猫を起こさないように
年: <span>2021年</span>
年: 2021年

アニメ「逆襲のシャア」感想

 古いオタクとして恥をしのんで告白しますが、わたくし、ガンダムの単位を履修していないと申しましょうか、ストーリーをほとんど理解できていないんです。なぜ唐突にこんな話をしてるかというと、タイムラインに「閃光のハサウェイ」の激賞ばかりが流れてきて、これは見に行くしかないのかと、復習のため「逆襲のシャア」をアマプラで流し始めたら、ガンダムに対して長く抱いていた劣等感みたいな気持ちを、またぞろ追体験してしまったからです。特にこの逆シャアは、例えるなら私大文系にとっての高等数学みたいなもので、必死に理路を追いかけようとしても、途中で毎回ふり落とされてしまいます。なんとかストーリーに食らいついていっても、突然の場面転換や独特の台詞回し(汚なプレシャア?)に一瞬、理解を脱線させられ、そうなると元の線路へと戻る前にストーリーが先へと進んでいって、視聴するというより、ただ眺めているだけになってしまう。ならば、モビルスーツのアクションを楽しもうと試みても、付けられた効果音が少ない(宇宙空間だから?)せいか、流麗な動きがスーッと目の前を流れていって、いま何が起きているのか、だれとだれが戦っているのか、やはりわからなくなってしまうのです。ストーリーもアクションもわからなければ、残されるのは言語化できない印象だけとなり、私にとってガンダムはずっと「夢と記憶の物語」ーー以前Fallout3について書いた雑文のようにーーであり続けているのです。内容が理解できないから、ガンダムを思い出すときは、それに紐づいた現実の記憶ばかりがよみがえってきます。小学生の頃、主人公機のプラモはすべて売り切れで、駅前の模型屋で作中に登場しないゾゴックと姫路城の抱き合わせを買わされた話は、すでにしたような気がします。イズミヤのワゴンで見つけた、作中に登場したかは知らないギャンとかいうのに、加減がわからず元の造形が変わるほど塗料をドボドボに塗りつけ、部屋へ充満したシンナー臭に気分が悪くなったのが、人生でプラモを作った最後です。あと、「144分の1スケール」という意味があるのかわからない中途半端な縮尺に首をかしげたことが、私を理系から遠ざけたのではないかと少し疑っています。「逆襲のシャア」は、たぶん神戸の映画館で見ていると思うのですが、脳裏に浮かぶのはロビーから直接スクリーンが見える、扉も壁も無い劇場のイメージで、それが記憶なのか夢なのかさえ定かではありません。そのとき、劇場で見た(と信じる)エンディングは、ガンダムが隕石を押し戻せたか不明のまま、カメラが引いていって地球の輪郭から太陽の光が広がるというもので、エンドロールには女性ボーカルの曲が流れていました。今回、アマプラで最後まで見たら内容がまったく違っていて、己のガンダム作品に対する親和性の低さと記憶の不確かさへ、あらためて愕然とさせられた次第です。この程度のガンダム解像度で「閃光のハサウェイ」を見に行って楽しめるだろうか、そろそろ上映も終わるし、どうしたものかな……などと、いつもの保留グセで決断を先送りにしながら、今日も今日とてFF11をプレイしつつ、ホーリーチキンを見てしまいました。このドキュメンタリー、ガンダムで例えるなら、連邦の気持ちを理解するためにシャアがイチから反乱軍を組織するみたいな内容なんですよ。え、的外れな要約からガンダム下手が伝わってきますね、だって? スーパー・サイズ・ミー(不条理オチ)!

映画「トゥモロー・ウォー」感想(少しエヴァ呪)

 見終わった直後、オレの両のマナコからは熱い涙がほとばしっていた。これこそ、ほんの30年ほど前のハリウッド映画に満ち満ちていた熱気ーー最高にアタマの悪いシナリオで、最高に政治的にも倫理的にも正しくなくて、最高に無駄な爆薬を使いまくった、最高に女どもに配慮しない、最高の男たちが演じる、最高の超B級アクション映画である! ネコ飼いにとってはトラウマになるだろう、むやみと気持ち悪いエイリアンの造形も、ギーガーのそれを更新していて(言い過ぎ)必見級の仕上がりだ!

 まあ、改変可能な直列宇宙の設定で始まったのに、父娘の会話ではいつのまにか互いを改変できない並列宇宙の話になっていたりとか、細かいツッコミどころはそれこそ無数にある。特に終盤、娘が生命を賭して父に託した対エイリアン毒薬を持参しながら、ロシアの凍土に眠る敵の宇宙船を結局は爆破で始末したのには心底ビビッたし、そこからメスが一匹逃げ出したのには脚本家が伏線を忘れていなかったとホッと胸をなでおろした。大爆発を背に両手足をジタバタさせながらスローモーションで退避ジャンプする主人公の姿にはアナクロな懐かしさで胸がジンとしたし、スノーモービルをエイリアンの横ッ面にぶちかましたときにはインディージョーンズを思い出して少年のような歓声をあげた。よく見れば、主人公の父親ってショーン・コネリーに似てない(言い過ぎ)? そして、メスのエイリアンを父と子の共闘で追いつめたあげく、なんとステゴロで倒しかけたのには映画前半の脚本家が途中で降板させられたのかとドキドキしたし、毒薬入りの試験菅を握りしめて口腔へのパンチをぶちかましたときには思わずガッツポーズが出た。にもかかわらず、主人公が「死ねーッ!」と叫びながら繰り出したナガブチキックと崖からの落下ダメージがエイリアンの直接の死因になったのには、心底ビビッた。

 おっと、カン違いしちゃいけないぜ、オレはこの作品をけなそうとしてるわけじゃあない。この映画では、旧来的な家父長制に対するトラウマ由来の神経症的疑念など一秒たりとも脳裏をよぎったことのない、最高に熱い男たちによる家族賛歌というテーマが、剛直した鉄棒のように2時間18分をズドンと貫いていた。「オレの未来はいつだって、目の前にいる家族なんだと気づいたぜ!」みたいな強い胸ヤケを誘発するセリフから、主人公の顔面の堂々たるアップでエンドロールへと移った瞬間、オレは全裸のまま立ち上がって拍手をしていた。同時に、両のマナコから滂沱と流れる熱い液体が頬を濡らしていた。結局のところ、アタマが悪い制作陣がひらきなおって全力で作ったアタマの悪い映画は、ストーリーの整合性が支離滅裂でも、ほとばしる熱いパトス(笑)でぜんぜん見られるし、なんなら感動までさせられる。本邦で言えば、島本和彦作品(失礼)がそれに当たるだろう。

 一方で、シンエヴァみたくアタマの悪い制作者がアタマの悪いことに自覚的でなく、観客にアタマが良いと見られたいという作り方をした映画は、ふんぷんたる自意識の悪臭にまみれて、とても見られたものじゃない。旧劇はかしこいオレたちのための映画だったのに、シンエヴァはアホのヤンキーどもがベソベソとエヴァ泣きする、心底アタマの悪い映画にさせられちまった。どんな映像作品を見てもシンエヴァのことが思い出されちまうのは、最悪の精神汚染だぜ。なに、今週末に予定されている最後の舞台あいさつは見に行くんですか、だと? 確認はしてないが、どうせ安全圏の太鼓持ちゲストばかりと台本ありでする、ノット感謝・バット集金の銭ゲバあいさつだろうな! 本当にファンの方を向いて感謝していれば、Qを破棄して当初の予定通り破の続きを語る続編になっただろうし、いまみたく無様にジタバタすることもなく、もっと早い段階で興収100億を突破できていたはずだ! ただ、安野モヨコが司会をつとめ、降板した副監督と退社したイラストレーターをゲストとして招いて、監督の前でカヲル・加持・冬月の声優がアスカの声優にウザがらみするのを台本なしの時間無制限でやるなら、万難を排して見に行くことを約束しよう!

 最後に話をトゥモロー・ウォーに戻すが、デジタル配信のおかげでアメリカの映倫的な組織を通さず、こんなにも倫理観のアップデートされていない、最高に古臭い最高のバカ映画を見られているのだとしたら、とんだ怪我(人類規模の)の功名だったと言えよう。そして、最高の映画を最高の悪文で紹介した最高のオレは、今夜は最高にクールに去るぜ。

アニメ「オッドタクシー」感想

 恩人が言及してたオッドタクシーをなにげなく見始めたら、脚本がとてもとてもすばらしい。「ミステリー仕立ての群像劇長編漫才」ってコンセプト、メチャクチャ新しいなーと感心してたら、第4話が心のいちばん深くてやわらかい部分へ、返しのついた針の如く斜めにブッ刺さって、抜けなくなった。待って待って、これドグラ・マグラの売り文句みたく、心の防壁(ATフィールド)を立てずに受け入れたら、気が狂うか人を殺すまで行くやつ。油断してたとはいえ、ちょっと尋常じゃない。

 オッドタクシー、最終話まで見終わった。シナリオの構成が海外ドラマのトップ層と同じレベル。早晩、ハリウッドで西洋文化に翻案したものが実写化されると思います。なんとなれば、近年はクソどうでもいい(私にとって)ヒーローもの映画が、マルチバースの名の下に連発されているように、現地では良質な原作が枯渇状態にあるからです。「ODD TAXI」が「OD TAXI」でもあった(私的解釈)というオチには感動しましたし、名作に対しては「まあ、とりあえず見てよ。損はさせないから」以外に費やす言葉は無いわけですが、気になった点を少し述べたいと思います。もちろん、これらの難クセが作品の価値を減じることは、いっさいありません。まず、大オチを隠すためだとは重々承知しながら、オド川がいない場面のカメラが彼の主観と同じものを映していたのは、ミステリーとしての説明が難しいところです。あと、タクシー運転手と精神科医とチンピラと大学生の動画配信者が同じ知能の同じ語彙で話をしているというのは、冷静に考えると不自然かもしれません。語彙つながりで言えば、「魂と肉体が『剥離(はくり)』してる」ってセリフがあって、明らかな誤用です。この場合は、「乖離(かいり)」が正しいでしょう。これだけの脚本を書く方が間違えるとも思えませんから、声優の誤読を音響監督がスルーした可能性があります。クレバーな雰囲気が一瞬シラけましたから、ぜひ再録で修正して下さい。それと、優しい読後感は嫌いじゃないし、個人的な好みの話になるけど、第4話の彼はジョーカーとしてキッチリ破滅させてほしかったです。

 いろいろ言ったけど、まあ、とりあえず見てよ。損はさせないから。

アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 スーパーカブ、最終話を見る。富士山に登る話とシーちょう救助の話をはぶいて、このツーリングを3話くらいかけてやれば、かなりマシな読後感になったのになーと思いました。しかし、最終話を見て強く感じたのは、これが多くのファンタジーと現実のオミットによって成立している物語だということです。まず私がシーちょうの親なら、うろんな友人たちとのバイク(しかも、スーパーカブ)による西日本横断の旅なんてぜったいに許さないでしょう。ソロでキャンプをするアニメもそうですけど、単独行動する若い女性たちへ向けた男性たちの危険な劣情を、わざと脱落させることで物語を成立させてませんか。次に、スーパーカブの「スーパーカブが守ってくれる 」という言葉は大ウソで、単車での交通事故がライダーにどれほど悲惨な結果をもたらすかは、皆さまもよくご存じのことでしょう。「出発1時間後に入念な整備をすることで安全が得られる」みたいな語りがありましたけど、どれだけ注意したところで、無謀な運転手からのもらい事故は避けようがありません。そして最も大きなファンタジーは、本作において乗用車と歩行者がほとんど申しわけ程度にしか描写されないところでしょう。車なしでは生活できない試練の大地・ナラフォルニア在住だからわかるのですが、乗用車と歩行者とバイクによる三すくみのトライアングルは、互いが互いを「死ね」と思っている実線で構成されています。つまり本作では、狭い車線を時速40kmくらいでチンタラ先行するバイクへと向けられた乗用車からのまなざしと舌打ちが削除されており、だからこそ爽やかなロードムービー感を醸成できているのです。

 スーパーカブ、1話は主人公の語りがほぼ存在せず、演出のみで見せていく形だったため、まんまとだまされてしまいましたが、この人物(イコール作者)の自意識がかなり独特であることが、あとになってどんどん判明していきました。原作では男性バイカーのむこうずねを靴で蹴り上げるシーンまであるようで、ファーストインプレッションからカン違いしたこちらが悪いのですが、やはり相当に奇矯な性格のキャラクターだと言えましょう。話は少しそれ、たぶんそれたまま終わりますけど、フィクションの中で女性が男性にフィジカルで優越する描写って、近年とみに多くなってきたように思います。これ、現実の若い女性にとって悪い教育になってませんかね? むこうずねを蹴り上げた男性は逆襲してこないし、逆襲してきても返り討ちにできるって思いこむようになりません? まあ、現代社会で全力のフィジカルをぶつけあう瞬間なんてスポーツ以外にほぼないわけですが、フィクションによる補正を無視して、「男性とやりあっても勝てる」という刷り込みが若い女性たちに生じるのだとしたら、日常のある瞬間に決定的な悲劇をもたらす原因になってしまわないか、心配します。ネットでペロペロと論議なさってる方々もそうですけど、「対面することの圧力」と「肉による暴力の予期」って、現実のコミュニケーションにまま生じる摩擦係数で、これを無視した計算でシューッと気持ちよく滑っている感じは、私にとってなんだかモゾモゾと気持ち悪いものです。

アニメ「終末のワルキューレ」感想

 FF11へ社畜なりに復帰すると、勢いモニターの前へ座る時間が増えます。そうすると同時に、映像作品を見る機会が多くなるわけです(「ながら見」と「倍速見」のどっちがより罪深いかは、私にはわかりません)。シンエヴァはてブ全レス祭りで「もっとアニメを見なさい」と言われたので、根が素直な私は海外ドラマをわきによせて、最近はアニメばっか流しています(オタクになりたい中年なので)。んで今日、やたらとリコメンドに上がってくる「終末のワルキューレ」ってのを見たんですけど、これがまー、すごかった。未見の向きに一言で説明すると、「刃牙風味のジェネリックFGO(止め絵)」とでもなりましょうか。しかも、両手にプラモをつかんで戦わせる小学校低学年の脳内に展開しているような、小学校中学年のファンガスがジャポニカ学習帳にひらがなで書いたような、そんなストーリーなのです。ひとむかし前なら、このテ(レベル)の物語のニーズはマガジンのヤンキー漫画が満たしていたと思うんですけど、オタク文化の低偏差値化が進行していく中で、こういった合体事故みたいな作品をそのまま楽しめる層が生まれていることへ、我々はずいぶんと遠くに来てしまったのだという感慨を抱きました。

 でも、Netflixオリジナル作品ってことは、日本だけではなく諸外国にも同時配信されてるんですよね? ギリシャ神話はフィクション枠というか、現実の信仰とほとんど関係がないからいいんですけど、旧約聖書とかインド神話からの登場人物がいるのって、ヤバくないですか? この物語偏差値(目測で32くらい)だと、ブッダでもキリストでもないあの御方を、何も考えずにキャラ化ーー毛筆で「天国百人処女性交」などの技名がカットインするーーして、全世界を巻き込んだ大炎上から現代の「悪魔の詩事件」に発展しないか、否応に緊張感が高まります。終末のワルキューレ、盤外戦的な意味で今後、目が離せない作品と言えましょう。

 また余計な追記をしますけど、エヴァ旧劇がFGOなら、シンエヴァは終末のワルキューレですね。

アニメ「スーパーカブ(11話)」感想

 アニメ「スーパーカブ(10話まで)」感想

 あかん、スーパーカブの11話がおもしろすぎる。あとでなんか書くかも。

 スーパーカブ11話、見る。作画崩壊って言葉があるじゃないですか。納期に追われて絵が間に合わなくなるやつ。いや、作画は安定してますよ。問題なのは、それ以外のすべてです。今回ついに、シナリオが崩壊し、演出が崩壊し、極めつけは主人公の一人称が「スーパーカブ」になって人格が崩壊しました。

 前回も言いましたけど、友人の遭難事故に際して、まず警察と相手方の両親に電話してから、それでも居ても立っていられなくなって、カブで走り出すならわかるんですよ。それを「スーパーカブが行く」などと自我と無機物との境界が壊れた言葉を放ったあと、無連絡の単機で救援へと向かうのです。そのあげく、ぬかるみに車輪を取られて二次遭難しかかる描写が丁寧に入っていたり、視聴者の情動をどう誘導したいのかサッパリわかりません(主人公のアホさへの苛立ち?)。

 そして、沢で倒れている友人を発見したスーパーカブはほとんど垂直に見える濡れた岩肌を伝い下ります。てっきりスーパーカブが友人を背負って斜面を登るのかと思いきや、「オレはオマエをかつげない。サポートはするが、ひとりで登れ」などと星一徹だか百獣の王だかみたいなことを言い放ちます。これにはFF11をプレイする手が止まり、思わず「えー!」と声が出ました。友人が垂直の壁面を自力で登ったあと(登れるんかい!)、スーパーカブはカブキチガイの友人に電話をし、何ごとかを頼みます。間接的にですけど、ようやく相手方の両親と警察か消防に連絡してくれるのだとホッとしていたら、何を思ったのかスーパーカブは友人を抱き上げ(さっきかつげないゆうてたやんけ!)、スーパーカブの前カゴにダンケダンケとブチ込みます。困惑する友人が見上げたスーパーカブの顔は、ネットで道交法違反だと重箱の隅をつつかれたことへの怒りに燃える鬼の形相をしており、KOGUMAというよりAKUMAのようでした。しかし、BPOへの配慮からか、凄腕アニメーターの欠如からか、前カゴに女子高生を乗せたスーパーカブがサイレンを鳴らす多くのパトカーに追われながら公道を疾走する様を長尺で描かなかったのは、とても残念です。

 そして、てっきり病院か両親の元へ連れて行くのだと思っていたら、なんとスーパーカブは女子高生を自宅へと持ち帰ります(流行ってんの、この設定?)。沢に落ちて、その姿勢のまま動けなかったのだから、打身や捻挫や骨折や外傷性ショックや低体温症や脳震盪を疑ってしかるべき状況です。いや、一人称がスーパーカブの級友へまっさきに電話するぐらいですから、頭を強く打っていることは間違いありません。

 スーパーカブはこごえる友人を温めようとバスタブに湯をためるのですが、熱湯を水でうめるタイプの蛇口なのに、青へは触れず赤のハンドルだけをグイと強く回したのです。沢落ち以降、すべての行動が社会常識から逸脱していくことを考えれば、いよいよゆるふわ日常系アニメの枠から離れ、友人を熱湯風呂へダンケダンケと放り込み、全身やけどを負わせるようなサイコホラーへと変じたのではないかと疑いました。あやういところでカブキチがスーパーカブの自宅へと到着し、団塊老人の横顔で「オフロ、オフロ」と言いながら女子高生の煮汁たっぷりの浴槽へ向かって、かろうじて日常は回復します。

 スーパーカブが友人のパンツを部屋干ししようとすると、シーちょう(C調?)だかゆうこの人物は一種異様なまでにうろたえ、激しい羞恥を露わにします。いまどきの女子が、下着ぐらいでこれほどうろたえるものでしょうか。このシーンは団塊老人による願望、すなわち昭和の少女幻想を強く感じさせます。そして、なんでもレトルトで済ませる一人ぐらしの女子高生が、卵をあらかじめゆでておき、カラに極太マッキーで「ゆで」と書くだろうかという深淵な命題(演出の失敗)を我々に残したまま、カレーうどんの夕食(スカトロジーの暗喩?)が終わります。

 罪悪感から皿洗いに従事するシーちょうへ向かって、カブキチが唐突に満面の笑顔で「オマエの高級自転車はフレームがイカれてて、もう廃車だ」と告げ、スーパーカブからの電話が両親・警察・消防への連絡を依頼したものではなく、自転車の引き上げのみをお願いしていたという衝撃の事実が判明します。シーちょうの手にしたうどん鉢から水道水があふれて感情の高まりと決壊を暗喩するという、ツバキの落下が処女喪失を示すみたいな演出のあと、シーちょうは「冬はイヤなんで、いますぐ春にしてください」などとスーパーカブにウワメヅカイでしなだれかかるのです(前から思ってましたけど、この子ちょっと知能の発育に問題があるんじゃないですかね? FGO第2部ふうに記述するなら「恥丘白痴化」ですか?)。その未就学児ばりのムチャぶりに、スーパーカブは「それは、スーパーカブにもできない」と返答します。このくだり、くしくもブロント語と似たような話法になっており、不意をつかれて(ふいだま)思わず爆笑してしまいした。

 翌日、大きなママチャリに乗って登校してきたシーちょうを、スーパーカブはネットリと視線で追いかけます。1話からの行動を順にならべてもわかるように、スーパーカブはかなり発達に特性を持った人物です。しかしながら、シーちょうがママチャリに乗ってきたことを脳内で描写するト書きはその特性を越えて、リタイア後にブンガクをやり始めた団塊老人みたいなキモチワルイ筆となっていて、キャラとシナリオ崩壊の印象をいっそう強めるのです。

 さらに場面はシーちょうの実家である喫茶店へと移りますが、ご両親はスーパーカブとカブキチに手放しの感謝をしか示さないんです。ケガが無かったからよかったようなものの、ふつうの親ならスーパーカブのおかしな判断に嫌味のひとつも言うでしょうし、娘には奇矯な級友たちと今後は距離を置くよう裏でささやくかもしれません。山奥の自営業とアメリカ人だから、常識がブッとんでいるんでしょうか。かてて加えて、ご両親はスーパーカブとカブキチに向こう1年の飲食無料券まで渡すのです(このカード、店にあらかじめ備えてあったものみたいですが、どういう一般的な商いの状況で客に渡すんでしょうね?)。娘の生命と1年分の飲食代金が等価というのは、なんとも下品かつ卑しいジャッジで、山奥の自営業とアメリカ人だからこそ為せるワザなのかもしれません。これまでも娘の友人のよしみ、タダで飲み食いさせてもらっているのだろうと好意的に補完してたんですけど、このやりとりから食費を切り詰めるために自炊をするかたわら、500円以上する高級豆のコーヒーを自腹でガバガバ飲みまくっていたことが確定してしまいました。

 そしてラストシーン、シーちょうから白痴的笑顔を向けられた瞬間、なぜかスーパーカブの頭髪は前方から送風機を当てられたようになびきはじめ、初代SAWラストシーンばりの回想フラッシュバックが始まるのです。1話の坂道でスーパーカブの自転車を後方からブッちぎっていったのが、じつはシーちょうだったことが明らかになったり、スーパーカブが「このままではフユ(?)に殺されてしまう」とか言い出したり、マーダーミステリーにでもジャンルが変わったのかと一瞬、本気で戸惑いました。

 次回が最終話とのことですが、春の鹿児島でカブキチがスーパーカブの左足をスーパーカブの前輪で轢断し、「嗚呼、フユの毒素が下半身から抜けていく」とか言いながら息絶え、その遺体が団塊老人にメタモルフォーゼして終わったりしないか、怖くなってきました。

 ともあれ、「SHIROBAKO」を見てアニメ業界に入ろうと思っている諸氏は、シナリオ・演出ともに超高校級のバッド・サンプルであるスーパーカブ11話をケンケンフクヨーし、他山の石としましょう。

 アニメ「スーパーカブ(最終話)」感想

アニメ「SHIROBAKO」感想

テレビ版

 いまさら「SHIROBAKO」見終わった。数年前に1話を再生したんだけど、学校で自主アニメ作ってるナード階層なのに全員がキラキラ美少女なことへクラクラして、長く視聴を止めてしまっていたのでした。今回はFF11のおかげでそこを越えて、主人公が制作会社に勤めるところまで進んだら、文系クソ仕事のリアルが描かれていてメチャクチャ面白いじゃないですか! あとから見る人のためにモエ・コション(仏語)向けじゃなくて、もっと正しく作品を評した感想テキストを書いておいてくださいよ、もう! 私が日々やってる仕事も業界こそ違えど、たぶんアニメの制作デスクと似たようなものです。組織に所属するすべての人間をプロジェクトの文脈に落とし込んで、目標が達成されるまで、きしむ歯車に潤滑油を差したり交換したりを繰り返して、とにかく計画を前へと進めていく。人間が人間であるがゆえに存在する業務であり、肩書きが付随してカネ払いが良かろうと、実際には歯車ひとつほどの価値もない中身なのです。目標を達成した後に作品が残るだけ、アニメの制作デスクはずいぶんとマシな仕事に見えました。

 しかしながら、爽快感やワンダーとは遠い文系クソ仕事をアニメとして見せるために、5人の若い美少女たちの成長譚にしているのは、しょうがないとは言え、ところどころにチグハグ感が出ています。顕著なのは男女のキャラデザの差異で、美味しんぼの郷土料理編で実在の人物を模写したような男性が、顔面の3分の2を眼球で占拠された美少女に詰め寄られるシーンを見たとき、実存のゆらぎにめまいがしました。別々に映っている場合にはそれほど気にならないのですが、同一画面に入るともはや系統の異なった生物にしか見えなくなっています。そして、女性キャラのデザインは、年齢が上がるほどに眼球が小さくなっていく仕組みなのです。でもこれは、モエ・コション向けのアニメ全般に当てはまるルールでしょう。「セクシャルな消費は眼球から行われる(だから、加齢で縮む)」のは、この業界に古くからある不文律なのかもしれませんね。

 またぞろ昔の調子で「萌え」を茶化してしまいましたが、ストーリー自体はすごく良くできていて、登場人物の感情の流れにいっさいの矛盾がありません。そして特に、年かさの男性たちにまつわる挿話には、どれもグッとさせられました。社内の喧騒から離れて定時退社する初老の男性が、じつはかつてのスーパーアニメーターであり、彼の働きがプロジェクトの危機を救う話には思わず涙がこぼれました。世代の分断が声高に叫ばれ、被害者だからこそ、どれだけ横暴にふるまっても許されるという態度が横行する中、本当に力のある年配の人物ほど節度を保って出しゃばらず、ただ静かに終わりのときが来るのを待っている。そういう人物を見出して組織の現在に関与させ、「だれひとり排除しない」ことが、結果として大願の成就へとつながっていく。拙作「MMGF!」を読んでもらうとわかると思いますが、こういった組織人たちの協働の様子は、私の内側に強い感動を惹起するようです。もしかすると、指輪物語の「もっともとるにたらない者から、もっともいやしい者へとかけられた小さな情けが、世界を救う」というあのモチーフにも、影響を受けているのかもしれません。特に現実では相手がだれであれ、人を粗末に扱っていいことなんて、ひとつもありませんからね(オマエが言うなって顔してる)。また、寡作で知られる背景美術のレジェンドが、「映画監督になりたかったけど、誘われてこの仕事を始めたら面白くなって、気づいたら三十年も経っていた」みたいな独白をするシーンがあるんですけど、まさに仕事の本質を言い当てている気がします。世間に言われているほどには、人が仕事を選べることはまれで、仕事が人を選び、やがて人が仕事そのものとなる。私はそのプロセスをずっと傍観する立ち場にあり、とても腑に落ちる感覚だと思いました。特に文系クソ仕事に従事するだれかは、人間関係の中でしか何者かにはなれないのです(理系のアナタには、この自己決定権の無さを想像できないでしょう)。

 話は大きくそれますが、今回FGO第2部6章を読んでいてガツンとやられたのは、敵が主人公を評した「君より強いヤツや賢いヤツはいくらでも見てきた。けど、君ほど運と仲間に恵まれたヤツはいない」という言葉です。これはたぶんファンガスの自己認識である(だから、大金が転がりこんでも手が止まらないし、狂わない)と同時に、「強くて、賢い」ことだけを追求する、最近のSNS界隈における風潮へ向けた遠回しな揶揄のような気がしました。そして隙あらば自分語り、私には運も仲間も無いので、ずっとどこへも行けないまま、インターネットに幽閉されているのです。

 話をSHIROBAKOへと戻しますと、最終回の手前である漫画家が吐露する「主人公が本当に立ち直れるのかどうか、僕にはまだわからない。もしかすると立ち直れないかもしれない。だから、アニメでも簡単に立ち直らせてほしくない」という言葉、これこそすべての創作者が持つべき視座ではないでしょうか。言葉というのは世界認識の道具であり、我々は抽象と具象、直面する様々な事物に言葉をかぶせて個人的な理解の文脈を作る。それは目の前に事物が存在しないフィクションを物語るときも同じでしょう。事物が無いから自在に曲げることができるように見えるだけで、現実と同じく制約は確かに存在する。シンエヴァ(いい加減にしたら?)は、具象に対しては丁寧にセットを作ったり入念なロケハンをしながら、人間の心という抽象に対してはそれをしなかった。声優に「シンジを立ち直らせたいんだけど、どうやったら立ち直ると思う?」なんて聞いている時点ーー「立ち直れない」なんて選択肢はハナから無いーーで、作品の失敗は約束されていましたね。

 物語の後半、コミュニケーションの苦手な吃音ぎみの女性アニメーターが出てくるんですけど、どうしても「外見が可愛いから許されてるし、成り立ってるように見えるんじゃねえの」って気持ちになってしまいました。アニメ制作会社の実態と男性の関係者たちが非常にリアルに描かれる一方で、女性キャラクターたちについては虚構内のデフォルメによる手加減があって、否応に「美醜の問題」を想起せざるをえません。解決する必要もないんですが、モエ・アニメにおいては「醜」にまつわる苦悩や生じる問題が、女性サイドにおいてはいっさい脱色されてしまうのは、いつも引っかかります。特に本作は、アニメ制作の裏舞台を生々しく描いているので、男女の扱いのギャップが余計に気になりました。劇場版は未見ですが、「5人の美少女たちはアニメキャラなので、元よりこの世界には存在していませんでした」みたいなメタ・エンディングーー5人がいない制作会社の日常風景を実写で映して幕(エヴァからの悪い影響)ーーを迎えていても納得するだろう気分は、手放しで賞賛する裏側に少しあります。

 あと、車の挙動がいつも初代リッジレーサーなのは笑いました。それと、シナリオライターの「舞茸しめじ」って、ファンガスがモデルなの?

劇場版

 SHIROBAKO劇場版、見る。特に新しい登場人物が出てくることもなく、テレビ版からテーマの更新があるわけでもなく、蛇足感の強い後日譚でした。監督と原作者の対話で描き切ったはずの作品が、シリーズを重ねるうちに萌えというにはドぎついエロへと変じていったという顛末も、業界への批判に見せかけながら男性の観客に向けたサービスって感じで、「テレビ版の感動を汚すなよなー」って思いました。個人的な嗜好を言えば、終盤の上昇を演出するために序盤で大きく下降させるプラマイゼロの作劇は、あまり感心できません。

 しかしながら、キャラクターの内面をめぐって葛藤するシナリオライターたちの話は、涙腺にグッときました。ヒデアキに彼らの爪のアカを煎じて飲ませたいですね。まさに、この視点が存在しなかったからこそ、シンエヴァは珍奇かつ珍妙かつ滑稽な、自我のある等身大の人物をデフォルメたっぷりの人形に変じたあげく、赤子がそれらを両手につかんで幼稚な妄想を繰り広げる、「バブバブごっこ遊び」になってしまったんですからね! 劇中のセリフ、「不肖の弟子じゃない、商売敵だ」になぞらえて言うなら、「責任ある大人じゃない、オギャ丸バブ夫だ」みたいな感じですかね?(もうムチャクチャ)

アニメ「ゴジラSP(最終話)」感想

アニメ「ゴジラSP(6話まで)」感想

 ゴジラSP、最終話まで見終わった。感想としては、「ワンクール13話のアニメで最終話だけがつまらない。でもいいじゃないですか、12話までは毎回楽しませてくれたんだから、最後くらいつまらなくたって」。あれだけ両手がもげるくらいの大絶賛を毎週くりかえしていた理系クラスタの方々がモニョってるというか、トーンダウンしてる理由がわかりました。家人にすすめず、ひとりで視聴して正解だったと胸をなでおろしております。「監督の仕事に必要なのは、OKかNGを出すだけ」「アングルさえ決まれば映画になる」で大失敗したシンエヴァになぞらえて本作を評するならば、「科学と数学の専門用語と古典からの引用を並べておけばSFになる」「ゴジラ作品に必要なのは、歴代シリーズとジェットジャガーへの愛だけ」となりましょうか。観客席で皆が固唾をのんで見守る中、ラスト10分、原理不明のまま巨大化したジェットジャガーがゴジラの顔面にプロレスばりのトーキックを食らわせた瞬間、ゴジラクラスタは席から立ちあがっての大喝采、理系クラスタは背もたれに深く身を沈みこませての大落胆、はたで見てる非ゴジラファンの文系としては、この上ない愉悦のショウタイムでした。特撮モノとしてはキレイにオチたけど、サイファイとしては飛翔しませんでしたね。ネビュラ賞は難しいかもしれません(日本SF大賞ならヨユー)。そして、ずっとラインだけのやりとりだった男女が、物語の最後の最後で顔を合わせるんですけど、駆け寄るでも肉声を交わすでもなく、距離を置いて黙ったままニヤッと口の端を歪めるの、最高に理系って感じがしました。他人の不幸は蜜の味ではないですが、よりもいで咽頭に詰まったままだった溜飲が大いに下がったことは認めざるをえません。あと、シンエヴァ公開直前と直後の私の反応も、こんなふうに楽しまれていたんだろうなーと思いました。

 ゴジラSP、1話と13話を見返したけど、すげーわ。物語の全長を100%とすると、96%くらいまでハードSFを擬態し続けて、最後の最後で「サイファイだと思った? キャハハ、ざーんねん、トクサツでしたー! ジェットジャガーだいすきー!」とか叫びながら、白衣の腺病質のみぞおちに鉄板入りの革靴でナガブチキックねじこんでくる感じ。この展開が正のカタルシスになるか負のカタルシスになるかは、完全に視聴する側の属性に依るという作りになってて、どこまで意図的かはわからないけど、すげーわ。

ドラマ「シャーロック・シーズン4」感想

 女子高生が4人で南極へ行くアニメにモヤモヤして、なんか大人の実写ドラマでこの感情にカウンターを当てたいと、ネトフリのユー・アイをグリグリ回してたら、シャーロック(カマキリ俳優が演じるヤツ)の第4シーズンが配信されていたことにいまさら気づきました。んで、3話まとめて見たんですけど、吼えろペンだかで冗談みたいに語られていた「最終回でコケるのが名作の条件なんだよ!!!」を見事に体現しており、終盤の超展開にはもうビックリしました。素直に2話までの内容を3話に引き伸ばして終わっておけばいいものを、最終話で突然モリアーティではなくホームズの妹をボスキャラに設定(「羊たちの沈黙だと思え」っていう看守のセリフ、人物造形の努力を放棄してて、ひどすぎませんか?)して、孤島の閉鎖空間で何やらジグソウがするみたいなデスゲームが始まったのには、どう反応したらいいものやら困りました。これが映画館だったら、隣の観客の表情をチラ見していたと思います。あと、メアリー・スーっていうの? この原作未登場のオリキャラの格を上げるために、ホームズとマイクロフトの知能が急激に、それこそ全シリーズ内でいちばん下がって、「彼女は賢すぎる」とか言い出すのも最悪でした(ワトソンはずっとアホだからオーケ)。そして、とうてい1話では収まりきるはずのない兄妹家族の因縁を、「じつは妹も深く傷ついていたのです(ゲーッ!)」みたいな雑さで処理してサクッと救っちゃったりなんかしちゃったりなんかしちゃったりしてー(ホームズから広川太一郎を連想)、エンディングはつげ義春の「李さん一家」最後のコマみたいなナレーションーー「この奇妙な探偵とその相棒がいまどうしているかというと、じつはまだロンドンにいるのです」ーーとともに、事務所から駆け出してくるホームズとワトソンをスローモーションからの静止画で映して幕みたいなテキトーきわまる演出で、センスの良さにほれて4シーズン見てきた身にとっては、最後の最後でとんでもない肩すかしを食らった気分になりました。まさに、「100話の週間連載で最終話だけがつまらない。でもいいじゃないですか、99話までは毎回楽しませてくれたんだから、最後くらいつまらなくたって」を地で行く仕上がりでした。脚本家はカズ・シマモトのファンなのかしら(たぶん違う)。

アニメ「宇宙よりも遠い場所」感想

 例の南極に行くヤツ、最後まで見ちゃった。さかまき、とどろき、ほえるマイナス感情を吐き出すけど、たぶん一般的な視点とはだいぶズレてると思うので、この作品が好きな人はミュートしたほうがいいかも。

 古参のテキストサイト管理人ーーまあ、nWoより3日も新参ですがーーが影響を受けて実際に南極まで行った(すげえ!)という話を見かけて、たしか昨年の今頃に試聴を開始したんですけど、南極へ上陸する手前くらいのところでなぜか辛くなってきて、見るのを中断していたんです。先日、いつまでも避けていてはいけないと、一年越しで「エイヤ!」と気合いを入れて最後まで見ました。結論から短く言えば、理系の正しさで文系のよこしまさを打擲する物語でした。少し話はそれますが、「理系と同じ真理に、いつかテキストでたどりつく!」などと息まいて続けてきた私のサイト運営も、結局はその真逆を証明し続ける結果となっています。先日からんできたライターのように、「足を使い、汗をかいて、顔をつなぎ、相手に寄り添い、我欲をおさえ、個性を滅し、愛想笑いを常に絶やさない」ことでようやく現金化できるというのがテキスト書きの本質であり、「インドの少年が数式を書きつけた紙きれ一枚をイギリスの大学へ送り付けて招聘される」ようなことはぜったいに起こらない、人間関係の中にしか価値が存在しないのが文系仕事なのです。本作(「よりもい」と略すらしい)には、ワードとエクセルとパワポと四則計算ぐらいでこなせる仕事を、ベターな人材がたまたま周囲にいない、あるいはベターな人材はいるけれど周囲からの長年の愛着(信頼、とは言わない)があるから任せてもらっている、典型的な文系仕事に従事する人間の横ツラを、理系の研究者が真理の公式が刻まれたクサリ鉄球で殴打し、頬骨とアゴが砕けて「ブ」「ン」「ケ」「イ」と書かれた前歯と奥歯が粉々になりながら口腔から飛びでて、砕けた頬骨と逆方向へスッとんでいくのを、超スローモーションで見せられてるような気持ちにさせられました。

 貴方はこの作品の登場人物のうちのだれなのかと聞かれたならば、陸上部に所属していた主人公のひとりが学校をやめる原因となった、生放送の直前に前髪の形ばかりを気にしている、あの女子だと答えるでしょう。主人公のひとりの前では「タイムの速い人が大会に出るべきだよ!」とそそのかし、先輩の前では「アタシ、空気読めって言ったんスけどね、へへ」とおべっかを使うーーこんなの、人間関係のポジショニングとマウントだけで生きる典型的な文系カメレオン人間の処世術(相手が言ってほしいことを探る)に過ぎず、悪意にすら満たない何かじゃないですか! それを、主人公のひとりは面と向かって言われたわけでもないのに、立ち聞きしただけで部活どころか学校までやめてしまい、その無菌室のピュアさが正しい生きづらさとして同情的な視点で描かれるのです。前髪少女はその過去の行状を人非人の罪として生放送で延々と罵倒され、その間ずっとカメラは主人公サイドの四人を映し続け、彼女がどのような表情でこれを聞いたのかはいっさいわからず、一言の弁明すらさせてもらえない。私はこのできごとのあと、前髪少女がSNSで大炎上し、自殺にでも追い込まれるのではないかと本気で心配しました。学校という場所は、最大公約数の範囲に収まる個人のために作られていて、文系と体育会系がいつでも幅をきかせ、理系とオタクにとっては居心地の悪い場所なのでしょう(公立のトップ校なら、すべてのパラメータを振り切った超人がいると思いますが、大多数にとっては能力値の上限から逆算した濃淡で否応に決まる属性です)。特に本邦での学校は、最大公約数の内側に収まるようにイレギュラーたちを「教育する」ための場所ですから、いづらさを感じるのは当然のことと言えます。以前、「桐島、部活やめるってよ」の感想に、「傑作だけど、最後の最後で映画オタクが体育会系に復讐を果たした快感が伝わってくるのが、唯一の瑕疵である」みたいなことを書きましたけど、この作品、最初からけっこうなフルスロットルで理系マイノリティが殺意を伴って文系マジョリティを刺しに来てる感じーー南極に上陸してからさらに加速するーーがあって、最後まで見たいま、それが試聴を中断させた理由だったんだなーと思いました。最近になって自覚したのですが、独身の人が家庭を持つ人に抱くだろう複雑な感情を、文系の私は理系のだれかに対して抱いており、ふれられると弱いその部分へじかにギリギリと爪を立ててくるような内容を無意識に避けていたことが、今回の試聴を通じてわかりました。

 あと気になったのは最終回で、主人公のひとりの死んだ母親がノートPCの送信箱へ残したメールを、母親の友人が数年越しに送るという展開があり、視聴者はどちらの場面も見ているので状況を理解できますが、メールを受け取った側が一瞬の混乱も見せずそれを受け入れたのには強い違和感というか、作り手の快感で虚構が破れているように感じました(タイムスタンプすらないメッセージとして、死んだ「お母さん」から送られているのに!)。それとエンドロール後に、主人公のひとりへ陰湿なイジメを行っていた人物が北極から写真を送ってきたのを見て、「えー、なんでー!」と嬉しそうに叫んで物語は幕となるのですが、このやりとりにはみなさんが「尊死」と表現するのとは真逆の、ほとんど心筋梗塞に近い状態で胸を押さえて死にかけました。これは、文系の人間関係・政治力クソ野郎は公衆の面前で公開処刑にして、それが理由のSNS炎上で自殺しようと知ったこっちゃないが、過去を悔い改めてオレたちと同じ至高のステージに上ってくるのなら、ゆるしてやらないこともないという、理系様から大上段に授けられるメッセージに他ならないのです! この満々として放たれる優越感情には、心底ゾーッとさせられました。しかしながら文系はそれ以上にクソだし、もうこれは美術、そう、ビジツをやるしかない。ビジュえもーん、東京藝大に現役で受かる道具を出してよー! (竹ヒゴでゲイ太の手の甲をピシリと打擲しながら)受験数学がカビの生えた古典に過ぎないように、受験絵画など美術と呼べる代物ではないッ! ラわーん、もう現実はコリゴリだよう(山奥の炭焼き小屋へと遁走する)! 「鬼滅の刃」本編へと続く(続かない)。

質問:宇宙よりも遠い場所ファンですが、今まで読んだことの無い視点の感想で興味深く拝読しました。
少しだけ訂正させて頂くと、作中で言及がある通り中継前ですので前髪少女が炎上する事はなかったかと
それで物語への評価は変わらないと思いますが、お感じになったツラさが少しでも緩和されれば幸いです。

回答:ファンの方の目に届いてしまい、申し訳ありません。基本的に、登場人物たちへ寄り添った優しい視点で物語が進んでいくのに、ある種の人々に対しては非常に冷淡であるというか、「仲間以外はどうなったっていいし、傷ついたら傷つけ返してかまわない」という裏腹な切り捨て方が気になったのです。そのわずかな瑕疵を文系・理系というカテゴリに分類しつつ拡大して、おもしろおかしく読ませることを主眼に書かれたテキストですので、どうかあしからず。

 うーん、私の文章の欠点は「面白すぎる」ところですね。それも、何かを腐すときにそれが最大化してしまうという。前も言いましたけど、サルまんの新聞4コマ編で、「お魚くわえたドラ猫を全裸のサザエさんが包丁を持って追いかけ、衆人環視の中で『やだ、ハダカ』と気づいた直後、トラックにはねられる(ドカッという擬音)」みたいな4コマ漫画が、「面白すぎるからダメ」と評されていて、衝動的に手加減なしの「面白すぎる」文章を公開してしまったとき、いつもこれを思い出します。「よりもい」の感想も、自分で読み返してゲラゲラ笑ってるんですけど、これを真顔で読んで批判や非難として受け止める方もおられるようで、もっと「テキスト自体が持つ面白さ」に目を向けてほしいものです。

質問:だいぶん歪んどりますね。

回答:いまさらそんなこと言われても……理系?

 「よりもい」、根強いファンが多い作品だということがなんとなくわかってきて、「吐いたツバ飲まんとけよ」じゃないですが、自分の発言が少し怖くなってきました。でもまあ、どうひっくり返しても評価は変わらないわけで、黙っておくか黙っておかないかの違いしかないのです(そしてご存知のように、私はぜんぶしゃべってしまう)。「これまで苦しかったのは、間違った人間関係(文系)の中にいたからだよ! ようこそ、正しい人間関係(理系)へ!」というメッセージは作品全体を通じてどうしても感じてしまうし、前髪少女からいっさいの救済を剥奪した瞬間には、「あー、そういうことする? こらもう、キミとは戦争やな」と思ってしまったことは、事実として変えられません。

 その点、ブルーピリオドは文系クソ人間のリアルが描けていて、とてもよかったです。「相手が聞きたいと思ってる言葉を探って、相手を自分より少しだけ面白くして、これ以外のコミュニケーションなんてもうわかんねえ」という人物が、そのやり方ですべてうまく隠しおおせてると思ってるのを、周囲の友人たちは「アイツ、本音を言わねえよな」と感じてーーまあ、ここが少しファンタジーなんですけどーーいて、やがて美術を通じて本当の自分に気づくんだけど、本当の自分さえ薄っぺらいことに何度も何度も気づき続けるみたいな青春の蹉跌を、作者が作中のだれも裁かないまま、真摯に描いている(いや、10巻までの段階で才能ある友人の母親は裁いているので、今後どう扱うかは気になる)。

 「よりもい」に潜む価値観の薄気味悪さというのは、ブルーピリオドで例えると「オレは努力して本当の仲間もいるから東京藝大に合格したが、オマエは性格が悪くて偽者の仲間しかいないからイラスト専門学校」なんですよ(もちろん、ブルーピリオドにはそんな視点はいっさいありません)。「他者の過ちに正面から正論ブチかまして、反論を許さず封殺して公衆の面前に恥ずかしめる」という底意地の悪い「気持ちよさ」を、いくら演出で感動的に見せようとしたって、その前提を冷静に眺めれば、「同僚が心療内科で鬱状態(鬱病じゃないよ、鬱状態だよ)の診断書をもらってきたから、とりあえず業務に配慮が必要」と同レベルの話でしかありません。もっと言えば、神としての作り手が正しくないと信じるだれかに、もしかすると過去の自分が置かれた状況を仮託して、二次元を用いて復讐をはたしているとしか思えず、「この監督、性格悪いなー」と感じてしまいました。ファンのみなさん、言い過ぎをすいません。

 あと、「けいおん!」の主人公のアホみたいなしゃべり方って、あちこちに伝染してるなー、と思いました。