猫を起こさないように
月: <span>2023年4月</span>
月: 2023年4月

ゲーム「崩壊スターレイル」感想

 崩壊スターレイル、シアタールームで現世を遮断して、どっぷりと10時間ほどプレイした感想を書きます。冒頭から脱線ーーレイルだけにな、ってやかましいわーーさせていただきますと、日本ファルコムの株主総会に毎年参加する謎の中国人が、原神の制作会社社員だったという話をどこかで読みました。PCエンジン版の初代英雄伝説(アグニージャ!)をくるったように周回ーーハイ・レスポンスの快作だったので、周回数だけなら月風魔伝を越えるかもしれないーーし、その後リリースされた風の伝説ザナドゥの1と2は私の中でかなり神格化されている作品です。そこからしばらくは疎遠となり、ひさしぶりに軌跡シリーズの零と碧をプレイして、老いた会社が老いたファンより細々と集金するための装置である「終わらない物語」のにおいを嗅ぎとり、離れてしまったユーザーでもあります。最近、ゲーマーとしての「老い」を実感したのは、原神のアンケートで生年月日を選択する項目に「1980年以前」の表記を見たときです。いまや昭和は我々にとっての明治くらいなんだなと、とても愉快な気分になったのを覚えています。本邦のロールプレイングゲーム、いわゆるJRPGの現在位置を赤裸々に示す作品としては、ソウルハッカーズ2が挙げられるでしょう。あらかじめプレイしておくと、本作と比してのフリーフォール級の落差を実感できると思います。

 長い前置きでしたが、崩スタ(天理スタミナラーメンの略称みてえ)は戦闘とマップをのぞくと、システム部分はほぼ原神のそれを踏襲しています(課金や育成まわりのギミックも同じ)。しかしながら、もっとも注目すべき点は戦闘とマップの仕様であり、まずもってこの令和の御代に、いまをときめくゲーム会社が、わざわざ古臭いターン制コマンドバトルを持ってきたのは、純粋な驚きだと言えるでしょう。ぜひ、ソウルハッカーズ2で最も作りこまれているリンゴたんの動きと比較してほしいのですが、「前進してなぐって、元の位置にバックジャンプ」をあざわらうかのように、本作では個体毎に違うモーションを与えられたキャラたちが、超絶的なカメラワークでギュンギュンと動きまくります。リリース直後にもかかわらず、すでに20体以上はいるプレイアブルキャラのどれもが、ハッカーズ主役チーム4体のうち、最も作りこまれているはずのリンゴたんをはるかに凌駕する仕上がりなのです(当然、戦闘だけでなく移動用のモデルも用意されている)。

 次にマップですが、細かくエリア毎に区切られているばかりか、エリアの終端を表すラインがご丁寧に空中へ明示されており、エリア間の移動にはロード時間が伴います。さらにジャンプの機能は実装されておらず、わずかの段差も徒歩で乗り越えることはできません。まるでどこぞのJRPGのようですけど、いいですか、原神のマップを作れる技術力の会社がね、これをシームレスで自由に上下へ動き回れるようにできないはずがないんですよ! リワードのひとつに「オープンじゃないワールド」って揶揄があるんですけど、本邦の技術力の無さから逆算された窮屈な仕様を面白がりながらも、コイツら「敬意をもって」わざと模倣してやがるんです! これを例えるなら、両手両足を縄でしばったフルチンのスイマーが全日本選手権に現れ、まったくふざけた泳法で全種目の日本記録を塗りかえていくようなもんですよ! しかも、それぞれで10秒以上を短縮しながら! 馬鹿にされてるならまだ戦いようもありますが、停滞したJRPGの「破れたズボンの膝に色のちがうパッチを当てる」がごとき貧乏くささを「尊敬」して、自らをダウングレードしてまで目線を下げて、わざわざ我々のレベルにまで「降りて」きてくれているんです! 原神のときは「まさか、負けるのか! このオレ様が!」とひどくうろたえる感じがありましたが、崩スタでは余裕に満ちた強者の手加減を目の当たりにして「ああ、俺たち、負けるんだなあ……」という脱力感にも似たあきらめを覚えます。

 半ば虚脱状態のまま続けますが、ゲーム導入部の印象としては、スレイヤーズ!の作者が書いていたSF作品(名前は忘れた)をなぜか思い出しました。そして、中国哲学を宇宙の成り立ちに敷衍した「神々と世界の謎」は、膨大なテキスト量で深い考察を許してくれます。さらに、星神たちの設定にはクトゥルフ神話やゴッドハンドの狂気を連想するものがあり、「1惑星1物語」の展開はデュマレスト・サーガを彷彿とさせます。これが軌跡シリーズなら、惑星ごとに作品が分割販売され、後から来た者たちが見たらとっちらかった順序に、追いかける気をなくすことでしょう。「いや、20作品あるけど、ホニャララ編だけでも面白いから!」と熱弁されても、いまさらメンドくさい古参からウザがらみされるためのニワカになる気は起きません。

 ワンパッケージでどの時期から参入しても混乱なくストーリーを追うことができ、潤沢な課金で制作費をまかないながらどんどん世界を拡張していくクリエイティブの永久機関とも呼ぶべきこの仕組みを、なぜ本邦において日本ファルコムあたりが構築できなかったのか、心の底から残念でなりません。もしかすると、最初期の哲学なき拙劣な課金ゲームーー「ボクたち、任天堂の倒し方を知ってますよ」ーーへの嫌悪感のせいで、それを自分たちの「芸術品」と合体させるという発想から遠ざけられてしまったことが原因なのでしょうか。そんな「あいのこ(ラブ・チャイルドの意)」には、家名を継がせられないと考えたのかもしれません。結局、我々はどの業界においても、たとえ滅びてゆくとしてさえ、我々の本性を形づくる「潔癖さ」と心中する他に道はないのでしょう。

 あと、古くからの読者は知っていると思いますが、小鳥猊下の誕生日は3月7日って設定なんですよねー。崩スタの「三月なのか」ってキャラ、え、あれれ、もしかしてそうなの? いやー、まいっちゃうなー、本邦の気難しい中年オタク層にテキストで原神をエヴァンゲルしたのは確かだけど、その功績がホヨバに認められたのかなー、こいつはとんだハニートラップだなー。正直、ガチャで引いたキャラのほうがぜんぜん強いんだけど、よーし、オジサン、なのチャンをご指名して最後まで育てちゃおうかナ! あッ、崩壊スターレイルの致命的な欠陥を唐突に思い出しました! それはこのキャラの一人称が「ウチ」なのに、語尾さがりで発音するところです! このジャリ、けっこうな頻度でウチウチ連発しよんねんけど、ぜえんぶ語尾さがりになっとうから、関西人のワイはごっつうイラつくねん! こんだけで、パーティから外したろか思うわ! 「ウチ」の発音は語尾あがりがフツウやろがい! 「ウチは日本いち不幸な少女や」やろがい! この件に関してはな、全セリフの再録を求めて徹底的にホヨバと戦っていくで!

 雑文「GENSHINとSTARRAIL(近況報告2023.5.3)」

漫画「フラジャイル(24巻まで)」感想

 フラジャイル、焦らずじっくり2日間で最新24巻までを読了。最初は無料公開でチマチマ読んでいたのですが、あまりに面白かったので電子書籍にて全巻購入してしまいました。K2を読んでいると年がいもなく「うわー、医者になりてー!」と興奮させられるのに、フラジャイルを読んでいると「うわぁ……医者にだけはなりたくねぇ……」とヒイてしまう対比の感じは、とても面白かったです。原作者が主導権を持つ序盤を過ぎて、10巻あたりから女性の作画担当がストーリーテリングのグリップを握り出すーー私の方が、原作の先生よりキャラを知ってるんだから!ーーと、漫画全体に艶めきと疾走感が生まれ始めるのは、良い原作つき連載(蒼天航路!)の証で、とてもすばらしいと思いました。当たり前に人が死ぬストーリー前半の酷薄な世界観に対して、中盤以降は作画担当が充填する愛の量で物語の見え方が変質する感じさえあります。もっと正しく言えば、確かに変わらず人は死んでいるのですが、感情を廃してそれをドライに映す「原作者のカメラ」が消失したとでも表現できるでしょうか。例えば、血液ガンにかかった16歳の少女は、原作担当のつもりでは間違いなく亡くなっていると思いますが、作画担当はピリオドの落としどころをそこへは定めなかった(余談ながら、弁護士編は確実にベタコの影響だと思います)。

 作品テーマとしては、「医療」に「フラジャイル」とルビを打ったり、「自分の生きている間に、階段を1歩あがる」など、23巻の時点で完膚なきまでの見事さ(変な表現)で終わっているので、いまはこの先をどうするか、もっと言えばどう物語を閉じるかに大きな関心があります。本作がずっと宮崎先生の成長物語であり続けたのに対して、森井君が序盤での挫折以降は女性視点による便利なオールマイティとして扱われ続けているのも気にかかります。これは統計ではなく感覚の話で、シェヘラザードではないですけど、「男性は物語を終わらせるように語り、女性は物語をいつまでも続くように語る」と思うんですよね。24巻に突入したのは語り残しを語るため以上の、女性的な力学が働いている気がしてなりません。フラジャイル、どこか王様の仕立て屋を連想させるところがあって、よりわかりやすく「美味しんぼ問題」と言い換えてもいいんですけど、長期連載は「物語を終わらせるために主人公チームを解体する」か「同じメンバーで題材だけを変えて語り続ける」かの2択になっていきます。後者の場合、作者のモチベーションか寿命の終わりが物語のそれと否応にリンクしてしまう点で、私はあまり好きではありません。「同じ人間が、物語という巡礼の果て、まったく違う場所に立つ」というのが良いフィクションの条件だと信じるからです。

 この物語が23巻で終わら(れ)なかった後は、男性の原作者と女性の作画担当、どちらの意志が綱引きで勝つかによって、「物語の終わり方」を変えることでしょう。作画担当が勝てば、詳しくは言いませんが、本作はいよいよ3月のライオンのようになっていくと思います。もし、男性の原理が勝つならば、フラジャイルの結末はこうです。ある日、岸先生が原因不明の体調不良で倒れる。その病理診断を宮崎先生が行うも、未知の病気で手遅れになってしまう。その大きな喪失を乗り越えて、森井君の時間は再び医師の道を志すことによって動きだし、宮崎先生は岸先生を死に至らしめた病理の解明によって「階段を1歩のぼる」ーー何らかの形で、一個の死がすべての終わりではない「人類総体としての継承」であることを描き、終わりたがっている物語にほどこす「延命のための延命」が回避されるのを、切に願っております。

 最後に自分語りですべてを台無しにしておきますが、岸先生の革靴を映しながら「階段を1歩のぼる」台詞のコマに大号泣する裏で、己の日々の奮闘は「少なくとも自分がいる間は、この組織に『階段を1歩おりさせない』」ぐらいの内容に過ぎず、フィクションの登場人物との間に横たわる長大な覚悟の溝に、少し呆然とした気分にさせられました。あと、「JS1」にせよ「遺伝子病の目視確認」にせよ、ノンフィクション寄りのフィクションに感じるフラストレーションは、「修行によって必殺技が完成し、憎き仇敵をボコボコにくらす」シーンが決して見られないことですねー。

雑文「K2とFRAGILE(近況報告2023.4.25)」

 自由律俳句風の近況報告(ギュッ!)でお伝えしていた通り、K2を仕事の行き帰りにモーレツな勢いで読んでいる。ブラックジャックというよりは北斗の拳に近い面白さーージブン、絵柄だけで適当に言うてへんか?ーーであり、そこで感染した火照るような医療マンガ熱にうながされる形で、某医師から毎巻の激賞が流れてくるフラジャイルに手を出したのです。個人的なフィクション病理診断の鉄則である「激賞の裏に瑕疵の隠蔽あり」を念頭において、ガードを高くあげたまま読み始めたのですが、第3話でガンの告知を受けた若者が医者の白衣についたマスタードの染みを指摘する場面でたちまち相好を崩しました。オーッ、知ッテマース、ソレ、知ッテマース! ブレイキング・バッド第1話ノ、ガン告知オマージュデスネー! ヴィンス・ギリガン好キノ作家ニ、バッド・ストーリーテラーハイマセーン! そうなってくると、淡々とした演出ーーK2を基準点とするーーがベター・コール・ソウル的にも見えてくるから、我ながら現金なものです。

 確かに、余白の多い漫画ーー背景的な意味ではなくーーではあるんですよ。K2を読んだばかりだと、主人公の説教が遠景のサイレントと若手医師の動揺ぶりだけで表現されたのは不満だし、他の医療機関から子どもを誘拐しようと試みる回も突然タクシー内へ瞬間移動するーーしかも文脈なく母親が合流しているーーのもワケがわかりません。これがK2だったら主人公は「な、なんだね、キミは!」とかうろたえる相手の主治医を無言のままグーでなぐりたおしているだろうし、新人女医は子どもの病室へ忍びこむ様をスリラーとして描かれた後、カーテンを縄梯子に加工して3階の窓から逃走したことでしょう。まだ5巻くらいまでの感想にすぎませんが、余白が演出として機能している部分と単にネームのまずい部分が混在しているという印象です。しかし、おそらくこれは連載の進行とともに改善するだろう些末事に過ぎず、組織人の葛藤と協働の様子に強く感動するタチの人間として、語られている内容すべてに強い共感を覚え、落涙してしまうのです。

 それにしても、自分の選択したーーあるいは漂着したーーマイナーな職種について、こんなふうにカッコよくスポットライトを当ててもらうのは、なんとも言えぬ快感なのだろうと想像します。もし、「大企業なみの福利厚生を実現する業績を出し続ける中小企業がその実、片手で足りるほどのキーパーソンの働きでギリギリ成立していることに他のだれも気づかないばかりか、観客席からの野党めいた無責任な批判さえある」組織を与党側、つまり管理職サイドから描くような作品があれば、もしかすると同じ快感を抱けるのかもしれません。現段階で思い入れがあるのは放射線科の引退おじいちゃんで、ゼロから立ち上げた部署を拡大させて労働環境も改善したのに、後から雇われた昔を知らない人物たちからはそれさえ不満や批判の対象となり、最後には何の感謝もされず切り捨てられてしまうーーまったく予言的な、身につまされる話です。抵抗や反論をあらかじめハラスメントなる言葉で封じられてなお、最後の瞬間ーーそれが肉体と精神と時間、どれの限界になるかはわからないーーまで持ち場を離れずに職分を守り続けるだれかは、どの業界にもいるのだなあと感慨にふけりました。

 ザビーネ・ホッセンフェルダーの著作への感想でも言いましたが、自分が知らない分野の仕事人の「感情」を知ることができるのは、本作のズバ抜けてすばらしい点だと感じます。K2モードから頭を切りかえるためにも、6巻以降は焦らずじっくりと読み進めるつもりです。

映画「ダンジョンズ&ドラゴンズ」感想(少しFGO)

 FGO、予備動作なしで突然にティアマトがピックアップ召喚に追加され、なんとも陰鬱な気分になる。たっぷり2年は続くだろうファンガス不在の虚無期間を埋めるために、アーケード版の成果物が逐次投入されていくことがわかったからである。もはやFGOへの熱量はゼロに近いのだが、ここまでをほぼリアルタイムで追いかけ、都度の課金を欠かさなかった身としては、このキャラを引かないという選択肢はあらかじめ奪われている。ダビンチちゃんを所持していないような弱兵とは、覚悟のレベルがちがうのである。まず、備蓄石の内側で引けることを淡く期待するも、それは見事に裏切られる(おそらく無課金の期間が長くなるほど、星5排出率が下がる仕様なのにちがいない)。軽傷ですむことを期待しながら課金していくのだが、公式アカウントができたばかりのウィザードリィになぞらえると、気がつけば「*ぬまのなかにいる*」状態に陥っていた。

 人生において「カネと時間が余り始める(もし貴方と家族が健康ならば)」ステージへ突入しつつある身にとって、素寒貧の若い学生諸君にことさら自虐風の爆死自慢をしたいわけではない。ゴミしか排出されない虚無ガチャを前に到来した感情は不思議なもので、愛する原神への申し訳なさだった。こんな古びて旬を過ぎたアプリ(物語ではなく、機能面の話)に注ぐカネで、育成の停滞しているあのキャラもこのキャラも育ててやれるのにと思うと、大切な者へ万全を尽くしてやれない悔しさに、知らず涙がにじんだ。そして、血みどろになりながら引いたティアマトをレベル100スキルオール10にしてマイルームで眺めながら、「やっぱり男のコって、瞳に星がある女のコが好きだよな……」などと頬づえをついて黄昏れていたら、財布にポッカリとあいた穴からスキマ風がビュウと吹いたのです。

 その空しき傷心を癒すべく、探検隊はタイムラインへたびたび浮上してくるダンジョンズ&ドラゴンズへと向かったのだった(ここまでが前置き)。ロード・オブ・ザ・リング以前のトラウマから、ファンタジー映画の本質的なダメさは身に染みており、正直なところダブルミーニングで「冒険する」気にはなれず、配信待ちリストへ入れていた作品である。予告編があからさまに現在のトレンド「異世界転生ファンタジー」へ寄せた作りになってて、その比較的若い客層へ合わせたせいだろう、どの劇場でも早々に字幕版の上映が終わるかレイトショーへと移行してしまっていた。おそらく、原文を無視してねじこまれる芸人と若手俳優の寒いギャグを聞く気にはなれなかったので、浅い時間に字幕版の上映されている映画館を苦労して探すことになる。個人的にD&Dは「お高くとまった」テーブルトークRPGであり、ルールブックにせよ関連小説にせよ、学生にとっては高めの値段設定になっていて、なけなしのこづかい(万歳!)では手を出しにくかった。その代用品として選ばれたのが、廉価な文庫版としてリリースされていたトンネルズ&トロールズである。同ルールを流用したゲームブックも豊富に発売されており、人を集めてのTRPGセッションなど夢また夢のうら若き美少女にとっては、ずっと間口が広かったのを思い出した。

 つまり、当方は立ち場的に異教徒へ近いわけで、「もーッ、T&Tの映画化だったらぜったい初日に行ったのに、ひと回り上の世代のオッサンたちがキャッキャうれしそうなのが悪いんだからね!」などと一時的な棄教への言い訳をしながら、劇場へと足を運ぶハメになったわけです。結論から言いますと、とても面白かったのは確かですが、近年のSNSに顕著な「好きな映画をさらに称揚するための大喜利合戦」ーー本作で言えば、セクシー・パラディンなどーーのような方向で面白かったわけではありません。ストーリー展開や場面のつなぎ方が一般の映画と比べてかなり独特で、例えるなら「ベテランのゲームマスターによる商業用ではないTRPGセッションで、新米のプレイヤーたちが好き勝手やるのを四苦八苦しながらまとめている」様子を映像にした感じになっているのです。橋が崩壊するときの入念に準備していた謎解きを潰された感じとか、人質を取る悪党へ向かってジャガイモを投げるときに裏でダイス判定が行われている感じとか(伝わります?)。バルダーズ・ゲートとかネヴァーウィンター(ナイツ!)とか、知ってる地名が出てきただけでワクワクしたので、D&D のルールや世界観を熟知している人ならもっと楽しめる小ネタが満載なのだろうと思います。

 気になった点と言えば、娘役の女優(子役?)がけっこうな大根役者で、終盤の大事なシーンにおいて虚構が破れかける感じがあり、別の意味でハラハラさせられました。それと、字幕版なのにエンドロールで日本語の主題歌らしきものが流れ始めたのには、カッとなって反射的に席を立ってしまいました(エンドロールを最後まで見なかったのって、十年ぶりくらいかもしれません)。字幕版でさえこれですから、吹替版はたぶん原型を留めないくらいグッチャグチャに内容を改変されているんでしょうねー。SNSでの「笑える映画」みたいな評は、吹替版を見た人だけの印象なのではないかと少し疑っております。ともあれ、今後トンネルズ&トロールズとウルティマ・オンラインとウィザードリィ狂王の試練場が「正しく」映像化されれば、ファミコン世代からの生き残りたちは、心置きなく成仏できるって寸法ですね!(永遠に現世をさまよいそう)

アニメ「推しの子」感想(第1話)

 推しの子、第1話拡大版?を見る。艦これの最終海域ゲージ破壊から気をそらすために再生したのですが、後半は画面に目が釘づけとなり、終盤はあまりの面白さに腰が抜けました。ちなみに、イベント海域は試聴に邪魔なので、丙に落としてクリアしました。ナヒーダとか瞳の中に星のあるキャラが好きなので、漫画版も「うちの子、きゃわー!」みたいな回だけ目を通したことがありましたが、スマホ読みに特化した最近の作品ーーコマ割とふきだしと台詞のフォントが不自然に大きく、背景は小さな画面に見えないので無しか簡素ーーだったため、原哲夫がデフォルトの昭和オタクはそこで読むのを止めたのでした(エヴァ・フォロワーとしてタイムラインに上がってくる怪獣8号も、同じ理由で読まなくなった)。

 最初はアイドルマスターかラブライブ、あっても「底辺アイドル残酷物語」ぐらいだろうと思って見はじめたので、私の常として予想を外されたことへの驚愕が高評価につながっている側面は否定しません。きわめて言語過剰な作劇であり、シェイクスピアみたいに死ぬ寸前の人間がいつまでもしゃべり続けたり、親を亡くしたばかりの子どもがネットの書き込みへ作者の憑依したような罵倒を延々と述べたり、バランスが悪いと感じる部分は確かにあります。しかし、以前どこかで書いたように「品質の違いを平均でならして、下限との差で上限を浮かび上がらせる」集団アイドルの楽しみ方がわからない人物には、星野アイの描き方はかなり深く心に刺さりました。「欠損への給餌によって地獄から輝くカリスマ」こそが人々の欲望をあおりたてるのであり、今西良や森田透を至高の存在とする者にとって「いかなる現世の汚辱を経ても穢れざる聖性」が死によって完成するのは、じつに見事なアイドルの「解釈」であると、大いに首肯させられたのです。

 最近、若年男性アイドルへの性被害がネットでのみ取りざたされていますが、栗本薫のやおいで育った私にとってそんなことは当たりまえの前提すぎて、何が悪いのかわからないくらいです。「だれからも性的に求められる至天のチャームなのに、セックスによってたわめることも支配することもかなわない」という事実に身を焼く地獄の焦燥が、アイドルへ向ける感情の正体なのではないですか? ともあれ、「アイドルもの」としては90分で完全にテーマを昇華させたので、2話以降に語られるだろうサスペンス要素へ興味が持てるかについてはなはだ疑問ですが、推しの子、第1話だけは本当にオススメです! それと、露国みたいにそろそろ「転生もの」は法律で禁じられるべきではないでしょうか。過剰に生産されすぎていて、特に若年層の自殺の何パーセントかを、確実に後押ししてると思いますよ。

雑文「GENSHINとEVANGELION、そしてKANCOLLE(近況報告2023.4.14)」

 ナヒーダ編の第2章を読んで、大泣きしている。つくづく原神って、「偶然に家庭を持つことができてしまった就職氷河期オタクにとっての水戸黄門」だと思います。「故郷に帰り、家族と再会する。それがいちばん重要なこと」「時間という病は、すべての者を死にいたらしめる」ーー記憶と経験が時間で変化するのを「成長」と定義し、魂の輪廻を認めながらも成長の漂白だとしりぞけ、それぞれが過ごす一度きりの生を大切にせよと、目を合わせて語りかけてくる。そして、記憶と経験が消えてしまったあと、己が名付けをした存在だけが「生きた足跡」として世界に残されるという「当たり前さ」を正面からぶつけられ、シンプルな「ただいま」の一言に涙が伝い落ちるのです。でもね、本邦の初老オタクがこんなふうにヒネクレてしまったのは、何から何までエヴァンゲリオンが悪いんですよ(唐突)!

 毒親に苦しめられるアダルトチルドレンを「なんかカッコいいもの」として思春期の自己定義に組みこませてしまった、じつに罪深い作品だと言えるでしょう。多くの若者たち(当時)は病んでいるフリをするうちに、その偽りの病が人格の一部になってしまったのです。エヴァ新劇も、破の段階までは過去のトラウマを乗り越えて大人になろうとするミサトや、妻の死を乗り越えて息子と和解しようとするゲンドウの姿を真摯に描こうとしていました。シンエヴァ公開の際に「解呪」なる単語がネットに踊りましたが、多くのオタクたちが現実の20年を苦しんできた「家族の問題」を、世界の謎と並走しながらキャラクターの人生として解決してくれれば、おそらく私も「解呪」されただろうにと夢想するのです。ナヒーダのする「恨みを忘れてくれとは言わない。ただ次の世代のため、対話に応じてほしい」という龍への説得を聞きながらそんなことをボンヤリと考え、3人目の彼女のための課金を心に決めました。

 あと、ゆるく厳選した装備とにぶい反射神経で最高難度をクリアできる原神の調整を、本邦の神経症的なゲーム制作者たちには、ぜひ見習ってほしいものですね! ハナからふつうにクリアさせる気のない、艦これのイベント海域とかね! アニメ2期の後半を見ましたけど、相変わらず日常パートの演技の付け方と間の取り方が独特っていうか、意味不明ですね! あのさあ、「彼女は歩行を始めた。まず、利き手側の右足を膝裏部分がほぼ90度になるまで引き上げる。次に、前方の地面へ向けて踵を斜めに振り下ろす」みたいになってんだよ! もしかして演出志望の方にとってだけ、何がダメかを言語化することでよい教材になる可能性はあるかもしれませんけどね! しかしながら、そんなツッコミは些細なものであり、なんと最終話において鬼畜米英が味方になったのには、心底から驚愕させられました! ゆとりーー「え、日本ってアメリカと戦争してたんですか?」ーー世代への痛烈な皮肉でやってるんですよね? いったいぜんたい、我々は何と戦わされてるんですか! チクショウ、残りバケツが50を切りやがった! 艦隊これくしょん、史上最低のゲーム体験や!

映画「グリッドマン・ユニバース」感想

 なんと、グリッドマン・ユニバース見る。いやいや、最初はそんな気まったくなくて、存在すら知らなかったんですよ。それを、カズ・シマモトがシン・仮面ライダーにどんな感想を抱いたのか気になって、彼のツイッター・アカウントへ日参するうち、いわゆる「単純接触効果」で次第に本作への関心が高まってしまったのです。テレビ版のグリッドマンは通して見ていて、極私的に呼称しているところの「エヴァンゲリオン・アンサーズ」のうちの1作品として好印象を持っています。エヴァ旧劇が実写を使って「現実に帰ってお前の人生をやれ」と呼びかけたのに対して、手法こそトレースしながらも「アニメも私の人生と現実の一部だ」と真逆のメッセージを最終話で表明したのは、新鮮な驚きでした。

 この映画版においても、感情を表に出しすぎない現代の若者の軽妙かつドライなコミュニケーションとか、これだけ多くのキャラを出演させながら不自然なやりとりがなくスッキリと流れる脚本とか、だれかの中にある「こうあってほしかったエヴァ」の中身をより洗練された形で見せられた気がしました。テレビ版では最後の最後で「ベッドから起き上がるリアル・新城アカネ」をチラ見せするにとどまったのに対して、本作ではかなりガッツリと実写パートで彼女を写すんですけど、「少し古い世代の男オタクが抱く女オタク像」とでも言いましょうか、「いまどき、こんな陰気な感じでアニメを逃げ場として消費する女子っている?」と疑問を感じるくらいでした。アニメパートのパキッとした明るさに比べると、実写パートの画面は全体的にかなり陰鬱なトーンで、ここだけ庵野秀明が撮影したみたいになっていることも、その印象の一因となっているかもしれません。

 そうそう、みなさんが話題にしているシン・仮面ライダーのドキュメンタリーですが、ご多分に漏れぬ野次馬根性から私も見ました! 感じた中身としては、シンエヴァ・ドキュメンタリーのときにさんざんやったツッコミとほぼ同じなので割愛しますけど、正体不明のこだわりとリソースの蕩尽が1ミリも本編の面白さにつながっていないことは、大問題でしょうね。あのタイプの独裁的なパーソナリティが許容されているのは、本邦における忖度の過剰さを土壌としている気がします。主役の子がずっとプルプルふるえていた理由といいますか、ふるえるに至る感情の源泉の正体はわかりましたので、その点だけは見てよかったです。

 話をグリッドマン・ユニバースへと戻しますと、90分が経過するくらいまではずっと好意的な印象だったのに、30分を残すばかりのところでその肯定的な気分に大きな変化が訪れます。トランスフォーマーみたいなゴツい段ボール・フォルムをしたロボットが、奇抜なアングルーー右奥から左前方に向けて長物がせりだす、半ばネットミームと化したあの構図を代表とするーーで画面いっぱいにみっしりと戦う、俗に言うところの「勇者シリーズ」ってあったじゃないですか。私は昔から、まったくあの「熱血アレ系アニメーション」の観客ではなかったことを改めて思いだしました(テレビ版もこんなでしたっけ?)。ド派手な見かけの戦闘に、大音量で効果音やら主題歌やらが流れて情動をアオッてくるのに、私の心はビックリするほど完全にフラットなままなのです。それに反して、周りの観客は「これを見るためにやってきた!」と座席から身を乗り出さんばかりの熱狂ぶりで、いつまでも終わらない戦闘を前にしてなんだか肩身が狭くなり、その場にいることが申し訳ない気持ちにさせられました。

 図々しくも私の主観をお伝えさせていただければ、「大勢の撮り鉄たちのド真ん中へカメラ無しで放置され、レアな車両が通過するたびにザワめきとシャッター音が響く中、完全に無表情で棒立ちのままのパンピー」とでもなるでしょうか。屋上屋を架すを承知でさらに例えるなら、「青春ラブストーリーと思って見ていたら突然、筋肉質でテカテカのトルコ人が現れて油相撲をオッぱじめ、唖然としているうちにまた何ごともなかったかのように青春ラブストーリーへと戻った」のを見せられている気分です。すいません、エヴァ成分の含有率や現実と虚構の解釈を含めて、「戦闘以外は割とフォー・ミー」だったので、茶化したい気分でこれを書いているのではないことは、ファンのみなさまに重ねてお伝えしておきます。

 それにしても、シン・仮面ライダー公開以降、無言を貫いているカズ・シマモトは本当に大丈夫なんでしょうか? 仮面ライダー50周年記念での公式発表を、ツイッターというツンボ桟敷で聞かされたときのショックの様子と、撮影された作品の結果として異様な仕上がり具合から考えても、現在の彼の精神状態が心配で心配でしょうがありません。