猫を起こさないように
月: <span>2023年5月</span>
月: 2023年5月

雑文「宵宮賛歌(近況報告2023.5.28)」

 原神、伝説任務「星拾いの旅」を読む。「宵宮、スメールへ行く」という筋立てを聞いただけで、本作が持つ「異邦人による諸国漫遊記」の魅力から、間違いなく面白くなるのがわかるでしょう。義理と人情で泣かせにかかる物語は、特に小鳥猊下のようなすれっからしの冷笑家を相手にする場合、かなりの難しい注文になるものです。最近では、だれかを馬鹿や悪役にするストーリーテリングへ向けた拒絶反応が強く出ていて、一瞬でもその気配を感じとると、脳の「物語受容器官」が完全に閉じるーーゆえに、ほとんどの転生モノは読めないーーようになっています。また、シンエヴァ以降は登場人物への人格洗脳について非常に敏感になっており、「そのキャラがするはずのない言動」ーーすなわち、作者のマリオネット現象ーーを目にした瞬間、件の器官が強制終了してしまうのです。今回の伝説任務も、どこかでこの脱線が起こるのではないかと半ばおびえながら読み始めたのですが、設定・キャラ・ストーリーが一度たりとも軌道を外すことなく整然と進行し、生じた感情のさざ波はいっさいくじかれることなくテンションを高めてゆき、最後には逆まく巨大な情動のうず潮となって、気がつけば画面の文字が読めないほどの大泣きをさせられていました。

 否応な苦しみを前に子どものままでいることを許されず、確かに存在したはずの感覚が失われていくのに為すすべを持たないーー「子どものときにしか見えない生き物」を狂言回しとして、「やがて失われる子どもという属性」へ優しく寄り添いながら、「流星雨を見ること」と「自分の足で走ること」という二人の目的を一点に重ねあわせてゆく構成の見事さは、ここまでの原神世界におけるもっとも高い到達点のひとつだと指摘して、決して過言にはならないでしょう。「我々は、ひとりの子どもを見捨てない」ーーこれは、かつてnWoに書かれたうちでもっとも美しい言葉のひとつだと自負しているものですが、今回の道行きはかような真情に満ちあふれています。「全力で走るとき、耳元で風がビュウと鳴るのが好き」という台詞に古い記憶を刺激され、自分が「坂の多い町で育った、走るのが大好きな子ども」だったことを数十年ぶりに思いだしました(なぜ、そのことをずっと忘れていたのでしょうか)。

 「星拾いの旅」という掌編は、宵宮なる個性を抜きにしては成立しない筋書きになっており、これも特筆すべき美点だと言えるでしょう。この人物は、SNSに多く棲息する家族憎悪の「大卒白襟」が冷笑する「中卒職人」であり、耳が遠くなって少しボケ始めた父親を明るく介護しながら暮らしている。彼女はまっとうな両親と近隣の大人たちに育てられた、まごうことなき「地域社会の子ども」であり、肥大した頭ではなく等身大の心と手を使って日々を生きている。さらに言えば、正しく成長した人間は自然に善意と利他を身にまとうのだという希望の体現でもあるでしょう。彼女のような存在と負の共依存ではない関係を築くことを夢想しながらも、悪意と利己の塊である「間違った人間」が「正しい人間」を近くでわずらわせるべきではないとも思わされます。打算ばかりで呼吸するようには人助けへと身を投げだせないこと、そして、ひねこびた性格を時代と社会のせいにし続けてきたことを、大の大人に深く恥いらせる純粋の清廉さが、宵宮からはまばゆいばかりに発散しているのです。ネット経由で定着した「毒親」なる激烈な単語は、ピンポイントで一部の人間を救済する力を持ちながら、その辺縁あるいは外周にいるだれかにとって、旧エヴァにおけるアダルトチルドレンと同様、偽りの自己定義と化してしまうのではないかと懸念し続けていましたが、原神のつむぐ物語は、特に思春期のオタクたちにとって、その誘惑に対抗するための有効な処方箋となるのかもしれないーー若いファンたちの感想に触れ、そんなふうに感じました。

 今回の伝説任務を通じて、「萌えコション」でありながら重篤な「性能厨」でもある私は、いずれにも合致する雷電将軍や神里家のご令嬢を愛用するかたわらで、すでに宵宮を所持していたにも関わらず、単純に性能だけの理由からレベル1桟敷へと追いやっていることを深く反省しました(ちなみに、白朮先生のレベルマとスキルマは達成済みです)。そして、伝説任務1章のときは「土のにおい」なんて言い方ではぐらかしていましたが、ようやく本当の気持ちに気づきました。宵宮のことが大好きです、今度はウソじゃないです。

ゲーム「ティアーズ・オブ・ザ・キングダム」感想

 休日の朝、アルコールの抜けた状態を選んでティアーズ・オブ・ザ・キングダムを開始する。なんとなれば、ネットが他人の言葉でうめつくされる前に、自分の印象を獲得しておきたかったからである。そして、陽気な西洋人たちからゴキゲンな歓声が流れてくる中で、陰気な東洋人による不機嫌な感想を残しておくことに、あながち意味がないとも思われないのである。シアタールームの擬似4Kプロジェクターでプレイし始めるも、グラフィックがジャギジャギすぎて早々に中断することとなった。それから、4K大画面テレビ、PC用の4Kモニターと試して、最終的にはHD画質の小型モニターでようやく低精細を許容できるレベルに落ち着いた。あらためてオープンワールド(エア?)のゼルダを遊んでみると、原神が真似できたのはルックスのデフォルメ感だけであることがわかった。本質的に、ひとつながりの広大な世界の「物理法則」を楽しむゲームであり、なるほどホヨバが謙遜していたように、この点のフォロワーであるとは言いがたいだろう。

 低スペックでグラフィックを高精細にすれば、世界を複数のエリアへと分割するロード時間が生じてしまい、遊びの自由さとトレードオフになることを避けるジャッジは、さすがゲーム制作を熟知したプロの仕事だと感心しないこともない。しかし同時に、ハードの世代交代ごとに抜本的な仕様変更で新たな遊びを提案するクリエイティブの狭間に、仕様を据え置いて性能だけを向上させるグラデーション的なステップを導入してもいいのではないかとも思う(PS5の性能を有したSwitchみたいなものを想定している)。すなわち、本邦のウサギ小屋の四畳半だけでなく、世界の金満家の再生環境にもそろそろ配慮がほしいとの哀願だが、これをしないのは「子どもという属性」に向けたまなざしが、企業理念としていまだに脈うっている証拠でもあるだろう。前社長がスカイウォードソードの開発者インタビューで「ゼルダに5年の開発時間は長すぎる」とやんわり釘をさしていたように、「子ども時代に遭遇するからこそ、強烈な原体験になる」という単純な事実を、少子高齢化時代に住まう多くの大人はどこか忘れているか、その実感を失ってしまっている。

 前社長の問いかけは、例えば小5でゼルダに衝撃を受けただれかが、高1になって発売されたその続編をはたして手に取るのかという問いかけだ。両者はもう、まったくの別人なのである(ドラクエ1〜3は、たった3年のスパンで全作がリリースさたことを思い出してほしい)。もちろん、かつてとは比べものにならないほどゲームの規模が拡大していることも事実であろう。しかし、大陸のメーカーは人海戦術ーーしかも、一人ひとりが優秀ーーで制作期間の圧縮を実現しており、「忘却の生き物」である人間を相手にするとき、いかに時間の取り扱いがリソースとして重要かを熟知する姿勢は、近年の本邦に欠けているものである。これは「老人と若者のタイムスケール」の話でもあるのだが、それを語るのは別の機会にゆずろう。

 「人生いち少年」とでも表現すべき、生涯にわたって趣味嗜好が変遷しない現代のオタクたちにとっては、「大人の少年が子どもの少年と、30年前にリリースされたゲームの続編を同じ目線で楽しむ」ような状況が当たり前になっている。潔癖な言い方をすれば、これは「大人が子どもの原体験を蹂躙している」とも指摘できるだろう。本来、子どもは子どものためだけに作られたものを与えられるべきなのに、現代においては経済的なマス層にめがけて投げたボールが「将来の顧客」である子どもへは付随的に届けばいいという態度が大手をふってまかり通っており、とても気がかりだ。かつてのニンテンドーは、この「時の移ろいとともに、失われゆく子ども」という属性に関して非常に意識的ーー前社長の発言にもそれは色濃く現れているーーだったと思うし、「子どもに向けて作られているのに、大人も楽しむことができる」という作り方は、最近でこそだいぶ薄れてきたものの、初代スーパーマリオ以来ずっと同社の圧倒的な美点であり続けている。

 だいぶそれた話をそろそろティアキンへ戻すと、ニンテンドーにしてはチュートリアルが不親切だなとか、最初の空島からして動線不在で難易度が高すぎるなとか、反射神経への依存度が強い戦闘システムはやっぱり嫌いだなとか、ブツクサ言いながら8時間ブッ通しでプレイして、気がつけば風の神殿まで来ていました。この過程において、重篤な高所恐怖症である自分が、前作で高所からのパラセールをかなりの苦手としていたことも思い出しました(原神にそれを感じたことはないので、画質の問題なのかもしれません)。世界最少のアナグラムであるリト(トリ)村を抜け、ヘブラ山の遺跡を上へ上へと進みながら、気づけば手にはじっとりと汗がにじみ、股間のブレワイとティアキンーーそれが言いたいだけちゃうんかい!ーーは恐怖に縮みあがっていました。ほうほうの体で目的地へたどり着いたと思ったら、ボス戦で詰まってしまい、とりあえずハートとスタミナを増やそうと各地のホコラめぐりを行っていると、なんだかロケーションの多くに既視感がある。

 気になって調べてみたら、これ、前作マップのリユースーー解説:「使い回し」「中古」を避けるための小賢しいパラフレーズ。用例:「彼女はリユース女性です。」ーーじゃないですか! 前社長なら「ゼルダを使い回しで6年は長すぎます」と苦言を呈しているところですよ! つまり本作は、「裏ゼルダ」とか「スーパーマリオブラザーズ2」とか「ムジュラの仮面」に相当する作品だったわけで、そらアンタ、チュートリアル不在の高難度になるわけやわ! ともあれ、これで心置きなく本作をブレワイごとタイムカプセルに入れて、十数年後の自分へ送ることができます(表ゼルダをクリアしていないのに裏ゼルダへ挑戦する本末転倒を、ディスクシステム世代の方々にはよくご理解いただけることと思います)。その頃にはきっと、8Kや16Kの解像度にアップチューンされたリメイク版が発売されており、本シリーズへ向けた唯一の不満点も解消されていることでしょう。ティアキン、私は2合目くらいで引き返すこととなりましたが、みなさんは引き続き良い旅を!

小説「三体(第3部)」感想

 小説「三体(第1部)」感想
 小説「三体(第2部)」感想

 三体第3部をようやく読了。いま調べたら、第2部を読み終わったのが昨年の8月なので、ずいぶんと間が空いてしまいました。この原因は「七夕の国・友の会」という同人誌へ寄稿の依頼を受けたことです。最近は「テキストで、読んだ相手をうちのめす(五七五)」という初期動機がだいぶ薄れてきて、「将来の自分のために、時系列で感情の軌跡を残す」方向へと軸足が移りつつあります。その同人誌の原稿の中に、三体の第3部を読んでいる途中であることを書いてしまったので、「他者への公開は感情の時系列」というハウスルールを守るために「このテキストが発表されるまでは読了できない」という、ハタから見ればまったく理解できないであろう謎の制約が生じたからです。同人誌そのものは今年の1月に世へ出たのですが、それまでに三体第3部を読んでいる途中だということを、すっかり忘れてしまっていたのでした(みなさん、これがアルコールへ充分に脳味噌をソークさせた場合の、中年期以降の記憶力です)。

 第2部感想の最後に「ストーリーはきれいに終わってるし、この先は何を書いても蛇足じゃないの?」みたいな疑問を呈していましたが、大陸の文化から長く断絶されていたゆえのナメた発言だったことが、第3部で明らかとなりました。ご存知のように、昨年8月から今年1月までに起こった私的大事件は、原神インパクトとの出会いです。このC(CHINA)RPGを通じて、限られた人間関係の社畜な日々に加えて、偏ったタイムラインと国営放送のニュースに影響され、知らぬうちに構築されていた偏見未満の思い込みのようなものがすべてふっとび、長らくぶりに大陸文化への畏敬が復活したのでした。それはまさに「蒙を啓く」という表現がピッタリの精神的なパラダイムシフトで、「どうせ剽窃ベースの低いクオリティだろう」という傲慢な侮りが抜けた状態で三体第3部の残りを読めたことは、怪我の功名ならぬ同人誌の功名だったと言えるでしょう。

 このC(CHINA)SFを通して読んだいま、私はこの第3部がいちばん好きだと断言できます。物語規模で言えば、誇張抜きで人類史上最大のものとなっていて、本邦で類似のものを挙げるなら、小説だと「神狩り」や「百億の昼と千億の夜」、映像だと「トップをねらえ!(6話)」「劇場版グレンラガン螺巌篇」と同等か、それ以上のスケールなのです。「荒唐無稽なハードSF」、あるいは「ハードSFなのに荒唐無稽」とでも表現しましょうか、この狭い列島に住まう神経症のサイファイ作家からは逆立ちしても出てこない類の作品で、「科学考証や物理学の正確さ、さらに自身で張った伏線さえ、ドラマツルギーという熱量の前には膝を折る」展開が次々と繰り広げられ、水滸伝や封神演義のハードSF版とでも形容すべき豪快な中身に仕上がっています。いつも通りネタバレ上等でしゃべっちゃいますが、ビッグバンからビッグクランチに至るまでの時間軸で展開する物語は、この地球上に存在するどんな人間のどんな苦悩をも相対化の果てに無化できるスケールで、「日々の重責に圧し潰されそうな人物」ーー例えば、世界最強の軍隊を有する民主主義国家のビッグ統領とかねーーほど楽しく読めるというか、気が楽になる効果は確実にあると思いました。

 第1部にヤン・ウェンリーが歴史上の偉人として出てきたのにのけぞった話をしましたが、「いま持てる知識を総動員して、元ネタが割れるのを気にする節操は捨てて、己の生きたすべてを作品にブチこむ」書き手のようで、「あ、これは『100,000年後の安全』を見た衝撃を作品に入れたかったんだな」とか、ストーリーの端々からナマっぽい気配が立ち上がるのも、まるで作家本人と対話しているようで面白かったです。個人的に気にかかったのは、これだけの時間スケールを伴った作品であるにも関わらず、「生病老死の否定」が寸毫も含まれないところでしょう。これは原神のストーリーにも強く感じる点で、「不老不死を肯んじない」というのは大陸文化における何か哲学的教養なのでしょうか(有識者からの解説を求めたいところです)。正直に言えば、特に下巻へ突入してからはあまりに日常から離れた情景を描写するため、頭の中に映像を浮かべるのが難しい個所がいくつもありましたので、ネットフリックスでのドラマ化には大いに期待しております。

 ただ、どこで物語のピリオドを打つのか最後の数ページまで予想がつかずにドキドキしながら読み進めたのですが、結末部分だけかなりの肩すかしと言いましょうか、小説的技巧に走った終わり方になっているのは少し残念に思いました。まあ、「十次元での新生」なんてのを文章で表現できる気はしませんので、この積み残しはドラマ版で解決されると信じております。あと、智子まわりの描写の仕方は作者の趣味や性癖が出すぎてる気はしましたねー。まっさきに連想したのは、ぴっちりツナギを着たお姉ちゃんが大排気量のバイクにまたがってハイウェイを神めがけて疾走する「神狩り2」のエンディングで、中老年期の男性作家が積み上げてきた知識や経験、そして名声までをも若々しい女体の前にかなぐり捨てる「悲しきオスの習性」は、ちょっと直視に困る感じがあります。ともあれ、スーパーストリングス理論の台頭に伴う物理学50年の停滞が生み出した集大成的フィクションであるところの三体第3部、超おススメです!

映画「ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー」感想

 ゼルダ最新作の発売を目前にひかえ、タイムラインがグツグツと沸騰しつつあるのを、ひどく憂鬱な気分でながめている。なんとなればブレワイはシリーズ中、唯一クリアに至らなかった作品だからだ。「人類史上最高のゲーム」みたいなタガの外れた激賞を目にするたび、なんだか自分がゲーム不具なのではないかと、劣等感でいっぱいにさせられてしまう。短くはないゲーム人生をゼルダとともに振りかえれば、ゲームウォッチのドンキーコングJrでうぶ湯をつかい、デビルワールドで華麗なファミコンデビューを果たし、初代ゼルダの伝説でディスクシステム書き換えバージニティを失い、リンクの冒険で東西の位置関係ーーナボールノズットヒガシニカミガスムーーをはじめて把握し、神々のトライフォースにそれほどの思い入れはなく、時のオカリナを「最高のゼルダ」としていまだに崇拝の対象としている。その後、ハードの変遷に伴って発売されたフラッグシップ級の作品ーー携帯機版はほぼ手つかずーーはすべてクリアしているし、悪名高いスカイウォードソードも棒振り操作しかない当時に、両腕が上がらなくなりながらエンディングまでたどりついた。そんな比較的コア寄りのファンであるにもかかわらず、ブレス・オブ・ザ・ワイルドはゾーラの里で最初のボスを倒したあたりで中断してしまっているのだった。

 その理由を分析してみると、ニンテンドーの作るゲームはゼルダに限らず、ゲームのみに没頭することを強く求めてくることが大きいように思う。いまゲームに触ることができるのは一日の終わり、文字通りの「ア・フュー・アワーズ」だけしかなく、ニュース番組と配信アニメを並行して見ながら、艦これとスマホゲーのデイリー消化を同時に行えることが、コンシューマー・ゲーム(古い?)に求める条件である。さらに、ほぼ確実にアルコールを入れながらのプレイになるため、高すぎるアクション要素がないことも重要になってくる。この不自然的な淘汰の結果、これらの条件にピッタリと当てはまるゲームだけが日常へ残っていくことになるのだった。ブレワイのパチモンと批判されがちな原神も、しっかり育成さえしていれば、見た目の派手さのわりに求められる反射神経はきわめて少ないため、とてもとても具合がよろしい。最近リリースされた崩壊スターレイルはさらにすばらしく、アクション要素が絶無なため、倍速オート戦闘の合間に積んでいる漫画まで並行して読めてしまう。すなわちこれ、ニュース・アマプラ・ネトフリ・艦これ・スマホデイリー・原神・崩スタ・コミック同時消費おじさん系美少女の爆誕である(たいがいにせえよ)。若者のするタイム・コスト・パフォーマンス仕草をまったく笑えない状態であり、ティアーズ・オブ・ザ・キングダムも引退後まで取っておく作品になるだろうことは、すでに火を見るよりも明らかなのだった。

 日本三大しげるーー内訳は割愛するーーの一人が提供するクリエイティブへ向けた背信行為に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、彼とニンテンドーへの敬意と恭順を示すため、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーを見に行ってきました(ここまでが前置き)。あまりの申し訳なさから、映画本体にアイマックスと3Dメガネまでトッピングした金額を上納する始末です。感想を述べる人物のステータスをさらに紹介しておくと、ドンキーコングに始まったマリオ遍歴は実質サンシャインで終わっており、ギャラクシーと2とオデッセイはさわりだけプレイして、放置したままになっています。きっと「USJのアトラクションみたいな作品」なんだろうなと、かなり冷めた期待値の低い状態で見始めたのですが、けっこうな序盤から涙が止まらなくなり、90分間ほぼずっと泣きっぱなしでした。本作を「6歳児向けで評価不能」と述べた映画評論家の炎上もむべなるかな、文脈依存度の非常に高い作品であるのは間違いなく、私にはその人物と真逆の意味で正しい評価を下す資格がありません。人生の40年をともに生きてきたマリオとルイージは、カズ・シマモトーーヒデアキ・アンノとは言わないーーにとっての仮面ライダーへ相当するキャラクターだと、いまさらに気づかされたのですから!

 「マリオがマリオになる」という意味でザ・ファースト・スーパーマリオブラザーズとでも命名すべき内容で、全篇を通してアトラクションどころか「かなり映画なのに、すごくマリオ」になっていて、画面に映しだされるすべての要素がかつてのゲームプレイと紐づいてスーパー・ハイコンテクストに「わかる」なんて体験、今後の人生で二度と起こる気はしません(ネコマリオだけは、知らなかった)。「うわー、マリオが配管工の前は解体工をやってたの、ひさしぶりに思いだしたなー。レッキングクルーでゴールデンハンマーを持ってるときの音楽が、ファミコン時代にマリオが登場する作品の中でいちばん好きだったなー。あれ、でもスパイク? ブラッキーじゃなかったっけ?」……ことほどさように、すべての場面で半ば走馬灯のごとく過去の記憶がよみがえり、それはほとんど臨死体験を先取りしていて、個人的に「イキかけ」るような作品だったことをお伝えしておきます。くしくも炎上した映画評論家が態度で示してしまったように、かつてゲームというものは大人になる前に卒業しておくべき、「一頭地劣った、程度の低い文化」とみなされていた長い長い期間があったわけです。ずっと虐げられてきたゲームを、母親にACアダプターを隠されても隠されてもーー針金2本を直にコンセントへつっこんで死にかけたことさえあるーーやめなかったピコピコ少年たちを、彼らの過ごしてきた人生ごと抱きしめて称揚してくれるような、そんな映画でした。

 あと、ピーチ姫の造形がCGなのに「生き生きとイビツ」なところにすごくフェティッシュを感じて、途中から目が離せなくなりました。左右非対称な表情の作り方の感じとか、まるで……と思っていたら、エンドロールで中の人はアニャ・テイラー・ジョイだったことが判明しました(私の審美眼も、まだまだ捨てたものじゃないようです)。ともあれ、日本三大しげるの一人にあらためて感謝の意を表しつつ、ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービーにもし点数をつけるとしたら……病めるときも健やかなるときも40年間ゲームを続けてきた人物にとっては、三百七十八京三千二十三兆六千八百六十九億点ですね(わかりにくいネタ)!

 ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー追記。皆様の感想を追いかけていると、昨今の映画の常として薬にもしたくないポリティカル・コレクトネスの話が、ポコポコ出てくるわけです。あのね、日本三大しげるの一人であるミスターMの、その世界的な名声を取り除いた内実は、まごうことなき「昭和の関西に住んでる近所のオッチャン」なので、作品の面白さへ優先させるようなポリコレ的意識だけは、ぜったいに持ってないと思いますよ! しかしながら、ただ一ヶ所だけ、この視点による疑う余地のない改変があり、それはレッキングクルーに登場した現在で言うところのワリオに相当するキャラが、ブラッキーからスパイクへと改名させられてしまったことです。この名前の英語表記はBlackyであり、ジャングル黒べえとか、ちびくろサンボとか、ダッコちゃん人形とか、那智黒飴(ナチで、クロ!)のCMが、もはや公共の電波へ乗せることができないのと同じジャッジが、残念なことに裏でなされたのでしょう。でもボクは、これからもキミのことを以前の名前で呼び続けるよ! サイコクラッシャーの使い手がバイソンではなくベガであるように、ボクにとってのキミはずっとブラッキーだったんだから!

質問:三百七十八京〜の元ネタ以外は「わかるわかる」と頷きながら読みました。 ブラッキーの名前改変をネタに、鈴木みそ先生に一本描いてもらいたいです。 (あの漫画も初代PSのFF7を「まるで映画だぜ?!」と言っているのを見るともう25年以上前?!となります)
回答:三百七十八京の元ネタは、「トーキョーゲーム」です。麻雀漫画版アキラと形容してまったく過言ではないSF作品で、キャラ・構図・台詞のカッコよさはいま読み返しても、現在のフィクション群に対して何ら劣るところはありません。いまだにだれかが「星の数ほど」と言うたび、「肉眼で見える星の数はたかだか六千個に過ぎぬ。文学的感傷に酔うのはやめたまえ」というフレーズが脳内へ自動的に復唱されるほど、深刻な影響を受けています。鈴木みそ(ファミ通!)、なつかしいですね! 個人的には桜玉吉が「しあわせのかたち」を「そねみ」に変じたあたりが雑誌として最もトガッていたように感じています(いまは……)。

ゲーム「FGOリリムハーロット」感想

 崩壊スターレイルの合間に、FGOの最新イベントを読む。アーケード版は未プレイであり、物語の背景はよくわかりませんが、すべてファンガスの筆なのでたいへん気持ちよく読めました。しばらく翻訳ダラダラ長文ばかり読んでいたので、日本語ネイティブの達人による各単語の定義がカチッと決まった畳みかける短文は、まるでぼやけていた視界のピントをしぼられるようで、少し背筋の伸びる感じがあります。しかしながら、PSP版エクストラ?の世界観について、かけた労力と思い入れに比して満足な反応を得られていないと感じているのでしょうか、FGOを含めて何度も何度も再話されるのには、いささか食傷ぎみなことも事実です。特にこのネロ・クラウディウスというキャラクターは、ファンガスにとっての惣流・アスカ・ラングレーに相当しており、作り手の思い入れが観客のそれを凌駕してしまっている点でも共通しています。また、第1部終章における人類悪の概念は文学方向にもっと普遍的な解釈を許すものでしたが、その候補者たちがすべて出そろったいま、結果としてFate世界におけるキャラクターの話になってしまったのは、非常に残念なところです(「人類悪は人類愛」なるスットコドッコイの定義も、Fate世界の神であるファンガスによって明言されてしまった)。

 崩スタは第2章の公開されているところまでストーリーを進めましたが、「不老不死を終わらせるため、非人間的な概念に近い神を殺すことを目途として、宇宙を彷徨う船団」という設定と展開には、ひさしぶりに背筋がゾクゾクしました。もしかすると、「神が人の知恵と言語で定義できる内面を持つべきではない」というのは、かつてラブクラフトやムアコックを愛好したがゆえの、抜きがたい「刷り込み」となっているような気がします。ドラコーの内面を記述するテキストの見事さに嘆息しながらも、書かれている内容へ共鳴する部分が少なかったのは、個人的に「泣いている子ども」の話はもういいかなと思いはじめているからでしょう。その一方で、毎夜アルコールを入れつつ推しの子のミュージック・ビデオを見てはらはらと落涙しており、もしかするとこれは「愛されること」から「愛すること」へとうの昔に視点が移動していた事実に、ようやく気づかされたゆえなのかもしれません(ちなみに、第2話以降のサスペンスには、やはり関心が持てませんでした)。

 あとさー、今回のイベントに「きれいはきたない、きたないはきれい」ってフレーズが出てくるんだけど……貴様ッ、見ているなッ(星マークの刺青)! もちろん、シェイクスピアからの引用だってことは百も承知だけど、そう考えたってしょうがないじゃん! 昔っから小鳥猊下って無名なのをいいことに、エロゲ作家とか、ラノベ作家とか、純文学作家とかから、無断で引用されまくってるんだもん! 最近、AI絵師が商業絵師にオリジナルであることを否定されて暴れてる様子がタイムラインに流れてきたけど、なんだか気持ちはわかるって思っちゃったなー。クリエイター職の人って、非クリエイター職の人に対して、ときどきビックリするほど冷淡なことありません? それも、他の職種からは決して感じないレベルの、かつての地域差別に近いようなトーンなのです。あの感情って、いったいどこから来てるんでしょうね?

 それと、原神の新しい伝説任務を読みましたけれど、これってほとんど「Kの一族」の話じゃないですか? 来たる鍾離先生ピックアップのためにコツコツ貯めていた石をぜんぶ使って、白朮先生を引くハメになったことを最後にお伝えしておきます。原神って、「永遠の否定」をテーマとして強く押しだしているので、この人がラスボスでもおかしくない感じ、出てきちゃったなー。

 FGOの新イベントに関する感想をつぶやいたら、半日もしないうちに2名ほどの匿名オタク(or本人)が現れて、「特にキミのファンでもないんだが、ふだんあまりゲームもしないんだが、ファンガスが書いたというのは事実誤認なんだが? リリムハーロットはスチールアロー刃の手によるものなんだが?」と中指で眼鏡を押しあげながら、一方的に宣言して去ってゆかれました。わざわざご指摘いただき、誠にありがとうございます。余計なお世話なんだよ、テメーら! テキスト嚥下障害のあるウチのオジキがちゃんと飲みくだせて症状も緩和されてんだから、だれが書いたものだろうと何の問題もねーじゃねーか! それをプラセボだのジェネリックだの、いちいち小うるせーんだよ! 気になって調べてみたらよ、スチールアロー刃が所属していた良く効く心臓病の薬みたいな名前の会社は、オレがインターネット便所壁へと上梓した「慟哭ゲー」の内容を剽窃するエロゲーを、贄の刻印の如く明白なエア・マルシーを無視して、強引に発売へと踏み切ったところじゃねーか! 「ヒロインを選択する際の一回性」や「USBイコール小型HDが販売メディア」というクリティカルな部分のアイデアをシレッとパクりやがって! まどマギのライターからニチャッと横目で社内回覧されたんだろうが、オマージュならオマージュでぜんぜんかまわねえから、元ネタにはキチンと言及して敬意をもって紹介しろよ! なんでリアルにくらべてネットでのオレの扱いは、いつもいつもこんなにぞんざいなんだYoYoYoYoYoYoYoYo, Yo Men! コイツらもじっさいに会ったら、どうせ「昔から読んでました」とか「あまりに恐れ多くて」とか言うんだろうけど、そんな身銭を切らないオツイショーはもうビタイチいらねーんだよ! 初対面での親しみやすさと距離感が最接近状態で、その後はどんどん出ッ歯ムーンウォークで遠ざかっていく系のオタクを救えるのは、現世のオーソリティであるキサマらだけなんだよ! 遠巻きに後頭部へ片手を当てて会釈してないで、ただただオレのテキストに現世の利益を誘導してくれよ! この度は、ご指摘ありがとうございました。真摯に受け止めて、次へ生かしたいと思います。

雑文「GENSHINとSTARRAIL(近況報告2023.5.3)」

 崩壊スターレイル、第1章クリア。シリアスのテキストは原神に軍配が上がりますが、ギャグ・小ネタ・設定のテキストはこちらの方が好みです。そうそう、また冒頭から盛大にレイルを外れますが、原神の最新イベントはまさにそのシナリオが持つ魅力を臨界にまで凝縮した内容でしたね! 崩スタの終始ツッコミ不在の感じに比べて、パイモンの狂言回しとしての優秀さもあらためて理解できました。「性格は運命になる」ーーボーイズ・ラブにおわせの目的で唐突に投げこまれたように思えた「CLAMP型金髪美青年」がここまで大化けに化けるとは本当に、想像だにしていなかったです。これだけ多くのキャラを動かしながら、NPCを含めてだれひとりとして下げずに語りきるのは、原神の特筆すべき美点と言えるでしょう。余韻としての後日談は「かゆいところ」をあらかじめマッピングして、ひとつも余さず順にかゆみを消していったばかりか、「失われた手紙」という将来への伏線までキッチリと用意されているのは、もう脱帽という他ありません。本邦における近年の創作界隈で特に顕著な、「特定のキャラをアホか悪役にして、主人公が作者の化身となってそれを一方的に断罪してスカッとする」作品群が、いかに精神的な未成熟から発したものであるかを、原神の成熟は教えてくれます。

 さて、強引に崩スタのギャグ・小ネタ・設定の方へとレイルを戻しますが、特にゴミ箱とか公衆電話とか、街の設置物を調べることによって次第に明らかとなる主人公の狂気じみた内面(ピエロ方向)は、本作のユニークな見どころだと言えるでしょう。皆さんの感想を読みたくて、ツイート検索しようとしたらサジェストに「微妙」というワードが出現し、「おッ、キッズ諸君、元気にやっとるねえ!」と愉快な気持ちになりました。確かにこのゲーム、プレイ入口の手触りはJRPGの窮屈さを完璧に擬態しながら、それ以外すべての要素が湯水の如く金銭を投じたハイパーさという異常な作り方になっているので、本質を見抜くにはある程度まで長く触ることが必要でしょう。繰り返しになりますが、この世界観を原神のマップとアクションで再現「できる」のに、あえてそれを「しない」選択が意識的になされているのが、おそろしいのです。例えるなら、歩行の不自由なヒョロガリ(JRPG)がよろめいて転倒するのを、筋肉質の大男が指さしてゲラゲラ笑っていると思った次の瞬間、そのマッチョは真顔になって五体投地から額を地面に擦りつけ、ウラナリ(JRPG)を伏し拝み始めるみたいな異様さが、全編にわたって横溢している。また、模擬宇宙を始めとするテキストにかつてのゲームブックを想起させるものが多くあり、「ファミコン世代の生き残りが、人生におけるアナログとデジタル双方のゲーム体験をふりかえりながら、JRPGの衰退を歴史的な文脈で鳥瞰する」ときに、本作の面白さは最大化される気がします(私だけ?)。

 あと、課金をためらわせないためにプレイヤーへ与える納得として、なにが最も重要だと思います? ワクワクするストーリー? 魅力的なキャラクター? 高精彩なグラフィック? 戦略性にあふれたバトル? いやいや、正解は「自分の興味が無くなるまでは、サービスの継続が約束されていること」です。崩スタは、少なくとも6年先までの運営とアップデートが明言されており、加えて原神の世界的な成功がその実現性を担保しているのです。本邦のスマホゲーの多くが大陸と半島に負け続けている理由がまさにこれで、調子のいいときはエコノミック・アニマル的な下品さが全面に出てくる一方で、いったん負けがこんでくると敗北の受忍を「引き際の潔さ」に読みかえた破滅を、逍遥と受け入れる傾向が我々の根っこに横たわっている。それは、彼らの「生き汚なさ」と真逆の位置にあるモーメントで、単なる資金繰りや経営の話がいつのまにか哲学や美意識の話へとすりかわってしまう(そして、負ける)。

 さて、最後に再び大脱線した話を元のレイルへと戻して終わります。原神のアクションをタッチパネルでプレイすることは、親指5本の中年にとって文字通りの「無理ゲー」でしたが、崩スタはコマンド制なので切迫的なアクション要素がなく、外出先でのスマホプレイに向いている点がすばらしいです。それとよく見ると、「崩壊スターレイル」のタイトルロゴのデザインが、まんまファイナルファンタジーなのは笑いました。あのな、キミたちのレスペクト、ちょっと重ためのメンヘラ片想いみたいになっとるで? 悪いけど、ウチ(以下、語尾あがり)らにはもう、そんなふうに想ってもらう資格なんかないねん……だって、ウチらは、ウチらは……ヤリーロ・セックス(韜晦帝翁真君)!

映画「ラストナイト・イン・ソーホー」感想

 ラストナイト・イン・ソーホーを見る。ここに至る経緯を説明しておくと、マッドマックス・怒りのデスロードの舞台裏を関係者インタビューのみで再現していく本ーーメチャクチャ面白いーーを読んでいて、前日譚のフュリオサをアニャ・テイラー・ジョイが演じることをいまさらに知ったからです。アダム・ドライバーと同じ中毒性に満ちたあの顔面を無性に見たくなって、やみくもに検索したら本作へたどりついたというわけです。彼女が出演している以外の情報をいっさい持たないまま視聴したのですが、見終わった直後の第一声は「アニャはん、出る作品と演じる役はちゃんと選ばなあきまへんで! ボンクラのエージェントは何をしとったんや!」でした。彼女の出演でこの映画の格が上がっていることは間違いないですが、彼女のキャリアにとって何らかのプラスがある感じはまったくしません。

 最近、新進気鋭の若手監督たちに特に顕著なように思いますが、ジャンル誤認を誘発させてカタルシスでございと提示する作品、多くないですか? ミステリーと思わせてホラーとか、ループものと思わせてバトルものとか、ホラーと思わせてエヴァンゲリオンとか。古い物語読みとして言わせてもらえば、例えばミステリーなら「起承転結の起の段階で犯人を含めたすべての人物が登場し、転の終わりまでにすべてのヒントと伏線が提示され、結の部分でフェアな種明かしがされる」というフォーマットが暗黙の了解としてあるわけです。本作も95%の時間を統合失調症患者の見ている世界をビジュアル化したホラーと思わせておいて、最後の5%で感応霊媒少女によるミステリーだったと判明するのは、視聴者に対して到底フェアな語り方だとは言えないでしょう。転に当たるアニャたん扮する商売女の結末を早い段階で見せておきながら、幻覚に発狂する主人公の同じような場面を延々と繰り返すことに、ジャンルを誤認させる以外で何の意図があったのかはよくわかりませんでした。

 あと、老人という存在はそこに至る長大な人生が外野には不可視であるからこそ、尊敬とまではいかずとも決して侮ってはいけないとの思いを新たにしました。最近、タイムラインに流れてきた「自分の持ち物を勝手に捨てる祖母を婚約者に断捨離してもらう」スカッとナントカみたいな漫画を読んでしまったのですが、なんで本邦のフィクションってこんなのばっかりなんでしょうねえ。「オマエが言うな」って総ツッコミくらってるのは百も承知ながら、原神や崩スタのつむぐ「家族の物語」をしみじみ読んでいると、本邦の創作界隈の方がおかしいんじゃないかと感じるようになってきました。「毒親からの脱出」ばかりがメインテーマとして多くからの共感を集める一種異様な状況は、最近ポコポコ訃報の流れてくる全共闘世代の行った家族、地域、学校、社会に対する「教育」全般が間違っていたせいなのではないかと強く疑っております。

 それと、この何も開示しない不誠実な映画の中でただひとつ序盤から確信できたのは、「黒人の同級生だけは決して最後まで裏切らないだろう」ということです。その理由が劇中ではなく盤外にあるのって、つくづくポリティカル・コレクトネスならぬ「クリティカル・アンコレクトネス」だなーと思いました。