猫を起こさないように
日: <span>2022年9月15日</span>
日: 2022年9月15日

雑文「ゲームは、アートかプロダクトか?」

 「あらゆる言語の感想を分析し、スプレッドシートにまとめた。これを元に、肯定的な意見と否定的な意見、両方の観点から批評を展開する」みたいな宣言で始まったソウルハッカーズ2の記事が、全編にわたって批判的なトーンに終始するのを読んで、爆笑している。ドぎついファンの悲嘆は傍目には最高のエンターテイメントで、シンエヴァ呪の楽しまれ方をご見物の立ち番から追体験している気分でした。やっぱり、昔ながらの熱烈な客がついている作品に、トム・クルーズぐらいの熱気や覚悟や真剣さを持たない人物が、あだやおろそかで触りにいっちゃいけませんねえ。「凡百のJRPGとしてなら、充分に遊べる。だが、これはソウルハッカーズだ」、わかるなあ! 「凡百のSFアニメとしてなら、充分に見れる。だが、これはエヴァンゲリオンだ」。前作の用語だけを無自覚に引用しているってのもうなずけるところで、例えばアナライズスキルの「ギボ・アイズ」が宜保愛子のもじりだなんて、もうだれも、本作の制作者さえわかってないでしょ。わかってれば、「ホソキ・カゾエ」くらいのアップデートはしたはずです(まあ、これでも古いですが……)。前作のキモだった「ビジョン・クエスト」にしたところで、本作では「ピジョン・クエーッ」くらいの感じにダウングレードされてる(意味不明)。

 真・女神転生5でも感じていたことですが、ソウルハッカーズ2を通じて、「ゲームは、アートかプロダクトか?」問題に、いよいよ結論が出たなと思いました。私たちの少年時代に三十代、四十代だった制作者たちが、現場を離れて役職についたり定年を迎えたりする時期にさしかかっていて、会社に命ぜられた若手たちがプロダクトとしてタイトルを残そうとした結果、「仏像つくって魂いれず」の、外殻だけを残した作品が頻繁に出現するようになった。最近、九重親方のインタビューを読んだんですけど、ネット論客のヒョロガリどもなら「有害なマスキュリニティ」や「ヤクザの搦手理論」などの言葉で冷笑するだろうその中身に、私はジンときて目頭が熱くなってしまった。結局、狭い場所に蒔かれて芽生えただれかが、己の意志でそこに深く根を張ることを決めて、同じ境遇に置かれた別のだれかに魂の熱を感染させるーーそれが、それだけが正しい継承の在り方なのだと思います。

 ゲームとはやはりアートであり、美術館の展示物が必ず特定の個人名と紐づくように、商標として会社に属する表象だけでは、少なくとも本邦においては成立できないことが、ソウルハッカーズ2をプレイして痛いほどにわかりました。少し話はそれますが、タイムラインへ頻繁に流れてくるブルアカと原神をちょろっとプレイしてみたんですけど、ひどく落ちこんだ気分にさせられたんです。この感情は、少林サッカーとカンフーハッスルを見たときに抱いたそれとかなり隣接しています。どちらも中国発のゲームで、特に原神はあからさまなブレワイのリバースエンジニアリングを土台に作った感じ、もっと言えば本邦の2次元文化の深刻な影響下にあるのですが、用語と外殻の組み合わせを越えて、ちゃんと魂が入っている。

 本邦は0から1を生むのが得意で、あちらはそれを苦手とする代わりに、模倣した1を100にも1000にもできる。かつての粗雑なコピー群とは違って、生み出された1への深い敬意とともに、異国の土壌と滋養でていねいに育てられているのが伝わってくる。本国で絶滅の危機に瀕している花が、異国の地で種を芽吹かせ、ひろびろと繁殖してゆくーー私を落ちこませたのは、進歩的な態度の下に切り捨てられてきた「イビツさ」「正しくなさ」の中にあった本質を、我々ではない人々がキチンと見ぬいて評価し、継承しているという事実です。ソウルハッカーズの本質を理解した正統な続編は、別の名前で異国の地から登場するような気がしてなりません。