猫を起こさないように
日: <span>2022年4月25日</span>
日: 2022年4月25日

雑文「建築物としてのエヴァンゲリオン」

承前

質問:きっしょ

回答:オタクの定義って、子どもの頃に大人にとって感情が厄介なので抑圧するよう教育されてきた結果、自分の抱く感情が正しいのどうかいつも自信が無くて、その感情への自信の無さから、とにかく言葉が多くなってしまう人たちだという気がするのね。だから、いつも自分の抱く感情を周囲に正しいものとしてケアされてきた人たちの言葉が持つ、短いけれどまばゆいばかりの強さに目をくらまされて、すっかりやられてしまうところがあると思うわけ。エヴァ旧劇にしたって、あれだけ精緻にシナリオを計算された25話と、情動と音とイメージの洪水である26話と、当時から現在に至るまで、本邦のアニメ史上において永久に越えられないクリエイティブの頂点だったわけでしょう。にも関わらず、それを編み上げた究極のオタク自身が、自らの感情を疑ったこともない人物が思いつきで発した「気持ち悪い」という言葉に、完全にノックアウトされてしまった。じつは今、それと同じような気分です。私の記した数万文字の不快に対する不快として、この言葉はなんらの過不足がない。

 我々はこの3月8日に、エヴァという名前の建築物が完成するのを見たわけですが、入り口部分はGUCCIの店舗みたいな外装で、接客も控えめながら要点はおさえた上質さで、入店した若い女性の2人連れは「いいじゃん、私これ好き!」とか言いながら店の奥へと進んでいく。すると、内装はまるで昭和の秘宝館のようなチープなものになり、古い蝋人形とかハリカタが雑に並べられているばかり。60代の館長と思しき人物がムッツリと黙り込んで座っていて、話しかけてくるでもなく不躾にジロジロとこっちを見てくる。ここで不安を感じて引き返せればまだよかったものの、若い女性たちがさらに薄暗く狭い連絡通路を進んだ先は、高級ブランドの見かけはどこへやら、もはや乱雑と汚濁の極み、さながら九龍城の阿片窟へと変貌していく。室内は薄くけぶっており、水ギセルをくわえた全身刺青だらけの大勢のジャンキーたちが、赤いビロードをかけられたソファへ気だるげに身をもたせかけていて、若い女性たちが室内へ踏みいれるや否や首を起こして、いっせいにドロリと濁った視線を向けてくる。「なにこれ、キッショッ!」と叫びながら若いお嬢さん方が逃げていかれるのも、理の当然、無理からぬことなのです。エヴァとは元来、そういうコンテンツなのですから(水ギセルをふかしながら、黄色く濁った目で悲しげに)。

映画「クライ・マッチョ」感想

 クライ・マッチョ、見る。俳優人生の最晩年を迎えた齢91歳のクリント・イーストウッドによる、もしかすると最後かもしれない演技を愛でるドキュメンタリーとしては素晴らしいですが、一般的な映画として視聴すると彼が主演でなければ劇場公開どころか、撮影にすら至らなかったレベルの内容でしょう。この脚本が想定する人物像を演じるには、クリント・イーストウッドは20歳ほど年を取り過ぎています。10代の少年が想像するより身軽だったり、館の女主人に閨で恥ーー90代でチンポが勃つかいな! ーーをかかせたり、パンチ一発で暴漢に膝をつかせたり、60代のメキシカン未亡人とラブロマンスへ至るには、せめて70代前半でなければ成立しません。

 カメラワークとカット割りと、たぶんスタントでごまかした荒馬を乗りこなすシーンもそうですけど、スロー極まるクリント・イーストウッドの動きがもう本当に高齢のおじいちゃんで、そもそものところ台詞が言えてなかったり、別の意味で終始ハラハラさせられっぱなしでした。前作の「運び屋」ではまったく違和感を覚えなかったのに、わざわざマッチョをテーマにした脚本で当て書きなんかするから……。本作はここ5年、いや10年で最大のミスキャストのひとつであり、「映画好きなら、これをこそ褒めるべき」みたいな風潮に流されて、好意的な感想を述べる映画ファンとやらの盲目さには、もはやあきれかえるしかありません。

 あと、アメリカの1970年代におけるメキシコって、本邦のある世代にとってのノースコリアみたいなもんなんですかね?