猫を起こさないように
月: <span>2022年6月</span>
月: 2022年6月

雑文「あるウルトラファンへの公開書簡」

 映画「シン・ウルトラマン」感想

質問:お久しぶりです。ウルトラマン観てきました。(略)残念な感じでした…。ちょっと誰かわかる人に聞いてほしくてDMしてしまいました…子供向けコンテンツを「大人でも楽しめる」って言って提供する仕草本当に嫌いで、隣の席に座っていた多分ウルトラマン好きの子供が、微妙な顔をして最後劇場から出て行ったのが印象的でした

回答:原典の信奉者ほど内容に納得できないのが、直近の「シン・シリーズ」2作だったかと思います。初代マンの熱烈なファンほど、廃れたIPの復活を願うからこそ、盛り上がりに少しでも水をかけないように、太ももへアイスピックを突き立てるようにしながら不満を圧し殺して、「1兆点」みたいなツイートをしぼりだしている感じは伝わってきました。そして、話題作に乗っかって感想をバズらせたい非ファン層(オマエが言うな)がコア層のそういったふるまいに「褒めてよし」の許可を得たとカン違いして、とたんにペロペロと好意的にしゃべりだす感じ。最近のネットは特にこの傾向が強く、たとえば私はヨネヅ某の主題歌にまったく感心しなかったのですが、「古参の俺よりウルトラマンを理解している歌詞に嫉妬」みたいなひとつのツイートから伝播して、視聴した者たちの総体が歌の激賞へと雪崩れていく様子も、なんだか薄気味悪かったです。エンディングは「赤背景の黒シルエットでオリジナル主題歌」の方が、はるかに印象的な余韻となったことでしょう(この点は樋口監督によるマーケティング優先のジャッジだったと思ってます)。

 シンエヴァでも感じたことですが、ヒーロー物に重要な「後から来るだれかに預けるための未来を守る」という視点にとぼしく、それはやはり本作にも雰囲気として引き継がれています。「人間を好きになる」過程についてベタでも構わないので、それこそ「寿命に由来する大人から子どもへの継承」を不老不死の者から驚きをもって眺めるような挿話があれば、ゾフィーの台詞もちゃんと響いたと思うんですよね(もしくは冒頭付近の自己犠牲をもっと詳しく、異星人に理解不能な「聖なるもの」として描写するか)。庵野監督は人間のドラマに興味がなくーーないというより、「わからない」が正確な気もしますーー、政治的にも哲学的にも思想性は絶無であり、造形の表象とカメラアングルにのみ作家性を有する極めて特異な人物です。シン・ウルトラマンでは、まさにこの特性の悪い部分がすべて出ていたように感じました。

 こういった特質を理解して撮影する作品や題材をコントロールできる、ジブリの鈴木某のような敏腕プロデューサーがいないことは彼自身にとっても、彼がシンの名でマーキングしにかかっている作品群のファンにとっても、大変に不幸なことだと言えるでしょう。この裏には、もしかするとエヴァQの制作で大好きなヤマトのリブートに関われなかったショックがあり、その恨みが庵野監督の現在の行動を規定している気がするのです。「自分だったら、ヤマトのオープニングは1カットも変更しない。オリジナルのタイミングを完全にコピーする」との発言からもわかるように、原典が持つ「テーマ以外」への偏愛が強すぎるため、過去作を現代にリブートすることの意義、つまりテーマやメッセージを更新することへの意志が希薄なことこそが問題の本質なのでしょう。シンが新、Qが旧の言葉遊びだとするなら、本作のタイトルは「Q・ウルトラマン」こそがふさわしいと感じました。すなわち、大人の、大人による、大人のための、退行したウルトラマンです。

雑文「我が子”で”食らうサトゥルヌス」

 そうそう、みなさんが話題にしている例のブログを読みました。独特な読点の使い方と言語センスに富んだ、じつに読ませる文章で、感情はもはや遠く断絶しているのに、才能はいまだ密接に継続しており、ある種、人生というものの不条理を感じました。二十年ほど前、親御さんのそこそこ熱心なファンであり、地方出身の美大生がギャンブルをネタに才能を開花させてゆくのを、まぶしく眺めていたものです。博報堂の社員をバンコクの通りになぞらえて、「パッポン堂」とあだ名をつけたのには死ぬほど笑いましたし、グルメ紹介の逆を行く、有名料理店を訪問してディスりまくるシリーズも大好きでした。ただ、ご結婚されて家族を漫画のネタにするようになってから、離れてしまった読者でもあります。

 「別人格である子どもを、どこまで人生のオーナメントとしてネタにできるか?」というのは、昨今のSNSを見るにつけ、非常に考えさせられる問題です。たしか、女の子の育て方みたいな教育本も出されていて、こんな形で答え合わせをされて、これまでのすべてが別の視点から語りなおされてしまうのは、子育ての辛いところだなと少しだけ同情しました。そして、この同情も、もしかすると親御さんの後悔も、子どもの苦しみにはまったく関係が無いのです。長じた娘と母親の関係は究極のところ「親友か、女同士」でしかなく、ブログの端々に壊れてしまった娘との関係性を修復しようとする親御さんの姿が見え隠れして、苦しくなりました。「毒親に育てられた者が自分の思い通りになる存在を得たとき、そこに己の抱えている負の感情をぶつけずにいられるのか?」というのはnWoの追求していたテーマのひとつでもあり、この実現は「個人にできる最も偉大な達成である」とかつて書きましたが、今でもその気持ちはまったく変わらずあります。ただ、「子が親を許す必要はない」という持論が、元ファンとして少々ゆらいでしまったのは認めざるをえません。

 今回の顛末をたどって、個人的には美味しんぼのある回を思い出しました。山岡士郎が結婚した後、子どもをどうするかという議論になって、「父親と母親の悪い関係を見続けてきた自分が、まともな親になれるはずがない」と吐露する場面があるんですね。それを聞いた子どものいない熟年夫婦が「私たちは望んだけれど子を授からなかった。負の連鎖は断ち切れる。そんな理由で子をもうけないのは、私たちには罪悪だと感じる」みたいな説得をしていて、かなり心に響いたのを思い出しました。美味しんぼは結局、子どもが自我を持つまでは描かれませんでしたが、ある段階までは本当にすごい漫画でした。彼女が救われるには、まだ十年、二十年という時間が必要だと思いますが、いつかそれがかなえられることを願っています。

 「救われないこと」を、アイデンティティにしてはいけないよ。