FGO第2部6章つながりで気になっていた「3月のライオン」を読む。予想以上に面白くて、既刊16巻までイッキ読みする。オベロンのキャラ造形が何の影響下なのか明らかになったことを喜びながら、完結の報を聞いてから手に取ればよかったと、いまは少し後悔しております。いろいろ先の展開を予想して、自分の妄想で勝手に深く感動して、それが外れるとたちまち評価が辛くなるという己の性質を熟知しているからです。この作者の持ち味は、ベシャベシャに湿気を含んだ状態から一瞬でカラカラに干上がらせる語り口の落差だと思うんですけど、ちょっとすべてのキャラを愛しすぎるきらいがあるようで、各棋士の生き様を掘り下げるサブシナリオはどれも120点なのに、巻が進むにつれて主人公のメインストーリーが弱くなっていくように感じました(あらためて、カウボーイビバップのバランスの良さを思い返し、感心しておる次第です)。
連載開始当初のプランでは、容姿と髪色からもわかるように、主人公とネガポジの対比に置かれた宗谷名人と「『人間を捨てた者』と『人間を回復した者』とでは、いったいどちらが強いのか?」を争う展開が用意されていて、オベロンの内面を造形する上でのヒントにもなっていたと思うんです。それが名人の実家を掘り下げたことで、「将棋好きの小学生がそのまま大人になった」という描き方の土橋九段にキャラを寄せてきているので、主人公との最後の対局は「自由な子どもの発想から定跡や研究を離れて、将棋を指す純粋な喜びを互いに盤面で表現する」展開になるような気がしています。ホラ、あれですよ、ラオウとケンシロウが奥義を捨てて殴りあうのに、解説役の外野が「ああ、二人とも透き通って……!」とか言いながら、子ども時代の両者の影を見るってヤツですよ。個人的には、初期プロットの方でキッチリ勝ち負けつけて、どちらかに破滅してほしいですが、作者の愛が深すぎるゆえにそうはならないでしょうねえ(あらためて、鬼滅のキャラの突き放し方を思い返し、感心しておる次第です)。
競技モノにおけるハッピーな最終戦の極北としては、川原泉の「銀のロマンティック」がただちに思い浮かびますが、あれも強い作家性に基づいた感動なので、どうにも余人にはマネしにくいよなー。ただひとつ確実なのは、獅子王(ライオン!)戦の終わりをもって物語の幕が引かれると仮定するならば、その前後でハチクロみたいに作品タイトルをだれかの台詞で回収することだと予言しておきます。
「3月のライオン」追記。以前も書きましたけど、連載期間が長くなった作品って、FGOで言うところの固有結界よろしく、物語そのものに作者の心象風景が同化してくるところがあると感じます(あらためて、むこうぶち作者の作品との距離感を思い返し、感心しておる次第です)。「庇護者の下、無知で無垢なる者が無知で無垢なるまま、だれにも傷つけられず楽園に遊ぶ」ことが作者にとって究極の理想郷であり、ヒロインがどんどん幼児退行していく原因もここに根ざしていると思うのですが、本作の後半ではいよいよ男性キャラにまでこれが波及していっているのは気にかかります。苦しい場面を描くときはキャラの心に寄りそって、本当に同じ苦しみを苦しむ書き手で、その「ともに傷つき、もがくさま」をこそ読者は見たいと思っているのに、いまは物語の総体がヒロインの幸福に引っ張られて、魂が救われたあとの世界、すなわち死後の世界に片足をつっこんでしまっている。もうそうはならないことを半ば受け入れながら、やはり主人公と宗谷名人の最終決戦は、楽園から足を抜いた地獄の底で、いずれかの破滅を賭けて戦われてほしいのです。
同じことを感じている作品に「ヴィンランド・サガ」があって、半眼から真円のマナコとなって悟りきった主人公(プラネテスみてえ)が未開の部族とハートフルな外交ゴッコをする展開が、なんとも味気なくつまらない。作品テーマを真に完遂するには、「本当に大切なものを壊され、それでもなお殺さずにゆるす」ことが描かれるべきだと思うのです。「主人公はもう充分に奪われたし、苦しんだのだから、そろそろ安寧の場所を与えたい」というのは、書き手による神の視点でしょう。そして、「ゆるす」というのは行為ではなく状態であり、「目もくらむような極寒の激情が日常をさいなみ、その原因がいつも視界に存在する中で、油断すれば殺しにいく手を押さえつけながら、ずっとゆるし続ける」ことが外交、すなわち人間関係の本質なのです。これを抜きにしては、現代社会に対する有効な批評とはなりえません。
またもや先の展開を妄想して勝手に感動し、物語へ「現実に対して有効であること」を求める精神の陥穽を披露したところで、きょうはお開きとさせていただきます。