猫を起こさないように
月: <span>2023年3月</span>
月: 2023年3月

映画「RRR」感想

 気になってたRRR、ようやく見てきた。アカデミー賞7冠作品ーー(ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)えぶえぶ、さいこお!ーーと比べてはるかに小賢しくなく、御見物の見たいと思っている場面と浴びたいと思っている感情だけを、ストーリーの整合性などガン無視して投げつけてくる、本邦で言えば大卒率が2割にも届かなかった昭和前期のような「ザ・大衆向けエンターテイメント」でした。余談ながら、この「大衆」の消滅に伴って、フィクションは物語の帳尻あわせばかりを気にする「小賢しさ」をまとうようになっていくわけです。率直に言って非常に楽しめたのですが、あらかじめネット激賞に触れてしまったことの弊害は強く感じましたねー。「3時間が一瞬で消える」や「10分毎に見せ場がある」を信じて劇場に足を運んだのですが、序盤の兄貴と弟分のイチャイチャには寝そうになりましたし、終盤は長時間の着席に尻が痛くなってスクリーンへ集中するのに難渋しました。

 また、古代王国を舞台とした前作とは異なり、物語の背景を「英国の植民地支配に苦しむ印度」としたところが雑味になっている気がします。「適度に日常と関係ない、適度に自国から遠い場所」で行われる「愛国」だからこそ娯楽として消費できるのであって、「アヘンを媒介とした英国の支配にあえぐ清国」みたいな距離感だったら、いま大はしゃぎで皆様がやってらっしゃるようには、きっと素直に楽しめないことでしょう。本邦には入ってこないので想像するしかありませんが、大陸産の「抗日ドラマ」が大衆に与えるような快楽の要素が、本作にはどこか混入してしまっているように感じました。そうなってくると、舞台をリアルに寄せたせいでしょう、中途半端な大卒の文系にとっては「史実」と「史実っぽさ」の違いが気になりはじめるのです。バーフバリの物語は神話に近い内容であり、ストーリーの整合性の無さはあらかじめ性質として織り込まれていましたが、ここまで我々に近い歴史を取り扱っていると「手紙で知らされていた兄貴分の真情を、婚約者が弟分に語って聞かせる」場面でも、「いやいや、その内容の手紙を書くヒマも投函する隙間もなかったですやん。そもそも、それだけ慎重に反乱の計画を練っている人物が、英国による検閲の可能性が極めて高い手紙なんかに情報を残しますか?」などの思考が脳裏をよぎってしまうのです。

 すいません、なんだかディスってるみたいになってきましたけど、個人的に本作を通じて受けとめたメッセージは「人ひとりを簡単に消すことはできない」というものです。昨今のSNSにおいて、ミュートやブロックやフォロー外窃視を「駆使」して「上手」にふるまうことの最大の弊害は、己の好悪や機嫌だけで個人を不可視にできる事実から、「人ひとりを簡単に世界から消せる」感覚をそのトレードオフとして否応に得てしまうことでしょう。そして、決定的な死の瞬間を迎えるまで、あらゆる個人の生には世界を変革する可能性が埋めこまれているという事実を、どこか自分からは遠いものとして忘れさせてしまう。「人ひとりのしぶといばかりの消せなさ」こそが、結果として萌芽する紛争や戦争の大元にある根の先端であり、為政者がもっとも恐れるのは「既存の法の支配下に置かれた文字による訴え」ではなく、いつだって「肉による暴力を伴った民衆の蜂起」なのです。中途半端に頭の回転が速い大卒たちによるSNS上での「政治活動」は、体制側にとってすべてが想定内の「大暴れ」に過ぎず、むしろ都合の良い「ガス抜き」にさえなっていることに気づくべきでしょう。いまこそ我々は大学進学率を大幅に下げ、大衆演劇と民草の英雄によって人々の感情をあおり、言語化に至らないがゆえの純粋な怒りを爆発させる方向へと、民衆を誘導すべきなのです。それこそが、RRRを通じて本邦を生きるホワイトカラーの学ぶべき教訓なのですから(間違ったメッセージの受信)!

雑文「神里綾華日記(近況報告2023.3.24)」

 現人神たるパーフェクト雷電将軍を擁する我が陣営において、その守護者たる神里家のご令嬢を引かないという選択肢はあらかじめ奪われているのである。各地を駆けめぐって集めた原石は優に1万5千個を越え、育成素材もレベル90に必要な数量を準備し、モラも600万ほどは耳をそろえて預金してある。禁治産者たる「宵越しのカネは持たない」凡百のテキストサイト管理人のようではなく、昭和の資産運用ーー「100万円を定期預金に入れておけば、10年後は200万円になってるんだ」ーーリテラシーに忠実なコツコツ型のフルタイマーであるため、2ヶ月に渡る備蓄など20年に渡る無視を耐えしのぶことに比べれば、はるかに容易であった。そしてついに、神里家ご令嬢の降臨日を迎えたわけであるが、その元素的相棒である異能・申鶴まで無償石の内側で引けてしまったのである。これを喜ぶのは原神インパクトの提供する間断のないクリエイティブに対して、ルンペンのようにーー「右や左の旦那様、哀れな乞食でございます」ーー失礼な態度であると言えよう。

 そこで新たに課金を行い、神里家のご令嬢にふさわしい正装である「霧切の廻光」を献上しようと思いたった。正直なところ、星5武器は少々過剰な戦力で、かならずしも入手する必要はない。しかしながら、3ヶ月近くを無償でプレイしてきたことへの感謝と負い目を、生来の貴族精神が看過できなかったのだ。もはや暗記してしまった原神専用クレカの番号を高速タイプで入力して、穏やかな春の陽射しのような微笑でガチャを回す。するとどうだろう、すり抜け2回と天井3回の絵に描いたような大爆死を遂げる結果となった。眉間に手斧が深々と刺さった状態で、アゴにしたたる鮮血を手の甲でぬぐいながら、「危なかった」とつぶやく貴人がそこにはおり、コツコツ型のフルタイマーで持ち家がなければ、本当に生活が危ないところだった。気をとりなおして、神里家のご令嬢と献上武器をレベル90まできたえ、軽く厳選済み(当然)の聖遺物を5つともレベル20にし、天賦のひとつをレベル8まで上げたあたりでモラが尽きた。素材もすべて底をつき、文字通りの素寒貧となったのである。俗に言う「エリクサー症候群」とは昭和の定期預金を知る層ーー「年利で言えば、8%くらいかな。高くはないよ」ーーのみが罹患する精神疾患だと思うが、リヤカーが横づけされたバラックのトタン屋根の下で、「明日は今日よりもきっと良い日」を信じられた時代の気風をテイワットにおいても感じられるとは、夢にも思わなかった。

 いや、それにしてもこのゲーム、ちょっと育成が重すぎません? レベル1の星5と星4が地平線の彼方まで列をなして待機してるんですけど……。ディシアも好きなキャラなので手元に置いておきたかったのに、「引いたところで、少なくとも1年以上は育成の手が回らない」からガチャを控えるような状況がソシャゲで訪れるなんて……いやいや、「父ちゃん、明日はホームランだね」!

映画「シン・仮面ライダー」感想

 シン・仮面ライダー見てきました。ほとんど同シリーズに思い入れがなく、「俺は太陽の王子」などと言いながら界王拳みたいな技を使うライダーしか記憶にない人物による感想となります。キメキメの画角とカット割の連続に、感情ではなく反射の応酬によるドラマがインストールされた「きれいな外殻をした昆虫」、さらに内容物がほぼ昭和特撮への偏愛のみで構成されていることを勘案すれば、「きれいな外殻をした昆虫標本」のような映画でした(バッタだけに)。怖い人を招きよせる呪文なので短く婉曲的に言うと、「他人のエモーションに鈍感な、型番偏愛のロコモーション好き」が絶賛しそうな作品に仕上がっています。何度でも繰り返しますけど、監督は絵作りの奇才ですがシナリオを書く能力は絶無なので、ちゃんとした脚本家と組むべきでしょう。

 「他人の心がわからない」「世界ではなく自分が変わりたい」「人生に無駄なことなどひとつもない」ーー終盤、上下段への回転攻撃と崩拳のリピートによるラスボスとの鉄拳みたいな戦闘から、なぜか突然まったく理由がわからないまま、グレコローマンスタイルへと移行した後の主人公の台詞なんですけど、監督は本当に真ッ正直かつ「成長しない人」ですね! シンエヴァへの酷評にダメージを受けた結果と推察いたしますが、還暦を過ぎた人物の内面が掛け値なしにこのまんまなのだとすると、オタクの人生の道行きとして教訓を得ようとした場合、なんとも暗い気持ちにさせられてしまいます。不自然に浮いているエフェクトとか、唐突なロケーションの瞬間移動とかもたぶんわざとやってて、「ウルトラマン飛行形態フィギュアの縦回転」みたいに参照するオマージュ先があるのでしょうが、もはやそれを調べる気にはなりません。本編であれだけ使うのを我慢していたオリジナル主題歌についても、エンドロールで3曲たて続けに流したのには、ジョビジョバとズボン内に失禁する監督の弛緩した微笑が脳裏に浮かんでしまい、気難し屋の眉間に刻まれたシワは否応に深まりました。

 昭和の頃って、前日の番組がクラスの話題だったり、共有する知識の前提がテレビ由来だったじゃないですか。それを究極にまで濃縮したのが、本作の監督を頂点とする特撮やアニメのオタクだったと思うんです。本放送を逃せば視聴のハードルが一気に高まるため、昨今の「ながら見」や「倍速視聴」とはまったく性質を異にした、台詞や絵のタイミングをすべて暗記するような視聴が行われ、マニア同士なら脳内にデータベースと化したそれらの引用だけで会話を成立させることができた。その高速で行われる「反射の応酬」がコミュニケーションの型で、ついてこられなければアイツは「薄い」とか「ヌルい」とか、仲間内で馬鹿にされる。シン・仮面ライダーの会話劇に「特撮とアニメのみを学習対象としたチャットAIによる出力」のような不自然さを感じるのは、まさにそういった「昭和オタクの作法」を「シナリオ執筆の作法」と勘違いしていることに加えて、意見を言えるチェッカーが監督の周囲にもはや存在しなくなっているからでしょう。

 本作を視聴する中でもっとも怖かったのは、キャラ立てに「あらら」を連呼するハチ怪人の容姿が、若い頃の宮村優子にソックリだったことです。この恐怖の中身はたとえば是枝作品の子役、特に女児について同じ傾向の顔が選ばれ続けることへ抱くそれと同質のものだったことを、皆様にお伝えしておきます。劇場で思わず「こっわ」と大きめの声が出てしまったのですが、近くの席にいた方々には、この場を借りて改めてお詫び申し上げます、ガクッ。あと、ヒロインに向けるカメラがいちいち性的な気配をまとっていて、後半のビデオレターでそれはエクスタシーの絶頂へと達するのですが、ライダーマスクがVRゴーグルみたいなものだと判明したいま、監督の次回作としてヤングMIYAMOOにクリソツの新人、おっと失礼、シン人を発掘してのVRアダルトビデオを提案しておきます。あまりにビッグネームとなった彼に、業界の方々はオファーを躊躇するでしょうが、そのシン人を伴って挨拶に行けば、ぜったいに引き受けると断言しておきましょう。

 それと、些末なことながら気にかかったのは、主役の子がアップで映ったときに、ずっと生まれたての子鹿のようにプルプル震えていたことです。一瞬、「寒いのかな?」とも考えたんですけど、同じ場面におけるベテラン俳優たちの所作は堂々としたもので、もしかすると偏執狂かつ編集狂の監督から現場で一人だけリテイクをくらいまくった結果、演技することが怖くなってしまったんじゃないかなーと思いました。

質問:最近VRでのAVを初めて体験したばかりだったので、ヒロインのメッセージの場面は「ヴァーチャルAVみてえ」と感じましたが監督のAV監督転進は思い至りませんでした ぜひ見てみたいものです
回答:旧エヴァのときもテレクラ遊びを公開したり、アスカのエロ同人をチェックしたりしてましたね。菜食主義を前面に押し出すことでごまかそうとしていますが、人間のベースは「酒とセックス」でできていると思ってます。さすがに実名で撮ってくれる気はしませんけど、「母乳せせせせ」みたいな変名でローアングルへの異様なこだわりを見せる監督が彗星のごとくアダルトビデオ業界に現れたら、それはまぎれもなくヤツです。ちなみに超新星のごとく現れたら、それはシンカイ=サンです。

質問:空母そそそそ覚えてる人がいたことを実感できてむしろおれは今喜んでいます……
回答:回答:ホホホ、長くオタクをやっている者にとっては、ほんのたしなみのような知識でございますよ。最近ショックを受けたのは、「片桐彩子日記」を知らない人がフォロワーの半数を占めていたことです。記憶にあるバナーを探そうと検索をかけても、あらかじめそんなものは存在しなかったかのように、どこにも見当たらないのです。ほんの二十年ほどの時間しか経っていないのに、大海嘯に洗われた絶海の孤島のごとく、その植生ごとすべてが消滅してしまうなんて、想像だにしませんでした。あの頃、インターネットは永遠の同義語だと信じていたのに……。

映画「エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス」感想

 アバターたる小鳥猊下のキャラに合わないものは、できるだけ俎上にのせない月日だったのですが、ブルージャイアントが好きなことを白状しちゃったので、ピーター・ウォイトのブログを毎週チェックしてることも告白しておきます。「弦理論は虚妄であり、物理学の未来に一利もなし」との立ち場で論陣を張る物理学者なのですが、陰謀論を信じる者の盲目さで彼の記事をうやうやしく拝読しておる次第です。その熱心さは、「萌え絵をディスるやつはブチ転がす」でブイブイゆわせている元ウルティマ・オンライン・プレイヤーへ諸君が向ける傾倒ぐらい、重篤な域に達していると言えましょう。なんとなれば、「昭和の宿題は言われた通りにぜんぶやったが、客観的に考えて己の人生が存在しなくても、世界に大した違いは生じない」という文系人間にありがちな絶望未満の薄い諦念みたいなものを、世界最高峰の理系頭脳たちが「ストリングスの袋小路に迷いこんだせいで、我々は標準模型に50年なに一つ追加できていない!」という特濃の絶望として保持していることを教えてくれたからです。賢い人々が「美しくあれ、楽観的であれ」と天上の花畑で真理と遊んだあげくの失落を、醜く悲観的で頭の悪い者たちが地上から指さして笑えるのは、なんという下卑た快感なんでしょう! 「マルチバースや11次元などというのは全くの数学的妄想であり、我々はこの不完全な狭い場所でなんとかやっていくしかない」ことが確定しつつあるいま、プロパガンダとして使われたフィクション群に快楽を拡張されてしまった一般大衆が、もうそれなしでは物語ひとつ満足につむぐことさえできない(マーベル!)のは、じつに皮肉な結末です。

 長い前フリでしたが、そういうわけでエブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス(長いが、電通のヤリサー陽キャが考案した例の略称は死んでも使いたくない)を見てきました。予告編の段階では、「面白そうではあるけど、円盤か配信まで待つんだろうなー」と思っていたのが、みいちゃんはあちゃんのみなさまと同じく怒涛のアカデミー賞7部門受賞に尻を蹴りあげられる形で、劇場へと足を運ぶハメになったわけです。結論から先にお伝えしておきますと、予告編で脳内に繰り広げられたワクワクがもっとも面白いような映画でした(アカデミー予告編賞って、ないんですかね?)。近年のアカデミー賞ってノーベル平和賞のように政治色が濃くなってきてて、映画作品の純粋な評価としてはまったく信用できないんですけど、本作に関しては、「LGBTへの偏見」「アジア人蔑視」「女性の軽視」などの問題へワンパッケージでまとめてメッセージを送れるスナック感覚の手軽さが、最大の受賞理由だと指摘できるでしょう。この狭い穴めがけて投げた球を通すことのできたプロデューサーと脚本家の勝利だとも言えますが、どちらかと言えば品性に欠けるバカ映画の部類なので、過去の受賞作が持つ格式と見あっている気はしません。これ、銀河ヒッチハイク・ガイドが作品賞もらったみたいなもんですよ。

 批評家ふうに言うならば、「この映画はMulti”verse”を手段として用いながら、結果としてMulti”birth”を否定し、人生の一回性、すなわち”All is once.”を高らかに肯定しているのだ」とでもなるのでしょうが、こんな定型文はチャットAIにでも書かせてればいいーーますますテキストサイト管理人の相対的な優位性が高まってきましたね!ーーですし、アメリカの底辺を生きるアジア人の生活に、まずもって名誉白人である我々からの共感など生まれようはずがありません。全体の印象をざっくりまとめれば、良くも悪くも「中華版マトリックス」でしかなく、マルチバースを舞台としているのにストーリーは一直線で、1時間半くらいまでは「起伏に乏しいアジア顔じゃ、画面が持たねーな!」などと、轟音とともに己の実存を棚上げした不平不満をたれていました。しかしながら、ミシェル・ヨーの旦那役であるジャッキー・チェンの”kind to others”な生き方を肯定するあたりから、「あなたが置かれた場所を尊びなさい」「血は水よりも濃いことに気づきなさい」という大陸道徳の通底音が流れはじめると、もう涙が止まらなくなってしまうのです。昔、ある知人が「テレビの前で水戸黄門を見て、涙を流している父親が情けなくてしょうがない」とこぼしていたのを思い出しましたが、結局のところ我々はどんなに気難しかろうと、人生を通じてそういった「生きることの当り前さ」を否定し続けるだけの強さは維持できないのかもしれません。

 ついつい手クセで良い話ふうに持っていこうとするのを台無しにしておくと、我々オタクにしてみれば言われている中身は同じでも、生々しいアジアン・フェイスよりは美しい原神・モデリングから発されたほうがずっと心に響くわけで、娘役の俳優が顔を歪めて涙を流す演技を見たとたん、心が冷めてしまうような人非人にとって、昨今の世間が求めてくる倫理観ーー性別も人種も美醜も意識しちゃダメ!ーーはハードルが高すぎます。「ネイティブ英語にイエスと返すしかなかったアジア人が、非ネイティブ英語でノーと答えることができた」ぐらいのスモール・チェンジに、これだけカネをかけたビッグ・カタストロフが伴ってくるのは、じつに現代の映画らしいなという気にはさせられました。それにしても、ファン・シーロンさん、よかったですね! ポリス・ストーリーの頃からの相棒とともに、ついに「名誉」のつかない本物のアカデミー賞を受賞できたなんて、この事実の方がよっぽどドラマチック……え、この俳優ってジャッキー・チェンじゃないの? マジで? 妙に声が甲高いなー、甲状腺の病気かなーとか思ってたら……やっぱ、アジア人の平たい顔はちっとも見分けがつかねーな!(ツカツカと壇上にあがってきたタキシード姿のアジア人に平手打ちされる)

雑文「SHOWHEYとCHOMSKY、そしてDAISAKU(近況報告2023.3.16)」

 野球選手の顔面について言及するツイートが炎上した事件を、いまさらに知りました。頭に浮かんだことは2つあって、1つ目は親世代の道徳や倫理に対して冷笑ないし反発して、2ちゃんねるぐらいからの肉を離れた発信ーーパソコン通信のときは、まだ個人との地続き感があったーーに耽溺してきた者たちが、ほかならぬその肉の衰えによって肉の実在にからめとられてしまい、かつてあれだけ否定した昭和の価値観に同調(シンエヴァ問題!)してしまう滑稽さと哀しみです。ハンドルネーム、匿名掲示板、もしかするとポストペット、ついにはバ美肉へと至るネットの変遷とは、現世の肉を離れるための「化身」の変遷でもあったように思うのです。このいずれにも共通しているのは「自分ではありたくない」という切実な希求であり、小鳥猊下なる存在もその欲望に端を発していると言えるでしょう。

 2つ目はSNSに氾濫する言葉の群れのことで、以前「キュレーター不在の博物館の床に放置される真贋不明の美術品」とも表現しましたが、それらは自分の人生、もっと言えば己の肉とは直接に触れることのない「死者の小説」としてのみ、許容されうる性質のものだということです。一般人に発見され炎上した今回のツイートは、昭和の左巻きコメンテーターが生放送の討論番組で顔をさらして発言するときにだけ有効だった類の言説であり、そのラインを読み誤った理由が「化身」の内側にある肉の加齢に過ぎないという点は、ちょっと情けないくらいに凡庸な顛末だと言えます。

 個人的に最近おもしろかったのは、チャットAIの飛躍的な進化に生成文法がキャンセルされる危機感を覚えたノーム・チョムスキー(94)ーー「生きとったんかい、ワレェ!」ーーが公の場に現れて、人工知能を道徳の観点からクソミソにディスった件です。くしくもこれ、野球選手の顔面の話と同じで、旧世代をおびやかす新世代の台頭へ向けた批判は結局、いつの時代もどんな知能からも、道徳へと収斂するんだなあと考えさせられました。世代交代と聞くと「新旧の直接対決によって古い側がやぶれ、双方が納得した上で権威の禅譲が行われる」みたいなイメージを、特に少年漫画に過去を汚染された我々は抱きがちですが、身もフタもない言い方をすれば、古い価値観を持つ世代の引退か物理的な死によって何の意志も伴わず、突然そういう状態になるだけのことなのです。

 「早く辞めるか、死ぬかしねえかな」と思っていた人々がある日いなくなると、長らく場を拘束していた枠組み、イコール古い価値観はウソのように消滅するのですが、外殻を失った内容物はすぐに液状化して外へと流れ出していこうとします。上にもうだれもいなくなった人々は、その事実を前にホッとする間もなく、「これはヤバい!」と自らを枠組み化して流出をせき止めることで、なんとか組織の形を維持する。そして、いったん枠組みとなった個人は個人として扱われなくなり、おそらく物理的な終焉を迎えるまで、ただただ下からの批判と非難を一身に受け続ける装置と化すのです。今回のチョムスキー御大の発言を見て、長らく言語世界の枠組みだった生成文法は、ついに新たな枠組みの内側にたたえられる内容物へと移行したのだとの感慨を、強く持ちました。

 あとは、FGOヘブバン原神ブルアカの倫理観と宗教観をダイサク・イケダ(95)ーー「生きとるんかい、ワレェ!」ーーが公の場でクソミソにディスれば、昭和オタクの世代交代は完了しますね! 唐突に終わります。

雑文「テキストサイト・サーガ実績解除報告」

 シンエヴァの円盤発売に伴って2年前の「:呪」が掘り起こされ、ジワジワと閲覧数が増えているようです。新規フォロワーもチラホラ見かけるので、あらためて自己紹介をしておきましょう。ここは1999年1月に開設したテキストサイト「猫を起こさないように」ーーのちに「よい大人のnWo」へ改名ーーの分社であり、その管理人は詭弁タラコの「2ちゃんねる」より古くからインターネットの深海に生息している小鳥猊下です(例えの通り、現実に引き上げられると口から内臓を吐き出して死ぬ)。自分の中にあるオタク気質を嫌悪するあまり、人生の岐路は常にオタクから遠ざかる選択をし続け、現世に口を糊する裏でオタクへの怨嗟を表明する小説を3本書き、それでも内なるオタクを殺しきれず、いまはエヴァへの愛憎と中華アプリへの礼賛を垂れ流すばかりとなった「なれはて」でもあります。

 しかしながら、長くインターネットを続けていると、ときには望外のすばらしいことも起こります。(突然のドラムロール)このたび、なんと小島アジコ先生に萌え絵を寄贈していただきました! 私の中でテキストサイト時代のインターネットーー個人的な定義は、1999年1月から2000年12月までのワールドワイドウェブ空間ーーと強く印象が結びついている絵師が何人かおり、氏はまさにオレのレジェンド伝説の一人だと言えるでしょう。また、この萌え絵はnWoのトップ画像であると同時に、ある意図をもって作られた現代芸術でもあります。次に鑑賞の手順を示しますので、これに従ってください。

 『56kbps程度までの遅い回線を準備し、夜の11時以降に当該の画像が上部から30秒ほどをかけてジワーッと表示されるのを、貧乏ゆすりでマウスをカチカチ鳴らしながら閲覧する』

 あなたが創造的行為に加わることで、はじめてこの作品は完成するのです(背景に走るイナヅマ、「デュシャーン!」の擬音)!

 今回の寄贈によって、私が20年以上をプレイしているクソゲーであるところの「テキストサイト・サーガ」実績解除が、数年ぶりにまたひとつ進みました。生ウガニクには5年前に会ったし、あとは生ノボルとオフ会して天野大気さんにトップ絵を依頼したら、実績コンプでプラチナトロフィーをゲットだなー(左の目尻に瑠璃色の涙が盛りあがり、やがて頬を伝い落ちる)。

雑文「新世紀エヴァンゲリオン二周忌に寄せて」

 追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」
 雑文「新世紀エヴァンゲリオン一周忌に寄せて」

 シンエヴァの新作映像を見る。みなさん、「あれだけボロクソ言っといて、まだディスク買ってんの?」とあきれているでしょうけれど、否定派の真摯かつ丁寧なダメ出しに反省した監督が地球外少年少女のアニメーターに全権委任して、エヴァ破の続きを3時間くらい新作しているのではないかという一縷の望みを捨てきれなかったからです。しかしながら、かつての自分がどこかで書いたように、いつだって「希望とは絶望への準備動作にすぎ」ません。内容的にはエヴァQの前日譚で、ピンクタラコが訓練で懸垂をしていたら、過去に懸垂で死にかけた場面を思い出すみたいな、しょうもないプロットでした。ほんの10分ぐらいの映像なのですが、「人間ドラマに興味がなく、見たい絵だけをつなげたい」という監督の悪癖がギュッと詰まった怪作に仕上がっております。

 エヴァ初号機が地面から生えてきたり、父母兄弟を亡くしたばかりなのにモノローグが家出少女のそれーー親になったことがないからじゃねーの? おっと、作家は体験したことがなくても、ビビッドに描けるんだったね!ーーだったり、赤い煤が髪に触れたらなぜか眉毛ごと(たぶんアンダーヘアも)キレイなピンクに染まったり、倫理観は女性から男性に向けた暴力を許容する80年代のアニメだったり、短い中にもツッコミどころは満載です。きわめつけに、弐号機の戦闘シーンでは何のアイデアもない右腕一本のCG押し相撲を延々と見せられる。「ほんの短い時間を、映像の力で引きこむ」ことさえもはやできない、おそらくエヴァに関する最後の映像を、かつて大聖堂だったモノの瓦礫として悲しくながめました。

 まあ、ここまでは予想の範疇であり、金満家の初老オタクにとって円盤のはした金など、葬式への香典ぐらいにすぎません。一瞬、「やっぱり、原神への課金にすればよかったな……」とは思いましたが、じつのところ問題はここからです。この円盤には「プロジェクト・シン・エヴァンゲリオン」なる書籍?を宣伝する紙きれが同封されており、本作の意義についてカラー関係者が総括するみたいな目次が書かれています。公開から2年間、だれかが「逆襲のシャア・友の会」みたいなのを、シンエヴァでやってくれないかウズウズしてたのに何の反応もないので、自作自演におよんだというのが真相でしょう。しかしながら紙片を見た瞬間、2年をかけてようやく鎮火したはずの激情が再び身内にカッと燃えあがるのを感じました。読むまでもなく、これはヒトラーの「我が闘争」と同じ性質の書物であり、スターリンやチャウシェスクやポル・ポトやプーチンの内閣に所属する者たちが議場で順に演台へ上げられ、独裁者が眼前でにらみをきかせる中で、「自由に」彼の政策の「正しさ」への批判を促されるという内容なのです。

 現代の本邦において史上最強レベルの独裁気質をもった人物が、アニメや特撮という「昭和のオモチャ」だけにご執心であることを、我々はむしろ喜ぶべきなのかもしれません。有権者のみなさん、間違ってもこの人物を国会に送ったりしたらダメですからね! 超絶プロパガンダ映像で、気がつけばたいへんな場所へ連れていかれることになりますよ! ともあれ、エヴァンゲリオンという大半の人間にとっては娯楽のひとつにすぎない映像作品への「歴史修正」に抵抗を示したい奇特な方々は、私の「:呪」をはじめとした多くのネット批判記事について検閲に先んじてプリントアウトし、それでも焚書が不安というならば石碑として文言を刻みこみ、後世へと真実を伝えていってほしいと思います。

 あと、今回の新作映像にアスカの「子ども! よくがんばった!」っていうセリフがあるんですけど、これを聞いてあらためて、テレビ版の第八話からエヴァ破に至るすべてのアスカは殺されたんだな、と思いました。

 シンエヴァ新作映像の戦闘シーンについて、「初代ウルトラマンのある回における怪獣ファイトを再現したもの」との情報をいただきました。ご指摘、ありがとうございます。だからなんだってんだよ! 小鳥猊下さんだってオタクのクセに、何もわかってないクセに! オタクだからどうだってえのよ! それが面白さにつながってないことが大問題なんだよ! 「気づいた人がクスッと楽しいスパイスとしての小ネタ」だから許せるのであって、ご飯茶碗にコショウをテンコ盛りに出されて、それをおいしくいただけるのかって話をしてんだよ! もうクシャミがとまらねーよ! 目もかゆいし、オマエは花粉症かよ! しゃくしゃくしゃく、えぷそーん! エヴァ序のときは「ポジトロンライフルの照準の動きがウルトラセブンだかの戦闘機と同じそれ」みたく、上品に隠されたオマージュだったじゃねえかよ! それを、シン・ウルトラマンに関わったせいだろうよ、ギンギンにポッキアッパした部位をもう隠そうともせず、画面中央で大胆にポロリさせやがって! アタシゆるさないからね、一生アンタをゆるさないからね! FGO7章前半の感想にもチョロっと書いたけど、上目づかいの哀願から大強姦まで一足とびできる節操と距離感の欠落がオタクの下品さの正体なんだよ! キミのそういうところ、キライ、キライ、大ッキライだなあ! しかも、「何のアイデアもない」って指摘だけは当たってんじゃねーか、キモチワルイ! ご教示、ありがとうございました。

雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」

 原神の最新ストーリーを読む。ディシア編については演出の一部が破綻しており、定期的なバージョン更新の弊害を強く感じさせる仕上がりで、物語としてもビルドアップとその解決に雑な部分が見られました。いくらでも待てるーー探索しても探索しても、達成率100%にならないーーので、納期よりもブラッシュアップを優先してほしいと思います。その一方、魔神任務「カリベルト」は叙述トリックを交えた描写で原神世界の深奥に迫るばかりか、SF的なセンス・オブ・ワンダーにも満ちあふれていました。大胆に予想しておきますと、テイワットは2重地下世界の上部構造なんじゃないでしょうか。ナヒーダ編とあわせて考えると、もう1つ上に本当の世界があるーーいま冒険しているのは、ドラクエ3で言うところのアリアハンにすぎないーー3層構造になっているような気がします。

 このストーリーで語られているキャラの心情についても、ほとんど文学の域に到達していると言えるでしょう。我々がカタカナで無益さを揶揄するときのそれではなく、かつて帝国大学文学部が重々しく教授していたときの、大文字の「文学」です。nWoの更新において幾度もリフレインされてきた「醜い肉塊にすぎない私が愛されたいと願うとき、貴方は私を愛することができるのか?」という究極の問いに、「できる。それが我が子ならば」と親の立ち場から断言されてしまったことに、いまは少し愕然とさせられています。この問いは本来なら肉親に向けられるべきところを、肉親との関係性からそれがかなわず、他者へと向かうがゆえにいつも無効化されてしまう性質を持っており、例えば栗本薫を創始とする「やおい」作品群などは、なんとかしてこの無効化を乗り越えて他者へ届こうとする力学が、特定の人々にとって極めて切実な「文学」でした。ある種の悲鳴とも言えるその問いかけに対して、まっすぐ目をのぞきこみ、「まず、親との関係をちゃんと精算しろ。そうすれば、我が子がどんな存在であれ、おまえは抱きしめることができる」と、たかだかゲームぐらいに言われてしまったことへ、ある種の敗北感がこみあげてくるのです。

 さらに自分語りを続けるならば、かつて「虚構における美少女キャラの白痴性を消費することに、罪は無いのか?」と問いかけた小説を書いたことがありました。「見た目が愛らしく、性的な視線を許容してくれ、簡単にセックスできる」という男性の古い欲望を、2次元に投影する過程で希釈したのがエロゲーの美少女であり、泣きゲーにおいて「見た目が儚く、深く傷ついていて、簡単に依存してくる」へと変奏されたのち、現在の萌え絵へと遺伝子を継承されていく。おそらくは自己嫌悪から発した、このほとんど神学的な問いにさえ、原神はこちらの両肩へ手を置いて「罪は無い。一個の人間として描写されるならば」と断言した上でショウ・アンド・テルにまでおよんでくるのが、本当におそろしい。国家と世代の双方にまたがるゲームを通じたこの異文化体験のさなか、長く依怙地に保持してきたアイデンティティをキャンセルされる瞬間があり、油断しているとプレイ中にしばし茫然とさせられてしまいます。

 先日、タイムラインへ流れてきた大陸の「寝そべり族」に関する記事を読みました。興味深くはありましたが、場の衰退と個の加齢をオーバーラップさせて、本邦の精神性の正体である「寂滅」に訴えるのは、読者を獲得する戦略としては正しいのでしょうが、社会批評として早々に結論を出そうとするのはイージーに過ぎます。少なくともこれから20年を定点観測して、彼らが思想未満のそれを老いていく過程で成熟させ完遂できるのか、その行く末までを含めてこの記事は完成するような気がしました。原神になぞらえて言うなら、死をゼロとした衰えの時間軸に精神を「摩耗」させられない強靭さを、いったいどのくらいの数の魂が維持できるのでしょうか。個人的には、「最後の世代」を政治的に標榜する若者の内面などよりは、世界最大のアプリに携わる人々が抱く「もちろんゲーム制作に、社会を維持するための生産性なんてない。しかし、これこそが我々の存在理由であり、いまを生きる意味そのものだ」という熱量に進行形の時代を感じます。それに原神を愛好する若いファンたちは、熱を失うばかりの世代の諦念とは、離れた場所にいるように見えるのです。

 最近では、先に退場する者たちが「世界はどんどん悪くなっていく」と口に出すことの無責任さを、強く意識します。特攻隊員の生き残りがテレビの生放送に呼ばれ、司会者がなんとか戦後の若者たちへの批判を引き出そうとするのに、「彼らは教育も受け、私たちよりずっと賢い。きっと、世界は良い方向に進んでいくと思う」と答えたというあの逸話を思い出すのです。余談ながら、いまはなきマイナー球団のホームラン打者についてのドキュメンタリーを偶然に見てしまったのですが、全編にわたって昭和のイヤな部分が濃縮された内容で、あの時代に感じていた「生きづらさ」を生々しく追体験させられました。二度とあそこへ戻りたくないと心の底から言えることは、多少の行きつ戻りつはありながら、人類が総体としては良くなっていくことの証左であるようにも感じます。上の世代を憎む者たちの作り出した文化から、憎しみだけを取りのぞいた遺伝子が、異境の若者たちを通じて世界中へと伝播し受け継がれていくーーこの未来はもちろん、我々にとって愉快ではありませんが、それほど悪い顛末ではないような気がしてなりません。