猫を起こさないように
月: <span>2022年6月</span>
月: 2022年6月

雑文「『なぜ書くのか?』あるいは新規読者への手紙(2022.1.1)」

質問:拝啓 小鳥猊下(猊下って尊称ぽくてこの後に様をつけるか迷うのですが、アカウントへの敬意を込めまして)様

初めから言い訳がましいのですが、猊下のテキストの力強さ、確固たる視点を持って主に批判的にかかられた文章の前にただ無心に頷くことをするばかりで、何度読んでも「熱量、文量、長い文を読ませる技術、とにかくスゲ~」としか感想が出ず、ひっそりと猊下の文章を楽しませていただいておきながら拡散の一つもできなかった怠惰なもやし野郎からの私信になります。

いや、本当にすごい文章で、慇懃無礼な態度を取りながらときに下品、ときに俗的な表現を用いつつ、私にはとても思いつかない表現で猊下の感じたことにまつわる熱量を浴びることができる、いわば「小鳥節」を味わえる機会を得たことは、2021年の収穫でした、本当に良かったです。

大勢の最小公倍数的な感想を最もキレのある言葉で表現できたもの勝ちな風潮の中で、猊下の長文は生き生きとした個人の血の通った文章のように見えました。猊下が紡がれる文中で刻まれた奇妙なリズム、いや脈動を聞きながら(古のインターネットの無礼講的な粗野な温かみを感じつつ)、貴公の文章を、大きな小鳥の懐に抱かれているが如く味わっていた一年でした。辛いとき、寂しいとき、いつもそこにいて確固たる感情を見せつけ、その熱をそっと分けてくれた猊下のnoteに、twitterに、いつも救われていました、ありがとうございました。

具体的な感想が出てこない時点で当方の読解力や記憶力などお察しなのですが、とにかく猊下の文章をとても楽しませていただきました。誰にでもアクセスできる環境においていてくださり誠に感謝いたします。

ことしは例年に勝る寒冬のようです。ご自愛くださいますよう。

読者より

回答:ここは1999年に開設した「猫を起こさないように」というテキストサイトの分社なのですが、2021年になって新たな読者を得られたことは喜ばしい限りです。動きの少ないアカウントに思われがちながら、ヒマさえあればエゴサしたりnote記事の閲覧数を確認したり、「いいね!」がつこうものなら跳びあがって喜び、新規と思われる方のSNSなどは特にじっくりと読みこんでおる次第です。テキストによる発信をいくら繰り返せど周囲の状況は無音に近く、本当にだれかが読んでいるのか、読まれているとして意図は伝わっているのか、上下の区別さえない無重力空間を漂流するようで、ただ狂わずいることにさえ力を使うというのが実際のところです。このたび質問箱へ投稿いただいた感想を読み、大げさではなく薄れかけていた自分の輪郭を上書きされた気分になりました。かつて物語をめざしていた時期はあまりの無反応に苛立ち、ある奇特な御人に完全におんぶだっこで同人誌まで出しましたが、ついに期待したレスポンスは得られませんでした。最近では「感情の記録」「記憶の足跡」として、己が読み返すことを主に想定したテキストを書いています。特に虚構作品への言及は、キチンと調べて体裁を整えれば批評や評論になるのかもしれませんが、知識の不確かさや事実の誤認までもが、その時点での「人格の記録」のような気がするのです。言語を用いて精神のゆらぎを検出し、世界の混沌にあってその均衡を維持する。この意味で、いまの自己認識は「詩人」とでも言えましょうか。テキストで何を志向するかは、この20年でかなり変遷しましたが、「より多くの人に届いて読まれたい」というコアな部分だけはずっと変わっていません。貴君のような新しい読者がさらに新しい読者を呼び、そうして何か化学反応が起きて、新たな状況が生まれればと祈るような気持ちでおります。

映画「ヒトvsハチ」感想

 ネトフリでローワン・アトキンソンのヒトvsハチ、見る。キリスト、ビートルズに続き、その誕生以来、年齢・性別・人種・国籍・言語を超えて、ネット動画の誇大タイトルどころではない、文字通り「全人類を楽しませた」のがMr.ビーンであり、本作は言わば、そのスーパースターのカムバック公演なのだ。「ビルドアップがダルいな」とか、「話のオチが小賢しい気がする」とか、「10分9本じゃなくて90分1本でいいんじゃねえの」とか感想未満の印象を述べるのは、それこそ「キリストが異性愛者なので傷つきました」ぐらいの難クセであり、まさに抱腹絶倒、ひさしぶりに涙が出るほど笑わせてもらった。オックスフォード出身の英才が演じる、このビーン型のキャラクターは、現代においてたぶん正式な診断名(アスペルガー?)がつく特性の持ち主で、いったんひとつのこだわりが生じると、他のすべてが見えなくなってしまう。グッタリした犬を床に放り投げて「ゴトッ」と音がする場面などに狂笑しながら、やがて自分の内側にも同じ性質が潜んでいることに気づかされるのである。

 休日の朝、ディアブロ・イモータルのプレイに本腰を入れて取りかかるも、2時間もしないうちに、もうゲーム内ですることがない。デイリーでクエストを規定数こなし、ウィークリーで1、2回レジェンダリー宝石のガチャを引く。パラゴンレベルは毎日2ほど上がるから、進捗の感触がないわけではないし、はるか遠方にうっすら目的地も見えている。けれど、それは日本列島を徒歩にて縦断するような道程であり、しかも重課金者は初日にプライベートジェットでゴールを済ませているのだ。エンドゲームの全容が俯瞰できてしまったあと、ディアブロ・イモータルのために予定をすべて空けた休日が残された。そこで、「そういえば、艦これのイベント海域を3の3で放置してたな……」と思い出してしまったのが運の尽き。ゲージを破壊できず、友軍の到着を待っていたくせに、「支援艦隊と基地航空がキチンと仕事をして」「通称・ながもんタッチが敵旗艦に当たって」「夜戦までに4隻以上が中大破を逃れ」「魚雷すべてが敵旗艦にクリティカルする」という奇跡を、なぜ一瞬でも信じることができたのか。頭ではわかっているのに、いったん着手するともう身をもぎ離すことができない。

 連合艦隊の全隻が幾度も中大破で帰港し、数週間をかけて再備蓄したバケツと資源がおそろしい勢いで虚空に消滅していく。攻略情報を検索して見かけるクリア報告に、得体のしれぬ焦燥が高まっていく。これはおそらく、独身女性が友人から結婚や出産のハガキを受け取るときと同じ感情だ。「たかがゲームなのに、みんなふつうにこなしているのに、なんで私はちゃんとできないんだろう!」という己への失望と、世界への絶望。イベント海域のプレイ中には、私の人格の中で最も低劣な部分が表層へと浮かびあがる。激情、狂乱、絶叫のうちに、バック・グラウンド・ビジュアルとしてパリピ孔明を見終え、ヒトvsハチの配信に気づいて、乱暴に再生をはじめる。はたして、そこには、私がいた。

 自然とマウスから手が離れ、私が私の痴態を笑っているうちに、全身を包んでいた怖いような執着は、いつの間にか消えていた。艦これを走らせていたブラウザを終了しながら、私はこうつぶやく。ありがとう、ローワン・アトキンソン。狭量な時代がこの作品に何を言おうと、あなたは私にとって、永遠のジーザス・クライスト・スーパースターだ。

アニメ「パリピ孔明」感想

 パリピ孔明、通して見る。そもそものところ、全然だれもパリピじゃないし、これから触れる人は1話と12話だけ見れば、特に問題は生じないと思います。いつものように何も調べず印象だけで話をすると、まずエイベックスあたりに売りたいシンガーと楽曲があって、販促用にネットで流行りの漫画をテキトーに選んで、キャバクラ会議ーー圧倒的なキャバクラへの信頼感ーーの末にアニメ化したってのが、実情じゃないですかね。個人的に、日本語ラップが存在理由を疑うレベルで大ッキライーーキミら、ちょっと親族と仲間に感謝しすぎじゃない? 特にメッセージがないなら、むりくり歌にせんでええのよ?ーーなので、中盤の印象はもう最悪でした。てかさあ、物語的にコイツを仲間にする必要まったくなかったじゃん。どこの事務所のゴリ押しなのよ?

 さて、パリピ孔明をダシにして本題へ移りますが、私の中でジャパニーズ・ラップと同じカテゴリに、スノーボードとローラースケートとブレイクダンスがありまして、この競技者たちが国営放送に権威ヅラで取り上げられるのを見るときの違和感がすごい。ひどく間違った世界線に迷いこんでしまった感じで、こんな社会ならあまり長く生きていたくはねーなと、わりと真剣に思います。かつて世間には、厳然とした強固な中央値があったのに、いまや大幅に上下方向へとブレてしまっている。先ほど挙げた競技群は上ブレ枠の「陽キャ低偏差値ヤンキー」枠であり、下ブレ枠は「陰キャ高偏差値オタク」枠で、アニメや漫画など、かつてのサブカルがそれに当たります。この上下枠のいずれにも侮蔑の視線を向けていた人々が本邦のマジョリティだったのに、いつのまにか細胞膜が溶解するみたいに混ざりあってしまっているのです。

 圧倒的な下の枠として、さげすみの眼差しを一身に受けていたあの頃が懐かしいです。それが、よもやヤンキーどもと同じ扱いになるなんて……え、あまりに物事を単純化しすぎじゃないですか、ですって? そうなんです、単純にはいかないんですよ! 中でもローラースケートがクセもので、光GENJIならヤンキー枠、ムテキングならオタク枠になるじゃないですか? あと、「ローラースケートすべらせ」た「いじわるばあさん」のカテゴライズも難しくて、青島幸男ならヤンキー枠だし、長谷川町子ならオタク枠でしょう? いやー、じつに難しい! こういうのを複雑系って言うんですかね?(ちがう)

アニメ「スプリガン」感想(6話まで)

1話まで

 スプリガンの名前をタイムライン上に見かけて、「あれかー、ロボットが変形するPCエンジンの横シューかー。『いえ、スプリガンMk.2です。きゃああっ』、え、お姉さん、出番それだけ?」とか声色をつかって遊んでたら、漫画のほうのアニメ化だった。ちょろっと1話だけ見てみましたけど、新宿プライベート・アイズのスプリガン版って感じですね(なんじゃ、そりゃ)。原作は80年代後半から90年代前半にかけて中高生だった男性の、実家の本棚を探せば必ず発掘される3大漫画のひとつーー残りはマスターキートンとサザンアイズーーで、陰キャのオタクに自己投影型のハマり方をさせた、罪深い作品であると言えましょう(夜中の台所で果物ナイフとテーブルナイフを逆手に持ってフーフー言いながら、教室にテロ組織が侵入してきたときのシミュレーションをしてましたよね?)。

 本作の提供するテンプレートとしては、16歳は主人公のオレか清楚なヒロイン、18歳は頼れる兄貴か妖艶なお姉さん、20歳以上はオッサンかオバハンで、30歳以上は世界の敵(ドント・トラスト・オーバー・サーティ!)で、40歳以上は完全な真空ーー「博士枠」でのみ老人の存在が許されるーーという世界観が挙げられるでしょう。この強固なフレームは長く少年漫画界を呪縛し続けましたが、かつての少年が漫画を卒業せず、中年を迎えてもそこに居座り続けた結果、いまや異世界転生ものーー中年の心を持った少年ーーへと変質してしまっています。女性の人生には「生物的な要請」としての抜本的なルールチェンジの段階がいくつか存在しますが、現代の男性は「社会的な要請」としてのそれを拒否し続けた結果、おぞましいことに「週刊少年ジャンプ」というルールだけで生涯を過ごせるようになってしまっているのです。

 話を個人的な体験へ戻しますと、スプリガンとは「自分で購入せず、他人の家で読む漫画」という適度な距離感を保っていました。当時、劇場アニメ化されたのを「世界のオオトモ」の名前にダマくらかされて見に行ったのですが、絵はキレイなのに脚本は支離滅裂で、セリフもなんだか聞き取りにくく、最後はCGくさい黄金の方舟が出てくるみたいな、スプリガンという作品の負の側面である「思春期への共感性羞恥」を誘発する仕上がりで、そこから完全に記憶の奥へと封印していました。今回の試聴でよみがえってきた忌まわしい記憶の数々を、いまは苦々しい思いで眺めております。あの頃、旧ソの強化人間とかスペツナズとかたくさん出てきたけど、実際はそれほど強いわけでもないことが判明したいま、次代の少年漫画ーー読み手は初老男性が中心ーーの仮想敵国はどこになんのかなー。ファンタジー世界でドラゴンとか魔王が相手ばっかりなのは、イヤだなー。転生してない16歳の少年が、令和の現実で大人を手玉に取る作品が、また出てこないかなー。

6話まで

 ネトフリ版スプリガン、配信分をすべて見終える。いやー、堪能しました。あらためてふりかえると、本作のシャドー・フォロワーたちーーあまりに深く影響を受けたため、それを公には表明していないクリエイターのことで、小鳥猊下にも多く存在するーーの作品群を映像化したものが、30年の時を経て原典へと還流しているような印象を持ちました。この場面って、あの作品のあれだけど、あの作品のあれって、じつはこの場面に影響を受けてたんじゃないの、みたいな。いつもの習い性で茶化して、「思春期への共感性羞恥を誘発する作品」みたいな書き方をしましたけど、6話までを通して見ると昨今の作品群と比べて、よっぽどまっとうな願望を描いているなあと感じました。「腕っぷしはめっぽう強く、学校の勉強はできないけれど、頭の回転は速く機転が利いて、あらゆる大物たちに一目おかれ、女性たちからは好意を寄せられ、世界を破滅から防いで人類を正しい方向へと導く、ひとかどの人物」って、青少年が抱く欲望としては「オレをイジメてパーティから追放したアイツらにチートスキルで復讐」みたいなものよりも、確実に「正しい」と思いますね。

 話が少しそれますけど、ループものや転生ものの醜さの正体って、つまるところ、生きることの本質である「一回性」を否定している点なのでしょう。どの作品も、ある決断にともなう後悔や失意など、「意志を示すこと」で生じた負の部分を解消することばかりに焦点が置かれている。人生において100%正しい決断などほぼありえず、自分自身ではないだれかのために、それを後悔ごと吞みこんで前向きなものへと変化させていこうという姿勢ーーときに気の遠くなるような主観時間を伴うーーこそが、多くのケースにおいて有効な処方箋であるのに、その事実をどこか歪めてしまう。加えて、ゲーム由来の「スキル」や「ステータス」なる概念を用いて、世界の広大さと複雑さを手に負える範囲に矮小化かつ単純化し、読み手にいつわりの理解と安心を与えている。ゲーム黎明期に乏しいロム容量の内側で現実を表現するために発明された要素ーードぎついTRPG者を招きよせそうな指摘ーーが、昨今ではより制約が少ないはずのジャンルにおいて、書き手の貧困なる想像力を補助するためだけに世界を狭める意図で逆輸入されているのは、なんとも皮肉なことです。スプリガンに代表されるかつての少年漫画は、広大な世界を広大なままに、未知の領域を未知のままに描いており、一方からもう一方へと至る変化が、やたら数だけは多い就職氷河期世代の加齢に由来するのだとしたら、そんなものに若者たちの未来を巻きこむなと考えてしまいます。

 さらなる脱線をしておくと、ファンガスの描く(この箇所、傍点付き)FGOの物語を私が愛するのは、それがかつての少年漫画と同じ系譜にあり、「一人の人生と人類の歴史の一回性」を高らかに肯定しているからでしょう。例えば、クリプターのリーダーがジーザスを依代として召喚され、いっしょにサバフェスで同人誌を作る話などはさぞかし面白くなるだろうと思いながら、「ファンガスは、絶対にそれをやらない」と強く信じられることが、FGOを続けている最後の理由でもあります(裏を返すと、そのラインが守られなくなれば、離れるという意味でもある)。

 ともあれ、ネトフリ版スプリガンは二期、三期と制作していただき、近年の「主流になるべきではない、中年どもの後悔を慰撫するためだけの作品群」を吹きとばして、2022年を中高生としてリアルタイムで生きる少年たちへと届くことを願っています。「レベル50のオマエがレベル99のオレに勝てるとでも?」なんて話、クソつまんねえだろ! もっとみんなで「精神が肉体を凌駕しはじめ」ようぜ! でも、ソメイヨシノだけはないわー、「お嬢様学校に通う霊媒体質で銃火器の扱いに長けた16歳の峰不二子」って、ナイナイ、それだけはないわー、ここだけリアリティ、まったくのゼロだわー。

ゲーム「ディアブロ・イモータル」感想

質問:ディアブロイモータルやらないんですか? 面白いですよ!

回答:アイポンでプレイを始めたものの、グローブのような両手を有する巨漢少女にとってあまりに操作性が劣悪であり、早々にPC版へと切り替えるも、スマホに最適化された低解像度のグラフィックが散見されるばかりか、ゲーム性までもケイタイに最適化イコール簡略化されてしまっており、アクションとしてはかなり大味であると言わざるをえない。ストーリーにしても、あいかわらず2までの固有名詞だけを流用した質の低いアメコミみたいな内容で、エンディングまでひと通りプレイしたあと、すでにディアブロ2Rへと出戻っていることをまず諸君にお伝えしておく。

 私のシリーズ遍歴を紹介するならば、初代ディアブロはなんかエロゲーをやるためのボードがブッささったPC98で、モデムをピーガー鳴らしながらテレホーダイ時間にプレイし、セーブデータがローカル保存なのをいいことにKing’s Sword of HasteやStorm Shieldをdupeで増やしまくってーー該当アイテムを地面に落として、すぐひろうみたいなウル技(テク)ーーいた生粋のBuriza-Doッ子であり、を人類史上最高のゲームとあがめたてまつり、をオークションハウス閉鎖くらいでアホらしくなって離れ、4のトレイラーを見て、「3のシステムでマップ間をシームレスにしただけじゃねえの?」と罵りながらも淡く期待することをやめられない、ディアブロ界隈でよく見かける、きわめて標準的なファンである。

 当シリーズ全体に持っている印象だが、ディアブロ1・2はエヴァ序破、3はエヴァQとだけ言えば、ここ2年ほどnWoを追いかけている君には、もう何の説明を付け加える必要もないほど、完璧に伝わったのではないかと思う。2までの開発陣はとっくの昔に全員Buriza-Doを退社しており、3以降はガワと固有名詞だけを残したベツモノなのである(序破の製作陣をほぼ引き継ぎながらベツモノとなったエヴァQは、さらに罪深い)。3はレベルMAX(60きっかり)「まで」を楽しむゲームなのに対して、2はレベルほぼMAX(94くらい)「から」を楽しむゲームになっていて、エンディングまでを一区切りとするプレイスタイルでは差異を感じにくいかもしれない。しかしながら、レベルMAXに到達してから過ごす時間が、やがて総プレイ時間の99%を占めるようになるハクスラにおいて、この違いは決定的かつ致命的になるのである。

 ディアブロのゲーム性はよくパチンコになぞらえられるが、2がアナログの地味な演出(チューリップぱかぱか)で射幸性の高い昔の遊戯台だとするなら、3はデジタルの派手な演出(CGエフェクトきらきら)で射幸性の低い今の遊戯台だと指摘できるだろう。そして、ご質問のイモータルは3のシステムを引き継いでいるばかりか、さらに最強キャラの育成には15,000,000JPYほどの課金が必要となっており、パチンコはパチンコでもカイジの人食い沼みたいなシロモノであることが、オープンベータの段階ですでに明らかとなっている。「かーっ、2のゲーム性ならそのくらい喜んでポンと払ったのになー、かーっ、2のゲーム性だったらなー」などとのたまいつつ、千五百万円の入ったビニル製サイフの口をビチビチゆわせながら閉じている次第である。なので、PvPを目的としたクランなどには、くれぐれも誘わないように! 人間関係への恐怖感と劣等感から、他人の関心と時間をまずカネで買おうとする類の、愚かな金満家なのでな!

映画「シニアイヤー」感想

 ネトフリでシニアイヤー見る。アニメやゲームにばかり触れていると、ときどきカウンターでこういう「希釈されていない現実の廃液」を味わいたくなるのです。これ、欧米における異世界転生の亜種で、かつてのシノラーみたいな人物が現代社会によみがえるんですけど、「もはや正しくないとされる言動」を連発することで既成の価値観をゆさぶりまくり、「政治的正しさのイビツさ」を風刺的に描く話だと思って見てたんです、途中までは。そしたら、プロムに参加するあたりから雲ゆきがあやしくなってきて、結論を決めきれずに撮影してるような迷走感が漂いだします。ついには「目に見えないフォロワーより、近くにいるダチ公が大切なんじゃい!」と叫んだかと思うと、現代社会の欺瞞ーー男女の性差は無くす方向なのに、その他の性的嗜好はなぜか細分化し、PZNは犯罪としてすえおかれるなどーーからは適度な距離を保ったまま批評性を雲散霧消させ、ミュージカルっぽい大団円の雰囲気だけをかもして終わりました。

 「二十年間ベッドで昏睡状態だったのに、目覚めた瞬間から自力で歩行できるのはおかしい」などのツッコミを見かけましたが、ホラ、最近のみなさんが大好きなあれですよ、この作品のリアリティラインがここで引かれたんですよ。シン・ウルトラマンの冒頭で、逃げ遅れた子どもを主人公が助けに行くシーンがあったじゃないですか。「テント内の自衛隊員に命じるべきで、指揮をとる側の人間が持ち場を放棄するのはありえない」とのツッコミに、「いや、あれはシン・ゴジラとは違うリアリティラインの作品であることを明示するためだ」とか、頭から湯気だして反論してるのを見かけましたけど、いつからこういう「かしこバカ」が増えたんでしょうねえ。私はあれを、「管理職を経験しないまま社長となり、部下の反発を恐れて現場に明確な指示を出せず、会社から離れて緊急性の薄い脚本のリライトへ逃避する人物の暗喩」と読みましたね。あの行動に違和感の無い経営者には、つくづく雇われたくないものです。

 しかし、この件に関する正解はどちらでもなく、視聴者からの質問に総監修の放った言葉、「ああしないと、ウルトラマンが始まらないので……」が真実なんですよね。つまり、「最も短い尺でウルトラマンに主人公を殺させる」が、この作劇における最大の焦点だったわけで、これでもまだ「人間ドラマがわかってる」人物だって強弁できます? 大幅に脱線した話(いつも通り)を元へ戻しますと、シニアイヤーに納得がいかなかった貴君には、セブンティーン・アゲインをおススメしておきましょう。こっちは終盤まで脚本がカチッと決まっていて、この類の作品の宿命である「古くなりやすい」を気にしなければ、とても楽しめると思いますよ。

映画「ククルス・ドアンの島」感想

 

接触篇

 外出中に2時間ほどをつぶす必要があって、上映時間が偶然ぴったりと重なったため、その予定はまったくなかったのにククルス・ドアンの島を見ました。閃光のハサウェイをすごく楽しめたせいもあるんですけど、はっきり言ってあれとはベツモノでしたねー。20年以上前からインターネットは個人的な日記帳とイコールなので、ガンダム作品はすべて未履修ーーより正確には、単位登録して講義も出席するんだけど、学期試験で合格点が取れないーーの人物から感想を残しますが、ファンの方々の気を悪くする意図はないことを、あらかじめ宣言しておきます。原作のエピソードはネットミーム的な画像以外もちろん未見でして、全体の印象としては冗長な尺や余計なシーンがかなり多くて、登場キャラの芝居や場面ごとの感情もつながっている感じがせず、どれも唐突に思えました。しかし、これこそがガンダム文法なのやもしれず、「逆襲のシャアを3回見たけど、ストーリーが理解できなかった」人物の視点による感想であることは、公平さを期すために付け加えておきます。

 ドアンという脱走兵が戦災孤児たちを孤島にかくまっている設定だと思うんですけど、その集団生活はどこか新興宗教めいていて、ある世代に特有の「地縁・血縁の否定と大家族の肯定」という矛盾に満ちた思想のようなものがそこはかとなく香ってきたのは、はたして私の気のせいでしょうか。孤島の荒地を耕す描写が何度も出てくるのに、食卓は妙に豪華ーープチトマト入りのサラダとか、どうやって作ったん?ーーで、ドアンが船で町へ仕入れに行ったのかと思いきや、向かった先は秘密基地だったり、故・高畑勲が化けて出るレベルで「新しき村」における生活基盤の掘り下げがいい加減なのです。聞きたいんですけど、アムロがバッテリーを修理して電源を復旧させたのに、ドアンが「余計なことしやがって」みたく吐き捨てる場面って、文明レベルをわざと落として、無力な子どもたちを「何でも知っている」大人である自分に依存させることで集団(教団?)を統率していたという意味なんでしょうか。

 さらに気になった細かい点を挙げていくと、「島内に唯一の人造物である怪しい灯台に対して、まず遠方からガンキャノンの砲撃による威力偵察」という当たり前の戦術チョイスが行われなかったのには、「この物語が始まる前に終わるのを避けるため」以外の理由が見つかりませんでした。ガンダムを探しに出たアムロが「ドアンという人のザク」と回想しますが、あの時点でドアンとザクが結びつくような描写はなく、原作未見の私はけっこう混乱しました。時代背景もよくわからなくて、ベッドの横に水差しではなくペットボトルが置いてあったり、ホワイトベース内にTOTOの便器を設置した障害者用トイレがあったり、広島カープが存在したりするのは、ガンダムファンならどれも違和感なく受け止められるものなのでしょうか。

 モビルスーツはテレビ版と比較にならないほど細密に描かれる一方で、リアルになればなるほど兵器が人型ロボットである必然性は逆に薄れていくのを感じました。ガンダムの地上戦はほぼ初見ながら、二足歩行が移動と戦闘のデメリットであるとしか見えません(敵のホバー移動には大いに納得しました)。それに、コクピットでない顔面部分に手斧を突きつけることが脅しになる芝居とか、崖の下を見て高所恐怖症に足がすくんでーー飛べるんじゃないの?ーー隙を作ってしまう演出など、ロボットなのにウルトラマンのごとく「人間が巨大化しただけ」の存在になっている瞬間がいくつかありました。単純な疑問ですけど、頭部を撃たれたり四肢の一部を斬られただけで機体全体が爆発四散するのって、兵器として問題ありすぎませんかね。ふつう隔壁とかで誘爆を防ぐ設計にすると思うんですが、演出の見た目が派手なことを優先しているんでしょうか。小破か轟沈しかない艦これみたいなもんですよ、これ。令和の御世に、不快なほど怒鳴りまくるパワハラ上司・ブライト艦長が、いつの間にか「軍法会議もの」の命令違反へ積極的に加担しており、そこまでには酔っ払いの軍人がこっそり若手士官を扇動している様子しかなくて、「翻心するような場面、あったっけ?」と自分の記憶を疑うはめになりました。

 本作での描写を見て、はじめてテレビ版のアムロが少年兵だったことに気づかされましたけど、敵パイロットをビームサーベルの熱で蒸発させたり、逃げる兵士をガンダムで踏みつぶしたりするのを、わざわざ観客へ見せることに、どんな演出意図があったのか疑問が残ります。終盤の戦闘についても、5体のモビルスーツでやってきたのに、3体と2体に戦力を分散して、スナイパーを含めた2体は秘密基地内で能力を発揮できないまま頓死、残った3体もお行儀よく順番に一騎討ちってどないやねん。おまけに、なんか因縁がありそうだった女性パイロットも場面転換の直後に戦闘シーンをスキップーー自宅だったら見落としを疑って巻き戻してたと思うーーしてやられてて、「2対5の数的不利を、短中遠距離戦のことごとくでガンダムa.k.a.白いヤツ(白い悪魔じゃないの?)が圧倒する」という展開を予想していたため、消化不良感というか、「まだぜんぶ出してない」という残尿感がひどかったです。地下に避難するはずの子どもたちが、コミカルなヤギの描写につられて、いつの間にか流れ弾が直撃しそうな最前線に大挙して現れたのも、「HAHAHA、ご見物がいたほうが盛り上がるだろ? 大丈夫、大丈夫、殺さないって!」とのアメリカンなボイスがいずこからか聞こえるようでした(幻聴です)。

 そして、非常にわかりにくい脚本から推察するに、おそらく世界の主要都市へ向けて発射されたミサイルが大気圏外で爆発したのを見て、ジブリ系のヒロインが「ドアン、これがあなたの仕事だったのね」とか言うんですけど、いやいや、作中のアンタの立ち位置からは、そんなことぜったいにわからへんやろ。神の視点にいる観客のウチからして、連邦?の士官が台詞で説明するのを聞いて、はじめて状況がつかめたくらいやのに。最後にドアンのザクをアムロが無許可で勝手に海へ放り投げて使えなくしたのには、心底ビックリしました。その奇矯きわまる行動を見た直後の感想は、「え、次にモビルスーツが攻めてきたら、どうすんの?」でした。これって、原作を忠実になぞっただけなのか、反戦や不戦や非戦や九条(やだなあ、ネギの品種ですよ)的な思想性に裏づけられた展開なのか、よくわかりません。でも、「あなたの戦争のにおいが争いを呼びよせる」みたいな台詞と考え方って、少年兵のものじゃないですよね? その裏にいるレフトウイングのオッサンかオジイサンのものですよね?

 うしろの予定に押されて、スタッフロールの途中で席を立ちながら、「ガンダムが単騎でカッコよく無双するのを楽しみたかっただけで、野党がスポンサーのハウス名作劇場を見たかったわけではないなー」と思いました。以前、エヴァが新劇を通じて様々なクリエイターの参入するガンダムのような土壌にはなれなかったことを惜しんでいると書きましたが、本作を見終わったあとの正直な気持ちは、「テレビ版エヴァのどれか1話が翻案されて映画になっても、たぶん見に行かないだろうな」であったことをお伝えしておきます。

発動篇

 ククルス・ドアンの島の内容を思い返すだけで、なぜか口元にタチの悪い笑みが浮かぶ始末で、この感情を形にしてよい?

 文章が面白い時には、ファンは怒らないものだ。41.2%
 悲しいけどコレ、ドぎついマニア向けなのよね。17.6%
 (ヤギの突進)41.2%

 ひさしぶりによく書けたなー、なんて思いながら、ククルス・ドアンの島の感想を1日に10回も20回も読み返してゲラゲラ笑ってるんですけど、予想していたドぎついガンダムファンからの反撃は、なかったですねー(ヤギの突進にそなえた柔道の構えを解きながら)。しょうがないので、手元にある架空のリスナーから寄せられたハガキに、お答えしたいと思います。最近の私の映画感想は、どれもこれもテキストラジオみたいなもんですからね!

 「冗長な尺や余計なシーンって、具体的にどこのことを言ってるんですか?」とのご質問ですが、皆さまのように2回目を見るつもりはないので、記憶を頼りにお答えします。「冗長な尺」で思いうかぶのは、アムロが屁っぴり腰でクワを振るのを「ヘッ」と侮蔑のまなざしで見ていたら、何度もしつこく繰り返すうちドアンの指導があったわけでもないのに腰が入ってきて、「チッ」とオナイの少年が舌打ち(どんな感情?)するところですかね。このクワをふるうときの腰つきもそうなんですけど、アムロがペットボトルから水を飲むシーンが劇中に2回あり、どちらも妙にエロティックな描写になってて、お稚児さんというかお小姓さんというか、どこか少年愛的なまなざしを感じてしまいました。「そっかー、ペットボトルでゴクゴク水を飲むのって、フェチなんだー」と気づかされた次第です。

 次に「余計なシーン」ですが、「子どもたちが灯台の螺旋階段を駆け登り、駆け降りる」ところでしょうか。映画的にはまったく必要ない場面なのに、「狭くて曲がった階段で、しかも複数の人間が同時に登り降りするのを、このカメラ位置から自然に動かせるなんて、ヤスヒコすげえ!」みたいな、昔のアニメ作品に特有の職人芸を愛でる要素になっちゃってるんですよね。この積み重ねが、「普通の映画」になるか「テレビアニメの長いの」になるかを分けているような気がしました。マが名字の人物(オマエ、どこ国籍よ?)が高笑いしながら部屋から退出するのを、カメラに回り込ませながら長々と写すシーンは、この両方の要素を兼ね備えていて、私の中の関西人は「いつまでわろとるねん!」と思わずツッコミをいれてしまいました。

 ついでに、「芝居や感情がつながっていない」にも触れておきますと、中盤にジブリ系のヒロインがアムロとドアンを見つめたり目をそらしたり頬を赤らめたりするシーンがあるんですけど、その付けられた演技からは彼女の内面がまったく想像できなくて、いよいよ自分は気が狂ったのかと深刻に疑いました。そして、ドアンから「子どもたちを守るために、たとえ仲間とでも戦う覚悟があるか」と問いかけられたアムロが、しばし逡巡したあと、強くうなづいて彼の背中を追いかけるシーンは、「ホワイトベースを、ブッ潰す! ついでに僕を殴ったブライトも、ブッ殺す!」宣言としか受けとれませんでした(まあ、しばらくして、ガンダムで生身の人間を踏みつぶす覚悟だったことが判明するわけですが……)。

 あと、本作における監督のアバターはズバリ、ヤギですね。稚児と少年と大人の男にセクシャルな部分をもみしだかれて快楽の声をあげたり、ガンダムの作風と水油の1枚絵で3人の男たちをなぎ倒したあと、デベソがバッテンの幼女からキスの雨あられを受けて顔をにやけさせたりと、もうやりたい放題です。他にも、崖をのぞきこむシーンが何度もリフレインされるところとか、おそらく監督の実人生における経験が色濃く反映されている部分が、ガンダムという言わば公共物に、私小説的な違和感を与えている気がしました。それと、茶色いザクの連隊が初登場するスタイリッシュな交戦シーンは副監督が絵コンテを切っているそうで、終盤のゆったりモッサリ戦闘との落差は、若々しいセックスとおじいちゃんの手淫との違いだったんだなーと思いました、おわり。

ゲーム「FGO第2部6.5章」感想

 FGOの6.5章を読み始めたけど、またアガルタなの? ホームズやダビンチのキャラを崩壊レベルで書き間違えてるし、プレイヤーの分身であるマスターへ無遠慮にベタベタと触ってくる手つきも相変わらずで、密室で無許可のペッティングを受けている気分です。サロメの描き方も5章前半のコルデーそっくりで、フィクションに感じることのできる気持ち悪さとしては、ほとんど最大限に近いものがありますね。新キャラもたくさん投入されてるけど、この書き手のお遊戯に貴重なリソースを割いてほしくないなあ。どこかでファンガスの筆へ切り替わることだけを唯一の希望として、本当にイヤイヤ読み進めています。

 FGO6.5章、そろそろ終盤に近いと思うが、いっこうに読み進まない。少し読んでは、深刻な怒りの発作でアプリを強制終了してしまうからだ。5章前半と同様に言葉があまりに汚すぎるし、ファンガスと同じ日本語を使っているとは思えないほど、すべての文章が冗長なくせに説明不足かつ上滑りしている。登場キャラ全員が「マジ」を連発し、あいかわらずネットスラングとツイッター構文を内省なく手クセで使い、描かれているのは英霊たちというより、もはやチンピラどもである。三国鼎立の設定にも、結局テーマ的にまったく意味が無かった(マツリゴトと戦争を群像劇で描写する実力が無いのに、キャラと設定だけをブチあげるのが大好きだからこうなる)。男女関係がすべて肉の恋愛へと収束していくのも、このシリーズの本質を少しも理解しておらず、率直に言って穢らわしい。

 偽物が描写した偽物のホームズが妖精国の「論評」を始めやがったときには、あまりの不快感に思わずリアルで絶叫がほとばしりました。前にも書きましたけど、ファンガスはこの、たぶん女性に、どんな弱みを握られているんでしょうか(愛人関係とかだったらイヤだなあ)。これ本当に、栗本薫が存命なのにグイン・サーガ本編を別の人物が書くような狼藉で、賞賛と無視しかない昨今のネットがこのクオリティを許し続けた結果、FGOの客離れにつながっていると老婆心から指摘しておきます。たいていの良心的な常連客は、店主に向かって「味がおかしいよ」とは言わず、黙っていつも通り食事をすませてから、ただ二度と来店しないことを決めるのですから。

 唐突にベルセルクの話をしますと、とうの昔に完結をあきらめて離れた常連客だったのですが、皮肉にも作者の死によって物語の終わりが大幅に繰り上がって、生きているうちにそれが見られそうだという流れになって、俄然、関心が高まってきております。願わくば、ファンガス以外が手がけるFGO本編や、作者没後のグイン・サーガーーアルド・ナリス復活って、鷹の団がみんな生き返るのと同じやでーーみたいにはなりませんように!

 FGO6.5章、艦これイベント海域の片手間に読了。世界設定もストーリー展開もキャラ描写も、何から何まで納得がいかず、イッライラしてる。おまけにリンボ、コヤンスカヤに続いて、ホームズまで雑に処理される始末で、数年をかけてあれだけ丁寧に積み上げた情感を、盛大に中折れさせてくれやがりました。もしFGOの運営に疲れ果てて、さっさ終わらせたいと思っているのでなければ、ファンガスを目の前に正座させて、この内容で本当に納得しているのか問い詰めたいレベル。ねえ、スピンオフでの顔見せ程度の扱いならともかく、なんで本編のメインキャラの、触らせちゃいけないとこまで他人(愛人?)に触らせるの? この書き手は、どうでもいいところはゴテゴテと厚塗り描写するくせに、ホームズが目の前で死んでいるのにダビンチの述懐が何の悲嘆もない2行のみだったり、自分の持ちキャラを活躍させたい一心だけで、FGOという言わば正史に対して、何の敬意も愛情も抱いてないですよ?

 ファンガスの書くFGOは堂々たる世界文学なのに、この人物の書くFGOは週刊少年ジャンプ以外に掲載された二線級のパクり漫画なんですよ。6.5章に感じる私の憤りを少年漫画で例えるなら、「幽遊白書10巻の続きをなぜか烈火の炎の作者が描いてて、おまけにポッと出のオリキャラに飛影を殺された」みたいなもんですよ。涙目の少女が組み伏せられながら、「ホームズはそんなふうに死なない!」ですよ。最後の展開も、筆がまずいこともあるでしょうが、「ああ、ここまで引っ張っといて、異星の神ってその程度の話なのね」という感想です。この6.5章によって、FGOという物語の総体が大幅に毀損されたのは間違いありませんし、SNSを通じてこのゲームのファンであることが皆様に伝わってしまっている事実を、あらためて恥ずかしく思います。せめて次の章でホームズが死んでなかったことにしません? あまりにひどいわ。

 あとさあ、「ファーストサーヴァント」って呼び方、急になんなん? いちばん絆レベル低いくせに、筆おろしみたいな意味なん? 「そのままハメこんで、私のシールダー」なん?(さいてい)

映画「トップガン・マーヴェリック」感想

 トップガン・マーヴェリック見てきた。前作の高解像度リマスター版かと錯覚するような完コピのオープニングから例のテーマソングが流れたかと思うと、そこからは脳に電極が刺さって逐次思考が読み取られているのかと深刻に疑うほどに、こちらが「こうなってほしい」と想像する通りの展開が、こちらの想像をはるかに超える映像で次から次へと描かれていく。前作の無印トップガンは1980年代後半、当時の中高生男子全員が低い鼻にあのサングラスをかけ、サモハン・キンポーの体型をあの皮ジャンで包み、ウォークマンでデンジャー・ゾーンを聴きながらママチャリで無目的に近所を爆走し、学校では若い女教師にイキッて声をかけるみたいな流行り方をしていたのに、映画の内容自体はなんだかボンヤリとしたものなんですよ。海軍士官学校の勧誘ビデオみたいな前半と、「さぶ」い長回しのビーチバレーから脈絡なく相棒が死んで、そのトラウマの克服とロシア戦闘機の撃墜が重なり、みんなで甲板で騒いでたらエンドロールが流れ出して、「えっ、これで終わり?」みたいな芒洋さです。

 本作はその、大流行したわりに映画として完成度が高かったわけでもない前作を、30年以上が経過してから裏地を補強しつつ完璧に語り直して、さも元から名作だったかのような場所へとアウフヘーベンしてみせたのです。その見事な手腕には、もはやブラヴォの拍手しかありません。リアリティラインの扱いに怯えきった、昨今の神経症的な作品群とは異なり、少々の破綻は豪放に気にせず、観客が見たがっているものを前世紀かつ全盛期のハリウッド映画レシピで磊落に再現したのが、本作だと言えるでしょう。原子力プラント破壊のミッションはデス・スターの攻略シークエンスーー3メートルの標的にミサイルを放りこむとか、直前で機械による誘導が効かなくなって手動で命中させるとかーーをなぞっているし、敵地を脱出したところで最新鋭戦闘機がヌッと背後に現れたのには、レイダースの終盤で潜水艦が浮上する場面ーー当時のストーリーテリングにおける最先端でしたーーを彷彿とさせられました。

 そして、この映画は自信と才能にあふれた熱い「男」と「女」たちの物語であり、LGBTQやナードどもに弱々しく媚びへつらった揉み手が微塵も存在せず、世界が今よりもずっと単純だったあの頃の空気をビンビンに伝えてくるのです。ただ、旧世代の人間と旧世代の戦闘機がギリギリ達成できるよう絶妙に調整された敵国ーーパイロットにフルフェイスをかぶせてまで、どこの国なのなは徹底的に伏せられるーーとミッションであることを頭の片隅には感じているし、キャリアの後半戦に差しかかり、若い世代の台頭と己のスペック不足を実感しながらも、経験だけは売るほどある40代後半以降のロートルだけをまさにピンポイントで慰撫する、中高年向けの泣かせ映画なのではないかという不安もある。さらに、eスポーツの大会で米国海軍にスカウトされて、プレステ5のコントローラとUIでステルス機やドローンを操作し、エンダーのゲームが如くリモートで他国民を殺戮しまくっている10代、20代の兵士にとっては、本作はもはや噴飯もののファンタジーなのかもしれないとも思う。

 でも最後には、そんな小賢しい先回りの心配は「疾走する映画バカ」ことトム・クルーズの発する熱気とエネルギーを前にふきとんで、「次世代のために、己の手の届く範囲でいいから、世界をより良い場所へ変えていこう」と思わされ、小さな不整合を気にしない前向きなバカを伝染させられてしまうのです。はやばやと老けこんで達観してみせて、60歳のバカができるバカを、より若くてより頭の悪いおまえにできないわけがないだろう、ええ? ドント・シンク、ジャスト・ドゥ! 後詰めで1%に満たない失敗の可能性を100通り考える参謀よりも、無策の空手のまま最前線に現れて兵士たちを存在で鼓舞するリーダーたれ!

 あと映画が始まる直前、字幕翻訳にナツコ・トダの名前を発見したときは、「現時刻をもって字幕はすべて破棄、以後はリスニングのみを理解のよすがとする。これは訓練ではない、繰り返す、これは訓練ではない……」と別の意味でゾクゾクするようなスペクタキュラーを感じました。まさに、トップガン・マーヴェリック視聴の「棺桶ポイント」(なんじゃ、そりゃ)だったと言えましょう。

漫画「ノーマーク爆牌党(電子版)」感想

 ノーマーク爆牌党、紙の本も持ってるんですけど、密林焚書で全巻をあらためて購入しました。まず5巻から最終巻までを読み直して、やはり他の漫画では味わえない面白さであることを再確認できました。むこうぶちが「麻雀という賭博をめぐる人間ドラマ」とするなら、ノーマーク爆牌党は「麻雀というゲームをめぐる競技ミステリー」とでも言えるでしょうか。前者が麻雀を知らなくても人間ドラマのみで楽しめるのに対して、後者は少なくとも「麻雀のルールを知っている」、願わくば「麻雀を狂ったように打っていた時期がある」ことが、ストーリーを楽しむための最低条件となっており、少々ハードルは高めです。本作の後半においては、主人公が前半と別の人物にスイッチされて、メジャー大会を9連覇する天才をいかに打倒するかが描かれていくのですが、麻雀における「不敗性」って、もし充分な説得力を持たせられれば、最高の面白さへと昇華するネタなんですよねー。

 将棋やチェスなら、プロが「ルールを知ってるだけの素人」に負けることは、まずもって120%ありえません。そのありえないことが、麻雀ではまま起こりうるからです。しかし、この事実をもってして、ゲームとしての完成度の低さを指摘するのは、間違っています。麻雀というゲームの本質は、「運のパラメータの可視化」にこそあると言えるでしょう。日々「ただ死なない」という事実にさえ薄く消費されていく個人の持ち運の総体を、暗闇でフラッシュを焚くように、一瞬だけ目に見えるものにしてくれる装置なのです。個人的なことを言えば、何か大きな決断を伴う行動があるときなど、ネット麻雀の東風戦を1回だけ打ち、その時点の運の状態を確かめて、指針にすることがあります。オカルトめいた話に聞こえるでしょうが、存外これが馬鹿にならない精度で結果に影響するのです。

 ノーマーク爆牌党に話を戻しますと、なんど手に取ったかわからない最終巻を再び通読して、「人智のみでゲームを支配してきた者が、ゲームの本質を理解した者に敗れる」という展開ーー流れはキミに47ピンをつかませるーーに、かつては気づかなかった深い人生訓を感じました。そして、その余韻を駆って1巻を読みだしたところ、麻雀をディスる残念な容姿に描かれたワンレン・ボディコン女性の顔面を、走ってきた主人公が勢いよくグーで殴るーー殴られた女性は道路を転がっていき、街路樹に激突するーーという見開きのシーンから始まっており、「いやー、忘れてたけど、カタチン作品はこれがあるからなー、一見さんにはハードル高いよなー」と思わずひとりこぼしてしまいました。ちなみに、2話の冒頭はゲーセンでの脱衣麻雀から始まることをお伝えしておきます。いや、本当に面白い作品なんですよ?