猫を起こさないように
月: <span>2022年12月</span>
月: 2022年12月

ゲーム「FGO第2部7章前半」感想

 FGO第7章前半クリア。前後編へと分割した理由がボリュームでなかったことは残念でしたが、内容的にはさすがファンガスの筆であり、他の書き手を寄せつけぬ頭3つほど抜けたクオリティに達しています。ただ、第6章と比べると物語の展開が幾分リニアーで、語り口もわずかに雑だと感じざるをえません。さらに、サッカーW杯ネタを仕込んでくる節操のなさやパロディの多用、リアリティラインをギャグ方向に下げて危機を回避する手法など、全体としてのフィクション然とした雰囲気は少し気になりました。しかしながら、これは各界のスーパースターたちが様々な記録や偉業をうち立てたあと、あらゆるライバルが背景へと消え去り、やがて己の過去と己自身だけを行為の基準とする境地に、ファンガスが突入したからだとも言えます。

 そして古くからの型月ファンたちは、20年以上前の設定集から引っぱりだされたORTなる「ボクの考えた最強生物」に大興奮の様子ですが、FGOからの新参者にしてみれば、体内で核融合反応を行うというくだりはあからさまに例の怪獣を連想しましたし、冒頭に登場した光の巨人とU-オルガマリーがアーツカードを使うときの「デュワッ!」というかけ声は、M78星雲の宇宙人へのあきらかな目配せを感じました。おそらく第7章後半で、「ゴジラ対ウルトラマン」をやりたいんだろうなーと推測するときの気分が冷めているのは、版権が存在しない偉人や英雄には女体化を筆頭とした好き勝手の狼藉を働きながら、版権の切れていない既存IPには気づかれぬようおそるおそるアプローチするその手つきが、結局はどちらも同質の根を持つとわかるからで、同人活動に出自を持つ会社の「育ちの悪さ」をいまさらながら見せつけられた気分でいます。

 FGO第2部における世界の危機が、既存作品のパロディへのオーバーラップによって解消するのだとしたら、それは昔からの同社ファンを大いに喜ばせこそすれ、新しいファンたちを白けさせるものでしかないと、老婆心から忠告しておきましょう。かすかに匂ってきたメタの香りに不安を覚えつつも、第7章後半とそれに続くだろう終章を、いまは心静かに待つつもりです。前半で描かれた「ウルトラマンが人類を好きになる過程」は充分に感動的だったので、ここからは既存IPのオマージュから離れ、ひとりで高く飛翔することを願っています。

ゲーム「FGO第2部7章後半」感想

映画「アバター:ウェイ・オブ・ウォーター」感想

 アバター2、見てきた。西洋人の大監督が撮る超大作に、アジア人の短躯広報がビビりまくってつけた副題「ウェイ・オブ・ウォーター」は、ファントム・メナス以来の盛大なる腰の引けっぷりだと言えましょう。そして、赤青メガネをつけた無責任な観客が「やっぱ3Dってゲテモノだよなー」などとヘラヘラ笑ってるのを見て、「映画芸術の新たな地平は、映像に1次元を加えることである」という強い信念に突き動かされて、専用カメラを開発してまで「やらなキャメロン!」と作りあげた前作はまさに映画革命でしたが、残念ながらここ10年余りで市場から3D映画そのものが駆逐されてしまいました。

 前作の熱烈な信者である身としては、何を出されても「アバターもえくぼ」の心境でいようと臨んだのですが、まず率直なところから言いますと「13年もかけて、これ?」という感想でした。なぜか、映画版のファイナルファンタジーを彷彿とさせらましたねー。長すぎる制作期間で技術革新に追い抜かれたせいか、はたまたCPUとグラボのパワーが足りてないせいか、画質はフルハイビジョンと4Kと8Kを頻繁に行き来し、フレームレートは25fpsから120fpsのレンジを何度も上下する始末で、全体としての統一感がまったく取れていません。初代は名実ともにエポックメイキングな作品でしたが、ここ10年のマーベル台頭によって御見物の目が肥えたせいでしょうか、実写で撮影している部分とフルCG部分の見え方に乖離がすさまじく、売りであるはずのそのCGもプレステ4か5のムービーシーンぐらいにしか見えないのです。

 さらに3時間12分もの長尺をとっておきながら、そのうち半分は技術自慢のアトラクションパートで、肝腎のストーリーパートも前作で語り終えた内容の蒸しかえしばかり、「ベトナム戦争」「アパッチ民族浄化」「捕鯨問題」「ガイア理論」をごった煮にしたあげく、世界の現状からどれをもテーマとして焦点化できなくなった結果、大声で「家族の結束」を叫びだすというグダグダさです。また、映画監督としての格は天と地ほども違いますが、その芳醇な才能をアバター世界の構築にのみ費やした十数年が別の作品に注がれたらとどこか惜しむ気持ちは、作家として最も円熟していたはずの十数年をエヴァンゲリオン世界のリブート失敗(大失敗)に空費した某監督の無様さを否応に連想させます。スターウォーズ6の感想でも指摘したことですが、つくづく考えさせられるのは、アメリカが建国の過程で負った原住民虐殺という国家的トラウマは、今日に至るまで子々孫々へいまだに宿業として受け継がれており、彼らは「世界最強の軍事力を有する我々を、インディアンたちが石槍と石弓でうち負かしてくれるという甘美な破滅」をどこかで待ち続けているのかもしれません。

 最後に、念のための注意喚起として付け加えますが、本作を中学生以下のお子さんに見せるのは、危険な気がします。幻想のヰタ・セクスアリスとして、特殊な性癖をふかぶかと植えつけられそうな実在感だけは、全編にわたって横溢しているのですから! しかしながら、「ただの異星人だから」とロリペド方面の、「ただの身長差だから」とショタ方面の需要をただちに満たしてくるのは堂々たる大監督の威風であり、この点にだけは三千円弱をはらっても惜しくないと断言しておきましょう。

漫画「劇光仮面」感想(2巻まで)

 劇光仮面の2巻まで読む。前作がバチバチのキャラクター・オリエンティッドな作劇なのに、グラップラー刃牙で言うところの「全選手入場!」の段階で終わってしまったのは、記憶に新しいところです。作者本人が「キャラ中心の群像劇を描きあげる力量が無かった」みたいな弱音を吐露をしていましたが、30年選手のベテランがいまだに手クセや予定調和を退けて、ド正面から真剣に虚構へと向きあっていることは痛いほどに伝わってきました。手クセと予定調和まみれなどこぞのシンカイ某にも、この創作姿勢を見習ってほしいものです。その挫折を受けて始まった本作ですが、こちらは作者の来歴とアイデンティティに深く根ざしたストーリー・オリエンティッドな内容で、今度こそ中絶の心配は無いように思えます。

 はじめて現実を舞台にした(だよね?)この物語には、おそらく「虚構が現実に敗北(あるいは勝利)」する結末が用意されているはずですが、強い思想性の持ち主であるにも関わらず、さらに激しいフェティッシュがそれをかき消すという作風が、今度こそ思想性にオーバーライドされてしまうのではないかとひそかに危惧しています。ぶっちゃけて言えば、私が在住する県で発生した大化の改新以来の歴史的事件を下敷きにした最終章へと突き進んで行きそうな気がしてならないのです。そうなれば、これまでの彼の全仕事が新たな視点で再解釈されることにもなりかねません。ともあれ、いま本邦でもっとも緊張感のあるフィクションのひとつであることを疑う余地はないでしょう。劇光仮面、大きな期待と不安の狭間にゆれ動きながらも、おススメです。

映画「THE FIRST SLAM DUNK」感想

 2日連続でスポーツの話題を提供すると陽キャだと思われてしまいそうだが、スラムダンクの映画を見てきた。ご多分にもれず、ハネッかえりの若手クリエイターとクソ声優おたくどもによるネガティブ・キャンペーンに、嫌気がさしてはいた。しかしながら、本誌で連載を追いかけていたリアルタイム世代であることと、初日を越えて「くそ……なぜオレはあんなムダな時間を……」の画像がタイムラインに流れてこなかったため、散髪ついでに見に行ったのだが、このテキストを書きかけて、散髪するのを忘れて帰ってきたことに気づいたほどである。内容的には原作との補完関係になっており、作者本人が脚本と監督を手がけていることもあって単体でもそれぞれ楽しめるが、どちらも知っているとなお面白いという仕上がりになっている。正直なところ、感動に目頭が熱くなったし、結末を知っているにも関わらず、今度こそ本当に負けるかと思った。

 そして、この作品は井上雄彦という作家のフィルモグラフィー(この言葉の漫画版って何ですかね?)を読み解くにあたって、きわめて重要なピースである。スラムダンク連載終了後に始まったバガボンドとリアルがどちらも長く中断してしまっているのは、カラッとしたフィクションで現実を上書きしていく作風だったのが、依拠する現実の重たさにフィクションを浸蝕されるようになってしまったからだと指摘できるだろう。表面上だけは深刻なフリのシンカイ某みたいな脳天気パー子なら、他人の不幸を利用して創作を続けても罪悪感に自壊しないだろうが、彼は聾唖の天才剣士や筋ジスの車椅子バスケ選手を真摯に描こうとするうちに、自分が選んだテーマとその重さに耐えかねて、いつしか筆が止まってしまったのだと推測する。この意味において、本作は表現形式こそ漫画から映画へと移されたものの、創作者・井上雄彦の赤裸々な現在位置を示していると言えるのだ。

 NBAにおけるマイケル・ジョーダンの大活躍に影響される形ではじまったスラムダンクの連載は、本邦でも一大バスケットボールブームを巻き起こした。そして、スーパースターの引退と連載の終了は、そのブームの終焉とリンクしていたように思う。この映画で、チビのポイントガードが主役として焦点を当てられているのは、亡くなった兄の名前をユータにまではしなかったものの、スラムダンクから影響を受けて日本人初のNBAプレイヤーになった、あの選手への目くばせだろう(蛇足ながら、スラムダンクに登場するフォワードたちのような活躍をする選手は、現実には現れなかったからでもある)。自らの描いた虚構が現実へ影響を与えた実例に心理的なサポートを得る形で、創作者としての再起動をはかろうとしたのが本作に隠された裏の意図だと考えるのは、きわめて自然なことのように思える。ともあれ、「THE FIRST」の冠がスラムダンク第2部ーー雑誌掲載時の最終話は「第1部完」だったーーへの布石であることを強く祈っている。

 あと、同じハコから出てきたボンタン・ツーブロック・片耳ピアスの中高生ーーおそらく土建屋の父から見に行けと言われた、末は反社か鳶職かの一団ーーが、エスカレーターに座りこんでスラムダンクの話をしているのを見て、なんだかうれしくなってしまった。本邦の未来は、物心ともに君たちが作っていくのだ。タイムラインに生息するシングル・ルンペン・ブルジョワジーの戯言なんかに、耳を貸すんじゃあないぞ。アイツらは、自分の寿命が無いもののようにふるまえる一世代限りの徒花、学術名・デジタルキグルイだからな。

雑文「世界球蹴り合戦、その本質」

グループリーグ進行中

 7大会ほど世界球蹴り合戦を見続けてきながら、いまだにニワカファンを自認している場末の皇族である。「知識の蓄積によってバランスを失い、レーダーの感度が下がることを嫌う性向」は、どの分野においても私がおたくになりきれない原因だろう。話を戻すと、「4年に一度」というのは世代交代と技術継承を目途とした、人間版の式年遷宮みたいなものであり、世界規模の大きな流れに身を預けて浮いている感じがとても好きだ。いま記憶に残っているものを3つ挙げるとするなら、「高校選手みたいな動きなのに、なぜかヘディングだけで点を取り続けるジャーマン」「漫画なら明らかに脇役のオモシロ容姿なのに、なぜか一人で組織をブチ破るブラジリアン」「力石徹みたいなバシバシ睫毛で美形なのに、なぜか決勝戦で選手にヘディングして一発退場になったフレンチハゲ」であろうか。最後に挙げたものについては、激情のさなかでも手を使わない、ジョブ「球蹴り士」連中の本性を垣間見た気がしたものだ。ヤツらはきっとパブや路上におけるケンカでも、頭と足だけで戦うにちがいない。

 そして何より、このニワカが世界球蹴り合戦に強く感じ続けてきたのは、東洋人へ向けた西洋人のゾッとする差別意識である。普段の生活では理性の力によって99%を抑えこまれているその感情が、勝負のアヤを迎えたり形勢が不利になった瞬間、相手チームだけでなく審判のジャッジごと噴き出してくるのだ。言葉にすれば、「アジアの黄色いサルどもに、文明の長たる西洋諸国が劣るなどありえない」という、歴史に根ざした強烈な優越感情である。心の奥底に潜む殺意とも似たそれが、ゲームの結果にまで影響を及ぼすのが世界球蹴り合戦という舞台であり、その場所は令和を迎えてなお、私の中にある「物心ともに汚らしい昭和」と類似したイメージを保持し続けてきた。それが本大会ではどうだ、ピッチ全域に感情も国籍もない人工知能の目がはりめぐらされた途端、バーバリアニズム最後の聖域から人種差別は一掃され、清浄なる公正が実現したのである。球蹴りの本質と骨がらみで切り離せないと信じていた汚辱が、いとも簡単にヒョイと外科手術で分離されてしまったことに、得も言われぬ感動を覚えている。

 もしかすると人間世界は、良い方向に進むこともあるのかもしれない。

質問:サッカーワールドカップのことで質問です。VARのおかげで「人種差別は一掃され」と書かれていますが、どのへんを見てそう感じられたのですか?
回答:具体的には、アルゼンチン対サウジアラビアとスペイン対日本の試合です。これまでの大会ように人間のレフェリーだけだったら、どちらも結果は逆になっていたでしょう。いろいろ記事を眺めていたら、さっそくVAR廃止論が持ち上がってて、笑いました。西洋諸国のホワイトな方々は、悪い意味でブレませんねえ。自由があれば「自由を我らに」と叫ぶ必要はないし、差別がなければ「差別をなくそう」と叫ぶ必要はないのです。

アルゼンチン対オランダ戦後

 ごめん、やっぱこれ撤回する。サッカーって、バーバリアニズムの聖域だわ。

雑文「HEVBUNとFGO、そしてKANCOLLE+α(近況報告2022.12.3)」

 ヘブバンの新イベント進行中。前回の心霊イベントと同じく、うわすべりするシリアスパートが厚めでギャグにキレがない。「剣術免許皆伝で首斬り介錯人の女子中学生、しかしてその剣は非情ならぬ有情」みたいな設定を大まじめに語られても、わたし、こんなときどういう顔をしたらいいかわからないの。まあ、この作品自体が転スラならぬスラ転(スライムが転生したら美少女だった件)なわけで、いまさら目くじらを立ててもしょうがないことは百も承知です。……などとヘラヘラ譲歩を見せていたのに、イベント戦闘がオートで突破できない調整の上に、リトライのたび大幅な巻きもどしをくらうため、「はい、クソー」と叫んでスマホを放り投げて、3度目の引退が決まりました。セガサターン時代のゲーム制作者が、盤外で行われているコンマ1秒単位の可処分時間戦争にまったくセンシティブではない、ノー・アップデートの感性で実作に当たられているのは、端的に言って最悪ですね。

 そういえば、FGOのボックスガチャに併設してあったコンティニュー無し高難易度も、実装キャラの90%以上を持っているにも関わらずメンドくさすぎて、ひとつもクリアせずに終わりました。艦これイベント海域のカリカリにチューンされた甲難度もそうですけど、ゲームにまで求道的な要素を入れてくるのって、我々の国民性に由来してるんでしょうか。その点では、中年おたくがみんな嫌っている原神の「8割ぐらいの育成で、余裕をもってエンドコンテンツをクリアできます。時間と手間とお金をかければさらに強くなりますが、そこは各自の判断でご自由に」というバランス調整は、もはや昨今の世界標準であるような気がしてなりません。ホニャララ「道」という言葉の体現していた、かつては美点だった本邦の特性が、いまや反転して弱点と化してしまっているんじゃないですかねえ。