猫を起こさないように
年: <span>2022年</span>
年: 2022年

ゲーム「原神」感想

第1章

 ブルアカは早々にリタイアしたが、原神のプレイは続いている。最終的にスタミナ消費のログインゲーになりそうな予感はするものの、どこぞの続編詐称JRPGとは比較にならないほど世界が作りこんであるし、それに由来する探索の物量が単純に膨大なため、しばらくはこれ1本で遊べそうだ。最初期の印象は西洋風ファンタジーなのにプレイを進めるうち、地理の形状に始まって、使用漢字、固有名詞、シナリオ、そしてキャラの思考形態に至るまで、ことごとくが大陸文化から発したものであることがわかってくる。基本的にフルボイスだが、ネイティブ日本語話者が聞くと、ところどころおかしな表現が出てくるのも、奇妙なレスペクトを感じさせて逆に味わい深い。また、ゲーム内に出てくる食材の種類が異様に豊富で、回復と補助に料理が最重要であるのも、「四本足のものは、テーブル以外ならみな食べる」食文化を感じさせる。

 いま第1章を終えたあたりで、ときどきプレイフィールに小さな違和感は生じるものの、国家と仙人(仙人!)たちで魔神を迎撃する展開にはちょっと、いや、かなり感動してしまった。本邦クリエイティブの持つ特性が「百花繚乱のオリジナリティ」だとするなら、このゲームが体現するのは「模倣からの物量による一点突破」であり、細部だけでなく大枠での文化比較になっているのも、じつにおもしろい。原神、とても新鮮なのにどこかなつかしい感じを持つのは、昭和時代のテレビが私の原体験にあるからだろう。あの頃の番組と言えば、生放送、アニメ、そして香港映画であり、記憶からは薄れても身体性として刷り込まれているのかもしれない。ホニャララ真君やキョンシーなどの固有名詞には、「うわー、あったなー」と思わず声が出てしまった。やがてテレビから香港映画が消え、アニメが消え、そして生放送とポロリが消えたが、それは経済成長と技術革新、そして文化の成熟と連動していたように思う。いま界隈を大陸産ゲームが席巻しているのは、半世紀をかけた栄枯盛衰の円環を見るようで、状況を楽しむ反面、一抹のさみしさを抱いている。

雑文集

雑文「創造暴走特急」
雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」
雑文「虚構時評(FGO&GENSHIN)」
雑文「PEOPLE‘S GENSHIN IMPACT(近況報告2023.2.21)」
雑文「原神の文学性について(近況報告2023.3.6)」
雑文「神里綾華日記(近況報告2023.3.24)」

第2章

 原神、第2章4節まで読む。稲妻国の永遠を見せたあとにこれを持ってくるかという内容で、その対比の見事さに感心してしまいました。繰り返しますけれど、この中華ゲームはシナリオと世界構築に手抜きがなく、つたない部分もあることは否定しませんが、それを承知した上で自分たちの全力を尽くしているのがひしひしと伝わってきます。「永遠を永遠たらしめないのは肉体と魂が摩耗するため」とか「神々の呪いは人の魂よりも高位なので解呪不能」とか、原神世界の根幹を成す真理が章の終わり毎に提示され、世界の見え方を一変させるのはすごい仕掛けだと思います。特にヒルチャールの正体については、貴方がおたくであるならば涙なしに読むことはできないでしょう。「仮面をつけているのは己の醜い姿に驚いたせいで、拠点にある水鏡はその悪夢より醒める朝を待っているから」とか、「長い年月に魂の摩耗した彼らは光を嫌うようになり、暗闇に身を横たえて己の体が闇に溶け去るのを待つ」とか、「最後の最後には、火による温もりを求める」など、まるで自分の来し方と末路を言われているような気がして、同情と共感に知らず嗚咽がもれました。そして、「洞窟に住むネアンデルタール人たちは、同胞の亡骸に花をたむけた」を連想させるシーンと、消えゆくかつての部下に国は滅びていないとウソをつくシーンには、「死者の尊厳」を丁寧に取り扱っていて、はたしていまの本邦にこの感覚は失われずあるだろうかと強く疑う気持ちになりました。

 原神のシナリオに対する評価が気になって検索してみると、全体として「良い悪い」「好き嫌い」ぐらいの感想ーーあと、「文章が長すぎる」ーーしか見当たらず、大陸産のクオリティをかつての経験から低しとあなどって、だれもこの黒船級の衝撃を正面から受け止めることができていないのではないかと考えると、暗澹たる気持ちになってきます。そして、「日々を食べること」「他者と商うこと」「やがて死ぬこと」といった人の当たり前に寄りそった物語を通じて、いまや本邦において失われてしまった感覚が身内によみがえってきます。それは「夏休みに訪れる田舎の本家での一週間」の記憶であり、そこには大地に根差した人の生活の当たり前が体現されていました(第三村みたいなこと言ってる)。いや、体現していたのは満州で敗戦をむかえた祖母その人だったのですが、彼女が世を去ったあとにただの家屋と化した場所が持っていた、少年時代の記憶の残滓や残り香が原神の端々から立ちのぼっているのを感じます。これは初老美少女の、きわめて個人的な感覚にすぎないのでしょうか。タイムライン在住の美少女ディレッタントたちに、ぜひ意見を聞いてみたいものです。

 原神、諸手をあげてほめる一方で少し疑っていることは、自分がネイティブの日本語に飽きてしまっている可能性でしょうか。意味理解に間の必要な「滞空時間の長い」テキストが好きなので、中国語の翻訳による文章の硬さが個人的にちょうどよい塩梅で、シナリオに対する高評価の理由なのかもしれません。でもさー、書かれていることの端々に古典文学への教養を感じるんだよなー、いま第3章を読み中だけど、比喩のことを「既知の情報を使って未知の情報を説明する方法」と指摘したのにはハッとさせられたなー、JRPGで教養を感じたり気づきを得たことなんて、この十年でとんとないよなー。原神、ここまでの弱点らしい弱点をあげるなら、男キャラが全員CLAMP作品みたいな肩幅棒手足人間で、女キャラほどには造形にフェチを感じないところぐらいかなー。

第3章前半

 原神の第3章、花神誕祭編を読了。「スメール人は、夢を見ない」のフレーズより始まった森の民と世界樹というドファンタジーの見かけから、世界五分前仮説やシミュレーテッド・リアリティを彷彿とさせる、文字通りの「電脳」を取り扱ったハードSFが語られることになるとは夢想だにしていませんでした。いまは良質な掌編映画を見終えたような読後感に浸りながら内容を反芻していますが、押井守のイノセンスを少し思い出しましたね。また、新たな草神を心に傷を持った都合よく依存するクソチュッチュ幼女ロリータと「描かなかった」のもすばらしい判断です。彼女の造形を見た瞬間、本邦のライターどもなら間違いなくそういうキャラクターにするでしょうからね!

 祭りの主役である踊り子も、最初は頭の弱い美少女みたいな描き方で、ちょっと原神にしてはキャラが立ってないなーと考えていたら、ストーリーの最後の最後ですべて持っていかれました。花神の誕生に捧げる踊りについて、いつものように絵画風ゴージャス紙芝居でやるのかと思っていたら、3Dモデルのまま見事な振り付けのコンテンポラリーダンスを始めたのには、度胆を抜かれました。指先にまで感情が乗った優美な舞で、この踊りをもって彼女のキャラクターが完成したと言えるでしょう。第1章で演劇シーンの音声が中国語のまま残っているところがあるんですけど、調べてみたら京劇の第一人者が演じているので、他言語での代役は立てられないという話でした。踊り子の振り付けもそうですが、これこそがユーザーから貢がれる課金の正しい使い途じゃないでしょうか。本邦で唯一、原神に対抗できる稼ぎ頭であるFGOにも、新聞広告や外部イベントや多くが興味のないアーケード版やしょうもない自社作品リメイクに浪費するのではなく、これを見習ってアプリ本体のクオリティをただただ高めるためだけに、我々のカネを使ってほしいものです。

 あと、女傭兵が木人椿?につけた無数の刀傷について、そのどれをも「いつどんな技を使ってできたものか、抱いていた感情まで含めてすべて思い出すことができる。武人の技とはそういうものだ」と説明する場面に、深い感銘を覚えました。私にとってのテキスト書きが、それに近いものだからです。記述された一文一文について、どのような場所でどのような生活状況でどのような気持ちで書いたのか、すべて思い出すことができます。虚構内のキャラと「一流は一流を知る」をやるときが来るとは、思ってもみませんでした。ここ数年、「過去の資産を食い潰す焼畑」としてのJRPG続編が数多く発売されましたが、そのどれひとつとして原神に勝るものはないと断言できます(エルデンリングぐらい?)。もう失望するのにも飽きましたので、向こう5年ぐらいーー神一柱1年の計算ーーRPGは原神だけをプレイすることに決めました。

第3章後半

 原神の話をするたびにフォロワーとnote記事の閲覧数が減っていくので、もう言及はすまいと決意するんだけど、プレイを進めるとやはり私にとって記述して残すべき心の動きが生じてしまいます。のちにプレイアブルへ昇格するネームドとモブ専用のキャラではモデルの作り込みが違っているのに、JRPGによくある主人公サイドの引き立て役としての「かませ犬」にはせず、丁寧に内面から造形してあくまで対等の存在に描写することで、世界に奥行きを作りだしているのは見事だなあといつも思います。

 いまは新たに更新された第3章の後半部分を読んでいるところで、キチンと訓練を受けた脚本家の重要性をひしひしと感じています。冷静にふりかえれば私をイラつかせ、ときに大激怒させてきたのは、本邦の長編アニメ映画と大作ゲームばかりであることがわかるでしょう。プロの脚本家をないがしろにしてシロウトが好き勝手やるのに大きな資金が与えられ、興行収入や売り上げだけが評価のモノサシとなり、内容への批判は建設的なものさえ、わずかのフィードバックもされることがない。本邦の漫画作品にそれを感じたことは少ないので、やはり両業界が抱える構造上の問題なのかもしれません。そして、その誤ったシステムはどこに起因するかと言えば、それらの発祥に根を持つと考えています。詳しくは私のnote記事のどこかに書いてあるはずですので、ぜんぶ読んでください(宣伝)。

 話を原神に戻しますと、璃月が中華の栄光を描いた物語だとするならば、スメールは中華の暗部をえぐりだした物語であることが、いよいよ第3章の後半で明らかになってきました。脚本家の身を案じるほど、ちょっと危険なくらいストーリー全体を中華の現状に向けた厳しい批判へと寄せているのです。「正しい知識と世界観」を常に与え続けるアーカーシャとは何の暗喩なのか、与えられた知識に現実認識を歪められる大賢者とはだれの暗喩なのか、「いま、ここ」で「これ」を書く覚悟とみなぎる強いテンションに身ぶるいがします。そして、長くアーカーシャからのみ知識を得つづけた者がどんな人間になるかという指摘は、若い世代から老いた世代への痛烈な諫言に他ならないでしょう。また、体制から無価値と断じられた芸術からのカウンターによる鮮やかな一撃は、まさに同じ渦中にある製作者たちの反骨精神の表れとも受け取れます。本邦での弛緩しきった一億総放言(おまえが言うな!)とは正反対の状況が、意志の伴った強度を言葉へ与えているのかもしれませんね。

 みなさんご指摘のように、原神は行った課金ごとアプリが取り潰される危機をはらんでおり、そこまでいかずとも検閲による大幅な書き直しの可能性は常にあるでしょう。今回の話を読んで、ユーザーからの強い要望にも関わらず、バックログが長く実装されなかったというのも、当局の検閲を恐れているからかもしれないと思うようになりました。もし、七神全員の登場を待たずに外的状況から本作が中絶するようなことがあれば、「シミュレーテッド・リアリティの終焉」として現実批判を交えた描かれ方をするだろうと予想しておきます。ともあれ、リアルタイムで体験すべき緊張感をはらんだゲームであることが、最新バージョンで明らかとなりましたので、いますぐ仕事のデータから独立した専用PCと、生活の資金から独立したクレカ口座を用意して、指導部がこの危険因子に気がつく前に、原神のプレイを開始しよう!

 あと、救出された草神の「いま少し怒っている」という言葉に、主人公が「貴方はもっと早く怒るべきだった」と応じる場面には、涙が出ました。私が人生のある局面でかけられたかった言葉であり、対象が消滅したことをもって二度と解消しえない感情になってしまったからです。

 原神、メインストーリーの実装分までをクリア。育成素材を集める時間コストの重いゲームなので、なかなか複数キャラを並行して育てられないことに加え、我が陣営の風元素キャラは飽和状態にある。雷電将軍ピックアップへ向けた備蓄を進めるいま、放浪者を引く気はさらさらなかったにもかかわらず、関連ストーリー読了後にすぐさまガチャを回して、1体を手に入れてしまっていた。このテキスト描写による課金への誘引力は、かつてのFGOが持っていたものと同質の中身である(同ゲームにそれを感じなくなって、ひさしい)。もちろん、物語の演出にはつたない手つきもあるし、他所からの孫引きゆえに理由が欠落して見える設定もなくはない。けれど、「あれ、世界樹内の情報は自分で消せないのでは?」みたいな疑問を抱かせてから、しばらく間をおいてキチンとそれに回答する脚本の組み立ては、近年のJRPGには求めるべくもない精度へ達していると言えよう。

 「摩耗」という単語は、原神のストーリーテリングにおけるキーワードだと確信しているが、神々の語る台詞のいずれにも人の過ごす時間を超越した者の重さを感じられるのは、シンプルに驚嘆すべきことだと思う。登場人物のだれもが「家族より大事なものはない」と繰り返し、「人類の歴史で最重要なのは人情」となんのてらいもなく明言する様子は、私の中へ敗北感にも似た感情をかきたててくる。なぜ、この当たり前を語ることを「ダサい」、もっと言えば「悪い」とさえ考えて生きてきたのか、いまさらながらの疑問にとまどっている。洗練やスタイリッシュさとはほど遠い、大陸由来のこの泥くささが原神の魅力を形づくる本質だと指摘できるだろう。このゲームを通じて、現指導体制になってからの報道やネットでの言説に影響された心情の以前にあった、大陸の文化が表現するものへ向けた好意的な気分(カンフーレディー!)をひさしぶりに思い出している。長い断絶から来る「新鮮さ」が理由の半分を占めていることを自覚しつつも、原神は本邦の生みだした過去からの逆ハック、防御不能のカウンター文化侵略そのものだ。

 ともあれ、これから本作をスタートできる幸運な諸君は、パイモンという謎の知性体に対して気づかれぬよう薄く薄く伏線が張られていくのを、見落とさないよう読み進めてほしい。たぶん、この子がラスボス。

ゲーム「FGOぐだぐだ新邪馬台国」感想

 FGOのぐだぐだ新邪馬台国を読み終わったけど、いやー、メチャクチャ面白いなー。あまりに面白かったので、ひさしぶりに大きめの課金をして、千利休を引いてしまいました。「各キャラクターにゆずれない自我と意志があり、ストーリーはその思惑の絡みあいで展開する」という創作の基本ーーシンエヴァとは大違いですね!ーーができており、緊張感のある台詞の応酬も端的なテキストでビシッと決まっている。ほんの短い、姿さえ見せない秀吉の描写にはゾクッとさせられたし、「観客視点からしかわからない敵の罠」という叙述によるカルデアの危機は、もしかすると第1部からここまでを通じて初めてじゃないでしょうか。物語の閉じ方にしても、ファンガスがFGOを通じて伝えようとしているメッセージを、深く理解した上でつむがれているのが伝わってくる。情感の部分もベシャベシャと水びたしになる前に、ダラダラとした余韻を廃してスパッと終わるのも、すごくいい。

 上質な読後感というのは、本を閉じた瞬間から読み手の心へとおのずから生じるもので、それをベラベラ言葉で誘導しようとするのは、書き手に自信のない証拠でしょう。あのね、登場人物のパーソナリティを把握できていないのと、「ファンガスと比較されてどう思われるか?」という恥をかきたくないばかりの自意識が、探り探りのライティングにつながっていて、ゴテゴテと無駄に華美な厚塗りテキストを際限なく増量させてるんですよ。もちろん、トラオムのことを言ってるんですけど、本当に心の底から大ッ嫌いなので、今後のガチャでヤンモリ(爬虫類)がすり抜けてこようものなら、すぐさまマナプリに変えると心に決めているぐらいです。いろいろと新邪馬台国の美点を上げましたが、やっぱりこれ、本業の漫画家としてのスキル特性によるところは大きいと思いますねー。第2部の商品価値を大幅に毀損した6.5章の、巨大数による茶化しではなく、正味で3億倍は優れた仕上がりになっています。有名なネットミームである「この利休に抹茶ラテを」にしても、6.5章の連中ならテキストの表面だけなぞって一瞬で面白さを蒸発させるところを、ギャグ漫画家らしくちゃんと話のオチに持ってきて、「わからなくても面白いが、わかればもっと面白い」につなげている。

 FGOにおけるファンガスって、スタジオジブリにおける宮崎駿みたいなもので、あの時代のエロゲー・オールドスクールの生き残りの中で、当時はどっこいどっこいだったのかもしれませんが、いまやひとりだけ圧倒的に地力がちがう存在になっている。世間一般における知名度で言うなら、まどマギの作者の方が高いでしょうけれど、創作を糧とする者たちは死んでも口にしない(できない)中で、ファンガスの一等地抜く存在をだれも暗黙のうちに了解しているように思います。え、面識もないくせに、なぜわかるんですか、だと? バカモノ! 批評の本質とは、当事者性から距離を保った想像力が現実を抽象化する道筋であり、もし当事者が見たままを書いたら、それはただのドキュメンタリーか内部告発になるだろうが! もっとも近年では、エス・エヌ・エスがすべての事象への「いっちょかみ」を可能にしており、あらゆる個人において当事者性からの距離が失われ、その事実をもって批評的な言説の成立を困難にしていると指摘できるだろう。なに、テキストによる批評の有効性を取り戻すにはどうしたらいいですかって? だれとも交わらず、なにとも接点を持たず、ただひとりの内側で言葉を発酵させること以外に方法はない。

 だいぶそれた話を元に戻すと、ぐだぐだの作者がFGOの中でこれだけ自由に動けて書けるのは、臣下たちが王の威光から離れて思考できないーージブリの雇われ監督たちと同じーーのとは異なった、「宮廷の道化師」ポジションにあるからかもしれません。第2部の残りはさすがにファンガスだけが書くーーほんともう、頼みますよ!ーーでしょうが、新アプリに移行しての第3部では、ぐだぐだの作者へ本編の一章を任せてみてはいかがでしょうか。さすがに6.5章のライターたちよりは、どれだけ悪い方向に転がっても、はるかにマシな仕事をすると思うんですよ。ビッグ・パトロンのひとりとして、心からお願いし申し上げます。

アニメ「リコリス・リコイル」感想(12話まで)

 みんな大好き女子高生の武器トッピング、リコリス・リコイルを12話まで見る。いやー、惜しい! 全体的にものすごく駆け足だし、この規模のストーリーとキャラクターを描くには、あまりに話数が足りなさすぎる! 全39話で季節イベント回とか、喫茶店常連の日常回とか、従業員女性の婚活パーティ回とか、幼い主人公とあしながおじさんの動物園回とか、サブシナリオで「失われる日常」を愛おしく映すからこそ、メインストーリーの追いかけるテーマが生きてくるのに! 旧版のうる星やつらで、主人公の母親の「日常とよろめき」だけを追った回があって、たぶん一度しか見ていないのに、いまだにディテールまで覚えてるんだけど、最近の1クール完結の作品では、そんな遊びを入れる余地がどこにもない。すべてのアニメに2クール以上が必要とは思いませんが、本作の語ろうとしている中身に対しては、あまりに話数が少なすぎると感じます。近年のもので言えば、オッドタクシーはまさに1クール用に研ぎ澄まされた脚本ーー余談ながら、イン・ザ・ウッズは完全なる蛇足ーーでみごとにまとめましたが、リコリス・リコイルを全13話でやっちゃダメでしょ。主人公のメインストーリーと脇役のサブシナリオをうまく構成すれば、題材(性癖?)はやや特殊ながら、令和のカウボーイビバップになれる可能性があったのに、本当にもったいない!

 個人的に、おたく向けの作品としてうまいなーと思ったのは、年上の男性へ向けた主人公の思慕の取り扱いですね。思春期にかけての少女へ、男女の成長速度の落差が大きいため、特に父親不在の場合に濃く現れるこの感情は、一過性の「必ず失われるもの」であるがゆえに、まぶしく美しいものです。しかし、純潔主義の男性おたくにとって、それはエヌ・ティー・アールと隣接した危険なものでもあります。リコリス・セコハンなんて、見たくもないですからね! その危うい均衡を、年上の男性がホモセクシャルだったとして脱したばかりか、ゴツイ黒人をお相手にすることでWHO女史とポリコレからの要請にさえ、同時に応えているのです! いやー、本当に惜しい! せめて全26話だったら、この2人の関係性をもっと掘り下げることができたのに! これじゃまるで、頭蓋骨と背骨と肋骨しかない骨格標本みたいじゃないですか! リコリス・リコイルのもったいなさを嘆くこの気持ち、まさかこれが「リコ的な感情」?(ちがう)

映画「竜とそばかすの姫」感想

  アマプラでいまさら、竜とそばかすの姫を見る。公開当時のタイムラインの噴き上がり方を知ってるので、期待値ゼロ以下のながら見をしてたんですけど、90分くらいまでは臭みこそあるものの、作家性という糖衣でごまかせないこともなく、フツーに面白い。「男性作家はスッピンの聖なる女子高生に世界の命運を背負わせすぎだから、そろそろ宮崎駿の後継者レースに女性監督が参戦してバランスを取るべきだよなー」とかヘラヘラ考えてたら、ラスト30分で真顔になりました。これを「プロアニメーター上がりによるアマチュア脚本の瑕疵」であるとメタ視点で切り捨てるのは簡単ですが、キチンと物語として批評するなら、逆張りではなく、この虐待父にこそ支援とケアが必要だと思います。

 都内の高級住宅地に一軒家をかまえ、ネット耽溺の引きこもり長男と軽度の知的障害を持った次男を、男手ひとつで育てている。妻とはおそらく離婚していて、親権を得ていることからも、充分な収入と社会的地位のある人物に違いありません。長男は家事を手伝うどころか、ネット回線代や端末代は依存するくせに、どれだけ叱っても「ボクだけが我慢すれば……」と自虐の悦に浸るばかり、次男はかつての妻を思わせる無力と社会性の欠落で「非難しないという非難」を使って罪悪感をかきたててくる。この父親は無表情の女子高生に見つめられるだけで、それこそ「死人の目をした矢吹丈に錯乱するホセ・メンドーサ」ぐらいの尋常でない怯え方をするのですが、これは彼の生育史に起因する感情のように思います。鬱病持ちのネグレクト母が、ときおり手のつけられない大暴れをする家庭に育ち、彼はずっとその虐待に耐えてきた。沼のような無感情からの激烈な怒りに対する恐怖を、彼は主人公の瞳に重ねてしまったのでしょう。

 彼と母親の顛末は、こうです。月日が過ぎて肉体的にも長じたある日、いつものように暴れだす母親をついに我慢がならず思いきり殴りつけたら、嘘のように静かになった。初めての射精は、もしかするとこの瞬間だったのかもしれません。翌朝、鴨居で首を吊っている母親を見つけ、彼の魂は永久にその場所へと縛りつけられることになる。皮肉にも、そこから離れようとする決死のモーメントが、彼の社会的な地位を向上させる結果につながっていったのだろうと想像するのです。そして、母親との関係をやり直すために、かつての母親そっくりの女性を妻として無意識に選びとり、またも同じ失敗を避けがたく繰り返してしまうーーもういちど言いますが、竜とそばかすの姫という物語の中でもっとも傷つき、支援とケアを必要としているのは、この父親なのです。それを、「ボクも戦うよ」だと? アホ、このお荷物めが、オマエは何と戦うんじゃ!

 さらに指摘すると、この監督の持つ悪癖として、「被害者の視点から見た類型的悪意」があると思います。監督が悪いと思っている人間たちは、主人公サイドを苦しめるためだけに配置され、まったく同情の余地なく描かれる。作品内に明確な善と悪の二項対立があり、その線引きを監督自身が独断で決定しているので、どこまでいっても狭くて浅い、薄っぺらな社会批評にしかならないのでしょう。ネット世界の「正義の味方」と現実世界の「虐待親」が抱く心情への想像力が物語の奥行きを作り出し、主人公たちの主張を逆照射して、一方的ではない正当性を与えるのです。「自分はどちらの立ち場にもなりうるが、そうはならなかった幸運」の自覚から描くのでなければ、社会問題に触っちゃダメじゃないですかね。そこと何の連絡も関係も持たなければ、あなたは文句なしにすばらしい映像作家でいられるんですから!

雑文「ゲームは、アートかプロダクトか?」

 「あらゆる言語の感想を分析し、スプレッドシートにまとめた。これを元に、肯定的な意見と否定的な意見、両方の観点から批評を展開する」みたいな宣言で始まったソウルハッカーズ2の記事が、全編にわたって批判的なトーンに終始するのを読んで、爆笑している。ドぎついファンの悲嘆は傍目には最高のエンターテイメントで、シンエヴァ呪の楽しまれ方をご見物の立ち番から追体験している気分でした。やっぱり、昔ながらの熱烈な客がついている作品に、トム・クルーズぐらいの熱気や覚悟や真剣さを持たない人物が、あだやおろそかで触りにいっちゃいけませんねえ。「凡百のJRPGとしてなら、充分に遊べる。だが、これはソウルハッカーズだ」、わかるなあ! 「凡百のSFアニメとしてなら、充分に見れる。だが、これはエヴァンゲリオンだ」。前作の用語だけを無自覚に引用しているってのもうなずけるところで、例えばアナライズスキルの「ギボ・アイズ」が宜保愛子のもじりだなんて、もうだれも、本作の制作者さえわかってないでしょ。わかってれば、「ホソキ・カゾエ」くらいのアップデートはしたはずです(まあ、これでも古いですが……)。前作のキモだった「ビジョン・クエスト」にしたところで、本作では「ピジョン・クエーッ」くらいの感じにダウングレードされてる(意味不明)。

 真・女神転生5でも感じていたことですが、ソウルハッカーズ2を通じて、「ゲームは、アートかプロダクトか?」問題に、いよいよ結論が出たなと思いました。私たちの少年時代に三十代、四十代だった制作者たちが、現場を離れて役職についたり定年を迎えたりする時期にさしかかっていて、会社に命ぜられた若手たちがプロダクトとしてタイトルを残そうとした結果、「仏像つくって魂いれず」の、外殻だけを残した作品が頻繁に出現するようになった。最近、九重親方のインタビューを読んだんですけど、ネット論客のヒョロガリどもなら「有害なマスキュリニティ」や「ヤクザの搦手理論」などの言葉で冷笑するだろうその中身に、私はジンときて目頭が熱くなってしまった。結局、狭い場所に蒔かれて芽生えただれかが、己の意志でそこに深く根を張ることを決めて、同じ境遇に置かれた別のだれかに魂の熱を感染させるーーそれが、それだけが正しい継承の在り方なのだと思います。

 ゲームとはやはりアートであり、美術館の展示物が必ず特定の個人名と紐づくように、商標として会社に属する表象だけでは、少なくとも本邦においては成立できないことが、ソウルハッカーズ2をプレイして痛いほどにわかりました。少し話はそれますが、タイムラインへ頻繁に流れてくるブルアカと原神をちょろっとプレイしてみたんですけど、ひどく落ちこんだ気分にさせられたんです。この感情は、少林サッカーとカンフーハッスルを見たときに抱いたそれとかなり隣接しています。どちらも中国発のゲームで、特に原神はあからさまなブレワイのリバースエンジニアリングを土台に作った感じ、もっと言えば本邦の2次元文化の深刻な影響下にあるのですが、用語と外殻の組み合わせを越えて、ちゃんと魂が入っている。

 本邦は0から1を生むのが得意で、あちらはそれを苦手とする代わりに、模倣した1を100にも1000にもできる。かつての粗雑なコピー群とは違って、生み出された1への深い敬意とともに、異国の土壌と滋養でていねいに育てられているのが伝わってくる。本国で絶滅の危機に瀕している花が、異国の地で種を芽吹かせ、ひろびろと繁殖してゆくーー私を落ちこませたのは、進歩的な態度の下に切り捨てられてきた「イビツさ」「正しくなさ」の中にあった本質を、我々ではない人々がキチンと見ぬいて評価し、継承しているという事実です。ソウルハッカーズの本質を理解した正統な続編は、別の名前で異国の地から登場するような気がしてなりません。

小説「プロジェクト・ヘイル・メアリー」感想

 プロジェクト・ヘイル・メアリー読了。前評判どおりメチャクチャ面白くて、一日で最後まで読んでしまいました。恐ろしいことにこの小説、なんと全編にわたって一人称で書かれてるんですよ! 「恒星間航行およびファースト・コンタクト」みたいなスケールのSFなのに、「記憶喪失と現在・過去のザッピング」を駆使して一人称の視点を最後まで貫いている。「三人称は映像作品から逆輸入された邪道で、一人称の私小説こそがテキストの王道」という思想の持ち主である私にとって、これだけで100点の加点に値します。

 まるで良質な講義を受けているように、必要な情報が順に明かされてゆき、物語の終わりには「プロジェクト・ヘイル・メアリー」という単位の履修が終わっているーーそんな読後感を得ました。「自分のことしか考えていないヘタレが、すべての責任を預けられて世界を救う」のも大好きなモチーフで、次第に明かされていく主人公のヘタレ凡夫っぷりには、我が身に置きかえての深い共感を覚えます。ただ、一人称小説の避けがたい弱点を露呈している部分もあり、この作品が選んだエンディングの反対側にある、読者の多くが知りたいと思う情報がいっさい開示されないのは、わずかにカタルシスを減衰させていると感じました。

 ともあれ、同じ状況に置かれたら、何ひとつできないままウォッカでヤクを流しこみ、窒素を船体に充満させる死を選ぶだろうクソ文系人間に、数学・物理・化学・生物をちゃんと勉強しておけばよかったなと思わせるほどには、理系の学問について啓蒙してくれる作品でした。みなさん、良い大人としてプロジェクト・ヘイル・メアリーを積極的に中高生へ読ませて理系分野に目覚めさせ、「国際」や「グローバル」みたいな冠のついた文系学部をガンガン廃止していきましょう!

海外ドラマ「力の指輪」感想(シーズン1)

第1話・第2話

 タイムラインが悪い意味で沸騰している「力の指輪」をようやく見始めた。「三十年前に原作をすべて読んでいるが、ほぼ内容を忘れてしまっている」人物の放言としてお聞きください。黒い肌のエルフについてですが、”fair skin”を「色白」以外の意味で解釈することは、かなりの無理筋でしょう。第ニ紀はいわゆる「神代の終わり」なので、種族間の交流や交雑も進んでいない、旧約聖書で言うならバベル前後の物語です。彼のバックグラウンドとして「上エルフと南方人の交雑」が今後、描かれないとするなら、やはり原作ではなく政治的正しさのみに目を向けた配役だと結論づけざるをえません。議論を撹乱するためにわざと逆張りで言いますが、肌の色より気になったのは、彼の髪型がスポーツ刈りなところです。エルフのトレードマークと言えば豊かな毛量であり、彼がストレートパーマをかけた黒髪をファッファーと風になびかせていれば、まだ違和感は少なかったでしょう。え、それだと天パの人が傷つきませんか、だって? 彼をアフロエルフにしなかったことに、制作者の差別意識を感じます? (受肉した人工知能の憂い顔で)資本主義の市場をフルオープンにしておくための方便であるところの「多様性」とやらは、人類にはまだ早すぎたのかもしれませんね……。なに、第三紀のエルロンド卿の富士額を見てくださいよ、これがエルフの毛量についての反証です、だと? バカモノ! それはヒューゴ・ウィーヴィングの身体的特徴によるものであり、この令和の御世にゾッとするような差別的発言であるわ!

 話がだいぶそれましたが、ベター・コール・ソウルが証明してみせたように、よくできた前日譚は本編をも称揚しながら底抜けに面白くなっていくものですが、「力の指輪」はピーター・ジャクソン版(もう20年前ですって!)に接続していく前提で作られているんでしょうか。関与を否定する記事は読みましたけど、引きの空撮ショットにはじまって、画面の作り方は完全にピーター・ジャクソン版を下敷きにしているように見えます。トールキン財団の孫だかがボロクソ言ってるのは知ってますけど、いま指輪物語と聞いてあのビジュアル以外が頭に浮かぶ人なんて、世界中さがしてもだれもいないでしょ。埃をかぶった古典作品を、最高のビジュアル化で巨大ファンタジーIPとして現代に蘇らせ、それがその後の作品群に多大な影響を与え続ける……その偉大な功績が傲慢さへとつながり、ホビットを3部作に改悪した「ギークの逆襲」はまだ許していませんが、かえすがえすもゲド戦記のことは残念でなりません(急転直下の鬱エンド)。

 ホビット3部作を思いだすことで、「力の指輪」にピーター・ジャクソンが関わらなくてよかったと、考え直しました。
映画「ホビット」感想
映画「ホビット2」感想
映画「ホビット3」感想

第3話

 力の指輪、第3話を見る。いよいよ「ガラドリエルの冒険」みたいな副題が必要になってきたし、ゴールデン・カムイ風に言うなら「この奥方、血の気が多すぎる」であり、グラップラー刃牙風に言うなら「コンマ1秒あれば、この広間の全員を2回ずつ殺せる」といった感じです。スポーツ刈りのエルフが、リリーフではなく先発投手であることもわかってきて、出ずっぱりのわりには演技が一本調子で魅力に欠けるのは、ちょっと問題ですねー。表情の作り方がエルフとしては、どうにも粗野すぎるように思います。原因としては、他の種族を心の底から見下してる感ーー奥方の傲慢な侮蔑っぷりを見ならってほしいーーが無いところでしょうねー、これもポリコレの悪い影響じゃないといいなー。ジョン・ボイエガのときにも言いましたけど、キャスティングをしたならしたで、厳しくエルフ族の演技指導をして、ダメな演技にはキチンとリテイクを出すべきだと思いますよ。差別と受けとられるのを怖がって、撮影現場で腫れ物に触るようになってませんか? 本当にだいじょうぶ? ガラスの天井があらゆる爆撃を防ぐ無敵のバリアーになってない?

 制作インタビューを読むと、「時代にあうよう多様性に富んだキャスティングにする。これは全員一致ですぐに決まりました」とか言っている。まあ、そちらのお国の内情なんで別にどうでもいいんですけど、この件は「何の議論もなく、自動的に決まる」ことが問題なんじゃないですかね。みんな、差別だと叫ばれて地位を危うくしたくないから、空気を読んで忖度して、会議室の中にいる象の例えのように、大急ぎでこの件に関する議事を進行しただろうことが、ありありと伝わってきます。これも繰り返し言ってますけど、メイス・ウィンドゥの肌の色や毛量について、ファンの間で話題になりましたか? なりませんでしたよね? あれは白黒以前に、文句なしにカッコいい最強のジェダイその人だったからですよ!

 今後、スポーツ刈りエルフの演技が一皮むけーー差別用語じゃない……よね?ーーて、ただその存在感のみで批判者の妄言を圧倒するようになってくれることを、心から願っています。でもやっぱり、流浪の冒険者が頻繁に手入れの必要なスポーツ刈りって、無理があるんじゃないのかなー。

第5話

 力の指輪、第5話を見る。毎回、ガラドリエルのパートがいちばん面白い。ロード・オブ・ザ・リング(ス)でフロドに指輪の譲渡を迫られてギンギラに輝くガラドリエルが「魔法の奥方」だとするなら、本作での血気さかんな若エルフは「物理の奥方」であると言えましょう。「剣は腕ではなく、足で使うのだ」みたいな台詞には、地上最強の息子の顔で「剣術には蹴り技がない……そんなふうに考えていた時期が俺にもありました」などと、思わずつぶやいてしまいました。

 しかしながら、「奥方にひと太刀でも浴びせた者は、大尉に昇進だ!」との号令から始まった、市場でのはた迷惑な大乱闘をニヤニヤながめながら「天パで茶色い方が大尉になるわ……」などとニュータイプごっこをしていたら、本当にその通りの展開だったのには真顔にならざるをえませんでした。ポリコレって、第三の新しい価値をフィクションに付け加えるのではなく、白人が主人公である従来の物語とネガポジの展開にするだけで、物語的な必然をスッとばすのがつまらない理由なんですよねー。

 それにしても、天パのツイートをしたら天パのキャラが登場するなんて、鍵アカの関係者がフォロワー内にひそんでいるにちがいありません(ぐるぐる目で)。

第8話

 力の指輪シーズン1、最終話まで見る。「語りえぬものについては沈黙しなければならない」というフレーズが脳裏に何度もリフレインする展開で、特にピーター・ジャクソン版で徹頭徹尾「非人間的な虚空の裂け目」として表現されてきたサウロンを受肉(笑)させてしまったことは、たとえば軍艦を擬人化するレベルの大問題じゃないでしょうか。サウロンが「対話の不可能な滅びの象徴」だったからこそ、「最も弱き生活者」であるホビット族の勇気がテーマとして際立ったわけで、「支配と安寧は同じことではないか?」みたいな中2病的意思疎通ができる安易なワルモノに彼をスケールダウンさせてしまったのは、きわめて悪手であると感じました。

 余談ながら、「語りえぬもの」をウッカリ語りきってしまった作品にDC版ジョーカーがあると思うんですけど、あっちはホアキン・フェニックスの怪演で無理矢理に成立させた内容で、本作の俳優にそれができるかと問われれば、端正であるがゆえにあまりに歪さがなさすぎ、「人の形をしたサウロン」の表現には及ばないと答えるでしょう(奥方の女優なら、あるいは……)。

 あと、荒海の小舟の上で左が晴天、右が暗雲というあからさまな構図を使って「光の公女と闇の王子、反発しながらも引かれあう2人の命運やいかに?」みたいな弁師のがなり声が聞こえそうな、西洋絵画を思わせる二項対立の場面ですけど、大トールキンが見たら怒りのあまり全身の毛穴から血をふいて憤死するんじゃないでしょうか。シンエヴァ以降ーーとあえて表現しますーーのフィクションにおいて、特に顕著となった「キャラとテーマが同化して、世界の問題がその関係性へ収束する」というストーリーテリングが、ここにも色濃く表れているように思います。

 それと、あんまりポリコレポリコレ騒がれすぎたせいで、「白人どうしの争いに巻きこまれる有色人種」みたいな意図せぬ見立てが、サウロンを受肉(笑)させたこととあいまって、最終話を通じて付与されちゃってません? しかも、有色人種を悪役に配することは「絶対に」できないがゆえの、消去法による消極的な漂着にしか見えません。シーズン1最大のキモである指輪の鋳造シーンも妙に理屈っぽくて、ピーター・ジャクソン版で「一つの指輪」が持っていた得体の知れぬ神秘性が雲散霧消しちゃってるしなー。

 ともあれ、シーズン2以降をロード・オブ・ザ・リングスの前日譚として見ることは、もうできないだろうと感じています。

映画「デューン」感想

 ヴィルヌーヴ版デューン、長く積んでいたのをようやく見る。やっぱり映画は90分くらいがベストで、長くても2時間前後、2時間30分以上あるものは、観客のことを度外視したディレクターのエゴが、どうしても編集に流入ーーいい撮影だし、切りたくねえなーーしてしまうような気がします。前監督作のブレラン続編と同じく、本作では引いたアングルから定点での長回しカメラが多用され、「タルコフスキーのデューン」というタイトルでもまったく違和感はないでしょう。原作小説は発表当時、我々の世代にとっての初代マトリックスと同じレベルで神格化した受容が行われましたが、数々の巨匠たちが挑むも満足のいく映像化にはついに至らなかった、悲運の作品でもあります。本作は間違いなく、これまでに撮られたどのデューンをも越えていますが、原作ファンの満足する域にあるかと問われれば、そうではないと答えるしかありません。

 最初の1時間ぐらいまでは世界観の提示と物語のビルドアップが非常に巧みで、「この監督にスターウォーズのシークエルを撮影してほしかったなー」とか考えてましたけど、後半にさしかかる頃には「でも、ライアン・ジョンソンと同じ結果になっただろうなー」と考えなおしました。この監督に足りないのは「大きなウソによるケレン味とアクションのアイデア」で、サンドワームにしてもさっさと全身を写せばいいのに、怪談話の幽霊みたいな焦らし方のチラ見せに終始するし、最終盤の決闘も薄味すぎて、予言の打破を象徴する「運命の戦い」の力強さは少しも感じられませんでした。ドゥニちゃんさあ、もっとこう、ナイフとナイフのつばぜり合いに火花が散るのを、毛穴が見えるくらいカメラを寄せて、決闘者が歯を食いしばる様ぐらい撮らなきゃダメじゃん! それもミラーボールみたいに、グルグル光源をまわしてさあ!

 ブレランの続編にも満々に表れていましたけど、全体的に「デューンの世界観を西洋人の思い描く東洋思想というテンプレで解釈した」みたいな中身になっています。最近、ブラピが高野山の厄除けに参加したニュースが流れてきましたが、「軽い気持ちで列席したけど、荘厳な雰囲気に圧倒された」みたいに語っていて、椅子に座らされて半開きの口で(これはいつもの)両目をうるませて、合掌する写真まで掲載されちゃってんの。いつも「うらやましいなあ」と思うのは、キリスト教の枠組みで思考様式までガチガチにしばられている西洋人が、それを本邦での体験を通じて徹底的にキャンセルされる、性的絶頂にも似た精神的な快楽へ全身を浸しているのを見せられるときです。詳述は避けますけれども、我々も文化による枠組みで思考や行動をガチガチにしばられていながら、西洋諸国を観光に訪れたところで、それが彼らのようにキャンセルされることなんて、ありえないのですから!

 話をデューンに戻しますと、いっしょに見た家人の感想は「長かったけど、主役の子がキレイやったから、面白かったわ」でした。まさしく無意識の慧眼であり、多くの女性にとってこの映画の魅力の8割くらいは、ティモシー・シャラメのルックスとエロいハダカ(あら!)に依拠するものでしょう。多くの男性にとって似たような映画がたしかあったなー、何だったかなーと考えていたら、レオンだった。いやいや、どんなにブヒ山肉之進の皆様が小鼻のふくらみをマスクの下に隠して否定しようとも、レオンの魅力の9割5分は13歳のナタリー・ポートマンが演じるマチルダの嬌態によって形づくられているのですよ! よろしい、「この意見に賛同するなら、ただちにマチルダが君の恋人か娘になるけど?」と問われて、ガックリと膝を折りながら「イエス……」と屈従しない男性のみが、私に石を投げなさい。ストーリー展開が「ほとんど漫画」であるレオンという映画は、13歳のリアル美少女がいなかったならば、いまよりずっとニッチな受け止められ方にとどまったことは、まず間違いありません(でも、完全版の未成年ガチ飲酒シーンはやりすぎ)。

 んで、デューンなんですけど、なんか話が終わってなくない? え、これパート1なのに加えて、全何部作かもまだ明らかになってないの? またしても、単品誤認の売り方じゃないですかァーッ!! 次回作も、劇場には見に行かなァーい!!

ゲーム「ソウルハッカーズ2」感想

 ソウルハッカーズ2、プレイ中。まだ悪魔合体もできない序盤も序盤だけど、キャラクターとテキストに破綻が無いので、ここまでの印象はとてもよろしい。世界の滅亡をかけた物語のスケールもいいし、魂の定義にまつわる語りも好みです。人生を進めるにつれて、古い記憶の価値が相対的に高まり、思い出の美しさがいまを超えなくなってゆくのは、死の受容に向けた脳の機能ではないかと考えさせられました。でもこれ、ソウルハッカーズというより、全体的にペルソナだよね。あと、フフフ、リンゴたんってどこかネミッサの面影があって、萌えますよね……(怒れるドぎつい初代ファンたちが、引き戸を蹴破って電脳空間へなだれこみ、ペルソナ4の総攻撃を思わせるエフェクトで話し手の少女をボコボコにする)。アタシ、わからせられちゃったんだけど、(青タンの浮いた顔面で)やっぱり2を名乗って続編誤認させたのは、悪手だったかもしれない……タイトルをソウルリターナーズとかにして、関連をにおわせるだけだったら、ここまでの炎上には……あの年代のメガテンファンって、本当にややこしいオタクばかりだから……(ガクッと首を落とし、こときれる)。

 ソウルハッカーズ2、ギザ歯の元カノと戦うあたりまで進める。ようやく、みなさまの本作を酷評する理由が続編誤認だけでないことを、わかりはじめてきた次第です。本作はソウルハッカーズの名を継ぎ、ペルソナの見た目を踏襲しながら、ゲームの中身はどちらともベツモノになってしまっているのです。テキストに破綻がないことをほめましたが、進めるにつれてゲーム全体がシナリオありきの作り方になっていることが、マイナス要因として浮かびあがってきました。「どんなゲームを遊ばせたいか?」ではなく、「書いた物語をどうゲームに落としこむか?」に重きが置かれている感じなんですよねー。テキストはまあまあ読めるんだけど、ゲーム部分が気のきく専門学校生の習作みたいなレベルなんですよ。ソウルハッカーズとペルソナシリーズが持つ面白さの本質を理解しないまま、表面だけをなぞるような作りになっている。

 美麗なキャラとダンジョンを3Dで作っておきながら、ジャンプもダッシュもローリングもなく、ただただ平面を水平にイモムシのようにノロノロ歩かせるだけで、リンゴたんのオソソが見えそうなショートパンツの腰ふりモーション(エロい)を背後から見る眼福がなければ、早々に投げだしていたでしょう。「斬りつけると敵が倒れ、倒れた敵に接触しないと戦闘が始まらない」とか、「ファストトラベルの移動先が店内ではなく店外で、ボタンを押さないと入店しない」とか、ちょっと気のきいた専門学校生がデバッグすればわかりそうなテンポの悪さも、プレイの快適さを絶妙に下げています。仲魔の勧誘も改悪されてて、戦闘で話しかけるのではなく、ダンジョン内のNPCからランダムで紹介してもらうポン引きーーオトコマエノオニイサン、イイコイルヨーーみたいなシステムになっちゃってる。だんだんマジメにプレイするのがアホらしくなってきて、早々に経験値系アイテムのDLCを解禁したんですけど、これまでの「1個使って1回戦闘して1レベルアップ」から「使った数だけレベルアップ」に仕様が変わってて、それこそ1秒でレベル99にできちゃうの。まったく、その無能な専門学校生のテストプレイヤーはクビにすべきじゃないですかね(幻覚)!

 ストーリー展開もJRPGの悪い部分を踏襲していて、主人公が絶対に間に合わない。とにかく、笑えるぐらい、徹底的に悪事の現場に間に合わない。敵が「ファファファ……」とか言いながら悪事をはたらくのを、リンゴたんは舌に指を当てて(エロい)ながめていることしかできない。キャラ描写の薄さも気になってきてて、「過去に何かあったことのにおわせ」に終始するばかり、アロウの親友をバトルで倒したあと、だれもソウルハックに言及せずスルーしてそのまま死なせたのには、「は?」と思わず声がもれました。物語を進めれば、これらの違和感はすべて解消していくんでしょうか。セリフが存在しない部分の演出も意味不明なものが多くて、あきれるを突き抜けて爆笑してしまったのは、強敵とのイベントバトル後、「勝てない。逃げよう」みたいなセリフから暗転して、「ふー、逃げ切れた」と自宅でくつろぐシーンへシームレスに移行したところです(ギャグでやってるんですよね?)。もう「リンゴたんがエロい」以外に見るべきところがなく、彼女の尻をガン見することがプレイの主目的になってきました。

 ビジュアルを作った段階で力つきて、ゲーム部分がとてもとても残念な作品、どこかでプレイしたことがあったなー、なんだったかなーと考えていたら、月風魔伝アンダイイング・ムーンだった。

 ソウルハッカーズ2、プレイ開始1時間までが最高潮で、そこで好きになったものをなんとか擁護しようとふんばるんだけど、プレイ時間に比例して印象は尻下がりにーーリンゴたんの尻はキュッと上がってるのにな、ってやかましいわーーとどまるところなく悪くなり続けています。ストーリーを追うために遊ばされるスカスカのゲーム部分が、スカスカなのにやたら時間を食う仕掛けで、もうテキストだけ読ませてよって気分になってきました。そのストーリーにしたころで、何の伏線も無かったのに衝撃の事実だけが明かされる展開が続いていて、いまは「鉄仮面は、別人物にすりかわっていたんだよ!」「な、なんだってー!」「わたしは知ってたわ(ドヤ顔)」のところで、かなり強めに「ハァ?」という声がほとばしりでました。ヤタガラスとかなんとか、組織名だけはいくつも提示されるものの、それらの実態についてはまったく描写がなく、まるで主人公格の人物たち以外は、世界に存在しないかのようです(5つのコヴェナントがぜんぶ東京にあるってのも、冷静に考えたらおかしな話ですね)。描かれるのは徹頭徹尾キャラクターの心情だけで、ダメな脚本の総天然色見本であるシンエヴァが、バナナの叩き売りの要領で100億円を達成したことで、本邦のフィクションへ確実に広がっている悪影響を、あらためて実感させられますね(真顔)。「テキストが破綻していないのに、ストーリーが支離滅裂で、キャラクターに魅力がない」という中身に、己の過去の創作物をふりかえっての共感性羞恥みたいな感情も芽生えはじめていて、難易度をイージーに下げた泥酔からのレベル99オートアタックで、この週末にクリアしてしまいたいと思います。

 ソウルハッカーズ2、クリア。魂の迷宮?に潜るのがメンドくさすぎて、ノーマルエンドでのフィニッシュです。結論から言いますと、「ソウルハック」という単語から着想を得ただけの、続編どころか2次創作とさえ言えない内容で、初代とは似ても似つかぬ別のゲームでした。全体を通しての印象を例えると、「こましな内装のビストロと思いきや、仕入れの目利きはいるのに料理人は不在で、コースの組み立てがメチャクチャ」でしょうか。「冒頭1時間が最高潮」と書きましたが、「電子の海で人知れずシンギュラリティを迎えた人工知能の受肉」というのが最大のネタで、これを越えるものが作中に無いため、「着席した瞬間にメインディッシュが出てくるコース料理」みたいになってしまっている(まあ、ゲーム実況全盛の時代に合わせたジャッジなのかもしれませんが……)。

 これ、無印デビルサマナーと同じく、アロウの「探偵物語」として始めて、バディのカブラギと街の悪魔事件を解決していく序盤、その親友の裏切りと謎の少女リンゴとの出会いを中盤、コヴェナントの存在とリンゴの正体が明かされる終盤と組み立て直せば、もっと好意的に受け入れられたかもしれません。本編ストーリー、依頼サブシナリオ、迷宮での回想編がバラバラに提示されて収まりが悪く、読み手へのストレスでしかないのも、この構成ならスッキリと一本にまとまったんじゃないでしょうか。本来なら1つにまとまるはずの3つの要素が、バラバラに提示されてストレスを感じるゲーム、どっかでプレイしたことあるなー、なんだったかなーと考えていたら、十三機兵防衛圏だった。

 あと、「クオリアの牢獄」ってフレーズがライターのお気に入りみたいですけど、「AIの受肉」というテーマでいちばんオイシイのって、セックスの話じゃないですか! 初めての快楽にとまどうリンゴたんどころか、登場キャラに酒まで飲ませるくせに、ワイ談のひとつも出てこない潔癖さはゆるせませんね! ちょっとしたエロいほのめかしやラッキースケベぐらい入れても、コンプライアンス上の問題は何ら生じませんよ! 「AIの受肉」がテーマなのにセックス描写が足りなくて不満を感じた作品、なんかあったなー、何だったかなーと考えていたら楽園追放だった。

 

雑文「現実と虚構について(2022.8.20)」

質問:猊下、ご無沙汰しております。 素朴な質問ですが、主観も虚構と言えるのでしょうか? そうすると現実社会も結果、虚構と言えると思うのです。 それは言葉にしてしまうから虚構なのかとも思うのですが、猊下のお考えを知りたく連絡しました。

回答:うーん、かなり抽象的な質問にとまどっております。ある画家の作品を指さして、「はたして、青は万人にとって青なのか」と問いを立てるようなことには、もう意味を見出せなくなるほど、時間が過ぎてしまいました。ほんの一部の才能か異常を除けば、青は99.9%の人間にとって同じ青なのです。瞬間瞬間に過ぎゆく現在は、その強固な事実にはばまれて、意味の受容が個人の言葉、すなわち虚構によって大きくブレることはないでしょう。現実における虚構とは、未来を先駆的に決定する意志のことであり、スティーブ・ジョブスの「現実歪曲空間」を究極とした、他者に対するイメージの強要なのだと考えるようになりました。巨視的に見れば文化や歴史、卑近には営業活動や家族関係など、より単純化すれば2つの考え方の一方に立つ者が、「フィフティ・フィフティを越えて、どの地点まで相手側に意志を押しこめるか?」という版図の争いが、現実における虚構の真相だと感じています。それは人間関係での摩擦をいとわぬ胆力によって成され、上書きした事実が時間で褪色するのに逆らって、繰り返し繰り返し上書きし続ける意志の力が不可欠です。なので、「現実社会は虚構か?」と問われれば、「だれかが思い描いた未来を、胆力と意志によって固着化しているという意味で虚構だが、私と貴方には何の連絡もない虚構である」という答えになるでしょう。たぶん、聞きたい回答とは違うと思います。申し訳ありません。