猫を起こさないように
年: <span>2022年</span>
年: 2022年

小説「三体(第2部)」感想

 小説「三体(第1部)」感想

 三体第2部、上巻の後半から加速がついて、一気に読了する。正直、第1部から想像していた内容とは大きく異なった、怒涛の展開と破格の面白さでした。作中で言及のある銀英伝を始めとして、ヤマト、ガンダム、エヴァなど本邦の想像力を下敷きに出力されている感じが伝わってきて、やはり水滸伝や封神演義のようなフィクションとしてチューニングを合わせるべき作品だと思います。SFとしてとらえた場合、「黒暗森林」という概念がラストの謎解きを含めた世界観の骨格になっているので、これに充分な説得力を感じられるかが評価の分かれ目になるでしょう。まあ、私は「民明書房刊」ぐらいの感じで楽しみましたけど、エンタメ目的の理論やさかいに、スーパー・ストリングスの学者センセたちよりは、よっぽど罪がおまへんなあ(ウワメ遣い)。個人的には理論そのものより、「猜疑連鎖が宇宙の律だけど、やっぱ地球から愛を広めなくちゃね!」みたいな台詞に、思わず米粒を噴き出しました。中華思想にどっぷり浸かった人物が日本のアニメに衝撃を受けた様子(ヤック、デカルチャー!)を、何の加工もなく素直に表現しているんですかねえ。

 セカイ系をなぞると思わせながら、森雪のイビツな造形に代表される「童貞男性の中でボッコボコに発酵した女性のセクシャルな魅力」を連想させる文章表現は、第1部に引き続いてそこここに散見されるものの、ヒロインとの関係性に問題の解決を集約しなかったのには、己がいかに少女へ世界の命運を背負わせる本邦の虚構群に毒されていたか、恥じ入る気持ちにはなりました。そして、本作をエンタメとして楽しんだ以上に私を落ちこませたのは、「四百年先の未来」という視座から同胞の存続を我が事として真剣に考えることのできる者が、はたしていま本邦にいるのかという疑問と、遅れてやってくる諦念です。「己の人生と、願わくば子の代がマシな時代を逃げ切れればいい」ぐらいの祈りまでがせいぜいで、そんな長大な未来を現実の地続きとして思考する人物が本邦にひとりでもいるとは、まったく信じることができません。

 しかしながら、今期のFGO夏イベにも顕著な、個人的に”刃牙問題”と呼称している「文系の想像力が最上かつ最良の価値だという妄想」ーーオレの宇宙社会学による呪文は、スーパー水爆より破壊力バツグンだぜ!ーーが、本作にも中華思想さえ凌駕する作者の自我としてシミのように表出しているので、現実とフィクションの間に、何か実効的な相互作用を見出さないのが賢明だなと、いち社会人として正気に戻りました。あれ、でもまだ第3部が残ってるけど、ストーリーはきれいに終わってない? もしかして、「黒暗森林」の思想を前提に、地球の宗教が変容していく話とかをするのかしら?

雑文「BCSとKOJIMA、そして3BODY(近況報告2022.8.11)」

 世界のコジマ(笑)による「ベター・コール・ソウル、シーズン2の途中で止まってるけど、続きを見るべき?」みたいな妄言がタイムラインへ流れてきて、ひさびさの強烈な感情に脳が沸騰している。さらに最悪なのは、「シーズン6の11話だけ見た」と明言しているところで、いまこの地点から振り返って、極めて細密に編まれてきたことが明らかとなった物語を、結末部分だけつまみ食いしてるって、ネタバレ配信者とかファスト映画の持つ創作物への敬意の無さとアンタの態度、なにがちゃいますのん。この人物、ブレードランナーとか世間の評価が定まった基本的に「味つけの濃い」フィクションの骨格へ、「俺の考えた最強の設定」をトッピングしたパロディを創作のベースとしていて、彼の提示するオリジナル要素に感心したことは、ただの一度もありません。

 今回の発言は「モーツァルトの演奏に難癖をつける、自らの非才に気づかないサリエリ」みたいな滑稽さであることを、だれか教えてあげて下さい。デス・ストランディング、基地に到着する手前で止めたけど、最後までプレイするべきですかね? Youtubeでエンディングだけ見ちゃダメですか? メタルギアの版権にまつわる騒動も、これまでは同情的に眺めていましたが、今回の発言を目にして以降は、この人物のふるまいにも問題があり、コナミ側の言い分には充分な理があったのだろうなと思うようになりました。怖いですね、ツイッターって! この傲慢なサリエリ君は、ベター・コール・ソウルの面白さがわからない一方で、三体第1部を激賞してるんですけど、「白身魚の刺身は、バーガーより味が薄くて、不味い。大統領もそう言ってる」と公言して恥じない自称・美食家みたいなもんですね!

 いい加減ムカつくので、世界的な痔質野郎から離れますが、三体第1部を読んでいていちばん引っかかったのは、地球三体組織の創始者が物理学者になった娘を評する場面です。「あの子は特別だった。数式を教えると『何に使えるの?』ではなく、『美しいわね!』と答える子だった」という内容で、「それって、数学が得意な人間にとって、極めてノーマルな感覚では?」と思うと同時に、このくだりに文系と中国人、どちらの感性がより濃く反映しているか、いぶかしく思いました。いま三体第2部の前半を読み進めてますけど、グラップラー刃牙の「脳内シャドーを何千戦も行ってキャリアを積めるから、あらゆる格闘技の中でイマジネーションが最強」と同じ結論になりそうで、ハラハラしています。

小説「三体(第1部)」感想

 いまさらながら、三体の第1部を最後まで読む。オバマ前大統領の発言がよく引き合いに出されますが、「中国から出てきたサイファイ」というのが最大の評価軸で、例えばFBIなどによる「中華人民の心性を知るために熟読する」といった視点が、読み手の興味の半分ぐらいを占めている気がします。

 前半は近年の個人的な関心にクリティカルヒットする「物理学は死んだ」「三体問題に解は存在しない」に駆動されてグイグイ読んだんですけど、後半はアルファ・ケンタウリに知的生命体がいるベタさとか、その知的生命体の思考と文明が地球人のそれらを延伸したものでしかないとか、「少女」に向けた男性作家の視点がいちいちキモい(グロ趣味だし)なとか、そもそも史アニキぐらいしかキャラが立ってないんじゃねえのとか、全体的に事前情報で予期していたハードSFというよりは、大衆向けの武侠小説ノリだったのは意外でしたねー。

 あれですかね、全3部作はマトリックス・シリーズのように推移するんですかね、「理論」「ドンパチ」「宗教」っていうね。続きを読むべきかどうか、ちょっと迷っています。

質問:アンチを許さない空気感、みたいなものは感じざるを得ないなあと思いました
回答:小説の巧拙でいうと上手い方の作品ではないので、オバマからの言及が世間の評価を確定したように思います。中国共産党の中央政治局さえ許せば、少女をリョナりたいという欲望だけはビンビンに伝わってきました。

 小説「三体(第2部)」感想

ゲーム「2022年のFGO」雑文集

ゲーム「2021年のFGO」雑文集
ゲーム「FGO第2部6.5章」感想
雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 どこかで深く信頼していたものから、シンエヴァのごとく裏切られた傷心を癒すためにFGOを起動すると、なぜか聖晶石が1000個(時価総額6万円)ほどボックスに配布されていて、今度は自分の気がくるったのかと疑いました。7周年ピックアップを見て、「まーた、この顔かよ」なんて微苦笑しながらも、身内優遇で性能がいいことだけは間違いないので、300個分ぐらいガチャを回したら、運よく2枚を引けました。んで、種火をつっこんで再臨させてから、ようやく「これ、月姫のキャラじゃん!」と気がついた次第です。うーん、オルガマリーをアルクェイドで倒すみたいな展開は、昔ながらの型月?ファンにとっては嬉しいのかもしれませんが、エヴァンゲリオンマトリックスの最終作みたいに、作中の困難やテーマを「キャラで解決する」エンディングになってしまうのではないかと恐れています。時代時代の「人間」や「世界」といった抽象を語りきるのが文学の役割であって、FGOは現在までのところ、ファンガスの筆でのみという条件はありながら、その域に達していると思うのです。何度も言及していますが、キャラと文学を両立させて終わることのできたジュブナイルは近年においてランス10のみであり、これらの妄言もFGOがそれへと続くことを心から願うがゆえの老婆心だとお受け止めください。

 FGO、やはりファンガス千年王国の礎を築いた母たる存在だからだろう、7周年記念のマザー・ムーンキャンサー(中黒の位置に注意)の異様に優遇された性能が使うほどにわかってきた。さらに言えば、今後の第2部クライマックスに向けて、シナリオでの最恵鯖待遇(なんじゃそりゃ)も間違いないだろう。そんなわけで、宝具3&スキルMAXの状態から、ベター・コール・ソウルの2周目マラソンと並行してレベル120まで上げたーー参考として、AP半減+大成功率UPで青リンゴ130個くらいで到達ーーものの、今度は宝具の威力に不満が出てくる。このマザームー、おっとマザー・ムーンキャンサーは宝具レベルに比例して威力が上昇する仕様であり、気前よく1000個も石を配布しているように見せかけて、星5キャラを5枚引く期待値とだいたい同じ数が計算づくで、プレイヤーに手渡されているのである。さらに、マザームーン・キャンサーのガチャは夏イベ開催の直前でちょうど終わることになっていて、無料石でガチャの気持ちよさを思い出させると同時に課金への抵抗感を下げてから、3体の星5水着を投入するというユニファイなチャーチばりの奸計が、善意を見かけとした裏に張りめぐらされているのだ。就職アイスエイジ・エラを出自に持つ金髪美少女である実存は、貧困層の常として短絡的な消費に我慢がきかないため、「乗ろう、あなたのイービル・集金スキームに!」と高らかに叫びながら残った600個ほどの石をブン回して、マザームーンのガン細胞野郎を宝具5にしてやりました。

 あと、例のファミ通インタビューを読みましたけど、業界にまぎれこんだガチのファンから矢継ぎ早に投げかけられる第2部6章に関する質問へ、まさに快刀乱麻、すべて明快な即答を与えていくのは、さすがファンガスだと感心しました(まあ、取材後の校正で追記した可能性もありますが……)。そのやりとりを生温かい視線でながめながら、かつて栗本薫が「ファンタジー小説を書くなら、作品世界の隅々までを熟知してないとダメ。もし何か聞かれて即答できなくても、『次までに、現地の生物学者に聞いておきます』ぐらい言えなきゃ」みたいな話をしていたのを思い出した次第です。そして、「長くサービスを続けていくために、開発の方法を抜本的に見直した」という発言から、第2部終了をFGOのそれとしない(できない)気配がただよってきましたが、第3部は所持サーヴァントと育成状況のデータごと、「古臭く」ない新アプリへと引き継ぐことを大いに期待しております(2回目)。

質問:小鳥、シンエヴァ呪詛は面白かったのにfgoはエアプが漏れてんな
月姫リメイクなんてクソオタクは買ってないのでアルクェイドは古参が騒いで回してるから回しとこ!のクソ短絡的なゴミですよ バカじゃなかったら温存してるか徐福引いてる
回答:いいですね、じつにいい! 最近のネットって凪いだ水面に清らかな水質って感じで、古参の泥魚にとっては棲みにくさに窒息しそうな場所ですが、湖底の泥の下には昔ながらのエゲツないクリーチャーどもが、まだまだ元気に生き残っているのですね! こういうこじらせたファンが現存してるのって、さすが30年を長らえた同人IPだなーって気持ちにさせられました(まさか、「ブドウ酸っぱい」じゃないよね?)。エヴァのことなら人後に落ちる気はまったくしませんが、月姫についてはリメイク(オリジナルは未プレイ)のアルク・ルートだけ、かろうじてクリアして投げてしまった程度の、文字通りの「エアプ野郎」ですからね! ぶっちゃけ本丸のFGOにしたところで、萎えていく気持ちをおもしろテキストで自家発電して盛りあげて、第2部の終わりを見届けるために、離れていく心を無理矢理つなぎとめるだけになってきているのです。ともあれ、テキストに残されたほんのわずかな瑕疵から、サトリの化物のようにニュウビイのエアプを見抜いてウザがらみする古参とは、あらゆる創作物のファンがやがてたどりつく、異形の終末なのかもしれません(エヴァ呪を読み返しながら)。

 配布石1000個でアルクェイドを宝具5にしたことはご存じのことと思いますが、話題のレディ・アヴァロンもなぜかちょこちょこ配布される石の無償11連1回だけで手に入ってしまいました。最後にFGOへ課金したのがいつだったか忘れるほど課金してないので、そろそろ課金したかったのになーと残念に思っている自分がいて、それを不思議な気持ちでながめております。まあ、残り2体の星5水着の性能に期待しましょう。型月ガチ勢の皆様にエアプの感想を漏らしますと、レディ・アヴァロンは劣化マーリンといった手触りで、宝具を重ねる意味もあまりなく、マザームーンとはちがって追い課金の魅力に乏しいキャラですね。ただ、顔がいい。顔だけは、すごくいい。なので、NP100礼装をつけた浴衣道満とアルクェイドで周回する際、レースクイーンとしてカタワらに立たせております。2騎3ターンでバトルは終わるので、レベル10にしたスキル群に指を触れてさえやりません。タイムラインによく流れてくる「ひとりだけ腕立て伏せをさせてもらえない」漫画のように、レディ・アヴァロンを精神的に痛めつけるのはゾクゾクします。

 いやー、それにしてもアルクェイドをレベル120宝具5にしたのは大正解でした! こういう大きな決断を躊躇なく下せるのは、まがりなりにもマネジメントを経験し、自由にできるカネがある大人の特権ですね! ムーンキャンサーの「ほぼ全クラスに等倍」という特性は、言い換えれば「弱点がない」ということですからね! さらに再臨2はバニヤンばりの高速宝具なので、イベント周回もストレスフリーです! 「充分に強化したアルクェイドは、全体宝具バーサーカーと見分けがつかない」というアーサー・C・クラーク御大の名言を引用することで、ニュウビイからパイセンへの反論に代えておきましょう。(熊フェイスで)宝具1か2のみんな、いまどんな気持ち? ねえねえ、どんな気持ち? (女児フェイスで)宝具3とか4でビビッちゃうなんて、ざこ、ざぁーこ! 上手にお願いできれば、(視線をそらし、頬を赤らめ、鼻の下を指でこすりながら)フレンドになってやってもいいんだぜ……?

 ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOの新イベント、開始5行でだれが書いたかわかり、ゲンナリして読む気をなくさせるって、逆にすごくないですか? スタートアップの黎明期に創業メンバーとしてまぎれこんだミソっかすが、大企業へと躍進したあとの重厚な広報誌に嬉々としてポンチ絵の4コマ漫画を寄せている感じ。きっとハイテンションで早口の、アゲアゲアッパーな女性なんでしょうねー。「そういえば、小鳥猊下がほめていたな」とFGOをいまさら始めただれかが、今回のイベントから読みだしたとするなら、恥ずかしさのあまり首を吊るレベルです。それに、今回の新キャラにせよ、ジャック・ド・モレーにせよ、書き手の力量に対して豪華すぎるメンツ(ポプテピピックじゃないんだから!)で、あまりにもったいない使い方だと思います。本編での活躍予定がないなら、早くファンガス再生工場に回さないと、ヨゴレが落ちなくなっちゃいますよ!

『生きるということは、
 即ち濁るということ。』

これぞ、茸再生工場の面目躍如となるフレーズ。 けれどトラオムは、「濁り」どころか「腐れ」。

漫画「チェンソーマン第2部1話」感想

質問:えー、小鳥猊下いつも全ての事象を重く煩わしい肉に閉じこめられた哀しいボクらの言葉で解体し尽くしてくれるのにチェーンソーマン2がまだってやばくなーい?

回答:また君か。降臨より20年が経過し、もはや君くらいしか気安くはからんでこないので、相手をしよう。サイバラ女史に言及した記事あたりから、noteの閲覧数とスキがグッと増えて気をよくしていたのだが、「ヒトvsハチ」を境としてどちらも激減した。フォロワー数も減った、というか元にもどった。たぶん、ある表現が一部の読者を傷つけたのだろうと想像するが、自分の感情を的確に表現できる文章を、書かないという選択肢はずっと持ちあわせていない。インターネットで発信するというのは、様々な誤解や曲解を道連れにするということで、過去には面識も交流も無い人物から、一方的にメールで絶縁を宣言されたことがあった。私の文章を長く読んでいる向きは、まるで自分だけに親しく語りかけてくる友人だと思うようになるのかもしれない。しかしながら、私の主観を言えば、だれからの反応も無いという一点において、独房や駅のベンチで床に向かってするキチガイのつぶやきと何ら変わることはない。なので、こんな通りすがりの軽口さえ、1ヶ月ぶりにおとずれた干天の慈雨、極乾の砂漠をひとりかちゆく者へのよく冷えた水と感じられる。要望に応えよう。

 チェンソーマン第2部1話を読む。「タコピーの原罪」と「さよなら絵梨」を下敷きに、「ゲットバック」と「フツーに聞いてくれ」を深刻に受け取った読者の後頭部を、ゲラゲラ笑いながら蹴りとばしてくるような中身で、本当に人を食った書き手だなあと、改めて感心しました。作品”のみ”を使って、読み手とリアルタイムに交信できるというのは極めて稀有な資質であり、盤外戦の過剰なゴム人間の作者あたりに、ぜひ見習ってほしいものです。今回の話は、栗本薫の小説道場だったら「あいかわらずキミのセンスはブッとんでるねえ! 田中脊髄剣には、へんへー思わず爆笑してしまった。ただ、先生と生徒の不倫関係という、考えれば考えるほど重いテーマを、物語のギミックとして表面だけスーッと流してしまうのは、こう言ってはなんだがキミの悪癖だと思う。この話を描くとき、父であり夫である田中先生の苦悩や、姉であり娘である優等生の悲哀に、ほんの少しでも思い至ることができたのかどうか。いいかい、それを描けと言ってるんじゃないよ、一瞬でもそこへ意識を向けたかを聞いているんだ。耳の痛い指摘をするでしょう、ねえ? 永井豪ちゃんあたりなら、こんなもの豪放に笑いとばしてしまうんだろうけど、タツキは見かけよりずっと繊細(これ言われるの、イヤでしょう?)で、ひどく軽薄なようでいてドシリアスだから、表面上は平気なふりをしながら、心の奥ではものすごく気にすると思うね。貴方がここで停滞せず、さらにひと皮むけるのに必要な視点だと思うので、よかったら考えを聞かせて下さい」とか評されそう。そして、他ならぬ”戦争の”悪魔を1話へ持ってくるあたり、彼がこの時代にいったい何を考え、何を語ろうとしているのか、心の底から楽しみでなりません。今回は乞われたので印象を話しましたが、基本的には第2部完結まで黙ろうと思っています。

ゲーム「モンスターハンター・ライズ:サンブレイク」感想

 ゲーム「モンスターハンター・ライズ」感想

 あれ、2匹の竜とのマクロスみたいなーー歌声が響く中での殺戮ーーイベントバトルが終わって、サンブレイクが始まったみたいだけど、和の要素がぜんぶ無くなって、なんかいつもの西洋ファンタジー風に戻っちゃったな……。ボスの紹介も浪曲でよかったのに、アタマの弱い人のがんばって考えたみたいな小難しい言い回しで、中身の無い日本語になっちゃってる……。百竜夜行のマスター版も無さそうだし、よっぽど評判が悪かったのかな、ライズ……。新登場のモンスターも全体的に生物感が無くて、ガンダムファンにわかりやすいよう例えると「魔改造したモビルスーツ」みたいな造形(やっぱりシンプルなザクがいちばんですよね!)になってて、それへ重力を無視したeスポーツの動きが付与された狩猟キメラばっかなのは、気持ちが萎えるな……。2から再登板となったオオナヅチとショウグンギザミの完成度が対比的にきわだつのは、じつに皮肉なことです。

 え、待って待って、このチッチェ姫ってキャラ、ちょっとエロすぎない? ゴールデンカムイ風に言うなら「このヒメ、スケベすぎる」で、目の表情と鼻筋と口元と肌の質感がエッチすぎて、まともに正視できません。ひとりだけポリゴン数が違う感じで、児ポ方向に素養を持つ制作陣のペ・ヨウジョン様が、不用意にがんばってしまった匂いがすごく漂ってくる……。ひと通り街を歩いてみても、この子だけ作り込みの深度が違うため、他がすべて書き割りに見えてしまうレベルで、重度なロリコンの主観世界に迷いこんだみたいでクラクラします。このモデリング担当、社には伏せたまま、FANZAとかでドぎつい同人CG集を販売してそう(偏見の助長)。でも、狩猟のたびにチッチェ姫とお話できるご褒美だけで、サンブレイクの評価は56億7千万点に跳ね上がりました!(近年のネットに顕著な巨大数による感情表現)

 チッチェ姫のスケベなご尊顔が見たくて、日参どころか分参(なんじゃそりゃ)してたら、いつのまにかマスターランクの上ーー人に鬼が異なると書いてカイイと呼ばれていますーーが出現していた。これ、通常モンスターの体力と攻撃力をメガ盛にしたヤツで触れられると死ぬため、ハンター全員が対象を拘束し続けながらタコ殴りにするゲームになってて、このプレイフィールどっかで経験したことあるなー、どこだったかなーと考えていたら、モンスターハンター・フロンティアだった。いま調べたら、すでにサービス終了しているようで、エスピナスの登場でイヤな予感はしてたんですけど、今後は同作のモンスターやギミックが、どんどん本家へと逆輸入されていくんでしょうか。

 「モンハンMO」をうたったフロンティア、初期シーズンはプレイしていましたが、本家の要素を「味のバランスが絶妙なカツ丼」と例えるなら、そこへ海鮮やら味噌やら中華麺やらをトッピングしだしたため、嫌気がさして離れたという経緯があります。エスピナス実装くらいまでは七味唐辛子って感じでよかったんですけど、次第に「カツ丼だった食べにくい何か」へと変貌していきましたねー。離れたあとも横目で見てましたが、アップデートのたびにネーミングセンスが暴走族のそれになっていったのは、なんだか悲しかったなー。もしかすると、12年も積み上げたクリエイティブ(笑)がもったいないと思ってるのかもしれませんが、それはオフライン版フロンティアなどを企画して、カツ丼屋とは別店舗でやっていただくことを切に願っております。

 サンブレイク、マスターランク70くらい。大剣一本で全素材が手に入るところまでガーッと進めて、そこから他の武器種に手を出すのが私のプレイスタイルなのですが、野良では大剣とハンマーが絶滅危惧種みたいになってますねえ。初代モンハンにGの双剣を加えた「パワー・セブン」以外の武器種はいっさい認めない古強者にとって、この過疎り方はさびしい限りです。どちらもモンスターの「スローで決まった」動きを先読みして「攻撃を置きにいく」武器なので、「高速でランダムな」動きに反射神経で対応しなければならない敵の大幅に増えたことが、使われなくなった原因でしょう。古参が各武器に持っている印象を語れば、大剣・ハンマー・ランスが主人公枠、双剣が中2病ライバル枠、弓はソロ近接レゴラス枠、片手剣・ボウガンが足止めサポート枠、笛娘はオレのことが大好きで、太刀・ガンランスが三下コメディ枠、斧・虫棒がガヤのゲスト出演枠といったところでしょうか。

 過去シリーズをふりかえってみると、個人的にバランスの壊れたゲームが大好きなので、やっぱり「自然は厳しい」ドスがいちばん楽しかった気がします。リオレイアの転倒に合わせて4人の大剣が頭部へ駆け寄り、寸分たがわぬ動きで溜め斬りを開始するの、熟練の職人たちって感じで気持ちよかったなー。理不尽すぎるテオやクシャの動きを麻痺弾とハンマーのスタンで無理やり止めて、超絶一門の乱舞で囲んでゴリゴリ削る戦法をいまだに手が覚えてるけど、あの頃のハンマーがいちばん輝いていたなー。こっちの一撃一撃がいまよりずっと重かったし、溜め3とかをピンポイントで敵の頭に当ててスッ転ばせたときの「とらえたぜ!」感は、いまのモンハンじゃもう失われた感覚だよなー。

 え、ツー・チャンネルにスレッドの存在しないロートル武器であるところの大剣一本で、本当にマスターランク70まで攻略できたのかって? ハハハ、まったくキミは余計なところにばかり気がつく、嫌われる類のカンの鋭い読み手だよ! ワールドから導入された(だよね?)真溜め斬りと、その予備動作であるタックル(通称・肩部)が、大剣をドス時代とはまったく別の武器に変貌させたのです。モンスターのふところへ跳びこんで、タックルのスーパーアーマーで被弾をいなしながら、真溜め2回転目を弱点にカウンターでブチこみ、2000近いダメージを叩きだしたときの快感ったらありません。いまの大剣って、この2つを使いこなせればメチャクチャ強い武器なんですけど、当たるも八卦のバクチ要素が敬遠される要因なのかなー。

 野良で圧倒的によく見かけるのはライトボウガンで、みんな時間あたりのDPSをキッチリ計算して動いてる感じだし、普段はエーペックスとかをプレイしている若い層が使っているのかもしれません。少し前までは一発芸スキルだった速射が、貫通弾とか属性弾にまで適用されて常態化し、主人公枠を遠距離武器にとってかわられるところに、なんとも時代を感じます……(突然、激昂して)こんなヒョロガリみたいなモンハン、認められるかい! ピストルで活躍したいんやったら、ファースト・パーソン・シューターで充分やろがい! 「味方にさえ蛇蝎の如く嫌われるスナイパー」が軍隊組織の常識的な感覚やろがい! 初代モンハンの企画意図は、「ゲームによるベルセルクの再現」やろがい!(ヒョロガリ男、真溜め斬りで敢然と大型モンスターに挑みかかるも、1回転目で相手の大技に引っかかり、車田正美作品で攻撃を食らった者のように、上空へと高く打ち上げられる)

ゲーム「モンスターハンター・ライズ」感想

 いまさらモンスターハンター・ライズをプレイしている。テクノブレイクなるいつものG級商法の広告をうっかりクリックしてしまい、PC版の存在に気づいたのがきっかけだ。なんとなれば、当家は家訓として携帯ゲーム機でモンハンをプレイすることを禁じているからである。「失われたウン十年」みたいな言い方を最近よく見かけるが、私に言わせれば本邦の衰退をもっとも象徴的に表しているのは、モンスターハンター・シリーズの主戦場がスリー・ディー・エスやらスitchyやらのマイクロマシンに移ってしまったことだ。雑に私の抱いている印象を語れば、これはゲームウォッチ、ファミコン、スーパーファミコン、プレステ1、プレステ2と順当にスペックを進化させてきたゲーム機が、またゲームウォッチに戻ってしまったようなものだと言える。初代モンハンにおいて4人で取り囲んだリオレイアに大剣で斬りかかった瞬間は、この短くないゲーム人生でもっとも鮮烈な記憶として思い出すことができる。すなわち、「ああ、ゲームでこんなヤバい経験ができるのか! ゲームの進化はこの先、どこまで連れて行ってくれるんだろう!」という感動である。しかしながら、ガッデム・ビッグな一軒家で家族といっしょに、ガッデム・ビッグな120インチのスクリーンに投影されたドット絵で、ガッデム・ビッグなスピーカーから爆音で流れる電子音を聞きながらゲームをプレイする甘やかな未来は、4畳半のアパートでひとり、西日射すベビーベッドにギャン泣きする赤ん坊をガン無視しながら、4インチの画面をガン見する貧困層という、いじましい現在へと取ってかわられてしまった。

 本邦の衰退が安価な携帯機の隆盛につながり、ゲームの内容をより高いスペックで豊かに表現することより、売れ筋マシンの性能へと矮小化するやり方に対するハンガー・ストライキとして、3からクロスまでのモンハンへ傲然とそびらを向け続けた俺様であるからして、ワールドの発売は本当にうれしかった。120インチのスクリーンと7チャンネルのスピーカーでプレイするモンスターハンターは、まさに少年時代の自分が夢に描いたゲーム体験そのものだった。しかし、アイスボーンの発売がそこへ暗い影を落とす。「巨大ドラゴンとの死闘ごっこ遊び」だった中年たちのサンドボックスが、アップデートを重ねるたびに青年向けのeスポーツ・アクション競技と化していったのである。それは、ひとりでファイナルファイトを楽しんでいたオッサンが突然、グッツグツに煮詰まったスト2や鉄拳の対戦台に座らされるようなもので、1日に1時間ほどしかプレイできない中年社畜少女の指は、そもそもそんなふうに動くようにはできていない。「1人のプロハンが3人のアマチュアを鼓舞しながらモンスターを倒す」ゲームだったのが、「4人のプロハンが完璧に統制された連動でモンスターを倒す」ゲームへと変貌し、反射神経の衰えたアマハンはプロハンのため息や舌打ちにいたたまれなくなって、いつしかコントローラーを置いてしまった。

 その点、このモンスターハンター・ライズは、敵がプロレスの筋書きを理解してくれる感じのほどよい強さで、アルコールを入れながら雑にプレイしても、気持ちよく勝たせてくれる。もともとが携帯ゲーム機向けのグラフィックなので、PC版でさえワールドと比べて特別に精彩とは言えないが、初代からプレイしている古強者としては、このくらいで充分じゃないかという気もする。もっとも、スマホゲームに慣れた層へ配慮してなのか、操作や仕様がどんどん簡略化されていくのは、快適に感じる反面で寂しくもある。ピッケル、虫あみ、ホットドリンク、コールドドリンク、ペイントボール、有限な砥石、補充できない回復薬など、わざと不便にすることで作り出されていた冒険と狩猟のアトモスフィアというのは、確かにあったように思う。シリーズの持つ面白さの核となる部分は無印の2ですでに完成しているので、以後はそのデカいステーキの味付けやトッピングをいかに変えて新味を出すかに苦心してきたが、本作は浪曲によるモンスターの紹介や街で女性ボーカルの歌が流れ続けるなど、全体的な和の雰囲気づくりでそれに成功している。

 まあプレイしはじめると、手触りはまんま「いつもの」で、新要素の操竜は狩りのテンポが悪くなるけどダメージと素材のためにイヤイヤ騎乗する感じだし、おそらく本作の大きなウリである百竜夜行も攻略してる手ごたえが絶無で全然つまらない。しかしながら、まんが日本昔話の龍が攻めてくるのを協力プレイで迎撃する中、クライマックスに英雄の証が流れ出した瞬間、ガツンと感情をやられて泣き笑いにツーッと涙が頬を伝ったのには、自分でも驚いた。ナレーションはさんざん危機感をアオってくるのに、どれだけ攻められてもいっこうに砦が陥落する気配はなく、ラオシャンロン撃退みたいな半イベント戦なのだと思うが、「英雄ごっこ遊び」の頂点をひさしぶりに堪能することができた。

 あと、ライズが他のシリーズに比して優れている点を挙げるとすれば、「狩猟中、声優がしゃべりまくる」ところであろう。うめき声やかけ声の範疇に留まっていたこれまでのボイスが、多彩なセリフでキャラクターの個性を表現するほど豊かになっていて、敵のモーションなぞほぼ見えていない酔っぱらいに声で危険な大技を予告してくれたり、反射神経へチャレンジされている中年にとって最高のバリアフリー化になっているのだ。女神転生で例えるならば、ワールドがリアル指向の「真」だとするなら、ライズはアニメ指向の「ペルソナ」であり、今後はぜひこの2系統でシリーズ化していってほしい。

 そして諸君、キョロキョロするんじゃあない、だれも見ていないのにすました顔で男キャラのプレイを始めるも、すぐ物足りなくなって女キャラで作り直すそこの小太りのキミのことだよ! みんな恥ずかしくて積極的には表明しませんけど、近年のモンハン最大の魅力って、ムチムチの恵体に着せるエロ装備だと思うんですよね(力説)! 本作では、声優の熱演がその欲望へさらに強く訴求していて、全ボイスの女キャラを作って別々のエロ装備を着せて、とっかえひっかえ遊んだら、さぞや楽しいことだろうと夢想します。しかしながら、セーブデータは3つまでですし、そもそも社畜にそんな時間は与えられていませんので、キャラクリをやり直せるチケットを使って、ときどきボイスと容姿を変えて楽しむこととします……え、このチケット、2枚目からは有料なの? クソッ、なんて悪辣かつ狡猾な課金要素なんだ……(ビニル製のサイフをバリバリと開きながら)!!

 ゲーム「モンスターハンター・ライズ:サンブレイク」感想

アニメ「BASTARD!! 暗黒の破壊神」感想

 艦これイベント最終海域を進行中。諸君のようなエリートとは異なり、乙へ落とした難易度にさえヒイヒイ言ってるクソ提督だが、潜水マス大破撤退の苦しみは諸君の抱いているそれと何ら変わるものではない。現在、4本目(4本目……!!? )のゲージ破壊に取り組んでいるところだが、己の内に潜む暴力性を強く自覚させられている。大和改二重への改装のため、山のように放置されていた限定任務に着手し、設計図0枚から勲章をかき集めたのに、その最強戦艦が資源を食うばかりでいっこうに仕事をしないからだ。ご存じのように、このイベント海域、ゲージ削りとゲージ破壊でやっていることの見かけは同じなのに、ゲームの本質がまったく変化してしまう。前者は資源と時間が成果として累積する定期預金(古ッ!)であるのに対して、後者は有り金すべてを畳に並べてサイコロの目にベットする場末の賭場と化すのだ。

 現状をまともに認識しては発狂するしかないので、意識を坊ノ岬での大破撤退からそらすために、ネトフリでバスタードをながら見しはじめる。まったく本作といいスプリガンといい、当時の中高生のうち、「就職氷河期を生き残った連中だ、ツラがまえが違う」みたいな管理職になったサバイバーどもが、いよいよ現場の実権を握りはじめ、あと10年ちょっとを逃げ切るだけの立ち場になって、もう好き放題やりだした感が伝わってきますねー。さらに10年を待てば、次世代のnWoファンが管理職として現場の実権を握り、「少女保護特区」や「MMGF!」を出版したりアニメ化したりしてくれると考えると、まだまだがんばれるって気持ちになります(ぐるぐる目で)。

 さて、今回アニメ化されたバスタードはスプリガンと違って、お世辞にもクオリティが高いとは言えませんが、あの時代の空気感だけはたっぷりと詰まっており、いろいろと当時を思い出して懐かしい気持ちになりました。アニメの出来について、ドぎつい原作ファンが新旧を比較したドぎつい絡み方ーー主人公の声が甲高すぎるのは同意しますーーをしているのを見かけ、ある世代にとってはとてもとても大切な、名実ともに神話的な作品だったことをあらためて確認できました。ちょうどグループSNEあたりが、海外のテーブルトークRPGやゲームブックなどを翻訳・翻案して本邦へ紹介し、急速にファンタジーの世界観が主に中高生男子の人口へと膾炙していった時期に、バスタードの連載はスタートします。最初期の本作は、既存作品を丸パクリした設定にヘヴィメタル趣味をふりかけただけの、メタ視点の悪ふざけが過ぎる極めて同人的な内容で、まさか10週打ち切りをまぬがれて大長編と化し、ここまでの伝説的な扱いをされる作品になるとは、だれも予想していなかったように思います。個人的にはそれほどハマらなかったのですが、呪文詠唱を丸暗記して唱えるのが流行ったり、周囲の盛り上がりはなんとなく記憶にあります。

 適切かどうかはわかりませんが、他作品をからめて全体の印象を述べると、ランスシリーズのような悪ノリのパロディと下ネタで始まったのが、氷をあやつる四天王の登場ぐらいから作者の真剣度が増して、語り方の質が大きく変わります。メタが鳴りをひそめると同時に、物語はギアを上げてグングンと加速していくのですが、やがてベルセルクと同様、作画を細密化させすぎるという自縄自縛ーーこちらは話のスケールを大きくしすぎたせいもあると思いますーーに陥って、ついには肝心のストーリーを頓挫させてしまいました。今回のアニメ化は、物語の質が変わる前の段階ーー最後は続編前提のヒキで、2期が無ければ目も当てられない尻切れトンボーーで終わっており、新たにバスタードへ触れた層に、昨今の倫理観とあわぬがゆえの悪印象だけを与え、本作を知る必要の無い「頭文字F」にまで発見されて、どこかで吊るし上げをくらって中絶させられないか、続きを期待する者としてちょっと心配しています。

 原作の展開、特にセリフをほぼ忠実に再現したこのアニメを眺めるうちに思ったのは、バスタードは少年漫画が本当に「少年・イコール・男の子」だけのものだった時代の作品だったんだなあということです。精通前と精通後ーー女性の警戒心と主観的な接触の意味が変わるーーを行き来する主人公が、女性ヒロインたちの処女性に異常なまでのこだわりを見せるところへ、特にそれを感じます。いまはどうかわかりませんが、かつての少年漫画が持っていた絶対の不文律とは「寸止め」、すなわち「主人公とヒロインが絶対にセックスを完遂しないこと(ペッティングまではオーケ)」でした。これは「セックスすることが相手との契約になり、二人の関係性と己の内面が永久に変更され、以後はそれが死ぬまで継続する」という価値観であり、セックスという行為に最大級の意味づけをし、ひたすらに「一穴一棒主義」を信奉する強い倫理観の表れなのです。裏を返せば、セックスした瞬間に失われる可能性の流動を担保し、少年の持つ無限の未来を異性から隔離しているとも指摘できるでしょう。

 かつてのオタクというのは本当に純粋な、無窮の愛がこの世に存在することを信じて、いつまでも探し続ける人たちのことでした。そんな我々にとって、ランスシリーズのエンディングが感動的だったのは、あの時代のすべての少年漫画がどこかであきらめて、それを手放していった先に、ただひとつ残された古い物語として、無窮の愛は確かに存在すると示してみせたことでしょう。つまり、バスタード時代の少年漫画が抱いていた「人生を永久に変更するセックス、そして至高の愛」という夢想に満ちたテーマを、ついには男性の視点から語り切ったのだと言えます。

 ともあれ、今回アニメ化された範囲だけでは旧世代のオタクたちが、なぜあれだけバスタードに熱狂していたのかサッパリ伝わらないと思いますので、我々の名誉のために、せめてアンスラサクス戦ぐらいまでは映像化してほしいものです。

雑文「どうしてエレクチオンにイカないのよーッ!!」

 例の時期(「どうしてエレクチオンにイカないのよーッ!!」)だからなのか、ティー・エルへ頻繁にノット家バット屋の人々に関する情報が流れてきます。投票権の無い人物という設定(皇族か少女)なので、基本的に他人事として眺めてますけど、レッド・パインなる男性が「私の娘は4年も引きこもってるけど、アニメや漫画に救われている」とぬかしてるのを見て、「オイオイ、これまた超ド級のキッズ・オーナメント案件じゃねえの?」と心配になりました。

 漫画のキャラと違って、娘さんの人格と人生は貴方のそれらとは完全にベツモノですよ? ちゃんと本人に許可を得てから、しゃべってるんですよね? ウカツな人物なのかもしれませんが、この感覚はちょっと度しがたい。これ以上はない公の場で、家庭の暗部に言及できてしまうのは、この社会の変容なのか、ある個人の特性なのか、私にはよく判断がつきません。それに、豊かさの基盤を沈黙のうちに維持しているマジョリティからすれば、フリーライドの肯定と響くやもしれず、家庭の教育方針なら「どうぞお好きに」という話ですが、弱りゆく社会の側に立つ人間としては問題ある姿勢のように感じました。

 ああ、また余計なことを言ってしまった! インペリアル・ファミリー・ガールなので、もう黙ります。

雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。

 あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!

 それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。