猫を起こさないように
日: <span>2022年10月13日</span>
日: 2022年10月13日

雑文「原神の超越、あるいは獣の本性」

 原神、「消化」になってしまうのがもったいなくて、できるだけ攻略情報を調べずにゆっくり世界を「散策」している。己の弱点や拙い部分を自覚しながら隠そうとせず、現在進行形の全身全力全霊で作っている熱気が伝わってきて、「とても好ましい」というファーストインプレッションは途切れることなく続いている。ただ、ソウルハッカーズ2のあとに原神へ触れてしまったことは、私の中のある価値観について、かなり決定的な影響を与えてしまったと言わざるをえない。つまり、「本邦の衰退」なる言辞を横目にしながら、日々の生活では実感を持つことを避けてきた事実に、己の体験を通じて正対させられたのである。ソウルハッカーズ2を現場監督の驕りが招いた高級建材の瓦礫の山だとするなら、原神は建材の質が劣っていることを知る職人の、工夫と熱意と矜持で組み上げられた大伽藍と言えるだろう。そして、見た目には本邦の2次元作品の精髄のようにしか映らないのに、その皮一枚下には大陸の文化と思考が岩のように脈うっているのである。

 栗本薫から薫陶を受けた私は、中国語の翻訳が生みだす独特の文体と、頻出する類型的でない表現に心をつかまれ、原神の体現する思想とも言うべきものに、すっかりやられてしまった。それは言葉にすれば、ここ半世紀を通じて我々があえて意味を軽くしてきた「親と子の絆」「師弟の敬愛」「他者との縁」「商売の掟」「仁義と報恩」「技術と志の継承」「若さと老いの等価」といったものであり、そして何より「現存する人類を延伸した先にある超越」を心から信じる態度が、作品全体に朗々と響きわたっているのである。登場する原神たちにしても、西洋的な孤絶した審判者ではなく、あくまで「人間と地続きに連続した存在」として描かれている。昨日、最新の配信イベントを最後までクリアしたのだが、「ワインの香りをかいだ瞬間、自分を捨てたと思っていた両親の、暖かな背中が脳裏によみがえる」というシーンで、常ならば冷笑的に眺めるだけの自分が、胸をつかれ涙を流しているのに遅れて気づいて、ひどく動揺してしまった。この場面が泣かせのためだけにする小手先のプロットではなく、原神世界に響く確かな通低音とつながっているから、心をゆさぶられたのだと思う。

 「親を憎んだ者たちが始めたおたく文化が、親を愛する者たちに受け継がれていく衝撃」という指摘もあろうが、それはむしろ土地ではなく世代の問題に帰するのかもしれない。話を元に戻すが、家族の形にせよ何にせよ、我々はなぜか旧来への付与でなく解体をどうにも志向してしまうようだ。しかし彼らは、種の継続に向けた動物としての当然をキャンセルしようとする仕草に、何を恥じることもなく異議をとなえ、違和感に首をかしげてみせる。反して我々は、親と子、男と女、師と弟、すべてが一様に対等であるという舶来のアイデア(思いつき)を、だれかの一方的な我慢で成立する虚妄だとは指摘せず、曖昧な微笑で静かに受け入れて、ただただ己の寿命だけは平穏に逃げ切りたいという「さもしい利己主義」をしか抱けない。じっさい、相手を刺し殺す1秒前までは表面上ニコニコと穏やかにふるまい、我慢の時間的な長さによってテロ行為が礼賛の対象へと変質するプロセスーー忠臣蔵がその最たるものだろうーーが我々の心性の正味のところで、「忍耐の末の破滅」を美徳とする生き様では、各国にある中華街が体現するような「ポジティブな生き汚なさ」など構築のしようもない。「三体」を読んだときにも感じたことだが、一過性の思考実験的トレンドに過ぎない人間性の否定に取りあわず、自らの本性を獣の延長として迷わず思考し続けるような人々と100年のスパンで競いあうことなど、はたしてできるのだろうか。その疑念が、ずっと頭を離れない。

 そして、昭和の模倣としての己の人生が「たかが小説」「たかがゲーム」によって、何の普遍性も持たない過去の影法師であることに気づかされ、欠落した魂に抱く幻肢痛のごとき苦しみに悩まされ続けている。そんな気持ちのまま、第2章の花火師の話を読み終えた。ああーー宵宮からは、土のにおいがする。