猫を起こさないように
年: <span>2021年</span>
年: 2021年

アニメ「エヴァQ IMAX版」感想その2

 アンケートについて、「エヴァQは傑作」をだれも選ばなかったのには、正直ホッとしました。さすが皆さま、お目が高い。シンエヴァ、傑作になる予感も少しだけあって、その場合はカントクの足元へジャンピング土下座して、彼の両足をかき抱いての大号泣から、これまでの非礼を謝罪しようと思ってます。でも、ダメな作品をディスってるときの自分の文章を読み返すのが大好き(表現がキレてて面白いから)なので、できるだけ純度の高い批判を将来のために残しておきたいんですよね。ここまで執着してディスれる作品は、スターウォーズが大轟沈して視界から消えた今、エヴァくらいしか残っていませんもの。予想が当たっても外れても、読み返すためのたいへん愉快な文章(君にとってだけ)だけは確実に手元に残るんですから!

 さて、エヴァQアイ・マックス版を見て改めて感じましたけど、セリフが新劇3作品の中で群を抜いてダサいんですよね。日常会話における単語の出現頻度に関して統計データがあるとしたら、大幅にその中央値を外した漢語が頻繁に出てくるの。特定のキャラだけならいいんですけど、登場人物全員が同じ語彙プールから選んでしゃべってるんですよ。大事なところで聞き手に違和感を持たせるために、一点集中で奇矯な言葉が出てくるぶんには、まあ許せるんですけど、終始そればっかりなので胸やけするほどくどいんです。前にも書きましたけど、化学調味料とラードたっぷりの濃厚豚骨ラーメンに、食べるそばから店主が「ねえ、おいしい? 味うすくない?」とか言いながら、おたまで背脂を注ぎ足してくる感じ。ああ、これは群像劇のためのシナリオではなくて、一人の人間が想いとか願い(エヴァ頻出ワード)だけで書いてるポエムなんだなってことが伝わってきてしまうのです。本質的にはディスコミュニケーションの人が、普遍的なメッセージーー御大に震災の現場をむりくり見せられて、御大からの無言の圧力と期待に応えようとしたーーを語ろうとして、必死に考えて人類とコミュニケーションを取ろうとするんだけど、矛盾した表現ですけど失語症的な過剰さとでも申しましょうか、投げかける言葉がことごとく空転して意思疎通に失敗するのを見せられてる感じです。セリフの中身にしても抽象的なスピリチュアルばかりで、もっと言えばひどく新興宗教じみてます(「縁が君を導くだろう」「ハア?」)。Qだけがすべてのエヴァンゲリオン(笑)の中で、ちがう意味でカルト的になってんですよ。書きながらだんだんムカついてきたけど、こういう取り組みは別作品でやれよ! ああ、エヴァQの大失敗がシン・ゴジラを傑作にしたのは重々承知ながら、この2作品の制作順序が逆だったらなあ! エヴァを壊したのは、ハヤオ氏のクリエイターとしての左翼的な老婆心だと思ってますよ、私は!

 あと、「beautiful world」ってエヴァが大好きないちキモオタとしてのUTD氏がその愛をダダ漏れにしていて、この上なく正しいシンジさんのキャラソンになってると思うんですけど、「桜流し」は東日本大震災への鎮魂歌ではあれ、エヴァ世界については何も語っていないっていうか、エヴァソングとして浮いちゃってるんですよね。カヲル君の死に寄せたキャラソンですらない。エヴァQ、重厚な劇伴もそうですけど、中身がペラッペラなのに、音楽だけはどれもすごくいいんです。逆にその素晴らしい楽曲というタガで、断片的なシナリオがバラけて空中分解しないよう無理やり一つに締め上げていると私には見えます。例えばドグマ最下層で突然、2号機が虚空から現れてシンジさんに襲いかかってくるシーンがありますけど、そこまでの経緯が描かれてないので、ほんとはムチャクチャなんですよ。でも「デッデデデデッ」と勇壮なドラムが同時に小気味よく流れてくると、なんとなくつながってるように見れちゃう。この強力な劇伴の力ーーアイ・マックスで更に催眠力が強まっており、代アニの卒業制作さえ名作にしかねないーーを持ってしても、ときどきスにもどらされて「なんでやねん!」「そうはならんやろ!」と絶叫してしまうのがエヴァQのアンチ魅力(エヴァ語)なんですけどね!

 んで、シンエヴァの「One Last Kiss」ですけど、私にはアスカのキャラソンみたいに聞こえるんですよねー。前に歌詞がダサいって言いましたけど、よくよく考えると「初めてのルーヴルは、なんてことはなかったわ」って独白は、この後のフレーズを含めて、いまだ感性のみで世界を理解している、若くて傲慢で魅力的で無教養な、告白できない恋のただなかにいる一人の少女を想起させませんか。人類が滅んだ後の、だれもいないルーヴル美術館で、モナリザを眺める少年の横顔を見つめる少女ーーそんなイメージです。我ながら恥ずかしいことを書いてますが、私という人間の本質は、現実ではスーツを着てようがマネジメントをしてようが、心の中では赤いチェックのシャツを洗いざらしのジーンズにインして、頭に青いバンダナを巻き、旧劇のポスターがささった黒いリュックを前かがみに背負っている、ずっとエヴァが大好きないちキモオタなのです。そう、半ば廃墟と化したルーヴルで、モナリザの前に立つシンジさんとアスカの後ろ姿を、崩れかけた柱の影からずっと眺めていたい、ただそれだけなのですーーって、オマエがそこにいるんかい!

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

アニメ「エヴァQ IMAX版」感想その1

 エヴァQのアイ・マックス版、行ってくる。制作者の想定する最高の状態でシンエヴァを迎えるためには、そして駄作だった場合に言い訳の余地をいっさい残さず、完膚なきまでにディスり上げるためには、これは必要な苦行なのです。たとえ0.003の違い(見た目をそろえるだけの、意味のないバージョン情報!)であったとしても、たとえ最後の予告編30秒が新作されてるのを見るためだけになったとしても、こじらせたファンとして1万円(2,500円のチケット代と90分を時給計算で7,500円)を捧げることになんのためらいもございません。

 ラわーん、エヴァQアイ・マックス版の感想をEvernoteで書いてたら、間違って上書き更新してぜんぶ消えたよう! 無料版だから履歴から復元もできないよう! もしかして、これがエバーの呪縛?(違います)

 よし、根性復元(記憶を頼りに一から打ち直し)したぜ! さすがエヴァ、怨嗟が深いあまり、ほぼ一字一句たがわずに復元できたぜ!

 んで、エヴァQアイ・マックス版、見てきた。片田舎の映画館で、鬼滅の刃と交互にアイ・マックスの箱を使ってて、少し前までの熱気が残っているようでしたが、私を含めて観客は数名しかおらず、感染リスクの心配だけはまったくない状態でした。結論から言えば、「旧版と全然ちがう!」みたいなタイコ持ち記事もあるようだけど、もし過去に劇場で見たことがあるならば、わざわざ行く必要はありません。巨神兵がオミットされて現れないのはすごくよかったし、冒頭8分だけは強い思い入れがあるので体験がリッチになった気がしたけど、それ以外の部分では旧版との違いをほとんど感じることができませんでした。エヴァQは劇場・ビデオ・テレビで軽く二桁回は見てるけど、ほのめかされていたシンエヴァに向けた台詞の変更なども、なんかトリプルセブンがスリーセブンになってた(パチ屋への配慮?)ぐらいで、まったくわかりませんでした(将棋はまだ「打って」ました)。もっとも、あの巨大IPであるエヴァを解釈違いで他ならぬ原作者がここまでブチ壊せることに、改めて感心はしましたけれど! 30秒の次回予告が新作(もちろん、8+2号機なんてどこにも出てこない)されてて、公式がスクリプト・バレしてるのでもう言っちゃいますけど、「父ゲンドウと対峙する碇シンジ」のナレーションのところーー「初号機パイロット、碇シンジです!」のシーンにクリソツーーで作画がエヴァ破のキャラデザで行われていたことには興奮しました。この5秒足らずだけでも、1万円をはらう価値はあったと思います。テレビ版のエヴァって放送はスタートしたのに制作が間に合ってなくて、19話をスタッフ全員の総力戦で作り上げたところで絵的には力尽きて、そこからはバンク・マシマシの精神世界に突入せざるを得なかったという話を聞いたことがありますけど、初号機の覚醒までは規定の線路を走ってたのに、そこから以降は語るべき物語が消滅してしまうという一種の呪いを、新劇でも引き受けちゃった感じがするんですよね。この作画の違いは、英語版のサブタイトル”thrice upon a time”ーー過去に三度(みたび)ーー通り、エヴァQ世界の終局から過去に巻き戻るか平行宇宙へ移動するかして、19話における初号機覚醒から三度目のストーリーの語り直しが行われることを示唆しているんじゃないでしょうか(早口)! 新の「”ヱ”ヴァンゲリ”ヲ”ン」が旧の「エヴァンゲリオン」へと合流・収束すると考えれば、「シン・エヴァンゲリオン」というタイトル表記も平仄が合いますね。テレビ版企画書(約束の地、アルカ!)の最終話「たったひとつの、冴えたやりかた」にあった「ラストは大団円」のイメージが、今度こそ具体的に描かれることを期待しています。

 あと以前(十年ぐらい前)、ツイッターだか2ちゃんねるだかで音大生を名乗る人物が「アニオタどもは曲の良し悪しの判断がつかず、映像と紐づけてしか聞けない。ヤツらは音楽の素養が無いから、純粋な楽曲の評価ができない」みたいなことを語ってて、私なんかは図星を突かれてショックを受けたのをいまだに覚えてるんだけど、エヴァQのエンドロールで流れる「桜流し」はこの指摘の逆になってるなあと思いました。楽曲は素晴らしいのにヘンな映像と紐づいてしまって、パブロフの犬状態で曲単体を平静な気持ちで聞くことは、もはやできないのです。「桜流し」、エヴァと関係ないところで単独で作られて、エヌ・エイチュ・ケーに取り上げられたりしてたら、それこそ「花は咲く」みたいな幅広い歌い継がれ方をしてたような気がするんですよね。カントクがUTD氏にエヴァQの脚本を渡して、「あなたもクリエイターなら、震災の悲劇に表現で応えるべきです」と言ったとか言わなかったとかいう話があるけど、さすがカントク(cunt-Q)、なんて傲慢なんでしょうか! あのね、エヴァQこそ「桜流し」という名曲になんとなく言及しにくくさせて、マイナー墓場へと葬り去った元凶アニメですよ! なので今度こそ「One Last Kiss」が、アニオタどもが楽曲の良し悪しもわからないまま、感動的なシーンの映像と紐づけて何度も聞くような曲になることを心から祈っています。

 え、「残酷な天使のテーゼ」はワンチャン流れますかね、だって? うーん、テレビ版から25年の歳月を経て、私の中で「残テ」はワンピースと同じカテゴリ(ワンチャンなんて言葉を好んで使う低偏差値ヤンキーの領域)に入ってるので、個人的には流れてほしくないかなあ。

追悼「シン・エヴァンゲリオン劇場版:呪」

雑文「老人と戦争」

 この年末年始に、泥酔の底で思い出した映像を書き留めておく。昔、町の老人たちは戦争経験者ばかりだった。エヴァのカントクも言ってたけど、人を殺したことがある老人がすぐそばで生活していた。まだ幼かった頃、手の甲を怪我したのをほうっておいたら膿んでしまい、元軍医というふれこみの町医者のところへ連れて行かれたことがあった。浅黒い痩せぎすの老人で、背骨が鉄でできているかのような身のこなしだった。おそるおそる差し出した患部を一瞥すると、私の手首をぐっとつかんだ。静脈の浮いた細い手なのに、万力ような力だった。メスを使って患部を周りの皮膚ごと正方形に薄く切って、ベロリと剥がし取る。もちろん、麻酔なんてない。消毒、軟膏、ガーゼ、包帯と淀みない一連の流れで処理していく。母の膝に抱かれた私は涙を流していたと思うが、痛みはほとんど感じなかった。治療を終えた医者はカルテになにごとかを書きこみ始め、背中で退室をうながした。部屋に入ってから、彼は一言も発さなかったように思う。その峻厳な様子は、いまでもかすかに記憶に残っている。あの老人は、もしかして最前線の野戦病院にいたのではないかと夢想する。次々と運ばれて来る兵士たちの負傷に、感情を廃した最速で最善の処置を繰り返し続ける。私が受けた治療には、個の命に敬意を向けると同時に無価値とみなす、そんな凄みがあった。昔、老人たちに抱く感情は尊敬ではなく、畏怖だった。あの軍医も、多くの人々の死と怨嗟を眺めながら、すべてを呑み込んで、一言も発さずに消えていった。世代の断絶が叫ばれて久しいが、我が身の百年を物差しとした年齢階層の最上部には、あの世代が凝と黙したまま座している。かつて、老人たちはいるだけで怖い存在だった。いまの老人たちも、私たちが迎える老年も、決してそんなふうにはなれないだろう。

映画「新喜劇王」感想

 チャウ・シンチー監督作品は本邦でビデオ化されたものは、必ず買って見ると決めている。悪くは無いけど、なんだろう、このモヤモヤとした気持ち。たとえば松田洋子ファンが「薫の秘話」や「リスペクター」を期待して追い続けてるのに、「ママゴト」や「父のなくしもの」が上梓されるのを見るときの感じ。バッドトリップみたいなギャグと言語センスによる唯一無二のグルーヴ感を持ってるのに、親子の葛藤みたいな、だいたいだれが書いても同じハンコ絵みたいになる寸劇に才能が使われることを惜しむ気持ちだ。同じように、本作も映画としては悪くないのかもしれないけれど、やはり昔からのファンは「少林サッカー」や「カンフーハッスル」や「西遊記」のような、チャウ・シンチーにしか撮れないものを見たいと思っているのだ。荒唐無稽から普遍の崇高へと至る落差が彼の持ち味で、いまこの文章を書きながら、「少林サッカー」でサイクロンみたいなシュートをヒロインが太極拳の動きで止めるシーンが思い返され、じっさいに鳥肌が立ち目頭が熱くなってきている。

 本作は旧作「喜劇王」の半ばリメイクになっているのだが、主人公を女性にしたのは明らかな改悪で、不燃ゴミみたいにジメジメした当アカウントで炎上をわざと引き起こすために言うと、「女芸人の芸は笑えない」という例の命題を引き起こしてしまっている。映画全体の9割ぐらいが下積み時代の話で、主人公の女性を殴る蹴るは当たり前、性格は元より顔の造作から果ては体型までを何度も何度もディスっていく。執拗な繰り返しで笑いを作っていくこと自体はチャウ・シンチーの持ち味だと思うし、西洋の映画文法や構成術をガン無視していく手法は大好きだけれど、今回ばかりは「もうええって」と渋面でつぶやかざるをえなかった。最後、主人公は女優として大成ーー「一年後」というテロップで済ます雑さだけどーーして、これまで彼女をイジメてきた人物たちへの間接的な復讐を果たす「スカッとチャイナ」みたいな展開になるんだけど、ラストシーンのファンとのやりとり含めて、本作が監督の自伝的作品だとするなら、いい話ふうに終わってるけど結局これ、バリバリの生存者バイアスじゃねえのって気分にさせられた。成功したからこそ浪費した時間や無駄な努力を肯定できるし、過去の貧乏や不幸も人生のスパイスとして懐かしく振り返れるんですよね。だれに何を言われても、自分を信じて続けていればいつか何者かになれるっていうメッセージをもはや額面通りには受け取れないし、後から来る人たちにそれを言う無責任さへの躊躇が勝る年齢になってしまいました。

 そうそう、この年末年始で「ゲンロン戦記」を読んだんですけど、この世には作り手になれない人のほうが多いので、豊かな文化を形成するためには観客の育成こそ肝要みたいなことが語られてて、文筆だけで食っていける人物がその事実を使ってだれかをなぐる(じっさい、多くがそうしている)ことを選ばないのには、正直なところ視座の高さが違うなと思わされました。荒廃した祠の忘れられた神になるくらいなら、たとえ小さくとも祭りを続けられるよう信徒を集めた方がはるかにいい。イーストちゃんをはじめて知ったのは、クイックジャパンだったかで旧エヴァ劇場版を見て興奮しまくっている記事だったなー。以後、エヴァに関する言説という点でのみ追いかけていたので、ときどき横目で生存を確認しては安心するような関わり方であり、熱心なフォロワーではありませんでした。他にも同書では、この半年ぐらいアカデミズムに対してモヤモヤしていたことが言語化されていて、読んでてスッとした。かいつまんで要約すると、後から来る未熟な者たちを導くためには、先を進む者たちの熱狂に現場で感染させるしかなく、オンラインではそれを生じさせることが難しいという内容です。

 またぞろムカムカしてきたんで下品に怒るから、イヤな人はこっから何行か読みとばしてほしい。あのな、自分の内側にあるのに独力では気づけない衝動を呼び覚ますプロセスが、教育とちゃうんか。いまだ己が何者かわからない未熟な存在にアンケートした結果で、”see?”とか小馬鹿にした態度すんの、ほんま腹わたが煮えくりかえるわ。奴隷商人が奴隷に「おまえら、幸せだよな?」と聞いて「ハイ!」と言わせるみたいな構図になってんの、自己弁護に汲々とするあまり見えてへんねん。動画や文章による専門性の伝達がよりすぐれた少数へ収斂して他が淘汰される未来で、肉体を伴った場が持つ伝播の力をあえて無いようにつるつる語れるんは、年齢的にもう逃げ切れると思ってるからやろ、ああ?

 怒りのあまりだいぶ話がそれた(いつも通り)が、何が言いたいかといえば、文章で読むときのイーストちゃんは理知的(シラフだし)でホントいいこと言うなってことと、チャウ・シンチーには監督兼任で主演へ戻っていただき、「少林サッカー」ワールドカップ編や「カンフーハッスル」天下一武道会編や「西遊記3」天竺編をぜひ撮影してほしいってことと、シリアスや感動ものはもういいので、そろそろ「リスペクター2021」が読みたいなってことです。

雑文「ピングドラム以降の手法について」

質問:謹んで新春のお慶びを申し上げます。猊下の鬼滅論を密かに待っておりましたので、拝読できて嬉しかったです。ありがとうございました!時に幾原監督作品に関してのご見識をお伺いできれば幸いです。あと、お勧めのアニメ作品を教えてください。

回答:年に一度のやり取りですが、遠方の親戚でもそんなものでしょう。今年もよろしくお願いします。幾原監督ではウテナがいちばん好きなのですが、印象としてどの作品も内側に閉じることで完成度を高めていて、今回は問われたから少しだけ答えますけれど、下手な言及はしにくいなと感じています(某A監督の対極)。数年の制作休止期間を経てからの、ピングドラム以降の作品はすべて同じ手法で作られていて、第1話にバンク用のいわゆる「カロリーの高い」カットをこれでもかと詰め込んで、最終話まではそれらを変形しながら繰り返し使用していくことが演出と一体になっています。繰り返される毎にバンクに込められた意味が具象から抽象へと位相を移していって、最終的にそれが作品テーマの象徴として受け手へどのように感得(理解ではない)されるかが作品受容のキモになってる気がするんですよね。ピングドラムはちょっと危険なほど現実にあったテロ事件とオーバーラップして読ませる語り方になってて、「多くを不幸にした犯罪者の子どもが、幸せになっていいのか?」という問いかけの重さとバンクの繰り返しが最後まで緊張感をもって釣りあっていた気がするんです。でも、ユリ熊嵐とさらざんまいはバンクの華麗さが語ろうとするテーマを上回ってて、第1話で受けた衝撃が最終話に向けて漸減していき、つまり回を追うごとにつまらなくなっていき、視聴を継続するのが辛かったというのが正直なところです。同じ手法を3回続けて、オリジナルはよほどのテーマを見つけない限り、そろそろ厳しくなってきたと個人的には感じているので、いちど原作ありのアニメ制作に回帰して、純粋な演出家しての冴えを見せてほしいなと思います。えらそうですいません。あとアニメですけど、他人におすすめできるほど見てません(エヴァー某は女性にはおすすめできない)。ドラマでもいいなら、クイーンズ・ギャンビットが漫画的で面白かったです。

ゲーム「サイバーパンク2077(2週目)」感想

 サイバーパンク2077、いっさいの情報を遮断してメインストーリーをクリアした後、そのまま新キャラ作って2週目をプレイしてる。ジャッキーと別れるのがイヤで、紺碧プラザへ行くのを先延ばしにしながら、ときどき犯罪行為に武力介入したりゴミを拾ったりする以外は、特に目的もなくウロウロしてる。真っ暗にした部屋で大画面のナイトシティをそぞろ歩いていると、年末に必ずやってくる「まだ何もしていない」という謎の焦燥感をいっときでも忘れることができ、たいへんに心安らぐ。この街の住人は一様にクズで向上心がなく、いつも他人を陥れることばかりを考え、口を開けば政治的に間違った言葉ばかりが飛び出す。だからこそ、私は心やすらぐ。社会的な正しさの擬態が必要なく、人生に目的があるといった欺瞞から離れて過ごすことができるからだろう。

 ナイトシティでのできごとって、ぜんぶ「夜の街関連」だよな……。

 サイバーパンク2077の2周目プレイ中。1周目をクリアした後だと、最初は気づかなかった様々なアラが見えてきた。メインストーリーと箱庭の作りこみとサブシナリオとゲームシステムを別々に作って、最後にガッチャンコ(関西弁で「ひとつにまとめる」くらいの意)しようとしたらうまくいかなくて、それぞれが収まるよう順に枝葉を切り落としていったら、ついには幹にチェーンソーを入れざるをえなくなった感じ。ジャッキーやTバグとの関係性を深めるストーリーが丸々カットーーTバグに至ってはおつかいのサブシナリオがひとつポツンとあるのみーーされてたり、大小様々な組織の利害が入り乱れる街で出自まで選べるのにコーポ中心のエンディングしか用意されていなかったり、街頭の作り込みはすさまじいのに中に入れる建物が極端に少なーーこれはたぶん、エリア構築とハッキングのシステムが一体化していることが原因、コピペのがらんどうでいいのにーーかったり、独自AIで自律的に動くはずの住人や警官(犯罪行為の瞬間に間近へスポーンするのは萎える)についてたぶん発売直前に白痴化が行われたり、ちんちんの長短やヴァギナの有無や声帯の男女入れ替えなどのトランスジェンダー的キャラクリにほぼゲーム的な意味が無かったり、とにかく「あるべき場所にあるべきものがないことで生じる空洞」が多すぎるのです。細かいけど、ゲーム内でキャラクリを自由にやり直しできないのって世界観を真ッ正面から否定してるよなー、性別や見かけではないところに真のアイデンティティがあるっていうさー。

 あと、ジョニーというキャラが好きになれるかどうかがゲームへの印象を大きく左右する作りになってて、クリア後もジョニーのrelicを外せないのって、結構マイナスポイントになる人いると思うなー。冷凍漬けにしてた、あるいはクローンの肉体にrelic内の魂を転写してジョニー復活、以後はバディとして同行可能、みたいな展開を予想してたんだけどなー。いま挙げた不満の中には有志のMODで解決できるものもあるけど、メインの部分ではCD Projektにがんばってほしいところです。みんなウィッチャー3一作でこの会社の実力を判断しちゃってたとこはあると思うんだけど、ほんと前作が奇跡のバランスだったんでしょうね。数年(8年!)に渡って、出入りのある数百人のクリエイターの成果物をすべてチェックして次の方向性を与えて、ゴールを明確に提示しながらそれらを矛盾なくずっと統御し続けるって、よく考えたら人智を超えたマネジメントですもん(世界1個を丸々創造するという意味で、ヤハウェと同等の管理能力が求められるはず)。

 同社のウィッチャー3の何がすごかったかと言うと、オープンワールドRPGなのにシナリオに整合性があって、ゲームバランスが破綻していないことだったと思うんです。オブリビオンにせよフォールアウト3にせよ、最初期のオープンワールドは箱庭に特化した、良くも悪くも雑な作りのゲームでした(逆に言えば、細部を雑にしておかないと立ち行かない)。そして後発のオープンワールドでストーリー重視のものは、箱庭要素を極限まで切り捨ててほぼ一本道にすることで、物語ることに特化していたわけです。ウィッチャー3は箱庭要素と物語要素が初めて矛盾なく高いレベルで成立したという点で、極めて画期的だったと思うのです。サイバーパンク2077にも同じレベルが内外から要求され、8年間の発酵期間を経て膨れに膨れた期待を結果として上回ることができなかったのが、発売後の騒動の原因ではないでしょうか。発売直前の絨毯爆撃的アドバタイズメントで初めて今作を知った私にとっては、自宅に押し込められた空虚な年の瀬へ、予想外に訪れた良質のエンターテイメント体験だったのですが、AAAタイトルはその宿命として空前を更新する大傑作であることを常に求められ、「良ゲー」ぐらいの評価では済まされないのでしょう。

 世界観とそこで提示しようとしている命題については今日的ですばらしいと思うんですよ。殺人犯(ヨハネよりルカが好き発言とか萌え)が殉教者として十字架の上での磔刑を選び、その様をブレインダンス(VRのすごいヤツ)で録画されることを希望するとか、アラサカ社のプレジデントが息子の肉体を魂の上書きで乗っ取り、恒久の企業的安定を手に入れる(それに関する法解釈と生命倫理の演説も好き)とか、そこここで考えさせられる、魅力的なモチーフにあふれているのです。特に後者は「最良の名君による王政問題」、それが大げさなら「中小企業の創業社長問題」を想起させ、人間社会における問題の多くは個の寿命に由来しているのだなあと改めて感じさせられました。アホが総体をダメにしないよう任期を決めて支配の実権をローテーションする仕組みは、天才をアホですげかえねばならない事態を同時に抱えてしまいます(たしか銀英伝でも同じ話してましたね)。養育者に生命の継続を依存しなければならない十数年の体験から、ヒトという生き物にはどうしても神様ーーそれの命令を聞けば、脅威は取り除かれ心の安寧が約束される存在ーーを求めてしまう性向が植え付けられています。バランス感覚のある清廉潔白な無私の天才が永久の生命を有するとしたら、彼/彼女に永世を支配してもらうことにいち大衆として何の不都合が想像できるでしょうか。この架空の、それでいて根源的な問いに対する答えは、しかしあらかじめ決まっています。「変化し続け、やがては死ぬこと」が人間の本質であると同時に尊厳の根幹を成しており、被支配を求める頑なな凡夫である私たちにその点をじっくりと諭してくれるのが、今年のFGOや鬼滅のような良質の物語なのです。虚構の持つ機能のひとつとは、日常生活では起こりえないイフを突き詰めることで、隠された真実の片鱗を明らかにすることだと言えましょう。それはときに数式が世界の真理を体現するのと同じ明晰さと強度で、我々の倫理に迫るのです。

 話がそれましたが、この命題に対する西洋の物語は英雄譚に寄りがち(マーベル!)なので、魂の不滅についてサイバーパンク2077の世界観の内側で弱い人間たちが出す結論を、今後のDLCで期待したいと思います。

 サイバーパンク2077、2周目はメインストーリーをガン無視して、サイドジョブばっかやってる。女性の声にしてるんだけど、同じやりとりなのにガラッと印象が変わるのが面白い。今度こそJUNKERプレイに徹しようとハンドガンのパークにポイントを入れるも、あまりに弾が当たらなくてイライラして、「ウワーッ!」と絶叫しながら突撃してはブレードをふりまわしていたが、オートエイムのスマート武器を手に入れてから、ようやくそれらしくなってきた。

 サイバーパンク2077、女性声のVだとジョニーとのやりとりがぜんぶ痴話喧嘩っぽくなるなー。ウザさがすごく増幅されて、「ぼくのかんがえたさいこうにカッコいいバディ」を制作者に強要される感じ、どっかで体験したことあるなー、どこだったかなー、と考えていたら、「俺の屍を越えてゆけ2」だった。

 サイバーパンク2077、1周目のキチガイに刃物プレイにくらべて、だいぶハンドガンVがサマになってきた。それもこれも、ガチのFPS者にとっては当たり前の話なのかもしれないけど、マウスでエイムするようになったから。スマートリンクの無い銃でもまともに戦えるようになると、なんだか銃撃戦が楽しくなってくる。街中で黄色い矢印のついたキャラを見かけると、いままではビクビク迂回してたのに、ガンガン喧嘩をしかけるようになった。いま、なんか腱鞘炎になりにくい縦につかむマウス使ってんだけど、コントローラーでの移動から黄色い矢印を視認して右手でマウスをつかむ一連の動作が、ちょうどホルスターに手を伸ばして拳銃のグリップをつかむみたいで、すごく没入感がある。結果、黄色い矢印をもとめて街中をうろついては、ほとんどスナック感覚で文字通りの快楽殺人を繰り返す、サイコキラー・プレイになってしまっております。ロード画面のフレイバーテキストに「この年、合衆国の人口が15%減った」みたいのがあるんだけど、たぶんうちの主人公のせい。