猫を起こさないように
月: <span>2022年2月</span>
月: 2022年2月

アニメ「鬼滅の刃・遊郭編」感想

 漫画「鬼滅の刃」感想
 映画「鬼滅の刃・無限列車編」感想
 雑文「鬼滅の刃・最終巻刊行に寄せて」

 鬼滅の刃・遊郭編、最終回の報を聞き、ネトフリでまとめて見る。劇場版と見まがう作画のクオリティは見事の一言ですが、「自分の状態、仲間の状態、敵の状態、周囲の状況をすべて余すところなく台詞で説明する」という原作のアンバランスな部分が、アニメ化によって改めて浮き彫りとなっています。ある回の前半パートなんかは、キャラのバストアップが台詞のたびに上下に動くのが延々と続いて、「オイオイ、いい加減くっちゃべってないで戦えよ」と思わずツッコまされるぐらいでしたけど、原作の単行本を見かえすと、その場面を忠実にアニメ化してあるんですよね。「ラノベの主人公の決め台詞が長すぎて、声優に音読されると不自然さが際立つ件」と同じ根を持っていて、これはFGOのアニメ化にも同じことが言えるでしょう。

 あらためてこの世界に戻ってみると、鬼殺隊の柱はどいつもこいつもサイコパスばかりだし、高速戦闘は酔っぱらってると何が起こっているのかわからないけど、最終話における鬼の回想には、やはり心の底から同情して泣いてしまうわけです。「鬼になった理由」が鬼滅という物語の本体であり、「同じ境遇に置かれたら、同じことをしただろう」と読み手に感じさせる点において、万引き家族ジョーカー半地下の家族と同じ作りになっているのです。それは同時に恵まれている者たちへ、いまの自分があるのは「環境と幸運」がそろっていたからだと気づかせ、強い者・富める者の責務を突きつけてきます。以前にも書きましたが、氷河期世代のサバイバーが持つ醜さの本質とはまさにこの点で、死屍累々の同胞たちを暖かい場所から眺めながら、「自分はあそこにいなくてよかった」と胸をなでおろす、その無意識の仕草にこそあるのです。鬼滅の刃・遊郭編の最終話を見て、私が「四十代の自分語り」へ覚えた違和感の正体が、「先のわかった者が明日をも見えぬ者を視界から外して語る、その口調」だと気がつきました。これはSNS時代の常ですが、暖炉に背中をあぶらせながらワインを片手にロッキング・チェアーを揺らす者の傲慢な言葉だけがネットに浮遊し、寒空に裸足でかけだして雪の中から同胞を抱き上げるだれかの行為はどこにも記述されないのです。

 だいぶ脱線しましたので鬼滅に話を戻しますと、テレビ版エヴァ(戻ってない!)の各話についている英語のサブタイトルが好きで、当時はさんざん考察とやらの対象になっていたと思うんですけど、いちばん印象に残っているのは第弐拾弐話の”Don’t be.”でしょうか。直訳すると「存在するな」となりますが、当時ネットだかどこかでこれを「あなたなんて生まれてこなければよかったのに」と意訳しているのを見かけて、ひどく感心したのを思い出します。遊郭編の最終話において、主人公がこの言葉を言わせないよう鬼の口をふさぐという行為は、彼の人物造形とピッタリ合致しており、短い台詞とあいまって余計に胸をうちます。回想のあと、鬼たちが光に背を向けて地獄の業火へと歩んでいくシーンで、あれだけ過剰な言葉の作劇だったのを兄に一言もしゃべらせず、妹を「抱えなおす」という芝居だけですべての心情を表現したのには、本当に感動しました。花の慶次で主人公が「自分のような者でもこれほど苦しいのに、馬や牛の苦しみはいかばかりのものか」と独白する場面が頭に浮かんだのですけど、やはり「重い、苦しい」を言わないのが私の中で美徳になっている側面はあると思います。たぶん時間が経過しすぎて、「重い、苦しい」がドラゴンボールの亀の甲羅みたいになってるんでしょうねー。

 あと、次の劇場版はどの話になるかの予想ですが、ズバリ無限城での猗窩座との戦いでしょう。無限列車編「だけ」を見た多くの観客を再び劇場に呼び戻すことができる種明かし編であると同時に、テレビ版1話「だけ」を見た人でも、例の共闘は劇中の長い時間を感じさせて心をゆさぶられると思うんです。え、最終巻はどっちになりますかって? テレビ放映でしょうね。転生後の話は映画のおしりにつけると長い蛇足になっちゃうし、何より無惨様がブザマでカッコ悪くて、劇場の大画面で見ると、きっとみんなイライラしちゃうから……(目をそらす)。

ゲーム「月風魔伝アンダイイング・ムーン」感想

 月風魔伝アンダイイング・ムーン、ファミコン版から35年の歳月を経て、まさかの新作リリース! タイムラインに何の情報も流れてこないし、ググッてもまともな攻略サイトすら出てこない惨状に、かつてのファンがテキストによる援護射撃を行うものであるッ!

 当時、ゲーセンで源平討魔伝の圧倒的なオリジナリティを体験した子どもたちが、なんとか家でそれをプレイしようと四苦八苦した結果、代用品として手に取ることになったのが、この月風魔伝である。Huカード版は秀逸な移植だったが、PCエンジンを所有している家庭は少なかったし、ファミコン版は付属のボードゲームを使うパチモンだったからだ。当時の常として、多くの子どもたちが「源平討魔伝のバッタモン」にガッカリさせられる未来が待ちかまえているはずだったのに、企画の段階ではコピーキャットにすぎなかったゲームが、大化けに化けたのである! 見かけは純和風ながら舞台は西暦一万四千年、敵の魑魅魍魎は地球外生命体など、おそらくナムコに訴えられないためのネジの外れたSF設定を背景に、2D見下ろしマップからの横スクロールに始まり、広大な3Dダンジョンまで登場したあげく、果ては主人公がフロムソフトウェアも真っ青の3WAYビームまでブッぱなす、期待値ゼロからの超大作に仕上がってしまったのだ! 「はどうけん」と聞けば、スト2ではなく即座に月風魔伝が思い浮かぶほどの重篤なファンであり、プレイするゲームが年間で1、2回ほどしか更新されない少年時代、いったいこのゲームを何周したかわからない。新作であるアンダイイング・ムーンの周回を前提としたゲームシステムは、この「1980年代のぼくらのリアル」から着想を得たものにちがいない(たぶん、ちがう)。

 オリジナルは音楽がどれも印象的で、特にラスボス龍骨鬼のBGMは今でも脳内でフルコーラスを再生できるし、そのたびに感動で肌が泡立つほどだ。流麗なテキストでそれを再現するならば、「(突然立ち上がり、白痴の表情で)デデデデデデデデデデデデ、デッデデデデッデデデ、デデデデデデデデデデデデ、デッデデデデッデデデ、デ、デ、デ、デ、デデデデデデデデ、ラリラリラリラリラリラリラリラリラリララララ、ラリラリラリラリラリラリラリラリラリララララ、ラリラリラリラリラリラリラリラリラリララララ」となる。未プレイ者にもすばらしさの一端がたしかに伝わったことと思うが、和太鼓からエレキの速弾きのような曲調に切りかわるときの高揚感は、35年前にはじめて聞いた瞬間から少しも薄れることがない。

 さて、新作のほうはどうかと言えば、ローグヴァニアをうたっているわりに移動スキルを習得せずマップの広がりが絶無だったり、死ぬとすべてがご破算になるシステムなのにキャラの強化要素が異様にしぶかったり、プレイヤーの反射神経が9割みたいな作りになってて、酔っぱらいのアクション下手にはかなり厳しいゲームに仕上がっていると言えましょう。今後のバージョンアップへ期待したいところですが、広報の姿勢にゼノブレイドクロスのような「売り逃げ感」がただよっているのと、メタルギアをゾンビゲーにするくらい自社IPの価値に無関心な会社が、初動でコケたゲームのテコ入れを赤字覚悟でしてくれるような気はしません。でも、最初のボスが龍骨鬼で、例の音楽がアレンジバージョンで流れたときにはテンションがぶち上がりました! たぶん、クリアしない(できない)と思いますが、ファミコン版の月風魔伝がオマケでついてくるので、個人的には120点です!(2作で200点満点なので、援護射撃になっていない)

 月風魔伝アンダイイング・ムーン、シラフで周回すればするほど惜しいというか、残念なゲームであることがわかってきました。どのくらい残念かといえば、「ゾッとするような美貌の金髪碧眼白皙少女が、じつは日本生まれ日本育ちの純日本語話者で、しかも語彙が少ないために話す内容はすべてひらがなで聞こえる」ぐらい残念な感じです。「黙ってれば美人なんだけどなー、おまえ」って男友達に言われるような残念さで、かつてのファンとしては本当に残念です。

 ローグライクというか風来のシレン系のゲームって、同じ素材を使いまわしながら周回のたびに新しい展開になるのが魅力じゃないですか。本作はといえば、武器とキャラを強化するのに、中年のアクション下手へ対してアホみたいな回数の周回を求めるくせに、毎回のゲーム展開がほぼ変わらないんです。マップもランダム生成と見せかけて数パターンしか存在せず、「少ない素材でいかに長時間あそばせるか」がゲームデザインの主眼に置かれていて、グラフィックとアクションを作りこんだ段階で力尽きた感がひしひしと伝わってきます。まさに「35年前に月風魔伝の熱烈なファンだった人物」にしか訴求しないゲームになってて、そんな層は就職アイスエイジでほとんど絶滅して生き残っていないし、ローグヴァニアをやりたい新規層がわざわざ本作をファースト・チョイスにする未来がまったく予想できません。

 あと、本作の正式タイトルは「GetsuFumaDen: Undying Moon」なんですけど、「海外の熱烈なファンが二十年かけて一人で作ったインディーズ作品を、かつて月風魔伝のファンだった本社役員が見そめて、晴れて正式ナンバリングとして採用された」みたいな背景を想像して、また勝手に感動してたんです。調べていくとどうも日本国内の子会社での内製のようで、「忘れられたIPコンテンツがファンの愛によって現代によみがえる」という内容を制作秘話として優良誤認させるために英語のタイトルをつけたのではないかという疑惑が浮かび、どんどん残念な気持ちが加速していっています。ほんとおまえ、ルックスだけならアイドル級なのになー。

ゲーム「ヘブン・バーンズ・レッド」感想

ゲーム開始直後

 テトリスの長い棒みたくやたらタイムラインを下ってくる「ヘブバン」なるが気になり、ダウンロードしてさわりだけプレイ。フルプライスの大作エロゲーからエロを抜いたような内容で、これを集金のためにパッケージではなくスマホアプリでリリースしなければならないところに、ひどく時代を感じました。

 女性だけが集められた学園イコール軍隊(美少女動物園!)で、中身がオッサンの乳袋美少女たちがボケとツッコミだけで話を進めていく序盤はまさにいにしえのエロゲーのノリで、あまりのなつかしさに脳が時間感覚を失って、哲学的なめまいさえ覚えます。関西人で昭和のほうの私は「あほ」とか「くるくるぱー」に、いちいちゲラゲラ笑わされてしまうわけですが、常識人で令和のほうの私はあまりの価値観のアップデートされていなさに、いちまつの不安を感じてしまったこともまた事実です。かつての「ぬすめ!たいやきくん」と同じく、限られた人々の中で面白さが最大化される類のニッチな嗜好品だと思うので、SNSを利用した絨毯爆撃広報が裏目となって、最近の「くさやがくさい」みたいな批判をするインターネットに発見されないことを心から願っています。

 おそらく序盤の軽いノリと終盤のシリアスで落差を生じさせ、その位置エネルギーで情動をゆさぶる系の作劇だと思うので、買い切りノベルゲーのつもりで1日1DAYぐらいをゆっくり読み進めていく予定です。

第1章クリア後

 ヘブバン、第1章クリア。うーん、シリアスパートになると急にテキストが薄くなって、ギャグパートであれだけ魅力的だったキャラの個性が消滅しちゃうのはなんでかなー(特に諜報員と殺人鬼が完全に消える)。まるで鬱病の本体が立ち上がってくる感じとでも言いましょうか、8日目くらいまでの内容が「鬱で会社を休んでる先輩とひさしぶりに外で会ったけど、なんだかテンション高めで楽しかったな。もう大丈夫なのかも?」だったのではないかという怖さを覚えました。

 イベントシナリオもちょろっと読んでみましたけど、話の展開が唐突でキャラの言動に納得感がありません。今後の期間限定イベントも、「レイプファンタジーのレイプ部分にフォーカスした美少女たちの精神的外傷紹介」に終始するのではないかというイヤな予感がします。こっちは動物園の管理運営とその裏にある秘密を知りたいだけで、「このミツユビナマケモノの指が2本しかないのは、過去に悲しいできごとがあってね……」とか老飼育員が語るのを聞きたいわけではないなー。世界でキャラを語るのではなく、キャラで世界を語ってほしいなー。

 システム部分では「レベルマックスからの転生によるステータス引き上げ」とか、スマホゲーのエゲツない周回に対応してる気配はあるんですけど、肝心かなめのストーリー部分が年単位の運営に耐える作りになってないのではないかという不安が残ります。基本的に、課金はクリエイターへの投げ銭だと考えているのですが、第2章クリアまでは保留することといたします。

第2章クリア前

 え、ヘブバンはどうなりましたかって? テレビCMでけっこう大きめのネタバレっぽい映像を見て、「ああ、やっぱりそうなるのかー」と思いながら、その場面にいたるのがイヤで2章23日目で足踏みしたまま、ダンジョンにもぐったりオートでレベルをあげたり各キャラの交流シナリオを読んだりしてます。本作の日常パートを「寒い」と思う向きもあるようですが、たぶん書き手と世代が近いせいでしょうか、私は大好きなノリなんですよねー。ほんと油断してると、声をだして笑っちゃうくらい。進行をためらってる理由としては「虚構内の死の描き方」への不安が大きくて、けっこうクリエイターの倫理観とか誠実さーーあるいは、不誠実さーーがモロに出る側面があると思うんですよ。

 またエヴァの話しますけど、Qでアスカがシンジと再会する際に、「この世界はもう、人ひとりの生き死にへ関わっていられない」みたいなことを言うんですよね。これ、ブンダー外の状況を観客に提示する目的で置かれた説明のためのセリフで、アスカというキャラクターの持つテレビ版から一貫した人格が壊された場面であり、また新劇の意志であった「無辜の市民が営む守るべき日常」へのまなざしを失って、エヴァが空疎な作りごとへと褪色した瞬間でもありました。

 ヘブバン、1章終盤や期間限定イベントの内容からシリアスの描写にまだ身をあずけきれない感じがあり、シンエヴァのようにキャラの尊厳がストーリーや感動に隷属するみたいな展開だったらどうしようと、好きになったものを嫌いになりたくない一心で、クリアを先延ばしにしておる次第です。でも、3章も公開されたみたいだし、そろそろ進めないとなー、どうしよっかなー。ヘブバン、嫌いになりたくないなー。

第2章クリア後

 ヘブバン、第2章クリア。予想通りの結末となりましたが、その描き方にはありていに言って心をゆさぶられました。交流イベントを数こなしていたので、あだ名の伏線はちょっと強引だなとか、猫語尾の人物に対しては、気持ちよりもキャラ優先なんだとか、細かい部分は気になりながら、総体としては戦士の死を通じて世界観の深い部分までをほのめかしていて、とてもよかったです。せめてパッケージ分だけは、課金させていただくことにしました。

 なるほどなー、キャンサーにとってのガン細胞が人間で、彼らの行為は殺戮ではなく治療なんだなー。そして治療された人間は記憶と感情を失って、トラウマや苦しみから解放された彼岸の生命体に置換されると。みんな大好きガイア理論とか、エフエフのライフストリームがネタの下じきなのかしらん。最終話では主人公がマクロスよろしく歌を通じて、トラウマと苦しみまでを含めた記憶と感情こそが人間そのものであることをキャンサーへ伝えて異知性間コミュニケーションを成立させ、人類の「在り方」を救済する展開になるんだろうなー。やっべ、また勝手な妄想で感動して涙が出てきた。

 話を戻すと、ヘブバンは演出を含めてテレビ版・旧劇・序破までの正しいエヴァンゲリオン・フォロワー作品であるとも感じます。このクリエイターは「旧エヴァに影響を受けて創作活動を始めたが、公でシンエヴァには一言も触れていない商業作家」の一人であるような気がしますので、今後の本作が新劇当初の志を正しく翻案したSF的アンサーを提示する快作へと化けてくれることを強く期待しております。私事ながら2章最終盤の流れに、この2年間というもの一度も葬儀に参列できていない事実を突きつけられて、愕然としました。もはや実在する人間よりも、ゲーム内のキャラクターの方が敬意をもって扱われる時代になってしまったのですね。

 あと、けっこうな時間をレベル上げに使ってきたはずなのに、レア度の低いキャラがボス戦でまったく役に立たないのには、まいりました。1ユニットが破壊されるとゲームオーバーになるシステムで、最高レアを6体ならべることを前提としてバランス調整が成されているようです。どうやら、エゲツない集金の要素が見えてきましたねー。

第3章クリア後

 ヘブバン、第3章をようやくクリア。「無課金勢がコンティニューやオートバトルでクリアできない戦闘があるスマホゲーはプレイ禁止」を家訓とする名家の女児なので、21日目の終盤で放置せざるをえなかったのです。このラストバトル、「敵がターン毎にする行動を綿密に記録し、1つのミスもせず最適行動を選択し続け、残った運要素について天に祈る」中身になってて、なんとか倒したと思ったら強化版の第二形態が現れたので、「はい、クソー」と叫んでスマホを放り投げて、そのまま数ヶ月が経過していたのでした。このたび第4章の追加に伴う難易度緩和で、ついにオートバトルでのこれの突破へ成功し、ようやく家訓の縛りをまぬがれてプレイを再開できたというわけです。以前に「年単位の運営へ耐える作りになっているか不安」と書いたことが的中しつつあり、難易度の上げ方はリリースからわずか半年にもかかわらず、すでに5年くらい経過したアプリゲーみたくなっているので、そろそろ全何章の予定かは教えてほしいものです。

 んで、第3章の最後まで読みましたけど、シリアスパートは我々が冷笑的に「エロゲーのリアリティライン」と他作品をディスるとき想定する内容そのもので、シナボン(BCSの影響)の上へ生クリームを山盛りにしぼってから大量の黒砂糖をまぶすような怒濤の胸やけ泣かせ展開に、目を白黒させられました。第2章の最後にも感じましたが、隊員の死に伴う彼岸の描写にコニー・ウィリスの「航路」っぽさがあるのは、書き手の闘病体験を反映しているせいでしょうか。それにしてもあれですね、13歳から18歳までの少女が、30歳から80歳までの男性がようやく手に入れる熟練を、過程をスッとばして付与されてる(リコリス・リコイル!)の、最高に美少女動物園って感じですね!

 油断すると茶化してるみたいになりますけど、ヘブバンの日常ギャグパートが本当に大好きで、特にサイキッカーがハイヤーセルフにつながろうするのををゲテモノ・グルメで邪魔する話なんて、断続的に「ヒーッ!」って引き笑いしながら、床をこぶしでドンドン叩くみたいにして面白がったくらいです。虚構の鉱脈がすべて掘りつくされたかに見えるこの令和の御世で、「声優による美少女スタンダップ・コメディ」ってメチャクチャ新しいし、オタク市場の需要あると思うんですよ! え、すでにバーチャル美少女ユーチューバーがそれに近いものを提供してますよ、だって? ちがうちがう、そういうシロウトの若さとナマっぽさがウリみたいのじゃなくて、プロのテキスト書きによる台本で、プロのベテラン声優がかけあい漫才するのを見たいの! 「パパ活の隆盛でキャバクラが衰退してる」みたいな話もタイムラインに流れてくるし、本当にだれもプロの技術にカネをはらわなくなりましたね……。カネっていうのは本来、言うことを聞かせる腕力の誇示じゃなくて、相手の経験に対する敬意の表明なんですよ……。

第4章1日目クリア後

 ヘブバン第4章1日目を読了。えぇ……(ドン引き)。これまで積み上げた世界とキャラをグッチャグチャに壊して修復不能にしちゃったけど、不老フィギュア美少女のマインド・スプラッタって、この書き手の性癖か何かなの? 「おいしそうな懐石弁当!」と思ってハシをつけようとしたら、「ちょっと待って!」と料理人に手首をつかまれて、いぶかしむいとまもあらばこそ、オカズの仕切りを外してフタをしたかと思うと、目の前で猛烈にシェイクし始めたのを唖然として眺めている感じ。おまけにフタを開けてから真ッ赤なソースをドボドボかけられて、「よくかきまぜて食べてね!」とハシを取り上げられてスプーンを渡される始末で、しかも料理人は寸分の悪意もない満面の笑みなんですよ! ネットミームとしての「ぬすめ!たいやき君」と「クラナんとかは人生」は知ってるけど、まともに読むのは本作が初めてなので、もしかすると古い馴染みの客たちが「うーん、この味この味! 大将、変わらないねえ!」とか内輪ボメするのに囲まれた観光客みたいな存在になってしまっているのでしょうか。すいません、どうも私はこの店の客じゃなかったみたいで……失礼しました(暖簾をくぐって、FGO方面へと去る)。

第4章2日目クリア前

 ヘブバン、第4章2日目を読もうとアプリを立ち上げては落とすのを繰り返してる。また愚痴りますけど、繊細なタッチで水彩画がキャンバスに描かれてゆくのを眺めていたら、おもむろに画家がドぎついピンクのペンキ缶にブ厚いハケをつっこんだかと思うと、後ろからはがいじめにするいとまもあらばこそ、その上からキャンバスをショッキングピンクに一色に塗りあげて、「バーカ、最初から抽象画じゃーい!」と叫んだみたいなもんですよ、これ。「女の股から産まれていない者」たち(ネタバレ)に家族や友情へまつわる泣きゲー的トークをさせてたって、これあれですか、最近タイムラインへ頻繁に流れてくる「気のくるったシングル40代」による「エス・エヌ・エスを用いた人生の偽装」をフィクション上で再現しようとしたってことでしょうか。まあ、「語りたい筋書きにキャラを強引に沿わせる書き手だなー」とは薄々ながら感じていましたけど、この展開を「衝撃の真実」として、読み手が肯定的に受け止めてくれると考えたのだとしたら、やはり正気から遠いとしか言いようがありません。

夏イベント感想

 ヘブバン、ギャグパートがあまりに好きすぎるので、第4章2日目で足踏みしながら、ぐじぐじと未練たらしくログインボーナスだけは受け取っている。そうしたら先日、夏イベントが配信されたので、なんとなく読みはじめましたけれど、FGOと比べるとかなり見劣りがしますねえ。まず、イベントのタイトルがセンスゼロのダサさーー「夏だ!Aだ!Bだ!」の昭和構文ーーで、ロゴのデザインはアマチュアレベル、発出時にエフェクトもジングルもなく、開発の人材およびリソース不足を強く感じさせるものでした。超高校級のエースピッチャーとその恋女房だけで無理やり抑えにかかっていて、前々から指摘しているように、この体制では長くもちそうにありません。水着キャラは3体しか実装されず、シナリオもフルボイスで1時間もあれば読了できるひかえめなボリュームなのですが、トロピカルギャグだけで終わるのかと思いきや、予期しない方向へどんどん話が曲がっていったのには、正直まいりました。

 このライターのインタビューを読みましたが、成功率のきわめて低い大きな手術を経験していて、「ここで生き残ったのは、貴方に何か使命が残されているからだ」と医者に言われたという内容でした。そのせいなのでしょうか、作品全体のシリアスな部分がリンボ的な死生観に彩られてしまっているのです。言葉にすれば、「親も子もない、過去も未来もない。でもいま、ここに私と貴方がいて、音楽がある」といった感じで、登場人物ひとりの人生観にとどまるなら、まったく結構なことなのですが、作品の持つ世界観の基調にこの通底音が大文字のイエスという言葉とともに流れ続けているのです。

 話はそれますが、三体第2部を少しずつ読み進めており、いまちょうど作者のアバターである大学教授が、自分の脳内にいる理想の少女を現実で探しだして、史アニキに別荘へと連行させたあたりです。栗本薫が読んだら「キミは一人娘を拉致された両親(以下略)」と大激怒ーーいや、ノースコリアのそれに「劇的な人生でうらやましい」とのたまい、大炎上した女史なので、スルーしたかもーーしそうな、男性作家ならではの最高にキモチワルイ展開で、「ホウ、いまはなつかしいセカイ系ですか」などと渋川翁の顔で油断していたら突如、「親不孝の最大は、子をつくらないことだ」という孟子の言葉がズバッと引用され、不意打ちでガツンと後頭部を殴られました。ヘブバンに代表される「ロスジェネ末代の自分語り」である本邦のフィクションとは大きく異なった、複数の価値観が激突しながら並走ーーそして、いずれも脱線しないーーする大陸の強靭さを、まざまざと見せつけられた気分で、少し落ちこんだ次第です。まあ、孟子と同レベルの偉人としてヤン・ウェンリーの台詞が引用されるのに、またすぐのけぞるハメになるのですが……。

映画イベント感想

 ヘブバンの新しいイベント読了。オートで放っておけばアニメのように順に再生されていき、1時間ほどで終わるのは、可処分時間をあらゆるエンタメがコンマ秒単位で争う現代社会において、すばらしい仕様ですね。ソウルハッカーズ2の魂の迷宮?がダダッぴろすぎる上に、「棒を振る」「NPCに話す」以外の行動が存在せず、「ゲームをしてるのにヒマ」な状態が続くため、このイベントには大いに助けられたことを付記しておきます。

 やっぱり、サイキッカーの関西弁ツッコミ、大好きだなあ。ツッコミの本質って、「何かヘンに感じるところがあれば、どうしても口に出して言いたくなる」性向のことだと思うんですよ。京都の方々が口の端を歪めて冷笑し、東京の方々が知っていながら黙りこむ状況で、「言語化して、場を救う」優しさの積極的な表出がツッコミなのです。私がいまの時代には流行らない、批判的な視点たっぷりの虚構時評をやめられないでいるのも、自分が関西人だからなんだなあと、あらためて実感させられました。

 でもね、毎回ラストは泣かせ展開にするの、もういいんじゃないでしょうか。ギャグパートが本当に生き生きと自然に描かれているのに、シリアスパートはすごく窮屈で感情も不自然に感じるのです。それに本編のせいで、「老化も成長もないアメーバ状の生き物に、家族や人生を語られてもな……」とどうしても思ってしまう。「失われる今」を失った物語のシリアスに価値を感じることは、もはや私にはできません(第4章は2日目で止まったままです)。時限イベントだからこそ可能な、「全編オールギャグ」に取り組んでいただくことを、切に願っております。

先輩イベント感想

 雑文「ヘブバンとキートン、そして銀英伝(近況報告2022.10.2)」

剣士イベント感想

 雑文「HEVBUNとFGO、そしてKANCOLLE+α(近況報告2022.12.3)

Angel Beats!コラボ感想

 ゲーム「ヘブバン・Angel Beats!コラボ」感想

雑文「おススメ麻雀漫画について」

質問:麻雀漫画で何かおすすめはありますか?

回答:インターネットで目にした中でもっとも残酷な言葉のひとつに、「タモリの地質学の知識は、ある年代からの学説が反映されていない。彼がそこで学ぶのを止めたからだ」というものがあります。他人の知識を地層に見たてた皮肉、受け取る相手のことをいっさい斟酌しないこの痛烈な批評は、「なんてひどいことを言うんだろう!」と私をいきどおらせると同時に、まるで自分ごとのようにふかぶかと胸に突き刺さりました。学生時代にマスターキートンを読んだため、「どんな状況でも学ぶのを止めない姿勢」というのが至上の美徳として刷り込まれているからで、それは文系アカデミアへの羨望の源泉でもあります。「空襲で瓦礫と化したばかりの街角で、民衆を鼓舞して講義を始める教授」は、あまりにも鮮烈な学びの象徴だと言えるでしょう。「は? まずは避難と衣食住の心配だろ?」というモニター外からの冷笑をふきとばす、個の熱量による知恵と勇気の伝播で、「もし、その場にいられたらなあ!」と私が思うフィクションの場面のひとつです。

 なので、面白い麻雀漫画を紹介したいのはやまやまですが、「小鳥猊下のレビューには、ある年代からの作品が反映されていない。彼がそこで漫画を読むのを止めたからだ」とか書かれるのを目にしたらと想像すると……うるせえ! じゃあ、オマエがオレの代わりに家族を養って、組織をマネジメントしてみやがれ! ウラナリの青瓢箪のネット弁慶めが、ブチころがすぞ!

 最初のおススメは、押川雲太朗「根こそぎフランケン」です。運の細い裏プロと運の太い素人による麻雀ロードムービーで、巻が進むにつれて単話完結からストーリーものへと変化していきます。最終話にかけての「竹ちゃんはいつも正しいです。麻雀のことでも、世の中のことでも……バカな人間の気持ちなど竹ちゃんにはわからんです」というセリフ、そして大切な人を失ったにも関わらず、「おれはバカだから、この気持ちもきっとすぐに忘れてしまうです」という独白は、いつ読み返しても涙がこぼれます。私の人生を通じた実感と、かなり近いところを言い当てているからでしょう。「身を売る女性は、かなりの確率で知能に」みたいな言説がタイムラインへ流れるのを視界の端に入れただけで、怒りに脳が沸騰して視界が狭くなります。自分と関わりのない不幸を安全な場所から論評するのは、さぞや楽しい遊戯でしょう。「根こそぎフランケン」に描かれているのは、そういった論評される側、搾取される側、壁に砕ける卵の側、つまりここには登場しない人々の物語なのです。最近、私が思いをはせるのは「インターネットにいない人々」のことばかりです。

 次のおススメは、片山まさゆき「理想雀士ドトッパー」です。全2巻という短さで、どうやら打ち切りらしいのですが、それを思わせない絶妙な起承転結のバランスで完結しています。最終話のナレーション「それは賞金もなにもない、ただの麻雀雑誌のエキシビション対局だった」という一行が、何年もずっと心の深い部分に残っています。個人の私生活までもが回線に乗り、世界のいかなる一隅さえネットに公開されている現在、いや、ネットに公開されていないものは、もはや世界には存在しないのと同義だと言えるでしょう。もっとも貴重なものはネットに対していつも秘匿されていると私は信じているし、この瞬間にも名も無きだれかがすんでのところで世界を破滅から救い続けていて、それはここではない場所においてであると感じます。スパイダーマンNWHがすばらしかったのは、米ドル札をバラまきまくるアホみたいなお祭り騒ぎの後に、ヒーローを1セント硬貨が机上に置かれた匿名の場所へキチンと戻したことだと思っています。「だれにも知られない場所に咲く、世界でいちばん美しい花」というのが、私にとってずっと大切なモチーフなのかもしれません。

 「それは賞賛もなにもない、ただのインターネットに記述されたテキストだった」。

雑文「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい」

 半世紀に5年前後足りない人々のお気持ち表明がここ数日、テトリスみたいに次々とタイムラインを下ってくるので、イヤイヤ目を通す。まず最初に感じたことを言葉にすれば、「オイオイ、パンピーは置くとして、オマエらは『医師』やら『京大』やら、現世のプレフィックスがついたネームドじゃねえか。こちとら20年ずっと、小部屋のアンアイデンティファイドなんだが? 近ごろのネットではプレフィックスのないテキストは読まれないんだが?」ってところでしょうか。「存在が知られて、テキストに金銭が発生する」のが小鳥猊下の目指す最終ゴールなので、それを達成した方々がショボくれた弱音みたいなのを吐いてるの、正直いらんなーって感じです。しかしながら、12歳の少女である我が実存に響くところがなかったわけでもないので、この件について少し感想を残したいと思います。

 「人生は重荷を背負いて遠き道を行くが如し」を家訓とする小生(おっと、身バレはカンベンな!)が20年以上を律して、同じ生活と節制を繰り返してきたのは、ひとえに核家族時代の家長が抱く恐怖であるところの「オレが倒れたら、一家全滅」に支配され続けてきたからに他なりません。これはつまり、田舎の大家族の次男坊以下が与えられた「家を出て、都会で独立」という人生観、言わば「子消し・口べらしの呪い」を先代から受け継いでしまっているからに他ならず、やはり地元実家住みの、「ママとは友だち」マルチプル・インカム高卒若年多産ヤンキーこそが時代に対する最適解であったなと、己の無用の苦しみをふりかえって今ごろ痛感しておる次第です。近年では「オレが倒れても、まあ大丈夫」という心境へと次第に変化しつつあり、日常生活にせよ、仕事での決断にせよ、かなり楽にできるようになってきた実感があります。「失敗・イコール・死」のくびきからマインドが解放されて、肩の力が抜けてきたからかもしれません。

 「エンダーのゲーム」の続編である「死者の代弁者」の最後で主人公が語る、「今なら、ぼくはおそらく死んでもいい。ぼくの生涯の仕事はすべてやり終えている」という告白へ、隣接した状態になってきているのでしょう。「年をとるごとに、なんだか楽になってくなー、いいのかなー」というのが最近の感じなので、ネームドたちが吐露する苦悩も、文学として読めば「かっけえ!」なのかもしれませんが、生活として読めば「んー?」と首をかしげざるをえないわけです。少女のような「ふわふわタイム」を過ごしてきた末代か資産家か高等遊民が、「己のアイデンティティに比べれば、取るに足らぬもの」と放置してきた人生の宿題に追いつかれはじめているだけじゃないの、とか意地悪く思っちゃう(最後まで高楊枝で「取るに足らぬもの」とうそぶいてくださいよ、もう!)。その「宿題をやっていない8月31日の子ども」に対して、7月中に宿題を終えることができそうな私は、本当に「おそらく死んでもいい」瞬間が訪れたときの解放感を心待ちにしながら、これからも日々を振り子のようにコチコチ生きてゆきます。

 まあ、この語りさえバリバリの生存者バイアスであると同時に「虚構日記」の一環なので、真に受けんほうがええよ。

アニメ「地球外少年少女」感想

 ネトフリで地球外少年少女を見る。感染症の季節に、持っててよかったシアタールーム! 1話ずつ日を分けて再生していくつもりだったのが、あまりの面白さに止めどきを失って、食事も忘れて最終話までひといきに見てしまいました。このクオリティの作品が全話セットでポンと配信されるとは、まったく恐ろしい時代になったものです。確かに毎週をリアルタイムで追いかけながら、ああでもないこうでもないと与太話をする楽しみは無いんですけど、どっかのライブ感の監督みたいにストーリーがおかしな方向へと曲がっていく心配がなく、セリフや演出による伏線やドラマを安心して楽しむことができます。

 本作を見てつくづく思ったのは、かつて私が愛したエヴァンゲリオンの設定・演出・脚本・セリフ回し・構図・アニメーション、そしてセンス・オブ・ワンダーはすべて、この監督の手によるものだったんだなあということです。死んだはずの我が子がよみがえったのを見る気持ちになって、視聴中ずっと正体のわからない涙を流し続けていました。この類まれな才能による成果物たちを、十数年にわたって繰り返しカーボンコピーした成れの果てがシンエヴァなる私情まみれの残骸であり、本作の監督へ平に頭を下げて権利を預け、「ヱヴァンゲリヲン新劇場版:急+?」を作っていただく以外に毀損されたブランドを回復する術は無いと断言いたします。

 基本的にネタバレ上等な当アカウントですが、作品への敬意から今回は配慮しつつも、少しだけ。科学とネットから切り離された子どもが古い人間のふるまいへと回帰し、科学とネットが復旧するとたちまち元通りになる描き方には、思わずうなりました。私が日常に人間を止める時間を持てるのも、科学によって生命の危機から守られ、ネットが外界との緩衝材になってくれるからこそです。ただ、物語の終わらせ方は……まあ、このテーマのSFで新味を出すのって、難しいよね。でも、ブルーレイが出たら必ず3セット買います! ……え、劇場で見ないと売ってくれないの? なんでまた閃光のハサウェイ方式なんだよォォ! 千円札を輪ゴムで止めたズクで売ってくれよォォ! ホームシアターで見た意味ないじゃんかよォォ!

 地球外少年少女、こっそり追記(若干ネタバレ)。物語の盛り上がりとしては、4話をピークに5話・6話と少し下がって終わる感じでした。もちろん、4話がエベレストなら5話・6話はK2であり、他作品を寄せつけぬ次元での比較の話です。4話で内通者がだれかを詮索する場面で、ハーバード君を意味深に画面の中央において視聴者をミスリードしてからの種明かしには、作り手がちゃんと我々の上位に座って感情を翻弄してくれる喜びがありました。最近は、どうにも作り手がこちらに対して劣位に入って、「ボクを理解して!」と哀願する作品が多いですからね! シンのエヴァとかね!

 5話・6話では、少年少女を主人公としたジュブナイルものにとって逃れえぬくびきである「少年の想いが聖なる少女を運命から解き放つ」「自由意志による無限の可能性を肯定する」「人生のすばらしさと人間讃歌を高らかに歌いあげる」という言わば不変の結論を、いかに先行作品群から離れてハンコ的でないように描くか、苦労のあとがしのばれました。6話の後半は「幼年期の終わり」のクライマックスをビジュアル化したような内容で、ここからイデオンのように2人が肉体を捨てて高次元(11次元!)へシフトする展開もあったのかもしれませんが、いまの時代を生きる子どもたちへ向けるメッセージとしては、あまりに不誠実だと考えたのでしょう。

 肉体って若いうちのほうが、性欲は別として、無いもののように生きられますからね。くたびれて、ほつれて、やぶけて、常に湿気をふくんだ乾くことのない鈍重な布の如く、肉体が魂にへばりつくようになってからが、人生の本番だと言えるでしょう。無尽蔵の生命を燃焼させる子どものようではなく、残り少ない燃料をときに盛大に燃やしてみせる痩せ我慢こそ、大人の本懐なのです。「肉体を捨てる」ことを進化や救済として描くのは、「目玉を取り出して洗いたい」やら「内臓を裏返して日干ししたい」やらのたまう、くたびれたオッサン・オバハンに対する慰問みたいなもんです(ひどい)。

 ともあれ、本作のすべてはいまを生きる子どもたちへと向けられた内容であり、膨大な過去の記憶と比較してグチグチ難癖つける大人の解釈(オマエが言うな!)は似つかわしくありません。これを見た子どもたちが言葉にできない贈り物を受け取って、十年後、二十年後に「そういえば昔、宇宙に行くアニメあったよな……」と、もしかすると地球外(!)で思い出して、プレゼントの包装を解くように語られるのにこそ、ふさわしい作品だと言えるでしょう。それではみなさん、答えあわせの未来まで、どうかご壮健で!

アニメ「キャロル&チューズデイ(12話まで)」感想

 ネトフリでキャロル&チューズデイ見る。カウボーイビバップの監督の、スペースダンディ後の作品なのに、ネットでの評判がまったく無音の状態なので、ずっと気になっていたのです。ツイッターや2ちゃんねるやグーグルで検索してみても、五つの試練のユーザーシナリオぐらい情報が出てきません。

 12話までの印象は、「悪くはないが、良いわけでもない」といった感じでしょうか。カウボーイビバップが「王道にスパイスとしてのケレン味」で、スペースダンディが「邪道にたっぷりのケレン味」なら、本作は「正道にケレン味ゼロ」と表現できるかもしれません。小ぶりの砂糖菓子みたいにスーッと口の中でほどけて何も残らないので、味の印象を聞かれても「甘かった……と思う」ぐらいしか答えられないのです。「カウボーイビバップの余録でネットフリックスの企画が通ったので、カウボーイビバップの大ファンである海外の有名アーティストに英語の歌を作らせて……」みたいな内幕をありありと感じてしまったのは、私の底意地が悪いせいでしょうか。「好事家たちがひっそり楽しんでいたのを、海外に発見されてバズる」という浮世絵方式と真逆の作り方ーー西洋の皆様の文化と嗜好に合わせた心づくしのオーダーメイドーーになっているのが、本邦で言及されない理由かもしれませんね。この「ジャパニメーションのグローバライゼーション」に対する海外の反応が知りたいところです。

 オーディション番組編に突入してからは、毎回ノーカットでまるまる一曲を聞かされるんですけど、トーン・デフの身にとっては挿入される観客や審査員の様子で良し悪しを判断するしかなく、ちょうど色の無い世界に生きる人が言葉で色の説明をしてもらっている気分になりました。「銀河のアイドルが敵の攻撃を無力化しているから、すごい歌にちがいない!」ぐらい(なにロスやねん)のケレン味とドぎついアニメ声なしでは、歌唱デュエルの結果をもったいつけて聞かされても、「それって個人の好みの問題では?」としか思えず、主人公たちの快進撃にいまいちノレませんでした。監督がインタビューで「2人の気持ちがすれちがっているときの歌だから、わざとハーモニーの合っていない録音を採用した」とか語っているのを読んでも、可憐な少女である私の中にいるスキンヘッドでタンクトップの大男は「オデの耳、柔道のやりすぎでギョーザになってて、よくわかんねえッス」と困惑の表情で立ち尽くすばかりです。

 あと、「不遇や苦悩や葛藤が、才能を通じて高みへと昇華する」話が大好きなので、主人公たちの不幸の描き方がちょっと薄味すぎるなーと感じました。政治家の娘としての悩みは母の叱責を含めて他作品のコピペみたいでしたし、捨て子の孤児という設定も「なぜか両親とも他惑星に赴任中」ぐらいの軽い扱いにしかなっていません(なにが「私はここにいる」や! 捨てられとんねんで、ジブン!)。令和の御代なので、グッド・ウィル・ハンティングとまでは言いませんが、「オヤジはアタシを殴るとき、きまって机の上にアコギ、エレキ、ベースをならべて聞くの、『どれがいい?』って」「君はどれを?」「アコギよ。木片の飛び散り方がドリフっぽくて、アタシがクズ野郎であることがわかるから」ぐらいの背景がないと、キミの歌声には深みを感じられないなー(無茶ぶり)。

 ともあれ、「良くはないが、悪いわけでもない」ので、1話冒頭での大風呂敷であるところの「奇跡の7分間」に期待しながら、後半パートも視聴したいと思います。