トップガン・マーヴェリック見てきた。前作の高解像度リマスター版かと錯覚するような完コピのオープニングから例のテーマソングが流れたかと思うと、そこからは脳に電極が刺さって逐次思考が読み取られているのかと深刻に疑うほどに、こちらが「こうなってほしい」と想像する通りの展開が、こちらの想像をはるかに超える映像で次から次へと描かれていく。前作の無印トップガンは1980年代後半、当時の中高生男子全員が低い鼻にあのサングラスをかけ、サモハン・キンポーの体型をあの皮ジャンで包み、ウォークマンでデンジャー・ゾーンを聴きながらママチャリで無目的に近所を爆走し、学校では若い女教師にイキッて声をかけるみたいな流行り方をしていたのに、映画の内容自体はなんだかボンヤリとしたものなんですよ。海軍士官学校の勧誘ビデオみたいな前半と、「さぶ」い長回しのビーチバレーから脈絡なく相棒が死んで、そのトラウマの克服とロシア戦闘機の撃墜が重なり、みんなで甲板で騒いでたらエンドロールが流れ出して、「えっ、これで終わり?」みたいな芒洋さです。
本作はその、大流行したわりに映画として完成度が高かったわけでもない前作を、30年以上が経過してから裏地を補強しつつ完璧に語り直して、さも元から名作だったかのような場所へとアウフヘーベンしてみせたのです。その見事な手腕には、もはやブラヴォの拍手しかありません。リアリティラインの扱いに怯えきった、昨今の神経症的な作品群とは異なり、少々の破綻は豪放に気にせず、観客が見たがっているものを前世紀かつ全盛期のハリウッド映画レシピで磊落に再現したのが、本作だと言えるでしょう。原子力プラント破壊のミッションはデス・スターの攻略シークエンスーー3メートルの標的にミサイルを放りこむとか、直前で機械による誘導が効かなくなって手動で命中させるとかーーをなぞっているし、敵地を脱出したところで最新鋭戦闘機がヌッと背後に現れたのには、レイダースの終盤で潜水艦が浮上する場面ーー当時のストーリーテリングにおける最先端でしたーーを彷彿とさせられました。
そして、この映画は自信と才能にあふれた熱い「男」と「女」たちの物語であり、LGBTQやナードどもに弱々しく媚びへつらった揉み手が微塵も存在せず、世界が今よりもずっと単純だったあの頃の空気をビンビンに伝えてくるのです。ただ、旧世代の人間と旧世代の戦闘機がギリギリ達成できるよう絶妙に調整された敵国ーーパイロットにフルフェイスをかぶせてまで、どこの国なのなは徹底的に伏せられるーーとミッションであることを頭の片隅には感じているし、キャリアの後半戦に差しかかり、若い世代の台頭と己のスペック不足を実感しながらも、経験だけは売るほどある40代後半以降のロートルだけをまさにピンポイントで慰撫する、中高年向けの泣かせ映画なのではないかという不安もある。さらに、eスポーツの大会で米国海軍にスカウトされて、プレステ5のコントローラとUIでステルス機やドローンを操作し、エンダーのゲームが如くリモートで他国民を殺戮しまくっている10代、20代の兵士にとっては、本作はもはや噴飯もののファンタジーなのかもしれないとも思う。
でも最後には、そんな小賢しい先回りの心配は「疾走する映画バカ」ことトム・クルーズの発する熱気とエネルギーを前にふきとんで、「次世代のために、己の手の届く範囲でいいから、世界をより良い場所へ変えていこう」と思わされ、小さな不整合を気にしない前向きなバカを伝染させられてしまうのです。はやばやと老けこんで達観してみせて、60歳のバカができるバカを、より若くてより頭の悪いおまえにできないわけがないだろう、ええ? ドント・シンク、ジャスト・ドゥ! 後詰めで1%に満たない失敗の可能性を100通り考える参謀よりも、無策の空手のまま最前線に現れて兵士たちを存在で鼓舞するリーダーたれ!
あと映画が始まる直前、字幕翻訳にナツコ・トダの名前を発見したときは、「現時刻をもって字幕はすべて破棄、以後はリスニングのみを理解のよすがとする。これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない……」と別の意味でゾクゾクするようなスペクタキュラーを感じました。まさに、トップガン・マーヴェリック視聴の「棺桶ポイント」(なんじゃ、そりゃ)だったと言えましょう。