊れていく様は、ケイト・ブランシェットでなくては成立しえない圧巻の演技だと言えましょう。特に、プエルトリカン学生の「進歩的な態度」を粉々に打ち砕くために行った「あらゆる価値判断を放擲し、楽譜に従属する奴隷として、魂さえ捨てた空の器たれ」という講義は、最近の私の気分にぴったりと当てはまるものでもありました。

 本作をして、女性やLGBTQ差別への批判を読む向きもあるようですが、まったくそれには同意できません。むしろ極めて深刻なのは、漏斗状に上から下へと濃縮していく人種差別の構造であり、おそらく監督自身がそれに無自覚である点でしょう。降板させられた主人公がコンサート会場に現れ、演奏中の男性指揮者へ殴りかかるシーンで終わればよかったものを、そこから大蛇足の30分を追加したために、クラシックの歴史と業界の現在に対する批判へと内容に強いエッジがかかってしまったことが、それへ拍車をかけています。ベルフィンフィルを追い出されたあと、放浪の末に中国人のパトロンを見つけ、最後はモンハンのコスプレをした観客が会場を埋める中で、アジア人のオケを相手になんと「英雄の証」の指揮をするところで物語は幕となります。これは、「白人男性によって築かれたクラシック音楽はカビの生えた古典となって死に瀕しており、いまやアジア人のゲーム音楽にこの分野の新たな萌芽がある」という無邪気な批判のつもりなのでしょうが、以前にグラン・トリノで指摘したものと同じ「西洋的な差別意識の類型」を露わにしているのです。すなわち青い目の視界の外、石の文明の埒外で、もっとも取るにたらぬと侮蔑していた存在が偉大な欧州文化の精髄を継承するがゆえの衝撃であり、「差別構造の最下層にいるアジア人」が対偶に存在しなければ、最大級に痛烈な批判としての機能をこの結末が持たないことが、我々にとっての大問題なのです。逆ピラミッドの最上部にいる白人男性から、白人女性、中南米男性、中南米女性、黒人男性、黒人女性と順に階位が下がってゆき、その「人種漏斗」のいちばん細くなった部分から濃縮されて垂れ流れているのがモンゴロイドへの差別意識であり、この映画の体現する侮辱に対して我々は怒らねばなりません。

 本作は、ケイト・ブランシェットのファンがケイト・ブランシェット最後の演技を愛でるために見るのでなければ、まったく1ミリもおススメできません。全面協力したベルリンフィルは、たいそうなババを引かされたものですね。ああ、最後の30分さえなかったらなあ! 白人至上主義者がアジア人差別を無自覚に利用した、けったくそわるいクソ映画で引退を表明させられるなんて、ケイトがかわいそうだ!

ゲーム「FGOサバフェス2023」感想

 サバフェス2023の前半?までクリア。肩の力を抜いたファンガスの筆に、ところどころ他のライターによる文章ーー同人誌制作パートとかーーが混ざるので、読み味はいまいちスッキリとはいきませんでした。しかしながら、尽きせぬ揶揄の源泉たる「シャチョーのハンコ絵」をひらきなおってネタにするふてぶてしい態度は、「6体の水着キャラ」という重課金要素こみで意図せぬ押入り強盗ぽいふるまいになっており、思わず笑ってしまいました。8周年記念で配布された石と札だけでハンコ絵バーサーカーの宝具は4まで重なったのに、欲しかった方の星4キャラ(どっちかはヒミツ)が1体も手に入らず、毎度のことながらじつに排出バランスの悪いガチャになっていて、乱数をまともに組める人間がいないんじゃないのかとカンぐってしまうほどです。ここまでのストーリーについて感想を述べるならば、主人公格の通称アルキャスについては、本編である第6章から引き続いて「過酷な生育環境を経たため、他者が抱く負の感情へ敏感になってしまった子ども」のような描かれ方ーー設定的には「あらゆるウソを見抜ける」だそうですーーをされており、「高潔なる英雄」である無印セイバーのネガとして配置されているのは重々に承知ながら、茨木童子とのやりとりなどでは大の大人に「アイタタタ……」と目をおおわせてしまうような痛々しさを覚えました。また、今回のイベントテキストも例年どおりオタク界隈の最新トレンドをふんだん取りいれていて、特にブルーアーカイブ方面への目くばせはなんだか強めに感じましたねー。でも、「ガネーシャ不在のカルデア・ゲーム部」みたいな、かゆいところへ絶妙に手の届かない”雑さ”ーーおそらくファンガス以外のライティング・パートーーこそ、半島や大陸のつむぐ物語によって少しずつ本邦のオタク業界が版図を押しこまれている遠因となっているのではないでしょうか、知らんけど。本イベントのライティングがいつなされたのかはわかりませんが、山火事や台風上陸など現実のディザスターとのシンクロニシティが偶然に生じてしまうあたり、まことに不謹慎ながら「稀代の巫女、神おろしの自動書記」であるファンガスの有様を再認識する気分にはなりました。

 最近、他者への想像力を欠くブンガク畑出身の人物に向けた批判がタイムラインを下ってきましたけれど、あの界隈の文字列が本来の意味での「文学」だったことはついぞなく、ヒューマンロストの昔からひとつ残らず「私小説」の範疇にとどまり続けることが、あらゆる問題の大元であり根源でしょう。世界と何の接点もない個人の感想が公の場で取りあげられるのは、「大文字の文学」と「単なる私小説」が賞レースという枠組みの中でずっと混同され続けてきたからだと指摘できます。ひと昔前なら面相のうるわしい若きアイドル文士たちに冠が与えられていたところに、近年では「ゲイ」「レズ」「クリップルド」などの属性がその対象となってしまったことへ、表層的な時代の変化だけは否応に感じざるをえません。これは「私小説」の「わたくし」部分が、あえて言いましょう、「一過性のトレンド」によって首をすげかえられている状態であり、この意味で本邦の「ブンガク」は「文学」とほど遠い場所でマニュファクチャリングされた、「値段のつく感想文の集積」と同義になってしまっているのです。この類の問題を考えるとき、どこで触れたのかは忘れましたが、「私たちは一見、たがいに異なっている。けれど、その皮一枚の下は、だれもがみな同じだ。そして、さらに少し先で、やはり私たちはみな異なっている」という言葉がいつも頭によぎります。ゲイがゲイの、レズがレズの、クリップルドがクリップルドの生活実感を記述したものは、2段階目までの中身がせいぜいで、下手をすれば1段階目の表明に満足しているケースさえあります。私の言う「文学」とは、このフレーズの3段階目にある普遍的かつ荒涼とした孤独のことなのです。

 例えば、どんなアングラな場所でのささやきであっても「ペドフィル的な愛」が手ひどく糾弾されるのに対して、いまや「ゲイのファック」や「クリップルドの性欲」は大っぴらにしていいばかりか、あまつさえ大量の紙に印字されて全国の津々浦々へと配られてさえいる。この状況を目のあたりにして私が思いうかべるのは、冨樫義博のレベルEに描かれた「愛する者の肉を食べる欲求を隠して生きる宇宙人」の話です。結局のところ、社会や法律の枠内であるからこそ発信をゆるされている事象には、それらを気どったところでなんの叛逆も孤絶もふくまれません。もしFGOのつむぐ物語が文学たりえるとするならば、最も重要なファクターのひとつは語り手たるファンガスの「無属性”性”」なのかもしれません。SNS上で外形的な個人情報の列挙から始まり、果ては知りたくもない性自認までをもストリーキングのごとくひけらかし、ジャンルを問わず生活感情の延長たる私小説にしかならない書き手は、普遍的な人間の苦しみとは一生涯、なんの連絡も持てないでしょう。神話の匿名性を保つため、公の場から遠ざかり、容姿を隠し真名を伏せた、ゲイやレズやクリップルドであるかもしれないファンガスのテキストを、ゲイやレズやクリップルドであるかもしれない小鳥猊下が読むーーこの営為の鳥瞰にこそ、私は深い文学を感得します。現在の暗澹たる社会状況を眼前にしながら、ファンガスがなお筆を止めないことへの感謝を表すため、追加の大きめな課金で水着クロエたんを引かんと試みたのですが、結果は大爆死に終わりました(だれか、星4の引き方を教えてほしい)。やはり、本邦はロリコンには生きづらい社会なのですね……正しい性嗜好の在り方を拡張していくため、小鳥猊下はこれからも徹底的に戦っていきますよ!

雑文「DIABLO4, FLEABAG and SANCTUARY(近況報告2023.8.3)」

 パス付きのアルティメット版を購入してしまっていたので、なんだかんだ言いながらディアブロ4のシーズン1をポツポツとプレイしている。名声値の獲得とリリス像の解放は、じつに軽快な脳死プレイ(毎シーズン、この作業やらすの?)なので、配信作品の「ながら見」が否応に促進されてしまうのだった。

 キャラメイクからレベル40くらいまでは、アマプラでフリーバッグを流していました。インディ・ジョーンズ最新作において、稀代のアンチ・ヒロインをつとめたフィービー・ウォーラーの持ちこみ企画と聞いて、興味を引かれたからです。1話の冒頭から品性に欠ける下ネタが全開のフルスロットルで提示され、上品な貴人である小鳥猊下としては、視聴を続けるかどうか迷う気分にはさせられました。撮影もそれほどよくはなく、ストーリーもコメディなのかシリアスなのかチューニングをあわせづらく、2ちゃんねるのアスキーアートみたく、いちいち画面を見て話しかけてくる主人公に、思わず「こっち見んな!」とツッコまされてしまう始末にも関わらず、とにかく間持ちするフィービー・ウォーラーの表情から目が離せずいるうちに、最後まで見てしまいました(前から思っていましたが、もしかすると顔フェチなのかもしれません)。このフリーバッグというドラマは、最終話ラスト10分のためにビルドアップされたと言っても過言ではないでしょう。母は他界し、父は再婚ずみ、姉は優秀で、友人には死なれ、経営するカフェは破綻寸前、ひとつ残った我が身さえ、近い将来にはだれからも性的に求められなくなるのではないかと恐れるセックス・アディクションが、通りすがりにすぎない銀行の融資係へ思わず吐露する心の底からの慟哭には、その切実さへ胸をつかれて知らず涙がこぼれました。汚濁の果ての美、ウソの果ての真実、「人は過ちをおかすから、鉛筆には消しゴムがついている」ーーこれは、私にとって長く忘れられないメッセージとなることでしょう。

 「やれやれ、いいものを見たわい」とアマプラを終了しようとしたら、なんとシーズン2がある。レストランでの目をおおうような流産から始まって、そこからは主人公がひたすら神父とエロいことをしようと試み続けるという、これまたひどい内容の大蛇足であり、早々に見るのを止めようと思ったんですけど、主人公がアスキーアートの顔で視聴者へ話しかけてくる瞬間に、「君は心ここにあらずの瞬間がある、ほら、いまも」などと、神父が不穏なメタいツッコミを入れだしたのです。もしかすると、ドラマ的にたいへんな大どんでん返しがあるのかもと我慢して視聴を続けたのに、結局はそれに何の意味もなくてズッコケたんですけど、ウイスキー片手に酔っぱらいながら入った告解室での号泣懺悔シーンには、やはり心うたれてしまいました。舞台出身だからでしょうか、フィービー・ウォーラーはひとり芝居がメチャクチャうまいですねー。ぜんぶ通して視聴しろとは「よぉ言わん」感じですが、この2つの場面だけでも見てほしいと思いました。

 そして、レベル40からナイトメア突入ぐらいまでは、ネトフリでサンクチュアリを見ていました。いわゆる「悪童」が道を踏み外す寸前で、スポーツや格闘技に救われる類の物語なのですが、なんと本作の題材は大相撲となっています。「ブスゴリラ」たる主人公の煽り体質と憎まれッ子ぶりが徹底していて、話が進むにつれて好感度は下がる一方なのに、先ほどのフリーバッグ同様、どんどん感情移入させられるのは、SNSを通した匂いのしない清潔な虚飾から離れて、生きることの手触りを我々に思い出させてくれるからなのかもしれません。主人公がボコボコに負けたあと、強くなりたいと敬語で師匠に頭を下げる場面には、そういう展開になることをなかば想定しながらも、この瞬間まで積みあげた「悪たれぶり」があるからこその落差に、ひどく涙腺を刺激されてしまいました。サンクチュアリ、大相撲には毛ほどの興味もないウラナリに対してイッキ見を強いる破格の面白さなのですが、「イジメ」「可愛がり」「パワハラ」「八百長」「タニマチ」などを角界の暗部として、かなり戯画的かつ露悪的に描いているので、たとえエンタメのための誇張だと頭の片隅では理解できても、相撲協会などが積極的に本作を宣伝して若い世代への普及に利用できるような中身にはなっていません(テレビで干されているピエール瀧のキャスティングも、発表後の作品の取りあつかわれ方を考えて、かなり自覚的にやっている気がします)。

 ストーリー展開は、単発のイベントが次々と劇中に発生する感じで、それらが相互に強くは関連しないまま、現実の実相を追うかのように粛々と進行しますので、物語の結末をシーズン2への引きだとは受けとれませんでした(ここを幕引きとして、まったく過不足ない気がします)。しかしながら、仮に続編が企画されるとすれば、父母との葛藤を乗り越えた件のアイドル力士が、無敗の「木鶏」と化して主人公の綱取りに立ちはだかる展開になると予想しておきましょう。個人的なことを言うと、小鳥猊下の本質を一言で表せば「ガタイのいい文学少女」なわけで、チマチマとテキストを記述する腺病質のホワイトカラーではなく、もっとこういう体格差でブンなぐるブルーカラー方向へパラメータを振ったほうがはるかに楽な道行だったのではないかと、永遠も半ばを過ぎてしみじみと考えさせられてしまいました。例え話ですが、「相撲部屋のほうが適性のあっただろう人物に、高いカネをはらって大学へ通わせたあげく、就職先は”非”生産業の究極であるコンサル会社だった」みたいな話は、現代社会の引き起こす明確なひずみであるとは思いましたね。

 あと、ネトフリって「視聴上の注意」みたいな項目をご丁寧に表示してくるんですけど、そのせいで用意されたミステリ要素の謎解きが2話冒頭の段階でわかってしまい、たいへん興ざめでした。ピエール瀧が親方役をつとめて、キャバ嬢がヘロイン、じゃなかったヒロインのドラマをわざわざ見る層にとって、無用の配慮なんじゃないの?