猫を起こさないように
日: <span>2023年3月18日</span>
日: 2023年3月18日

映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」感想

 アバターたる小鳥猊下のキャラに合わないものは、できるだけ俎上にのせない月日だったのですが、ブルージャイアントが好きなことを白状しちゃったので、ピーター・ウォイトのブログを毎週チェックしてることも告白しておきます。「弦理論は虚妄であり、物理学の未来に一利もなし」との立ち場で論陣を張る物理学者なのですが、陰謀論を信じる者の盲目さで彼の記事をうやうやしく拝読しておる次第です。その熱心さは、「萌え絵をディスるやつはブチ転がす」でブイブイゆわせている元ウルティマ・オンライン・プレイヤーへ諸君が向ける傾倒ぐらい、重篤な域に達していると言えましょう。なんとなれば、「昭和の宿題は言われた通りにぜんぶやったが、客観的に考えて己の人生が存在しなくても、世界に大した違いは生じない」という文系人間にありがちな絶望未満の薄い諦念みたいなものを、世界最高峰の理系頭脳たちが「ストリングスの袋小路に迷いこんだせいで、我々は標準模型に50年なに一つ追加できていない!」という特濃の絶望として保持していることを教えてくれたからです。賢い人々が「美しくあれ、楽観的であれ」と天上の花畑で真理と遊んだあげくの失落を、醜く悲観的で頭の悪い者たちが地上から指さして笑えるのは、なんという下卑た快感なんでしょう! 「マルチバースや11次元などというのは全くの数学的妄想であり、我々はこの不完全な狭い場所でなんとかやっていくしかない」ことが確定しつつあるいま、プロパガンダとして使われたフィクション群に快楽を拡張されてしまった一般大衆が、もうそれなしでは物語ひとつ満足につむぐことさえできない(マーベル!)のは、じつに皮肉な結末です。

 長い前フリでしたが、そういうわけでエブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(長いが、電通のヤリサー陽キャが考案した例の略称は死んでも使いたくない)を見てきました。予告編の段階では、「面白そうではあるけど、円盤か配信まで待つんだろうなー」と思っていたのが、みいちゃんはあちゃんのみなさまと同じく怒涛のアカデミー賞7部門受賞に尻を蹴りあげられる形で、劇場へと足を運ぶハメになったわけです。結論から先にお伝えしておきますと、予告編で脳内に繰り広げられたワクワクがもっとも面白いような映画でした(アカデミー予告編賞って、ないんですかね?)。近年のアカデミー賞ってノーベル平和賞のように政治色が濃くなってきてて、映画作品の純粋な評価としてはまったく信用できないんですけど、本作に関しては、「LGBTへの偏見」「アジア人蔑視」「女性の軽視」などの問題へワンパッケージでまとめてメッセージを送れるスナック感覚の手軽さが、最大の受賞理由だと指摘できるでしょう。この狭い穴めがけて投げた球を通すことのできたプロデューサーと脚本家の勝利だとも言えますが、どちらかと言えば品性に欠けるバカ映画の部類なので、過去の受賞作が持つ格式と見あっている気はしません。これ、銀河ヒッチハイク・ガイドが作品賞もらったみたいなもんですよ。

 批評家ふうに言うならば、「この映画はMulti”verse”を手段として用いながら、結果としてMulti”birth”を否定し、人生の一回性、すなわち”All is once.”を高らかに肯定しているのだ」とでもなるのでしょうが、こんな定型文はチャットAIにでも書かせてればいいーーますますテキストサイト管理人の相対的な優位性が高まってきましたね!ーーですし、アメリカの底辺を生きるアジア人の生活に、まずもって名誉白人である我々からの共感など生まれようはずがありません。全体の印象をざっくりまとめれば、良くも悪くも「中華版マトリックス」でしかなく、マルチバースを舞台としているのにストーリーは一直線で、1時間半くらいまでは「起伏に乏しいアジア顔じゃ、画面が持たねーな!」などと、轟音とともに己の実存を棚上げした不平不満をたれていました。しかしながら、ミシェル・ヨーの旦那役であるジャッキー・チェンの”kind to others”な生き方を肯定するあたりから、「あなたが置かれた場所を尊びなさい」「血は水よりも濃いことに気づきなさい」という大陸道徳の通底音が流れはじめると、もう涙が止まらなくなってしまうのです。昔、ある知人が「テレビの前で水戸黄門を見て、涙を流している父親が情けなくてしょうがない」とこぼしていたのを思い出しましたが、結局のところ我々はどんなに気難しかろうと、人生を通じてそういった「生きることの当り前さ」を否定し続けるだけの強さは維持できないのかもしれません。

 ついつい手クセで良い話ふうに持っていこうとするのを台無しにしておくと、我々オタクにしてみれば言われている中身は同じでも、生々しいアジアン・フェイスよりは美しい原神・モデリングから発されたほうがずっと心に響くわけで、娘役の俳優が顔を歪めて涙を流す演技を見たとたん、心が冷めてしまうような人非人にとって、昨今の世間が求めてくる倫理観ーー性別も人種も美醜も意識しちゃダメ!ーーはハードルが高すぎます。「ネイティブ英語にイエスと返すしかなかったアジア人が、非ネイティブ英語でノーと答えることができた」ぐらいのスモール・チェンジに、これだけカネをかけたビッグ・カタストロフが伴ってくるのは、じつに現代の映画らしいなという気にはさせられました。それにしても、ファン・シーロンさん、よかったですね! ポリス・ストーリーの頃からの相棒とともに、ついに「名誉」のつかない本物のアカデミー賞を受賞できたなんて、この事実の方がよっぽどドラマチック……え、この俳優ってジャッキー・チェンじゃないの? マジで? 妙に声が甲高いなー、甲状腺の病気かなーとか思ってたら……やっぱ、アジア人の平たい顔はちっとも見分けがつかねーな!(ツカツカと壇上にあがってきたタキシード姿のアジア人に平手打ちされる)