猫を起こさないように
月: <span>2023年7月</span>
月: 2023年7月

映画「夢と狂気の王国」感想

 最近は思うところあって、ジブリに関するドキュメンタリーをいろいろと見返している。もののけ姫の大ヒット以降、スタジオへ頻繁にカメラが入るようになった結果、Qアンノがカズ・シマモトを評して言うところの「つくる作品よりも本人のほうが面白いのが問題」という問題、つまりジブリ映画そのものよりも「白髭のおんじ」の言動のほうが、ずっと魅力的で興味深く感じるという呪いを、私たちはかけられてしまっているのかもしれないーーそんな感慨にふけりつつ、買ったままずっと積んであった夢と狂気の王国のディスクを再生したのだった。全体的に、ジブリが大好きな若い女性ファンがトシオあたりにだまくらかされて、おずおずとカメラを回している腰の引けた感じが伝わってきて、この人物でなければ撮れなかった場面や引きだせなかった台詞というのは、いっさいありませんでした。本来まとうべき批評性は皆無であり、全身小説家あたりを教材にドキュメンタリーのなんたるかを勉強しなおすべきでしょう。元々がジャケット買い、タイトル買いだったことを思い出しましたが、パッケージのコラージュ写真は若い女性ファンではなくハヤオの手によるもので、タイトルにしても「風立ちぬ制作秘話」ぐらいが適切な内容なので、バイヤーに錯誤を起こさせるための誇大広告として、たぶんトシオあたりがあの手書き文字でネーミングしたのにちがいありません。

 なんとなれば、このタイトルで多くの視聴者が期待する、イサオとハヤオの濃厚なカラミやトサカの突きあわせがいっさい収められていないどころか、イサオがカメラの前へ姿を現すのは全体でほんの3分ほど、話すシーンはそれこそ1分もありません。イサオの冷徹にビビッてしまった若い女性ファンがハヤオ側のスタジオに引きこもって、カメラを向けるだけで勝手にしゃべりだすサービス精神旺盛な2人の老人を撮り続けているだけの中身になってしまっているのです。言語と演技の過剰なハヤオとトシオが作り出すスタジオジブリの虚飾部分を、スタッフや関係者からの証言で浮き彫りにするのがドキュメンタリー作品の本来というものでしょう。この点において若い女性ファンに協力してくれたのは、「人生は顔に出る」という言葉を想起させる、泣き顔がデフォルトの表情になってしまった作画スタッフのお姉さんだけでした。2人の狂人男性に翻弄され、画面の外から質問未満のかぼそい発語を繰り返すばかりの若い女性ファンを見るにみかねて、声をかけてくれたのかもしれません。彼女が泣き笑いでハヤオについて語るその内容だけが、本作の中で唯一ドキュメンタリーな瞬間として立ちあがっていました。この類の証言を求めて、イサオを含めた強面の男性スタッフへ図々しく切り込んでいかなければ、すでに無数の映像ドキュメントが存在するジブリを題材として、あらためて取りあげる意味はありません。

 もっとも老獪なトシオのことですから、「腰が引けて切り込めない」ことまでも見越して、この若い女性ファンに白羽の矢を立てた可能性は充分にあります。2人の巨匠の長編が同時進行する裏側に、たとえば原一男みたいなホンモノを放りこんで真の混沌を引き起こす勇気は、さすがになかったのでしょう。全体的に「『もののけ姫』はこうして生まれた。」や国営放送の過去の密着取材を見ていれば、わざわざ手にとる必要のない中身ーーニ十年以上にわたって変わらぬハヤオの日々には、揶揄ではなく、心からの敬意を表します。まさに「延々たる冴えない日常を送るのが労働」を実践しているのですーーですが、印象に残った場面をいくつかあげておきましょう。ハヤオはなんだかんだ言いながら、人間としてのヒデアキを心の底から無条件で愛していて、エヴァが壊れる遠因となったことは差し引いても、その関係性をうらやむ気持ちにはなりました。一方で、息子のゴローは本当に他罰的でどうしようもない恫喝型のパーソナリティであり、親の威光によって映画を撮らせてもらったことに対する今さらの恨み節を聞かされて、「おまえ、ル・グウィンの遺族を前にしても同じこと言えんの?」と思わず大きな声を出してしまいました。そして、トシオが後継者と目していたノブオがゴローの不機嫌に気おされ、甲高い声で早口になってキョドる様子を見て、「ああ、こらハヤオも最新作で塔を崩壊させるわ」と妙に得心する気分になりました。

 個人的なことを言えば、「何の才能も持たないハヤオやトシオ」みたいな人物たちーーいずれも定年をむかえるか、すでに現世から退場するかしたーーと仕事をする時期を経てきましたので、あの類の全共闘くずれなレフティたちが職場でかもしだす雰囲気というのをひさしぶりに思いだして、どこかなつかしい気持ちになったのは自分でも驚きでした。あと、ちょっと気づいちゃったんですけど、最近トシオとタイ人女性との適切とは言いにくい関係が週刊誌にスッパぬかれたことがあったじゃないですか。この若い女性ファンを監督として抜擢するときも、あの件と同じ心の動きーー老いて現世の権威となった自分から、若い女性へ何か無形の遺産を残したい気分ーーがトシオの中に生じていたと考えたら、失敗したドキュメンタリー作品である以上の意味あいをもって、本作を視聴できるような気がしてきました。それにしても、「年齢を重ねて気難しくなった老人には、若い女性をあてがうとうまくいく」という処方箋は、いつでもどこでも身もフタもなく有効すぎて、笑ってしまいますね。

映画「ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング」感想

 ミッション・インポッシブル:デッド・レコニング、これまた愛マックスで見る。前作からあいだにトップガン・マーヴェリックを挟んだせいで、「配信全盛の現代における、劇場映画の守り手」とか「自制心に満ちた一流の俳優で、最高の映画キチガイ」など、ちょっとトム・クルーズに対する評価と期待値を上げすぎた状態で見始めたのですが、映画が終わる頃には「ああ、MIシリーズって元々はB級C調のバカ映画だったし、トムも他の役が回ってこないスタローン級の大根役者だったわ」としばらくぶりに長い幻惑から覚めて、真顔になってしまいました。「コンプライアンスの概念がハリウッド全体に浸透し過ぎたため、ヤクザまがいの横車を押して編集権をにぎる往年の剛腕プロデューサーは姿を消し、映画制作がクリエイター主導となってしまった結果、近年の作品はどんどん大長編化して冗長になっている」との指摘をどこかで読みましたけれど、本作にはこの批判がそのままピッタリと当てはまります(最初に流れたデューン第2部の予告編の、まあダラダラと長かったこと!)。

  このシリーズ最新作、なんと脚本を準備せず撮影に入ったそうなのですが、「撮りたい絵が優先した支離滅裂なストーリー」「一貫性の無いキャラクターの感情と言動」「物語を駆動しない、”撮影したから使っただけ”の意味不明なカットの数々」などなど、「手に入った映像素材のパーツでジグソーパズルをしている」みたいな、迷走した仕上がりになっています。特に目立つのが「欽ちゃん走り」ならぬ長回しの「イーサン走り」で、その多くがシーンごと丸々とりのぞいてもストーリー進行には何の影響も与えないことでしょう。序盤で空港の屋根を延々と走る場面などは「60歳を越えて、長距離を全力疾走できるトム・クルーズの節制はえらいなあ」というメタい感情を観客に惹起することが目的でないとしたら、「がんばって走ったら飛行機を追い抜いて、現地へ先回りできた」みたいな意味不明の文脈を生じさせてしまっています。

 また、近年の界隈に顕著である「人種アファーマティブ枠」で選ばれたヒロインがまったく魅力に欠けており、この女優に「ルパンを手玉に取る峰不二子」という役割を与えようと試みたのが、映画内で起こったあらゆる事象を踏まえたとしても、最大のアクシデントでしょう。ただのモブだと思っていたスリの男顔女が、前作からのバディを押しのけてまでずっとスクリーンに居座り続けたのには、ビックリ仰天しました。いつまでも終わらないカーチェイスや、アクション映画のお約束となった暴走列車の屋根における肉弾戦など、直近に視聴したインディ・ジョーンズ由来の既視感はすさまじかったのですが、ハリソン・フォードがトム・クルーズよりはるかに動けていないことを勘案しても、フィービー・ウォーラーのヒロイン分だけ、あちらの方が上等な作品と言えるでしょう。予告編でさんざん撮影の舞台裏を含めて公開した、バイクで崖から飛びおりる例のシークエンスにしても、ストーリー上での使い方がヘッタクソーーイーサンの機転ではなく、失敗の帳尻あわせーーすぎて、「予告編で観客の脳内に繰り広げられた妄想が最高潮」という情けない有り様になっているのです。おまけに、飛びおりからパラシュートで列車に取りつくところまでを長回しでやるのかと思いきや、「まあ、それはさすがに危険すぎるでしょ」と2つにカットを割ったのも、かなり興ざめでした。

  映画終盤のアクションも、撮影技術的にはすごいのかもしれませんが、「アンチャーテッド2の冒頭を実写でやってるなあ」という感想が先に来て、少しもワクワクできませんでした(アクションシーンの新味という意味では、出がらしみたいな作品です)。「トム・クルーズ本人が墜落しても骨折ですみそうな、ほんの低い位置をパラセイリングする」という貧弱なスタントシーン(笑)から、2時間40分もの長尺を使っていながら尻切れトンボの方がまだ尻尾が長く残っているぐらいの感じでエンドロールとなるのですが、「撮りたい場面だけカメラを回していったら、ある程度の映像素材がたまったので、パートワンのラベルを貼ってとりあえずの幕引きとした」みたいな、観客をナメきった不誠実さを強く感じました(パートツーの構想は、現段階でほぼゼロなんじゃないでしょうか)。クランクインに先んじて脚本がキチンと用意されていて、剛腕プロデューサーが興行収入という自身の職責に照らして編集権を行使できる現場なら、「沈没したロシアの潜水艦へ深々度ダイブして、鍵を使って人工知能を停止する」までやった上で2時間に収めて、1作で完結できていただろう内容の薄さです。

 かように受け手をナメきった態度は、デッド・レコニングというカタカナ邦題にも表れていて、この単語の意味はもちろんのこと、航海用語であることすらわかっていない人がほとんどでしょう。それを「いいって、いいって、そのままで! トム・クルーズの名前が入ってるだけで、みんな見に来るんだからさ!」と広報宣伝の努力どころか、己の職責さえ完全に放棄したヤリサー陽キャ電通マン(幻覚)の態度には、しんとした深い怒りさえ覚えます。こうやって映画は緊張感の欠落した、人生とは何の連絡もない「パッケージ商品」へどんどんと成り下がっていくのでしょう。いま本邦で、もっとも客を劇場に呼べる作品を教えてさしあげましょうか? ジャンルやタイトル、だれが監督かさえどうだっていいのです、ズバリ、「ショーヘイ・オオタニ主演」ですよ! 芸術を解さない、この田吾作どもめが、みんな死んでしまえ!

書籍「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」感想

 プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン、電子書籍で購入して、イヤイヤななめ読みする。客観的な数字に基づいた外部監査と思いきや、主観的な言葉ばかりの関係者によるお手盛り調査で、完全に予想通りではあったものの、ガッカリする気持ちをおさえきれませんでした。旧劇での「私たち、正しいわよね?」「わかるもんか」に延々と紙幅を割いてやっている感じと言えば、伝わる人には伝わるかもしれません。一見すると誠実そうなこの仕草は、新劇の抱える根本的な瑕疵から関係者全員が暗黙のうちに視線をそらし、言及を不可能にしている社内状況を如実に表すものでもあります。「思ったよりちゃんとプロジェクトしてた」みたいに印象操作を受けてしまっているアカウントも見かけましたが、このレポートの持つ性質は共産主義国家における全国人民代表会議であり、全体主義国家における国民総選挙であるという事実は最低限、ふまえておかなければならないでしょう。大本営発表へのカウンターとして、もうただの義務感から繰り返しますが、エヴァ破の予告からエヴァQへの変質について、東日本大震災に言及した反省が無いかぎり、現れる様々の症状から悪性腫瘍の存在に薄々は気づいていながらも、切除ではなく薬物療法のみを選択し続けるのと同じ結果になります。このまま病巣を放置すれば、エヴァンゲリオンというIPはますます痩せ細っていき、ついには取りかえしのつかなくなる地点にまでたどりつくにちがいありません。

 ステークホルダーまみれで構成された本冊子の中に外部的な視点があるとすれば、それはジブリの鈴木翁が寄せた原稿だけだと指摘できるでしょう。他の人物たちのものは、忖度たっぷりの筆致へさらに当局が検閲とリライトを重ねており、まったくの無味無臭へとロボトミー的に脱色されているのです。アニメ界での権威を完成させたがゆえに、旧エヴァのときのスキゾ・パラノにおける「庵野の母ちゃん、パイオツでけえのかなあ」みたいなざっくばらんさで、カラーのスタッフが語るインタビューを読むことは、もう決してかなわないのだと知り、どこか寂しい気持ちになったのは確かです。唯一、検閲からまぬがれた鈴木翁の文章を読みながら、庵野秀明の能力は「昭和アニメと特撮の完璧な脳内データベース構築」に双璧を成す、「ジジたらし、ババたらし」の人間的な魅力だったんだなあと、あらためて気づかされました。これも自戒をこめて書きますが、「ジジババたらし」の才覚でうまうまと組織や業界の上に昇ってしまった人物は、そのジジババの引退や現世からの退場を迎えてはじめて、等身大の中身と能力を部下や若い世代から検証されることとなり、精神的に厳しい立ち番へ置かれることとなります。本冊子には、その有形無形のプレッシャーに対して防壁を立てたいという気分が、全編にわたって横溢しているように感じました。もし巻末に、匿名Aと匿名Mの対談がノンタイトルで収録されていて、

「宮さん、もうぶっちゃけて言いますけど、なんであのとき、ボクを福島に連れていったんですか。あれからエヴァがおかしくなって、昔からの友人ともケンカ別れになっちゃった。予定してた会社の事業計画はもうグチャグチャで、クリエイターとしての円熟期を十年以上もエヴァで食いつぶすハメになるし、もうマジでシッチャカメッチャカな状況っすよ……」
「正直、一見チャランポランで、オレにもズバズバとモノを言うオマエが、じつは先生の言うことを真面目に受けとめる優等生タイプで、何の気なしの放言をあそこまで作家人生の宿題にしてしまうとは、思ってもみなかったんだよ。すまなかったな、ヒデアキ。だが、人生に無駄なことなどひとつもない。大事なのは、ここから君たちカラーという会社がどう生きるかということなんだな」
「なんかいい話ふうにまとめようとしてますけど、Qとシンはやっぱり余計な苦労だったと思うっす……」
「ハハハ、終わったことをクヨクヨするな! さあ、しみったれた顔してないで、飲め飲め! 若者は元気がいちばん!」
「宮さん、ボクもう還暦っすよ……」

 などのやりとりが赤裸々に交わされるのを見ることができれば、私はきっとシン・エヴァンゲリオンという大いなる駄作をゆるす気になれたでしょう。終わります。

映画「君たちはどう生きるか」感想

 君たちはどう生きるか、愛マックスで見る。残念ながら、平日の昼間からアニメ映画を見に行く異常者ーーシンエヴァを月曜朝イチの回で見たオマエが言うな!ーーの集団によってタイムラインが形成されているため、おぼろげながら視聴前から全体像がつかめてしまっていました。グッツグツに煮詰まったファンの脳髄から垂れ流れる「少年はハヤオで、鳥はトシオ」「塔はジブリで、内郭はイサオで、外殻はハヤオ」「つみ木は過去作で、老賢者はハヤオで、インコ将軍はゴロー」「老ハヤオが若ハヤオに権威を禅譲しようとして論理エラーを起こす、インナートリップの旅」などのメッタメタな解釈にあらかじめ汚染されていたものだから、スタジオジブリのことも宮崎駿のことも知らない10歳の子どもの視点で、作品内の要素でのみ完結する物語として視聴しようと、たいへん意気ごんで劇場へと向かったのです。速度、重量、質感をアニメーションで表現する卓抜した技術に支えられ、実際のところ90分くらいまでは「非常に良質なジュブナイル作品」とさえ言える仕上がりになっていて、ゴローが台無しにした「影との戦い」について、舞台と登場人物を変奏しながら語りなおしているような印象さえありました。個人的には、インターネットの存在しなかった少年時代にどうやって過ごしていたかの記憶を掘りおこされ、いまは亡き父方の祖母がテレビを見ている小学生の私の隣にやってきて、横顔をしばらくじっとみつめてから吐息のように「きれいな子じゃ」とつぶやいた場面を、しばらくぶりに思いだしました(これは私にとって、自己肯定感の絶えない源泉であり、とても重要なできごとです)。

 もっとも生命力にあふれているはずの青年期において、父母に背を向けて遠ざかりながら死に近い場所へ自らの意志で最接近し、そこを危うくフライバイによって逃れて生へと離脱する軌道が、子ども時代に別れを告げるイニシエーションの儀式となるーー長く読みつがれる児童文学のいずれにも通底する要素だと言えるでしょう。本作もこれをなぞって、母と死のメタファーを強く前面に押しだしながらストーリーが進んでいくのですが、物語の終盤においてそのジュブナイルとしての骨格を急速に喪失していってしまうのです。いつのまにか、死のメタファーは青年期の退けるべき「死の予感」ではなく、老年期の受容すべき「死の予兆」にすりかわり、母のメタファーは記憶を媒介とした曖昧なイメージではなく、少女に受肉した抱きしめることのできる実在へと変容してゆきます。物語だけではなく絵的にも、最後の30分だけ急激にクオリティが下がって、「宮崎駿監督作品」としてのグリップを外れていく感じがあり、庵野秀明が「絵コンテだけは完成させてください。あとは僕が引き継ぎますから」と御大に言った話とか、関係者のみの試写会へ本人は姿を現さず手紙の読み上げだけがあった話とか、制作終盤において体調面での落ちこみが生じたのではないかと疑ってしまうレベルです。全体の4分の3までは、作品外の要素をしめだしてジュブナイルとして読解できていたので、ラスト4分の1がスタジオの現状とクリエイター個人の情報を抜きにするとまったくの意味不明になってしまうのは、非常にもったいないと感じました。さらに終盤、うまく気配を消していた「アニメーション見本市」の要素が色濃く立ちあがりはじめ、それは技術の継承を目途としたというより、もしかすると他の作品に結実したかもしれない動きやイメージを、己の残り時間から逆算して悔いを残さないよう、すべて放出したような性質のものになっています。本作が宮崎駿版のゲド戦記「影との戦い」として、自伝ではなく児童文学の範疇で終わることができていれば、スタジオに残された負の遺産であるル・グウィンへの遺恨も、一方的ながら清算することができたのにと残念な気持ちでいっぱいになりました。

 あと、スタッフロールで流れるヨネヅ某の曲が絶望的に浮いていて、作品に何かを足すどころか接続することさえできていません。オイ、宮崎御大はラジオでパプリカを聞いて、てめえにオファーすることを決めたそうじゃねえか! だったら求められてんのは「子どもの本質を突いたスローテンポで憂鬱な童謡」であることは、作品の中身から考えても明白じゃねえかよ! それなのに、いつもの耳に残らねえスカした曲調でボソボソ陰気に歌ってんじゃねえよ! 歌詞テロップも出ねえから、なに言ってんのかサッパリわかんねーんだよ!  ファイナルファンタジー16のエンディングと区別のつかねえ曲を聞かせやがって、否応に記憶が混線して読後感が汚されたじゃねーか! シン・ウルトラマンといい、なんでもかんでも節操なくでしゃばってくるんじゃねえ! あいみょんの作詞作曲で、アホっぽくハキハキ「お母さん、大好き!」とか歌われたほうが百倍マシだったわ! それと、作品タイトルは伏線的な回収も乏しかったーー登場人物のだれかが、「君たちはどう生きるか」と発話するのをずっと待ちかまえていたのに!ーーので、海外版につけられた「少年とアオサギ」のほうがずっといいなと思いました。

雑文「GENSHIN EVENT and EVANGLION EFFECT(近況報告2023.7.14)」

 原神の夏イベントをクリア。不機嫌な大人たちを苦手とする子どもの心情や、その子どものために大人たちが怒鳴りあいではない、正しいコミュニケーションを取りもどす様子など、我々が日常で忘れがちな、ハッとするような気づきと学びを、原神はいつも与えてくれます。倫理や道徳にも似た「大人として正しいふるまい」への嫌味ではない教化は、文字通り世界中の若者がプレイする作品として、かなり意識的に行われている気がします。ファイナルファンタジー16を通じて、最新のJRPGが奇しくも体現してしまっている本邦の現状を突きつけられ、かなり絶望的な気分になっていたところだったので、この夏イベントは干天の慈雨のように心へしみました。タイムラインに流れてきた「みんなアニメが好きなのではなく、キャラクターが好きなのだ」という指摘を借りてJRPGとの比較をするなら、「みんな良い物語が好きなのではなく、カッコいい台詞が好きなのだ」「みんな双方向の対話が好きなのではなく、一方的な宣言が好きなのだ」とでもなるでしょうか。

 最近、ヤングケアラーなる言葉を頻繁に耳にするようになりましたが、LGBTのときにも感じたことながら、無限段階のグラデーションが存在する場所へ、ガチッと枷をはめて違いを有限化しようとする仕掛けは、いったい「だれが、何の」意図を持って行っているのか、さっぱりわかりません。以前、不仲だった父親にかけられた言葉によって、ある官僚が「ゆとり教育」を猛烈に推進した話をお伝えしましたが、ひとりの家庭の病裡がシステムとして再演されるのを、我々はまた見せられようとしているのでしょうか。この単語によって、「おまえは家族に虐待されていたのだ」と公から宣言され、不必要な「目覚め」を得てしまう個体ーー私は自戒をこめてこれを「エヴァンゲリオン効果」と呼んでいますーーを作りだし、本来的には無用の苦しみと混乱を生じさせる効果の方が大きいような気がしてなりません。

 別の視点から鳥瞰すれば、「西洋文明に対する無批判の追随が、彼我の心性の差異を越えはじめ、きしみをあげている」とも指摘できるでしょう。仏国では、自国に存在しなかった概念を表す外国語に対して、新たに造語を作成せねばならない法律が存在すると聞いたことがありますが、周回遅れながら骨身のレベルでその重要性がわかってきたように思います。近年の洋画(古い表現)につけられる邦題が原題のカタカナ読みばかりになっているーーファントム・メナスとウェイ・オブ・ウォーターが最悪の二巨頭ーーことにも表れているように、我々の文化と心性に許容しやすい「自国語による翻案」がいつのまにか廃れ、西洋由来のドぎつい概念が直に日常へ挿入されるようになってしまったことが、様々な問題を引き起こしているように思うのです。

 きっと陰謀論のようにひびくでしょうが、LGBTに続くヤングケアラーなる単語は、「田舎の次男坊以下によって形成される核家族」ーー詳しくは「七夕の国・友の会」に寄稿した文章を参照のことーーをさらに小さな単位へと細分化して、旧来の家族なる枠組みを解体しようとする試みにも思えてなりません。こんなふうに感じるのも、おそらく原神をプレイしてしまったからで、そこに描かれる家族像や人間像のほうが、ずっと正しくまっとうなもののように映ります。この概念の震源地はテレビであり、かつてすべての情報の中心にあったそれは、いよいよ「貧者のメディア」へとステージを移した感があります。いずこからも独立した最先端のようにふるまうSNSでさえ、遠巻きに「貧者のメディア」から受信した内容を取りあつかっていて、その議論の多くは核家族の構成員やそこから派生した者たちが、「己の生きる百年」の上下を批判しあっているにすぎません。そんな貧しい者たちの目が届く場所においては、けっして言語化されないがゆえに、本当の豊かさーー金銭だけの意味ではないーーは、彼らの人生の埒外で原神的な価値観の下に、粛々と受け継がれていっているのだろうと想像するのです。

 最後に、原神の夏イベントへと話を戻して終わることにしましょう。今回の物語のエンディングで、洞天の主がみずからの住む小さな世界を「ここが私の夢の終着点」と表現するのですが、「大きな夢に耐えるための小さな夢をかなえて、いずれ離れるべき魂のゆりかご」という考え方は、テキストサイト時代に抱いていたインターネットへのイメージと完全に一致しています。あれから長い時間を経たいま、ここは私にとって「夢の終着点」となったのかもしれないーーそう、思いました。

映画「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」感想

「オカンがな、さいきん映画みたんやけど、タイトルが思いだされへんゆうねん」
「ほうほう、ほんなら、どんな内容かボクにゆうてみ」
「オカンがゆうにはな、主人公が車から落ちる話やったらしいねん」
「そんなもん、さいきん公開された映画で主人公が車から落ちる話ゆうたら、怪物に決まりやないか! 男と女でつくるフツウの家族の話を母親から聞いてたら、おホモだちのヨリくんからケイタイに着信があって、主人公は衝動的に助手席からとびおりてまうのよ。そら、怪物で決まりや、まちがいない!」
「でもな、オカンがゆうにはな、主人公はずっと車から落ちそうやねんけど、最後は落ちへんゆうねん」
「だったら、怪物とちゃうかー」
「オカンがゆうにはな、その車ゆうのがトゥクトゥクやったらしいねん」
「そら、インディ・ジョーンズと運命のダイヤルやないか! インディは三輪タクシーの運転中、ナチの残党とかにおそわれて、首ねっこつかまれたりなぐられたり撃たれたりするけど、壁とか障害物にぶつかる寸前で腹筋したりエビ反りしたり回転したりして、ぜーんぶかわして運転席にもどってくるのよ。インディが乗り物から落ちることだけは、ぜったいにないのよ。こらもう、インディ・ジョーンズで決まりや、まちがいない!」
「でもな、オカンがゆうにはな、主人公はゲイやってゆうねん」
「ほな、インディ・ジョーンズちゃうやないか! インディはゴリゴリのヘテロで奥さんも息子もいるのよ。インディがゲイなんてことは、シリーズ作品のどれを見てもありえないのよ」
「オトンがゆうにはな、スーパーマリオブラザーズちゃうかゆうねん」
「うそこくな、ファック野郎。だが、ワンチャンあるかもだ。もうええわ、ありがとうございました」

 インディ・ジョーンズ「と」運命のダイヤル、愛マックスで見る。事前情報をいっさい入れずにいたら、冒頭でディズニーとルーカスフィルムのロゴが現れ、イヤな予感は一気に最高潮へとたかまりました。結論から言いますと、本作にはスターウォーズ・シークエルの反省が充分に生かされており、最後のジェダイのようなひどい有様とはなりませんでした。まず、1969年を舞台とするストーリーを語るのに、2023年の倫理観を持ちこまなかったのは、最良の判断だったと賞賛すべきでしょう。公衆の面前で酒を飲みまくり、屋内でタバコをふかしまくり、顔面をグーで音高く殴打し、黒人女を躊躇なく射殺し、悪党のナチスは皆殺しにし、同性愛者はひとりも登場しないーーもう清々しいばかりの割り切りぶりです。場面転換の際の編集やアクションパートの尺など、ヘタクソだったりバランスの悪かったりする面は多々ありますが、全体としてスピルバーグが撮影・編集したと言われても不自然には感じないレベルでの、模倣と擬態が行われています。

 さらに特筆すべきは、ディズニーがSNSを通じた市場調査を徹底的に行なった結晶である、足元さえおぼつかない80歳のハリソン・フォードに代わって物語を駆動する役割を与えられた、フィービー・ウォーラー扮する「おもしれー女」a.k.a.エレナ・ショーの存在です。詐称、捏造、淫蕩、詐欺、虚言、飲酒、暴力、喫煙、友人を亡くして意気消沈のインディを前にゲラゲラと悪魔のように哄笑しながら自らの手柄をまくしたてる天然のサイコパス、生まれながらのdamn thief、「この人物であわよくば続編を」の色気さえ廃した最高のアンチ・ヒロインであり、ここまでマイナスに突き抜けさせないと、SNS優位の時代においては好感度なるものが上昇に転じないのは、心胆を寒からしめる事態であると言えましょう。ストーリーの最後に奇想天外の大オチを持ってくるのは当シリーズの伝統ですが、前作では宇宙人とUFOの実在をビジュアルで提示してしまい、旧3部作のファンに総スカンを食ったのは記憶に新しいーーえ、もう15年前なの? マジで?ーーところですが、本作における大オチもそれに負けず劣らず荒唐無稽なのに、インディ・ジョーンズというキャラクターの造詣から逆算した中身であり、思わず彼の心情につりこまれて涙ぐんでしまうような、感動的なものとなっています。そして、インディと古くからの観客とのシンクロニシティによるその感動を、「おもしれー女」が暴力的に蹂躙していくところまでがセットになってて、「ディズニー、ふっきれてんなあ」と、逆に感心させられました。

 個人的には、冒頭の列車と序盤のカーチェイスをもっと短くした上で、例の場所から帰還するシークエンスを追加して、上映時間を2時間前後に収めれば完璧な続編になったと思いますが、世界的なブロックバスター(古い表現)には星の数ほど批判が向けられるのが宿命なのだと言えましょう。初代インディ・ジョーンズの登場が決定的なものとした「考古学アドベンチャー」というジャンルに対して、その偉大な先達の後継者となるべく、古くはハムナプトラやナショナルトレジャー、最近では実写版アンチャーテッドなど、様々な追随の試みがなされてきました。しかし、グーグル社のカメラが全地表から全海底までを覆いつくし、ダイバーシティの御旗の下に打倒すべき悪は地上から消滅し、「どこを冒険して、何と戦うのか」を設定するのが極めて困難な現代において、そのいずれもがいまや頓挫を余儀なくされています。本作において、半世紀も前のずっとシンプルな世界でインディ・ジョーンズが活躍するのを、最新の映像であるにも関わらず、郷愁にも似た気持ちでなつかしく眺めながら、どこか一抹のさみしさを禁じえませんでした。

 最後に、いま行われている戦争の終結から10年ほどの冷却期間を経たのち、新たに戦うべき「絶対悪」を得た次世代のインディ・ジョーンズが再び銀幕(古い表現)へと登場するだろうことを予言しておきます。それまでは、ネットフリックスなどによるマスターキートンの実写ドラマ化で、我々の「考古学アドベンチャー」への渇きが満たされることを、半ば本気で期待しております。

映画「フレンチ・ディスパッチ」感想

 長く積んであったフレンチ・ディスパッチをようやく見る。この監督の作品は「よくわからんなー」とか言いながらぜんぶ見てるので、もしかするとすごく好きなのかもしれません。もはや追随というより模倣をゆるさぬウェス・アンダーソン節ーーパクッた瞬間にそれとわかってしまう唯一無二の作家性ーーは健在で、特徴的な色彩設定と長回しの構図、そして独特のカメラワークは指摘するまでもなく、本作では2つの画面サイズ、モノクロとフルカラーを自在に行き来する演出が冴えに冴えています。特に画面サイズの演出は、前作グランド・ブダペスト・ホテルでは、過去と現在を分ける表現として明確なルールがあったように思うのですが、本作においては「オレがカッコいいと思ったほうを使う」ぐらいの感じで、4:3の余白部分をサブモニターとして使ったり、もうやりたい放題です。

 絵作りに関しては、私ぐらいが評価できる範疇を超えていますので、物語の構成について触れていきますと、本作は「映画未満のアイデアからなる3つの短編」より成り立っています(自転車乗りの話は、舞台紹介の第0話なので数に含めません)。「バラバラのままで提供するわけにはいかないから、信頼のボブ・マーレイでマルッと包んじまうか!」みたいな発想で、雑誌社の設定が後づけされたのかもしれません。第1話が120点、第2話が80点、第3話が60点といった感じでクオリティにバラつきがあり、おまけに話の内容が相互に関連しないものだから、「牛肉とラム肉と魚をパイ生地(マーレイ)で包んで焼いてみた」みたいな、とっちらかった読み味になっています。私は「30年間、一行も書かない記者」が、一見バラバラに見える3つの話を一貫した視点でまとめあげる解決編を期待していたものですから、「ノー・クライング」にからめた良い話ふうのラストシーンはなんだかとってつけたようで、少しガッカリしました。ベニチオ・デル・トロ扮する囚人の画家を追った第1話がメチャクチャよかったので、これに作品全体へ向けた期待値をハネ上げられてしまった側面はあると思います。

 女子高生ならぬ「ベニチオの無駄づかい」で有名なのは最後のジェダイですが、ライアン・ジョンソンよ、大トロでマーボーを作る者よ、次世代のハン・ソロ、新たなボバ・フェットとなりえたキャラクターを、あそこまで無残な印象を残さない造形にした己の非才について、ウェス・アンダーソンの奇才を前に膝を折り、あらためて懺悔するがいい! そして金輪際、スターウォーズには関わらぬことだ! 脱線した話を元に戻しますと、本作の提供するユーモアというかエスプリは、「仏語を第二言語とする英語ネイティブ」にしか理解できないものが多く含まれている気がしました。膨大な設定が高速で提示される導入部分を含めて、訓練を怠ってサビついた耳には6割ほどしか聞き取れなかったので、いつかまた英語キャプション付きで再視聴したいと思います。あと、ティモシー・シャラメが「筋肉をごめんなさい」とか言いながら、あいかわらずナヨッとしてエロい上半身をさらすのには、笑いました。