猫を起こさないように
月: <span>2022年7月</span>
月: 2022年7月

漫画「チェンソーマン第2部1話」感想

質問:えー、小鳥猊下いつも全ての事象を重く煩わしい肉に閉じこめられた哀しいボクらの言葉で解体し尽くしてくれるのにチェーンソーマン2がまだってやばくなーい?

回答:また君か。降臨より20年が経過し、もはや君くらいしか気安くはからんでこないので、相手をしよう。サイバラ女史に言及した記事あたりから、noteの閲覧数とスキがグッと増えて気をよくしていたのだが、「ヒトvsハチ」を境としてどちらも激減した。フォロワー数も減った、というか元にもどった。たぶん、ある表現が一部の読者を傷つけたのだろうと想像するが、自分の感情を的確に表現できる文章を、書かないという選択肢はずっと持ちあわせていない。インターネットで発信するというのは、様々な誤解や曲解を道連れにするということで、過去には面識も交流も無い人物から、一方的にメールで絶縁を宣言されたことがあった。私の文章を長く読んでいる向きは、まるで自分だけに親しく語りかけてくる友人だと思うようになるのかもしれない。しかしながら、私の主観を言えば、だれからの反応も無いという一点において、独房や駅のベンチで床に向かってするキチガイのつぶやきと何ら変わることはない。なので、こんな通りすがりの軽口さえ、1ヶ月ぶりにおとずれた干天の慈雨、極乾の砂漠をひとりかちゆく者へのよく冷えた水と感じられる。要望に応えよう。

 チェンソーマン第2部1話を読む。「タコピーの原罪」と「さよなら絵梨」を下敷きに、「ゲットバック」と「フツーに聞いてくれ」を深刻に受け取った読者の後頭部を、ゲラゲラ笑いながら蹴りとばしてくるような中身で、本当に人を食った書き手だなあと、改めて感心しました。作品”のみ”を使って、読み手とリアルタイムに交信できるというのは極めて稀有な資質であり、盤外戦の過剰なゴム人間の作者あたりに、ぜひ見習ってほしいものです。今回の話は、栗本薫の小説道場だったら「あいかわらずキミのセンスはブッとんでるねえ! 田中脊髄剣には、へんへー思わず爆笑してしまった。ただ、先生と生徒の不倫関係という、考えれば考えるほど重いテーマを、物語のギミックとして表面だけスーッと流してしまうのは、こう言ってはなんだがキミの悪癖だと思う。この話を描くとき、父であり夫である田中先生の苦悩や、姉であり娘である優等生の悲哀に、ほんの少しでも思い至ることができたのかどうか。いいかい、それを描けと言ってるんじゃないよ、一瞬でもそこへ意識を向けたかを聞いているんだ。耳の痛い指摘をするでしょう、ねえ? 永井豪ちゃんあたりなら、こんなもの豪放に笑いとばしてしまうんだろうけど、タツキは見かけよりずっと繊細(これ言われるの、イヤでしょう?)で、ひどく軽薄なようでいてドシリアスだから、表面上は平気なふりをしながら、心の奥ではものすごく気にすると思うね。貴方がここで停滞せず、さらにひと皮むけるのに必要な視点だと思うので、よかったら考えを聞かせて下さい」とか評されそう。そして、他ならぬ”戦争の”悪魔を1話へ持ってくるあたり、彼がこの時代にいったい何を考え、何を語ろうとしているのか、心の底から楽しみでなりません。今回は乞われたので印象を話しましたが、基本的には第2部完結まで黙ろうと思っています。

ゲーム「モンスターハンター・ライズ:サンブレイク」感想

 ゲーム「モンスターハンター・ライズ」感想

 あれ、2匹の竜とのマクロスみたいなーー歌声が響く中での殺戮ーーイベントバトルが終わって、サンブレイクが始まったみたいだけど、和の要素がぜんぶ無くなって、なんかいつもの西洋ファンタジー風に戻っちゃったな……。ボスの紹介も浪曲でよかったのに、アタマの弱い人のがんばって考えたみたいな小難しい言い回しで、中身の無い日本語になっちゃってる……。百竜夜行のマスター版も無さそうだし、よっぽど評判が悪かったのかな、ライズ……。新登場のモンスターも全体的に生物感が無くて、ガンダムファンにわかりやすいよう例えると「魔改造したモビルスーツ」みたいな造形(やっぱりシンプルなザクがいちばんですよね!)になってて、それへ重力を無視したeスポーツの動きが付与された狩猟キメラばっかなのは、気持ちが萎えるな……。2から再登板となったオオナヅチとショウグンギザミの完成度が対比的にきわだつのは、じつに皮肉なことです。

 え、待って待って、このチッチェ姫ってキャラ、ちょっとエロすぎない? ゴールデンカムイ風に言うなら「このヒメ、スケベすぎる」で、目の表情と鼻筋と口元と肌の質感がエッチすぎて、まともに正視できません。ひとりだけポリゴン数が違う感じで、児ポ方向に素養を持つ制作陣のペ・ヨウジョン様が、不用意にがんばってしまった匂いがすごく漂ってくる……。ひと通り街を歩いてみても、この子だけ作り込みの深度が違うため、他がすべて書き割りに見えてしまうレベルで、重度なロリコンの主観世界に迷いこんだみたいでクラクラします。このモデリング担当、社には伏せたまま、FANZAとかでドぎつい同人CG集を販売してそう(偏見の助長)。でも、狩猟のたびにチッチェ姫とお話できるご褒美だけで、サンブレイクの評価は56億7千万点に跳ね上がりました!(近年のネットに顕著な巨大数による感情表現)

 チッチェ姫のスケベなご尊顔が見たくて、日参どころか分参(なんじゃそりゃ)してたら、いつのまにかマスターランクの上ーー人に鬼が異なると書いてカイイと呼ばれていますーーが出現していた。これ、通常モンスターの体力と攻撃力をメガ盛にしたヤツで触れられると死ぬため、ハンター全員が対象を拘束し続けながらタコ殴りにするゲームになってて、このプレイフィールどっかで経験したことあるなー、どこだったかなーと考えていたら、モンスターハンター・フロンティアだった。いま調べたら、すでにサービス終了しているようで、エスピナスの登場でイヤな予感はしてたんですけど、今後は同作のモンスターやギミックが、どんどん本家へと逆輸入されていくんでしょうか。

 「モンハンMO」をうたったフロンティア、初期シーズンはプレイしていましたが、本家の要素を「味のバランスが絶妙なカツ丼」と例えるなら、そこへ海鮮やら味噌やら中華麺やらをトッピングしだしたため、嫌気がさして離れたという経緯があります。エスピナス実装くらいまでは七味唐辛子って感じでよかったんですけど、次第に「カツ丼だった食べにくい何か」へと変貌していきましたねー。離れたあとも横目で見てましたが、アップデートのたびにネーミングセンスが暴走族のそれになっていったのは、なんだか悲しかったなー。もしかすると、12年も積み上げたクリエイティブ(笑)がもったいないと思ってるのかもしれませんが、それはオフライン版フロンティアなどを企画して、カツ丼屋とは別店舗でやっていただくことを切に願っております。

 サンブレイク、マスターランク70くらい。大剣一本で全素材が手に入るところまでガーッと進めて、そこから他の武器種に手を出すのが私のプレイスタイルなのですが、野良では大剣とハンマーが絶滅危惧種みたいになってますねえ。初代モンハンにGの双剣を加えた「パワー・セブン」以外の武器種はいっさい認めない古強者にとって、この過疎り方はさびしい限りです。どちらもモンスターの「スローで決まった」動きを先読みして「攻撃を置きにいく」武器なので、「高速でランダムな」動きに反射神経で対応しなければならない敵の大幅に増えたことが、使われなくなった原因でしょう。古参が各武器に持っている印象を語れば、大剣・ハンマー・ランスが主人公枠、双剣が中2病ライバル枠、弓はソロ近接レゴラス枠、片手剣・ボウガンが足止めサポート枠、笛娘はオレのことが大好きで、太刀・ガンランスが三下コメディ枠、斧・虫棒がガヤのゲスト出演枠といったところでしょうか。

 過去シリーズをふりかえってみると、個人的にバランスの壊れたゲームが大好きなので、やっぱり「自然は厳しい」ドスがいちばん楽しかった気がします。リオレイアの転倒に合わせて4人の大剣が頭部へ駆け寄り、寸分たがわぬ動きで溜め斬りを開始するの、熟練の職人たちって感じで気持ちよかったなー。理不尽すぎるテオやクシャの動きを麻痺弾とハンマーのスタンで無理やり止めて、超絶一門の乱舞で囲んでゴリゴリ削る戦法をいまだに手が覚えてるけど、あの頃のハンマーがいちばん輝いていたなー。こっちの一撃一撃がいまよりずっと重かったし、溜め3とかをピンポイントで敵の頭に当ててスッ転ばせたときの「とらえたぜ!」感は、いまのモンハンじゃもう失われた感覚だよなー。

 え、ツー・チャンネルにスレッドの存在しないロートル武器であるところの大剣一本で、本当にマスターランク70まで攻略できたのかって? ハハハ、まったくキミは余計なところにばかり気がつく、嫌われる類のカンの鋭い読み手だよ! ワールドから導入された(だよね?)真溜め斬りと、その予備動作であるタックル(通称・肩部)が、大剣をドス時代とはまったく別の武器に変貌させたのです。モンスターのふところへ跳びこんで、タックルのスーパーアーマーで被弾をいなしながら、真溜め2回転目を弱点にカウンターでブチこみ、2000近いダメージを叩きだしたときの快感ったらありません。いまの大剣って、この2つを使いこなせればメチャクチャ強い武器なんですけど、当たるも八卦のバクチ要素が敬遠される要因なのかなー。

 野良で圧倒的によく見かけるのはライトボウガンで、みんな時間あたりのDPSをキッチリ計算して動いてる感じだし、普段はエーペックスとかをプレイしている若い層が使っているのかもしれません。少し前までは一発芸スキルだった速射が、貫通弾とか属性弾にまで適用されて常態化し、主人公枠を遠距離武器にとってかわられるところに、なんとも時代を感じます……(突然、激昂して)こんなヒョロガリみたいなモンハン、認められるかい! ピストルで活躍したいんやったら、ファースト・パーソン・シューターで充分やろがい! 「味方にさえ蛇蝎の如く嫌われるスナイパー」が軍隊組織の常識的な感覚やろがい! 初代モンハンの企画意図は、「ゲームによるベルセルクの再現」やろがい!(ヒョロガリ男、真溜め斬りで敢然と大型モンスターに挑みかかるも、1回転目で相手の大技に引っかかり、車田正美作品で攻撃を食らった者のように、上空へと高く打ち上げられる)

ゲーム「モンスターハンター・ライズ」感想

 いまさらモンスターハンター・ライズをプレイしている。テクノブレイクなるいつものG級商法の広告をうっかりクリックしてしまい、PC版の存在に気づいたのがきっかけだ。なんとなれば、当家は家訓として携帯ゲーム機でモンハンをプレイすることを禁じているからである。「失われたウン十年」みたいな言い方を最近よく見かけるが、私に言わせれば本邦の衰退をもっとも象徴的に表しているのは、モンスターハンター・シリーズの主戦場がスリー・ディー・エスやらスitchyやらのマイクロマシンに移ってしまったことだ。雑に私の抱いている印象を語れば、これはゲームウォッチ、ファミコン、スーパーファミコン、プレステ1、プレステ2と順当にスペックを進化させてきたゲーム機が、またゲームウォッチに戻ってしまったようなものだと言える。初代モンハンにおいて4人で取り囲んだリオレイアに大剣で斬りかかった瞬間は、この短くないゲーム人生でもっとも鮮烈な記憶として思い出すことができる。すなわち、「ああ、ゲームでこんなヤバい経験ができるのか! ゲームの進化はこの先、どこまで連れて行ってくれるんだろう!」という感動である。しかしながら、ガッデム・ビッグな一軒家で家族といっしょに、ガッデム・ビッグな120インチのスクリーンに投影されたドット絵で、ガッデム・ビッグなスピーカーから爆音で流れる電子音を聞きながらゲームをプレイする甘やかな未来は、4畳半のアパートでひとり、西日射すベビーベッドにギャン泣きする赤ん坊をガン無視しながら、4インチの画面をガン見する貧困層という、いじましい現在へと取ってかわられてしまった。

 本邦の衰退が安価な携帯機の隆盛につながり、ゲームの内容をより高いスペックで豊かに表現することより、売れ筋マシンの性能へと矮小化するやり方に対するハンガー・ストライキとして、3からクロスまでのモンハンへ傲然とそびらを向け続けた俺様であるからして、ワールドの発売は本当にうれしかった。120インチのスクリーンと7チャンネルのスピーカーでプレイするモンスターハンターは、まさに少年時代の自分が夢に描いたゲーム体験そのものだった。しかし、アイスボーンの発売がそこへ暗い影を落とす。「巨大ドラゴンとの死闘ごっこ遊び」だった中年たちのサンドボックスが、アップデートを重ねるたびに青年向けのeスポーツ・アクション競技と化していったのである。それは、ひとりでファイナルファイトを楽しんでいたオッサンが突然、グッツグツに煮詰まったスト2や鉄拳の対戦台に座らされるようなもので、1日に1時間ほどしかプレイできない中年社畜少女の指は、そもそもそんなふうに動くようにはできていない。「1人のプロハンが3人のアマチュアを鼓舞しながらモンスターを倒す」ゲームだったのが、「4人のプロハンが完璧に統制された連動でモンスターを倒す」ゲームへと変貌し、反射神経の衰えたアマハンはプロハンのため息や舌打ちにいたたまれなくなって、いつしかコントローラーを置いてしまった。

 その点、このモンスターハンター・ライズは、敵がプロレスの筋書きを理解してくれる感じのほどよい強さで、アルコールを入れながら雑にプレイしても、気持ちよく勝たせてくれる。もともとが携帯ゲーム機向けのグラフィックなので、PC版でさえワールドと比べて特別に精彩とは言えないが、初代からプレイしている古強者としては、このくらいで充分じゃないかという気もする。もっとも、スマホゲームに慣れた層へ配慮してなのか、操作や仕様がどんどん簡略化されていくのは、快適に感じる反面で寂しくもある。ピッケル、虫あみ、ホットドリンク、コールドドリンク、ペイントボール、有限な砥石、補充できない回復薬など、わざと不便にすることで作り出されていた冒険と狩猟のアトモスフィアというのは、確かにあったように思う。シリーズの持つ面白さの核となる部分は無印の2ですでに完成しているので、以後はそのデカいステーキの味付けやトッピングをいかに変えて新味を出すかに苦心してきたが、本作は浪曲によるモンスターの紹介や街で女性ボーカルの歌が流れ続けるなど、全体的な和の雰囲気づくりでそれに成功している。

 まあプレイしはじめると、手触りはまんま「いつもの」で、新要素の操竜は狩りのテンポが悪くなるけどダメージと素材のためにイヤイヤ騎乗する感じだし、おそらく本作の大きなウリである百竜夜行も攻略してる手ごたえが絶無で全然つまらない。しかしながら、まんが日本昔話の龍が攻めてくるのを協力プレイで迎撃する中、クライマックスに英雄の証が流れ出した瞬間、ガツンと感情をやられて泣き笑いにツーッと涙が頬を伝ったのには、自分でも驚いた。ナレーションはさんざん危機感をアオってくるのに、どれだけ攻められてもいっこうに砦が陥落する気配はなく、ラオシャンロン撃退みたいな半イベント戦なのだと思うが、「英雄ごっこ遊び」の頂点をひさしぶりに堪能することができた。

 あと、ライズが他のシリーズに比して優れている点を挙げるとすれば、「狩猟中、声優がしゃべりまくる」ところであろう。うめき声やかけ声の範疇に留まっていたこれまでのボイスが、多彩なセリフでキャラクターの個性を表現するほど豊かになっていて、敵のモーションなぞほぼ見えていない酔っぱらいに声で危険な大技を予告してくれたり、反射神経へチャレンジされている中年にとって最高のバリアフリー化になっているのだ。女神転生で例えるならば、ワールドがリアル指向の「真」だとするなら、ライズはアニメ指向の「ペルソナ」であり、今後はぜひこの2系統でシリーズ化していってほしい。

 そして諸君、キョロキョロするんじゃあない、だれも見ていないのにすました顔で男キャラのプレイを始めるも、すぐ物足りなくなって女キャラで作り直すそこの小太りのキミのことだよ! みんな恥ずかしくて積極的には表明しませんけど、近年のモンハン最大の魅力って、ムチムチの恵体に着せるエロ装備だと思うんですよね(力説)! 本作では、声優の熱演がその欲望へさらに強く訴求していて、全ボイスの女キャラを作って別々のエロ装備を着せて、とっかえひっかえ遊んだら、さぞや楽しいことだろうと夢想します。しかしながら、セーブデータは3つまでですし、そもそも社畜にそんな時間は与えられていませんので、キャラクリをやり直せるチケットを使って、ときどきボイスと容姿を変えて楽しむこととします……え、このチケット、2枚目からは有料なの? クソッ、なんて悪辣かつ狡猾な課金要素なんだ……(ビニル製のサイフをバリバリと開きながら)!!

 ゲーム「モンスターハンター・ライズ:サンブレイク」感想

アニメ「BASTARD!! 暗黒の破壊神」感想

 艦これイベント最終海域を進行中。諸君のようなエリートとは異なり、乙へ落とした難易度にさえヒイヒイ言ってるクソ提督だが、潜水マス大破撤退の苦しみは諸君の抱いているそれと何ら変わるものではない。現在、4本目(4本目……!!? )のゲージ破壊に取り組んでいるところだが、己の内に潜む暴力性を強く自覚させられている。大和改二重への改装のため、山のように放置されていた限定任務に着手し、設計図0枚から勲章をかき集めたのに、その最強戦艦が資源を食うばかりでいっこうに仕事をしないからだ。ご存じのように、このイベント海域、ゲージ削りとゲージ破壊でやっていることの見かけは同じなのに、ゲームの本質がまったく変化してしまう。前者は資源と時間が成果として累積する定期預金(古ッ!)であるのに対して、後者は有り金すべてを畳に並べてサイコロの目にベットする場末の賭場と化すのだ。

 現状をまともに認識しては発狂するしかないので、意識を坊ノ岬での大破撤退からそらすために、ネトフリでバスタードをながら見しはじめる。まったく本作といいスプリガンといい、当時の中高生のうち、「就職氷河期を生き残った連中だ、ツラがまえが違う」みたいな管理職になったサバイバーどもが、いよいよ現場の実権を握りはじめ、あと10年ちょっとを逃げ切るだけの立ち場になって、もう好き放題やりだした感が伝わってきますねー。さらに10年を待てば、次世代のnWoファンが管理職として現場の実権を握り、「少女保護特区」や「MMGF!」を出版したりアニメ化したりしてくれると考えると、まだまだがんばれるって気持ちになります(ぐるぐる目で)。

 さて、今回アニメ化されたバスタードはスプリガンと違って、お世辞にもクオリティが高いとは言えませんが、あの時代の空気感だけはたっぷりと詰まっており、いろいろと当時を思い出して懐かしい気持ちになりました。アニメの出来について、ドぎつい原作ファンが新旧を比較したドぎつい絡み方ーー主人公の声が甲高すぎるのは同意しますーーをしているのを見かけ、ある世代にとってはとてもとても大切な、名実ともに神話的な作品だったことをあらためて確認できました。ちょうどグループSNEあたりが、海外のテーブルトークRPGやゲームブックなどを翻訳・翻案して本邦へ紹介し、急速にファンタジーの世界観が主に中高生男子の人口へと膾炙していった時期に、バスタードの連載はスタートします。最初期の本作は、既存作品を丸パクリした設定にヘヴィメタル趣味をふりかけただけの、メタ視点の悪ふざけが過ぎる極めて同人的な内容で、まさか10週打ち切りをまぬがれて大長編と化し、ここまでの伝説的な扱いをされる作品になるとは、だれも予想していなかったように思います。個人的にはそれほどハマらなかったのですが、呪文詠唱を丸暗記して唱えるのが流行ったり、周囲の盛り上がりはなんとなく記憶にあります。

 適切かどうかはわかりませんが、他作品をからめて全体の印象を述べると、ランスシリーズのような悪ノリのパロディと下ネタで始まったのが、氷をあやつる四天王の登場ぐらいから作者の真剣度が増して、語り方の質が大きく変わります。メタが鳴りをひそめると同時に、物語はギアを上げてグングンと加速していくのですが、やがてベルセルクと同様、作画を細密化させすぎるという自縄自縛ーーこちらは話のスケールを大きくしすぎたせいもあると思いますーーに陥って、ついには肝心のストーリーを頓挫させてしまいました。今回のアニメ化は、物語の質が変わる前の段階ーー最後は続編前提のヒキで、2期が無ければ目も当てられない尻切れトンボーーで終わっており、新たにバスタードへ触れた層に、昨今の倫理観とあわぬがゆえの悪印象だけを与え、本作を知る必要の無い「頭文字F」にまで発見されて、どこかで吊るし上げをくらって中絶させられないか、続きを期待する者としてちょっと心配しています。

 原作の展開、特にセリフをほぼ忠実に再現したこのアニメを眺めるうちに思ったのは、バスタードは少年漫画が本当に「少年・イコール・男の子」だけのものだった時代の作品だったんだなあということです。精通前と精通後ーー女性の警戒心と主観的な接触の意味が変わるーーを行き来する主人公が、女性ヒロインたちの処女性に異常なまでのこだわりを見せるところへ、特にそれを感じます。いまはどうかわかりませんが、かつての少年漫画が持っていた絶対の不文律とは「寸止め」、すなわち「主人公とヒロインが絶対にセックスを完遂しないこと(ペッティングまではオーケ)」でした。これは「セックスすることが相手との契約になり、二人の関係性と己の内面が永久に変更され、以後はそれが死ぬまで継続する」という価値観であり、セックスという行為に最大級の意味づけをし、ひたすらに「一穴一棒主義」を信奉する強い倫理観の表れなのです。裏を返せば、セックスした瞬間に失われる可能性の流動を担保し、少年の持つ無限の未来を異性から隔離しているとも指摘できるでしょう。

 かつてのオタクというのは本当に純粋な、無窮の愛がこの世に存在することを信じて、いつまでも探し続ける人たちのことでした。そんな我々にとって、ランスシリーズのエンディングが感動的だったのは、あの時代のすべての少年漫画がどこかであきらめて、それを手放していった先に、ただひとつ残された古い物語として、無窮の愛は確かに存在すると示してみせたことでしょう。つまり、バスタード時代の少年漫画が抱いていた「人生を永久に変更するセックス、そして至高の愛」という夢想に満ちたテーマを、ついには男性の視点から語り切ったのだと言えます。

 ともあれ、今回アニメ化された範囲だけでは旧世代のオタクたちが、なぜあれだけバスタードに熱狂していたのかサッパリ伝わらないと思いますので、我々の名誉のために、せめてアンスラサクス戦ぐらいまでは映像化してほしいものです。

雑文「どうしてエレクチオンにイカないのよーッ!!」

 例の時期(「どうしてエレクチオンにイカないのよーッ!!」)だからなのか、ティー・エルへ頻繁にノット家バット屋の人々に関する情報が流れてきます。投票権の無い人物という設定(皇族か少女)なので、基本的に他人事として眺めてますけど、レッド・パインなる男性が「私の娘は4年も引きこもってるけど、アニメや漫画に救われている」とぬかしてるのを見て、「オイオイ、これまた超ド級のキッズ・オーナメント案件じゃねえの?」と心配になりました。

 漫画のキャラと違って、娘さんの人格と人生は貴方のそれらとは完全にベツモノですよ? ちゃんと本人に許可を得てから、しゃべってるんですよね? ウカツな人物なのかもしれませんが、この感覚はちょっと度しがたい。これ以上はない公の場で、家庭の暗部に言及できてしまうのは、この社会の変容なのか、ある個人の特性なのか、私にはよく判断がつきません。それに、豊かさの基盤を沈黙のうちに維持しているマジョリティからすれば、フリーライドの肯定と響くやもしれず、家庭の教育方針なら「どうぞお好きに」という話ですが、弱りゆく社会の側に立つ人間としては問題ある姿勢のように感じました。

 ああ、また余計なことを言ってしまった! インペリアル・ファミリー・ガールなので、もう黙ります。

雑文「虚構時評(FGO&MANGAS)」

 「チ。」最終巻発売ということで、まとめて読む。うーん、小賢しい。最後の1枚絵(?)まで、徹頭徹尾、小賢しい。現代人の自我を持った人物が、これから起こる歴史的事実を踏まえて、中世の人々を進歩的な説教で啓蒙しようとするのって、異世界転生モノの提供する快楽とほとんど同じで、出力の仕方が少々複雑になっただけという気がします。キリスト教と書きゃいいものをわざわざ「C教」なんて表記にするのも、「これから俺様の観念的な世界観を気持ちよく垂れ流す」のを最優先にしていて、時代考証でツッコまれるのがメンドくさいだけで、信徒から「叱られが発生」した際の言い訳としか思えません。なんとこの作品、すでにアニメ化まで決定しているようで、大手出版社に就職したものの、マンガ部署に配属されて腐っていた旧帝大文系学部出身の若手(編集王みてえ)が、たまたま手に取った新人の原稿にコロッとだまされてしまい、「この漫画を世に出すことが、ボクに与えられた使命……そう、かつての地動説のように……!!」などと、モーレツな社内プレゼンからのゴリ押しで企画を進めた結果じゃないでしょうか。だとすれば、「作品テーマがそのまま外的状況に反映されている」なんてメタな読み方もできるかもしれませんね、知らんけど。

 あと、FGOの八犬伝を読み終わりました。(満面の笑みで)ホラ、見てよ、この源為朝の仕上がり具合を! 第6.5章の彼が大腸の終端からネリネリと排出された臭気をはなつ物体だとするなら、本イベントの彼は高級なチョコレートをふんだんに使った香気をまとう極上のムースだと表現できるでしょう。いいですか、「小諸なる古城のほとり」ならぬ「文盲なる痴情のもつれ」であるネット民たちに改めて確認しておくと、安いチョコと高いチョコの違いじゃないですよ、大便か高いチョコかの違いですからね! この差がわからないほど「痴。」がもつれているとおっしゃるなら、とくだんキミにFGOをプレイする理由はないでしょう。そして、滝沢馬琴のキャラ造形もとてもよくて、葛飾北斎ーーNHKのドラマに影響されたキャラだと確信しておりますーーとのかけ合いを通じて、ファンガスの思考と感情が垣間見えました。「いったん有名になったあとは、別々に売り出したほうがもうかる」みたいな台詞はFGOの舞台裏をぶっちゃけてるみたいで笑いましたし、「身体を壊そうと、家族を亡くそうと、戦争が起きようと、自分はどこまでも無力で、結局いつも創作をすることだけしかできない」みたいな内容の赤裸々な独白は、彼の作家人生を通じた苦悩を吐露しているように感じられました。まこと、才能の本質とは祝福と呪いの表裏一体性であり、その分かちがたさがときに個人へ絶望をまねくことも理解いたします。けれど、貴方の才能をうらやましく思う者がおり、貴方の書いたテキストで運命を変えられた者がおり、貴方の蒔いた種の芽ぶく未来がきっとあることでしょう。今回のテキストには、ミッドライフ・クライシスなる言葉が表す、人生の迷いを少し感じてしまいました。しかしながら、別の可能性への余計な色気を出さず、ファンガスにはそれこそ滝沢馬琴のように、キッチリと物語だけにその人生を葬られてほしいと、心から願っています。貴方の内面を「人がましさへの憧れ」という名前の呪いが蝕む裏腹で、祝福に輝く至高の物語は多くの衆生の転迷を照らして、その生命を正しい開悟へと導くのですから!

 それと、もう一人の「生きながら創作に人生を葬られ」つつある人物の新作を読みましたけれど、まー、ド直球すぎる読者への回答(ストレート・オーサー・アンサー!)でしたねー。軽薄に茶化しているようで、深刻な悲鳴にも聞こえるあたり、さすがの作家性だと感心します。これ、作品を使って不特定多数の読者と個々に書簡をやり取りするようなもので、「いま、ここ」をリアルタイムで追いかけている読み手だけに味わうことのできる快感ですね。数十年後の新たな読者が立派な全集とかで読んでも、この空気感までは伝わらないような気がします。今回は原作担当のみをうたってますけど、この回文みたいな名前の作画担当、じつは藤本タツキの変名で、本人なんでしょ? そういう遊びで読者を試すようなこと、しそうだもんなあ。あ、すいません、「フツーに読めて」ませんでした、申し訳ございません。

映画「ハウス・オブ・グッチ」感想

 映画館で見ようと思っていたら、一瞬で上映が終わってしまったため、円盤を購入していました。んで、今日ようやく時間をつくって見たんです、ハウス・オブ・グッチ。いやー、すごいよ、これ。リドリー・スコットがグッチをテーマに映画を撮ると聞いて、ファッション業界を舞台にしたゴッドファーザーみたいなものを想像してたんですよ、アル・パチーノも出てるし。レディ・ガガが真ン中で腕を組んで、「それは、人を狂わすほどの名声」ってコピーがついたポスターがあったじゃないですか。あれを見て、映画偏差値70オーバーの内容をワクワクと思い描いていたら、出てきたのはなんと30以下のシロモノでした。

 脚本ダメ、構成ダメ、撮影ダメ、演出ダメ、演技ダメ、選曲ダメ、編集ダメ、全体的に安っぽいテレビドラマみたいなクオリティで、そもそも映画芸術の域に達していません。アダム・ドライバー、ジャレット・レト、ジェレミー・アイアンズと錚々たるメンツをならべておきながら、カメラテストの1発目をリテイクなしで採用したような場面ばかりで、バストアップを交互に切り返すだけの会話シーンが多用され、題材から逆算して画面に漂わねばならない緊張感は常にとぼしく、なぜ挿入されたかわからない意味不明のカットも散見されます。1つ1つの場面がダラダラと続くくせに、カット尻の切り方はどれも唐突で気持ち悪く、2時間30分ほどの全長のうち、1時間は編集で詰められるでしょう(4時間かけた特殊メイクがもったいないと思ってんのか、ジャレット・レトを出しすぎ)。

 もちろん良かった点も無くはなく、アダム・ドライバーが次々とハイブランドに身を包んで出てくるのは眼福でしたし、グッチのはじまりが皮革産業を生業とした共同体であることを知れたのは興味深かったですし、レディ・ガガの演じる「下賤の女」は彼女の出自と地金が垣間見えてゾクゾクしました(まあ、演技はアレですが……)。でもね、ひどいまとめ方をしますと、晩年を迎えた巨匠が自分より若い妻にそそのかされた結果、もう何人も口出しできないゆえに客観性が1ミリも入りこむ余地のない、恍惚とした老人の主観世界を体現するような作品に仕上がってしまったのではないでしょうか。なんか最近、似たような印象を持った作品があったなー、なんだったかなーと考えていたら、ククルス・ドアンの島だった。

 あと、検索してもハウス・オブ・グッチに関する感想があまり出てこないのは、最近の「賞賛か無視」しかないインターネット社会を如実に反映しており、みんな微妙だと感じているのだろうなと、ご推察し申し上げます。本作へ言及する数少ない記事に、「アダム・ドライバーがハウス・オブ・グッチの打ち上げに参加しなかった」というものがあり、「役へ入り込み過ぎるきらいのある彼が、ブランドのために家族を捨てる夫の役から、一刻も早く離れたかったのかもしれない」とか書かれているのを見つけました。いやいや、本作でのアダム・ドライバーは頬骨ごと口角を上げるひきつった笑顔の芝居しかしてなかったじゃないですか。マウリツィオ・グッチがいったいどういう内面を持った人物なのかサッパリわからなかったし、何の演技プランも監督の指導も感じなかったですよ。リドリー・スコットの名前にだまくらかされて、よくよく内容を精査せず、本人に確認しないまま事務所主導で出演を決めてしまったものの、渡された脚本に首をかしげながら撮影を進めるうち、駄作疑惑が確信へと変わり、レディ・ガガと事務机でする獣のようなファックが決定打となって、もう二度と思い出したくない現場になったからじゃないですかね、知らんけど。