猫を起こさないように
月: <span>2023年2月</span>
月: 2023年2月

映画「ザ・メニュー」感想

 円盤でザ・メニューを見る。アニャ・テイラー・ジョイ目当てなので、内容なんざハナからどうだっていいっちゃいいんですが、とにかくヘンな映画でした。ミステリーかと思えばそうではなく、ホラーかと言えばそうでもなく、エル・ブジ的なるものへの批判かと問われればさらにそんなことはなく、正体のわからないまま、緊張感だけは100分を途切れることなく続いていきます。いっしょに見た人は「夢のような脈絡の無さ」と表現していましたが、それを志向したというよりは、役者のアドリブを許容するユルい物語フレームのせいで、結果としてそうなってしまった感じなのです。

 チョコ天冠とマシュマロ経帷子で、無抵抗のまま荼毘に付される気のくるったラストシーンを見終わってから、モヤモヤした気分を持てあまして監督の過去作を調べたら、サシャ・バロン・コーエン主演のアリ・Gがあるじゃないですか! そっかー、下ネタありの社会風刺ブラックユーモアとして見ればよかったのかー……って、そんなわけあるかーい! ともあれ、ザ・メニュー、商売女役のアニャたんがノースリーブ・ドレスでチラ見せするワキだけは、文句なしに最高でした(性的な消費)!

映画「ブルージャイアント」感想

 小鳥猊下のキャラに合わないものは極力、言及を避けてきた十数年だったのですが、最近はその制約と誓約もだいぶ希薄になってきたーー現実ではルールを守っても、特に能力がカサ上げされないことが判明したためーーので、もうしゃべっちゃいますけど、漫画ブルージャイアントの大ファンなんですよねー(ジャズってスカしてて、nWoっぽくなくない?)。無印から始まって、シュプリーム、エクスプローラーと単行本はずっと発売日に買ってます。この作者の描くキャラクターたちは、昔の文芸時評ふうに言えば「ちゃんと人間が書けて」おり、読んでて腹が立ってこない(かなり重要)ので、とても好きなのです。ただ、人に薦めるにあたって注意しておくべき点があって、この漫画家の信条と申しましょうか、創作姿勢みたいなものを言葉にすれば、「偶然いま、この人物にカメラが向いているけれど、世界に主人公なんてものは存在しないし、だれにでもどんな不条理でも起こりうる。それが生きることの残酷さってものだ」とでもなるでしょうか。山岳救助隊のスーパー・ボランティアを描いた前作も、この考えに従って最後には主人公を二重遭難でキッチリ殺して終わらせている。

 この後味の悪い結末への非難ーーバッドエンドとわかっている長編を読みたくない層は一定数いるーーに懲りたのか、ブルージャイアントでは単行本の巻末に「有名ジャズプレイヤーとなった主人公を、過去の関係者が語る」挿話が毎回あり、「ダイ・ミヤモトは夢の途上でdieしませんよ、サクセス・ストーリーだから安心して読んでね」という目くばせをセーフティ・ネットとして用意している。なので、読者は今度こそ安心して読めると思うじゃないですか。いやいや、少しの内省で創作の信念が曲がるほど、売れているプロ作家の業は甘いものじゃありません。主人公を守られた安全圏へしぶしぶ退避させながら、本作において作者の牙は準主人公へと向かうことになります。無印ブルージャイアントの最終巻、大事なライブの前日にメンバーのピアニストが何の脈絡もなく大事故に巻きこまれ、右腕をグシャグシャに損傷させられてしまうのです! 工事現場の立ちんぼで誘導棒を振っている準主人公に、ページをめくったとたん見開きでダンプが突っ込んでくる絵は、あまりの唐突さに「コイツ、やりやがった!」と思わず爆笑してしまったほどでした。そして、どれだけ過去の巻を見直しても、この結末に至る伏線なんか微塵も出てきません。作者を問いつめたとして、「若くして大動脈解離で亡くなった有名人の死に、伏線があったか? これが世界の残酷な実相ってもんだ」としか返ってこないと想像できるあたりが徹底しています。

 無印ブルージャイアントの映画化と聞いてまっさきに思い浮かんだのが、ダイ・ミヤモトの海外雄飛のきっかけとなった、物語としては読者を絶頂からドン底に叩き落すーーじっさい、リアルタイムでは非難轟々だったーー作劇をどう再現するのか、またはしないのかという興味でした。んで、きょう見てきたんです。あまり大きくないハコだったのですが、若い原作ファンと年配のジャズファンが半々といった感じで埋まっていて、アニメ作品としては面白い客層でした。ラストの改変は、映画として収めるにはこれしかないというラインでしたが、あまりにフィクションの機能による称揚が強すぎて、石塚真一作品の本質からは少し浮いているような印象を持ちました。話題になっている演奏シーンの映像的なクオリティは、京アニの音楽モノなどで目の肥えたオタクには正直なところ、厳しいと言わざるをえません。上原ひろみのギャラが制作予算の大半を占めてしまったせいなのか、CGを含めたルックスは全体的に劇場版というより、テレビアニメのレベルです(録音は文句なしなので、円盤でのリテイクを期待)。

 「アニメ映画を見る」のではなく、「ジャズライブに参加する」意識で行った方が満足感は高まるーー前の席の老人は終盤、目をつむって横ゆれしていたーーと思いますが、夢を追う若者たちの青春を描く、最近ではめずらしくなってしまったストーリー展開は原作同様、やはり特筆すべき熱量に達しています。疲れた大人たちは、若いパッションが己の諦念を砕いてくれる瞬間をどこかで夢想しているし、子どもの純粋さが冷めた大人の打算に勝ってほしいと、いつも願っているのです。その意味で、ダイ・ミヤモトの狂気じみた情熱が本作を視聴する若い人々に感染し、この老いた世界の見かけに充満する「冷めたあきらめ」を吹きとばしてくれればと、半ば本気で期待しています。あと、「映画館で見るべき!」との感想を散見しましたが、「防音室とサラウンド再生環境の無い家庭は」を条件として追記しておきましょう。映像の一部は大画面に耐えるレベルじゃないし、ホラ、衰退期とはいえ全国民がウサギ小屋に住んでる貧民ってわけじゃないから……(無用の挑発、そして台無し)。

雑文「PEOPLE‘S GENSHIN IMPACT(近況報告2023.2.21)」

2022年12月29日

 今年を振り返れば、原神から受けた衝撃は個人的な大事件であった。もちろん諸君の予想するとおり、窓がネジで閉まりきらず、隙間風のびょうびょう鳴るデジタル四畳半の向かいには、雷電将軍がプレステ5のつながれたブラウン管テレビをながめながら、つまらなさそうにコタツ蜜柑に興じておられる。しかも、草薙の稲光を携えた防御60%無視のご本尊であり、レベルは本体・武器ともに90へと到達し、なんとなれば聖遺物の厳選も軽く終わっているぐらいである。

2023年2月21日

 原神、冒険ランク56に到達。苦節2ヶ月をかけて育成した天賦オール10のパーフェクト雷電将軍がおっぱいの谷間から刀ーーおそらく、ウテナへのオマージューーを抜き出しながら、「稲光・イズ・永遠」とハスキーボイスで発声すると、世界ランク8のあらゆる敵が一瞬で蒸発するようになった。このゲーム、FGOなどの旧世代アプリに比べるとガチャがとてもよく考えられていて、天井が低い代わりとして育成をかなり重めに設定してあり、ガチャへ付随するポイントで育成に必要な各種リソースを交換できるようになっている。例えば、FGOのガチャはピックアップの星5以外すべてゴミが排出され、まさに「万札シュレッダー」としか形容のできない人類悪的ギャンブルであるのに対して、原神のそれは「ゲーム内のモノと時間を適正価格で購入させていただいている」ような印象さえ受ける。それこそ、「キャラは持ってるけど、育成のためのモラと素材が足りないからガチャで補充しよう」なんて引き方もできなくはなく、天井がアホみたく高いクセに育成は秒で終わるーーゆえにキャラへ愛着のわきにくいーーどこぞのFGOには新アプリを導入する際、ぜひこのバランスを見習ってほしいものだ。

 さて、「おっぱい、ぷるんぷるーん」以外のゲーム内近況報告ですが、重すぎる育成リソースをやりくりするため、モラと経験値本めあてに各地の探索度を上げたり、手つかずだったデートイベントを順に消化しているところです。初期に導入された軽い読み物と油断していたら、凝光の「私は幼少期に良い教育を受けられなかったから、貧しい子どもたちと関わることが彼らにとって教育になればと考えている。時が過ぎて私の肉体が消えたあとも、この名が良い統治を表す概念として彼らに引き継がれていけばと願う」という告白にふいをうたれ、号泣してしまいました。人間の世界と関わるのがイヤでイヤでオタクになったはずなのに、気がつけば人類の継続を願う言葉に共鳴している自分を不思議な気持ちでながめています。親を憎まない若いオタクたちがこうなのか、大陸の文化に底流する思想がこうなのかは判然としませんが、P’S REPUBLIC OF CHINAのことは嫌いになっても、GENSHIN IMPACTのことは嫌いにならないでください! 貴様ッ、中華アプリへの課金は銃やミサイルに姿を変えてオマエをいずれ殺しにくるぞ! 構わないッ、凝光様や雷電将軍への愛がオレの死だというなら、むしろ望むところだッ!

質問:実際、大陸文化とのかろうじて共感できる部分ってMOEしかないんじゃないかとか本気で思いますね
回答:まあ、チビで出ッ歯でメガネで首からカメラをさげた農協の我々も、同じ手法で世界を懐柔してきたわけですから、このカウンター文化侵略に異議を申し立てる権利などないわけで。さあ、ごいっしょに、「萌え、萌え、きゅん」!

ゲーム「ヘブバン・Angel Beats!コラボ」感想

 ヘブバンの最新イベントを読む……というより、視聴する。コラボ先のアニメは知りませんでしたが、以前に指摘した「不老不死美少女フィギュアのマインドスプラッタ」は、このライターの性癖であることが確定しました。本編のほうは重要な設定を吐きつくして、今後の展開にはまったく期待できない袋小路のドン詰まりに来ていますが、やはりイベントにおけるギャグパートだけはハチャメチャにおもしろい。作者が関西出身ということもあり、くりだされるギャグとのシンクロ率は120%を優に越えて毎回を大笑いさせられてしまうのですが、この人物の書くシリアスパートがもうとことん肌にあわない。そのあわなさっぷりはシンクロ率ゼロを突き抜けてマイナスに突入するレベルで、今回のシリアスパートが長めの上、2部構成だったのには本当にまいりました。途中からもう画面を正視できなくて、ブラウザをゲームウィンドウーー容量の問題でPC版に移行済みーーにかぶせて「はよ終われ」と念じながらのネットサーフィン(古ッ!)を強いられる始末です。「高校生の想像する人生」や「大学生の思い描く家族」みたいな、社会人経験がまったくない人物の妄想に近いタワ言を一方的に聞かされていると、かつての泣きゲー人気の正味はじっさいこんなものだったのかという気分にさせられます。しかしながら、FGO第7章後半の感想で冗談みたいに書いた「2次元文化の成熟が生む新たなスピリチュアル」は、すでにヘブバンにおいて実現していることがわかりました。美少女動物園で語られる死生観によって成立したこの「美少女新興宗教」は、サイエンスフィクションへ中老年期の人生を仮託する「私小説ロボットアニメ」と同じ、人類の歴史に新しい展望を与える本邦でのみ可能な一大オタクタキュラー(なんじゃ、そりゃ)だと言えるでしょう。

 あと、今回のイベントを読んでつくづく考えさせられたのは、人生も半ばを過ぎるとだれしも「これ以降、もう決して手に入ることはないもの」が見えてきて、それらへの感情は「嫉妬」「執着」「無化」「諦念」のように様々な形で噴出するのだということです。そして、ヘブバンにおいて最も強く表出されている反応は、手に入らなかった対象の究極的な「美化」です。その「美化」の純度はあまりに高すぎて、例えば板垣恵介の作品において「母である以前に女である」が「女である以上に母である」へ反転する瞬間と同じように、ただの子どもに過ぎない少女を無垢無謬の天使の位置へまで称揚してしまっている。さらに言えば、FGOのシナリオ(onlyファンガス)が得意とする「醜いと断じられた存在から生じる美」や「砕かれた悪徳の残骸から惹起する善」の玄妙さと比べると、ヘブバンはあまりに無邪気に世界すべての真善美を「美少女の『個人的な体験』」へと還流させすぎており、「大人の責任」、もっと言えば「男性に課せられた義務」が微塵も、どこにも存在しないのです。しかしながら、この「小児的な無邪気さ」がギャグパートにおける「うんこちんちん」と同質の、狂笑を誘うセンスと骨がらみで表裏になっているのも事実で、これはじつに悩ましい点だと言えましょう。なんとなれば、私にとっての「いちばん好き」と「いちばんキライ」が一作品の中で同居するハメになってしまっているのですから!

 余談ながら、もしFGOとヘブバンに共通する志向性があると仮定するなら、それは「良い人間でありたい」という願いなのかもしれません。もう充分に古い引用になってしまいますが、無印銃夢に損壊した死体の写真、特に子どもの写真を撮りたくて戦場カメラマンになった男が少女を助けるため、銃を持った兵士の気を軽口で引いて近づいて、ついには射殺されてしまうという下りがあります。最近では、我々を駆動するのはこんな、「善への希求」のような強度を持たない、ほとんど突発的な「善への衝動」なのではないかと感じることがあります……オップス、ただのディスレスペクト・テキストなのに、あやうくいい話ふうなテイストでまとめそうになりました! ヘブバン、シラフのときはオヤジギャグでドッカンドッカン笑いをとる軽薄なイケオジなのに、アルコールが入ると激重トーンで反論も離席もゆるさない雰囲気を出しながら、「熱烈な恋愛の果て、愛するオンナと添い遂げるのが最良の人生」という単線の説教をオッぱじめるの、なんとかしてくれないかなー。それってさあ、ぜんぜんキャラクターの話じゃなくない?

雑文「アニメ版チェンソーマン・第1期終了に寄せて」

 NOPEについての感想を調べるうち、チェンソーマン作者の妹アカウント(意味不明)がこの映画をほめているのと、チェンソーマンのアニメが漫画版のコアなファンたちに大きな不興をかっているのを同時に知りました。この配信全盛の時代に、いい音響設備を持っていれば話は別として、わざわざ円盤を買う層がいるとも思えませんのに、その売り上げを人気のバロメータとして語っているのには、いつまでも野球のニュースがスポーツコーナーの大半を占める「本邦の変化できなさ」と同じものを感じます。以前、いくつかの読み切りへの感想に、「この作者を理解できるのは自分だけだと思わせ、読者の一人ひとりと直接に書簡を交わすことのできる、稀有な作家」みたいなことを書きましたが、今回はこの特性がアダになっている気がします。なまじ感想を言語化できる、中途半端に偏差値の高い層がファンなので、SNSでバズりやすいと同時に燃えやすくもあったんだろうなーと思いました。当の監督さえも口を閉じていられずに、「アニメではなく、邦画のように撮影した」みたいなことを得々と語らされてしまうあたり、本当にファム・ファタールのような作家性だなあと感心してしまいます。まあ、チェンソーマンは洋画、それもB級洋画のチープさで撮らなきゃダメなんですけどね(「運命の女」の色香にやられた者の目で)!

 「アニメ版チェンソーマンのどこがダメか?」という議論をイヤイヤ横目で流し見しましたけど、わかりにくい例えながら「東大京大以外に通っていた者が、自分の出身大学は明かさないまま、私立大学の序列について語りあってる」みたいな雰囲気を感じましたねー。この例えに乗っかって言うなら、アニメ版の評価は「都心から少し離れてるけど、難易度も手ごろで、いい大学よ」とでもなるでしょうか。自戒をこめて書き残しますが、中途半端に偏差値が高い人物の言語化は、表現した内容と意識の本体に微妙なズレがあるんですよね。そして、発した言葉の方にピッタリ合うよう意識の本体を補正していくことで、やがて人格にまで影響が出るようになっちゃう。SNSがもたらした最大の弊害は、「言語化しないほうがいいもの」の存在を人々に忘れさせてしまったことだと考えています。個人的には「言語化に前駆する意識の広がりを後置される言葉で剪定しない」ということを、最近では肝に銘じておる次第です(これを記述するのが、そもそもの矛盾ですが……)。

 余談ながら、海賊王を名乗る詐欺事件の話が原作ファンの間で思ったほど燃えているように見えないのも、ファン層の大半を占めると思われる言語化の苦手な低偏差値ヤンキーたちは、ツイッターに生息していないからでしょうねー。長くなってきたのでまとめにかかりますと、アニメ版チェンソーマンの敗因は、「中途半端にかしこいメンドくさいファンが、受け手と送り手の双方に多く含まれていたこと」だと指摘できるでしょう。特に本邦での「かしこさ」ってのは、神経症の言い換えみたいなもので、美人の顔にある小さなひとつのシミさえ批判の本体にしちゃいますからねー……おっと、例えが昭和オヤジすぎて、平成キッズのみんなは引いちゃったカナ? 美醜は無いもののようにふるまうのが令和流だったよね、メンゴメンゴ! 最近では加齢と飲酒で脳細胞の多くがいい具合に破壊され、「言葉が存在しない状態」に生きる時間が増えてきました。これこそ、実家住み・マルチプルインカム・中卒ヤンキーの持つ多幸感の正体なのだと気づき、これまでの無用の苦しみをふりかえると、その遠回りに悔しいような気持ちにもさせられます。

 ともあれ、イケメンの頭頂部の砂漠化ぐらいのこと(大問題)で第2期を立ち消えにしてしまっては、元も子もありません。いまこそ私たち高偏差値の男前ハゲは、あたかも高等教育を経験しなかったかのようなフリで、アホになるべきではないでしょうか。では、みなさん、ごいっしょに! (ロンパリ前歯2本欠損ダブルピースで)チェンソーマンのアニメ、さいこー!

小説「虐殺器官』感想

 タイトルがすばらしいので、「読まなきゃな……」と思いながら十数年が経過した虐殺器官をようやく読む(青少年のみなさん、これが中年期以降の時間感覚です)。膨大な設定と蘊蓄の集積を、まるで日本人みたいな自意識のアメリカ人の語りで聞かされる、しかもぜんぜん話が進まない、ダメなときのメタルギアシリーズみたいな作品でした。「ストーリーを語るための設定」と「設定を語るためのストーリー」があるとすれば完全に後者へ寄ってて、全体の90%を過ぎてもまだ蘊蓄を語り始めるので、思わず「いい加減ストーリーに集中しろ!」と叫んでしまいました。もはや調べる気はありませんが、世界のコジマが激賞しそうな雰囲気だけはただよっています。なんと言いますか、現実における死の経験不可能性が結果として神秘のヴェールをまとわせたって感じがしますねー。

 あと、三体のときにも指摘しましたけれど、男性作家が作中でつい少女をリョナっちゃうのは、現実における少女との性交不可能性にイラだつあまり、架空の暴力へと欲望を転化しちゃうんでしょうか。作中で頻発する児童スナッフには、現実における本作の映像化不可能性を感じますが、もし「原作に極めて忠実な」実写が存在するのだとしたら、ぜったいに見ます!

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第2部7章後半を読了。「育ちの悪い会社」だなんて、「だれかが非難や糾弾に用いる言葉は、その人が最も言われたくない言葉でもある」を地で行く育ちの悪いシャバゾーがチョーシこいて、本当に申し訳ありませんでした(土下座)。重課金者にとって愉悦のORT戦についてはすでにお伝えしておりますが、カマソッソさんが文字通りのゾンビアタックでこの難敵を単騎撃破したことを想像するとき、私のマナコとオソソッソはじゅんと熱くうるんできます。戦闘の合間合間に語られる挿話はどれも出色の出来で、アルコールが入っていたこともあり、ずっと号泣しながらプレイしていたことをまずお伝えしておきます。都市英霊の最期へ至る顛末は「勝ちがないのに、なぜ戦うのか?」という問いへ真正面から答えており、いままさに行われている地上の虐殺のすぐ傍らへ鳥瞰から舞い降りるような気さえしましたし、異霊プロテアの言葉なき翻心を描く下りには、「人は打算には打算を、気持ちには気持ちを返すものだ」という台詞を思い出して、夜中なのに強めの嗚咽がほとばしり出て近隣を騒がせたほどです。

 良質な物語だけが与えられる豊かな余韻に浸りながら、さらに思いつくまま7章での印象に残った場面をあげていきます。ある人物へ向けた「リーダーの器でないことを自覚しながら、必要な場面では逃げずに気持ちをふるいたたせ、必ず決断の責任を取る」という評が、個人的に深く胸へ刺さりました。存外「決める」ことのできる人間は少なく、それが組織や人の生き死にに関わるとなれば、さらにその数を減じるにちがいありません。社会の底から見上げる野党的な視点のフィクションばかりが横行する現在、意図せぬまま高所に立たされた者の責任と覚悟の気高さを描けるのは、FGOが空前の大ヒットとなったからこそで、他のスマホゲーでは表現のおよばない魅力だと言えるでしょう。じっさい、昨今のSNSにおける他責や他罰の有り様は見ていられないほどですし、学生の世迷言や貧乏人の私小説なんて、もう薬にもしたくないですからね!

 また、あるディノスの死に際しては旧エヴァの「彼の方がずっといい人だった。生き残るならカヲル君の方だったんだ」という告解を思い出しましたし、「フィクションには涙を流せるくせに、身近な人たちの死にはまるで不感症である」という自責の吐露は、己のことを言われているようでした。以前、「nWoに可能な愛と勇気の物語を」とスタートした小説に「紡がれるのがどのようなテキストであれ、私たちは本質的に小鳥猊下を読んでいるのです」という感想を寄せられたことがあり、当時は批判のようにも感じられたのですが、いまならばこの感覚はよくわかります。私がFGOに触れるときの態度がまさにそれで、本作を通じて「リアルタイムで追う最高の物語のひとつ」を体験しているのと同時に、「同じ時代を生きるファンガスの人生」を読んでいるのだと言えるでしょう。第2部6章が彼の歴史観や人間観を高い視点から集大成的に表現していたのに対して、この7章は王道的なストーリー展開でありながら、地に足をつけた彼の個人的な感覚や感情を引き写して、そこここに落とし込んでいるような印象を受けました。

 マーリンに代表される「現世と隔絶された、孤高の観察者」というモチーフには、生涯を語り部として過ごしてきたファンガスの人生と自意識が仮託されていると確信するのですが、今回の「星見の姫」はより解像度の高いリフレインとなっているように思います。これだけ多くのファンたちに求められている人物の自意識が、「与えられた環境からは離れて生きられない巨竜、その心はどれだけの時間を経ても成長せず、善悪の区別なく未来永劫を観察し続けるのみ」であることには悲しみにも似た、しんとした気持ちにさせられます。成長とは幻想であり、たとえ家族を持ち日々を仕事にやつしたところで、容れ物の外殻が厚みを増すだけのことで、たたえる中身が大きく変質することはありません。彼はあるキャラの幕間の物語において「生きることは、濁ること」と表現しましたが、その言葉とは裏腹に出力されるテキストは、ますます清明に研ぎ澄まされていくのです。この事実は私に、戦争帰りのトランペット吹きを書いた古い小説を想起させました。人を殺したために音楽から見放されたと嘆く黒人ペッターへ、乞うて一曲を吹かせたところ、これまでに無いような深い音を響きわたらせる。彼はその直後に、信じていた音楽から裏切られたと感じ、自殺してしまうーーそんな内容です。

 あと、「死徒」とか「直死の魔眼」とか、月姫リメイクアルク・ルートだけ読んで続きを断念した私にもかろうじてわかる単語を散見しましたが、「同じ部品で再構築しても、機能停止を一度でも通過すると再起動できないのが、生命の本質であり死の定義」という考え方は、初期作品での観念的な「書生の繰り言」から大幅にアップデートされた「魂の思想」とも言うべき何かへと至っており、「書き続けること、生き続けること」による長い時間をかけた変化を見ることができました。キノコの着ぐるみの中にいるファンガス本体はアラフィフぐらいだと推測しますが、この年代は論語とは違って天命を知るどころか、フォントサイズ100かつボールドの「惑」一文字であり、人生の残り時間が見えてくるからでしょうか、傍目には無謀に思える大転身をする方々がポロポロ出始める時期です。どうか社長を筆頭とする周囲の大人たちは、この希代のストーリーテラーが乱心して道を踏み外さないよう、最果ての塔の錠前をしっかりとロックして、物語だけをさえずるカナリヤとしての天寿を、彼にまっとうさせてあげて下さい。

 7章読了後に型月世界とやらのwikiを眺めていると、20年を塩漬けにされていた大学ノートの「最強設定集」が、FGOの大ヒットにより正史として語られ始めていることへ感動を覚えると同時に、これがコアなファンの内輪ウケに消費されるだけでいっさい世に出ないまま、書き手が寿命を迎える未来も充分にありえたのだと思うと、そら恐ろしい気分にもさせられるのです。もはや中身がスッカスカのアバターでさえ、「全5部作!」なるキャメロン翁の妄言を看過しているのですから、型月世界の膨大な裏設定をすべて預けられつつあるFGOなら、「全9部作!」くらいブチ上げてファンガスに残された作家人生へ明確なロードマップを引いても、だれからも文句は出ないでしょう。

 そして古希を迎えるあたりから、FGOが「世界の真実」を観念的なテキストで語る新しい宗教と化していったとして、それを2次元文化の成熟が生みだした新たなパースペクティブとして全面的に受け入れ、什一税のお布施も死ぬまでは欠かしませんので、関係者のみなさま、どうか何卒、なにとぞ!

ゲーム「2023年のFGO」雑文集

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

 FGO第2部7章の後半を進行中。ORT戦が重課金ユーザーにとって考えうる最高のギミックで実装されており、やはりファンガスは私のnote記事を読んでいるにちがいないとの確信を深めた。クラス相性を眺めながら4枚あるNP100礼装で4回宝具を撃つ作業は、優雅なアフタヌーンティーを楽しむが如しである。低所得の無課金ないし微課金ユーザー諸君は、盾女(箱男の文化的待遇)の時間による復活をイライラ待ちながら、一週間ほどかけてチマチマORTの体力を削りたまえ。それにしても、サービス開始から7年を経て、いよいよ完凸カレイドスコープがBlack Lotusなみのやらかし感を放ち始めていますねー。

 そっかー、ククルカンがウルトラマンだったかー。いま、あらゆる予想が外されていく快感に酔いしれています。ジャンピング土下座の披露は、また後日。(上映初日に言わされてる顔で)FGOさいこー!

 星4が何体か出撃した時点でORT討伐終了。星5は無傷のままでした。もっと強くてもよかったんじゃないかなー。え、盾女(箱男の以下略)の復活って時間経過じゃなくて戦闘回数なの? 開始1年未満の初心者がストーリー読みたさでここまで来たら、明確な「詰み」が生じるんじゃない? 課金誘導なの?

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

 FGO奏章プロローグを読む。第7章をすでに読み終わったもっとも熱心なファンたちが、「ではまた、1年後にこの場所でお会いしましょう」と解散しかかるのに、「待った、待ったぁ!」と運営側(notファンガス)がチン入し、新商品のチラシをまきだしたみたいな感じですねー。第6章からにおわせてあった「プレイヤーと主人公は、イコールの存在ではない」ことが極めて不穏な形で顕在化してきていたり、7年にわたる人理救済の旅の結末へ向けて設定が再セットアップされたりするのを非常に興味深く読みながら、一方でどこかガッカリするような気分もあります。

 メタ的にFGOの現況を鳥瞰ーーうッ、「フカン」と書こうとすると頭痛がーーすれば、「最終章のライティングと実装」に向けたファンガス以外のライターによる時間稼ぎでしょうし、さらに言えば「第3部の展開と設定の詰め」と「原神クラスの新アプリ立ち上げ」のための準備期間だと指摘できるでしょう。つまり、ここから3章分は1.5部と同じく、失礼ながら「二線級のライター群による本筋とは離れた埋め草」である可能性が非常に高く、ファンガスのテキストだけを読みたい少数のファンにとっては、2〜3年の虚無期間が約束されたことと同義なのです。

 まあ、まいどまいど失礼かつ悲観的な予想ばかり垂れ流す当アカウントのようなすれっからしのファンを、一喝してシャキッとさせるような快作をせいぜい期待してまーす(中指の第二関節までを鼻孔に挿入し、寝そべりながら)。

映画「NOPE/ノープ」感想

 映画評論家のみなさんや社会学者の先生方が激賞している「NOPE/ノープ」を、遅ればせながら4K Ultra HDで視聴しました。予算の関係で1チップ方式の疑似4K型落ちDLPプロジェクターしか用意できなかったのですが、これまで使っていた液晶フルHDプロジェクターに比べて、黒の沈み方や表現力が格段に上がっているのが素人目にもわかります。黒い肌と夜の闇と物体の影をクッキリと見分けることができたのには、得も言われぬ感動がありました。いやー、黒人主演の映画を見るのにはまさに最適のプロジェクターで、購入までにはいろいろと悩みましたが、結果としてベストバイだったことが証明されてホッとしましたねー……え、肝心の映画の中身はどうでしたかって?

 当たり前の話ですが、黒人や女性や同性愛者や障害者が監督だから面白いものが撮影できるだろうなんてのは、冷静に考えればまったく正の命題と成りえないことへ、そろそろ映画評論家のみなさんや社会学者の先生方は気づくべきだと思いますね。もし、こんなB級SFクソ映画に「クソ映画!カネ返せ!」と心の底から叫ぶことができず、むりくり「社会的な文脈」とやらを見出さねばならないのが生業だったらと想像するだけでゾッとしますし、そんなルンペンみたいな職業につかなくて本当によかったなと、いまは胸をなでおろしております。刺激的な映像をブツ切りにつないだだけの「正味」に対して、チンパンジーとコリアン・キッズの関係性へハッパをキメたような「解釈」を垂れ流さなくてすむというだけで、人生はずっとシンプルで生きやすい場所になることでしょう。いやー、それにしても黒人主演の映画を見るのに最適なプロジェクターを手に入れたのがわかったことだけは、本当によかったです!

 あと、作品の中身を知らずチューニングの合わない前半1時間はなんとか見れるけど、後半1時間で積み上げたぜんぶをブチ壊しにされて「クソ映画!カネ返せ!」って叫んだ作品あったなー、なんだったかなーと考えていたら、ライアン・ジョンソン監督の「LOOPER/ルーパー」だった。よく見たら邦題の表記の仕方も同じで、クソ映画どうしの意図せぬシンクロニシティに、笑った。

質問:NOPEを楽しめた派です。プロジェクターが良いのはわかりましたから、もう少し内容を具体的に。
回答:直近の作品で例えるとサマータイムレンダ問題とでも申しましょうか、端的に言えば「同一作品内ジャンル崩壊」を起こしているのが最大の問題でしょう。ミステリ仕立てのホラーとして始まったのが、気づけば西部劇風のエヴァンゲリオンになっているのですから!

雑文「海賊王には、なりたくない」

 海賊王の名を騙った事件のニュースを見る。生放送だろう番組でも作品名が出ないどころか、ほのめかしやにおわせさえない不自然なほどの箝口令に、作者の狂乱と編集部の狂奔がしのばれて、なんだか楽しくなってきました。もちろん作品に罪はありませんが、幅広いファン層の一部について、大きく解像度が上がりましたねー。

 本邦の長い長い下り坂と並走してきた長期連載が、そのストーリーの最終盤において、このような現実とのリンクを生んだのは、じつに示唆的かつ皮肉なことです。新たに何も手に入らない世界において、すでに持てる者の財産を仲間たちと強奪する行為に、肯定的な文脈を与えてしまっているのですから!